21◆ あの頃に戻れるなら
リドフールはエレリアとは違い、賑やかな港町だった。
白い外壁に橙色の釉で塗られた瓦屋根を持つ建物がずらりと並び、平坦な地形に恵まれた港町は活気に満ちている。
港に停泊している船も相当数あり、さすがは元・西の最大国家といったところ。
今は新興国に押されて国土は縮小気味――アーヴァンフェルン帝国とは比べるべくもない小国になってしまっているとのことだが、それでも由緒正しい国家としての威厳を保てる程度には栄えているらしい。
港からは汽笛が響き渡り、あちこちから客引きの声や世間話が聞こえてくる中、人混みを縫って足早に歩くトゥイーディアに付いて、俺たちは駅へ向かっている。
一箇月の船旅の後では、足許が揺れないことに逆に違和感があった。
「汽車を使えば、オールドレイまで七日くらいよ。ただ、汽車の軌道がずっと一続きになってるわけじゃなくて、キルトンの辺りで乗り換えなくちゃいけないの。きみたちが疲れていたら、そこで一晩くらいは宿を取ってもいいと思うわ。
――あ、メリア、レイオン紙幣持ってる? アルアを替えなくちゃ」
すたすたと雑踏を歩きながら、早口で捲し立てるトゥイーディア。
この人混みの中にあって、カルディオスはとうとうムンドゥスの手を握ってやっていた。
この傍迷惑な美貌の少女は、船から下ろしてやると、やっぱり何事もなかったかのように目を開けたのだ。
道行くほぼ全員が、呆気に取られたようにムンドゥスを振り返っているが、もう開き直るしかない。
雑踏のお陰で、周囲には熱気があるように感じる。
アーヴァンフェルンの夏に比べれば、レイヴァスの夏の気温は低い。
だが今は、俺ですら汗ばむくらいの陽気だ。外套などとうに脱いで腕に引っ掛けている。
道幅は広く、両脇には多種多様な店が軒先を連ねている。
道の端に等間隔に並ぶ街灯は、全て綺麗に緑青の色に塗り上げられていた。
人混みの中を時折、がらがらと車輪の音を立て、通行人を威嚇する御者の怒鳴り声と共に馬車が走って行く。
さすがに小さな馬車で、一頭立てや二頭立ての辻馬車ばっかりだが、それらが通る度に通行人から怒声が上がっていた。
敷石の上には、紙袋やちり紙などの塵が所々に落ちていた。
道行く人たちは、労働者階級と思しき人が多い。
その中にも中流くらいの階級と思われる人もちらほらと混じっていて、気取った山高帽が時折視界を掠めていく。
「レイオンも少しは。お時間を頂戴できましたら、両替所まで参りますわ」
メリアさんが、トゥイーディアに置いて行かれまいと小走りになりながら答える。
――以前までの人生では、国が変わろうが通貨は替えなくて良かった。
流通している通貨は違えど、通貨は金とか銀とかで出来ていた――つまり、通貨それそのものに価値があったから、ぶっちゃけどこの国の通貨であっても取り扱ってくれたのだ。
勿論、その通貨によって金や銀の含有量は違う。
だからこそ商人たちにとっては、どこの国の通貨の質が良くて、逆にどこの国の通貨の質が悪いのか、弁えておくことが必要となっていたのだ。
それが今や。
言っては何だが、今の通貨は紙切れと、銅に鍍金を施した硬貨だ。
これに価値を付与しているのは、あくまでもこの通貨を流通させている国である。
ゆえに、他国の通貨は使えない。
そのために両替という手続きが必要になるそうで、昨今の情勢だとか物価の状態だとか、そういうのを加味した上で為替の相場が商人の組合によって決められていて、その相場に従って、通貨が売買されるのだそう。
つまり、今の俺たちの場合、アルア紙幣とアーニェ硬貨を、レイオン紙幣とレギス硬貨で買ってもらわねばならないのだ。
「うん、お願い。あとごめんね、レギスをちょっと貸してくれる?」
「……わたくしの懐にあるのは、全てお嬢さまの財産ですが」
道の端でちょっと立ち止まって、ちゃりちゃりと硬貨を遣り取りするトゥイーディアとメリアさん。
ちらっと見たところ、丸いアーニェ硬貨と比して、レギス硬貨は丸みを帯びた四角い形をしている。
トゥイーディアに所望の金額が渡ったところで、メリアさんが両替所とやらに向かおうとする。
それを呼び止めて、ムンドゥスを連れたままのカルディオスが同行を申し出た。
「俺も替えたい金があるから」
とは言っていたが、明らかに、若い女性をこの雑踏の中で一人歩きさせることを危惧しての申出だった。
ついでに言えば、カルディオスが一緒にいれば、メリアさんとの合流に困ることもあるまい。
俺たちは、お互いに魔力の気配が分かる。
コリウスも、相当額のアルアを持っているはずだ。
だが、ここで自分が同行することは出来ないと踏んだのか、メリアさんに懐の金を渡して言付けていた様子。
トゥイーディアがメリアさんとカルディオスを「お願いね」と拝み、ここでいったん別行動。
トゥイーディアはドレスを翻し、さくさくと人混みを縫って歩いて、小ぢんまりとした構えの店を訪ねた。
店というより、駅で切符を売っているスペースに近い。
小屋に、カウンターを兼ねる小窓をくっ付けた感じ。
その店の隣は雑貨屋と帽子屋で、まるで両脇から圧し潰されていきそうだと思えるくらいに小さな店構えだった。
トゥイーディアが硝子の小窓をこんこんと叩くと、がたがたとその窓が上げられて、浅黒い肌に皺の刻まれたお爺さんが顔を出した。
「はいよ」
煙管をくゆらせながら応対する爺さん。
言葉の訛りがレイヴァスのものではなかったから、他国からここに流れ着いた人なのかも知れない。
そんな彼に、トゥイーディアはぐい、とレギス硬貨を押し付けて。
「今月の分と先月の分、ちょうだい」
「あいよ」
そう返答した爺さんが、折り畳まれた新聞をがさがさとトゥイーディアに差し出すのを見て、俺はようやく、ここが新聞店であることに気が付いた。
俺たちはそこから、くねくねと続く道を辿って進んだ。
人混みにいい加減うんざりしてきたところで、ようやく煉瓦造りの駅が見えてきた。
カーテスハウンほどではないが立派な駅だ。
新聞を抱えたままのトゥイーディアが、「ちょっと待ってて」と言い置いて駅に入って行き、しばらくして出て来た。
むすっとした顔で、ぼそっと呟く。
「――次の汽車、四時だって」
現在、午後の一時。
――人酔いしそう、とのアナベルの申告により、俺たちは駅前の、道の端っこで一纏めになって突っ立っていた。
トゥイーディアはトランクを足許に置き、立ったまま新聞を隅から隅まで読み始めている。
言うまでもなく、お父さんに関連する記事を探しているのだろう。
ディセントラはそんなトゥイーディアのすぐ傍に立って、トゥイーディアが読んでいない方の新聞を、理知的な瞳で読み進めていた。
トゥイーディアは二月分の新聞を買ったからね。
ルインは俺とコリウスの間に立ってくれていた。
見事に盾になってくれて、俺としてはもう感謝しかない。
そうしているうちに、両替を終えたカルディオスとメリアさん、そしてカルディオスに手を引かれたムンドゥスが合流してきた。
メリアさんは丁寧にコリウスに預けられていたアルア相当のレイオンを返却し、現在の相場と金額を説明しようとしていたが、コリウスは面倒そうにそれを手で遮って、受け取った金をそのまま仕舞い直していた。
カルディオスは、トゥイーディアとディセントラが新聞を読んでいるのを見て、翡翠の瞳を大きく見開いた。
それからトゥイーディアに寄って行って、屈んで彼女と目の高さを合わせつつ首を傾げる。
「――お父さんのこと、なんか書いてあった?」
「先月の新聞には」
そう答えて唇を引き結び、トゥイーディアは目を上げる。
「まだ罪状は確定してない。疑いの段階としか書いてない。お父さま程の方だもの、事態が動けば絶対に記事になるわ。今月の新聞には何もないから、だから、まだ大丈夫。まずオールドレイに帰るので間違いはないわ――」
唱えるようにそう呟くトゥイーディアに、「そっか」と微笑み掛けて、カルディオスはディセントラに視線を向けた。
そして、ちょっとだけ目を眇める。
「――なあ、妙にレイオンの価値が低かったんだけど、トリー、何でか分かる?」
問われて、ディセントラはてきぱきとした仕草で、がさがさと新聞を折り畳みつつ。
「そうねぇ、推測になるんだけど。
でも今、この国はややこしいみたいだから、それで商人が警戒してるんじゃないかしら」
為替相場を決めるのは、何を隠そう商人の勘と動向である。
商人が経済を握っているのだから当然だ。
為政者側が何をどう圧力を掛けようと、戦時中でもない限り物価は正直だ。
商人は気候や政局や流行を読んで、自分の商品に値をつけるのだ。
そして当然、国が危ないと感じれば、その国が価値を担保している通貨を手放して、他国の通貨で財産を確保しようとするはず。
国境を跨ぐ商売をしているならばなおのことそうだ。
つまりその結果、いわば商人に見捨てられたような形になった通貨が市場に氾濫して――需要に比べて供給が過多となって――通貨の価値が相対的に下がるのだろう。
――と、ここまでは、鈍い俺の頭でも理解できた。
アナベルが無関心そうに欠伸を漏らす。
トゥイーディアが、訝しそうにカルディオスに視線を向け、それからメリアさんに目を向けた。
メリアさんの表情も芳しくなかった。
「――そんなに?」
短く尋ねたトゥイーディアに、カルディオスが短く答える。
「一アルアが十レイオンだったぜ」
そっぽを向いていたコリウスが、思わずというように銀の柳眉を上げてカルディオスを見たが、カルディオスはそれには気付かなかったらしい。
ぽかん、とトゥイーディアの口が開いた。
俺は今の経済に疎いから、それがどれほど平時と隔たった相場なのかが分からなかったが、トゥイーディアを驚愕させるに足る相場であることは確からしい。
ぱち、と飴色の瞳を瞬かせて、トゥイーディアは唖然とした顔でカルディオスを振り仰いでいた。
「……まじ?」
「まじまじ」
頷くカルディオスが、雑多な人混みを見渡して首を傾げた。
「――どーなってんの?」
漠然と尋ねられて、トゥイーディアは渋面を作った。
がさがさと新聞を折り畳みつつ、溜息を吐いて。
「……陛下と王弟殿下の仲が芳しくないのよ。まあ、以前からだけど。でも三年くらい前から、宰相閣下が殿下の方に肩入れし始めちゃって、王宮内はもう――」
言葉を選ぶように間を取った後、結局いい言葉が見つからなかったのか、トゥイーディアは肩を竦めて締め括った。
「――ばちばちよ。そのお陰で一部の武器商人が買占めしちゃったりして、もう物価もしっちゃかめっちゃかになったりしたし……」
折り畳んだ新聞でぼんやりと顔を扇ぎつつ、トゥイーディアは息に紛らせるように呟いた。
「……お父さまに何かあれば、殿下はさぞかしお喜びになるでしょうねぇ……」
トゥイーディアの話しぶりだけで、俺はその殿下とやらが嫌いになった。
すう、と息を吸い込んで、トゥイーディアが表情を改めた。
彼女が、自分の感情を仕舞い込んで表情を作ったのが分かった。
「――それで、ねえ、汽車は四時に出るらしいの。
旅の間のごはんを買い込みましょ。それから、普通にごはんを食べましょう。
リドフールって、すごく大きい海老が食べられる所なのよ、知ってた?」
◆◆◆
海老は食べられなかったが(調理にめちゃめちゃ時間が掛かると言われてしまったからだ)、俺たちは魚介尽くしの昼食を摂ることになった。
なんかよく分からない貝が、開かれた貝殻ごとしっかり焼かれて、それが油や香草で味付けされたやつとか。
ぱちぱちと貝殻の上で油が跳ねて、何とも言えない良い匂いがしていた。
豪勢な食事だったが、価格自体は安かった。
尤もそれは、俺がレイオンを頭の中でアルアに直して計算したからかも知れないが(何しろ俺は、今のレイヴァスでの物の相場が分からない)。
食事処も、高級食堂というわけではなくて、ごく普通の大衆食堂だった。
ここが港町だから、海産物は他所より安価に提供されるのだ。
ちょうど昼下がりだったこともあって、満員御礼といった店内は騒がしかった。
長テーブルとベンチが幾つか並べられた店内で、九人が一緒になって座るのは無理だった――ちょっと前までなら、意地でも俺たち六人は一緒に座ろうとしていたかも知れないが、今となってはそこまで頑張ることもなかった。
なので俺は、取り敢えずカルディオスにくっ付いていた。
俺が出来るだけ接触したくないコリウスを、一番に警戒しているのはこいつなのだ。
こいつといれば、万が一コリウスの近くに流されて行きそうな事態になったとしても、どっちかがコリウスの接近に気付くだろうというものだ。
ぎゅうぎゅう詰めでベンチに座らされた店内には、早くも酒を飲んでいる船乗りもいて、その中にはさっきまで俺たちが世話になっていた定期船の水夫さんたちもいた。
向こうが俺に気付いて合図してきたので、俺も気付いて片手を振っておいた。
そのうちに水夫さんたちが店員さんに何か耳打ちして、間もなくして俺のところに、「あちらの船乗りさんからの奢りです」と麦酒が運ばれて来たものだから、俺は慌ててそれをカルディオスに押し付ける羽目になった。
「俺、酒、駄目」と必死で水夫さんに身振りで伝えていると、はじめはきょとんとしていた水夫さんたちにも伝わったらしく、向こうで爆笑していた模様。
「おまえ、すっげぇ好かれたのな」
と、冷えたブリキのコップから麦酒を飲みつつ、カルディオスが意外そうに言ってくる。
俺は軽く奴を睨んだ。
「おまえが途中から、ディセントラにべったりだったからだろ」
カルディオスは目を丸くする。
「妬くなよ。――ってか、そっか、おまえ、いねーなと思ってたら乗組員の方に混じってたのか」
「妬いてねぇよ。ただおまえ、四方八方から声掛けられまくるのは何とかしろ。こっちまで疲れる」
カルディオスはにこっとした。
コリウスもアナベルも、ちょっと離れた位置にいたからだろうが、以前までと同じ自信に満ちた笑顔だった。
「おまえさ、欠点がないことが欠点ってくらいの俺を捉まえて、無理難題言うね?」
「おまえのその自己評価の高さが、むしろもう欠点だわ……」
俺が思わず疲れたように言うと、カルディオスはちょっと探るような顔になった。
俺の顔を覗き込んできて、珍しく心配そうに言う。
「……俺、結構うざったい?」
「熱でもあるのか」
思わず真顔で訊いてから、俺は誤魔化すために水を一口飲んで、カルディオスから視線を逸らしながら言った。
「――いや、おまえはいい奴だよ」
視界の端っこで、ぱっとカルディオスの顔が輝くのが見えた。
俺を挟んでカルディオスの隣にいた知らないおじさんがその顔を直視したらしく、「ぶっ」と水を吹き出しそうになって堪えていた。
それからカルディオスは小さく鼻唄を歌いつつ、俺に麦酒を送り込んでくれた水夫さんたち一人ずつに行き渡るようにと、麦酒を結構な数で注文していた。
「礼なら俺がするのが筋なんじゃねえの」
「おまえ、そんなに金ないじゃん。第一、俺が礼するのもおまえが礼するのも一緒でしょ」
軽やかにそう言いながら、カルディオスは更に追加で、何だか旨そうな魚料理を水夫さんたちの方へ送り込んでいた。
それらが届いたときには、水夫さんたちからどっと歓声が上がったくらいだ。
そっちを面白そうに見ながら、カルディオスは俺から離れた位置に麦酒の入ったコップを置きつつ。
「今回のおまえって、結構人から好かれるよな」
「おい、嫌味か」
明らかに桁違いに人から好かれるカルディオスから言われて、俺は思わず半眼になったものの、カルディオスは至って真顔。
「いやだって、そーだろ。弟くんでしょ、あの元海賊連中でしょ、あの公爵令嬢でしょ、あの水夫さんたちでしょ」
指折り数えるカルディオスに、俺は内心で溜息。
ルインには助けられてるから有り難いと思うし、アーロ商会の連中にも魔界まで運んでもらった恩があるが、ティリーのはほんとに要らない好意だった。
そんなのより俺は、トゥイーディアからちょっとでいいから笑い掛けられたい。
船上では一切話し掛けてくれなかったので、俺はもうかれこれ一箇月近く、トゥイーディアと直接喋っていないのだ。
これがつらくなくて何がつらい。
今もトゥイーディアは、俺たちとはテーブル一つを隔てた席で、メリアさんとコリウスと一緒に座っている。
後ろ姿が他の客越しに辛うじて見えるだけなので、何を食べているのかは分からないが、美味しいと思ってくれていればいいなと思った。
「他にも……」
指を折るのを止めたカルディオスが、ふとそう言って、俺から視線を逸らした。
「……多分おまえ、自分で思ってる以上に愛されてるよ」
その瞬間の俺が、胸が痛むほどに考えたのは、やっぱりトゥイーディアのことだった。
俺が自分で思っているよりも、僅かであってもトゥイーディアが俺のことを好く思ってくれていればいい、と。
――だが勿論、そんな願望は声にも顔にも態度にも出せないので、俺はよく煮込まれた魚介のあっさりしたスープをごくりと飲んでから、にやっと笑って匙をカルディオスに向けた。
「へえ? おまえとか?」
カルディオスはきょとんとして翡翠色の目を瞬かせて、至って真面目に言葉を返してきた。
「え? 俺がルドのこと大好きだって、おまえもう知ってるでしょ?」
――ここまではっきり言われるとは思わなかった。
俺はぐっと言葉に詰まってから匙を置き、バターで焼かれた魚の切り身にざくっとフォークを突き立てた。
「……おう。そうだな」
海老を食べ損ねたものの、大いに胃袋を満足させられた昼食を終え、取り敢えず勘定を纏めてカルディオスに丸投げした俺たちは、店の外で合流。
カルディオスを見るや否や駆け寄ろうとするムンドゥスの手を義理のように握りながら、ルインが和やかに、「ケーキに乗ってた菫の砂糖漬け、美味しかったですねぇ」とアナベルに話し掛けているのを見て、俺は瞠目して瞼をごしごし擦ってしまった。
ルインすげぇ、アナベルにも普通に話し掛けられるのか……。
アナベルも普段通りの顔で、「そうね」とか答えている。
そういえばこいつ、甘いもの好きだった。ちゃっかり甘味も頼んでたのか。
そのあと俺たちは、汽車での旅に備えて食糧を買い込んだが、トゥイーディア曰く、そんなに頑張って大量に買い込まなくても大丈夫だとのこと。
「レイヴァスって、アーヴァンフェルンに比べて駅と駅が離れてるのよ。アーヴァンフェルンほどお金持ちじゃないから、そんなにいっぱい駅を造れなかったとか何とか言われてるけれど。
だから、汽車での旅って長旅が想定されがちなの」
と、買ったばかりのビスケットの包みを片手で抱えながら教えてくれた。
「だから、駅でごはんを作ってくれて、それを汽車の中に運び込んで振る舞ってくれるの。もちろん、全部の駅でってわけじゃなくて、ある程度大きな駅だけの話だけど。
だから、一日に一回か二回は黙っていても食事できるのよ」
その分切符は高いんだけど、と溜息を零すトゥイーディア。
出費を嘆いているのではなくて、ここから目的地までの距離を思って零した吐息のようだった。
とはいえ、リリタリス家が窮乏に喘いでいるのは周知の事実なので、切符はコリウスが購入した模様。
買い物をしているうちに時間は過ぎ去ったので、俺たちは時間ぴったりに煉瓦造りの駅にがたんごとんとやって来た汽車に乗り込んだ。
俺たちが駅に入ったときには既に、汽車を待つ人たちが列を作っていて、これまで混雑した汽車を経験したことのない俺は、ちょっと面食らってしまったものである。
レイヴァスの汽車は、長旅が想定されているだけあると納得できる造りだった。
座席の間の通路はやや狭いものの、その分座席にゆとりがあるし、座席の、座面と背凭れの部分には、ちゃんとクッションが設けられていた。
案の定ムンドゥスは乗車と同時に昏倒したが、これなら寝かせておくにも胸は痛まない。
乗換駅であるキルトンまでは、汽車で四日の距離とのこと。
キルトンで別の汽車に乗り換えて、俺たちが目指すのはオールドレイ地方のモールフォス。
汽車に乗ったその瞬間から、俺はトゥイーディアが近くに座ってくれることを祈っていた。
隣に座ってくれなんて贅沢は言わない。
向かい合わせであれば顔が見られる。
斜向かいでも喜ばしい――。
実際、先に汽車に乗り込むことになった俺が、適当な窓際の座席に乗り込み、その隣にディセントラが座った後、近くまでトゥイーディアは来てくれた。
自分の座席の位置なんてあんまり意識していなさそうな顔で、俺の向かい側に座り掛けたのだ。
その瞬間に俺の胸中は勝利の喝采に埋まっていたが、最後の最後で、はたと俺がいることに気付いたらしき彼女が、ふいっと顔を背けて他の座席に行ってしまった。
――は? こんなにあからさまに避けられることってあったっけ?
余りの事態に思考停止しているうちに、俺の向かい側にムンドゥスが背凭れに深く凭れ掛かるようにして寝かせられ、その隣に、どうやらカルディオスからムンドゥスを預けられたらしいルインが座っていた。
俺の近くに座れたことが嬉しいのか、にこにこしているルインは微笑ましく、俺もついつい笑顔になったが――いやそれにしても待て。
――何が決定打だった?
何がとどめになって、俺はトゥイーディアに愛想の最後の一片まで尽かされた?
彼女が、最後に俺に笑い掛けてくれたのっていつだっけ。
話し掛けてくれたのっていつだっけ――
他の座席に行ってしまったトゥイーディアの隣には、カルディオスが座ったようだった。
そして空気が凍ったことに、他の座席が他の乗客で埋まったことから、カルディオスの斜向かいにはコリウスが腰掛けた。
メリアさんがアナベルと並んで、そこから更に離れた座席を取った様子だったが。
――リドフール。さすが港町。
座席がどんどん埋まってしまった。
カルディオスの顔色など、想像するにも余りある。
恐らく今、あそこの座席周辺の空気は最悪の更に下だ。
「……席、替わろうかしら」
ディセントラがそう呟く頃には既に、汽車は満員。
むしろ通路に立っている人たちもいる始末で、今さら座席を動くことの出来る状況ではなかった。
それに、俺やディセントラが立っている誰かと席を替わってしまうと、まず間違いなくムンドゥスを見られる。
あれこれ詮索されるのは御免だし、これはこのままいくしか――
ぽぉ――っ、と汽笛が轟いて、がたこん、と汽車が動き出す。
その拍子に、立っている人たちが一様によろめいた。
がしゃがしゃと車輪の回転する音が真下から聞こえてきて、窓の外を流れる景色がその速度を上げていく。
この汽車の軌道は、このまま内陸へと向かっていく方向に敷かれている。
走り出した汽車に引き離されて、海がどんどん遠くなる。
硝子窓をちょっと開けてみると、吹く風からはしばらくして潮の匂いが消え失せた。
一箇月振りに味わう内陸の風の匂いは、なんだかめちゃくちゃ清々しい。
――いや、今のカルディオスの心中を慮るに、そういう感想を抱いている場合ではないんだけど。
汽車の中にはぽつぽつと雑談の声もあったが、これだけの人数がいるにしては異様に静かだった。
誰もが無意識のうちに、カルディオスとコリウスが醸し出す緊張感を汲み取っているらしい。
日が暮れたタイミングで、俺は開けていた窓をぴっちりと閉めた。
俺たちにとって最悪なことに、リドフールはこの汽車が今日のうちに停車する最後の駅だったようだ。
トゥイーディアが言っていたように、発車からしばらくして食事が回ってきた。
籐細工の籠に薄紙に包まれたサンドウィッチが詰められていて、一人一つずつ取って他の人に回していくという寸法らしい。
味のしないサンドウィッチを食べ終え、緊張のうちに一夜を明かした明け方に、汽車はようやく停まった。
座席からあぶれた人たちは、立ったままの夜明かしとなったわけである。
それを見越して昼間に睡眠を取っていた人たちだったのか、立ったまま眠り込んだ結果として転倒するような人はいなかった。
とはいえ、座っている俺も一睡も出来なかったわけだけど。
カルディオスとコリウスの方が気になって仕方がなかった。
ディセントラも同じ心境だったのか、カンテラの明かりの灯る暗い車内で、俺たちは幾度となく目を見交わしたものである。
明かりを反射して鏡のようになっていた車窓には、夜が明けるまで俺とディセントラの憂い顔が映り込んでいた。
明け方に汽車が停まった、その駅でどやどやと人が降りて行き、車内は一気にすっきりとした。
心なしか、降りて行く人たちもほっとしたような顔をしていた気がする。
車内が空いたと見るや、即座にルインが立ち上がり、カルディオスと席を交替。
マジで、よく出来た弟を持って良かった。
真っ青になったカルディオスは、こっちの座席に腰掛けるなり手を伸ばして俺とディセントラの手を握って、「頼むから放って行ったりしないで」と。
ディセントラは涙ぐんでいた。
俺ももう泣きそうだった。
なんでこうなったんだ。
以前までは、カルディオスはコリウスにだって甘え掛かっていたりしたのに。
車内にはようやく雑談が芽吹き始め、カルディオスは眠れなかっただろう昨夜を取り戻すかのように、座席の上で丸くなって眠り込んでいた。
俺は窓の外を見る。
流れて行くのは長閑な田園風景で、初夏を迎えた世界は新緑に満ちていた。
「――ねえ、窓開けて」
隣からディセントラに言われて、俺はがたがたと窓を開けた。
途端、温かい風が車内に吹き込んできて、俺は目を細める。
窓の外は晴れ渡って眩しい。
異国とはいえ、戴く空はひとつだ。
アーヴァンフェルンで見上げたのと、全く同じ色合いで、空が青く高く光っている。
「去年の今頃は、みんな揃ってて楽しかったわねぇ」
惜しむような声音でディセントラが呟くのが聞こえて、俺は無言で頷いた。
風にディセントラの赤金色の髪が泳ぐ。
見事な朱金の長い睫毛を伏せて、ディセントラは秀麗な面差しに泣きそうな色を載せていた。
「――あの頃みたいに戻れるなら、私、何でもするんだけど」
俺は息を吸い込んだ。
初夏の暖かい匂いが、肺腑の奥にまで沁み渡った。
――去年の今頃、何してたっけ。
ダフレン貿易関係のいざこざを片付けてたんだっけ。
それとももう海の上だったっけ。
正確には思い出せないけれど、あのときの俺たちが、お互いに気を許し切っていた――少なくとも、俺はそのつもりだった――のは確かだ。
楽しかったし、居心地良かったし、気楽だった。
――ごし、と目を擦って、俺は呟いた。
思っているよりも低い声が、喉に絡んだように掠れて出てきた。
「……うん、俺もだ」




