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22◆ 尊ばれるもの

 キルトンに到着した日は、生憎の雨天だった。


 車窓を朝からぽつぽつと雨粒が叩いていて、激しくはないが弱くもない、根気強く天が降らせる水滴が、撫でるように光景を灰色に染め上げるのを眺めながらのキルトン着となった。


 駅は町の真ん中にあって、そこに至るまでに汽車の窓から見ているに、どうやらキルトンはありとあらゆる組合(ギルド)が集まる町のようだった。

 迷路のように広がる灰色の石畳の道の両脇に、四角く格式ばった灰色の石造りの建物が所狭しと軒を連ねていて、それが天候のせいもあっていっそう陰鬱に見えていた。



 停車した汽車から、俺たちは半分に割かれた切符を車掌さんに見せて下車。

 ここで車掌さんに切符を渡してしまうと、次の汽車に乗れなくなるからね。

 キルトンから乗り換えた汽車に乗るときに、予め半分に割かれた切符を見せるというわけ。



 下車するや否や、ムンドゥスは彼女を抱えるルインの腕の中で目を覚ました。

 恐ろしいほどに整った顔を顰めて、ルインの腕から身を捩って逃れ出て地面に降りた彼女は、迷うことなくカルディオスのシャツの裾をちょこんと摘まんでいた。



 キルトンの駅は大きな石造りで、古い城塞を刳り貫いて駅にしたかのようにも見えた。


 振り仰げば灰色の石の天井は煤に汚れ、清掃の行き届かない高い位置にある凝った装飾には、あちこちで蜘蛛の巣が掛けられている。

 嵌め殺しの窓も一部に設けられていたものの、分厚い玻璃は黒ずんで汚れていて、たとえ外が晴れていても陽光を通すようには思えなかった。


 そのせいもあってか、駅は暗く、昼間から掛け燭に灯が入れられており、揺らめく明かりが辺りを夜のように錯覚させていた。


 足許は、屋内には似つかわしくない石畳が敷き詰められたものとなっており、雨の中をやって来た旅行者の靴が運んだ水滴が、石畳の凹みに黒く小さな水溜まりを幾つも作って、空気をひんやりと湿気させていた。


 人通りも多く、黒い服を着た集団が行ったり来たりしていたが、そんな彼らは大抵が商売の話をしていた。

 恐らく商人の正装が黒い服なのだろうが、みんながみんな黒いフロックコートに山高帽を被っているものだから、なんだか全員が同一人物に見えてしまう。



 人の話し声と汽笛、汽車の車輪が回転する音で、石造りの駅の中は悪夢のように騒々しい。


 ただでさえ罅割れだらけのムンドゥスが、この音で木端微塵に砕けてしまわないか、心配になるような音が反響し合っている。

 尤も、ムンドゥスはよく出来た人形のような無表情のままだったけれど。



 幾つかの軌道がこの駅で合流していて、また別々の方面に向かって抜けて行くらしい。


 騒々しさに負けじと声を張り上げたトゥイーディアが説明するに曰く、ここから王都イルス方面の汽車も出ているのだそう。



 この駅では、カーテスハウンのように、行先様々な汽車が肩を並べて停車するのではなくて、あっちこっちに分散して停まるようだった。

 お陰で乗り換えのために移動する人たちで、駅の中に人混みが出来ている。



 トゥイーディアはしばし、ここでオールドレイに戻るのが最善か、あるいは王都に向かうべきか、思案するような顔をしていた。


 何しろ、現状では俺たちは、トゥイーディアのお父さんがどこにいるのかすら分からない。


 お父さんの居場所が分かっていれば、俺たちは最優先でそちらへ向かうべきだろう。

 手の届く距離にさえ行くことが出来れば、最悪の場合力づくでもお父さんを助けることが出来るからね。


 だが、お父さんの居所が分からない以上、彼を裁く権限を持っている人間がいるはずの王都へ先に向かって、彼の無罪を直訴するべきか、トゥイーディアは考えたのだろう。


 とはいえ――トゥイーディアが言うように、彼女のお父さんがそれほどに高名な騎士であるならば――、彼がどこかへ引っ立てられて行けば、それこそ新聞の号外がばら撒かれる騒ぎになるはずだ。

 そういった号外の新聞が発行されていない以上、オルトムント・リリタリス卿は未だにオールドレイに留め置かれていると考えるのが妥当。


 そのため、まずはオールドレイに向かうのが正解だろうと、言葉少なにコリウスが彼女の耳許で助言して――何しろ、そうでもしないと言葉が聞き取りづらい程に辺りは騒々しかったから――、トゥイーディアも複雑そうな顔で頷いていた。


 ディセントラはその判断を危ぶむように柳眉を寄せていたが、何も言わなかった――そもそも、コリウスとトゥイーディアの判断を彼女が危ぶんでいるという風に見えたのも、俺の勘違いかも知れなかった。

 何しろ周囲には騒音が溢れて、人が眉を寄せるには十分な環境だったから。



 トゥイーディアはそこで一応、宿を取るかどうかを俺たちに尋ねた。

 何しろ、四日間に亘って汽車に缶詰めになった後である。


 だが、トゥイーディアの飴色の目は如実に、「一刻も早くオールドレイに向かいたい」と語っていた。

 彼女を駆り立てている感情は俺たちには理解不能だったが、彼女がどれだけ焦っているのかを想像することは出来るというもの。


 そんな中でも律儀に休憩の必要性を訊いてくれる辺りが、公明正大な彼女らしいといえばらしいけれど。


 トゥイーディアの瞳の色を読み取ってなお、宿を所望する奴は俺たちの中にはいなかった。


 トゥイーディアはどうやら、主にアナベルに向かって宿泊の希望があるかを尋ねたようだったが、アナベルも黙って首を振っていた。

 ――そりゃそうだろう、アナベルは救世主としての役目から遠ざかったトゥイーディアの行動を、積極的に応援はしないだろうが、一方で引き留めることも邪魔をすることもないと明言しているのだから。


 一方の俺は、代償ゆえに自分が「休みたい」とか言い出さないかと恐れていたものの、黙ってそっぽを向いておくことは出来た。

 内心で胸を撫で下ろす俺の表情は、端から見れば完全なる無表情だったことだろう。



 宿は取らず、このままモールフォスへ向かうことにした俺たちではあったが、疲労がないと言えば嘘になる。

 何しろここまで、一箇月超の移動続きである。


 俺たちは――何というか、これまでの人生経験があるからかも知れないが――、まだ平気な顔が出来ている。


 一方、メリアさんは既に結構ふらふらになっていた。

 トゥイーディアは申し訳なさそうにメリアさんを見ていたが、メリアさんからすれば今は、彼女の主人の危機である。

 恐らく帰郷を急ぐ気持ちはトゥイーディアに匹敵するだろう。


 そしてルインは、意外にもまだぴんぴんしていた。

 こいつが魔界でどういう扱いを受けていたのか、俺はいよいよ危機感を持ち始めている。

 十八歳までは同じ城内で過ごしていたとはいえ、俺は自分の命を繋ぐことに必死だったから、こいつがどういう風に過ごしていたかなんて知らないんだよな……。



 ともあれ、キルトンにて次の汽車へ乗り継ぐに当たって、俺たちは相当の早足で移動しなければならなかった。



 通路の向こうから汽笛が響いてくるなぁと思っていたら、同じ方向に向かっている人たちが一斉に走り始め、トゥイーディアも「やばっ」みたいな顔で走り始めるものだから、訳が分からないまま取り敢えず走って(カルディオスに至ってはムンドゥスを抱えて走って)、ぎりぎりのところで発車間際の汽車へ滑り込んだというわけである。


 俺たちを含む、汽車目掛けて走る一団を迎えた車掌さんは、ちょっとした呆れ顔だった。

 通路から一番近い位置の車両に、汽車を逃すまいとして疾走した一団が固まって乗車することになったのだから、なおのことそうだった。


 外から運ばれてきた水滴で濡れた石畳は滑りやすく、俺たちの目の前を走っていた紳士は、ちょっと心配になるくらい身体の均衡を失った状態で、(まろ)ぶようにして汽車に飛び込んでいた。


 ぜぇぜぇ言いながら車掌さんに切符を見せ、またしても昏倒したムンドゥスを奇異な目で見られるのを笑って誤魔化す。


 この汽車を逃すと、次の汽車を相当待たねばならなくなったことは想像に難くない。

 間に合って良かった、と、トランクを持ち直し額を手の甲で拭いつつ、ほっと一息。


 同じようにはぁはぁ言っていたり、あるいは脇腹を押さえていたりする人たちが団子になって車両に乗り込み――座席は既にいっぱいになっていたため――、各々通路に立ったところで、再び汽笛が鳴り響き、がたこん、と汽車が発車した。



 俺たちは、ディセントラを先頭に立てて、その後ろにアナベル、それから俺、ルイン、コリウス、トゥイーディア、メリアさん、そして最後尾にムンドゥスを抱えたカルディオスの順番になった。

 車両の中の人口が結構多いので、お互いに距離が近い。

 俺とコリウスの間に立ってくれたルインの手を、俺は感謝の気持ちを籠めてそっと叩いた。


 汽車が動き出した瞬間にふらついたのは全員共通のことで、自力で体勢を立て直したのは救世主六人に共通のことだった。


 立ちぼうけになっている他の人たちは、軽くお互いにぶつかり合っていたりして、あちこちで小声で謝る声が続出した。


 ルインも危うくコリウスにぶつかりそうになっていたが、コリウスは意外にも、嫌そうな顔ひとつせずに片手で彼の肩を支えてやっていた。

 すみません、と恐縮するルインに、構わないと素っ気なく手を振っている。


 俺たちの中の端っこに立っているディセントラが、隣でよろめいた若い紳士を咄嗟に支えてやったらしい。

 紳士は慌てたように「すみません」と呟いたあと、「いえ」と微笑んだディセントラの顔に釘付けになっていた。


 ディセントラは、他人が自分の顔に見蕩れるのは当然と思っている節があるので、そのままあっさりと紳士から視線を外したが、紳士は何やら急に気取った笑顔を作ると、ぐいぐいディセントラとの距離を詰めようとし始めた。


「いや失敬、私としたことが、女性にぶつかってしまいまして」


 ディセントラがほんのりと微笑む。

 彼女の、紳士とは反対側の隣に立っていたアナベルが、即座に他人の顔をし始めたのはさすがである。


「いえ」


「私の荷物がぶつかってしまいましたかな? 大変な失礼を」


 ディセントラは愛想笑いのお手本のような表情。


「いえ、大丈夫ですよ」


 その後延々と、ディセントラの名前と目的地を聞き出そうとあの手この手で口説く紳士の声を、俺はぼんやりと聞いていた。


 駅を出た汽車の車窓には、ぽたぽたと大粒の雨がぶつかっている。


 水滴が慣性に引っ張られるようにして分厚い硝子に筋を描くのを、俺はトランク片手に、揺れる汽車の中で身体の平衡を保ちつつ眺めていたが、そのうちに、ぐい、とアナベルに袖を引かれてそちらを向いた。


「――なに?」


 汽車の中ということもあり、声を低めて尋ねると、アナベルは無言でディセントラの方を手で示した。

 手で示しながらも、なおも他人の顔をしているのはさすがである。


 そちらをちらっと見ると、迫る紳士に、ディセントラもそろそろうんざりした顔をしていた。

 それでも愛想の欠片を唇と目尻に引っ掛けて、穏やかにのらくらと紳士の猛攻を躱している。


 俺は渋面を作った。


「いや、自分で何とかするだろ……」


 アナベルが、すっと薄紫の目を細めた。


 同じ系統の色の目であっても、コリウスの濃紫の瞳が水晶を思わせるのに比べて、アナベルの瞳は花びらを思わせる柔らかな色合いだ。

 尤も、そこに氷のような光が浮かんでいるわけだけれども。


 俺は思わず、こういうときに躊躇いなくディセントラを救出できるだろうカルディオスを振り返ったが、カルディオスは俺たちの中での反対側の端っこにいる。

 隣に立つ見知らぬ紳士から、抱えたムンドゥスを庇うのに苦労している様子だ。


 あいつの助力を乞うのは無理だな。

 ディセントラの状況に気付いてもいないだろうし、そもそもアナベルがここにいる時点で、あいつがここまで来てくれるはずもない。

 通路の幅からしても、ムンドゥスを抱えたカルディオスがここまで来るのは無理だ。


 視線を翻し、俺はディセントラを再び一瞥。

 あいつがちょっと冷たい態度を取れば、あんな若造、すごすご退散していくだろうに……。


 がたん、がたん、と、不規則に汽車が揺れる。がしゃがしゃと車輪の回転する音が響く。


 視線を手前に引いて、アナベルを見下ろす。

 アナベルは断固として、「行け」というようにディセントラの方を示している。


 俺はますます顰め面。


「そのうち自力で振り払うって……」


 潜めた声で囁くと、アナベルは苛立った溜息を落とした。

 そして、ともすれば車輪が回転する音に紛れそうなほどの小声で、しかし断固として、きっぱりと言った。


「うるさいのよ」


「――はい」


 余りにもきっぱりと言われたので、俺も逆らう気力を失くした。


 狭い通路で、ほっそりしたアナベルと少々梃子摺りながらも位置を交替。

 アナベルのトランクの角が思いっ切り俺の脇腹に食い込んできたので、俺は無言でアナベルの手からトランクを取り上げ、自分のトランクを足許に置いて彼女のトランクを持った。


 アナベルは瞬きして、「あら、どうも」なんて嘯いたが、まるで悪びれた様子もない。

 シオンさんはこいつのどこが良かったんだ。


 諸々の感情を籠めて溜息を吐いてから、俺はどうやらディセントラの顔しか見えていなさそうな紳士の目の前で、ディセントラの腕を掴んで自分の方へ引っ張り寄せた。


 ちょうど汽車が揺れたタイミングと重なって、ディセントラが俺に寄り掛かるような格好になった。


 ディセントラがちらっと俺を見上げて悪戯っぽく微笑むと同時に、紳士があからさまに胡乱な目で俺を見てくる。


 だが、彼が何を言うよりも先に、俺がぶっきらぼうに告げていた。


「――こいつ、俺の連れ」


 紳士が一瞬ぽかんとした後、ぐっと言葉を呑み込んだ。


 上背があるとこういうときに便利だね。上から睨むと威圧感があるのか、変に噛み付かれないことが多いし。


 それでも未練たらしくディセントラの方を見る紳士に向かって、ディセントラがにっこり。


「連れです」


 敢え無く玉砕した紳士がしおしおと肩を下げて顔を逸らし、ついでに身体の向きも変えるのを見守ってから、俺は溜息を吐いた。


「――半端に相手するなよ」


 小声で苦言を呈するに、ディセントラは「ごめんごめん」と手を振ってみせる。


 ――これ、ディセントラの役回りがトゥイーディアだったら最高だったんだけどな……。


 ディセントラは反省した風情もなく、一応は隣にいる紳士に気を遣ったのか、彼に声が聞こえないよう、俺に身を寄せてきて小声で述懐する。


「あんたが来てくれると、一発で引いてくれる人が多くて助かるわ」


「カルだろ、それは」


 ちらっとカルディオスの方を見遣りながら呟く。


 ――異性同性問わず、ディセントラは声を掛けられることが多い。

 そしてナンパに引っ掛かったディセントラは、生来の気の優しさもあって、すっぱりとそれを切ることが出来ないこともままあるのだ。


 そういうときにカルディオスが救出に向かうと、事は非常にスムーズだ。

 カルディオスを見てなお、自分のナンパを続行できる人間を、俺は今までに見たことがない。


「まあ、カルディオスもそうだけど」


 ふふ、と笑って、ディセントラはトランクを反対側の手に持ち替える。


「コリウスは、もうあからさまにいいところの坊ちゃんに見えるから、舐められることもあるじゃない。あんたは背も高いし、割と顔立ちも綺麗だから、真顔でいると舐められ難いのよ」


 俺は、もう一度カルディオスの方を見た。

 ここからでは横顔しか見えないが、ムンドゥスとトランクを纏めて抱えることになってうんざりした顔をしている。


 そしてそんな顔をしていてもなお、輝くような美貌。


「……綺麗ってのは、ああいう顔だろ」


 思わずそう言うと、ディセントラは弾けるように笑った。

 汽車の中だという意識はあったのか、声を抑えようとしたようだが失敗し、車内に軽やかな笑い声が響く。


 とはいえディセントラのこと、笑い声まで完璧に整った珠の如しなので、嫌な顔をする人間がいようもはずもない。


 むしろなんか、雨のせいでじめついていた車内が華やいだ感じがする。


 俺も釣られて表情を緩めたが、視界の端で、コリウスがちらりとこちらに視線を向けたのを認めて、忽ちのうちに真顔になった。




 そのうちに、立っていることに疲れたらしいアナベルが、つんつん、と俺をつついて自分のトランクの返還を要求。

 俺としても荷物が減るのは大歓迎なので応じると、そのままトランクを床に置き、その上にちょこんと腰掛けてしまった。

 ふあ、と欠伸を漏らすこいつの、通路のど真ん中であろうと寛げる神経はある意味で尊敬に値する。


 とはいえ、座席と違って、特段床に固定されていることもないトランクの上に座っているのである。

 何かの拍子でトランクごと倒れかねないので、俺は意識の半分をアナベルの方に割いておく羽目になった。




 夕方になって、汽車はコーディロイという町の駅に停まった。


 ここでちらほらと下車する人がいて、カルディオスは空いた座席に腰掛けた様子。

 膝の上にぐったりしたムンドゥスを乗っけて、なかなかにご機嫌斜めな態度だ。


 彼の隣には、どこかへ奉公に向かう最中なのか、真面目そうなお下げ髪の、十三、四歳と見える女の子が、頑丈そうな小さなトランクを膝の上に乗せて座っていた。

 隣に座った絶世の美青年に、彼女はまず顔を赤らめ、それから美青年のご機嫌が優れないのを見て取って、緊張した様子で背筋を伸ばしていた。


 カルディオスは、詮索が面倒だと思ったのか何なのか、自分の外套をムンドゥスの頭から被せて、彼女を人目から隠すことにしたらしい。

 厄介そうにムンドゥスを支えて、絵になる溜息を零している。



 コーディロイを出た時点で、俺は、どうやらこのまま立った状態で夜明かしをしなければならないらしいと察した。


 俺は別にいいんだけど、疲れているだろうトゥイーディアにはどこかに座ってもらいたい。


 横目でトゥイーディアの様子を窺うと、彼女はどうやら、すぐ目の前の座席に腰掛けている、ひょろりと痩せた老人が片眼鏡越しに読んでいる新聞を、脇から覗き見ているようだった。



 それからしばらくして、揺れる車内に車掌さんの声が響いた。

 曰く、カンテラの灯を点すので、通路の乗客(つまり、俺たち)は道を譲ってほしい、と。


 コーディロイで少し空いたとはいえ、まだまだ立っている人も多い。

 明かりが必要なことは分かっているが、気怠そうな顔をする人も相当数いた。

 因みに俺もその一人だ。


 面倒くせぇ、と思ってしまった俺は、無言で素早く、全てのカンテラに灯を入れた。

 この程度なら、わざわざ仕草を合図にして集中するまでもないからね。


 ぱっ、と、全く同時に全てのカンテラで炎が揺れ、唐突に明かりの灯った車内には、当然ながら驚きの声が溢れた。


 俺も周囲に合わせて、びっくりしたような顔をしておいて知らぬ振り。

 この時代、世双珠を使わずに魔法を使うだけで大注目を浴びるだろうし、今この場で目立っては、いいことなんて一つもないからね。


 とはいえ、俺の魔力の気配は仲間の全員が知るところ。

 ディセントラとアナベル、両脇から呆れたような溜息が聞こえてきて、俺は白々しくそっぽを向くこととなった。



 窓硝子が明かりを反射して、橙色を帯びた鏡のようになっている。

 外の光景はもう見えない。


 がしゃがしゃと響く車輪の音を聞きながら欠伸を漏らした俺は、モールフォスまでの距離を思って、立ったまま軽く目を瞑った。





◆◆◆





 翌日の昼には、汽車はだいぶ空いてきて、俺たちは――ばらばらの座席ではあったものの――無事に腰掛けて足を休めることが出来た。


 俺が座った座席の隣には、今から親のかたきにでも会いに行くのかと思うほど不貞腐れた顔で窓際に頬杖を突いている、十七、八とみえる年頃の青年が座っている。

 ベレー帽を被った彼は、長旅をしているとは思えないほどに荷物が小さかった。


 俺の向かい側には夫婦と思しき老人と老婦人が並んでちょこんと座っており、窓際に腰掛けた老婦人は、目にも留まらぬ速さで編み棒を操り編み物に没頭している。

 彼女の白髪は後頭部できっちりと結い上げられて、真珠を象嵌した小振りな銀細工の髪飾りが、その髷に添えられて光っていた。


 一方の、通路側に座る老人は時折彼女に声を掛けて気を引こうとしていたが、その度に生返事しか得られないことにしゅんとしてしまっていて、その様子は見ていて微笑ましかった。



 昼に停まった駅(町の名前は聞き取れなかった)で食事が作られていたのか、発車後しばらくして食事が回ってきた。

 円筒形の、蓋付きのブリキの容器に入った肉入りのスープで、味は薄かった。


 だが、空腹時には有り難い限りである。


 隣の青年はものすごい勢いでそれを完食し、満足そうに溜息を吐いたあと、さっきまでの態度は何だったんだと思うくらいに愛想よく俺に話し掛けてきた。

 別にこれから親の仇に会いに行くわけではなくて、単純に極限状態の空腹を味わっていただけだったらしい。


「――あんた、これからどこ行くの」


 雀斑の浮いた頬に笑窪を浮かべて尋ねられ、俺は肩を竦めた。


「連れの里帰りに付き合ってる」


「ふうん」


 そう答えつつ、なおもブリキの容器の底を匙で擦り、ありもしないスープの残りを探しているらしい彼を見かねて、俺は三分の一ほどが残った自分のスープを彼の方に差し出した。


「――残りで良ければ、いる?」


「いる!」


 めちゃめちゃ元気よく応じた青年が、空になった方の容器を窓際に置いて、俺の手からスープをひったくった。

 そして、太陽のように明るい笑顔を浮かべる。


「あんた優しいな! 俺さ、昨日の昼から何も食べてなかったの。もー腹減って腹減って、やばかったよ。昨日の夜とか、ひもじくて豚の丸焼きの夢見てたくらい」


 そのままがっつこうとする彼を止めて、俺は「ゆっくり食べた方がいいと思うぞ」と。


「おう!」と笑顔で応じた青年は、飲み干す勢いでスープを完食した。


 俺は彼の腹具合が心配になったが、ほう、と満足そうに息を吐く様子を見ているに、なんか大丈夫そうだった。


 それでもまだ物足りなさそうなので、俺は座席に膝立ちになって、背中合わせの位置に座ったアナベルの頭の上から呼び掛ける。


「アナベル、買ってたビスケットってまだ残ってる?」


 アナベルは、見下ろされたことを不快に思っていることを隠さずに俺を見上げて、それから肩を竦めた。


「さあ。イーディかメリアさんが持ってるんじゃない?」


 がたん、と汽車が大きく揺れて、俺は危うく座席から落っこちそうになった。

 それを、背凭れをぐっと掴んで堪えて、俺は渋面で頷く。


 内心では、これでトゥイーディアに話し掛けに行く大義名分が出来たと拳を握って大喝采。


 が、どうやら俺とアナベルの遣り取りが耳に入ってしまったらしいトゥイーディアが、先回りしてビスケットの包みをメリアさんに託して、俺のところに届けさせてしまった。


「お嬢さまから」とビスケットの包みを渡されて、俺は内心で涙。

 いや、気が利くところも好きだけどさ……でもマジで、なんか俺、避けられてないか?


 ともあれ、俺は一掴みのビスケットをこの青年に譲渡することとした。

 このビスケットは全員分のものではあるけれども、この先俺が食わなきゃ大丈夫だという算段である。


 俺がビスケットを押し付けると、青年は救世主を見るような目で俺を見てきた。


 いや、俺は救世主だから、そういう目で見られることはある意味で正解なんだけれども。


「あんたマジ……? いいの? ほんとに? いや助かるわマジで」


 笑み崩れて、さっきまでよりは落ち着いたペースでビスケットを口に運ぶ青年。


 目の前に座る老婦人は、さすがに食事とあって編み物の手を止めており、かつ食べる速度が青年とは段違いだったので、未だにふうふうと品よく匙に掬ったスープを吹いては口に運んでいたが、その様子を見てふふっと笑っていた。


「まあ、ご親切な方もいたこと」


「ほんとっすねー」


 おまえはこの老婦人の連れか? と言いたくなる程に自然体で青年が相槌を打ち、一方で老婦人の隣の老人は、むすっとした顔で口を挟んでいた。


「儂だって昔は散々おまえに」


「はいはい、みっともないからやめてくださいな」


 ぴしりと言われて老人が項垂れる。


 奥さんのこと大好きなんだろうな。

 なんか羨ましくなってきた。


 もぐもぐとビスケットを咀嚼しながら、青年は俺の方に向かって、真顔で言ってきた。


「なあ、俺、後で金払えって言われても無理だからね。仕事辞めてきたとこだし」


 俺も真顔。


「それ、大丈夫なのか?」


「まあ何とかなるっしょ。これから地元に戻るんで。事情話せば仕事くれる人はいると思うっす」


 あっけらかんと言う青年に、詳しく事情を訊く気はないものの、俺も適当に相槌を打つ。


「アテがあるならいいけど。あと、金も別に要らないから安心してろ」


「あんた太っ腹だね」


 にかっ、と笑った青年は、訊いてもいないのにぺらぺらと喋り始めた。


「仕事、結構気に入ってたんだよ。印刷所の仕事だったんだけどね。ほら新聞とかの。

 でも町中で警吏に石投げちゃってさ、俺としても雇い主に迷惑掛けらんねえじゃん? 辞めるしかなかったわー」


 俺は曖昧に唸った。

 なんで警吏に石投げるような自殺行為をしたのかは知らんが、こいつ、なかなか豪胆らしい。


 だが、老人がちょっと身を乗り出して、まじまじと青年を眺めて呟いた。


「――モールフォスの人間(もん)か?」


 目的地の名前が出てきて俺はびっくりしたが、青年はあっけらかんと首肯し、また一つビスケットを口に放り込んでばりりと咀嚼してから、もういちど頷いて言った。


「そうっす」


「よくやった」


 老人の口からまさかの賛辞が飛び出し、俺はますますびっくりしたが、そんな俺の顔を見て、老婦人が口許に手を宛がってふふっと笑った。


「あら、あなた他所の方なんですのね」


「まあ、はい」


 嘘を吐く理由もないので、素直に頷く。


 青年は、今度はビスケットを二つ口に放り込み、ばりぼりと咀嚼して飲み込んでから、当然の口調で言った。


「俺、王都(イルス)で働いてたんで。警吏の連中見てたら腹立ってきちゃって」


 俺は瞬き。前後の文脈が分からない。


「……なんで?」


 結局そう尋ねた俺に、青年の方もびっくりした顔をした。

 ビスケットを口に運ぼうとしていた手を止めて、目を疑うというように俺をまじまじと見て。


「え? 当然でしょ。余所者でも分かるでしょ」


 悪いけど分からない。


 とはいえ、追及するほどの興味は惹かれなかったので、俺は曖昧に笑って誤魔化そうとした。

 だが、青年は大きく目を見開いて、声を高くして言っていた。


「イルスの連中でしょ。ニードルフィアの大英雄に汚名を着せたの」


 俺は一気に真顔になった。

 トゥイーディアがいるはずの方向を振り返ろうとして、しかし出来なかった。


 心なしか、車内が一気にしんとした気もする。



 ニードルフィアの大英雄――即ち、トゥイーディアのお父さん。オルトムント・リリタリス。



 ガルシアで、彼女の傷を治しながら聞いたトゥイーディアの話を、俺は勿論覚えている。


「ああ」


 呟いて、俺は唇を噛んでから、肩を竦めて言った。


「――俺、アーヴァンフェルンの人間なんだ」


 青年は合点したように破顔した。


「ああ、そういうことね。――リリタリス卿の話、さすがに他所の国には伝わってないよね。

 でもほんと、有り得ない話なんだよ。俺、仕事場で新聞の印刷しながら目ぇ疑ったもん。あの英雄さまに罪があるって言うなら、その罪を決めた方が悪人だよ。今ごろ、俺の父ちゃんが墓ん中で引っ繰り返ってるよ、有り得ねえって」


 俺は、一応はトゥイーディアのお父さんの状況を朧気に理解しているから、この青年の言葉の意味が呑み込めた。

 だが、俺が単なるアーヴァンフェルンからの旅行者であった場合、なんのことだと面食らったに違いない。


 前段の説明を飛ばし過ぎた青年の言葉ではあったが、彼が真剣に腹を立てていることは伝わってきた。



 ――トゥイーディアのお父さんって、俺が思っていたよりも数倍は偉人の扱いを受けているみたいだ。


 一般人が警吏に石を投げるのに、どれだけの度胸が必要かは言うに及ばず。

 その行動を取らせてしまうくらいに、英雄として名が知れ渡っているらしい。



「……ニードルフィアの乱って、あんたが生まれる前のことじゃねえの」


 確か、二十年くらい前の話だったはずだ。


 そう尋ねると、青年はきょとんと目を丸くした。


「ん、そうだけど、あの人がいなかったら、ニードルフィアの人間は今ごろ骨の髄まで領主に搾り取られて()()()()になってんよ」


 ちょっと間を置いてから、青年は照れたように笑った。


「俺ね、ニードルフィアに友達いるんだ。そいつの親父さん、あの人に助けてもらったんだよ」


 然りと頷く目の前の老夫婦。


 はたと気付いて周囲を見渡すと、車内の相当な人間がこちらの会話に耳を澄ませているようだった。



 その後しばらくして、青年のところに、全く見知らぬ紳士が汽車の揺れに足を取られながらも歩いて来て、どうやら自分の食事にする算段で持ち込んでいたのだろうサンドウィッチを押し付けていた。


 青年は面食らった顔でそれを受け取り、「世の中って親切な人多いんだね!」と天真爛漫に微笑んでいたが、違う。


 単純に、英雄に着せられた汚名にぶち切れて警吏に石を投げた青年の行動が評価されているだけだ。




 ――命か名誉か、思い出だって対価たり得る。



 歌うようにそう言っていたヘリアンサスの言葉が、思い出そうとなんてしていないのに脳裏に甦った。



 ――あいつが『対価』として捧げようとしているのが、トゥイーディアのお父さんの()()なのだとすれば、



 嬉しそうにサンドウィッチにかぶり付く青年を横目に見ながら、俺は考えていた。



 ――まだ()()は手に入っていない。


 トゥイーディアのお父さんの名誉はまだ、これほどに守られて尊ばれている。

















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