33◆ 女王と兄弟
藍玉の間の空気が凍り付いた。
トゥイーディアはもちろん、誰一人として動かない。
俺の隣でもハンスが愕然としている。
全身の血が瞬間冷凍されたかのように、俺もまた身動きひとつ出来なかった。
――貴族同士の婚約を解消するなどということは、滅多にない。
というか、有り得ない。
家同士の約束事にはなるが、ものによっては、片方が婚姻前に死去したとしてもなお、そのときから寡夫あるいは未亡人を名乗ることを強制されるものさえある。
どちらかが外部と子供を作ってしまった――というような場合さえ、醜聞を嫌って、その子供を二人の間の子供であるということにしてしまうことも多いのだ。
婚約を解消したとなれば、両人どころかその家にすら、負の影響が山のように圧し掛かることは避けられない。
――通常ならば。
今は、どうだ?
この特殊な状況下においては、どうだ?
トゥイーディアにとっては、この申出は最悪だ。
ただでさえお父さんに冤罪が着せられている状況で、婚約者すら彼女を見捨てたとなれば、人の口に戸は立てられない。
しかもこの場には、新聞社と通じている宰相がいる。
醜聞は大衆の好むところだ。
トゥイーディアのお父さんの名声が彼女を守るかも知れないが、その名声に影が差しているこの状況。
そして何より、ロベリア卿は現王派だったはずだ。
現王派のトゥイーディアと子息の婚約は、ロベリア卿が王弟派であれば有り得ないことだ。
――ヘリアンサスの婚約解消の宣言は即ち、ロベリア家が現王派から離脱するという宣言だ。
現王派の力が削がれること。
それはつまり、トゥイーディアのお父さんを助けようとする動きが留められること。
対して、ヘリアンサスにとっては、痛くも痒くもない宣言だ。
そもそも、ヘリアンサスは権力闘争になど興味もあるまい。
失うものは何もない。
今この王宮において、ヘリアンサスはそもそもトゥイーディアと同じ土俵にはない。
そして、外から見れば、どうだ?
トゥイーディアのお父さんには反逆の嫌疑がある。
ヘリアンサスはそれに理があるとして、娘との婚約を解消した。
折しもロベリア卿――ヘリアンサスとトゥイーディアの婚約を進めた人物の死去の直後に。
まるで、ロベリア卿がリリタリス卿と共謀して反逆を企てていたのを、その息子が見抜いたように見えなくもない。
トゥイーディアが救世主であるという事実があれど、彼女は父によって他国に供された疑いがあるのだ。
救世主は、魔王を斃すための地位。
魔王を討伐しない救世主に付随する価値は、国益を損じた咎めに劣ろう。
外から見ればトゥイーディアは、知恵もなく、商品の如くに父に踊らされているように思われかねない――
――全てが、現王派に不利に働く宣言だ。
それは延いては、トゥイーディアのお父さんを助ける勢力の減退を意味する――
俺は眩暈すら覚えていた。
――このためだ。
ヘリアンサスが、あれほど嫌っているトゥイーディアの傍の立ち位置を確保していたのは、この瞬間のため、この一手のためだ。
あいつ自身が、トゥイーディアを追い詰める最大の一手を打つことが出来るように、今の今まで待っていたのだ。
トゥイーディアは蒼白な顔でヘリアンサスを見据えている。
衝撃に、表情はむしろ削ぎ落されたかのように見えた。
ディセントラがどう動くのかを見るべきだと思ったが、俺はトゥイーディアから視線を逸らせなかった。
――トゥイーディア。
トゥイーディ、イーディ、ディア。
出来るものなら俺が絶対に守りたい唯一の人――
ヒルクリード公とアルフォンスが、主君の御前であるということを忘れ果てた様子で、さすがに茫然としながら立ち上がった。
有り得ない事態の勃発が、二人の中の常識を吹き飛ばしたらしい。
ヘリアンサスへの畏怖はあれど、真意を問い詰めようとして口を開く――
「――は、はは」
彼らの機先を制するように、笑い声が漏れた。
誰の笑い声だったのかは定かではない。
だが一瞬後には、藍玉の間を揺らすような哄笑が湧き上がっていた。
王弟派の貴族たちが、笑っている。
ヘリアンサスへの畏怖も怯懦もあるだろうが、その畏怖と怯懦の対象が、どうやら自分たちの味方らしいと当たりを付けて、卑怯にも声を上げて笑っている。
「――これは、これは」
「傑作、いやはや」
「ロベリアの嫡男には人を見る目がおありになるようで」
「然り、さても、これは」
宰相が我に返った様子で、「おやめなさいませ」と貴族たちの方へ制止の声を投げているが、あからさまにやる気がない。
思い掛けないヘリアンサスの宣言に、喜びが隠し切れていない。
がん、がん、と、国王が王錫で床を突く。
貴族たちの哄笑はそれで一旦は収まったものの、まだ忍び笑いが漏れ出している。
俺は吐き気がしてきた。
こんな場所にトゥイーディアがいなければならない意味が分からない。
代償さえなければ、この藍玉の間はとっくに火の海だ。
――ああ、そうだ。
ああ、本当に、俺はトゥイーディアのためならば、国一つですら焼き払いかねない。
「――ロベリア卿、無論、そなたが家督を継ぐことに否やはあるまい。
あれには他に子がなかったはず……」
国王が声を上げる。
己を擁する派閥の減衰に繋がりかねないこの宣言に、老いた頬に危機感が浮かんでいる。
「しかし、さてもロベリア卿。婚姻の約束を破棄するなどと、往古来今聞かぬ話――」
「昔のことなんて、きみたち、知らないでしょ」
切って捨てるように素っ気なくそう言ってから、ヘリアンサスは国王を見上げて首を傾げた。
「美辞麗句が必要かな? それともなに? 紙に名前でも書けばいいの? そんな手続きが必要? それは意外だ。
――反逆の疑いのある者の娘だ、誼を結びたいわけもないだろう。きみは首を縦に振るだけでいいんだよ。何も難しくないでしょ」
軽やかにそう言って、ヘリアンサスはトゥイーディアに向き直った。
国王の承認がなくとも、これで話は決まったと言わんばかりだった。
「さて、ご令嬢。これできみはロベリア家から受けられるはずだった経済的な支援と、一緒になってきみのお父さんの無実を証明するはずだった味方を失ったわけだ。
――気分はどう?」
また、王弟派の貴族の中で笑い声が上がった。
――俺は無表情だった。
代償はこんなときでも顕著に俺の行動を制限した。
ここから飛び降りて行って、あの連中を半殺しにしたい俺の願望は形にならない。
ハンスやルインの方が、よほど怒りを顔に出している。
トゥイーディアもまた、無表情だった。
その無表情の中で、嵐のような激情を映す飴色の瞳が見開かれている。
彼女はきっと、今のヘリアンサスの一言に、あの瞬間を思い出しているだろう――
――俺たちがアナベルだけは生かして帰そうとしたあのとき、真っ先にアナベルを殺したヘリアンサスが言い放った、あの一言――
『おつかれさま、気分はどう?』
あのときと全く同じ顔で、同じ声音で、ヘリアンサスがトゥイーディアを見ている。
その至近の距離に立ち、トゥイーディアは、にこやかに自分を見詰めるヘリアンサスをその視界の中央に据えて、一呼吸――
「――望むところです」
冷淡な声で、トゥイーディアが呟いた。
その声音に、風に吹かれた灯火のように、王弟派の貴族連中の笑い声が消え去った。
ぱり、と、小さく高い音が聞こえていた。
トゥイーディアの膨大な魔力が、感情の昂りに合わせて溢れ出そうとしているのだ。
そして、そうまで激情を積み上げながらも、トゥイーディアは徹底的な無表情で、目の前の魔王を睨み据えていた。
「――元より、ガルシアでも私の期待にはそぐわない人でした。
ここでこうして、事の真実を見極める目も持たないことが証明されたわけです。
リリタリス家には要らない。到底、当主は務まらない。
こちらの方からお断りだ」
呟くような声は徐々に昂って、最後には叩き付けるかのように強い語調となった。
――しん、と、藍玉の間に静寂が落ちた。
針一本が落ちる音すら響きそうな無音――
俺は誇らしさに息が詰まりそうだった。
――絶対に折れない、何があろうと顔を上げ続ける、これがトゥイーディアだ。
俺が彼女を守りたいと思ったことは何千何万回とあるが、その全てにおいて、助けを待つまでもなく自分の足で凛と立ち続けた人だ。
俺の、世界で一番大好きな、〈最も大切な人〉だ。
他人がどれだけ彼女に泥を掛けようとしようが、それを全て撥ね返す強さのある人だ。
――藍玉の間の全ての視線が、今やトゥイーディアに集まっていた。
気圧された視線ばかりの中で、カルディオスとディセントラの、愛情の籠もった誇らしげな眼差しは際立っていた。
そしてまた、ヘリアンサスも、トゥイーディアをその黄金の瞳に映していた。
彼女を見て一秒、魔王は淡く冷笑した。
「――へえ。それなら精々頑張るといい。……今、きみは駒を一つ取られたところだよ」
ひっそりとしたその囁き声に、まるで養分を注がれたかのように、王弟派の貴族連中の中から乾いた笑い声がまたも絞り出された。
「なんと、これは」
「次の身請け先でも見付けていらっしゃるのかな」
「これ、救世主さまに何を」
「いやしかし、魔王討伐からも上手く逃げたという話」
下卑た会話に、俺はいよいよ、頭の中で血管がいくらか切れたことを自覚した。
同瞬、さすがにカルディオスが前に出た。
冷静な顔を装ってはいるが、十分に理性が飛んでいることが分かる雰囲気で、トゥイーディアに何かを話し掛けて下がらせようとしている。
アルフォンスとヒルクリード公が同じことをしようと動いていたが、それさえ視界に入らなかった様子だ。
自分が前に出ることは不自然だという前提の考えさえ、頭の中から消え去ったとみえる。
が、トゥイーディアはカルディオスを見なかった。
貴族連中の方を飴色の瞳で睨み据えるや、氷点下の声音で言い放っていた。
「私のこの身を購いたいというのなら、少なくとも二百年の歴史のある家宝を差し出していただかねばなりません」
ぞっとするような声音だった。
貴族連中のうち何人かが顔色を失って、そろり、と壁に向かって後退ったのが俺からも見えた。
それに対して、ヘリアンサスが噴き出していた。
面白そうに朗らかに笑って、ヘリアンサスは平然と。
「――二百年? それっぽっち? きみ、随分と新しいものが好きなんだね」
その言葉を冗談と思ったのか、再び勢いを盛り返そうとするかのように、貴族連中が笑い声を立てる。
もはや本心から笑っているというよりは、トゥイーディアに気圧された事実を否定しようとして笑い声を作っているのは明らかだった。
ヘリアンサスがどうやら自分たちの味方らしいということを自陣営の有利と捉えて、それに託けて余裕のある振りをしようとしている。
ルインが、もはや汚物を見るかのような眼差しで眼下を見ていた。
全く同感だ。
笑い声を絞り出す貴族の間から、中年の一人が足を踏み出した。
豪勢な生活を物語る大きな身体を揺らして、笑いながらトゥイーディアの方へ歩を進める。
ヘリアンサスがちらりとそれを見て、はっきりと顔を顰めて数歩トゥイーディアから離れた。
ルインと同じ、汚物を見るような顔だった。
貴族の方は、ヘリアンサスの顔には気付かなかったらしい――多分、恐ろしくてヘリアンサスを直視できなかったのだ――、トゥイーディアの目の前まで進んで、慇懃無礼に頭を下げた。
「いやいや、救世主さまの尊い御身を購うなどと、どこの罰当たりな者が考えますか。
――しかし、ねえ、」
貴族が、トゥイーディアのすぐ傍に背筋を伸ばして立つ、無表情のカルディオスに視線を移した。
「確か、貴女に付属の飾りと思え、とのことでしたよねえ。
購うならばこちらの方がよほど――」
カルディオスが口を開いた。
恐らく、「俺を買うなら国宝を積んでも足りないよ」などと言うつもりだったのだろうが――それが声にならなかった。
――翡翠の瞳が大きく見開かれる。
その美しく澄んだ目に、余りにも不似合いな惨劇が映った。
人体の、全身の骨が一斉に砕ける、名状し難い重低音が鳴り響く。
同時に、血飛沫。
白大理石の床を一瞬にして赤黒い池のように作り変え、目の前のトゥイーディアにまで真っ赤な滴を盛大に飛ばして――
ぐしゃり、と。
まるで巨大な掌で頭部と足を掴まれて、ぎゅう、と絞られたかのようだった。
悲鳴すら上がらなかった。
トゥイーディアとカルディオスの目の前に立っていた貴族の、その頭部が潰れ、足が潰れ、胴体が捩じ切れて肉片が飛び散る。
ぶわ、と赤い血霞が漂って、次の瞬間には白雨のようにばしゃばしゃと血が滴った。
真っ赤な滴が大理石の上で重々しく跳ねる。
血の臭いが――胸が悪くなるような鉄錆の臭いが、俺の鼻腔にまで届いた。
彼の全身の骨は既に砕けて、まるで葡萄酒の詰まった革袋が捩じられているかのように――
「――――は」
俺の口から、思わず声が漏れた。
しかしそれが聞き咎められた様子はない。
なぜなら眼下の藍玉の間も、同様の声があちこちから漏れている――
――ハンスが、むしろ事態を理解していないかのような顔で、きょとん、と瞬きした。
ルインが息を呑む。
トゥイーディアやディセントラですら、一瞬事態を把握し損ねた様子で、唖然として瞬きした。
――何が起こった?
どしゃ、と、かつて人だったものが白大理石の床に投げ出された。
あれほど出血してなお、まだこれほどに血が残っていたのかと驚嘆するほどの、恐ろしい程に真っ赤な血液が床をじわじわと這うように広がり――
――悲鳴が上がった。
貴族の間で悲鳴が上がる。
老獪な宰相が、茫然と立ち尽くす。
国王が王錫から手を離し、がらん、と王錫の倒れる音が響く。
カルディオスが、愕然とした様子でその場に膝を突いた。
ぱしゃん、と、血溜まりに漣が広がった。
生温い血溜まりの中に膝を突き、外套の裾を真っ赤に染めるカルディオスが、絶命は明らかな――原型を留めていないほどに引き千切られた、目の前に立っていた貴族を、それでも万に一つも助かる可能性はないかと探るかのように手を伸ばし――
「――やめなよ」
ヘリアンサスが、ぼそ、と呟いた。
トゥイーディアは頭から血を被っているというのに、ヘリアンサスにもカルディオスにも、一滴たりとも血は掛かっていない。
「触らない方がいいよ。汚いし」
「――は?」
小声で呟くヘリアンサスに、カルディオスは茫然とした眼差しを向けた。
二人の遣り取りは悲鳴に紛れて、唇を読んでやっと分かるような――
「おまえ、何を――」
「――ご令嬢」
カルディオスを完璧に無視したヘリアンサスが、トゥイーディアを見据えた。
これほど不機嫌なヘリアンサスの顔を、俺は数えるほどしか見たことがなかった。
「またきみのことが嫌いになったよ」
ヘリアンサスと目を合わせたのは一瞬未満。
トゥイーディアが息を吸い込み、直後、足を踏み出して叫んだ。
「――陛下! 奥へ!! 宰相閣下、奥へ!! 皆さまも!」
彼女の声に打たれたように、宰相が瞬きした。
何が――とうわ言めいて呟いたが、その尻を叩くかのように、トゥイーディアが重ねて叫んでいた。
「奥へ入ってください! 陛下の御身に事あれば如何なさるおつもりか!!」
貴族の中には、腰を抜かして座り込んでいる者もいる。
多分、失禁している者もいる。
トゥイーディアは迷うことなく玉座へ続く階を駆け上がり、余りの事態に茫然とする国王の傍に跪いた。
顔に飛んだ血飛沫を、乱暴に右の掌で拭って、硬い声で促す。
「陛下、お立ちになって。お下がりください」
国王がよろめきながら立ち上がる。
その手を恭しく取りながらも、振り返ってトゥイーディアが叫んだ。
「宰相閣下、こちらへ――」
さすがに、全ての余裕を失い蒼白になった宰相が、促されるままによろめき進もうとして――
「――わあ、誰の仕業だろう」
ぼそ、とヘリアンサスが呟いたその言葉に、ぴたりと動きを止めた。
トゥイーディアの顔色が、今度こそ変わっていた。
明らかにヘリアンサスの仕業――それ以外には有り得ない所業を目の当たりにして、それでなお奴が白を切るのを見るのは二回目だ。
――一度目はガルシア戦役で。
六百に及ぶ人命を奪いながら、平然とそれをなかったこととし、全てレヴナントの仕業とさせた――
ヘリアンサスの黄金の目が、わざとらしくも見開かれて、今や壇上に立ったトゥイーディアに向けられていた。
血の一滴すら掛かっていない無垢な掌を合わせて、まるで今しがたの出来事に、本当に驚いたと言わんばかりに――
「誰の仕業だろうね。まあ、こんなことが出来るとすれば、きみたちの知る限りにおいては、それはきっと魔王か救世主だろうけれど。
――きっと彼は誰かの逆鱗に触れたんだねえ、可哀想に」
――俺の頭に血が昇った。
この魔王、今度はトゥイーディアに全部擦り付けるつもりか。
ヘリアンサスの語尾が藍玉の間の天蓋に吸い込まれて、一拍――
藍玉の間が、今度こそ阿鼻叫喚に包まれた。
全員の視線が、垂れ流すほどの恐怖を含んでトゥイーディアの方へ動く、それに音すら伴って見えた。
悲鳴が耳の中で木霊する。
「……嘘だ、ディアが」
ハンスが俺の隣で呟いて、俺は危うくハンスを真下へ突き落としそうになった。
同瞬、ルインが小声で答える。
「――どこの愚か者が、自分に疑いが掛かると分かり切っているタイミングで人を殺しますか」
「それな」
呟きながら、俺は内心で焦燥を積み上げる。
――ヘリアンサスが、貴族の誰かがトゥイーディアを煽りに前に出ることを狙っていたのだとすれば、完全に嵌められたということになる。
何もかもが最悪だ。
ルインの言ったことは尤もだが、今のこの藍玉の間にいる者のうち、その冷静さを保っている者がどれだけいるか。
トゥイーディアは、阿鼻叫喚に揺れる藍玉の間を見下ろして立ち竦んでいる。
国王の手を取ったまま、有り得ない疑いを掛けられて、咄嗟に言葉が出て来ない様子だ。
俺たちは確かに長生きをしてきたが、こういう場面に出くわしたことはない。
いつだって俺たちは魔王討伐のために動いていて、そしてそれゆえに敬意を払われてきた。
カルディオスが、激昂した様子でヘリアンサスに詰め寄ろうとした。
彼が何か叫んだその声も、俺からはもはや聞こえなかった。
国王がトゥイーディアに何かを囁いている。
それを聞いて、トゥイーディアが頷いている。
多分、国王はこれがトゥイーディアの仕業ではないと分かっているのだ。
だがこの状況、まずはこの恐怖と混乱を鎮めなければならないが、権力者とはいえどこまで可能か。
もはや全員、誰かの声を聞くどころではない。
絶叫が凄まじく、遂に入口の扉が開け放たれた。
そこから衛兵が踏み込んで来る。
恐らくは叫び声を聞いて、只ならぬ事態が起こったと悟ったがゆえに。
だがそんな彼らも、床に無残に打ち捨てられた、かつて人だったものを見て、理解が追い付かない様子で立ち竦む。
――収拾不能だ。どうすればいい。
焦燥の余りに、胸壁を掴んだ掌に汗が滲む。
何かをしたくても、トゥイーディアのためになることは俺には出来ない。
トゥイーディアのことを考えまいとしても、俺の中の恋慕がそれを許さない。
俺に行動の自由があるのなら、今すぐに俺は、この場からトゥイーディアを攫って行きたい――
――そのとき、音が止まった。
――音が止まる。
空気を伝播していくその波が、ぴたりと止まって無音となる。
皆が皆何かを叫んでいるはずなのに、声はぴたりと止められる。
強制的な、理不尽なまでの沈黙と静寂が、藍玉の間を包んで押し拡がる。
その中を、こつり、と靴音が響いて、
「――どうかそのまま」
ディセントラが、俺たちの赤金色の髪の女王陛下が、ゆるりと藍玉の間を見渡して声を上げた。
その声のみが、全員の耳に強制的に届いていく。
――相変わらず、恐ろしいほどに器用に魔法を使う女だ。
「どうぞ、立場のある身分の方々が、軽々しく救世主を貶められることのございませんよう」
玉座に続く階のすぐ下にまで進み出て、血溜まりの中に打ち捨てられた肉塊に向かって丁寧に頭を下げてから、顔を上げたディセントラが、息を吸い込んで明瞭に言った。
「――この場にいる救世主は、リリタリスのご令嬢のみではございません」
胸に手を当てて、どんな貴婦人よりも洗練された仕草で礼をして、いつの時代も傾国と言われた美貌に、真摯な表情を載せて。
「名乗らず大変失礼いたしました。――救世主、ディセントラと申します。ガルシアよりリリタリスのご令嬢の供をしております。
――我が身の潔白の証明が必要でしょうね?」
ぱん、と、ディセントラが手を叩く。
その瞬間、〈止め〉られていた全ての音が藍玉の間に溢れ、壁に天井にぶつかって幾千にも反響した。
俺は思わず耳を塞いだが、眼下の藍玉の間において、その反応を示している者はいなかった。
皆が皆、茫然と、魂すら抜かれたかのようにディセントラに目を奪われている。
充満する血の臭いも何もかも、忘れ去ったかのようにディセントラだけに見蕩れている。
そして、その中においてなお、ヘリアンサスが、初めて見るほど苦々しげな表情でディセントラを眺め遣っている――
――そしてそのヘリアンサスを、今だけは、ディセントラは一瞥もしない。
ヘリアンサスに対する怯懦と恐怖を、この瞬間のみはトゥイーディアに対する愛情が上回っていることが、ありありと分かる凛とした横顔。
鳴り響き、木霊する騒音すら、己に捧げられる拍手喝采のように見せながら、彼女は首を傾げて言い放った。
「――わたくしとリリタリスのご令嬢が、あなた方を必ずお守り申し上げますから。
ですからどうか、まずはその方に、わたくしの外套を掛ける時間を下さいますか」
するり、と黒い外套を肩から外しながら、ディセントラは憂いに満ちた淡紅色の瞳を、血の海に捨てられたままの、人体の残骸に向けた。
――〈止め〉られていた音が尽き、静寂が訪れる。
その静かな空気を、ディセントラの滑らかな声が震わせていく。
「このままでは、あまりにも気の毒です」
◆◆◆
「――ルイン」
ディセントラがその場を一瞬にして鎮めたのを見て取って、俺は胸壁の傍に屈み込んで声を掛けた。
ルインも、初めて見るのだろうディセントラの威厳に満ちた立ち姿に、やや茫然として目を奪われていたようではあったが、俺の声に素早くこちらを振り返った。
「――はい、兄さん」
「来い」
短く言って、俺は深紅の垂幕の向こうの梯子に向かって顎をしゃくる。
ここを降りるぞ、という俺の仕草の意味を間違いなく受け取って、ルインが迷うことなく身を翻した。
それに続きながら、俺はぽかんとしてディセントラを見下ろしているハンスに向かって、もはや愛想の欠片すらない声で言っていた。
「ここにいてもいいが、俺が離れると目くらましは解けるからな?」
そう言われて、慌ててハンスも身を翻す。
ここに昇ったときとは比較にならない速さで、慎重さをいくらか犠牲にしながら梯子を下り、狭い通路に出た俺たちは、そのまま廊下に向かって来た道を進む。
ここで、俺は目くらましを解いた。
廊下の人通りが多い。
目くらましを掛けたまま進むと、逆に人にぶつかりかねないと判断したからだ。
ハンスは俺たちから離れて、先に藍玉の間に駆け付けようとしている様子だ。
人波に呑み込まれていくハンスの背中を見送りながら、俺はルインの肩を掴み、二人して廊下の隅に寄りつつ、押し殺した小声で言っていた。
「――ルイン、おまえ、あっちでは色んな屋敷に潜入してたこともあるんだよな?」
確認するような俺の言葉に、ルインは少し目を見開いた。
それから、俺がこれから何を言うのか、予感したような顔で静かに頷いた。
「はい、そうです」
俺は息を吸い込んだ。
自分がこれから何を言おうとしているのか、その非道さを俺が一番よく分かっていた。
「――ルイン、出来ないならそれでいいんだが、頼みがある」
ルインは一切迷わず、躊躇せず、さらりと言った。
「はい、そのために来ました」
廊下の人通りは増えている。
藍玉の間の阿鼻叫喚は、分厚い壁を貫いて響いたとみえる。
文官と衛兵が一緒になって、藍玉の間に入ろうとしたり、あるいは中の惨状を見たためか顔色を失くしてそこから離れようとしたり、無秩序な人の流れを作り出している。
その人波に流されないよう、廊下の隅を辿るように進みながら、俺はルインの肩を掴む手にますます力を籠めた。
「――この王宮のどこかに、トゥイーディアが救世主として動くことを許した書状があるはずだ。
ヘリアンサスも、まださすがにそれは手許に持ってないはずだ」
希望的観測ではある。それは分かっている。
だが、事実としてヘリアンサスは、何も携えた様子なくあの場に現れた。
コリウスが、ヘリアンサスは王宮に入らない限りあの書状を手にすることは出来ないと言っていた。
ヘリアンサスは、王宮に入ってすぐに藍玉の間に向かったはずだ。
トゥイーディアがそこにいるタイミングを狙って、真っ直ぐにあの場所を目指して歩くあいつの姿が目に浮かぶ。
奇妙なまでに明瞭に。
――だから、まだ、ヘリアンサスはあの書状に手を掛けてはいないはずだ。
――俺にとっては、コリウスの言葉は全てを賭けるに足る根拠だ。
妄信だろうが浅慮だろうが、状況を打開できるとすればもうあの書状しかない。
「羊皮紙で、御璽の捺印がある。トゥイーディアの血判も押してある。
レイヴァス国王が、トゥイーディアに救世主として役割を果たすことと、皇帝から役目を命じる勅令を受けることを許す文面のものだ」
俺たちは廊下を折れて、藍玉の間に続く控えの間の、もうすぐ傍にまで来ている。
その場所で、俺とルインは示し合わせたように花を飾る台の傍に屈み込んだ。
控えの間には人が詰め掛け、ディセントラが中で指揮を執っているのだろう、目立つ絶叫や悲鳴は上がっていないものの、驚愕と恐怖の声が漣のように人々の間を伝っている。
その人波がぱっと割れて、藍玉の間からあの宰相が歩み出して来た。
冷や汗を大量に掻いて、文官の制服の筒袖でそれをしきりに拭いつつ、周囲に何事かを指示しながら歩いて来る――
それを視界の隅に見ながらも、俺は大して気にしていなかった。
宰相が、如何に政の最前線に立ってきたとはいえ、人一人が目の前で捩じ切られた直後である。
頭も回らなければ、何なら視界も不明瞭なほど混乱しているに違いない。
ただ、いっそう廊下の端に身を寄せつつ、ルインに向かって口早に囁き続けた。
「――御璽も、分かるな? あっちにあったのと変わらない。魔王のものと大差ない」
ルインが頷く。
こいつは魔王輔弼の傍で長く仕えてきた。
御璽の印影は元より、実物も何度も目にしているはずだ。
もう一度息を吸い込んで、意を決して俺は言葉を作った。
「それを探してほしい」
――王宮内で、正当な権限のないルインが重要文書を捜索すること。
その危険性。捕えられればどうなるか。
――それを全部分かった上で、こう言っている俺の非道さを、俺が一番よく分かっている。
自己嫌悪すら募らせる俺の目の前で、ルインが柘榴色の目を瞬かせて、頷いた。
いつもと同じ素直な仕草に、俺の方が少し焦る。
「――本来、さっきの公爵とかがやるべきことなんだろうけど」
言い訳のようにそう続けて、俺は藍玉の間に続く控えの間に詰め掛ける人の群れを一瞥する。
衛兵すらも顔色を失っているのが見えた。
「もう駄目だ。トゥイーディアに不利過ぎる。
現王派とやらはもう当てにならないと思っていい」
俺たちの傍を行き過ぎていた宰相が、血の臭いを思い出したかのように口許を手で押さえ、嘔吐くように身体を折ってよろめいた。
「閣下!」と声を上げて、砂色の髪の壮年の男が彼に駆け寄って行く。
同じように、藍玉の間から――恐らくディセントラの指示だろうが――衛兵たちに肩を貸されてよろめき出て来た貴族たちは、一様に蝋のような顔色をして、吐き気を堪えるように口許を押さえているものが多かった。
あるいは既に吐瀉した者もいるらしく、酸っぱい臭いを漂わせている者もあった。
「――俺は確かに、トゥイーディアには興味もないが、」
代償ゆえの言葉を吐いて、俺は唇を噛んでから続ける。
「でも、あいつの親父さんは無実だ。助けなきゃいけない」
また、ルインが頷く。
俺は息を吸い込んで、ルインの肩を掴んでいた手を離し、彼の手を握った。
「――ただ、ここは広いし、おまえは慣れてない。無理ならそれでいい」
一瞬息を詰めてから、俺は吐き出すように言葉を作った。
「あるかどうか分かんねぇ書状より、おまえの命が大事だっていうこともある」
ルインが瞬きして、微笑んだ。
そして、ぎゅう、と俺の手を握り返して、口を開く。
「――兄さん、大丈夫です」
柘榴色の目に、俺の、顰め面めいた心配の表情が映っている。
「元より兄さんの役に立つために来ました。
それに、あちらの城よりも大きいですが、おおまかな構造は変わらないと思います。
無理はしません。出来ないと判断したら退くお許しをいただけるといいのですが――」
俺は思わずルインの頭を叩いた。
「馬鹿、許しなんかなくても命優先だ」
いたた、と、大して痛くもなさそうに口走ってから、ルインはいっそう大きく微笑む。
「――そう言ってくださると思いました。
大丈夫です。やります」
罪悪感と感謝がいちどきに胸を締めたが、俺はその中の感謝を選んで行動した。
即ち、ルインをやや乱暴に抱き締めた。
ルインはびっくりしたように目を見開いていたが、俺が身体を離すと、すぐさま外套を脱ぎ捨ててシャツの袖を捲り上げた。
恐らく、どこかの下男と言い張って通る格好をするつもりなのだろうが、――もうちょっとこう、俺が示した親愛に対して照れても良くない?
いや、そんな場合じゃないことを、こいつはよく分かっているんだろうけど。
そうして身形を崩しながら、ルインは、脱ぎ捨てた外套を――今までのこいつからは考えられなかったことに――、はい、と俺に押し付けてきた。
「兄さん、これを始末してください」
「おう」
俺は俺で、反射的にそれを受け取って燃え上がらせる。
俺の掌から生じた熱が余りにも強烈だったので、外套は燃え尽きるというよりもそのまま一瞬で灰になったかのように、こんもりとした黒ずんだ灰の山と化した。
煙すら殆ど上がらなかった。
ここを清掃する掃除婦さんには妙に思われるかも知れないが、外套が落ちているよりマシだろう。
アナベルがいれば、もっときれいに片付けられたんだろうけど。
シャツの襟元を緩めながら、ルインが首を傾げる。
ちら、と、花瓶越しに藍玉の間の方を見て、そろそろ中から動きがありそうだと判断したらしく、潜めた声は口早になった。
「――書状を見付けたら、どこにお持ちすればいいでしょう」
「見付けても見付けなくても、俺たちとおまえは合流しないとなんねぇだろうが」
思わずそう言ってから、俺は一瞬考え込み、そしてすぐに言った。
「――ちょっと離れてるけど、リリタリスの荘園だ。そこなら、最悪俺たちがいなかったとしても、あの使用人さんたちがいる。
手紙でも何でも遣り取りして合流できるし、おまえがずっとあそこにいてくれりゃ、こっちから迎えにも行ける」
ただ――と顔を顰めて、俺はルインに向かって手を合わせた。続けた言葉は半ば冗談だった。
「マジでごめん。今、金持ってないから。――汽車は無賃乗車だな」
「任せてください、余裕です」
胸を張る弟に、ここは兄として何と言うべきかと迷う。
とはいえ、のんびり遣り取り出来る場合でもなかった。
――今まで散々、忠実だなんだと思ってきたが、ルインは今、俺の命令で危険がないとは到底言えない役目を押し付けられようとしている。
罪悪感がとうとう臨界点を突破して、俺は口走っていた。
「――ごめんな」
「大丈夫ですよ」
立ち上がろうとしながら、ルインは灰色の髪を揺らして笑った。
そして、言った。
「――いざとなったら、弟を助けに来てくださいね、兄さん」
俺は頷いた。
――それを約束した。
◆◆◆
――この日、レイヴァスの王宮を震撼させた一連の出来事は、翌日には市井にも知れ渡ることとなる。
ひとつは無論のこと、突然のリリタリスの令嬢とロベリアの嫡男の婚約解消。
貴族同士の婚約が解消されるという、史上類を見ない醜聞は、たちまちのうちに衆目を攫った。
そしてもうひとつは、白昼堂々の貴族の殺人。
犠牲になったのはアールディート男爵。
この下手人が誰であるのか、王宮内は元より市井にあっても、人々はあらゆる推測を語り合った。
――曰く、下手人はいない。あれは救世主を侮辱したらしき男爵へ下された天罰である。
――曰く、下手人は救世主である。侮辱されたがゆえにその怒りを知らしめたのだ。
――曰く、救世主だけは下手人では有り得ない。
なぜならば、男爵の遺体に誰よりも優しく外套を掛けて労わった者こそが救世主であったからだ。
――曰く、下手人は救世主ではない。なぜならば手を下したのは、救世主を騙る偽物だからだ。
――曰く、下手人は。
――曰く、下手人は。
――曰く、救世主を騙るとすれば、救世主と同等の有り得べからざる力を持つとすれば、それはただひとつの存在のみである。
――曰く、下手人は。
――曰く、下手人は、魔王である。