23◆ ただ一言で
キルトンを出て三日目の昼前に、ようやく俺たちはオールドレイ地方のモールフォスに辿り着いた。
地図上で整理してみれば、俺たちはリドフールから内陸に向かって北西に進み、キルトンから今度は北東へ折り返して進んだわけである。
因みに、王都イルスはキルトンから更に北西に進んだ位置にあるはずだ。
レイヴァスの中でも田舎に分類されるオールドレイ地方は、ベルフォード侯爵領とゲイド伯爵領、そしてフレイリー男爵領から成り、モールフォスはベルフォード侯爵領に属するのだそう。
因みにフレイリー男爵は、穀倉地帯のみを治める爵位らしい。
あれだ、相続で揉めた挙句にトゥイーディアが無茶な決闘をすることになった原因の家だな。
リリタリス家は――当主は代々騎士、即ち勲功爵であるとはいえ、一代限りの爵位である勲功爵に土地を与えることは、君主が褒美として直轄地を切り取って与えたり、あるいは戦乱の末に得られた土地を一代に限り与えたりする場合を除いてまずないから――、ベルフォード侯爵からその荘園の主に封ぜられたものであり、法令科条はベルフォード侯に従う。
そしてもちろん、ベルフォード侯は王条に則って領地を治めているわけである。
ベルフォード侯が居城を構える領地の中心――領都ベイルは、汽車にすればモールフォスの次の駅がある場所であり、馬車であっても一日掛からない距離にあるとのこと。
オールドレイ地方は――ずっと昔はオールドレイ侯爵が治めていた地方らしいが――、その侯爵家の嫡男が絶えたことをきっかけに分裂し、元より国内指折りの穀倉地帯フレイリーを中心に発展していた地方であったことから、その周辺の覇権を巡って争われた歴史のある地方らしい。
なので、行政の中心を出来る限り問題のフレイリーに近付けて築いていったのは、ある意味当たり前の話かも知れなかった。
フレイリーのすぐ近くに封じられているリリタリス家は、随分といい場所を荘園として下賜されていることになるが、裏を返せばそれは、二百年前の彼らのご先祖さまが立てた功績がそれだけ大きなものだったということに他ならない。
だからこそ、今日まで名家として続いているわけだし――あるいは、フレイリーに暗雲立ち込めたときには、いち早く剣を抜ける場所に封ぜられたという意味もあるのかも知れない。
――というようなことを、俺たちは汽車を降りてトゥイーディアから聞いたわけだが、汽車を降りるまでが大騒ぎだった。
俺の隣に座っていた青年は、夜になればお気楽に鼾を響かせて爆睡し、配給される食事を臆面もなく心待ちにして周囲を和ませていた。
そしていざモールフォスに到着すると、正面に座る老夫婦に朗らかに手を振って立ち上がり、同時に俺も立ち上がったことで、「あんたもモールフォスが目的地だったの?」と素っ頓狂な声を上げ、通路に出たところでトゥイーディアを発見し、それこそ悲鳴のような声を上げて周囲をぎょっとさせたのである。
「――ディアお嬢さま!」
一瞬俺は、それがトゥイーディアを指す呼称であると気付かなかったが、トゥイーディアが振り返ったことでそうだと気付いた。
青年は俺を押し退け、アナベルを押し退け、トゥイーディアのところまで通路を走って行って帽子を取り、ぺこぺこ頭を下げて、顔を真っ赤にしながら、
「いらっしゃったんですか! 俺――じゃねえ、僕、全然気付かなくて! あの俺――じゃねえ、僕――、指物師のカールの息子のエディです! 覚えてらっしゃらないと思いますが!」
と捲し立てた。
押し退けられたアナベルは思いっ切り眉を寄せていたし、俺も驚きが抜けると猛烈に腹が立ってきた。
あのやろうトゥイーディアに馴れ馴れしくしやがって。
しかも、ぺこぺこするエディとやらに対するトゥイーディアの顔が、即座に親愛に満ちた笑顔に切り替わったので、俺の殺意も臨界点を突破するところだった。
――俺はかれこれ一箇月以上トゥイーディアとまともに口を利いてないのに、なんだあいつは。
「覚えてるわ。お父上に一度、うちの衣装箪笥を直していただいたもの」
トゥイーディアが明瞭に応じて、汽車の中には、背伸びをしてでもトゥイーディアの顔を見ようとする連中が続出した。
「お嬢さま」という呼称から、彼女が身分のある立場の人間だと当たりを付けた奴らが多いらしい。
固有名詞までは出していないから、リリタリス家の娘であると露見したかどうかは定かではないが、気付いた奴もいるだろう。
リリタリス家はどうやら国内で相当に有名だが、顔までは知らないという人が――まあ当然だけど――殆どなんだろう。
トゥイーディアの顔まで知っているのは、恐らくモールフォスとかの町の人間で、トゥイーディアと直接会ったことがある奴だけだ。
エディはめちゃめちゃ嬉しそうな顔をして帽子を被り直し、そのあとメリアさんにも気付いて快活に挨拶していた。
そのまま俺たちは汽車から降りたわけだが、多分エディの中でトゥイーディアの同行者として認識されたのはメリアさんだけだった。
エディは大変元気よく、自分の荷物が少ないことをアピールしてトゥイーディアとメリアさんの荷物を両手に預かっていた。
この辺で、俺はエディに俺の分の食事を分けてやったことを心の底から後悔していた。
モールフォスの駅は、頑丈な石造りの平屋建ての建物で、豪雪地帯らしい傾斜のきつい切妻屋根を備えていた。
駅に限らず、建物を形作る石はどれも色の淡いものが多かった。
山の西側の中腹から麓に掛けてを切り拓いて町が築かれたらしく、高低差の激しい地形になっている。
駅は町のてっぺんにあって、壁際のあちこちから根強い雑草が顔を出していた。
トゥイーディア曰く、聳えている山はモーラ山脈というらしいが、ぶっちゃけそんなのどうでもいい。
エディとかいうクソ餓鬼がトゥイーディアに馴れ馴れしくしていることの方が百万倍問題だ。
駅の中の、頑丈な床板の張られた通路を歩いている最中くらいに、エディはどうやらトゥイーディアの同行者がメリアさんだけではないと気付いた様子。
ぎしぎしと床板を踏みながら、不思議そうな顔で俺たちを振り返ってきた。
「――あれ? もしかして親切なお兄さん、お嬢さまのお連れだったんすか」
親切なお兄さんこと俺は、親切にしたことを絶賛後悔している最中だったが、無言で素っ気なく頷いた。
そんな俺の隣には、下車と同時に目を覚ましたムンドゥスの手を引き、悠々と歩くカルディオスがいる。
カルディオスは翡翠の目をにっこりと細めて、エディに向かって言い放った。
「誰おまえ?」
相当に失礼な物言いではあったが、他国のとはいえ将軍の息子であるカルディオスと、一町人の息子であるエディには天地の身分の開きがある。
咎め立て出来る態度ではなかった。
尤もトゥイーディアは、血筋で人間の価値を量ることを嫌うから、「こら」とばかりにカルディオスを睨んでいたが。
エディはきょとりと瞬きし、それからようやく、俺たちが結構な大所帯であることを察したらしい。
ぱちぱちと目を瞬きながら俺たち全員を見回して、帽子を脱ごうとして両手が塞がっていることを思い出した様子でわたわたして、結局がかくんと頭を下げるだけに留めた。
「すみませんっした、お嬢さまのお連れの方に。俺――じゃねえ、僕、エディっす」
俺たちは誰一人として名乗り返さなかった。
俺は、大人げなくも嫉妬じみた腹立たしさのゆえだったし、カルディオスたちからしても、エディとどういう風に接すればいいのか分からなかったんだろう。
トゥイーディアの郷里が、今生においては文字通りの意味を持っているということが俺たちはピンとこないし、それゆえに、そこで彼女と交流のあった人間を、どういう風に捉えればいいのか、いまいちよく咀嚼し切れていないのだ。
これは、まあ、救世主を経験した直後の人生で、トゥイーディアが故郷の話をする度に、全員が感じていたことだったけれども。
エディはエディで、「身分のある人間が町人如きに名乗らないのは普通」みたいな顔でけろっとしていた。
そうこうしているうちに、俺たちは駅舎を出た。
――駅舎の周囲は土が剥き出しになった更地で、乾いた砂が風にさらさらと舞い上げられている。
駅舎の後ろは山そのものの鬱蒼とした茂みになっているため、土と木の匂いがした。
中天よりやや東に座す太陽が燦々と暖かな陽光を振り撒いて、眼下の町を明るく染め上げている。
駅舎から眼下の町に向かって、明るい灰色の石の階段が組まれている。
山の中腹から麓に掛けてが町だと思ったがこれは、山の中腹の駅と山の麓の町が、幅広の階段で繋がっているといった風情だ。
見下ろす町は案外広く、雑然としていて活気があった。
高い建物はないようだが、道幅も広いし建物の数も多い。
広場も幾つかあるようだ。
道を無蓋の馬車が行き来しているのも遠目に確認できた。
町はぐるりと低い城壁で囲まれ――いやむしろもう、城壁というより塀や石垣といった方が正しいかも知れない――、防衛の観点からすれば不安になるほどに多くの門が設けられているようだった。
しかもその門の殆どが、開きっ放しにされているようだった。
町の周辺は疎らな森と、あとは木綿畑が広がっている様子だ。
――ここが今のトゥイーディアの故郷か。
俺は思わずしみじみしてしまったが、そのときエディが「そういえば」と呟いた。
「……お嬢さま、救世主だったんです?」
俺たちは顔を見合わせた。
トゥイーディアが救世主であるという報は、さすがにレイヴァスにも知れ渡っているか。
白を切るのは無理だろう。
「――――」
数秒黙ったあと、トゥイーディアが肯った。
それから、苦笑じみた表情でエディの顔を覗き込む。
言うまでもないが、俺に代償が課されてさえいなければ、エディは背中を蹴り飛ばされて階段を転がり落ちる羽目になっていたことだろう。
「――そうね。……言い出さないから、てっきり知らないのかと思ったわ」
「え、や、知ってますって、さすがに」
噴き出してからそう言って、エディはにこ、と眦を下げて笑った。
「汽車ん中で言い出したら騒ぎになるかと思って、言わなかったんす」
「そうだったの」
ちょっとびっくりしたように目を瞠ってから、トゥイーディアはエディによりいっそうの笑顔を向けた。
俺としては、エディの気遣いが無性に腹立たしかった。
「ありがと、エディ。気を遣ってもらっちゃって」
礼を言われて、エディは笑み崩れた。
足取りも軽く石の階段を降りて行きながら、元気よく言葉を続ける。
「全然っす。――で、どうします、お荷物、どこまでお運びしましょ? 俺、イルスに奉公に出たの四年前なんで、もしかしたらお嬢さまとメリアさんの方が今の町には詳しいかも知んねえっすけど。ミドーの親父さんのとこまで行きます?」
「そうねえ」
上の空といった様子でトゥイーディアがそう答えるのをちらりと見て、彼女の横からメリアさんが言い添えた。
「ええ、そうしてちょうだい」
「分っかりました!」
――ミドーの親父って誰だよ。
そう思ったのは俺だけではなかろうが、全員がなんとなく黙っていた。
更に言えば俺たちは、先頭を歩くトゥイーディアとメリアさんとエディから、なんとなく距離を置いて後ろを歩いていた。
もっと言うと、カルディオスはコリウスとアナベルと距離を置きたいが余りに、最後尾を離れて歩いているような有様だった。
俺もそのすぐ前を歩いていたから、もしかするとこれ、三人連れの後ろを別の四人連れが歩き、更にその後ろを別の三人連れが歩いている――という風に見えていたかも知れない。
ムンドゥスは、殆どずっと昏倒していたから、気付いたら見知らぬ土地にいたという感覚のはずだ。
だが特段の混乱は見せず、階段の両脇に生い茂る草花を興味深そうに眺め、ひらひらと蝶が飛んでいるのを見てはふらふらとそれを追い掛けようとし、慌てたカルディオスに手を掴まれて引き留められていた。
笑顔でふらふらしていればちょっとは可愛げもあるんだろうけれど、全くの無表情でふらふらしているからむしろ怖い。
傾斜が急になったり緩くなったり、段差も深くなったり浅くなったり、そんな階段を数十分掛けて下り切った先が、モールフォス市街である。
なんというか、朴訥とした雰囲気の町だった。
昼前の町並みは、あちこちから人声が聞こえてきてはいるものの、穏やかに時計を進めている。
階段を下り切ったそこは、灰色の敷石が円形に広がるように敷かれた広場になっていた。
広場の先は通りが交差する三叉路になっており、目を転じれば、一番手前の建物は、上品な硝子張りの大きな窓から店内を見せる帽子屋だった。
人の頭部を象った木型に、濃紅の繻子の帽子が被せられているのが窓越しに見えている。
帽子には真紅のリボンが巻かれていて、俺はふと、ディセントラに被せたら映えそうな帽子だなと思った。常人が被れば派手に映るだろうが、多分ディセントラなら着こなすだろう。
ちらほらと人通りがあって、ちょうど広場を横切るように、材木を乗せた荷車を汗を掻き掻き引いている少年が、ゆっくりと踏みしめるように足を進めているところだった。
少年はちらっと俺たちの方を向いてから、すぐに前へ向き直り、しかしまたすぐに、弾けるような動きでこちらを向いた。
そして荷車の把手から手を離し、両手で頬を押さえて叫んだ。
「――お嬢さん! 戻ってらしたんですかっ!!」
その瞬間、近辺の人の目全部がこっちに集中したのが分かった。
三叉路の真ん中の道を、駅から離れる方向へ歩いていた二人連れが振り返り、すごい勢いでこっちに向かって走って来るのが見えたくらいだ。
――なに? トゥイーディアってそんなに人気者なの?
いやまあ、彼女は可愛いし頭がいいし、人気者にならない理由がないんだけど。
でもなんだろう、この微妙な気持ち。
俺たちは足を止めた。
エディがなんだか誇らしそうな顔をしているのが、俺はちょっとむかついた。
トゥイーディアは遠慮がちに微笑んで、呟いた。
声が小さ過ぎて、聞こえた人はあんまりいなかっただろうが、それはそれとして照れた口調が可愛かった。
「――ただいま」
俺はトゥイーディアが、この町で相当な人気者なのかと思った。
確かにそれは間違いではなかったが、なんか俺の想像した方向と違った。
トゥイーディアの贔屓が多いのかと思いきや、違う。
これ、あれだ。
近所の人に可愛がられて、みんなの孫娘の立ち位置を獲得してるやつだ。
――と、俺は、トゥイーディアに向かって砂糖菓子を差し出そうとしているご婦人を見て確信していた。
ふっくらとした彼女は、通りを歩く俺たちに気付いて窓から顔を出すや、きゃっと叫んで頭を引っ込め、かと思うとお菓子の入ったお皿を抱えて表に飛び出して来たのである。
彼女だけではなくて、あちこちで同じ現象が起こっていた。
中には、窓越しに果物を差し出そうとしてくる猛者もいた。名家の令嬢に対する態度ではないが、なんかこの町ではこれが普通っぽい。
「おかえりなさい!」
「偉くなりましたね!」
「ご婚約者はどうなさったんです? その中のどなたかです?」
「大変なことになってんだよ!」
「メリアちゃんもおかえり!」
――などなど、雨霰のように降り注ぐ歓迎の声に、俺は眩暈がしてきた。
トゥイーディアが、どうやらここで幸せに暮らしていたらしいことには心底ほっとしたけれど、それはそれとして、さっきまでの穏やかな雰囲気が嘘のような騒々しさである。
そして、俺たちの先頭を胸を張って歩くエディにも腹が立つ。
なんだおまえ、なんで自分がトゥイーディアの連れですみたいな顔してんだよ。
トゥイーディア以外の救世主五人は、もはやどういう顔をしていいのか分からずに貝のように押し黙っている。
ルインも目を丸くしているし、カルディオスは人目からムンドゥスを庇おうと、彼女の頭から自分の外套をばさっと被せてしまったし、なんかもう混沌。
メリアさんは地元に帰って来られたことが嬉しいのか、めちゃめちゃ嬉しそうにあっちこっちに手を振って、顔見知りを見付けたら「久し振りね!」だの、「元気にしてた?」だのと声を投げているが、一方のトゥイーディアも半分は困り顔。
もちろん、嬉しそうではあるんだけれども、それ以上に困惑しているような顔だった。
差し出される贈り物は全て手と首を振って断っており、それに対して、「珍しいね!」と声を掛けられていることもあった。
トゥイーディアが受け取った贈り物はといえば、五歳くらいの小さな女の子が顔を真っ赤にしながらおずおずと差し出してきた、摘んできたばかりと見える姫女菀の花一輪のみだった。
人からの贈り物を無碍に断るトゥイーディアではないから、多分何か考えがあって贈り物を固辞していたのだろうが、この女の子の贈り物までをも断るような真似は出来なかったと見える。
建物の多くは二階建てか三階建てで、一階が店舗や作業場になっていて、二階以上が居宅になっているものが多かった。
質素な造りの家が多かったが、窓枠や戸口の上などに、凝った細工が見られることもあった。
家々は雪に備えた傾斜のきつい切妻屋根を備えていて、多くの家では戸口が二重構造になっているようだった。
厳寒の時期に、家の中の暖気を逃がさないための工夫――北方の国ではよく見られる構造だ。
とはいえ今は初夏。窓や扉を開け放している家も相当数見られた。
見たところモールフォスでは、町を囲む森林から伐採してくる木材の売買や加工、あるいは町の近隣で栽培されている木綿から繊維を紡いで加工する商いが多いようだった。
穀倉地帯が近所にあるので、作物を育てる方よりも、そういった加工物を作る方の商いに需要があったんだろうね。
フレイリーとは物々交換でいい取引が築けていることだろう。
あっちこっちから声を掛けられながら、俺たちは駅から町の外縁をなぞるように進んだ。
二十分ほどそうして歩いたところで、未だに両手にトゥイーディアとメリアさんの荷物を持つエディがばっと駆け出した。
そのまま、行く手にある建物に駆け込んで行く。
他とは雰囲気の違う建物で――それもそのはず。建物の一階部分に当たる場所は壁がなく、車庫の造りになっていて、階段を上がって二階の高さにある居宅に昇る構造になっていた。
車庫には年季の入った看板が下げられていて、その看板には掠れた文字でこう書いてあった――『ミドー貸馬車屋』。
でかでかと書かれたその文字の下には小さく、『御者承リマス』と記されている。
ミドーの親父ってここの主人か。
一階が車庫になったその家の横には、当然ながら厩舎があり、気怠そうな顔をした馬が五頭ばかり、干し草を食べたり暇そうに首を振ったりしていた。
こんなとこに閉じ込めておいて体調を崩さないのか、と訝った俺はしかし、直後にここが町の端っこであることを思い出した。
モールフォス市街を囲む城壁は随分低いし、門も多数ある。
馬を連れて外に出て、駆け回らせておくのに苦労はあるまい。
厩舎独特の、積み上げられた干し草や馬糞の匂いが漂ってきていた。
車庫の方には、黒塗りの馬車が幾つか鎮座している。
無蓋のものもあれば屋根付きのものもあり、馬車に乗り込むときに使用するのだろう踏み台なども、並べられていたり壁に引っ掛けられていたり。
そんな車庫に駆け込んだエディが息を吸い込み、でかい声を張り上げていた。
「――親父ぃ、いるぅー? 俺だよ、エディだよ、帰って来たよ!
んでぇ、お嬢さまもいらっしゃるーっ!」
「なんだおまえ、馘首になったのか。――おぉ、背ぇ伸びたな! 何年ぶりだ?」
車庫の奥の方から声がして、どうやら馬具を磨いていた最中らしい親父さんが、汚れた手拭いで両手を拭きながら現れた。
俺にとっては今の気温が一番心地いいけれど、どうやらこの親父さんには暑すぎるらしい。
彼の広い額には、玉のような汗が浮かんでいた。
色白で屈強な親父さんは、目尻を下げてエディを見てから(エディは、「馘首じゃねえよ自分から辞めてやったんだよ」などと言い募っていた)、俺たちの方――というよりトゥイーディアへ視線を向けて、いっそう眦を下げて笑み崩れた。
「――これはこれはお嬢さん。お久しぶりで。
ちょっくら待っててくださいね、馬車の準備をしますからに。上がってお茶でも。家内が中におりますよ」
穏やかに低い声でそう言われて、トゥイーディアが微笑んだ。
両手で女の子から貰った姫女菀を弄びながら、「いえ」と呟く。
「外で待たせていただきます」
「お嬢さん?」
ぱち、と瞬きした親父さんは、頭を傾けてまじまじとトゥイーディアを見た。
温かみのある灰色の目が曇った。
「どうなすった」
トゥイーディアは一瞬迷うように視線を伏せたが、すぐに目を上げて微笑し、明るい声音を作って言った。
「――父の状況を考えると、皆さんあまり……私たちと個人的な繋がりがあるという証拠は、残さない方が賢明だと思いますよ」
俺は思わずトゥイーディアの後ろ姿を凝視してしまった。
――トゥイーディアは、お父さんに着せられた汚名を本気で憤っていた。
そして同時に、冤罪であるということを確信していた。
だがその一方、万が一お父さんの罪が確定してしまったときに、この町の人に累が及ぶことを恐れている。
彼女らしいと言えば極めて彼女らしいその言葉に、エディが思いっ切り顔を顰めた。
親父さんの方は唐突に真顔になって、汚れた手拭いを作業着のポケットに突っ込むと、大股にトゥイーディアまでの距離を詰めた。
「お嬢さん、何てことを言いなさる」
そう言って、親父さんはがしがしと頭を掻いた。
彼に染み付いた獣臭さが、もわ、と香った。
「変なこと考えなさるんじゃねえ、あの英雄さまに、滅多なことがあるもんか。
どなたと仲良くさせていただこうが、それは俺たちの自由だね」
鼻息荒く、敬語も抜けたその語調に、トゥイーディアは曖昧に肩を竦めて、会話の流れで思い出しただけだと言わんばかりに、「そう言えば」と彼の顔を見上げた。
「父がどこにいるかご存知です?」
むすっとしていた親父さんが、途端に後ろめたそうな顔になった。
作業着から手拭いをまた引っ張り出して捏ね繰り回し、額を拭って「いやあ」を肩を竦める。
手拭いの汚れが額に移って、薄く黒ずんだ汚れが筋になっていた。
「それが、俺たちにはさっぱり。汽車に乗って行かれたのは存じてますがね、行先までは。
あのときはこんな大事とぁ思ってなくて、なんか中央の方であったんじゃねえかと、だからお偉方がリリタリスの旦那さまに頭下げて、助けてもらいに来たんじゃねえのかと思ってましたしねぇ」
トゥイーディアは瞬きした。
特段の失望も焦燥も表情には昇らせず、「そう」と呟いた彼女はしかし、直後に苦笑を浮かべて軽く両手を広げた。
「――じゃあ、親父さん、馬車をお願いします。後払いでよろしくね。
でもほんとに、上がらせてもらうのは遠慮します。何しろ大所帯だから、ぎゅうぎゅうになっちゃうわ」
大所帯と言われて初めて、親父さんはトゥイーディアの後ろの俺たちに目を向けた。
ぽかん、と目を見開いてから、親父さんはびっくりしたように。
「……お友達、増えたんですなあ……」
トゥイーディアは苦笑したのみだったが、俺の隣ではカルディオスが、「それはこっちの台詞だよ」と呟いていた。
――まあ確かに。
俺たちの方がこの親父さんよりもずっと、昔からトゥイーディアのことを知っている。
つまり、別に、エディとやらが荷物運びの任を終えたにも関わらず、トゥイーディアの周りをちょろちょろしていることに、大人げなく苛立ちを募らせる必要なんてないのだ。
エディはミドーの親父さん相手に、自分がイルスの警吏に石を投げたときの様子を臨場感たっぷりに説明し、その語り口調で親父さんを大いに笑わせていた。
トゥイーディアもちょっと笑っていたが、慌てたように表情を取り繕って、
「もう、怒ってくれたのは嬉しいけれど、そんなことしちゃ駄目だからね」
と窘めていた。
「警吏の人は、真面目にお仕事してるだけなんだから。別にその人がお父さまをどうこうしたわけじゃないんだから、石を投げるなんて駄目よ」
やんわりと言われて、エディは首を竦めて、「はーい」と。
親しげなその様子に、俺は端から見れば全く無関心のように見えていただろうが、内心では疑り深さの権化となっていた。
――違うよな、トゥイーディアの好きな人って、こんな餓鬼っぽい奴じゃないよな?
俺たちは暇を持て余して道の端に突っ立っていたり座り込んだりしていて、その間にもトゥイーディアの顔を見るために、町の人たちがちょくちょくここまで足を運んでいた。
昼食中に抜け出して来たと思しき人もいて、トゥイーディアはいちいち相手に手を振ったり声を掛けたりしていた。
カルディオスは俺のすぐ傍で膝に頬杖を突いて座り込んでおり、その隣では、頭から外套を被せられたムンドゥスが、外套を天幕のようにしながら座り込み、足許の敷石を熱心に撫でたり引っ掻いたり、敷石の間から顔を覗かせる雑草を触ったりしていた。
「……イーディ、人気者だなぁ」
ぼそ、とカルディオスが呟き、俺は無反応に黙り込んでいた。
そんな俺をちらっと見て、カルディオスは盛大に嘆息。
「おまえね、イーディにもたまには関心寄せろよ」
今まさに、エディとかいう若造を火葬したい衝動を堪えてるところだよ。
なんだよあいつ、トゥイーディアに馴れ馴れしい。
エディは親父さんに、自分とトゥイーディアが運命的に同じ汽車に乗っていたことを誇らしげに報告している。
俺の代償が、薄皮一枚で自分の命を繋いでいることなど知らぬげな、お気楽な自慢話である。
俺はかれこれ一箇月以上、トゥイーディアとまともに目も合わせられていないのに、こいつはなんでいとも容易くトゥイーディアと喋ってんだ。
「――俺さ、身一つでイルスから出たからさ、金もそんなになくて、汽車ん中ではもー腹減って腹減って」
マジで、なんで俺、こいつに食事を分けたりしたんだろ。
俺が大海溝より深い悔恨に身を浸していると、唐突にエディが俺の方を指差したのが視界の隅に見えた。
「でね、あの親切なお兄さんがメシ分けてくれたの。
お嬢さま、あの人もお連れでしょ?」
トゥイーディアの返答までに数秒の間があって、俺は死にたくなった。
俺、連れだと認めるのは嫌だと思うくらいに嫌われてんの?
「……ええ、そうね」
「すっげぇ優しいよね。俺、お陰で命拾いしたもん」
無邪気なエディに対して、トゥイーディアの声は一気に苦いものになった。
「――そうだったの」
エディがお気楽に喋っている間に、ミドーの親父さんは厩舎から支度を済ませた牡馬を二頭引き出してきて、無蓋の馬車に手際よく繋いでいた。
馬たちは、ちょうどよく微睡んでいたところを起こされたことが気に喰わないのか、ぶるる、と首を振っては鼻を鳴らし、親父さんはご機嫌取りに苦労していた。
馬たちが敷石を踏みしめる硬質な音がして、親父さんの指揮の下、馬車が道の真ん中に出された。
親父さんがエディに指示して、エディが車庫から踏み台を担いで持って来る。
親父さんはそれを馬車の乗り口のところにきっちりと置いてから、トゥイーディアを振り返ってにっこりした。
「――はい、お待たせしました。今日は風が気持ちいですからね、屋根は要らんでしょう」
トゥイーディアもにこっと笑って、トランクを持ち上げて俺たちを振り返った。
カルディオスが身軽に立ち上がり、馬車をちらっと見て不安そうな顔をする。
コリウスやアナベルと上手いこと距離を取れるかどうかを考えていることは、想像に難くない。
「みんな、乗って乗って」
トゥイーディアの声に急かされて、俺たちは馬車の方へ。
まず最初にカルディオスが乗り込んで、馬車の後方に警戒心満点の顔で座った。
この馬車は、ぐるりと縁をなぞるように座席が設けられているものだから、結局のところはみんなで顔を見合わせての道程にはなりそうだが、隣にコリウスやアナベルに座られるのだけは御免だという顔をしていた。
ムンドゥスはカルディオスの右隣にちょこんと座って、座ったかと思うと身を翻して座席の上に膝立ちになり、背凭れ――即ち、馬車の縁――に両手を掛けて、大きな銀色の目で周囲を見渡し始めた。
続いてディセントラが、カルディオスの左隣――というか、座席の角を跨ぐので、位置関係としては斜向かいに近いが――に腰掛ける。
その隣にアナベルがすとんと腰を下ろし、その隣に、傍目には平然とした態度でコリウスが腰掛けた。
トゥイーディアに乗車を促されたメリアさんがコリウスの隣――というか、斜向かい。馬車の進行方向に背を向けて、御者と背中合わせになる位置だ――に恐縮しながら座り、ルインがムンドゥスの右隣――というかまあ、斜向かいだけど――に腰掛けて、ムンドゥスの衣服の裾をきゅっと握る。
それに続いて俺が乗り込もうとしたところで、にこにこしながら手を振るエディに挨拶をしていたトゥイーディアが、俺の方を振り返った。
半ばが結い上げられた蜂蜜色の髪が陽光を弾きながら揺れて、夕暮れ時を思わせる飴色の目が、睫毛の下から生真面目に俺を見た。
目が合うことすら久し振りで、俺はこっそり息を止めた。
およそ一箇月振りに間近で見るトゥイーディアはやっぱり、晴れた夕暮れを飴細工にしたみたいに見えた。
惚れた弱味があるからかも知れないが、長旅の後にしては信じられないくらいに可愛く見えた。
とはいえ、実際には俺は目を眇めて、「なんだよ」と言わんばかりに彼女を見返したわけだが。
トゥイーディアは溜息を落とし、「お兄さんありがとねー」と、俺に感謝を満面に湛えた笑顔を向けるエディをちらっと振り返ってから俺に向き直り、小さく――それこそ何かを堪えて押し潰したみたいな声で、短く囁いた。
「……この子に親切にしてくれて、ありがと」
――食事、分けてやって良かった。
トゥイーディアの言葉が聞こえた瞬間、俺は冗談抜きに目の前が明るくなるのを感じた。
長旅の疲れとか苛立ちとかが綺麗に霧散していって、心臓の辺りから嬉しさが喉に向かって立ち昇ってくるような。
俺に言ってる。
トゥイーディア、ちゃんと俺に声を掛けてくれた。
自分と親しい誰かのために、半ばは嫌々ながら声を掛けたのだとしても、でも、俺のためだけの言葉だ。
他の誰かのための言葉を俺が横で聞いてるんじゃなくて、俺のためにトゥイーディアが口から出した言葉だ。
嬉しい。めっちゃ嬉しい。
俺、思ったよりもトゥイーディアと話せていない現状が堪えていたらしい。
なんか、身体が軽くなった気がしてきた。
なんで俺、さっきまであんなに苛々してたんだろ。
別に地元の人間と親しく話すくらい普通なのに。
トゥイーディアがここで方々から優しくされて育ったのなら、それはいいことじゃないか。
エディだって、トゥイーディアのお父さんのために怒ってくれたわけだし。いい奴じゃん。
ちょっとへらへらしてるところはあるけど、可愛げがあっていい奴じゃん。
ものの見事に精神の摩耗がなかったことにされていくのを自覚しつつ、俺は「は?」とトゥイーディアの目を見返して、顔を顰めていた。
「――なんでおまえがそれを言うの?」
――このクソ代償。
エディがびっくりしたような顔をする。
俺の態度が、他に向かうときとトゥイーディアに向かうときとで、天地ほどの開きのあるものになっているからだろう。
トゥイーディアは盛大に溜息を吐き、無言で馬車の方を指差した。
「乗れ」という意味だろう。
――当たり前だが、怒らせた。
内心でしゅんとしつつも、俺は仕草自体は平然と馬車に乗り込み、ルインの隣に腰を下ろした。
途端、「兄さんっ!」と尻尾を振りそうな笑顔をこっちに向けてくれるルインに、可愛い奴めと笑顔を向ける。
トゥイーディアが軽い仕草で馬車に乗り込んで、踏み台を片付けるエディに向かって礼の言葉を向けていた。
エディ、気も利くいい奴じゃん。
もうちょっと優しくしてやれば良かったかな。
トゥイーディアはそのまま、メリアさんの隣に腰掛けた。
そこしか空いていなかったからだが、俺は内心で勝利の大喝采。
何しろこの位置関係、俺とトゥイーディアの間には馬車の乗り口があるだけだからね。
もはや斜向かいと言って差し支えのない、結構近い位置なのだ。万歳。
座席は素っ気ない木の造りで硬く、長時間座っていると尻が痛くなりそうだったが、トゥイーディアとこの距離でいられるのならば、俺は二日でも三日でも喜んで乗っておきたい。
――俺のそんな内心など、勿論のこと誰に知られるものでもないので、ディセントラは真顔で俺たちを見比べて、真剣な口調で忠告してきた。
「喧嘩しないでね」
思いっ切り胡乱な目でディセントラを見た俺は、そのときはたと気付いてしまった。
コリウスは、俺の真向かいに座るアナベルの隣に座っている。
つまり、結構距離が近い。
脚を伸ばせば蹴ってしまいそうな位置だ。
カルディオスの、めちゃめちゃ気遣わしげな視線をひしひしと感じる。
――前言撤回。この距離感は、かなりきついものがある。
二日や三日は耐えられそうにない……。
俺のその内心を見透かしたように、アナベルが欠伸を漏らしつつ、誰にともなく尋ねた。
「――で、イーディのおうちまではどのくらいなの?」
「ざっと半時間ちょっとでさぁ」
応じたのは、よっこらせ、と御者台に上がったミドーの親父さんだった。
俺たちがちゃんと座っていて、それぞれトランクを足許に置いていることを確認してにっこり笑って、前に向き直る。
「じゃ、行きますかぁ。
――お嬢さん、去年の冬はえらい豪雪でね、荘園は雪に埋まってたんですぜ」
言い足すようにそう告げられて、トゥイーディアはばっと音を立てて親父さんを振り返っていた。
「えっ、そんなに降ったの? 雪で亡くなった人はいる?」
「いませんぜ、ご安心なさって」
穏やかにそう言いつつ、親父さんが音高く馬に鞭を当てる。
ぴしり、と音がして、ぽくぽくと馬が足を進め始めた。
鉄製の車輪が回転して、敷石との間でがらがらと音を立てる。
がた、と揺れた馬車に体勢を崩しそうになりつつも、トゥイーディアは御者台の方を振り返ったまま。
「雪掻きで怪我した人とか」
「いませんいません」
「ごはんはちゃんとあったの?」
「ありましたありました」
「熱を出した人とか」
「それはちょっといましたなあ」
矢継ぎ早に問い掛けるトゥイーディアに、にこにこしながら親父さんが答えていく。
「でもま、大事に至った奴はいませんよ。
ご安心召されて、お嬢さん、危ないからちゃんと座ってくだせぇ」
言われて、トゥイーディアは渋々といった様子できちんと座り直していた。
むくれた感じの顔が可愛い。
トゥイーディアは尊敬すべき救世主ではあるけれど、こういう子供っぽい一面が可愛い女の子でもあるのだ。
「お嬢さま、落ち着かれては。お屋敷でオーディーに確認すればよろしいでしょう」
メリアさんが窘めるようにそう言ったが、トゥイーディアは「だって」と。
「雪が降ると屋敷は孤立するから、町の様子なんて分かんなくなるじゃない」
「春になったら町まで来て、そのときに様子は知れますでしょう」
メリアさんに呆れたように指摘されて、トゥイーディアは言葉を失った様子でぐぬぬと押し黙り、しばらく目を泳がせたあとに、「そうね」と負け惜しみじみた声音で認めた。
そんな様子が可愛くて、俺は思わず、今生の俺もこの町で生まれたかったなと、そんな益体もないことを考えていた。