表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
175/464

20◆ 盤上遊戯

 エレリアに滞在すること三日目、ようやく定期船が入港した。



 煙を噴き上げ汽笛を鳴らす船に気付き、コリウスとアナベル以外の俺たちは、港のほど近くでそれを見守っていた。


 生憎の曇天の下の入港だったが、しずしずと港に停泊する巨大な船を見上げるトゥイーディアの顔は、どんな晴れ空よりも輝いていた。

 毎日毎日、それよりも早くレイヴァスに向かう船主がいないかと一縷の望みを懸けて、港をずっとうろうろしていたトゥイーディアからすれば、待ちに待った船だっただろう。



 因みに、俺はこの三日間、港をうろうろするトゥイーディアを遠目に見掛けても、手伝うことはおろか近付くことすら出来なかった。


 ディセントラはよくトゥイーディアと一緒にいて、柄の悪そうな船乗りたちを十人くらい骨抜きにしていた。

 が、その彼女を以てしても、彼らの次の仕事の予定を変えることは出来なかった。


 カルディオスもよくトゥイーディアと一緒にいて、町の若い娘さんたちの心を根こそぎにして射止めたものだから、船乗りたちからの評判は芳しくなかった。


 一方のアナベルは冷淡な態度で宿に滞在し、一部の小僧(ボーイ)から「氷のお嬢さま」と呼ばれていた。言い得て妙である。


 そしてこの三日間、俺はコリウスのことは一切見掛けなかった。

 恐らく、宿に籠もっていたのだろう。


 ルインは一度だけ俺たちの宿にまで来てくれた。

 コリウスは、親しくない人間に対しては徹底的に冷淡だ。同室にいて、気まずかったり息苦しかったりしないかと訊いてみたが、魔界でくそジジイに扱き使われていた経験は伊達ではなかった。

「何がですか?」と言わんばかりに首を傾げられ、俺はこいつを尊敬すればいいのか憐れめばいいのか、なんだかよく分からなくなったものである。



 だが、やっとのことで定期船が着いた。


 切符は、知らない間にトゥイーディアが取ってくれていたらしい。はい、と当然のような顔で、俺の分を彼女から預かっていたカルディオスから渡された。

「おう」と平然とそれを受け取りながらも、俺は内心で冷や汗。


 普段のトゥイーディアなら、俺にも直接渡してくれそうなものだけど――俺、マジでトゥイーディアに愛想尽かされた?


 これまでも、やばいと思ったことはあったけど、今回は何かこう、トゥイーディアによりいっそう心の距離を置かれたような感じだ。つらい。

 しかも、俺の態度の何が決定打になったのかも分からない。つらい。



 港に停泊した定期船から、三々五々に人が出て来ては、示し合わせたかのように駅に向かって行く。


 レイヴァスからアーヴァンフェルンに帰って来た人もいれば、アーヴァンフェルンを訪れたレイヴァス国民もいる。

 レイヴァスの人間は、総じてアーヴァンフェルンの人間より薄着をしがちなので、道行く中でも見当はつく。

 更に言えば、レイヴァスの人間は肌が白い。雪国だからだろうか、日光に弱そうな肌をしている人が多いのだ。



 旅客が下船してから、水夫たちが声を掛け合い息を合わせながら、貨物の積まれた大きな木箱を甲板に押し出し始めた。

 港にいた他の者たちが、素早く驢馬を引いて来て、彼らが牽く大きな荷車を幾つも持ち出して、船の下で荷物を待ち構える。

 荷車を牽く驢馬たちが敷石を蹴る音が、硬質に耳朶を打つ。


 とはいえ、荷物の方も結構な大きさだ。

 あれをどうやって船の下まで降ろすんだろう――何しろ船が巨大なので、甲板から船着き場までには、十ヤード以上の距離がある。


 興味津々に見守っていると、船の中からでかい滑車と先端が鉤になった縄付きの装置が登場した。

 それを甲板に設置して、水夫たちが木箱のどこかに装置の鉤部分を取り付けて、滑車を利用して器用に船の下に下ろしていく。

 張り詰めた縄がぎしぎしと軋んでいるが、危なげなく安定した仕事ぶりである。

 荷車でそれを受け取った港側の人間は、木箱から鉤を外して、数人で協力し合いながら木箱が転落しないよう脇を固め、驢馬を急かして荷車を海辺の倉庫の方まで進めていく。

 この後に、倉庫から汽車まで運ばれて行くんだろう。


「いいよー、下ろしてー」


「逸れてる逸れてる、もうちょい右ー」


「はい着いたー、鉤外してー」


「あぶね、鉤揺らすな!」


「次、骨董品らしいから気ぃ付けてなー」


 物慣れた感じの掛け声が、ちょっと離れているここにまで届いてきた。

 何度もそれを繰り返して、船倉に積まれていたのだろう貨物を空にしていく水夫たち。


 恐らく、彼らはここで休暇に入るはずだ。

 別の水夫たちが、今度はレイヴァス行きの定期船となるあの船で航海に務めるのだろう。



 船旅は――天候の機嫌にもよるが――一箇月近くに及ぶ。


 トゥイーディアが買っておいてくれた切符は、それに伴う食費なども含んだ高額のものなのだ。

 さすがに、俺たちが一箇月分の食料を買い込んで乗船するのは無理だからね。

 食事については、船主側が予め積載しておくものと、途中で補給するものとで工面することになる。


 案じられるのが船内で過ごす場所だが、さすがこの時代の船だけあって、定期船は巨大だ。

 個室と言わずとも、ちゃんと寝られるだけのスペースはあるに違いない。

 見上げているだけでも、夥しい数の船窓が見えているから大丈夫だろう。


 そして多分、船主を含む他の人たちが一番に案じているのはレヴナントに遭遇することだろうが、それは大丈夫だ。

 何しろこっちにはアナベルがいる。

 海上のレヴナントの始末に、十秒掛かるか掛からないかで賭けを楽しめるレベルだ。



 そうこうするうちに、下ろすべき荷物は全部下ろしたのか、今度は港側から貨物が運び出されてきた。

 これを、今度は逆の手順で船に引き揚げていく水夫たち。

 仕事が早くて、見ていて気持ちいいくらいだ。

 あの木箱をどうやって船底近くにあるのだろう船倉まで運んで行っているのかは、これはもう俺には想像がつかない。


「すげーな……」


 などと呟き阿呆面を晒していると、ふふっと小さく笑う声が聞こえてきた。

 トゥイーディアの声に聞こえたので、思わず視線のみで彼女の方を振り返る。


 ――トゥイーディアは口許に拳を当て、至って真顔で立っていた。



 あれ、恋焦がれすぎて、遂に幻聴まで聞こえるようになった?



 自分の頭の調子を心配していると、駅へ向かってすぐ近くを通り過ぎようとする薄着にでかい荷物の三人連れが、ぼそぼそと囁き合う声が聞こえてきた。


「――ご生誕の祝祭にもご臨席なされなかったとか」


「はあ、とうとうかねぇ」


「お陰でえらい高騰のしようだ。去年は鉄だけで堪えてくれたが、今年はとうとう小麦もだ」


「迷惑な話もあったもんだ」


「戻る頃にはどうなってるか分からんな」


 俺の隣で、カルディオスがくるっとトゥイーディアを振り返った。

 案じるような表情だった。


 俺も、それに合わせるように振り返っていた。

 ただし表情は、徹底的な無だった。


 トゥイーディアは蒼白になっていた。


 俺たちには訳の分からない噂話ではあっても、トゥイーディアにはきっちり意味が伝わったらしい。



 ――そういえば、レイヴァスの情勢は安定しないとか何とか、そんな話もあった気がする。


 あれは本当だったのか。


 トゥイーディアに気苦労が多すぎる。



 ――俺は思わず溜息を吐いて、もしも自分が次に王族にでも生まれることがあったなら、神羅万象の一切はトゥイーディアを苦しめるべからずという法律を作ろうと、現実逃避じみたことを考えていた。





◆◆◆





 明けて翌日、無事に船は出航した。



 船着き場から甲板に向かって掛けられた梯子を昇り終えたところで、案の定ムンドゥスが昏倒したが、もはやこれは予定調和である。


 ぱた、と倒れようとするムンドゥスを抱き留めたカルディオスに、周囲(主に女性)から黄色い悲鳴が上がったが、直後にカルディオスがディセントラに親しい風情で近寄って行って、すぐにその悲鳴が下火になった。


 代わりに、野郎どもからの熱視線がディセントラに集中していた。


 俺としては、下品な目で見られるのがトゥイーディアでないならば許容範囲だ。

 ディセントラのことだし、自衛もばっちりだ。



 定期船は三階層になった船室を備えており、特に高額な切符を買った一部の人間(ほんとに一握り。多分、十人くらい)には個室か、個室に近い待遇が与えられ、他の旅客(俺たち含む)は、男女の区別のみを以て分けられた広々とした船室で、どうにかこうにか過ごす待遇が与えられるようだった。


 トゥイーディアは個室を取れなかったことについて云々かんぬん謝ってくれたが、正直個室を取るのは無駄金だと思うので、トゥイーディアがいいなら、そこは別にいい。



 船室は広く、低い天井付近にロープが縦横に張り巡らされ、そのロープに薄布を引っ掛けて、それぞれの団体ごとにスペースを作っていくようだった。

 寝台なんて大層なものはあるわけもなくて、藁や羊毛を詰めたクッション(マットレスと言いたいが、そう言えるほど形が整っていないのだ。でかいクッションだ)が船の定員の数くらいはあって、それを寝台代わりに過ごすらしい。


 乗船した人たちから順番に、薄布を適当に引っ掛けては自分の分のクッションを確保していく。

 どこかで揉め事じみた声が上がったが、すぐに船員が駆け寄って行って事なきを得ていた。



 俺たちは首尾よく壁際のスペースを取ることが出来たが、ここで大問題。


 カルディオスが、マジで吐きそうな顔をしていた。

 俺としてもコリウスと四六時中顔を合わせているのは、精神的に相当しんどい。


 俺たち二人の顔色を見て取って、ルインがスペースを更に分割して、俺とカルディオス、コリウスとルインの間に薄布を垂らしてくれた。

 出来る弟を持って、俺はつくづく運が良かった。


 多分女性陣は女性陣で、トゥイーディアがアナベルを避けるのに知恵を絞ったことだろう。

 ムンドゥスを人目から隠しておくのにも苦労しているだろうが、こっちにムンドゥスを連れて来る方が目立つしね。



 一部屋には大体三十人くらいが入っていて、それが男女それぞれ四部屋くらいずつあるらしい。

 船室のうち、最上階の一つは食事のための共同スペースだ。


 個室待遇の人たちの船室は船の一番下にあるらしい。

 こう、船が沈没しそうになったりしたら一番最初に犠牲になりそうな位置だし、蒸気機関の音がうるさくないのかなとか、色々と思うところはあるけれども、船の構造的な問題でその位置になっているのかも知れない。



 蒸気機関の震えが、壁伝いにここにも届いていた。


 頭上遥か高くで、ぼぁぉ――と、汽笛の音が鳴り響くのが聞こえる。



 ややあって、ゆっくりと船が岸を離れたのが、震動と揺れから分かった。



 床にまで届いて垂れ下がる薄布で周囲と遮断されているとはいえ、遮音には限界がある。

 周囲でぼそぼそと会話が交わされるのが聞こえてくる。


 俺とカルディオスの――コリウスとルインがいる方向と反対の――隣に陣取ったのは、どうやら若い男性の二人連れのようだった。

 漏れ聞こえてくる会話から推すに、二人とも同じ会社に勤めていて、その都合でアーヴァンフェルンにいたものの、今日やっとレイヴァスに帰ることが出来る――ということらしい。


 二人が二人とも、レイヴァスに婚約者がいるらしく、早く会いたいだの結い紐をもう買ってあるだの、羨ましいような微笑ましいような会話を繰り広げている。



 ――男は、結婚を申し込むときに金細工あるいは銀細工の髪飾りを相手へ贈り、正式に結婚するときに結い紐を贈る。

 女性はその結い紐で、既婚となったのちには髪を高く結い上げるのだ。


 とはいえ、結い紐は消耗品。意匠の流行り廃りも目まぐるしい。

 髪飾りと違って、生涯手放さずに大切にするというよりも、新婚のときの気分を上げるためのものといった意味合いも強い。



 俺には一生縁がないだろう会話だ。


 隣の二人は、「こっちの国ではこういうのが流行ってるって言われて買ったけどさ、祖国(レイヴァス)では全く違うのが流行ってたらどうする……」だの、「それきつい。これ、八十アルアしたんだけど」だのと話している。楽しそうだ。


「八十って――レイオンに直すと幾らだ?」


「さあな、でも今ならアルアの方が価値ありそうだよな」


「むしろアーヴァンフェルンにティシャナを呼ぶ方が良かったかな」


「馬鹿言え、こんな長旅させられっかよ。けどまあ、アーヴァンフェルンに移住するのはありだよな」


「な。救世主さまもいらっしゃるしな」


 ここまで聞いたところで、俺とカルディオスは目を合わせて強張った苦笑を交わした。


 若人よ、残念ながら救世主は、揃いも揃ってレイヴァスへ移動中だ。

 しばらく救世主稼業はお休みだ。


 ――まあ、この船旅がレヴナントに阻まれるようならば、トゥイーディアの帰郷のために万難を排すに吝かではないけれども。



 身体の下のクッションは、藁の感触でちくちくと肌に痛い。

 とはいえ汽車の座席で寝るのと比べれば、雲泥の差の居心地だ。


 散々な目に遭う生まれが多い俺は、これはこれで十分な環境だと思う。

 カルディオスも、贅沢に慣れているとはいえ、質素が我慢できないということはない。クッションの上に仰向けに寝転んで足を組み、居心地良さそうにしている。


 俺も同じようにクッションの上に寝転びながら、ロープの張り巡らされた天井を見上げていた。


 天井にぶら下げられたカンテラが、船の揺れに合わせてかしゃんかしゃんと小さな音を立てて揺れている。

 光の入り難い船室にあっては、昼日中から明かりを点しておかねば転倒者が続出するだろうから、カンテラには既に灯が入っている。


 淡い光を放射状に投げて、揺れる度に影を躍らせるカンテラ。


 それをしばしじっと見てから、俺は息を吐いて目を閉じた。


 身体の下から大きな掌で持ち上げられては、またぐっと下に降ろされるかのような、波独特の揺れに、耳の奥が変な風に曲がっていきそうな錯覚がある。



 ――船窓はあるとはいえ、分厚い硝子の嵌め殺しだ。

 まあ、自由に開閉できる窓があるのは危険だけど。


 だからか、船室には籠もったような、色んな臭いが入り混じっている。

 多分、この部屋はずっと男部屋として使われてきたのだ。汗臭い。

 あと、男性用の香水の匂いが雑多に入り混じって鼻の奥が痛い。


 女性陣の部屋も大変じゃないだろうか。

 俺も長く生きてきたから、女性は(すべか)らくいい匂いがするのだという幻想は嘘だと知っている。

 むしろ女性は――見目に拘りを持つ人たちは――、その幻想のために香水やら化粧やらを頑張って、結果としてそれらが入り混じった結果、結構な異臭に成長させてしまうこともある。


 トゥイーディアが気分を悪くしていないといいけど。

 あとアナベル。あいつは露骨に機嫌が顔に出るからなあ……。



 ――そんなことを考えているうちに、俺はうたた寝をしてしまったらしい。



 夢の中で、俺は派手な舞踏会の会場にいた。


 シャンデリアが幾つもぶら下げられていて眩しいし、あっちこっちから料理の匂いや香水の匂いが漂ってきて眩暈がする。

 服もなんだか窮屈で――寸法が合っていないわけではなくて、布地が硬いのだ――、俺は大広間の端っこで途方に暮れていた。


 壁際で黙ってじっとしていれば良かったのだが、誰かを捜そうとしていた気がする。

 顔を合わせたい誰かがいた気がして、意を決して足を踏み出そうとするも、ぐらぐらと足許が揺れる。


 戸惑っていると、後ろから誰かに声を掛けられた。

 そちらを振り向く。


 途端、幾つかの場面を飛ばしたかのように唐突に、目の前に少年が立っていた。


 まだ十代半ばと見える男の子が、怯えたような、睨むような眼差しで俺を見ている。


 ぐらぐらと足許が揺れる。


 男の子の、冷え切ったような翡翠色の目――



「――ルド」


「わっ!」


 とんとん、と肩を叩かれて、俺は目を開けながら思わず声を上げた。


 同瞬、眩しさに目を細める。

 二重の意味で眩しかった。


 閉じていた瞼を開いたことで周囲を明るく感じるし、目の前にはきらきらした美貌があるし。


 俺の顔を覗き込んでいたカルディオスが、逆にびっくりしたように翡翠の瞳を見開いた。


「え、ごめん。そんなに熟睡してたの?」


「いや……」


 呟いて息を吸い、俺は片手で顔を拭った。


「変な夢見てた」


 夢の内容を口に出そうとしたが、変に言葉が喉に詰まって出て来なかった。


 ――香水だとかの匂いのことを考えながら眠り込んだから、あんな夢を見たんだろうか。

 しかも最後に出て来た男の子。目の色がカルディオスそっくりだった――いや、目の色以外は覚えてないから何とも言えないが。


 近くにカルディオスがいることを意識してたから、だからだろうか。


「そっか」


 瞬きしてそう言って、それからカルディオスは立ち上がって俺に手を伸ばした。


 当然のようなその仕草に、夢の中から引っ張って来たみたいな違和感を覚えながら、俺はカルディオスの手を掴んで立ち上がる。


 ぐっと背筋を反らして伸びをする俺が、船の揺れによろめきそうになるのを、手を引っ張って支えてくれながら、カルディオスが小さく笑って告げた。



「昼メシだよ、ルド」





◆◆◆





 船旅は順調に進んだ。


 ムンドゥスは相変わらず目を覚まさないが、船から降りればどうせ目覚めるだろうから、あの子は放置で大丈夫。



 船旅は、昼間は甲板や船内を歩き回ることも出来るから、汽車の旅よりずっと快適だ。


 空気は最悪だけど。


 コリウスが近くにいるせいで、カルディオスがあからさまに挙動不審。

 罪悪感のゆえだろうが、まるで日常的にコリウスから虐待されているかのような怯えよう。


 俺も他人ひとのことは言えないが。

 何しろ、カルディオスとコリウスの間の確執の原因は、他の誰でもなく俺であると魔王に断言されてしまっている。

 信憑性には疑問符を付けておきたいが、それでも、この状況で普通にコリウスと話せていたら、俺の精神構造は多分どこかがぶっ壊れているということだろう。


 幸か不幸かまともな俺は、毎日カルディオスと肩を寄せ合って過ごしている。


 ルインはどうやら、俺たちとコリウスの間に何かがあったのだと気付いているらしく、甲斐甲斐しくコリウスの世話をしているようだった。

 多分、ここで自分まで俺の方に来てしまったら、コリウスが完全に孤立したようになると思って、それを避けようとしてくれている。


 コリウスからすれば、孤立も別段問題ではなかったかも知れないが、それはそれとして意外なことに、コリウスはどうやらルインが気に入ったらしかった。

 いつの間にか、他人に向けるときの丁寧語が抜けた口調でルインに話すようになっていた。

 弟を気に入ってくれて、俺としては安堵の極みである。


 トゥイーディアはトゥイーディアで、アナベルを避けるのに苦心している様子だった。

 専らメリアさんを盾にしている様子だが、メリアさんからすれば戸惑い以外の感情が湧かない状況だろう。


 とはいえ、仕方がないといえば仕方がない。

 アナベルがトゥイーディアに向ける感情も複雑だが、トゥイーディアがアナベルに抱く罪悪感も大海溝よりも深いものだ。


 カルディオスは言うに及ばず、言語道断の失言からこちら、アナベルとは目も合わせない。


 そして更に、コリウスも微妙にアナベルに対して罪悪感を抱いているという現状。


 唯一全員と気兼ねなく話せるディセントラは、心労で倒れそうな顔をしている。

 ディセントラはディセントラで、コリウスが誰も信じたことはないという事実に衝撃を受けたはずなのに、それを感じさせない態度でコリウスに接しているのだから、こいつは本当に凄い奴だと思う。



 ――昼間には甲板に出て海を眺めていることが多い俺とカルディオスだったが、カルディオスはとにかくきらきらしていて目立つので、話し掛けてくる人が後を絶たない。


 最初は若い女性が中心で、緊張に吃りながらカルディオスに話し掛ける女の子たちを、俺は横目で見ていたものだ。


 いつもならにこにこしてそれを受け、適当に遊び相手を選びそうなカルディオスだったが、今この状況でその行為に走ることが出来るというならば、俺は真剣にカルディオスとの友情を考え直す必要に迫られただろう。


 カルディオスはにこにこしながら女の子をあしらい、愛想よく、婉曲に、自分は欠片も相手に興味はないと伝えて、稀代の美青年相手に底の浅い失恋で涙する娘さんを量産していた。


 そのうち女の子をあしらうことにも疲れたのか、カルディオスは甲板の欄干に肘を突いて、至って真顔で言い出した。


「なんかめんどくさいしさ、ルド。この船の上でだけ、俺の恋人の振りしてくんない?」


「やめてくれ」


 思わず呻いて、俺は顔を押さえる。


「おまえ、あっちこっちから大注目浴びてんだぞ。ここで俺がおまえの恋人だなんていうことにしてみろ。夜な夜な周りの連中が俺たちの様子に耳澄ませることになるぞ」


 無責任にも、カルディオスは爆笑した。


 俺とカルディオスは、確かにお互いのことが好きだが、その愛情は友愛である。

 恋人同士みたいな振る舞いを期待されても顔が引き攣るだけだ。


「あー、確かに、ルドといちゃいちゃすんのはしんどいな」


 どうしてもカルディオスが困っているというなら俺も腹を括るが、だが待ってほしい、そんな演技、コリウスにとっては嫌味でしかないだろう。


 そんなわけでカルディオスは、もっと穏便な方法で女性たちを躱すことにしたらしい。

 翌日からカルディオスは俺を連れて、家族連れの傍を屯するようになった。


 こいつがにこっと笑えば、そのまま家族団欒の中に入って行けるのだからすごい。

 小さい子供が傍にいる状況であれば、ナンパもされ難いというわけだ。考えたな。


 だが、俺としては居心地が悪かった。


 子供は、ちょっと傍に来る程度なら可愛いと思うが、長時間一緒にいるのは苦手だし、それに小さな子供を見ていると、〈呪い荒原〉の傍で会ったアリーたちを思い出して、連鎖的にシャロンさんを思い出して胸が苦しい。


 更に言えば、〈呪い荒原〉の誕生が自分の仕業かも知れないという、ヘリアンサスが蒔いた毒までめでたく芽吹いてくるという寸法だ。


 苦しい。


 だが、子供好きなカルディオスは楽しそうだし、何より今のこいつから、ささやかな癒しまで取り除く気はない。


 俺は押し黙って、カルディオスと背中合わせの位置で、ぼんやりと座ってその時間をやり過ごすことが多かった。




 船がレヴナントに遭遇したときには、死を覚悟したような雰囲気が船上を覆う中、レヴナントが視認されてからものの三十秒で、見事に凍結した海水がレヴナントを覆って砕け散り、徹底的に美しく、薄墨色の亡霊を葬っていた。


 その一瞬は、皆さんからすれば奇跡だったのだろうが、俺たちからすれば当然の結果である。

 アナベルがレヴナントに気付くのに三十秒掛かったというだけの話だ。


 普段なら「おつかれ」の一言でも掛けに行っていただろうが、今のカルディオスにそれを強いるのは拷問と同義だ。

 代表して俺が声を掛けるに留めたが、真顔で、「次はあなたがやってね」と言われた。


「海の上なら、別に他の何も燃えないでしょう」


 仰る通りで。


 船上では、つい今しがたの大魔法が誰のものだったのか、褒め称える声と共に疑問の声が上がっていたが、名乗り出ても事態をややこしくするだけだと思ったのか、アナベルはその一切を無視していた。

 とはいえ、「今のは本当にただの魔法か」という声も上がってはいた。

 曰く、「ただの魔法ではあんな芸当は不可能」と。


 言い出した人、よくご存知で。

 あれはアナベルだから可能な所業であって、普通の人ではまず無理だよ。

 魔力量においてはアナベルに勝る俺やトゥイーディアだって、向き不向きがあるからね。

 あんなに綺麗に、身の丈十ヤードのレヴナントだけを覆うように海水を凍結させるのは無理だ。


 そのうちに、「今のは救世主さまの御加護では」みたいな話まで出たらしく、俺たちとしては必死に笑いを堪える事態になっていた。


 残念ながら俺たちに、そんな加護を与える力はない。


 周囲の声を聞きながら、ルインは微妙な表情。

 魔族であるルインからすれば、救世主を有り難がる心理は理解不能なものなのだろう。




 ――船は着々と、東の大陸と西の大陸を隔てる海を渡った。


 商船から物資を仕入れる間のみ錨を下ろしたものの、それ以外は停まることなく、もくもくと煙を噴き上げて海上を進んだ。


 この巨大な船を動かす動力全てを世双珠が賄っているのだと思えば、その便利さは自ずと知れる。



 波を白く割り、滑空する海鳥と肩を並べたり追い越したり追い抜かれたりしながら、方角を見失うことなく大海原を邁進する巨大な船。



 俺が魔界から大陸まで、出来損ないの筏で渡ったときとは全然違う。


 あのとき俺は、方角を見失わないかということにもどきどきしたものだが、この船には羅針盤を携えた、航海の玄人たちがいる。


 出発から半月くらい経ったときに嵐にも見舞われたが、旅客は甲板に出ないよう呼び掛けられただけだった。

 波立つ海に、巨大な船といえども玩具のようにぐらぐらと揺れたが、沈没なんてことにもならなければ、方角を失うこともなかった。

 翌朝、嘘のように晴れた空の下で甲板に出てみると、水夫たちが嵐の名残の水を、せっせと甲板から海に払い落としているところだった。



 そうして船が進む間に、季節はすっかり初夏。



 甲板で日向ぼっこをしていると、暑く感じる日さえ増えてきた。


 俺ですら暑いと感じるのだから、トゥイーディアは言うに及ばず。

 荷物の中に入れてあったのだろう扇子で、ひらひらと自分を扇いでいる様子を見ることが多くなった。

 半ばを結い上げている長い髪は首筋への風を遮断して暑そうだったが、さすがのトゥイーディアも項を衆目に晒すことはしなかった。

 何しろ彼女は、未婚の女性なので。



 カルディオスもシャツ一枚で過ごすことが多くなり、袖を捲って襟元を緩めたその姿に誘発されたかのように、「あなたこないだ振られてませんでしたっけ?」と確認したくなるほど見覚えのある女性たちが、再びカルディオスに声を掛け始めた。


 家族団欒に混じる作戦の限界だった。


 カルディオスはしばしむすっとした後で現実を受け容れ、ディセントラに窮状を訴えて助力を仰いでいた。


 ディセントラはディセントラで、四方八方から男どもに声を掛けられて困っていたらしく、珍しく利害の一致を得た二人が、さながら恋人同士のような距離感で過ごすことが増えたために、美貌の二人を諦めた無数の乗客の悔しげな啜り泣きが、夜な夜な船室に響くこととなった。




 ところで俺は、カルディオスとディセントラが()()()()()振る舞うにはお邪魔虫なので、必然的に一人で過ごすことが多くなった。


 そうするうちに水夫さんたちと仲良くなり、彼らが暇潰しと食糧の確保の両立を兼ねて行う釣りに、しれっと混じったりもした。


 彼らは長旅が――たとえ仕事であったとしても――如何に退屈であるかを知り抜いているので、こっそりとあれこれの嗜好品を船に持ち込んでいた。

 例えば煙草だとか、遊戯盤だとか。


 俺は煙草は吸わないが――トゥイーディアが、臭いが嫌いだと言っていたことがあるので――、トゥイーディアにおいそれと近付くことすら出来ない船上生活にあっては、勧められれば固辞する程ではない。


 そんなわけで、甲板の隅っこで水夫さんたちに混じって煙草を吸いつつ、盤上遊戯を指す日もあった。



 因みに俺は、盤上遊戯が決して得意ではない。

 コリウスやディセントラ、それからトゥイーディアは、ちゃんと筋を読んで、何がどう動くかを考えて駒を動かすが、俺はそういう方面はさっぱりだった。

 序盤の、所謂型に嵌まった駒の指し方は知っているが、ある程度盤面がごちゃついてくると、単純に相手の駒を取れそうな位置に駒を動かしていくことが多い。


 水夫さんたちもそんな感じだったので、勝負は半分以上が運任せのぐだぐだだった。


 今回の航海が初仕事だという、にきび面の十代半ばの少年は、どうやらこの盤上遊戯のルールを知らなかったらしく、説明してやると「はえー」と感嘆したように頷いていた。


 この少年、今でこそにきび面だが、あと二、三年もすれば結構な男前に成長しそうだ。


「まず、白が先手な。歩兵の駒は、最初だけ二マス進む。後は前進一マスずつしか進めない」


「はあ」


「戦車の駒は縦横好きなだけ進める。

 騎士の駒は一つ飛び斜め。こいつだけは他の駒を飛び越えられる」


「かっこいいっすね」


「学者の駒は斜めに好きなだけ進める。

 で、女王の駒は八方に好きなだけ進める。

 王の駒は八方に一マスずつな。王を獲られると負け」


 船乗りたちの盤上遊戯の道具は、傷みに傷んで色合いも定かではない。

 駒は石を彫り抜いたもので、元々の材質の色の違いがあって、黒と白の判別がつくような有様だ。

 長年に亘って使われてきたからか、全体的に凹凸がなだらかになっていてつるりとしている。


「他の駒は進む先にある駒を獲るけど、歩兵だけは斜め前のを獲る。ただし、最初に二マス進んだ歩兵だけは、真横の歩兵に獲られる。奥まで進んだ歩兵は好きな駒に成れる」


 なるほど、と頷いた少年が余りにも素直にきらきらした顔をしているものだから、周囲から笑い声が上がった。

 陰湿な笑いじゃなくて、こいつが可愛がられていることが分かる笑い声だった。


 少年は顔を上げて俺を見て、満面の笑み。


「やってみたいっす!」


 甲板に片膝を立てて座り込んでいた俺は、思わず噴き出した。


「俺とか。俺、先生には向いてねーんだけど」


「だってお兄さん、かっこいいじゃないっすか」


 衒いもない世辞に、俺はますます笑ってしまった。


 教えた通りに盤面に駒を並べる少年と一緒に、自陣の駒を並べていく。


 駒は小さいが、密度の高い石を彫り抜いてあるので結構ずっしりとしている。

 ゆらゆらと揺れる船上で、頻繁に駒が倒れるようでは遊戯にならない。

 そのために、重い素材の駒が愛用されているのだろう。



 女王の駒を持ち上げたときに、ふと思い出した――




 ――『いつもはきみも盤上遊戯の駒の一つだけど、今回に限ってはきみにも指し手の一面がある』



 あの黄金の双眸。

 魔王の瞳。


 俺たちを盤上遊戯の駒と言い切り、トゥイーディアさえもそうだと言って、なお今のトゥイーディアにだけは、指し手の一面もあると断言した。



 脳裏にふと、遊戯盤を挟んで睨み合うトゥイーディアとヘリアンサスが浮かんだ。


 ヘリアンサスが白、トゥイーディアが黒。



 格下が白の駒を使い、有利と言われる先手を取るのが通常だが、ヘリアンサスは違う。


 何もかもを知っているがゆえに、必然的に先手を打っているだけだ。



 二人が挟む遊戯盤の駒のうち、白の駒には顔がない。


 一方の黒の駒は、当然ながら俺たちの顔をしていて、黒の陣営の女王の駒は、指し手と同じ――トゥイーディアの顔をしていた。


 彼女が懸命になって守る王の駒は、俺はもう顔も覚えていない、彼女のお父さん――



 ――王を獲られると負け。



 つい先程、何の気なしに口に出した言葉が蘇る。



 ――()()()()()()()()()


 だからこそ盤上遊戯においては、王を生かすためならば、最強の女王の駒ですら捨て駒にする戦法が採られることも多い――




「――お兄さん?」


 怪訝そうに声を掛けられて、俺ははっとして顔を上げた。

 慌てて女王の駒を所定の位置に置いて、誤魔化すように軽く笑う。


「ごめんごめん、考え事」


「えー、俺、今さっきルールが分かったとこですよ。そんなに考え込まないでくださいよー」


 お道化た風に言ってくる少年に、俺は笑って手を振った。


「違ぇよ。そこまで大人げないことしねぇよ。

 ただ――」


 肩を竦めて、俺は呟いた。



「――仲間の一人が、ややこしい対局の最中だ」



 はあ、と瞬きした少年が、たどたどしい手付きで歩兵の駒を進める。



 こつ、と、盤面と駒の触れ合う音がしたその一瞬を、なぜだか俺はずっと覚えていた。



 ――頭上で海鳥の声がした。

 波の音が耳の底をなだらかに流れていく。


 船上を吹く風は止まない。

 潮の匂いにすっかり慣れてしまった鼻は、もはや海の匂いを感じない。




 船の舳先が初夏を切り裂く。




 ――その五日後に、俺たちはレイヴァスの港町リドフールへ到着した。


















お気づきかと思いますが、作中の「盤上遊戯」はチェスを想定しています。


斜めに無制限に動く駒はビショップ=「僧正(「司祭」)」ですが、とある拘りから「学者」としました。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
どこかで見た作者様のコメントでのコリウスへの恋人の性別についてを踏まえて” そんな演技、コリウスにとっては嫌味でしかないだろう。” この一文を見たらなるほどなぁとしか思えない。 前読んだ時はふぅん、と…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ