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24◆ 令嬢、帰郷

 リリタリスの荘園まで半時間、馬車は延々と大自然の中を進んだ。


 いや、よく見ると人の手が入っていることは分かるんだけど、大自然だと言いたくなるくらいに自由奔放な森だった。


 細い木々はそれほど鬱蒼と茂っているわけではなくて疎らで、木漏れ日が降り注ぐ様は美しく、小鳥の声があちこちから聞こえてくるのは牧歌的だった。


 馬車が進むのは、かなり昔に敷かれたのであろう、板木を隙間なく並べて作られた道の上だった。

 がらがらと響く車輪の音に、ぎしぎしと木が軋む音が混じる。

 所々では木が割れたり腐ったりしている場所もあって、相当に古い道だと分かる。

 落ちた小枝や葉っぱが道の上に散らばっていて、道そのものが地面に埋没して消えていっていないのが不思議なほどだった。


 やがてせせらぎの音が聞こえてきて、馬車は頑丈そうな石の橋を渡った。

 馬車の外を振り返って見降ろすと、清涼な水流が淀みなく光を弾いていた。

 生い茂る草花に挟まれた水流は、決して深くはなさそうだったが、それなりの川幅がある。小川というか川というか、悩むくらいの川幅だ。



 木漏れ日が贅沢に零れる中を、がらがらぽくぽくと馬車が進む。


 俺は思わず目を細めて寛いでいたし、全員似たり寄ったりな反応だった。

 アナベルに至ってはうたた寝していて、コリウスは割と真面目に、アナベルが自分の方に寄り掛かって来ないよう、適宜ディセントラの方へ押し戻す作業を挟んでいた。


「――絵の中みたいねぇ」


 ぽそ、とディセントラが呟いて、トゥイーディアがぱっと顔を輝かせた。

 本当にこの荘園が好きらしい。


「でしょ? あのね、見えないんだけど、ずっと向こうの方に礼拝堂みたいな場所があるの。小さい頃は入り浸ってたんだけど、すっごく雰囲気がいいから、また案内するわね」


 左手の方を一生懸命指差すトゥイーディア。


 代償がなければ思わずその頭を撫でていたかも知れない。

 そのくらい可愛かった。


「イーディ、お墓に入り浸ってたの?」


 ディセントラが瞬きして尋ね、トゥイーディアはふるふると首を振る。


「ううん。レイヴァスでは主館(おもや)の傍に造られるのが普通よ」


 ディセントラが首を傾げる。俺も全く同意見。


「――お墓がないなら、どうして礼拝堂があるの?」


 祀るといえば死人くらいだろう。


 死人というか――正確には、〈魂は巡り巡って決して滅びない〉と絶対法に定められているがゆえに、人は普通、親しい人の死後を祈るものだ。

 もっと言えば、親しい人との縁が魂と一緒になって生き続けて、自分たちを守ってくれていると信じられているものだ。


 つまり、礼拝するとすれば死者に対して。

 それゆえ、墓と礼拝堂が離れている意味が分からないのだ。


「さあ、多分、昔は何かの行事で使われてたんだと思うけれど。

 まあ、礼拝堂っぽいって私たちが思ってただけで、実際はただの離れかも知れないしねぇ」


 トゥイーディアも首を傾げ、俺は内心でびくっとする。



 ――私()()? “たち”って誰だ? トゥイーディアと、誰だ?



 誰かがそれを訊いてくれればいいのに、みんながそこを無視してしまった。


 ディセントラは、ふわ、と優雅に欠伸を漏らして、行く手を透かすように眺め遣る。


「ねえ、イーディ。どこからがリリタリス卿の荘園なの?」


 訊かれて、トゥイーディアは肩を竦めた。

 御者台のミドーの親父さんも肩を震わせる。


「――実を言うとね、あんまりはっきりとは分かんないのよね」


 事も無げにトゥイーディアはそう言って、「ね」とメリアさんと目を合わせる。

 メリアさんも苦笑していた。


「一応、屋敷の手前に柵と門はあるんだけど、それって荘園と庭を分けるためのものだったらしいし。今ではその外側も庭の扱いだし。

 昔は小作さんもいっぱいいて、荘園のあちこちに手を入れてたらしいけれど、この頃は小作さんもいないしねぇ。荘園とその外って、あんまり区別されてないのよ」


 緩い。


「小作さんが離れたから貧乏になったんじゃないの?」


 ディセントラが遠慮会釈なくそう言って、トゥイーディアは「そうかもね」と笑い出した。


 アナベルが眠っているからだろうが、随分と寛いでいるように見えた。


「はっきりとは分からないけど、そうかも。でもまあ、別にいいかなって」


 淡く微笑して、トゥイーディアは周囲を見渡して息を吸い込んだ。


 青いドレス姿のトゥイーディアは、それこそこのまま絵になるくらいに綺麗だった。

 いや、絵にしてしまうのも勿体ないか。


 こてん、と首を傾げたトゥイーディアの蜂蜜色の髪が、木漏れ日を拾ってきらきらと光る。

 瞳もまた、光を拾って複雑な色合いの水面みたいに煌めいた。


「――ほら、ここ、綺麗でしょ?」


 ディセントラが息を引いて、頷いた。


 その隣のカルディオスはちょうど、低く垂れている木の枝にムンドゥスが背伸びして手を伸ばそうとするのを、すんでのところで引き留めたところだった。


 風が吹いて、ざわざわと梢が揺れる音がする。土と花の匂いがする。


「……イーディの故郷(いなか)が綺麗すぎて、」


 と、カルディオスはちょっと疲れたように、外套を被せたままのムンドゥスの頭を押さえた。


「――こいつがいつ馬車から転落するか冷や冷やしてんだけど、俺」


「あら、ごめんなさい」


 トゥイーディアがお道化たように応じて、カルディオスも、ふっと顔を緩めた。


 ディセントラも小さく噴き出して、俺も――主にカルディオスの方を見ながらではあったものの――、笑ってしまった。



 そして俺はそのとき、ちょっとだけコリウスの唇が綻ぶのを見た。



 ――ほんの一瞬のことだったが、でも、見間違いではなかった。


 確かにコリウスの表情が緩むのを、俺は見たのだ。



 コリウスの顔が緩むのを見たのは、いつ振りだろう。



 そのことに息を呑んでいると、「あ、門だ」とカルディオスが呟き、俺は咄嗟に前方を振り返っていた。


 心臓が、変な風に脈打っていた。

 気が動転したようになって視線が定まらず、息を吸うのがしばらく難しかった。


 変に指摘したりしたら、コリウスは二度と笑ってくれないかも知れないと思ったが、それでもちょっと泣きそうになった。


 ゆっくりと息を吐いて、また吸い込む。

 そうしているうちに視線が定まって、俺はカルディオスが言った門を視界に認めた。


 視界の先で森が途切れていて、そこからしばらく進んだところに門がある。


 門の内外を隔てているのは、三ヤードくらいの高さの、華奢な印象の鉄柵だった。

 上の方が優雅な蔦を模した飾りを連ねたものになっていて、防衛のための鉄柵というよりは、単なる装飾のように見えた。


 鉄柵に開く門は堂々と開け放たれていて、門自体も唐草を模した鉄格子で出来ていた。

 門の上には浮彫細工を施された鉄製のプレートが掲げられていたが、光の加減もあって浮彫細工の詳細は見えなかった。

 普通は、この館の名称が記されていると思うんだけど。


 ここまで続いていた板木の道は、門を入った途端に煉瓦の道に変わっている。


 門の向こうには延々と庭園が続いていて――庭園にも川があった。さっき通った川の流れの一部なのか、それとも別の流れなのかは分からない――、その先に、夥しい数の窓硝子を陽光に煌めかせる、リリタリス邸の主館おもやが堂々と聳え立っていた。


 淡い灰色の、歴史を感じさせる石造りの館。


 尖塔を備え、その尖塔を中心に、左右対称に見事に広がっている。

 多くの煙突が突き立っていて、折しもその一つから、ゆらゆらと煙が吐き出されていた。


 主館の左手に広がっている、無数の石盤が並んでいる場所、あれが墓地か。



 ――思っていたよりもでかいし、綺麗だ。



 俺がそう考えていると、トゥイーディアが少しばかり誇らしげに宣言した。


「ティシアハウスへようこそ」


 一秒の間を置いて、誰も何も訊いていないのに、トゥイーディアは補足するように言い添えた。


「――ティシアっていうのは、リリタリスの初代当主さまの娘の名前ね」


 ミドーの親父さんは、勝手知ったる他人の家とばかりに、寸分の躊躇もなく馬に鞭を当てて門を潜り、そのままぽっくぽっくと馬車を進ませ続けた。


 ディセントラは違和感拭い難いという顔をしていて――貴族の経験の長い彼女からすれば、他家の敷地にあっさりこうして入ってしまうことが、相当に居心地の悪いことらしかった。



 庭園は、造り上げられた景観美という感じではなくて、自然にちょっと手を入れてみたといった風情だった。


 俺はこういう庭の方が好きだな、と何となく思っているうちに、馬車はがらがらと音を立てながら、品のいい石の橋を渡った。

 石を組んで橋を架けたというよりも、川の上に元からあった大きな石を彫り抜いて造ったかのような橋だった。

 大抵の建物が淡い色の石で造られていたから、この辺ではそういう色の石ばっかり採掘されるのかと思っていたが、この橋は黒々とした色をしていた。


 揺れる馬車の上で、ちら、と振り返って川面を覗き込む。


 人工物なのか天然のものなのか、随所に小さな中洲のある、ここが庭園であると忘れてしまいそうな川である。

 すげぇな、と考えていると、光る水面の下に、ゆったりと泳ぐでかい魚が見えた。


「――おお、魚がいる」


 年甲斐もなくちょっとはしゃいだ声を出すと、ルインが、「え、ほんとですか」と俺と同様に後ろを振り返る。


 こうしてるとほんとに兄弟みたいだな。

 弟なんて今までにいたことないから、どんな感じか正しくは知らないけど。


 魚についてもトゥイーディアから何か解説が入らないかなと思ったが、トゥイーディアは俺の声など聞こえてもいない様子で無視していた。

 あるいは何の所以もない魚なのかも知れないが。


 俺の精神的な安寧のために、後者であることを祈る。


「わあ、大きいですねえ」


 ぴしゃん、と尾びれで水面に漣を立てる魚を認めて、ルインがちょっと身を乗り出す。


 ちょうどそのとき、すぃーっと滑空してきた鷺が、中洲の一つに優雅に着地した。

 そのまま、折れてしまいそうな細い脚をすっ、すっ、と動かして、気取った仕草で川の傍まで歩いて行く。



 川辺には灌木の茂みや大きな岩もあり、ちょっとした探検が出来そうだった。


 恐らく幼少期のトゥイーディアは、ここで大いにはしゃぎ回っていたことだろう。

 川のある環境で育ったということは、恐らく今の彼女は泳ぐのも得意なんだろうな。


 箱入りで育った俺とは大違いだ。



 がらがらと馬車は進み、橋を下りたところで、俺とルインは正面に向き直った。


 そして、ディセントラが声を殺して笑っているのを見た。

 ルインは恥じ入った様子で俯いたが、俺にそのしおらしさはなかった。


「うっせぇ」


 思わずディセントラに向かって物申したそのとき、アナベルがぴくっと身動(みじろ)ぎして目を覚ました。

 目を瞬き、ぼんやりと周囲を見渡して伸びをして、目を擦ってからびっくりしたような顔をする。


「――あら、もうお屋敷なの?」


「ずっと寝てたものね」


 ディセントラが穏やかに言って、トゥイーディアの方へ首を傾げた。


「ねえ、イーディ。突然帰って来て、お屋敷の人はびっくりしないの」


 トゥイーディアが苦笑した。

 そして、勿体ぶるようにすっと右手の人差し指を立てる。


「そうね、――懸念があるとすれば」


 口許を隠して、メリアさんがふふっと笑った。

 トゥイーディアは肩を竦めて。


「ジョー――ああ、厨房の主だけど――彼が、晩餐の品数について大騒ぎすることくらいかしら」


「シャルナさまもですよ」


 メリアさんがそっと言い添えた。

 ここまで帰って来られたのが相当に嬉しいらしく、声は弾んでいた。


「きっと、皆さまにお休みいただくお部屋のご準備で大騒ぎになりますよ」


 そうね、とトゥイーディアがいっそう顔を綻ばせたときにはもう、主館は目の前だった。



 主館の、巨大な正面玄関の真上にはバルコニーがある。


 バルコニーの欄干が、凝った梟と鷲の彫刻で飾られているのが見えたが、振り仰いでいると太陽が目に差して眩しいので、俺はすぐに目を瞬かせながら視線を落とした。



 中天に座す太陽の光が、主館の尖塔の陰に隠れた。


 それと同時に、がたん、と馬車が停まった。

 慣性で俺たちはよろめいたが、トゥイーディアはいち早く立ち上がり、ドレスの()()()からレイオン紙幣を取り出していた。


 金額までは見えなかったものの、御者台の親父さんの肩を叩いて、振り返ったところにそれを握らせている。


 手許に視線を遣った親父さんのびっくり顔から推すに、相場よりも相当弾んだ金額だったのだろう。


「えっ、お嬢さん、これ」


「口止め料込みよ」


 にこ、と微笑んで、トランクを手に軽やかに馬車から飛び降りたトゥイーディアが、片目を瞑って唇に人差し指を当てた。


 視線は親父さんに向いていたが、流れ弾で俺の心臓が止まった。


 え、可愛い。


「黙っててくれてありがとう。救世主を乗せたってこと、みんなには内緒にしてくださいね」


 破顔するトゥイーディアに、親父さんは「ええ」だが「はい」だか、不明瞭な声を出して御者台であたふた。


 そうこうしている間に、俺たちも立ち上がって馬車から下り始めた。


 降りて見上げてみれば、幅広の二段の(きざはし)の上に聳える扉は巨大だ。

 黒檀だろうか、黒々として艶があって美しい。

 繊細な金細工の紋様があしらわれていて、ドアノッカーまで装飾品のようだ。


 トゥイーディアは一瞬、勝手口や裏口に回るかどうかを思案したようだった。


 だが、ちらっと俺たちを見て、来客を連れているのに正面玄関を避けるべきではないという考えに至ったらしい。

 無造作に扉まで駆け寄って、ドアノッカーを持ち上げた。


 例によってメリアさんが、「わたくしがやりますのに……」みたいな顔をしている。


 こんこん、と音が響き、しかし無反応。

 トゥイーディアはしばし気長に待つ風情を見せたが、一分ほどでいらっときたらしい。


 再び、今度は強めにノッカーを動かした。



 貴族の帰宅は、庶民のように懐から鍵を取り出して手ずから扉を開けてただいま、というわけにはいかないのだ。


 大体、屋敷の主だって鍵は持っていないことが殆どのはずだ。

 留守役に預けるのが常道だろう。



 トゥイーディアが、(恐らくは帰宅を叫ぼうとして)息を吸い込んだそのとき、がちゃっ、と音がして、重厚な扉が驚くほど滑らかに内側に向かって開いた。


 そして直後、悲鳴じみた声が上がった。


「――うっそだろ、お嬢さま、一報くれよ!!」


 ディセントラとコリウスが、喉の奥で「は?」みたいな声を出した。


 確かに、使用人が主人に向かって叫ぶ第一声には不適切過ぎる一言だった。


 だがトゥイーディアは怒った様子もなく、吸い込んだ息をゆるゆると吐き出して、言葉を口から落っことすみたいにして言っていた。


「ただいま。

 ジョー、厨房からここまでご苦労さま。

 で、ねえ、お父さまはどこ?」


 俺は半歩左に動いて、トゥイーディアの向こうに立っている人物を視界に入れた。



 ――初老の、上背のある男性だった。


 赤みのある茶色い髪を短く刈り込んでいて、身に着けているのは料理人然とした白衣。

 茶色い前掛けでおたおたと手を拭きながら、髪色と同じ赤み掛かった茶色い目を零れんばかりに見開いている。



「――え、旦那さ……え、マジか、なんで知ってんだ、えっと、――え? お客さま?」


 もはや言葉のていを成していない言葉をぼろぼろと零しながら、男性――ジョーというらしいが――が、ようやくトゥイーディアの後ろに目を向けて、ますます大きく目を見開いた。


 年齢の割に若々しい喋り方をする人だ。


 大混乱、といった様子のジョーは、取り敢えず知った顔を見付けて安心したらしく、唐突にぱあっと笑顔になると、右手を突き上げるようにして振った。


「おう! おう、おう! ミドーの旦那、ありがとな! 金は? え、もう貰ってる? んじゃお嬢さま、後で金額教えてくださいね、シャルナに言ってお小遣い出してもらいましょうね」


 色々と急すぎて混乱しているらしきジョーは、習慣のようにそう言って、習慣のようにトゥイーディアの頭を撫でた。


 トゥイーディアは邪険にぺいっとその手を振り払い、一歩屋敷に踏み込み(ジョーがたじたじと一歩下がった)、もはや気迫すら籠もった声で繰り返した。


「――お父さまは、どこ?」


「お、俺が殺されるよぉ」


 情けない声を出すジョー。


「ヒルクリード閣下から、旦那さまのことはお嬢さまには言うなって命令されてたんだよぉ」


「きみの主人はお父さまでしょ。今は私がその代理人よ。私の命令以上に重んじるべきものがある?」


 なおも一歩ジョーに詰め寄り、トゥイーディアが彼に指を突き付ける。



 俺たちはぽかん。

 何ならミドーの親父さんも置いて行かれてぽかん。


 トゥイーディアは真剣なんだけど、何しろ常識と懸け離れた遣り取りを見せられているので、ぽかんとするしかない。



「お父さまはどこ?」


「分かんねえよぉ」


 ジョーがたじたじと答えた。


「いッきなり旦那さまが連れてかれて、俺たちもどうしたらいいか分かんねえとこにヒルクリード閣下がいらして、お嬢さまには何も言うなって言われたんだよぉ。

 新聞見るまで全然何が何だか分かってなかったんだって。何なら今も何も分かってないんだって。

 なんでお嬢さまが戻って来てんのさ?」


 両手を振って力説するジョーに、トゥイーディアの雰囲気がどんどん剣呑になっていく。


「分からない? 連れて行かれるとすれば領都か王都でしょ、それも分からないの?」


「俺に言うなよぉ。近々ハンスさまがいらっしゃるから、そのときに訊いてくれよぉ」


 眦を下げたジョーは、いきなりばっと両手を広げ、そのままがっしりとトゥイーディアを抱き締めた。


 今度はカルディオスが、喉の奥で「は?」みたいな声を出した。


「お嬢さまあああ、戻って来てくれてありがとねえええ。俺たちじゃもうどうすればいいか分かんなかったよぉ。

 旦那さまだって、丸腰でだって役人連中くらい殴り飛ばせただろうに大人しく付いて行っちまうしさあああ、俺たちもう見捨てられたかと思ったよぉぉぉ」


 臆面もないその叫びに毒気を抜かれたのか、剣呑な雰囲気を霧散させたトゥイーディアが、まるで大型犬をあやすかのようにジョーの背中をぽんぽんと叩く。


 一方メリアさんは、「当家の恥を見られた……」みたいな顔で片手で顔を覆っている。


「ああ、はいはい、問い詰めて悪かったわ。

 ねえ、シャルナはどこ? きみよりだいぶしっかりしてると思うんだけど……」


「お嬢さまひどいぃぃ、誰がお嬢さまの離乳食作ったと思ってんですかああ」


「きみですね、はいはい」


 離乳食。


 俺たち全員、何とも言えない顔になる。


 それを見たメリアさんが、とうとう堪りかねたかのように前へ出て、自分の荷物をどんっと地面に置いたあと、べりっ、とトゥイーディアとジョーを引き離した。


「ジョーさん、見えないんですかっ! お客さまですっ! 大事なお客さま方ですっ!

 こんなとこでべそ掻いてないで、さっさと厨房で今日の晩餐の献立を考えて来てくださいっ!」


 つ、強い……。


 ジョーはしばしぽかんとした後、俺たちをもう一度見て、「やっべぇ」みたいな顔をした。


 どう控えめに表現しても、やばい現場を見てしまったことに間違いはないので、俺たちは取り敢えず無言で目を逸らした。

 普通の貴族の邸宅でこの振る舞いがあれば、順当にいって鞭打ちくらいの罰は受けるだろうに。


「えっ、あっ、あのっ」


 おたつくジョーに、トゥイーディアははあ、と溜息を零し、ちょっと背伸びをして、ぽん、とその肩に手を置いた。

 表情が、悪戯っぽくにやりと動いた。


「ジョー、あのね、きみを追い詰めたいわけではないんだけれど」


 その声音にただならぬものを感じたのか、ジョーがトゥイーディアに視線を移し、「ひっ」と喉の奥で声を立てた。


「待っ、あれっ、そういえばお嬢さまって――」



「あの人たち、救世主だから、そのつもりでお願い」



 めちゃめちゃ重々しくそう言ったトゥイーディアに、ジョーが白目を剥いた。


「……おい――」


 コリウスがさすがに苦い顔で言い差したところで、踵を床に下ろしたトゥイーディアが、ぽんっ、とジョーの背中を叩く。


「はいっ、じゃあ、ジョー。ここは私が誤魔化しておくから、シャルナを呼んで来て。その後は厨房で、今日のお夕飯に精を出してね。あ、今はお昼の最中なのかな?」


 ガルシアで隊員たちを相手にしていたときとはまるで違う、本心からの寛ぎ切った声だった。


 あたふたと頷いたジョーが、踵を返してばたばたと館の奥へ走って行く。

 それを見送ってから、トゥイーディアがこちらを振り返った。そして、にこっと笑った。


「ミドーの親父さんも、ありがとうございました。もう大丈夫ですよ。

 ――あと、きみたち」


 俺たちを見回して、トゥイーディアは決まり悪そうに微笑んだ。

 重厚な扉に寄り掛かるように立って、大きく息を吐いて、彼女は肩を竦めて首を傾げる。


「みっともないところを見せてごめんね」


 常識から懸け離れていたことは確かだが、微笑ましいの間違いでは。



 息を吸い込んでから、トゥイーディアは軽く頭を振って、俺たちを小さく手招きした。



「でもまあ、入って。

 多分すぐに、さっきの彼よりしっかりした人が来てくれるから」










「ご入浴を」


 と、老嬢は言った。




 (ところ)は、リリタリス邸――ティシアハウスの主館(おもや)、その広間(サルーン)



 玄関扉は、寒冷地とあってこの館も二重になっており、その二つめの扉を潜った先にはすぐに広間が広がっていた。


 客人をここで寛がせることを前提とした、内装に凝った広間である。


 右手には大輪の花を模した彫刻が施されたマントルピース、その傍には談笑用のソファとローテーブル。

 更には食卓にもなりそうな、豪華なクロスが掛けられた円卓と椅子まで鎮座しており、俺は五回くらい、「リリタリス家って貧乏なんじゃなかったっけ?」という言葉を呑み込む羽目になっていた。


 まあ、裕福だった時代の資産を今に残しているというだけなんだろうけど。


 その証拠に、内装に真新しいものは一つもないし。

 全部使い込まれた感じがしているが、だが、それがまたいい。

 俺は好きだな、こういうの。

 内装も全部、木材は温かみのある色合いのもので揃えられているし、タペストリーの意匠も素敵だし、好きだな。


 広間は、ここで舞踏会でも出来るんじゃないかと思うくらいに広い。


 なんと、奥にもう一つの広間があるのだ。

 柱と柱の間をアーチで繋ぎ、その向こう側にも、ローテーブルとソファが置かれている。

 二つの広間が続き部屋になっているようなものだ。

 こっち側のソファが二人掛けのものなのに比べて、向こう側のはもっと大きく、ローテーブルを囲むような形だった。

 簡単な手札の遊戯とか盤上遊戯も指せそうだ。

 いや多分、このでかさの家には、そういう遊戯を楽しむための撞球室もあるんだろうけど。

 壁には風景画も掛けられている様子。


 窓は一方向、玄関のある壁に大きなものが開いているのみ。

 建物の奥行があり過ぎて、他には窓を造れなかったんだろうと分かる。


 その代わりとばかりに、シャンデリアやら掛け燭やら卓上の燭台やら、照明になるものは大量にあった。



 ――文化の違いを如実に感じる間取りである。



 アーヴァンフェルンであれば、玄関広間は素っ気ない。

 ソファどころか椅子の一つも置かれないのが通常で、歓迎されない客はそこで追い返すことが前提の造り――正規の客だけを、その奥の応接間へ通すことが前提とされているのだ。


 それに対してレイヴァスでは、取り敢えず最初にもてなしの意を見せることになる間取りになっている。




 さてそんな場所で立ち尽くし、俺たちは老嬢の断固たる言葉を拝聴している。


 言うまでもないが、黒いお仕着せを身に着けたこの方こそがシャルナさんである。

 アーヴァンフェルンでよく見るお仕着せよりも、ドレスに近い形のお仕着せだ。

 お堅いお国柄がよく出ているといえようが、そのお仕着せがなおいっそう、この老嬢の厳しさを浮き彫りにしている。


 どういう立場の人なのかは説明されていないが、言葉の端々、表情の隅々にまで、威厳が染み付いている女性である。

 白髪交じりの黒髪をひっつめにして、切れ長の灰色の瞳ではっしとトゥイーディアを見据えている。



 主人の娘の帰還に、恭しく礼を取って歓迎の言葉を述べてからの第一声が、「ご入浴を」という、あれだった。



 ん? 聞き間違えた?


 ――と、俺が耳を疑っている間に、トゥイーディアが、「はい?」と訊き返していた。

 手にしたままの姫女菀の花をくるくると回しながら、


「あの、シャルナ? お父さまが――」


「はい、由々しき事態でございます。お嬢さまにおかれましては、ご心労如何ばかりかと」


 この老嬢を見てると、あれだな。

 もしも歳をとることがあったなら、アナベルが将来こうなりそうだと思えてくるな。


「うん、あの、そうなの。だから今は、まずお父さまがどこにいらっしゃるのかを――」


「お嬢さま、わたくしどもはそれを存じ上げません。お嬢さまも、ご帰国後まずは当家へお帰りになったということは、ご存知ないのでございましょう」


 淡々と返す老嬢。

 皺の刻まれた顔の表情は動かず。


 トゥイーディアは、「そうね」と認めた後に、


「だから、王都にいらっしゃるのか領都にいらっしゃるのか、まずはそこを調べていかないといけなくて」


「如何様になさいますか」


 と、もはや老木が喋ってんじゃないかと思えるくらい、無味乾燥な声を出す老嬢。


 カルディオスはこういう人間が苦手だからか、俺の後ろに引っ込んでいる。


 こう、客である俺たちを立たせたままこういう話をしている時点で、()()()()と思わなくもないのだが。

 それを言ってはいけない雰囲気がある。

 アナベルでさえ黙っている。

 多分、この館の家政を取り仕切っているのが目の前の老嬢だと察していて、その地位に敬意を表しているのだ。

 アナベルは、短い間とはいえ、一つの家の女主人として家政を担ったことがあるからね。その辺の敬意の払い方はしっかりしている。


「えっと――」


 と、ここでトゥイーディアが俺たちをちらっと振り返り、複雑な表情をした。

 だがそれも一瞬で、老嬢に向き直って宣言する。


「行けば何とかなると思うの」



 ――俺たちは、こっそり各々で息を呑んだ。


 確かに、()()()()()()()()


 トゥイーディアの固有の力があれば、トゥイーディアのお父さんの居場所を知っている人間と()()()()()()()事足りる。

 なぜならば、トゥイーディアは相手の記憶を閲覧することが出来るから。


 だがそれは、トゥイーディアが最も忌み嫌う手段の一つだ。


 ――その手段を採ることを決意するくらいに、何としてでもお父さんを助けるつもりでいるのだ、彼女は。


 尤も、まずはお父さんの居所を、この屋敷の人たちならば知っていると踏んで戻って来ている時点で、トゥイーディアもそれを最後の手段にしたがっているということの証左なのだが。


 だが、当てが外れた以上は躊躇いなく、自分の中での禁忌の枷を外そうとしている。



「然様でございますか」


 老嬢は極めて淡白に。

 否定もせず、賛同もせず、ひたすら情報を整理する口調で。


「如何にして領都まで。汽車は既に出ております。馬を走らせようにも、旦那さまが現在どちらにいらっしゃるのかご存知の方が、事前の約束も無しにお会いになることはございませんでしょう」


 老嬢、めちゃくちゃ冷静。


「特に、旦那さまの娘御であるお嬢さまには」


 ぐ、と詰まったトゥイーディアが、しかし勢い込む。


「そ、そこはほら、私が何とか――」


 ディセントラとコリウスが、全く同時に額を押さえた。


 老嬢の目付きもぴりりと厳しさを増す。


「お嬢さまが道理を曲げて、それが旦那さまの有利に働くことがあると思し召されますか」


 正論。

 ぐ、と詰まったトゥイーディアに向かって、老嬢はびしりと。


「ただですら薄氷を踏む危うい状況です。慎重になされませ」



 ――俺も、いざとなれば殴り込めば何とかなると思ってた。


 そしてどうやらコリウスやディセントラは、ちゃんと正規の手続きを踏まなきゃならんことを認識していたらしい。

 まあ、そうでなければ、わざわざここまで戻っては来ず、さっさと王都なり領都なりに向かうことを提案してくれていたはずだけど。


 それに考えてみれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()も、俺たちにとっては未知だ。



 実年齢はこの老嬢よりも遥かに年上のはずのトゥイーディアが、完敗の雰囲気を纏って項垂れる。

 それを見て、老嬢は淡々と言葉を重ねた。


「幸いにも、近くシューベンドルト卿がいらっしゃるご予定。お嬢さまご自身でご面会のお約束を取られるのもよろしいかとは存じますが、卿であればお嬢さまよりもわたくしどもよりも、今の旦那さまのご状況についてご存知でありましょう。ひとまず卿をお待ちになっては」


 シューベンドルト卿って誰だ。


 ――俺が、というか、俺たちがそう思ったことが分かったのか、軽くこっちを振り返ったトゥイーディアが、早口で注釈を入れるように言った。


「あ、従兄のハンスのことよ」



 全く空気を読まずに、俺の嫉妬がまた疼いた。


 ――ハンス、ハンスね。トゥイーディアの想い人(暫定)。

 そうだよな、公爵の次男ならば、卿の称号の一つや二つは持っていて当たり前。

 奴の親父が幾つ爵位を持っているのかは知らないが、複数の爵位を持っていれば、いずれは奴が継ぐ爵位もあろう。



 老嬢はトゥイーディアをじっと見て、それから話を出発点に戻した。


「――本日、お嬢さまがなさるべきことは、お身体を労わられお休みになることです」


 俺は胸中で賛成の札を上げた。

 トゥイーディア、休んで。


 ここなら多分、トゥイーディアは心から寛いで休むことが出来るだろう。


 うぐ、と呻いたトゥイーディアを無視し、老嬢はぐるりと俺たちを見渡して、はっきりと言った。


「失礼ながら、救世主さま方――」


 俺たちが救世主って分かって喋ってんのか。

 この老嬢、マジで胆力の塊だな。


「――長らく湯浴みなどなさっていないご様子。

 当家にてまずはごゆるりとお身体をお休めになりますよう」


 そう言って、深々と頭を下げる老嬢。


 そして頭を上げず、むしろ膝を屈めて最敬礼の姿勢を取り、明瞭に言った。



「――当主のために遠路はるばるお越しいただき、感謝の言葉もございません」



 語尾がちょっと震えていた。


 老木が話しているのではないかと思えるほどの無表情の仮面を破って、彼女の赤心が仄見えた。


 それを受けて、ディセントラが即座に返答する。

 こういうときの瞬発力はさすがだ。


「お気になさらず、ご令嬢もわたくしどもも、立場は同じひとつです」


 その言葉にいっそう深く頭を下げてから、老嬢はしゃんと顔を上げた。


 そして一呼吸を置いて、トゥイーディアをじっと見て呟く。


「――たいそう急いで戻って来たのね。そんな格好ではシンシアさまに叱られます。湯浴みなさい」


 直前までとは、口調が違う。声音が違う。

 柔らかく掠れた、親愛ゆえの呆れの含まれた、優しい声だった。

 表情も違う。

 愛情の滲む苦笑に、皺の刻まれた頬が緩んでいる。


 恐らく今、この老嬢の中での説教タイムが終わったのだ。

 多分、こっちが素。



 ――シンシアさま、と、この老嬢が呼んだのが誰なのか、俺であっても推測できた。


 今生のトゥイーディアの名前は、トゥイーディア・“シンシア”・リリタリス。

 ミドルネームを母から取るのは通常だ。



 トゥイーディアは自分の姿を見下ろし、髪に指を滑らせた。

 それから、急に恥じ入ったように俯いた。


「……はい。私はお母さまに挨拶して来るから、みんなを」


「ディアさま」


 優しくトゥイーディアを遮って、老嬢は穏やかに言った。


「そんな格好でシンシアさまにご挨拶なさらないで。驚いて卒倒なさいますよ。

 言われていたでしょう、『木登りして髪を引っ掛けたら――』」


 言い差す老嬢の言葉に苦笑して、トゥイーディアは老嬢と声を揃えた。


「――『そのままにしてはいけません』」


 ふ、と、老嬢の灰色の目が和んだ。


 トゥイーディアも苦笑を深めて、髪に滑らせた指が引っ掛かったのにばつが悪そうに目を伏せる。

 そして、すう、と息を吸い込むと、どこか緊張の抜け切ったような、淡く呟くような声で言った。


「……分かった。ちゃんとしてからお母さまに挨拶するわ。湯殿の準備をお願い。みんなにはどこで待ってもらう?」


応接間(ドローイングルーム)にご案内いたします。

 お休みになっていただくお部屋もご用意せねば。

 ご一報がありましたら、予め準備いたしましたものを」


 どことなく焦る響きのある声に、ふふ、と微笑んで、トゥイーディアはさらっと言った。


「手紙より私たちの方が早く到着すると思ったの。

 あと、私は別に、みんな一緒に私の部屋で休むのでもいいわよ」



 ――後段、冗談だよな?


 トゥイーディアの部屋に招かれるなら嬉しいけど、そこで休めと言われても俺は休めない……。

 幸せ過ぎて眠れないのが目に見えている……。



 思わずそんなことを考えてしまった俺だったが、無論、冗談に決まっている。


 老嬢は厳格な目許を緩めて、


「失礼ながら、お嬢さまのお部屋には荷が重いかと」


 と一刀両断していた。


 老嬢はそれからメリアさんに視線を向けて、厳格な親愛の滲む眼差しで指示を与えた。


「メリア、長旅ご苦労。皆さまを応接間にご案内したら使用人部屋にいらっしゃい」


 ちゃんと休ませてあげるために呼んだんだろうな、と、俺にでも分かる語調だった。

 メリアさんにもそれが伝わったのか、感謝を籠めて会釈を返している。


「はい、シャルナさま」


「皆さま、お荷物はこちらへこのまま、どうぞ――」


 そう言いながら、シャルナさんが俺たちの顔と荷物をざっと見比べるようにして検分した。

 この短い時間で、俺たちの顔とそれぞれの荷物を結び付けて覚え込んでいるのだとしたら凄すぎる。


「――皆さまのお部屋のご準備が整いましたら、そちらへお運び申し上げます」


 そう言って、メリアさんを目で促すシャルナさん。


 メリアさんがすかさず、「皆さまこちらへ」と言って、俺たちを先導して奥へ。


 その一方、トゥイーディアがシャルナさんに小声で囁くのが聞こえてきた。

 そのときついでに、ずっと手に持っていた姫女菀の花もシャルナさんに手渡していた。


「……コリウス――ああ、銀髪の彼ね。多分、一人でお風呂に入りたいと思うから、よろしく」


「承知いたしました」


 コリウスが俺たちと一緒に風呂に入りたがらないのは昔からそうだったし、別にそこについて思うところはない。

 あいつが俺たちを信用していないだとか、そういうのとはまた別問題だと思うし。


 それに個人的なことを言えば、出来る限りコリウスから離れている時間は確保したい。

 トゥイーディア、ありがとう。




 メリアさんに先導された俺たちは、続き部屋になっている二つめの広間へ。


 その奥のマホガニーの扉を開いた先が、広々とした応接間になっていた。



 高い天井から幾つか低く吊り下げられた明かりの笠は、薄紅の硝子で作られ、花を逆さまにした可憐な意匠。

 寄せ木細工の床の上には、深緑と白の模様が織り込まれた絨毯。

 右手には、広間のものほど大きくはないものの立派な暖炉が設けられており、こちらのマントルピースは鹿や鳥の彫刻が施されているものだった。


 華奢な造りのテーブルや椅子が随所に幾つも鎮座していて、晩餐会の後にここで大人数が寛ぐことを意図して内装が揃えられていることがよく分かる。


 奥には大きな窓が開いており、その窓からは裏庭ではなく、低い石垣で囲われた、広々とした剥き出しの土が覗く――まるで訓練場のような場所が見えていた。


 窓は開けられていて、温かい風が吹き込んできている。


 風が巡る壁には、大小様々な風景がが掛けられていた。

 壁紙は蔓模様で、全体的に品がいい。



 メリアさんはここで頭を下げ、「こちらでお待ちになってください」と告げるや踵を返して退出。


 足取りがめちゃめちゃ弾んでいて、俺たちは思わず、本当にお疲れさま、という意を籠めて彼女を見送ったものだった。



 はああ、と大きく息を吐いて、トゥイーディアが手近な椅子に腰掛けた。

 そんな彼女のすぐ傍にカルディオスが寄って行って、隣の椅子に軽やかに腰掛けた。


 ムンドゥスは一瞬、カルディオスに付いて行くかに見えたが、トゥイーディアを見てそれを思い留まった様子。

 扉付近で立ち止まってしまった彼女を、ルインが招いて暖炉の傍の椅子に腰掛けさせていた。


 俺たちも各々が手近な椅子に座り、取り敢えず誰かが呼びに来るのを待つ姿勢。


「――びっくりした。変わってんね、この家」


 カルディオスが小声でトゥイーディアに話し掛けているのが聞こえて、それにトゥイーディアが笑って応じる声が、柔らかく俺の耳に滑り込んできた。


「そうでしょ? 出て来たのがジョーだったのは誤算だったけど。あの人、料理以外はからっきし()()()()な人だから」


「そんな感じだね」


 遠慮なくカルディオスが同意して、トゥイーディアはますます笑う。

 それから片手の指を折り始めた。


「最初のがジョー――厨房の人ね。で、さっきのがシャルナ。館全部を仕切ってる人で、元はお母さまのメイドだった人」


 あの人、メイドさんか。

 家政以外の分野にも明るそうで、頭が切れそうだった。

 すげぇな。


「他に、庭番でオーディーっていう人と、オーディーの弟子のケットっていう子がいて、あとは小間使いでナンシーっていう子がいるんだけど、ナンシーはシャルナのお孫さんなの」


 また紹介するわね、と微笑むトゥイーディアに、ディセントラが別のテーブルから声を掛ける。


「珍しいのね。家令さんも執事さんもいないの?」


「昔はいたみたいだけど、私が生まれた頃にはもういなかったなぁ」


 そう言って、トゥイーディアは笑って肩を竦めた。


「この人数じゃ、館全体なんて手が回るはずないでしょ? だから、すごいわよ。

 ここって多分、百くらいは部屋があるんだけどね、そのうち使われてないところなんてもう、荒れ放題よ」


 けらけら笑うトゥイーディア。


「小さい頃に館の中を冒険したんだけど、迷子になっちゃったくらいだもの。しかも、あちこち埃避けの布が被せられてて埃塗れの部屋ばっかりで、通ったところか通ってないところかも分からなくなっちゃって、夜になるまで彷徨ってたことがあるわ」


 最初からこれまでの人生を覚えて生まれてくるトゥイーディアなら、絶対にやらないような大冒険だな。


「歴代のリリタリスの女性の肖像画が――ほら、ここって当主は男性が務めるけど、女系の家だから、当主の娘の肖像画が描かれるみたいなんだけど――、ずらっと並べられてる廊下もあって、ものすごく怖かったのを覚えてるわ。

 ――私を捜しに来たお父さまには雷を落とされたけれど」


 懐かしそうにそう言って、トゥイーディアは身振り手振り。


「当然お夕飯は抜きにされて、そのときはこっそりナンシーが差し入れてくれたんだけど、運悪く雷雨の夜だったから、雷の音にずーっとびくびくしてたのを覚えてるわ」


「可愛いな」


 衒いなくカルディオスがそう言って、にこっと笑った。


「居心地良さそーだね、ここ」


「気に入った?」


 冗談めかして尋ねたトゥイーディアに、カルディオスはテーブルに頬杖を突き、相手を溺惑させるような美しい微笑を湛えて応じた。


「うん。――ああ、そーいえば俺、あれこれ上手いこといったらイーディと結婚するんだっけ?」



 ――代償がなければ、その瞬間に恐らくこの部屋は大火災に見舞われていた。



 そのくらいに俺の頭には血が昇ったが、しかしトゥイーディアはお腹を抱えて笑い出した。

 カルディオスの言葉を、どうやら冗談として処理したらしい。


 いやまあ、冗談なんだろうけど、冗談なんだろうけど笑えない。


「カルがここに住むことになったら」


 と、笑い過ぎて息も絶え絶えな様子でトゥイーディアは呟いた。


「メイドさんがいっぱい増えそうね」


「まあ俺、大抵の人には好かれるからね」


 端的に事実を述べる口調でそう言って、カルディオスはふと思い付いたように尋ねた。


「ね、そーいえばさっき、当主の娘さんは肖像画が描かれるって言ってたよね? イーディのもあんの?」


「ないわ」


 打てば響くように応じて、トゥイーディアは苦笑した。


「十八で描かれることになるみたいね、普通は」


「ふうん。じゃ、冬至が明けた頃だね」


 カルディオスは軽い口調でそう言った。


 トゥイーディアはそう言われて初めて、今生の自分は次の誕生日で十八になるのだと気付いた顔をした。


 それから、「そうね」と口を衝いたように返事をして、一瞬黙ってから、今度はちゃんと意識した様子で、「そうね」と繰り返した。

 それからじっと自分の手を見下ろして、呟いた。


「――お父さまは絵師を選んでくださるかしら」


「だいじょーぶだよ」


 即座に応じて、カルディオスは黒い指輪の煌めく左手で、ぎゅうっとトゥイーディアの右手を握って、揺らした。


「大丈夫、イーディ。万事うまくいく」



 ――その瞬間に、俺はアナベルの顔を見ていた。


 肖像画の話題になったときに、絵を描くのが趣味だったシオンさんのことを思い出していたからだ。

 シオンさんは、カルディオスの姿絵を描いていたこともあったはずだ。


 アナベルはカルディオスを横目で見ていて、その眼差しには、怒りも軽蔑も感じられなかった。


 そのことに俺はほっとしていたが、カルディオスが「大丈夫」と口に出した瞬間に、アナベルの顔が歪んだのを見てどきりとした。



 ――怒りや侮蔑ゆえの表情の歪みではなかった。


 その瞬間にアナベルの顔貌を彩ったのは、激しいばかりの羨望だった。



 どうしてアナベルがそんな顔をしたのかは、俺には分からなかった。


 だが直後、アナベルの方をちらりと見たトゥイーディアはふと表情を曇らせて、そのまま席を立ってカルディオスから離れた。



 カルディオスは驚いたような顔をしたが、強いて彼女を追い掛けることはしなかった。



 ――そのまま俺たちは、二十二、三の年頃と見える青年が応接間の扉を開けるまで、誰一人として口を開かずに座っていた。
















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