26◆ 伝説の泥棒さん
ルインはめちゃめちゃ困惑した様子で俺たちを見ている。
俺やカルディオスと大体同じ格好をしていて、灰色の髪の毛先から、まだ少し水滴が滴っていた。
俺とカルディオスは、不幸にもコリウスやディセントラみたいな回転のいい頭に恵まれていないので、しばしの間仲良く絶句していた。
――あれ? こいつ、いつからいたの?
硬直して考えた俺だったが、直後に、別に今の話は聞かれても何の害もないことに思い至った。
多分、聞いても訳が分からなかったはずだ。
「救世主に当たる」だの、「最後まで生き残る」だの。
俺とほぼ同時にそのことに思い至ったらしいカルディオスが、しかしちょっと気まずげな顔をした。
まあ、弱音吐いてんの聞かれたんだからそうなるよな。
ちらっとカルディオスを見てから、俺はルインに視線を戻し、言った。
「おう、お帰り。早かったな。ゆっくり出来た?」
ルインは物凄い真顔で俺を見た。
部屋に入って、きちんと扉を閉めて、真顔のまま俺の傍まで寄って来る。
こつこつと靴音が鳴る。
「…………」
訳もなくびくつく俺。
ちらっとカルディオスを見ると、カルディオスも訳もなくびくついていた。
そして、俺の傍で床に膝を突いたルインが、真顔のまま言った。
「――あの、兄さん」
「ん?」
そう答えつつ、俺は内心で必死にコリウスの登場を祈っていた。
罪悪感ゆえの気まずさはあれど、こういうときに頼りになるのはコリウス。
戻って来てくれコリウス。
しかし、当然ながらコリウスは戻って来ない。
そして、ルインは真顔で、訝しそうに、窺うように、俺に向かって尋ねていた。
「馬鹿げたことかも知れませんが、――兄さん、もしかして、ずっと以前の人生も、ご記憶されていらっしゃるんですか?」
「――――」
俺、絶句。
カルディオスは素早く、「なに言ってんの弟くん」みたいな顔を完璧に作っていたが、如何せん俺はルインに気を許していただけに不覚を取った。
――〈魂は巡り巡って決して滅びない〉と絶対法に定められている。
水は高いところから低いところに流れるのだと知っているように、この世界に生を享けた以上、絶対法を知らない奴はいない。
ゆえに、前世の存在は、公然の事実だ。
むしろそれを否定する方が気違いの所業だ。
だが、前世を覚えてる奴はいない、それもまた公然の事実だ。
前世を語り出す奴がいるとすれば、それもまた気違いの所業だ。
だから俺たちは、延々と、何回死んでも同一人物として人生を続けていることを、周囲に対してひた隠しにしてきた。
シャロンさんの推測が惜しいところを掠めていたが、それでもこうまではっきりと、真正面から指摘されたことはない。
アナベルでさえ、シオンさんにすら最後まで黙っていたはずだ。
――カルディオスに思いっ切り脇腹を肘で押されて、俺は我に返った。
だがもう、ルインの顔に確信じみたものが昇ってしまっている。
「――えぁーっと」
変な声が出て、俺は助けを求めてカルディオスを見た。
カルディオスも、「どうする?」みたいな目で俺を見ていた。
俺はルインを見た。
ルインの柘榴色の目は真剣だった。
笑って誤魔化せる雰囲気ではなかった。
――俺は眉間を押さえてしばらく考え、そして、白旗を揚げた。
「……兄さん、ずっと救世主だったんですか」
洗いざらい喋ったあと、ルインは当然ながらびっくりしていた。
だが、俺が想定したほどはびっくりしていなかった。
カルディオスは、「俺は知らねーからな」とばかりに俺に背中を向けて座っていたが、その実こっちが気になるのか、ちらちらと振り返る風情を見せている。
――いや、あっさりバラし過ぎかなとは思った。
思ったけど、ぶっちゃけバラしたところで実害がなかった。
たとえこいつが、今までの態度から全く反転して、俺を気違い呼ばわりしてきたとしても、俺は事実を喋っただけなので痛くも痒くもないし、みんながいてくれればもうそれでいいわけだし。
こいつが俺を完全に狂人と認定して離れて行くと、俺は日々の癒しを失うことにはなるが、別にそんなの慣れるだろうし。
こいつの性格からして、周りに俺から聞いた話を吹聴したりはしないだろうし。
そもそもこいつ、出身が魔界であるという時点で、頼れる相手は俺たちだけなのだ。
俺たちを怒らせて得はないと、考えずとも分かるだろう。
で、こいつが俺の話を信じた場合、事はもっと単純で、「黙っててな」と頼めばそれで済む話というわけで。
――で、どうやらこいつは俺の話をまるっと信じた。
目の前にいる人間が、いつから人生始まったのか覚えてもいないほどの昔から、ずっと六人で輪番制で救世主を担当してきたのだということを、こいつはあっさり信じた。
大丈夫か、こいつ。
詐欺とかに引っ掛からないか。
――などと思ってしまった俺は、「おまえさ、」と。
「そんなにあっさり信じていいのか?
いや、話した俺の言うことじゃないけれども」
ルインはぱち、と瞬き。
「兄さんは嘘を吐きません」とか言うようなら、俺もそろそろこいつを医者に診せることを考えなければならなくなるが、
「――いえ、辻褄が合うので」
と、ルインは存外まともなことを口走った。
「兄さん、“あちら”でお生まれになったのに、“こちら”へ渡ることに躊躇いがありませんでしたし。
そもそもずっと、あの、“役職”に消極的だったのも、今のお話を伺えば当然と思えますし」
めっちゃ頑張って、「魔界」とか「魔王」とかいう言葉を避けてくれてる。
「それに、カルディオスさまたちとも、ずっと昔からお知り合いだったように振る舞われていますし――」
事実そうだしね。
「ムンドゥスを連れ出してまでなさっていたことも、今のお話を聞けば納得ですし」
失敗に終わった、何百回目かの魔王討伐ね。
ルインは不思議そうに俺の顔を覗き込んで、
「――ところで、兄さんはどうして、今回はあちらでお生まれになったんですか?」
「俺もそれが知りたい」
俺は即答。
「それを知ってる連中が、揃いも揃って隠し立てしやがる」
「多分えげつねぇ理由なんだって」
と、ルインの旗幟を見定めたらしいカルディオスが、くるっとこっちに向き直って口を出してきた。
真剣な顔だった。
「俺、マジでそれは聞かねー方がいいと思う。
イーディがあそこまで隠すんだぜ? 多分コリウスの話の比じゃねーって。
マジでそれは、イーディに墓場まで持って行ってもらう方がいいと思う」
「墓場に行けねぇのが俺たちだろうが」
言下にカルディオスの言葉を打ち返して、俺はルインに目を戻した。
ルインは目を見開いていて、事実の咀嚼に時間が掛かっているようだったが、思ったより冷静だった。
しかしふと目を見開くと、はたと手を打って頓珍漢なことを言い出した。
「――『兄さん』とお呼びするのは、まずかったですか」
「え?」
俺はきょとん。
「なんで?」
「いえ、あの――」
ルインは瞬きして、ぎゅっと自分の膝を掴んで、ぼそりと。
「――僕が存じ上げているより、何倍も長く生きていらっしゃった方なので……」
「頼むから『爺さん』とかって呼ぶのはやめてくれ」
思わず顔を覆って、俺は呟いた。
――なんだろう、さっきまでカルディオスと一緒に愁嘆場も斯くやという空気の中にいたので、なんでこうなったんだろう。
いやまあ、これも幸運か。
あのままカルディオスと二人で絶望に突っ込んで行くよりはマシだったか。
「俺、平均すると大体二十歳前後で死んでるから」
「死――、はぁ、あの、はい」
さらっと、「死んでる」などと言われて、ルインが目を泳がせる。
それから、はっとしたように俺の目を見上げた。
「――あの、僕、兄さんにこうしたご事情をお話しいただいたということは、他の皆さんにも黙っておいた方がよろしいんでしょうか」
「いや、言っちゃって」
俺とカルディオスの声が見事に重なり、俺は大きく頷いて言葉を続けた。
「俺たち、隠し事すると碌なことにならねぇから。特にディセントラと――コリウスには先に言っちゃってくれ。あいつらから何か口止めが入ったりしたら、それに従ってくれればいい」
はい、と頷くルイン。
見上げた忠誠心の塊である。
「――そういや、初めてだな」
そんなルインをしみじみと見た後、カルディオスがふと口許に手を宛がって呟いた。
「内輪以外にこの話が知れんの、初めてじゃねぇ?」
――これまで誰にも言ってこなかったからね。
「ああ、そうだな」
何気なく頷いたところで、俺はルインがめちゃめちゃ嬉しそうな顔をするのを目の当たりにした。
重大な秘密を話してもらったのは自分が最初だと言わんばかりの、それを誇るかのような、輝くばかりの笑顔だった。
「――――」
ちょっと黙り込んでから、俺はルインに向き直って言い添えた。
「あと俺、弟が出来たのも初めてだよ」
ぱあああっと音が鳴りそうな程にルインの顔が輝くのを見て、カルディオスが小さく呻いた。
「――おいルド、弟くんをこれ以上惚れさせてどーすんだよ」
「俺は日常に癒しが欲しい」
こっちも小声で返してから、俺はふと思い付いてルインに視線を戻した。
――コリウスは、多分、今は俺たちと一緒にいても気詰まりなだけだろう。
だからいっそ、ルインに気を配っておいてもらう方がいいんじゃないか?
「こないだ、俺たちが必死に殺そうとしてた奴――いつもなら俺の地位にいるはずの奴な、そいつに返り討ち喰らったときに色々あってさ。
――今まで長年付き合ってきたけど、ここまでぎくしゃくしてんのは初めてだよ」
「コリウスさまですか」
真顔になったルインに確認されて、俺は頷く。
それから、ちょっと躊躇ったものの、ぽん、とルインの頭に掌を乗せた。
「――そう。あんまり詳しく言えねえから申し訳ないんだけど。
ただ多分、あいつ、今は俺たちといるより、言っちゃあなんだけど他人のおまえと一緒にいる方が気楽だと思うんだよな」
こくり、と頷いたルインが、俺の言葉の後半を察して引き取った。
「はい。出来るだけ、お困りのことがないかどうか、コリウスさまのお手伝いをしておきますね」
やっぱ頭いいじゃん、こいつ。
多分こいつなら、必要以上に付き纏ってコリウスに鬱陶しがられたりもしないだろう。
実際、コリウスはだいぶこいつのことが気に入ってる感じだったし。
カルディオスが瞬きして、身を乗り出した。
そして、俺の掌の下に大人しく頭を置いたままのルインをまじまじと見て、思わず口を衝いたといった様子で呟いた。
「――思ってたより、弟くんっていい奴じゃん……」
「だろ?」
別に俺のことではないのだが、照れたように目を伏せたルインに代わって、俺がきっぱりと断言した。
「こいつ、いい奴なんだよ。話して正解だっただろ?」
◆◆◆
ティシアハウスの食堂は二階にあり、一階の広間ほどの広さはないものの、それよりも一回りか二回り狭いだけという、結構な広さを誇っていた。
調度品を含め、全体的に暗色で取り纏められており、床板も磨き抜かれた黒胡桃材だった。
壁紙だけは柔らかみのある白い色だったが、その白があるお陰でまた黒が際立つというか。
そもそも壁も、半ばの位置までは黒胡桃の板材が宛がわれている。
壁と天井の境目にも、同じ木材の梁が覗いていた。
ど真ん中にでかいマホガニーのテーブルが鎮座しており、その真上に低く、巨大なシャンデリアが吊り下げられている。
テーブルの上に等間隔で置かれた、年代物の銀の燭台が、シャンデリアの明かりを燦然と弾いて輝いている。
テーブルをぐるっと囲んで配置される、背凭れの高い繊細な彫刻の施された椅子が幾つあるのか、俺は十を超えた時点で数えるのをやめた。
天井は他の部屋に比べて低かったが、見上げると見事な夜空の絵が描かれており、俺は思わず「おお……」と声を出したほど。
寒い季節のための暖炉もあったものの、今はお役御免となっていた。
奥には物々しい柱時計が聳えていて、年季の入った黄銅色の振り子を、規則正しく揺らして時間を計っていた。
俺たちが夕飯のために呼ばれたのは、午後五時ちょうどだったから、ごぉーんごぉーんと響く時を告げる音色に、俺は思わずびくっと飛び上がったものである。
――ちなみに、風呂から上がって五時まで、俺たちが何をしていたかというと昼寝である。
疲れてたんだよ。
特にカルディオスは、これまで眠るときには常にコリウスやアナベルの存在を意識していたらしく、ようやくまともな壁で彼らから隔離されたことが相当の安心材料になったらしい。
恥も外聞もなく、ソファで泥のように寝こけていた。
そんな彼を叩き起こしたのは俺だったが、だらしなく口を開けて寝ていても絵になるその美貌、もはや妬く気も起きない。
「これねぇ、広すぎて、少人数で変に散らばって食べると会話も難しいのよね……」
と、トゥイーディアが小難しい顔で言っていて、俺たちはどでかいテーブルの隅っこに集まって夕飯を食べることとなった。
正直、ちょっとくらいは分散してもいいんじゃないかとは思ったけど、これまで肩を寄せ合って生きてきた習慣は伊達ではなかった。
カルディオスは、顔を見せるなり駆け寄って来たムンドゥスを鬱陶しそうにあしらいつつ席を決めて、きっちりと編み込まれた彼女の黒真珠色の髪にちょっと触ってから、訝しそうにディセントラの方を見た。
「――こいつ、風呂に入れたの?」
ディセントラは首を振った。
旅の汚れを洗い流した彼女は、周囲の明かりを吸い取って輝くかのように美しく見えた。
「怖くて入れられなかったわ。大人しく待っていてくれて助かったけれど」
そりゃ怖いよね。
こんなに罅割れだらけなんだから、服をいっぺん剥いてみて、風呂に入れてまた服着せて、とかやってる間に割れていきそうだもんね。
――と、俺は納得を籠めて頷き、カルディオスの、ムンドゥスとは反対側の隣に腰掛けた。
カルディオスは、椅子の座面までが高くて上がれそうにないムンドゥスの両脇に手を差し込んで、軽々と彼女を椅子の上に持ち上げてやっていた。
椅子の上にちょこんと乗ったムンドゥスからすればテーブルはやや高かったが、気難しそうにテーブルの上を見渡す彼女は、別にそれに対して不平を言ったりはしなかった。
俺の隣――テーブルの端っこ――にディセントラが腰掛ける。
ゆったりした黒いローブを着ていて、トゥイーディアとディセントラではディセントラの方がやや背が高いから、足首が見えてしまっていた。
貴婦人は人に足首を見せたりしないが、ディセントラはさすがというべきか堂々としていて、そんな彼女を見ていると、ディセントラが身に着けているものは全て彼女のために誂えられたもののように見えてくるからすごい。
ディセントラの隣、本来であれば館の主人が座るべきテーブルの短辺に位置する席に、トゥイーディアが滑り込むように座った。
彼女は濃紺のローブを着ていて、それは彼女のためのものだから勿論のことぴったりの寸法だった。
蜂蜜色の髪には丁寧に櫛が入れられて、緩い三つ編みに纏められて背中に流されている。
埃の薄膜を払ったかのような髪は、シャンデリアの光を拾っていっそうきらきらしていた。
肌も血色が良くなり、俺はこっそり、「トゥイーディアってこんなに綺麗だったっけ」と考えていた。
いや、トゥイーディアはいつでも綺麗だし可愛いけど。
恐らく彼女は、俺たちが暢気に昼寝していた間にお母さんへの挨拶を済ませているだろう。
この格好で墓前に詣でれば、お母さんもさぞかし安心したに違いない。
むしろ可愛くて綺麗な娘を誇りに思うことだろうね。
トゥイーディアとテーブルの角を挟んで隣の位置に、コリウスがゆったりと腰掛けた。
ディセントラの向かいの位置だが、如何せんテーブルがでかいので、距離としては結構ある。
その隣にルインが着席して、最後にアナベルが席に着いた。
アナベルは、位置としてはカルディオスの真向いに腰掛けたことになる。
だがテーブルがでかいために距離があることと、間に銀の燭台が聳えていることで、カルディオスはどうにかこうにか逃げ出すのを堪えた様子。
普通、貴族の晩餐というのは粛々と進む。
だが、この家に普通を求めることは間違いだと既に分かっている。
案の定、椅子の上で振り返ったトゥイーディアは、使用人用の出入り口に向かって気軽に声を上げていた。
「――ねえ、急にこんなに大所帯で帰って来ちゃったけど、食材は大丈夫だったの?」
「ああ、大丈夫」
と、出入り口の方からジョーが応じた。
ちょうど前菜の皿を運んで来ているところだった。
「今朝さ、鶏に餌やりに行ったときにさ、一羽、俺の脚を噛んだ奴がいたの。どうしてくれようって思ってたからさ、さっき絞めた」
ぶっ、とトゥイーディアが噴き出した。
「なるほど、主菜は鶏の丸焼きね」
「うん。めっちゃ頑張ったから美味しいと思うよ」
衒いなくにこにこするジョーは、しかしテーブルの傍まで来ると真顔になった。
俺たちに晒した醜態を反省していると、態度と表情で伝えようとしているようだった。
ジョーの後ろには、二十歳を幾つか過ぎたと見える女性が続いていて、察するにこれがシャルナさんの孫娘のナンシーさんかと思われる。
シャルナさんが着ていたものと同じ意匠のお仕着せを着ているが、雰囲気はまるで違って見えた。
こちらの彼女が着ていると、むしろ溌剌として見えるのだ。
金髪を高く結って項を見せている彼女は既婚だろう。
至極真面目な表情で皿を運んだ彼女はしかし、ふと目を上げてカルディオスを見るや、素っ頓狂な声を上げた。
「――えっ、めちゃくちゃ格好いい……」
さすがのカルディオスも、でかいテーブル越しに配膳途中の使用人からあけすけに賞賛されることは初体験と見え、一瞬固まった。
今までに、カルディオスに見蕩れて粗相をした使用人は星の数ほどいるだろうが、粗相をせずにざっくばらんに褒めてきたのは初めてだったんだろう。
だが、さすがはカルディオス。
すぐににっこりと花のような笑顔を浮かべて、あっけらかんと言った。
言いながら、めちゃめちゃさり気なく、ムンドゥスの頭を押さえて彼女をテーブルの下に隠した。
こいつが彼女の目に留まると厄介なことになると悟ったらしい。
「見る目あるね、お姉さん」
「ナンシー、旦那さんに言い付けるわよ」
トゥイーディアが横槍を入れて、ナンシーさんはてへ、と舌を出して見せた。
本当に使用人か、この人。
「それはご勘弁を」
そう言いながらも、今度はディセントラを見て悲鳴を上げるナンシーさん。
「わあっ、お綺麗ですねえっ!」
「ねえ、お願いだから落ち着いてくれない」
ディセントラが反応するより先に、額を押さえたトゥイーディアが物申していた。
だがそれも無視して、配膳を終えた銀盆を胸に抱え、ナンシーはめちゃめちゃ感動したような顔で俺たちを見渡していた。
別に不愉快ではないからいいけれど、これが客人に対する態度か。
俺の知っている、格式高いレイヴァスの風潮はどこへいった。
「お嬢さまお嬢さま、皆さんとっても格好いいしお綺麗ですね。救世主さまって、あれですか、見目も関係あるんですか」
「ナンシー、私の目を見て言ってみて」
トゥイーディアが苦笑しながらそう言って、テーブルに肘を突いた。
飴色の瞳がシャンデリアの明かりを映して煌めいている。
「私も救世主なのよ。それで、見目が何て?」
トゥイーディアこそ世界一可愛いじゃないか、と俺は真面目に考えたが、ナンシーさんも、きょとんとした様子でトゥイーディアの目を見て言っていた。
「え? お嬢さまはすごく可愛いですよ?」
俺の中で、ナンシーさんが仲間として認定された瞬間だった。
この人、見る目あんじゃん……。
トゥイーディアはしかし、どうやらナンシーさんの言葉を真剣に受け取らなかったようだった。
弾けるように笑ったのだ。
「相変わらずの身贔屓ね。――ジョーが呼んでるから、ほら、行って行って」
確かに、ジョーが出入口のところでナンシーさんを手招いていた。
まだ配膳するものはあるらしい。
「もう、こっちは真面目に言ってるのに……」
と、ぶつぶつと言いながらナンシーさんが踵を返し、それからはたとまたトゥイーディアに向き直って、注釈を入れるかのように伝えた。
「ああ、メリアですけど、珍しいくらい熟睡してるんで、起こすのはご遠慮くださいね」
トゥイーディアはばつが悪そうに顔を顰めた。
「分かってるわよ。無理させたから」
「あの子は、お嬢さまのためなら火の中であろうと水の中であろうと突き進むと思いますけどね」
笑ってそう言って、お仕着せの裾を足首で翻してジョーの方へ走って行くナンシーさん。
それを見送ってから、トゥイーディアは俺たちに向かって言い訳するように呟いた。
「――お父さまのことがあって不安だったところに、私が救世主を引き連れて帰って来たものだから、だいぶ気分が上がっちゃってるのよ。普段はもうちょっと落ち着いた子なの」
「いや、なんかもうね、恐ろしいことに、俺は慣れてきたわ」
カルディオスがあっけらかんと言った一方、コリウスとアナベルは頭が痛いとばかりに蟀谷を押さえている。
ディセントラも少々顔が強張っていたが、辛うじて――といった様子で言った。
「――あなたがここで楽しく暮らしてたみたいで、何よりだわ」
トゥイーディアは思わずというようににっこりした。
どんな宝石よりも価値のある笑顔だった。
続いて追加の皿を運んで戻って来たナンシーさんが、今度は俺たち一人一人を褒めてくれるのを、トゥイーディアはにこにこしながら聞いていた。
何度か義理のように「ちょっとは遠慮しなさい」と水を差していたものの、仲間が褒められるのは嬉しくて仕方がないといった風情だった。
唯一の例外が、ナンシーさんが俺に言及したときだ。
そのときばかりは、ものの見事に無表情になったかと思うと顔を背けていた。
その反応がショック過ぎて、俺はナンシーさんが何て言って俺を褒めてくれたのか、全然覚えていない。
ついでに前菜の味も覚えていない。
主菜が運ばれてきた辺りで正気に戻ったので、今朝ジョーに噛み付いた罪で敢え無く俺たちの腹に収まることになったらしい鶏が、めちゃめちゃ美味かったことは分かった。
料理の腕はオールドレイ一だと言われていたが、確かに。
急な話で下拵えの時間もそんなになかっただろうに。
主菜の後には甘味も出された。
小さく切り分けられたケーキだったが、それを見るなりカルディオスは、「これって酒は使われてないよね?」と、運んで来たジョーに確認していた。
言うまでもなく、蒸留酒が使われたケーキを食べてそのまま爆睡した俺のことを思い出していたのだろう。
「酒を使うのは避けろってお嬢さまに言われましたよ」
と、ジョーがびっくりしたように応じて、トゥイーディアに向かって、「ねえ?」と。
「お嬢さま、あんなにお酒好きなのにね」
「酒に弱いのがいるからね」
俺を指差しながらカルディオスが暴露して、俺はちょっと顔を顰めて、「悪かったな」と呟いた。
甘いものが好きなアナベルは、ケーキを食べて満足そうだった。
滅多にないほど美味しかったからだろうが、珍しくもわざわざジョーを引き留めて、残りがあるかと尋ねていたくらいである。
ジョーはめちゃめちゃ嬉しそうにぱあっと顔を赤くすると、いったん厨房に引っ込んだ後に、三切れのケーキをアナベルに恭しく贈呈していた。
「お嬢さまはね、そんなに甘いもの好きじゃないから、腕を振るってもそんなに喜んでくれないの。
救世主さま、優しいね」
と、美味しそうにケーキを頬張るアナベルの隣でにこにこしていた。
「アナベルよ」
トゥイーディアが瞬時の逡巡ののちにアナベルの名前を伝えて、ジョーは、「そっかそっか」と頷いたあと、
「アナベルさま、明日の朝にも何か甘いものお出ししますね」
「あら、ありがとう」
「無花果のコンポートがありますから、タルトにでも乗せましょうか」
「美味しそうね」
ジョーがアナベルの隣で笑み崩れている間に、ナンシーさんがてきぱきと食後のお茶を配膳してくれていた。
少し苦味のある薫り高いお茶は、甘味と合わせて味わうことが前提にされているのだろうが、これはこれとして美味しい。
配膳を終えたナンシーさんは、立ち去るでもなく銀盆を抱え、トゥイーディアを相手にこのところの食材の値段の相場について話している。
「小麦がすっごく高いんですよ。十ポンドで五レイオンですよ? フレイリーのご近所なのにですよ? 暴利ですよ」
などなど。
トゥイーディアはうんうんと頷きながら話を聞いていて、時折、俺たちの知らない人の名前を出して、彼らの様子を尋ねていた。
食後のお茶までを終えると、俺たちは食堂の後片付けの邪魔になるのみである。
通常ここで、来賓は応接間や撞球室に引き揚げて歓談を開始するものだ。
ここは、さすがのリリタリス家といえども例に漏れないと見える。
トゥイーディアが合図して、ナンシーさんがはっとしたように、「じゃ、応接間にお連れしますね」と言ったので、ようやく常識と邂逅できたといった様子でコリウスは嘆息していた。
が、立ち上がったトゥイーディアに対して、ナンシーさんは手に持っていた銀盆をはい、と手渡した。
「じゃ、私が皆さまを応接間にお連れするので」
「はい、片付けしとくね」
と、当然のようにトゥイーディアも銀盆を受け取ったので、コリウスは愕然とした顔をしていた。
俺もめちゃくちゃびっくりした。
ナンシーさんは、「よろしく」とばかりにトゥイーディアに会釈して、俺たちを見渡したが、そこでふと不安になった様子で、銀盆にひょいひょいと食後の銀食器を乗せていくトゥイーディアをじっと見て、呟いた。
「……お嬢さま」
「うん?」
目を上げたトゥイーディアが首を傾げる。
そんな彼女に向かって、ナンシーさんはやや小さな声で囁いた。
「――大丈夫ですよね?」
息を吸い込んで、トゥイーディアは微笑んだ。
今の今までの、寛いだ表情ではなくて、俺の見慣れた救世主としての微笑だった。
「ええ、もちろん、大丈夫よ」
そうとだけ応じて、トゥイーディアはナンシーの腕を押した。
「ほら、みんなを下に連れてって。――あ、お酒持って行くね、ついでに」
後段はカルディオスを見ながら付け加えたトゥイーディアが、ナンシーさんの視線が自分から逸れた瞬間に小さく息を吐くのを、俺は見た。
ちょうどそのとき、晩餐を始めてから二度目に、柱時計が時を報せる音を鳴り響かせた。七度。
その音の余韻が消えるのを待たずして、俺たちは食堂から連れ出されていた。
時計の音に紛れるような、わざとらしいちょっと調子っぱずれなトゥイーディアの鼻唄の声も、俺の耳には届いていた。
――俺はこのときようやく、この屋敷に到着してからこちら、使用人たちが客人の前ではあるまじき振る舞いを繰り返す、その理由に思い当たった。
如何にリリタリス家が風変わりな風習を持っていたのだとしても、トゥイーディアと一緒に到着したのは救世主である。
普通なら、最上の礼を以て遇するのが当然だ。
旧家に仕えているのだから、使用人の側もそれを弁えているはずだ。
――それが出来ないほどに、トゥイーディアの顔を見て、彼らは安堵したのだ。
目の前で主人が反逆罪に問われて連行され、彼が今どこにいるのかも分からない状況、今までどれだけ不安な思いを抱えて過ごしていたのかは想像に余る。
反逆罪は、大抵の国家で最も重く罰せられる罪だ。
その罪の範囲は本人に留まらず、親類縁者全てに及ぶ。
反逆罪が確定すれば、彼に仕えていた者たちのみならず、その親類縁者も相応の罰を受けることになることは自明の理。
そこに、救世主である当主の娘が、他の救世主を連れて帰還したのだ。
それこそ、腰が抜けるほど安堵したに違いない。
暗雲の中で光明を見たような心情だろう。
だからこそ、破廉恥なまでにはしゃいでしまっているのだ。
――俺ですらそれが分かったのだから、他のみんなにも分かっただろう。
あるいは、もっと前に分かっていた奴もいるかも知れない。
「――ねえ、酒ってさ、どんなのがあんの?」
薄暗い廊下を、ムンドゥスの手を引いてやって進みながら、カルディオスが明るい声を出した。
ナンシーさんは振り返らなかったが、高い声で答えた。
「私にはよく分からないんですけど、年代物のいいやつも置いてあるはずですよ。昔の残りですが」
「そーなんだ」
微笑んで、カルディオスはさらっと呟いた。
「俺、イーディと同じくらいには飲めるから、飲み切っちゃうかもね」
それを聞いた途端、ばっ、とカルディオスを振り返り、ナンシーさんは驚愕の顔。
「……え? お嬢さまと同じくらい、ですか……?」
その表情を掛け燭の明かりで見たカルディオスは、思わずといった様子で噴き出した。
しばらくそうして笑ってから、カルディオスは至宝の如き笑みを浮かべて、歌うように言った。
「そうだよ。
――ねえ、大丈夫だよ。イーディに良くしてくれてありがとね。
俺たち、ちゃんと頑張るからさ」
しばし言葉を失った風情でカルディオスをじっと見ていたナンシーさんは、くる、と前に向き直って、歩を進めながらも両手で顔を覆った。
俺たちは嗚咽する背中を眺めながら、彼女の歩調に合わせて、ゆっくりと廊下を進んで行った。
◆◆◆
応接間にてトゥイーディアを待つことしばし。
宣言通りに酒瓶と酒盃を携えた彼女が、ちょっとわざとらしいくらいににこにこしながらやって来た。
応接間の雰囲気はもはや説明には及ぶまい。
ナンシーさんが去った後の俺たちの間に漂うのは、葬儀かと思うような雰囲気である。
主にカルディオスとコリウスとアナベルのせいで。
トゥイーディアはそれを見て、顔から笑みを拭い取りながら、完全に言い訳の口調で呟いた。
「――ごめんね、本当なら部屋に連れて行くべきなんだけど、シャルナ一人でやってくれてるから、まだちょっと準備が出来てないらしくて」
応接間の扉を開けっ放しにして、まずは酒盃が六つ詰められた小さな籠を、手近なテーブルの上にことりと置く。
ここには八人の人間(一人、人間なのか分からん奴もいるが)がいて、なぜ酒盃が六つなのか、それは考えるまでもない。
俺とムンドゥスを数の上で省いたからだ。
それからトゥイーディアは、苦し紛れの様子で抱えた瓶を持ち上げて見せた。
「あの、飲みます?」
「飲む」
カルディオスが即答して、がたん、と立ち上がったときだった。
――ごんごん、と、正面玄関のノッカーが鳴らされる音が響いた。
くるりと広間の方を振り返り、トゥイーディアは訝しげに眉を寄せる。
「……お客さまが来る予定は聞いてないんだけど」
「俺たちだって前触れ無しで来たじゃん」
ちょっと苛立ったようにそう答えて、カルディオスが大股にトゥイーディアに歩み寄って、ひょい、とその手の中から瓶を取り上げた。
瓶の首の部分を指先で叩くだけで栓を飛ばして、更には無断で籠の中から酒盃を一つ取り出す。
ずんぐりした形の、短い脚の付いた銀の盃である。
立ったまま、とくとくと手にした盃に酒を注ぐカルディオスの方は気にせずに、トゥイーディアはなおも懐疑的な顔。
「そうだけど、さすがに町の人たちも、日が落ちてからここまで来ようなんてしないと思うんだけど……」
くいっと酒を呷って、一息で酒盃を空にしてから、カルディオスは「確かに、あの道って日が暮れてからだと危なそうだよな」と呟き、酒盃をことりとテーブルに置いて、トゥイーディアの顔を覗き込んで首を傾げた。
「俺、見て来よーか? 万が一強盗だったとしても、俺なら安心でしょ」
「強盗はノックしたりしないでしょ」
真顔でそう言ってから、トゥイーディアはひらひらと手を振って、広間の方へ踵を返した。
「それに、万が一礼儀正しい強盗だったとしても、私なら安心でしょ。
座っててよ、見て来るから」
そのまま歩いて行こうとするトゥイーディアの手を掴まえて、「いやいやいや」とカルディオス。
「女の子なんだから」
俺も全く同意見。
カルディオスの心配を笑い飛ばすトゥイーディアと、なおも食い下がるカルディオスが、連れ立って広間の方へ進んで行く。
俺も付いて行きたいんだけど、生憎と足が動かない。
ディセントラとアナベルが、興味を惹かれた様子で座ったまま広間の方を振り返るのに比べて、俺とコリウスは全くの無反応である。
ルインも、立ち上がったはいいものの、カルディオスにふらふら付いて行こうとするムンドゥスの肩を押さえている間に、前に出て行き損ねた様子。
――再び、ごんごんごん、と扉がノックされた。
心なしか、一回目より乱暴な叩き方だ。
奥から、慌てた様子のケットが広間に走り出して来た。
さすがに、夜の訪問者に対して令嬢を前に立たせるつもりはないらしい。
「――お嬢さん! 待って待って、僕が出ますから!」
と叫んでいる。
それが聞こえたのか、トゥイーディアが足を止めて振り返る。
その肩をカルディオスがしっかりと掴まえたものだから、扉に向かおうとしたケットが思いっ切り方向転換して二人の方へ向かい、「あの、お嬢さんから手を離してもらえませんか?」とカルディオスに向かって物申し始めた。
救世主相手に肝の据わった要求だが、カルディオスはびっくりしたような顔でトゥイーディアから手を離した。
それにトゥイーディアが笑い出したところで、三度目の、乱暴極まるノック。
ごんごんごんごんごんっ! と立て続けに均される扉の方へ、結局のところケットを先頭にして、トゥイーディアとカルディオスも向かって行く。
「――何やってんだか」
そのごたごたを見守り、アナベルが端的に一言。
玄関扉は二重になっているが、内側の扉は暖かい季節ゆえに開け放たれている。
外側の扉までの小部屋のような空間を通ったケットが、扉に設けられた小窓を開けるのが見えた。
さすがに、夜分の来客に対していきなり扉を全開にして歓迎する気はないらしかった。
「――あの、どなたです?」
小窓の向こうは、恐らく夜の闇に包まれていることだろう。
来客の顔も見えないに違いない。
そのため、まずは誰何の言葉を投げたケットの語尾から、一拍。
「――遅いっ!!」
広間を通り抜けて応接間まで轟くほどの大喝が聞こえてきた。
さすがに不穏な空気を感じたのか、ディセントラが立ち上がる。
そして、当然の顔で俺の腕を引っ張って立たせた。
「なんだよ」
「なんだよ、じゃないわよ。何かあったらあんたが盾になりなさい」
そんなことを言われながら応接間から引っ張り出され、俺は目を丸くしてトゥイーディアとカルディオスを指差して見せた。
「あの二人に? 一般人相手に盾が要るか?」
我ながら薄情な台詞を吐いた俺だったが、ディセントラは呆れたように溜息を落とし、
「違うわよ」
と。
「あっちの彼よ。何かあったら守ってあげなさい」
あっちの彼、とは、言うまでもなくケットのことである。
「いや、あの二人がちゃんと守るだろ……」
不平を言いつつも、ディセントラに腕を抱え込まれて引っ張られている以上、俺に逆らう権利はなかった。
玄関では、大喝にぱちくりと目を瞬かせたケットが、「……は?」と、魂の籠もった疑問の声を上げていた。
「どなたです? 何の御用です?」
「開けろ、シャルナかジョーかオーディーを呼んで来い」
扉の向こうの何者かも堂々たる態度で言い返してきている。
トゥイーディアは、耳馴染んだ使用人の名前を聞いて、どうやら相手がゆえもなく扉を乱打しているのではないと判断したようだった。
「ケット、ちょっといい?」
と、ケットの手を引っ張って下がらせ、扉を開けようとする。
それに対してケットが、「狼藉者だったらどうするんですか!」と抵抗し、そろそろこの騒ぎに飽きてきたらしいカルディオスが、「落ち着けって、俺がいるから」などと嘯く。
トゥイーディアは首尾よくケットをカルディオスに押し付けたが、そこで俺たちの後ろから、
「――何ごと?」
と、きょとんとした様子のジョーが顔を出してきた。
前掛けでわしわしと両手を拭っているところを見るに、晩餐の後片付けの最中に、玄関先の騒ぎを聞きつけたらしい。
零れんばかりに目を見開いて、初老の男性としてはちょっと情けないほどに怯んだ様子ながらも、わたわたと玄関の方へ走り寄ろうとした。
そしてその途中で俺とディセントラと行き会い、ぱちくりと瞬きしてから玄関扉の方を指差す。
料理人の、節くれだった清潔な手だ。
「……あの、えっと、何が……」
俺の腕を抱え込んで連行しているディセントラも、玄関先の騒ぎには呆れているらしい。
軽く首を振って、「ちょうどよかった」と呟く。
「誰かが物凄い勢いで訪ねて来たみたいね。あなたの名前も出していらしたわよ。行ってあげてくださらない?」
絶世の美少女に上目遣いで見られて、ジョーはぼっと赤くなったが、言われたことには困惑したらしい。
ぼりぼりと頬を掻いて、首を捻る。
「――俺の名前……?」
ちょうどそのとき、カルディオスがケットを後ろに押し遣って、トゥイーディアが玄関扉を開け放っていた。
――初夏の、ひんやりとした夜気が広間に滑り込んでくる。
夜露を含んだ草花の匂いが、清涼に鼻を掠めた。
そして、開け放たれた扉の向こうに、黒い旅装の、上背のある男が立っていた。
「――もう、遅ぇんだよ。脚に根っこが生えてくるかと思ったぜ」
そんなことを言いつつ、男は無頓着に伸ばされた金褐色の髪を掻き上げた。
そして、玄関先から広間に掛けての、なかなかの混沌振りを目に収めてははっと笑う。
「おう、賑やかだな」
誰だよおまえ。
――と、俺は真面目に考えたが、ジョーの反応は顕著だった。
大きく息を呑むと、ばたばたと男に向かって駆け寄って行ったのだ。
「――アーバス! アーバスじゃないか! なんでここに!」
俺、きょとん。
ディセントラもさすがに訝しそうに目を眇める。
カルディオスに至っては「お手上げです」と言わんばかりに両手を広げており、トゥイーディアとケットも、ひたすらに訝しそうにジョーと来訪者――アーバスと呼ばれたが――を見比べている。
駆け寄って来るジョーに焦点を当てて、男はにっと笑った。
ひょい、と片手を上げて、無造作に言葉を投げるみたいに声を掛ける。
「よお、久し振りだな、ジョー。――で、」
男は周囲を見渡して、まずはディセントラをじっと見てから、応接間の扉からこちらを覗くアナベルを注視して、それから自分の近くのトゥイーディアに目を向けた。
そして首を傾げて、がしがしと頭を掻く。
「――娘はアーヴァンフェルンに行ってるって聞いてたが、帰ってるのか?」
カルディオスが、反射のように半歩前に出た。
“娘”と言われて、それがトゥイーディアを指すのだと分かって、トゥイーディアを咄嗟に庇おうとしているのだ。
男はもう一度、視界の届く範囲にいる少女三人を見比べて、肩を竦めて両手を広げた。
「どいつがシンディの娘だ?」
シンディ――即ちシンシア。
トゥイーディアのお母さんの名前。
縁故の人間か? と俺が眉を寄せる一方、ぐい、とカルディオスを押し退けてその前に出たトゥイーディアが、大きく息を呑んで男の顔を見上げた。
そして、唖然とした声で口走った。
「……もしかして――泥棒さん?」
男が、めちゃくちゃ珍妙な顔でトゥイーディアを見下ろした。
カルディオスも、耳を疑った様子でトゥイーディアの後ろ姿を見下ろす。
しばしの沈黙ののちに、ケットが小声で、「泥棒は、そうは名乗らないと思います……」と呟いた。
だが、俺は、俺だけは、トゥイーディアの言葉の意味が分かった。
生憎と表情にも言葉にもその理解は載せられないが、俺がトゥイーディアに寄せる関心を舐めるなよ。
――ガルシアで、彼女の傷を癒しながら聞いた話を、俺はちゃんと覚えている。
トゥイーディアは言っていたのだ。
ニードルフィアの乱の最中、国王の前に連れ出された彼女の父親が、知るはずもないニードルフィア領の収支の情報を暴露することが出来たのは、誰かに帳簿を盗んでもらったからではないかと。
きっと泥棒の知り合いがいたに違いないと。
トゥイーディアはこいつが、その泥棒ではないかと思ったわけだ。
――果たせるかな、男はしばし沈黙したのち、ぼそっと呟いた。
「まあ、確かに、オルトのために盗みをやったこともあるが――」
まじまじとトゥイーディアを見下ろして、男は首を傾げた。
「……あんたがシンディとオルトの娘か?」
こくこくと頷くトゥイーディア。
そんな彼女をしげしげと見て、男は言い放った。
「似てねえなあ!!」
ぴた、と、全ての動きを止めるトゥイーディア。
俺は内心で呻いた。
おっさん、おいおっさん、それは禁句だ。
トゥイーディアはそれを、めちゃめちゃ気にしてるんだ。
男は更に、俺の隣のディセントラを指差して、臆面もなく言葉を続けた。
「俺はてっきりあっちかと思ったよ!
似ちゃあいないが、顔面の綺麗さはシンディに近い」
「――――」
凍り付いたトゥイーディアをちらっと見て、彼女の肩を壊れ物を扱うかのようにそうっと抱いたカルディオスが、剣呑な翡翠の瞳で男を見て、吐き捨てた。
「――なああんた、初対面の俺にぶっ飛ばされるのと、今すぐ前言撤回するのと、どっちがいい?」
活動報告も少し書いています。
よろしければご覧ください。