18◆ 『代償』の話
――夢も見ない深い眠りが途切れて、意識が浮上し始める。
浮上し始めた意識で夢を見る。
夢の中で、俺は繊細な彫刻の施された石造りの長椅子の後ろに立ち、その背凭れに手を突いて、長椅子に座っている人にあれこれと話し掛けていた。
辺りには燦々と日差しが降り注いでいるが、俺たちのいる場所は暖かい日陰。
なぜなら頭上を、蔓の這う日除けの格子屋根が覆っているから。
この東屋は、藤色の花の房が垂れ下がる様を鑑賞できるように造られているのだ。
近くからは小川の流れる音も聞こえてくる。
長椅子に座っている人は、ひらひらした豪奢な翡翠色のドレスを身に纏い、蜂蜜色の髪を長く伸ばして半ばを結い上げている。
結われていない髪は艶やかに彼女の背中を覆って流れていて、それを見た俺は、優しい陽射しみたいな髪だ、と思っている。
口数は多くないが、俺の話を聞いて微笑み、時折上品に口許を隠して笑い声を上げる彼女の――
顔が見えない。顔の、半ばから上は影に覆われている。
それでも彼女が楽しそうなのは伝わってくる。
自分が何を話しているのかも聞こえなければ、彼女の笑い声も聞こえない。
聞こえるのは小川のせせらぎのみ。
それでも彼女も自分も楽しいということだけは分かる。
彼女が気安く笑うようになったので、俺は少しばかりの勇気を出して、彼女の隣に腰掛けても良いか尋ねる。
彼女は驚いたように身体ごと振り返り――
――はっと俺は目を開けた。
部屋の中は明るい。
どうやら丸一日近く眠っていたらしい。
今生ではかつてないほど爽快な目覚めだ。ちゃんとした睡眠って偉大だ。
――それにしても変な夢を見た。
あいつの夢を見るときは、大抵は過去の一幕を見るのに、今日の夢は全く記憶にない……つまりは俺の妄想だろう。
あんな風にあいつとお喋りするのが自身の秘めたる願望かと思うと泣けてくる。
ごろんと寝返りを打って伸びをする。
質素な灰色の天井が見えた。
伸びをした拍子に、ふああ、と声が出た途端、傍で声がした。
「おっ、起きたか」
「あ?」
俺はそっちを見た。
俺が寝そべっている寝台の傍に、壁にくっ付けるようにしてデスクが置かれていて、その揃いの椅子にカルディオスが座って、にやにやとこっちを見ていた。
「…………」
俺は思わず、ぱちぱちと瞬き。
寝過ぎて頭が働かない。
ここ、どこだっけ。昨日何があったんだっけ。
「寝惚けてんなー。でもおまえ、ほんと起きるタイミング良かったよ。今、アナベルが食いもんかっぱらいに行ってるから、戻ってきたら食おうな」
その言葉に応えるように、ぐう、と俺の腹が鳴った。
昨日あんなに食べたのに――昨日――あ、思い出した。
ここはガルシア。
で、俺は昨日、無事にみんなと再会したんだった。
一人いないけど。誰かとっととあいつの話題を出してくれ。
俺からその話題は振れないんだから。
くあ、と欠伸を漏らして、俺はよいしょと起き上がった。
伸びてしまった漆黒の髪をくしゃくしゃと掻き回しつつ、寝台の上からカルディオスに軽く頭を下げる。
「悪いな、完全に独占しちゃって」
「いいっていいって」
カルディオスはにかっと笑って、それから怪訝そうに首を傾げた。
「ってかルド、趣味変わったの? そんなに髪伸ばしてたことないよな?」
「あー」
俺は胸の位置まで垂れる漆黒の髪を一房摘まんで、肩を竦めた。
「いや、ちょっと事情が。みんなに話すときに話すけどさ。――鬱陶しいから切ってくれよ。カルおまえ、器用だろ?」
「おーよ、任しとけ」
カルディオスの返事を聞きながら、俺はぐるりと部屋を見渡した。
狭くはないが広くもない、そんな部屋だ。
俺のいる寝台は壁際で、すぐ傍にはデスク。
入口は俺から見て左手側。入口のすぐ傍には一本脚の丸テーブルが置かれていて、その上に水甕。
そして正面――即ち、寝台がある壁と反対側の壁に、大きな窓が開いていた。窓からは砦が見えている。ここも砦のはずなんだけど、別棟だろうか。
ちょうどそのとき、唐突に扉が開け放たれた。
すわ暗殺か、と俺は飛び上がったが、そんなわけない。
そこにいたのは、両手に一つずつ銀の盆を載せたアナベルだった。
扉を開けたのは、アナベルと一緒にいるコリウスだろう。コリウスは手に、小さな籐細工の籠をぶら提げている。籠から、水の入った瓶の上半分が飛び出していた。
カルディオスはコリウスを見て、意外そうに眉を上げた。
「あれ? コリウスおまえ、今日は非番じゃねーだろ?」
問われたコリウスは黒い絹のリボンで結った銀髪を揺らして首を振る。
「ディセントラと、体調不良だと言って抜け出して来た。僕はディウスに代わりを頼んで、ディセントラはアミアナ嬢に頼んだんじゃないかな」
「おー、そうなの。じゃあトリーももうすぐ来る?」
「そのはずだ」
そんな遣り取りを後目に、アナベルは持ってきた二つの盆をどんっとデスクに置いた。その上には山盛りのサンドウィッチ。
思わず目を見開く俺に、アナベルは彼女らしく素っ気なく言った。
「起きてたのね、食べていいわよ」
「ありがと」
応じる俺に、カルディオスが入り口傍の一本脚の丸テーブルを示しながら言った。
「先に顔洗えよ」
おお、文化的な生活が戻って来た。
地味に感動しながら俺は立ち上がり、水甕の水で顔をばしゃばしゃ洗う。カルディオスがタオルを投げ渡してくれた。
俺がさっぱりしたところで、再び扉が開いた。
そこからひょっこりと顔を覗かせたのはディセントラだ。薔薇色の目で室内を見渡したディセントラが、俺が起きているのを見てにっこりする。
「良かった、起きたのね。あんまり死んだように眠ってるから、起きないんじゃないかって心配してたの」
「来たかトリー」
カルディオスが言って、ぱんっと手を鳴らした。
「じゃあ、食べながら話そうぜ。お互い訊きたいこと山ほどあるだろ」
頷いて、俺は賛成した。
内心ではちょっとじりじりしている。
誰かあいつの話題を出してくれよ。
「――おまえら、いつからここに居んの。ってかいつ再会したんだよ」
サンドウィッチに手を出す前に、素早く俺は言った。遠回りでもあいつの話題に持っていかねば。
「えーっと」
サンドウィッチを一つ手に取り、寝台に腰掛けてからディセントラが首を傾げた。
「最初にここに来てたのはアナベルとカルディオスね」
「そうね」
アナベルが淡々と肯定した。頷くと、肩より上に切り揃えられた薄青い髪がさらさらと揺れる。
「今回は、あたしとカルディオスって幼馴染なの。再会したのはあたしが三歳のときね。カルディオスは――六歳だったっけ?」
「――またか、カル!」
思わず俺は憤然と叫び、サンドウィッチを一つ掴み取りながら奴を睨んだ。
「いつもいつも運良く生まれつきやがって!」
「行いがいいんじゃね、俺」
いけしゃあしゃあとそう言って、カルディオスもサンドウィッチを一つ。
「小さいときは可愛かったな、アニー?」
「うるさいわね。
――ガルシアに来れば誰かとは合流できるんじゃないかって話し合って、ここに来たの。あたしが十歳のときだから、七年前ね」
みんなが生まれる時期に多少の誤差があるのはいつものことだから、俺はかぶり付いたサンドウィッチを飲み込んでから、確認するように言った。
「――ってことはアナベル、いま十七歳? カルが二十歳か」
「そーそー。おまえは?」
「十八。――コリウス?」
「僕は二十一。二人と同じ考えでここに来たんだけど、来るまでに少し揉めてね。入隊したのは五年前だ」
ディセントラに視線を向けると、ディセントラは肩を竦めた。
「私も十八よ、ルドベキア。ガルシアのこと聞いたときから――本当、二歳くらいのときから目を付けてたんだけど、平民じゃ時間が掛かって仕方なかったわ。ここに来たのは三年前」
にこっと笑ってアナベルを見て、アナベルもふっと微笑む。
その様子を見るに、そのときも感動的な再会だったんだろう。泣き虫のディセントラは恐らく大いに泣いただろうが、どんなときでも絶対に泣かないアナベルは、ほろりとも涙を見せなかったことだろう。
いや、アナベルが泣いたのを、俺たちは一度だけ見たことがあるけれども。
――と、それは置いといて。俺は首を傾げる。
「平民? ディセントラ、今回は庶民の生まれか?」
「まあね、久し振りに」
瞳をぐるりと回して、ディセントラは指折り数えた。
「前回は伯爵令嬢だったし、その前は一国の王女様だったし、その前は軍の名門のお嬢様だったし」
「今回は俺とコリウスが身分的には恵まれてる」
カルディオスがぺろりと指を舐めて言った。
「俺は軍人――っていうかまあ、この時代の軍人だから魔術師なわけだけど、そこの偉い人の息子。代々将軍をやってる名家の跡取りらしーぜ」
らしい、という辺り、こいつは自分の社会的地位には全く興味はないらしい。
「僕は今回は辺境伯の息子。一応、皇帝の遠い遠い血縁らしいよ。一人息子だから、周りは僕が次期辺境伯だと思っているからね。ガルシアに入るまで揉めに揉めたよ……」
コリウスは溜息混じりに言った。
俺はますます首を傾げる。
「ん? アナベルは? カルと幼馴染なんだろ?」
「あたしはね」
アナベルはちらっとカルディオスを見て溜息。
「カルディオスの家の使用人だったの。正確には、カルディオスの乳兄弟の従妹ね。今回の両親はあたしが三歳のときに亡くなったから、伯母だったカルディオスの乳母に引き取られたわけ。そこで再会」
なるほど、と俺は頷き、内心で「さあ来い」と身構えた。
ここまで来たら誰かあいつの名前を出せよ。
が、俺の期待を裏切って、カルディオスが話を脱線させた。
「あのときのおまえの絶句した顔は見ものだったな」
アナベルは派手な溜息を吐いた。
「うるさいわね。あなたは涙ぐんでたでしょう」
「だって五年ぶりだったし。最後に見たおまえは酷いもんだったし」
あっけらかんと笑ってそう言ったカルディオスは、態度にはおくびにも出せないが、内心でがっかりしている俺を振り返った。
そしてちょっと顔を顰めると、びしっと俺を指差してきた。
「――ってか、ルド! おまえ相変わらず過ぎるぞ!」
「あ?」
そう返した俺の表情は平淡だろう。
むしろ面食らっているようでさえあったかも知れない。
でも俺の内心は、カルディオスに向けた喝采で埋まっていた。
きた、間違いない。カルディオスがこう言い出すとき、その話題は決まっている。
「一人欠けてるの分かるだろ! なんで一言も触れないんだよ!」
俺は息を吸い込んだ。
表情は変わらないだろう。
声音は面倒そうですらあるかも知れない。
でも心臓は密かにばくばくと打っていた。
――これなら。この流れなら、俺はあいつの名前を出せる。
「ああ、――トゥイーディアだろ」
久し振りに声に出したあいつの名前に、俺の心臓はぎゅっとなった。
でもそれを、俺は表情にも仕草にも、ましてや言葉にも出すことができない。
「そうだよ! おまえさ、なんでいっつもイーディにだけ無関心なわけ。結構世話にもなってるだろ?」
そう説教を垂れてくるカルディオスに、俺は顔を顰めてみせることしか出来ない。
けれど内心では、もはや泣き出しそうですらあった。
――そうだろう、無関心に見えているだろう。
俺はあいつと目を合わせない。用が無ければ話すこともない。
名前を呼ぶことすら滅多になくて、例えばこれまでの人生で、最初に再会したのがあいつだったときでさえ、俺は無感動な会釈ひとつで再会の挨拶を済ませたくらいだ。
他のみんなと接するときと、温度差があり過ぎるその態度が、もう何百年も続いている。
だから俺とトゥイーディアは、みんなの中で唯一の、犬猿の仲の二人なのだ。
――だけどな、違うんだよ。
俺がこの十八年、泣きそうになるとき、折れそうになるとき、何を脳裏に描いてきたか、ここにいるみんなが知ることは絶対にないだろう。
いつだって俺が瞼の裏に思い描いていたのが、トゥイーディアの、あの強くて真っ直ぐで決然とした、飴色の瞳なんだってことを。
――この長い人生の上で、最初から知っていたのか、あるいは徐々に自力で気付いたのか、よく分からない自分の中での不文律が俺にはある。
推測だけど、他のみんなにもある。
この不文律のことを、俺は「代償」と内心で呼んでいた。
何に対する代償かは自分でもよく分からないが、記憶にある限り昔から、内心でそう呼んでいた。
――転生することへの代償だろうか、みんなと仲良くやっている代償だろうか。
俺の代償は、〈最も大切な人に想いを伝えることが出来ない〉というもの。
俺のこの感情が、言葉としても仕草としても、そして他人を通しても、決してあいつに伝わることがないという代償。
なおも説教してくるカルディオスに、俺は醒めた顔を見せている。
俺があいつをどう思っているか、ここにいるみんなに伝わることのないように。
みんなに俺の気持ちが伝われば、それは間違いなくトゥイーディア自身にも伝わっていくから。
だから、不可視の力で強制されるのはこの無関心な態度だ。
――なあ、カルディオス、違うんだよ。
みんなが困ったように俺を見ている。
どうして俺がトゥイーディアを嫌っているのか、俺の幼稚な態度がほとほと手に余るとでも言いたげに。
――だけどな、違う。
――俺はトゥイーディアのことが大事なのだ。
いつからこう思っていたのかは分からない。
でも記憶にある限りはずっと、何よりもトゥイーディアのことが大切だった。
代償のせいで、俺があいつを視界に収められることは少ないけれど――俺の視線がたぶん、雄弁に俺の気持ちを語るからだろう――、それでもいつも、誰よりも先に会いたいのはあいつだったし、あいつが死ぬよりは俺が死ぬ方がよっぽどマシだった。
救世主を経験したあいつが俺のことを忘れているのは胸が痛かった。
――だから、俺はあいつに無関心に接さざるを得ないのだ。
何に対する代償だろうか、でも意志の力ではどうしようもないほどに強制されるのだ。
――俺の最も大切なトゥイーディアに、俺の気持ちがどうあっても伝わることのないように。
それでもあいつは、俺のピンチには駆け付けてくれた。
俺が危機的状況に陥っているのが分かれば、日頃の蟠りなんて放り捨てて、真っ先に駆け付けてくれた。
――それでも俺は最低限の礼しか口に出来ない。
優しい陽射しみたいな蜂蜜色の髪に、強くて真っ直ぐな飴色の瞳。
トゥイーディアは今どこにいるんだ。