29◆ 奇跡というものがあったとしても
待て待て落ち着け、と自分に言い聞かせ、俺は寝台から足を下ろして腰掛けて、膝の上に肘を突いて額を押さえる。
整理しよう。
いったん落ち着こう。
トゥイーディアには好きな人がいる。
“今のトゥイーディアの人生に関わりがある人で、彼女と親しくて、かつトゥイーディアに振り向いていない――あるいはトゥイーディアが彼の気持ちを追い掛けられない理由がある人”、らしい。
――で、俺。
“今のトゥイーディアの人生に関わりがある”――大いに当て嵌まる。
むしろ、これまでのトゥイーディアの、どの人生にも関わりがある。
彼女の人生の片隅よりはちょっと真ん中の方にいたと、俺は自負している。
“彼女と親しい”――ぎりぎり当て嵌まる。
何しろ救世主仲間だから、他の有象無象よりは距離が近い。
トゥイーディアも、――この頃はないけれど――俺には気安く口を利いてくれることも多かった。
“トゥイーディアに振り向いていない――あるいは、トゥイーディアがその人の気持ちを追い掛けられない理由がある人”。これこそ当て嵌まる。
何しろ俺には代償があって、端から見ればトゥイーディアだけに異様に冷たく接する奴なんだから。
――あれ? マジで?
暗闇の中、ものすっごい真顔になって、今までの記憶を全部引っ繰り返し始める俺。
ちょっと心臓が痛い。
そろそろ通常の鼓動に戻さないと、心臓がぶっ壊れそう。
――トゥイーディアは優しいし、俺がピンチに陥ったときは、真っ先に飛んで来て助けてくれることが多かった。
まあこれは、トゥイーディアの並外れた人徳を思えば、自惚れる理由にはならない。
だが、それにしてもトゥイーディア――割と俺には優しかったような?
いや、愛想尽かされたと思ったことは数知れず、冷ややかな視線も沢山受け取っては来たが、よく考えろ、俺。
何百年もの間、ここまで冷淡に接する奴である。
仲間の一人とはいえ、口を利かなくなるのが通常では?
にも関わらずトゥイーディアは、結構頻繁に俺に話し掛けたりしてくれていたし……。
――コリウスの号泣事件以前には、トゥイーディアはコリウスに向かって他人行儀に接し、「あなた」と呼び掛けていた。
自分を顧みてみれば、俺は号泣事件以前のコリウスよりもなお、トゥイーディアに対して冷たく当たっている。
にも関わらず、トゥイーディアは俺に向かって、「きみ」と呼び掛けてくれている。
相手をどう思っているのかが、二人称に表れるのがトゥイーディアの癖だ。
座っていられなくなって、俺は立ち上がった。
誰の目にも耳にも届かない場所であれば、代償は俺に恋情の発露を許す。
今がまさにそれだった。
うろうろと広い室内を歩き回りつつ、これまでの長い人生をおさらいし始める俺。
――俺が剣奴として生まれて、トゥイーディアと二人旅をする機会に恵まれた、あの人生。
闘技場まで俺を迎えに来てくれたトゥイーディア。
二人旅の間も喧嘩は絶えなかったが、よく考えるまでもなく、彼女は俺にあれこれと気を遣ってくれていた。
酒場で寝こけた俺を、朝まで傍で見守ってくれていたりね。
普通に考えれば、あのときトゥイーディアは俺を放って部屋に引き揚げていても良かったはずだ。
何しろ、たとえ寝こけているところを悪漢に襲われたとしても、俺なら無事に切り抜けられるだろうことは、みんな知っているわけで。
――いつも魔王討伐において、序盤から中盤であっさり死んでいく俺に向かって、「死にたがらないでね」と念押すトゥイーディア。
コリウスやアナベルだって、序盤から中盤で死ぬことが多いけど、そんなのをあの二人に言っているのは聞いたことがない。
いや、俺がいつも誰かを庇って――大抵はトゥイーディアと、ついでの誰かを庇うわけだけど――死んでいくから、そのせいかも知れないけれど。
――今生においても、そうだ。
俺が暗殺未遂の中で育ったということをあいつは知っていて、首謀者である魔王輔弼に対しては度外れた怒りを見せた。
いや、あのジジイがヘリアンサスの命令に従っていたから、それを思って激怒していたのかも知れないけれど。
でもあいつは、魔王輔弼の沙汰について俺に任せた。
しかも――
記憶を掘り返して、あのときのトゥイーディアの言葉を反芻する。
――『よくもルドベキアを辛い目に遭わせてくれた。――私の心情を言えば、ルドベキアを危険に晒した上にあいつの命令に従っていたのだから、おまえは殺してやりたい』。
――めちゃくちゃ俺のために怒ってくれてたような……気がする……。
あのときは頭に血が昇っていたけれど、よくよく思い返してみればそうだ。
いや、頭に血が昇っていたときに聞いたトゥイーディアの言葉を、いちいち覚えている俺も気持ち悪いんだけど。
コリウスと一緒に〈呪い荒原〉まで行って、戻って来たときもそうだ。
喧嘩を売るようなことを言った俺を、あいつはなお気遣って、「何かあったか」と訊いてくれたのだ。
いや、トゥイーディアは優しいから、だからかも知れないけど。
それに、あのあと――
部屋の真ん中で立ち止まり、腕組みをして考え込む。
思考が先走り過ぎて指先が震えた。
――あのあと、アナベルの計らいでトゥイーディアの治療をしたとき。
途中で眠り込んでしまったあいつは、治療の最後の方で俺の手を握った。
寝返りを打った拍子のような感じだったが、それでもあの一瞬、トゥイーディアの寝息が妙に途切れたのを俺は覚えている。
あれ、起きてたんじゃないか?
起きてて、俺の反応を窺ったんじゃないか?
――地下に閉じ込められた俺を助けに来てくれたときだってそうだ。
俺が、自分にとって不利な戦場になる地下にのこのこ下りたりするはずがないと、ティリーたちを問い詰めてくれた。
その後だって、喧嘩腰の俺の言うことに笑ってくれたり、『一緒に住むことになったら仲良くしようね』と言ってくれたりしたし。
……これ、え? マジ?
立ち止まっていられなくなって、またしても部屋の中を徘徊し始める俺。
心臓が口から出ていきそうな勢いでばくばくと打っている。
俺、このまま死ぬかも。
――それに、待てよ、カルディオスだ。
がばっと顔を上げ、俺はカルディオスの、今生随一に訳が分からなかった行動を思い返した。
――俺を無理にティリーとの逢引に行かせた、あれだ。
あいつがあんなことをするわけない。
カルディオスは、多少はちゃめちゃなところはあるがいい奴だし、俺が本気で嫌がっていたのを強行したのは、どう考えてもおかしい。
――『俺の好きな子がおまえのこと好きになっちゃって、何とかしておまえのことを諦めてもらいたいから、取り敢えずおまえとティリーがデキてるって誤解させたいんだ――って言ったら信じる?』
カルディオスが、きらきらした翡翠色の目で俺を見ながら言った、あのときは一笑に付した言葉を思い出した。
『おまえが多少でも女の子と遊んでくれれば、諦めもつくはずだからさ』とも言っていて、俺は、何のことだと思ったものだが。
しかも、妙な点が多かった。
砦を出て行く間は嫌そうな顔を引っ込めろだのなんだの。
あのときは訳が分からなかったが、そこにトゥイーディアを当て嵌めてみると、割とすっきり筋が通る。
トゥイーディアが、仮に、もしも万が一、奇跡のように、俺のことを好きだとしよう。
そうすると、カルディオスから見れば、どうだ?
姉のように慕う彼女が、なぜか分からないが冷たく当たり続ける男に片想いをしている状況である。
そこで一計を案じて、そいつが別の女とデキていると誤解させ、トゥイーディアに諦めをつけさせようとした――と考えれば。
カルディオス自身がトゥイーディアの気を引かないのも納得のいく話で、あの二人、姉弟みたいなものだからね。
トゥイーディアを騙して引っ掛けるなんてこと、いくらカルディオスでも出来ないだろうし。
……俺は両手で顔を覆った。
そして、自分の顔の熱さにびっくりした。
――しかも、ガルシア戦役の最中、俺に対してめちゃくちゃ冷たく接していたトゥイーディアが、急に態度を軟化させたことがあった。
ガルシア南東のレヴナントの掃討中だったと思う。
前後のことはよく覚えていないが、確か、人型のレヴナントに対して救世主四人で掛かることが出来たとカルディオスに説明している最中じゃなかったか?
そのときカルディオスが、『今日にルドベキアとティリーの逢引の約束を取り付けさせて良かった』と口走ったことを覚えている。
直後に、「やべっ」というようにカルディオスが口を押さえたことも覚えている。
――トゥイーディアには、俺が自発的にティリーと逢引に行ったと思わせておかなければならなかった。
それをあっさり、裏で糸を引いたのが自分だと暴露してしまった、それゆえの、失言を悔やむがゆえの挙動だったのでは?
しかも、――事の前後を細かく覚えていない俺の頭を溝に捨てたいが――あの発言の直後に、トゥイーディアの態度が軟化したような気もする。
仮定に仮定を重ねた話にはなるが、もし、トゥイーディアが、俺がティリーと逢引したことに対して嫉妬に似た気持ちがあって、しかしそれを払拭されたがゆえに態度を軟化させたのだとしたら――?
……やべぇ、そう仮定して想像するとトゥイーディアめっちゃ可愛いな。
ずっと可愛いと思ってきたけれど、そういう仮定を重ねて考えると可愛さ五割増しだ。
呼吸困難になりそう。
――しかもだ。この頃、トゥイーディアが俺に冷たい。
俺にとっては身を切られるよりもつらいことだけれど、タイミングを考えろ。
アナベルが、こうしてトゥイーディアのお父さんを助けるために動くことを彼女に許してから、トゥイーディアは俺に冷たくするようになったのだ。
――『トゥイーディア、あなたの恋が絶対に報われないもので、本当に良かった』
アナベルはそう言った。
そして、トゥイーディアに、役目よりも親子の情を優先することを許した。
トゥイーディアは、それをどう受け取っただろう。
真面目で一生懸命な彼女のこと、寸分違わずこう思ったに違いない――「親子の情は許されたが、恋慕の情は許されない」と。
あの瞬間に、トゥイーディアが自分の恋を諦める決心をつけていたとすれば、それは極めて彼女らしいことなのだ。
そして、ほぼ時を同じくして、以前にも増して俺に冷たくなった彼女。
――タイミングとして合い過ぎだろう。
これ、トゥイーディアが俺のことを好きだと考えれば、めちゃくちゃ辻褄が合うじゃないか。
顔を押さえたまま、俺は思わずその場に座り込んだ。
頭から湯気が出そう。
待って、状況証拠はすっげぇあるじゃん。
……トゥイーディア、俺のこと好きなのでは?
そう思った瞬間、冗談抜きに目の前が輝いて見えた。
あらゆる感情が堰を切って溢れそうになり――
――でも、いや、待てよ?
俺は息を吸い込み、立ち上がった。
片手で口許を押さえて、またしても真っ暗な部屋の中をうろうろする。
――なんで?
俺に、トゥイーディアに好きになってもらえるような要素がひとつでもあるか?
足許に視線を落とし、我が身を顧みる。
――トゥイーディアは人を見た目で判断するような奴ではない。
だから、この際見目は棚に上げよう。
第一、トゥイーディアが見目で人に惚れるのならば、とっくの昔にカルディオスに惚れているはずだ。
トゥイーディアが見目に重点を置かない人で良かった。
お世辞で格好いいと言われることもある俺だが、カルディオスと比べられてしまうと見る影もないからね。
俺、トゥイーディアからはどんな奴に見えているんだ?
まず、ぱっと思い当たるのは、“すっげぇ態度が悪い奴”だということ。
代償のせいだけれど、俺が今までに彼女に冷たく当たり、暴言を吐いたことは数知れず。
温厚な彼女をして激怒させたこともある。
あとは、そうだな……「死にたがり」と言われることは多いね。
むしろ魔王討伐に挑む度に言われている。
でも、あれ?
トゥイーディアに「格好いい」と言われたこともあるような気がする――俺の願望か?
いや、言われた。
地下で、レヴナントをぶった斬ってるときに言われた。
思い出すだけで顔が熱くなってくる。
――でも、こう、抜きん出て彼女に気に入ってもらえるような点はないというか……。
もしもトゥイーディアが、奇跡のような気持ちを俺に向けてくれているのなら、その理由が分からない。
トゥイーディアが、「黒髪の人が好き」とか、「青い目の人が好き」とかなら分かるが、でもそうだとすると、俺は世の中の黒髪の男や青い目の男を全員血祭に上げなければならなくなってしまう。
いや違う、トゥイーディアは見目で人を判断するような女じゃない。
「――あーっ!」
頭を掻き毟って呻き、俺は窓に足を向けた。
帳を開けて、折戸になっている硝子張りの窓をがらりと開く。
初夏の夜気がひんやりと頬を撫でた。
息を吸い込んだ俺は、そのまま外のバルコニーに裸足のまま踏み出した。
バルコニーはそれほど広くない。窓を出て三歩で欄干に行き当たる。
欄干は、繊細な蔦模様の彫刻が施された石造りで、小鳥が等間隔に欄干の上に止まっている意匠が採用されている。
小鳥と小鳥の間に肘を置いて、俺はバルコニーから夜闇に沈む眼下を見渡した。
この部屋は、主館の裏手に面しているから、明るければ真下に訓練場が見えるはずだ。
今はぼんやりとした輪郭の他には何も見えず、頭上を仰げば無数の星が鋭利に煌めいている。
月光が夜空を柔らかく染めていたが、月は角度の問題で見えなかった。
はあ、と夜空に向かって溜息を吐く。
そよ風に、溜息はあっさりと霧散した。
――つらいのは、トゥイーディアの好きな人を確かめる術がないことだ。
カルディオスとかディセントラとか、知ってる人がぼろっと零してくれればいいけれど、俺は自分からそれを確かめるために動けない。
俺の、トゥイーディアに寄せる関心の全ては、代償が見事に周囲から遮断してしまう。
足裏に、ざらついた石の感触がある。
夜気を吸い込んで冷えた感触だ。
欄干の上に止まっているような形で彫り抜かれた小鳥たちは、あっちを向いていたりこっちを向いていたり、首を傾げていたり羽ばたこうとしていたり、伸びをしていたり。
多様な意匠が採用されているのだということを、俺は明るいうちに見て知っている。
今は光源が乏しいから、薄らとしか見えないその石の小鳥の頭を、俺は戯れに指先で弾いた。
ちん、と軽い音がする。
ぐるぐると出口のない問いに頭が爆発しそうな俺は、その小鳥に向かって言おうとした――「俺の好きな人、もしかして俺のことが好きだったりしねぇかな」と。
石像に向かって声を掛けるとは、まあまあ変人の所業ではあるが、俺はその所業を現実に移すことが出来なかった。
開いた口から声が出なかった。
――そのために、今、誰かが俺と同じようにバルコニーに出ているのだということが分かった。
俺が声を出せば、その声が届くだろう位置に誰かがいる。
俺が意識していないそんな些細なことにすら、俺の代償は完璧に働く。
〈最も大切な人に想いを伝えることが出来ない〉という代償――もう覚えてもいない昔から、ずっと俺の生涯に課せられていた枷。
――遠い昔に、俺たちのうちの誰かが俺に掛けたのかも知れない、確固たる呪い。
俺はしばらくバルコニーにいて、欄干に肘を突いて、茫漠と広がる夜の闇を、ただぼんやりと眺めて風が渡る音を聞いていた。
◆◆◆
明けて翌日、俺たちは王都イルスに向けて出発した。
汽車の中で食べるように、と、ジョーお手製の食事を詰めた籠を手渡されてのことである。
俺は結局、庭番のオーディーという人に会うことが出来なかった。
コリウスとアナベルは、アーバスと一緒にベイル方面の汽車に乗る。
一方俺たちは、トゥイーディア、ハンス、ハンスのお供、俺、カルディオス、ディセントラ、ルインの七人という、結構な大所帯である。
ムンドゥスは案の定ふらふらとカルディオスに付いて来ようとしたが、部屋に入れてしまえば扉を突破して来ることはなかった。
トゥイーディアがメリアさんにムンドゥスのことをお願いしてくれたので、大丈夫だろう。
ハンスはじろじろとルインのことを見て、「誰だこいつは」みたいな顔をしていた。
ルインのことを探られると、俺としても大変困る。
なので俺がルインの前に立って、「何か?」みたいな顔でハンスを迎撃しておいた。
トゥイーディアがこいつのことを何とも思っていない可能性は高そうだが、それはそれとして距離が近いのが腹立つね。
曲がりなりにも大貴族であるハンスが、一般人と同じ汽車を使うのか、という疑問はあったが、ハンスがティシアハウスに到着したときの俺の勘は当たっていた。
こいつはお忍びでここまで来ていたのだ。
それゆえ、仰々しく汽車を貸し切りにしたりは出来ないというわけだ。
ここまで騎乗してきた馬も、ティシアハウスの厩に預ける算段で、特段お気に入りではない馬を連れて来ていた様子である。
ハンスは来たときのままの、これぞ貴族といったかっちりした服装。
一方のトゥイーディアは騎士服だった。
朝一番に彼女のその姿を見て、俺は二度見を許さない自分の代償に、なおいっそうの憎悪を募らせたほどである。
めちゃめちゃ格好よかった。
トゥイーディアの肖像画が描かれるとしたら、是非この格好でお願いしたい。
国王に謁見する可能性を考慮した上で正装を選んだのだろうが、ガルシアの軍服よりも数段似合っている。
――騎士服が甲冑から離れて久しい。
魔法を用いる戦闘において、甲冑は意味を成さないことが多いからだ。
魔法を喰らう場合、防御よりも回避に重点を置くべきだという戦法は、この数百年変わっていない。
それゆえに、重い甲冑や帷子は嫌われる。ガルシアの軍服もその例に漏れなかった。
トゥイーディアが身に着けているのは、白いブラウスに、金の飾り紐が付いた深緑のウエストコート。
ブラウスの袖はたっぷりとしていて、手首のところで濃緑色の細紐できゅっと縛られている。
細紐には小さな宝玉が通されていたが、よく見ればそれは世双珠だった。
黒に近い濃灰色のズボンに、その裾を押し込んでいる黒い長軍靴。
金の飾りがあしらわれた豪奢な剣帯に、すっきりした形の細剣。
俺はてっきり、館の居間に飾られていたあの剣を持ち出すのかと思っていたが、トゥイーディアには叙勲されたときに下賜された剣が別にあったらしい。
あの二振りの剣に比べれば、真新しい感じの細剣だった。
トゥイーディアの正装にはしゃいだのは俺だけではなくて、カルディオスも大いにはしゃぎ、あれこれと騎士服の由来を尋ねていた。
それに答えたトゥイーディア曰く、冬場は――つまり、大抵の場面では――この上からかっちりした重い深緑の外套を羽織るのだそう。
だが、貴重な夏場においては、外套は免除される。
その代わりに羽織るのが、外套というよりもサーコートという方が近いと思われる、ゆったりした上衣だった。
元は甲冑が陽光を反射するのを抑えるためにその上から羽織るのが流行っていたサーコートだが、甲冑が廃れてからも生き残っている。
流行の衰勢を見てきた身としては感慨深い。
トゥイーディアが今身に纏っているサーコートには、珍しく袖があった。
全体に深緑色だが、ゆったりと手首で広がる袖口と裾には黒い飾りがあしらわれている。長さは地面に届くほど。
それを、剣帯で押さえて身に着けているというわけだ。
マジで格好いい……。
「汽車の中だと目立つかなあ」
と、トゥイーディアは駅に向かいながら呟いていたが、うん、大いに目立つと思う。
でも、いいんじゃないですかね。
どのみちハンスの格好が目立つんだから、トゥイーディアが普段着を選んだところで注目は浴びるだろう。
蜂蜜色の髪の半ばを下ろし、残りの半ばを編み込んで高く結い上げたトゥイーディアは、俺にはちょっと眩し過ぎた。
しげしげと見ていたい一方で、直視が難しい。
そして代償がある限り、あんまり直視できない。
アーバスはトゥイーディアをまじまじと無遠慮に見て、彼女がくるっと回って見せて、「どう?」と尋ねるのに頷いて、
「全ッ然似てねえと思ってたけど、案外オルトには似てんだな」
と評して、トゥイーディアを笑み崩れさせていた。
ところで俺たちの格好は、とにかく地味なものである。
俺たちは目立ってはいけない。
あくまでもトゥイーディアの従者という立場を貫かねばならない。
ゆえに、普通にリリタリス家の使用人の皆さんから拝借した。
俺はこれで十分目立たなくなったけれども、カルディオスとディセントラはどうしようもない。
地味極まりない格好をしていてなお、輝くような存在感を放ってしまっている。
ディセントラなんて完全に、メイドの扮装でお忍び旅行を楽しむ貴族のお嬢さまの図だ。
彼女もそれは自覚しているらしく、「髪、切っちゃおうかしら」などと頓着なく言っていたが、トゥイーディアが全力でそれを止めていた。
初夏の陽光降り注ぐ駅まではコリウスたちと一緒だったが、俺たちが乗るべき、キルトン方面の汽車が先に到着したことで、そこで別行動となった。
トゥイーディアとディセントラは汽車の窓から身を乗り出して手を振っていたが、それに手を振り返したのはアーバスだけだった。
コリウスとアナベルは、ちらっと二人を見たのみで、極めて彼ららしく目を逸らしていた。
が、ここで驚愕すべきことが起こった。
カルディオスが窓から顔を出して、「おい!」と呼び掛けたのだ。
カルディオスの方から、コリウスやアナベルに声を掛けることなど久しくなかったことで、俺たちは一様に愕然とした。
が、カルディオスはそれには頓着せず、コリウスの視線が自分に向いたと悟るや、ずっと左の中指に嵌めていた黒い指輪を抜き取って、勢いよく彼の方へ放り投げていた。
汽車は既に走り出していたが、煌めきながら宙を飛んだ指輪は、狙い違わずコリウスの額の辺りに向かった。
咄嗟に手を伸ばし、ぱしりとそれを掴み取ったコリウスが、珍しく唖然とした様子でカルディオスの方を見る。
だが、その顔もみるみる遠ざかる。
汽笛が鳴り響く。
カルディオスは早々に窓から顔を引っ込めて、緊張を吐き出すかのように大きく息を吐いていた。
俺はそんな彼の真向いに座っていたが、驚愕醒めやらず、思わず、「おい」と。
「どうした。どういう風の吹き回しだ」
「――だって、」
カルディオスは俺を指差した。ちょっとその手が震えていた。
「おまえが、俺が創った方を持ってんでしょ。二つともこっちにあるのは駄目でしょ。
万が一のこと考えたら、あっちに渡しとかなきゃって……」
――確かに、救世主の固有の力を底上げしてくれる武器が、二つとも俺たちの手許にあるとなると、コリウスとアナベルが心配になる。
そして、俺が持っている方の武器は、俺かトゥイーディアにしか扱えない。
そうなると、カルディオスが持っていた方の武器を、コリウスとアナベルに受け渡さねばならなかったというわけだが、
「おまえ……、頑張ったな」
思わずそう言って、俺は身を乗り出してカルディオスの髪をわしゃわしゃと撫でた。
「――俺なら、ディセントラとかに頼んで渡してもらってたわ」
されるがままに撫でられて、ぐらぐらと揺れながら、カルディオスはにやっと笑った。
ちょっと弱々しかったが、それでもいつものような笑顔だった。
「それな、俺もちょっと考えた。――けど、」
ぺし、と俺の手を振り払って、カルディオスは項の辺りを掌で擦る。
「――やっぱ、このままじゃ駄目だよなあ……」
苦り切ったような表情でそう言うカルディオスに、俺は言葉を返せなかった。
汽車は速度を上げて、窓の外の風景を引き千切ろうとするかのように走っている。
――キルトンまでは三日、キルトンから王都イルスまでは二日。
途中でレヴナントに遭遇したり、思わぬ事故に遭えばそれ以上。
駅がレヴナントの被害に遭い、瓦礫を撤去するまで通行止め――という事態に一度遭遇し、俺たちがキルトンに到着したのは、モールフォスを出発してから四日目の夕方だった。
通行止めになっている間、ハンスの護衛とみられる彼が、ハンスとトゥイーディアを他の乗客から隠すように立ちはだかっていた。
何しろ、一目見れば貴族や騎士と知れる格好をしている。
下手に乗客に注目されれば大騒ぎになると踏んだのだろう。
ハンスは――極めて貴族らしく――それが当然という顔をしていたが、トゥイーディアはちょっと不満そうだった。
汽車に乗っている間中、トゥイーディアは無言を貫くことが多かった。
無表情で車窓の向こうを眺めてぼんやりしていることが多く、夜には車内のカンテラの明かりで鏡のようになった車窓に、彼女の顔が映り込んでいるのが俺からも見えていた。
額を窓硝子に預けて、何かをじっと考え込んでいるトゥイーディア。
――もしも、万が一、彼女が俺に好意を向けてくれているのならば、俺が話し掛けさえすれば笑顔を見せてくれるのかも知れない。
だが俺にそれは出来ない。
トゥイーディアを想うがゆえの行動は許されない。
だから俺は、こんなにも彼女のことを考えていても、まるで関心すらないと言わんばかりに座って、カルディオスやルインと言葉を交わしているほかに出来ることはない。
俺が彼女に向ける膨大な感情の、その百分の一であっても、彼女が俺に向けてくれていれば嬉しい。
だが、仮にそうであったとしても――お互いに同種の感情を向け合っているという、万が一の幸運があったのだとしても。
奇跡というものが、もしもこの世に存在するのだとしても。
その奇跡が己の力不足を嘆き、顔を隠して逃げ出してしまうほどに絶望的に、俺たちの間には高い壁が聳えている。
――そして、モールフォスを出立してから六日後の夕方に、俺たちは宵闇と時を同じくして、レイヴァスの王都イルスへ到着した。




