34◆ あのあと
短めです。
トゥイーディアが国王と謁見し、ヘリアンサスから婚約解消を叩き付けられたその日、俺たちは纏めてヒルクリード公の町屋敷に招待された。
表向きは招待という形の、実際をいえば緊急避難だ。
トゥイーディアを町中の宿に泊めるのは危ないという判断である。
今なお真面目にトゥイーディアの身の安全を考慮してくれる公爵への評価を、俺は自分の中でかなり上方修正した。
一方、「町中の宿にトゥイーディアを泊めるのは危険」という考え方には、救世主一同が心から同意した。
もし、万が一――そんな馬鹿はいないとは思うが、もしも仮に――宿に泊まるトゥイーディアがどこかの誰かに襲われようものなら、ただでさえ余裕を失っている今、如何に温厚なトゥイーディアであっても、さすがに相手を殺しかねない。
ただし、公爵の招待に応じたのは、トゥイーディアを含む救世主三人だけとなった。
自らが救世主であると名乗り出たディセントラが、ごく当然の流れとして王宮内に留め置かれたからだ。
――騒然としたあの場を鎮めたのはディセントラだったが、さすがの彼女も、あの短い時間で、トゥイーディアの名誉を全回復させることは出来なかった。
辛うじて、「下手人が救世主であるという証拠はない」という事実を場の全員に呑み込ませてはいたが、そこまでだった。
まだなおトゥイーディアは疑いの目で見られていたし、現王派は不利なままだし、延いてはトゥイーディアのお父さんを助ける障害は高くなる一方だったし。
むしろ、トゥイーディアが王宮内に留め置かれなかったことが奇跡だが、それは、ディセントラが(十中八九はトゥイーディアの精神的な疲労を慮って)トゥイーディアの城外での待機を強く主張したのと、単純にトゥイーディアを怖がる人間が多かったためだろう。
俺は無理な命令でルインを送り出した後、藍玉の間に入ってカルディオスの傍にいたが、その場の混沌具合には眩暈すら覚えた。
辛うじてディセントラには、ルインに頼んだ事の内容は伝えることが出来たものの、それ以上の遣り取りはとてもではないが不可能だった。
俺が伝えたことに対してディセントラが眉を寄せたのを見て、余計なことをして弟を危険に晒したかと肝を冷やしながらも、ディセントラの意見すら聞くことが出来ない慌ただしさだったのだ。
その場で貴族の何人かは腰を抜かしたり失神したりしていたから、彼らを藍玉の間の外に運び出すだけでも一苦労といった有様だった。
ヘリアンサスは、意外にもすぐには藍玉の間を出て行かず、壁に寄り掛かるようにして事態を平然と眺めていた。
主にはその場の指揮を執るディセントラを眺めていたように見えたが、あの黄金の目の視線の行方は不明瞭で、俺には確とは分かりかねた。
トゥイーディアは壇上で、国王の傍に膝を突いて、じっと事の動きを見守っていた。
その眼差しに、俺は胸が潰れそうだった。
――俺は誰よりもトゥイーディアのために動きたいが、だからこそ、彼女のために動くことだけは出来ない。
血溜まりの中に膝を突いたがゆえに、膝から下が血塗れになったカルディオスを気遣うことは出来たが、それだけだ。
「――おまえね、今くらいイーディの方を気遣えないの?」
と、カルディオスに本気の憤激を貰いはしたが、俺はそれに対しても肩を竦めることしか出来なかった。
恐怖と混乱の囁きが尽きず、慌ただしく人が出入りする藍玉の間から、ヒルクリード公の合図を受けたアルフォンスに促されて退出し――さすがに、他国の人間が長くその場に留まっていい事態の範疇ではなかった――、王宮内の一画で、蒼褪めて指先を震わせながらも、概ね平静を装うアルフォンスと共に待つこと二時間ばかり、ようやくヒルクリード公とハンス、それからトゥイーディアが合流してきたというわけである。
アルフォンスは、平静を装い切れずにうろうろと歩き回っていたから、父公爵の姿を見て心底ほっとしたようだった。
「父上!」と、臆面もなく安堵と喜びの声を上げていたくらいだった。
現れた三人は、分かり切っていたことではあったが、疲れ切って曇った顔をしていた。
――俺は、出来ることならばトゥイーディアを抱き締めて、気遣って、出来るだけ早くこんな場所から連れ出したかった。
どうでもいい話をして気を紛らわせたかったし、どこか静かな場所で、彼女が落ち着くまでの間、傍に座っていたかった。
だが、そういう全部は俺の顔には出ない。
態度にも、仕草の欠片にも表せない。
トゥイーディアのことを大切に思えば思うほど、俺の行動も言葉も、どんどん本心から遠くなっていく。
俺たちは、さすがに衝撃と疲労が色濃く窺える公爵から、今夜は彼の町屋敷に泊まることを提案されて同意した。
アルフォンスは現状を呑み込むことで一杯一杯だった様子だったが、公爵はさすがといえた。
俺とカルディオスを見て、おもむろに尋ねたのだ。
「――中に救世主さまはいらっしゃいますか」
アルフォンスが目を剥く一方、トゥイーディアが呟くように答えていた。
「二人とも救世主です。――ただ、まだ内密に。
ディセントラがカルの方を名指しにしなかったのも、多分考えがあってのことでしょうし……」
アルフォンスが絶句した気配があったが、もはや誰もそちらを一顧だにしなかった。
疲れた様子で目許を擦るトゥイーディアは、頭から血を被っただけあって、まるで血みどろの戦場から戻って来たばかりのようだった。
彼女が怪我をしていないのか、俺が内心で怖くなったほどだった。
カルディオスの方も、膝から下は滴る程に血に濡れていたが、彼女に降り掛かった血の量はその比ではなかった。
公爵は、ルインの不在について触れなかった。
単純に、トゥイーディアの供の人数までは覚えていなかったのかも知れないし、あるいはディセントラの方に付いているのだと合点したのかも知れない。
何にせよ、訊かれないことに答える義理は無かった。
俺たちは黙って王宮を進み、――恐らくは合流前にヒルクリード公が己の馬車を王宮前に寄せておくよう誰かに指示していたのだろうが――絢爛豪華な広間を出て、白亜の階の回廊の先に寄せられていた、黒い漆塗りの馬車に乗り込んだ。
辞去の挨拶は、既に公爵やトゥイーディアが済ませていたものと思われる。
登城したときには大勢の衛兵が王宮の入口を守っていたが、今や階も回廊もがらんとしていた。
数名の衛兵は残っていたが、明らかに表情が浮足立っている。
王宮の奥で起こった君主の御前での殺人については、早くもこんな王宮の端にまで話が伝わったらしい。
あるいは藍玉の間に詰め掛けた衛兵たちは、元はここを任されていた者たちだったのかも知れない。
馬車に乗る寸前、俺は聳え立つ王宮を見上げた。
さすがにここまでは人声は伝わってこなかったが、人の動揺が空気を介して王宮全体を覆っているように見えた。
過敏になり過ぎた俺の気のせいかも知れなかったが、良くない眺めだ。
馬車が走り出して数秒で、公爵が疲労に掠れた声を出した。
「――状況は最悪だ。今朝ですら最悪だった。更にその下があるとは思わなんだ」
トゥイーディアは固く強張った無表情を蒼白な顔に載せており、その顔を見るだけで、俺の心臓が次の鼓動を躊躇うほどだった。
「……申し訳ありませんでした。伯父さまの仰る通りでした。私が前に出るべきではなかった」
呟くようにそう言ったトゥイーディアに、公爵がおざなりに手を振る。
「いや、こちらの手落ちだ。おまえはよくやった。――ロベリアの嫡男さえ来なければ、ああまで王弟派が図に乗ることもなかっただろうに。動向を確認していなかったこちらの手落ちだ」
トゥイーディアがまた目を擦った。
泣きそうになっているのではなくて、藍玉の間で瞬きすらも惜しんでいた結果、急に目の疲れを自覚したかのような仕草だった。
猫が前足で顔を洗っているような感じがした。
「……はい」
「確認するが、トゥイーディア」
公爵は、単なる形式的な質問をするのだというような、気のない口調で呟いた。
「アールディート男爵は、おまえが手を下したのではないな」
カルディオスの額の前辺りで、ばちッと剣呑な音が鳴った。
――長生きしてきたとはいえ、俺たちだって、目の前で人が捩じ切られるのを見たなんていう経験はない。
俺は同じような光景をガルシア戦役のときに目の当たりにしていたがために、衝撃よりもトラウマを抉られたような陰鬱な気分だが、カルディオスは違うだろう。
しかも、あの貴族とカルディオスの間の距離はあってないようなものだった。
トゥイーディアとカルディオスからすれば、本当に目の前の出来事だったのだ。
更に言えば、俺とカルディオスではあの貴族に対する心情も違うだろう。
俺からするとあの貴族、トゥイーディアを侮辱するという、それこそ万死に値する罪状を犯している。
実際には万回苦しむこともなく、彼は即死で人生に幕を引かれたわけだが、ぶっちゃけてしまうと気の毒には思えない。
だが、カルディオスは――あの直後に、万が一の救命の可能性を探した仕草があったことからも分かるが――あの貴族を、まだぎりぎり守るべき一般人の枠で捉えていたようだ。
そんな中で平静でいられるわけもない。
カルディオスも動揺して気が立っていたところに公爵の一言があって、魔力が荒ぶったようだった。
アルフォンスとハンスのみならず、公爵も警戒するようにカルディオスの方を見たが、カルディオスは大きく息を吸って自分を落ち着かせた様子。
ひらりと手を振って、「ごめん、気にしないで」と。
それを見てから、トゥイーディアが呟くように答えていた。
「――違います。あんな真似は私には出来ない」
公爵は意外そうな顔をしたが、トゥイーディアの言っていることは本当だ。
――トゥイーディアがあの貴族を殺したのだとすれば、恐らくあいつの遺体の欠片すら残らなかっただろう。
対象を徹底的に消滅させるのがトゥイーディアの魔法だ。
あるいは彼女なら、人の精神に働き掛けて自殺を促すことも出来るだろうけれど、こればかりは如何に怒りに我を忘れていようが、トゥイーディアも採らない手段だろうし。
あの殺し方が可能な救世主は、恐らくコリウスだけだ。
トゥイーディアの答えを意外に思ったにせよ、公爵は何も言わず、話を前へ進めた。
「――ロベリアの嫡男との婚約解消の件だが、陛下が承認なさらないにせよ、あの宰相閣下のことだ、恐らくは新聞社に情報を流すだろう。既成事実を作られる可能性が高い。――婚約の維持は不可能と思った方がいいだろう」
揺れる馬車の中で、トゥイーディアは頷いた。
公爵は座席の背凭れに身体を預けて、片手で顔を拭う。
「――中立を守っていた連中が、これで恐らくは王弟殿下の方へ流れることになる……」
深く息を吐いて、公爵はちらりとトゥイーディアを見て、それから俺とカルディオスにも視線を向けた。
「救世主さまの地位も、畏れながら、それほど事態を救うまい。
――魔王を斃してくださっていれば別だったが」
俺とカルディオスが同時に、乾いた笑い声を漏らした。
何十回と挑んで果たせていない悲願こそが魔王討伐だ。
今や魔王の城は空だしね。
――だが、まだディセントラがいる。あいつといえども、他国民という引け目があるからそれほど強くは出られないだろうが、あいつがいないよりは事態が好転するはずだ。
もはや祈るに近い気持ちで俺がそう考えていると、ふと、トゥイーディアが身動ぎした。
息を吸い込んで、公爵を見据えて口を開く――声が僅かに震えていた。
「……審判は公平になされますか」
一瞬、虚を突かれたように、公爵が目を見開いてトゥイーディアを見た。
そして、数秒ののちに苦笑した。
「――おまえは、オルトムントさえ助かればあとは良いと言わんばかりだな」
トゥイーディアは瞬きして、伯父には答えず、もう一度繰り返して尋ねた。
「審判は公平になされますか」
公爵は溜息を吐いた。
「……その可能性は低い」
トゥイーディアが無言で顔を覆った。
それを見ながら、公爵は短く呟いた。
「人を裁くのは人だ。そのゆえだ、トゥイーディア」
◆◆◆
ヒルクリード公の町屋敷は、王城の程近くに佇んでいる。
周囲には他にも町屋敷が立ち並び、そんな一つに向かうのかどうか、小さな馬車が俺たちが乗っていた馬車の後ろを走っていた。
がらがらとゆっくりと走り去るその馬車の行方を見るまでもなく、俺たちは目的の、トゥイーディアの伯父さんの屋敷の中に入ったわけだが。
公爵の町屋敷は、煉瓦を漆喰で固めた壁が歴史を感じさせる、洒落た鉄柵で囲まれた瀟洒な四階建ての建物だった。
一階層ごとに天井が高いらしく、十分に圧迫感のある佇まいだった。
扉を開けるとすぐに、上階に通じる豪華な螺旋階段のある広間に入る。
さすがに領主館ほどの広さを確保することは出来ないにせよ、一つ一つが一財産といった風情の調度品が整えられていた。
主人の帰還を迎えた執事と侍女たちは、戻って来た人間全員の顔色から、何か芳しくないことが起こったのだということを理解した様子だった。
そして、トゥイーディアのカルディオスの、血塗れの格好に瞠目して顔色を失っていた。
来客のための部屋を整えるよう命令されると、そそくさと上階へと消えていく。
ここで待つようにと申し渡されて、俺たちはしばし広間に留まることになった。
壁際に大きなソファが一つと、それと向かい合う壁際に、背凭れのない長椅子が、実用品というよりは装飾品といった風情で置かれている。
トゥイーディアがソファに腰掛けて、俺はその傍に寄ることすら出来ず、装飾品のような長椅子の傍で、壁に凭れて立った。
カルディオスはトゥイーディアの隣に腰掛けたものの、彼女に掛ける言葉すら思い当たらなかったのか、すぐに立ち上がって広間をうろうろと歩き回り始めた。
壁に掲げられた抽象画を見上げているようだったが、ちゃんと目に入っているのかは怪しいだろう。
トゥイーディアはソファに深く腰掛けて、膝に肘を突いて項垂れていたが、唐突に顔を上げると、前触れなく俺の方を見て首を傾げた。
「――ルインくんは?」
ルインに頼んだことについて、俺がディセントラに説明したとき、こいつは離れたところにいた。俺も声を潜めていたし、知らなくて当然だった。
――頭ではそう理解しながらも、俺の顔は勝手に顰められた。
「――ディセントラには言ってある。王宮で探し物だ」
探し物、と言っただけで、トゥイーディアはそれが何を指すのか分かったのだろう。
しばらく息を止めた様子だったが、すぐに俯いて何事かを呟いた。
「ありがとう」と呟いたのか、それとも別のことを呟いたのかは、声が小さくて聞き取れなかった。
そのとき、螺旋階段の向こうの扉がばたりと開き、侍女さんが怖々といった様子で現れた。
手に四角い木の皿を捧げ持っていて、そこに温かそうに微かな湯気を立てる蒸しタオルを三つ載せていた。
足音を忍ばせて俺たちに近寄って来た侍女さんが、まずはトゥイーディアに、それからカルディオスに、最後に俺に、蒸しタオルを一枚ずつ渡して頭を下げた。
そして、「お召替えの準備を整えております」と告げて、俺たちの前から下がっていく。
恐らくは来客のもてなしのためだったのだろうが、トゥイーディアにとっては極めて実用的な役割を果たす蒸しタオルだった。
何しろ、顔にも手にも――首筋にまで、血が飛んでしまっている。
乾いて黒ずんだ血を、温かいタオルでふやかして拭っていくトゥイーディアが、王宮を出てから初めて、ほんの僅かに表情を緩めた。
蒼白になっていた顔が温められて、少しだけ血の気が戻った。
カルディオスに関していえば、膝から下はトゥイーディアにも勝って血塗れになっているが、これはもう拭ってどうなる問題でもなかった。
恐らく、軍服のズボンが血で脚に張り付いて相当に不快な思いをしていることだろうが、カルディオスはそれを毛ほども顔には出さず、トゥイーディアに寄って行って、無言で彼女の髪を拭ってやっていた。
結い上げられていた髪を解いて、丁寧に血の汚れを拭っていく。
それが済むと、また簡単に髪を結い直した。
トゥイーディアはされるがままに任せていて、普段ならば礼を言ったりカルディオスの手先の器用さを褒めるところを、一言も口を開かなかった。
俺たちは無言だった。
広間の隅で時を刻む掛け時計が、黙々と針を進めていく。
俺はそれをぼんやりと見ながら、なんとかこの針を逆に動かして、今朝まで時間を戻せないかと益体もないことを考えていた。
そうすれば、今日のことを無かったことに出来るのに――
――いや、そもそも、ヘリアンサスがあそこに現れた時点で詰んでいた。
トゥイーディアがあそこにいなかったとしても、あいつは同じようなことをやっただろう。
トゥイーディアがあの場にいたのが、あいつにとっての僥倖として働いたにせよ。
ディセントラは今どうしているだろうか。
他にも人がいるにせよ、ヘリアンサスと同じ空間に長時間に亘って居ることを強いられているはずだ。
政や謀は――言っては何だが――、貴族の生まれの多い彼女の得意分野だ。
とはいえ、ヘリアンサスがその場にいるだけで、大いに歯車が狂ったように感じられていることだろう――
ルインは大丈夫だろうか。
あいつもかなり優秀だけれど、慣れない場所での重要文書の捜索だ。
何かあれば万難を排して助けに行きたいが、それは、何かあったことが俺に分かればの話だ。
あいつが人知れず抹殺されるようなことになれば、俺は今後も長く続いていく人生に、弟の影を長々と引き摺ることになるだろう。
兄弟の話題が出るだけで過敏になる自分が目に浮かぶ――
かちッ、と、時計の長針が天辺の位置を指す音が響いた。
同時に、ごぉーん、と、重々しく時を告げる音が鳴り響く。
二回。
――色んなことがあったのに、まだそんな時間だ。
鳴り響いた二度目の音の残滓が消えていくと同時に、呼び鈴の報せも何もなく、玄関の重厚な扉が滑らかに開いた。
俺は顔を上げ、そちらを見て、絶句した。
戸枠を額縁のようにして、一幅の絵画のようにそこに立っていたのは、白髪金眼の魔王ヘリアンサスだった。




