19◆ 宿と酒と誤魔化し
メリアさんは大いにトゥイーディアの暴走ぶりを嘆いたが、一方トゥイーディアの暴走を聞いて呆れ果てたような声を出した奴も二人いた。
合流してきたコリウスとディセントラである。
「馬鹿なの?」
と、開口一番ディセントラが言い放ち、トゥイーディアが少々むっとした顔をする。
トゥイーディアの後ろで、メリアさんがしたり顔でうんうんと頷いている。
もっと言ってあげてくださいと言わんばかりの表情である。
むっと引き結ばれたトゥイーディアの唇に、潮風に泳ぐ蜂蜜色の髪が一筋掛かり、彼女はそれをぱっと払って髪を耳に掛けた。
そのままトゥイーディアが口を開いたが、しかし彼女が何を言うよりも早く、コリウスが言葉を重ねていた。
「少し考えれば分かるだろう。こんな港町にまで訃報が届いているんだ。ガルシアには確実に届いている。僕たちが――」
ここまで言って、微妙な顔で口を噤むコリウス。
そんな彼の横顔をちらりと見てから、ディセントラが言葉を継ぐようにして言っていた。
「――報せの又聞きなんてものより、私たちが使者から直接話を聞いてくるって思わなかったの?」
う、と言葉を詰まるトゥイーディア。
同時に俺は、コリウスが言葉半ばで口を噤んだ理由を察して思わず天を仰ぐ。
――コリウスは、俺たちを信じたことなど一度もない。
それが暴露された今、俺たちが以前と同じ信頼をコリウスに向けるのかということを、コリウスはコリウスなりに案じている。
だからこそ、自分が重大な報せを聞いて来て、それを俺たちに伝える――という、自分への信頼が大前提になる事柄を、はっきりと口に出しかねたのだ。
だが、突き合わせてみれば、俺たちがウェルスから聞いた報せの内容と、コリウスとディセントラが使者から直接聞いた内容は同じだった。
――四日前、レイヴァスでロベリア卿が急逝。死因は不明だが、四日前の朝に、私邸の居間で冷たくなっているのが発見されたのだとか。
つまり、発見こそ四日前であるものの、実際には五日前に逝去された可能性が高い、と。
それ以上のことは全く分からない。
まあ、人の死因なんかは、他国に喧伝するものではないから、これだけのことが分かっているだけでもすごいことなんだけど。
――時刻は、太陽がちょうど中天に座す時間帯。
処は、ガルシア部隊の駐屯所のすぐ傍の崖の上。
足許の遥か下から、波が岸壁に当たっては砕ける音が響いてくる。
コリウスもディセントラも、ちゃんと俺たちの居場所を察してくれたのみならず、ガルシア部隊の中に突っ込んで騒ぎを起こすようなことはしなかったのだ。
ちょっと離れた場所で、俺たちが合流しに行くのを逆に待っていてくれた。
俺たちはコリウスとディセントラの到着を魔力の気配から察して、ガルシア部隊の駐屯所からここまで、こっそり歩いて来たというわけ。
頭上を旋回する海猫が、みゃあみゃあと鳴いている。
ざーん、と波が打ち寄せては砕ける音が響く。
そういった音に紛れるように数秒の間を取ってから、トゥイーディアは誤魔化すように言った。
「――だって、ほら、報せが行く前にきみたちが砦を出てたかも知れないわけでしょ?」
「こんな港町にさえ、昨日に報せが届いたのに?
私たちが砦を出たのは、打ち合わせ通り今日の朝ですけど」
ディセントラが鮮やかにトゥイーディアの誤魔化しを打ち返し、トゥイーディアはしゅんとして項垂れた。
俺は出来るものなら、その頭を撫でに行きたかった。
トゥイーディアの近くにコリウスが立ってさえいなければ、ムンドゥスにくっ付かれたまま地面を睨んでいるカルディオスが、颯爽とトゥイーディアを庇いに前に出ていたことだろう。
トゥイーディアはトゥイーディアで、色々と一杯一杯なのだ。
冷静に頭が回るはずもない。
しかも今回の報せは、ヘリアンサスがレイヴァスに戻ることを暗示するものだ。
――ヘリアンサスは今、トゥイーディアをある意味で対等と認めて、奴が『対価』に定めるトゥイーディアのお父さんの何かを懸けて、彼女と競い合っているような状況だ。
多分トゥイーディアも、それをこれ以上なく意識しているはず。
それが分かっているからか、ディセントラは小さく溜息を吐いた。
仕方がない、と言わんばかりの息を落として、手持無沙汰に立つ俺たちを見回す。
それから淡紅色の大きな目を瞬かせて、可憐な仕草で首を傾げた。
「――それで? ウェルスさんはどちらにいらっしゃるの?」
ディセントラは、トゥイーディアとウェルスの間に一悶着があったことを朧気ながら知っている。
だからこの台詞は表向き、「迷惑を掛けたからお礼を言わないと」という意味にもとれるが、その実、「この際私からもひとこと言ってやろう」という含みも、多分に聞き取れるものだった。
が、トゥイーディアはちょっと気まずそうに目を上げて、陽光に金に透けて見える睫毛の下から、窺うようにディセントラを見た。
俺は少し離れたところで、アナベルと並んでそれを見ていたが、ぴくりとも動かない表情とは裏腹に、内心では顔を押さえて悶絶したい衝動に駆られていた。
可愛い。めっちゃ可愛い。
俺とは違って、ディセントラは感銘を受けなかったらしい。
訝しそうにトゥイーディアを見詰め返す。
「どうしたの?」
「あの……ウェルスさんは」
言い差して、トゥイーディアは両手の指先を軽く組み合わせた。
「定期船の出航まで日にちがあるらしいから……出来ればもうちょっと早く出航する船を見付けたいんだけど、難しいらしいから……」
定期船でなくとも、個人の船主がレイヴァスまで船を出してくれる可能性も、あるにはあった。
俺たちのためだけに船を出してくれる物好きはいないだろうが、偶然レイヴァス方面に船を出す人がいればいいと思ったのだ。
それで一応、コリウスとディセントラが来るまでの間に、(ムンドゥスをルインに押し付けた)カルディオスと俺とで港の方へ軽い打診に向かってみたのだが、結果は惨敗。
そりゃあまあ、安定してあっちとこっちを行き来する定期船があるのなら、人も荷物もそっちを頼るだろうからね。
元より可能性は低かった。
という惨敗した結果をトゥイーディアに聞かせたところ、トゥイーディアがそれをウェルスに喋った。
職務から引き剥がされたウェルスはそれを、殆どの人間が思い込むだろう思考回路に沿って考えた。
つまり、控えめに言っても色々と非礼をやらかしたトゥイーディアが、ある程度の誠意を見せろと迫ったと受け取ったのだ。
そんなわけで。
「――ウェルスさんが、私たちの宿を探してくれているらしいです……」
しおらしくそう言ったトゥイーディアに、ディセントラとコリウスは揃って額に手を当てた。
「おまえ……」
「軍人を職務から引き離した上に扱き使って……何やってるの……」
メリアさんがめちゃめちゃ頷いている。
――とはいえ、このエレリアには宿も少ない。
なぜなら殆どの人間が、港に着いたその日のうちに汽車を使って隣町まで行って、そこで宿をとることが多いから。
なので、まあ、ガルシアの隊服を着た人間が宿を探してくれる方が、宿の主人も頑張って部屋を都合してくれるだろうということは、簡単に予測がつくというもの。
実際、もうなんか疲れ果てたような顔でウェルスが戻って来て、宿が取れたことを俺たちに伝えた後は、そこそこの宿が宛がわれたらしいことにみんながみんな結構満足そうな顔をしていた。
一事が万事、結果が全てである。
それに俺としては、ウェルスの疲れた顔を見て胸がすかっとしたということもある。
カルディオスも、ちょっとにやにやしながらウェルスの草臥れた顔を眺めていたものだ。
ウェルスの奮闘があったとはいえ、宿の少ないこの町で、九人が一緒の宿に泊まるのは不可能だった。
なので、押さえられた宿は三軒四部屋。
部屋については、全部二人用になっているらしいとのこと。
誰が誰とどう泊まるかを決めた瞬間が、滅多にない腹の探り合いとなった。
――まず、男女が同室となることは勿論避ける。
俺たちは長い付き合いをしてきたけれども、殊にアナベルのことがあってからは、その辺はきっちり分けてきたのだ。
俺としては、トゥイーディアと同室で寝ていいよなんてことになった日には、嬉しさと緊張で眠れないことが確定するわけだけれども。
まあ、そんな日は一生来ないだろうだけれども。
トゥイーディアがかなりあからさまにアナベルを避けてメリアさんに寄って行ったので、まず一部屋はトゥイーディアとメリアさんで決定。
消去法でディセントラとアナベルが同室。
カルディオスとコリウスを同室にした日には、カルディオスがそのままどこかへ消えて行って戻って来ないかも知れないので、俺とカルディオスが同室。
ルインのためを思えば、俺がルインと同室になってやるべきだったんだろうが、コリウスは仲間の誰かと同じ部屋に突っ込まれるよりも、赤の他人と一緒にいる方がまだ気が楽だろう。
ルインをちょっと拝んで見せると、ルインは大丈夫ですとばかりに首を振ってくれた。
そして、最大の問題がムンドゥスだった。
どの宿に誰が泊まるかを決めている最中も、カルディオスから頑として離れないムンドゥス。
さすがに宿でまでこいつに纏わりつかれることは断固として御免被りたいと言わんばかりのカルディオスから、ディセントラがムンドゥスを引き取ろうとするも難航。
ムンドゥスの行先としては――ムンドゥスがトゥイーディアを嫌っている以上――ディセントラとアナベルの部屋しかないわけだけれど、カルディオスの外套から手を離さないムンドゥス。
最終的に、俺とカルディオス、ディセントラとアナベルが、同じ宿の二部屋に分散して泊まることで落ち着いた。
これなら、カルディオスがムンドゥスを部屋の前で引っ剥がすだけで済む。
とはいえカルディオスは、アナベルと同じ宿を宣告された瞬間に、この世の終わりみたいな顔をしたけれど。
アナベルは無表情だったが、輪を掛けて冷ややかな目でカルディオスを見ていた。
この二人の間で、もう修復不可能なまでに育ってしまった断絶に、俺としては呻くしかなかった。
それに俺、せめてトゥイーディアと同じ宿が良かったんだけど。
まあ、無理だけどね。
みんな、それだけは避けようと言わんばかりの顔だった。
俺とトゥイーディアが喧嘩になって、宿が倒壊する事態は避けねばならんというような。
いつものこととはいえ、俺は溜息すら零せない。
実際に宿までウェルスに案内されてみると、確かに結構いい宿だった。
誰が代金を払うのかは敢えて聞いていない。
多分、カルディオスかコリウスが奢ってくれるはずだ。
俺たちが泊まる宿は、ぱっと見は装飾窓の目立つ瀟洒な集合住宅みたいな感じだったが、中に入ってみるとちゃんと帳場があった。
宿の主人は、ガルシアの隊員がわざわざ部屋を押さえに来ていたということで、俺たちを重要人物だと認識したらしい。
部屋の鍵を渡してくれながら、半ばは興味津々な、そして半ばは緊張に満ちた視線で、俺たちをまじまじと見ていた。
ムンドゥスを見られると、ますます大事になりかねないと判断したのか、カルディオスはずっとムンドゥスと宿の主人の間で、壁になるようにして立っていた。
この宿には食堂がなかったが、どうやら小僧に頼めば部屋まで運んでくれる仕様らしい。
ただの「結構いい宿」じゃなくて、手狭ではあってもれっきとした高級宿だった。
カルディオスもディセントラも当然のような顔をしていたが、俺はちょっと慄いた。
高級宿とはいえ、都会にあるものとは比べるべくもない。
俺たちを案内した小僧は、まずディセントラとアナベル(と、カルディオスが苦労して自分から引き剥がしたムンドゥス)を部屋に送り届け、その後俺たちを部屋に案内したわけだが、興味津々という顔で俺たちを振り返り、
「どっちがどっちの恋人なんスか」
と訊いてきたのだ。
普通の――というか、都会のちゃんとした高級宿であれば有り得ない無礼だったが、別にそれで怒るほど気は小さくない。
もっといえば俺は、ここがちゃんとした高級宿ではなくて、どっちかといえば「なんちゃって高級宿」であることに安堵すらした。
恵まれない生まれが多かったので、堅苦しいのは苦手なのである。
「恋人ならさ、そいつと一緒の部屋に泊まると思わねえ?」
カルディオスが即答し、にこっと笑った。
二十歳手前と見える小僧がぱっと頬を赤らめた。
「つまり、どっちも俺たちの恋人じゃねーよ。ただあの二人、他所におっかない旦那がいるんだよね。他の客に手ぇ出されねえよーに、ちょっと見といてやってくれる?」
ここで更ににっこり。
魔性の翡翠の瞳が細められる。
小僧はこくこくと頷いて、二月分の給金に代えても二人を見守ると宣誓していた。
ちょっと考えれば、髪を短く整えているアナベルはともかくディセントラの髪型が、既婚者のものではないと気付いたはずだが。それに二人とも、髪飾りつけてないし。
俺たちが案内された部屋が、アナベルとディセントラの部屋とは階も違う、離れた位置にあることを知って、カルディオスは安堵の溜息を漏らしていた。
部屋はそんなに広くなかったが、奥に寝台が二つ並べてあって、部屋の入口からはそこが見えないように、寝台の手前に薄い紗の帳が引かれていた。
その帳の手前に、食事のためだろうテーブルと椅子が配されている。
その他、身嗜みを整えるための調度品も隅っこに置かれていた。
どれもちゃんとした造りで、年季が入っていそうだった。
俺がそう思っていることが伝わったのか、小僧はにやっと笑った。
「うち、建物自体は古いんスよ。結構値が張るもんも置いてあるんで、旦那さまの自慢っす。
――あ、お夕食なんスけど、何時頃お持ちしましょうかね?」
夕食の時間を、小僧はカルディオスの方を向いて尋ねた。
多分、身形とか雰囲気から、俺をカルディオスの従者だと思ったらしい。
主従にしては俺がカルディオスの荷物を持っていないだとか、そういう違和感はあっただろうが、細かいことはあんまり考えない性格なのかも知れない。
ぶっちゃけ、俺はあんまり前に立って喋ったりするのは苦手なので、カルディオスに話を振ってくれたなら万々歳。
そう思ってしれっと立っていると、トランクを足許に置いたカルディオスが瞬きして俺を見た。
そして首を傾げて、はっきりと。
「ルド、何時がいい?」
口調も表情も普段通りだったが、翡翠の目がちょっとだけ不機嫌そうだった。
こいつはちゃらちゃらしていても義理堅いから、勝手に俺の方の程度を低く見られたのが気に食わなかったらしい。
俺は溜息を吐いて、肩を竦めた。
「六時くらいでいいんじゃないか」
にこ、と微笑むカルディオス。
小僧の方に目を向けて、「じゃ、それで」と。
小僧の方はいよいよ、俺たちの関係を疑うような顔をしていたが、「うす」と会釈して部屋を出て行った。
多分、戻るついでにアナベルとディセントラにも同じ質問をしていくだろう。
がたがたと音を鳴らしながら、カルディオスが窓を開けた。
寝台と寝台のちょうど中間辺りに開いている窓が開け放たれて、潮の匂いのする風が室内に吹き込んでくる。
紗の帳がふわっと風を孕んで膨らんだ。
「あー、けっこー眺めいいんだな」
カルディオスが窓際に手を突いて立ってそう言った。
釣られて俺も窓の方を見る。
ここは三階で、周囲よりも頭ひとつ高い。
だからか、確かに眺めは良かった。
眼下に他の家々の屋根が雑然と並び、その向こうに港を擁する海が見えている。
陽光にきらきらと輝く海は、まるで大きな一個の宝石みたいだった。
藍玉と青玉の色が、互い違いに閃くような。
カルディオスは、窓をそのままにしてトランクの方へ戻ると、トランクを蹴って開けた。
俺は椅子の上にトランクを置いたところだったが、「ルド」と呼び掛けられて振り返った途端、ぽーんと放り投げられた財布が目の前に迫っており、慌ててそれを掴み取ることになった。
掴み取った財布は案外軽い。
詰め込まれている金額はかなりのものだったが、全部紙幣だから軽いのだ。
財布を手に眉を寄せていると、カルディオスがへらっと笑って寝台に腰掛けながら、事も無げに言った。
「俺はここで退屈しとくけど、おまえ、それやるから遊んで来いよ」
俺は瞬きした。財布を両手で持ち替えながら、半端に肩を竦める。
「……いや、行くなら一緒に行こうぜ」
誘ってみると、カルディオスは小さく笑ってぱたんと後ろに倒れた。
ぼふ、とマットレスが沈む音がする。
「俺はいーや……変に顔合わせたくねーし……」
「――――」
俺は言葉に詰まった。
こう言われてしまっては誘い難い。
俺が躊躇っていることを感じ取ったのか、むく、と起き上がったカルディオスがにこっと笑った。
開いた紗の帳の向こうで、ひらひらと手を振りながら。
「なんか甘いもん買って来てよ。あと、おまえには死んでも飲ませねーけど、酒買って来て。夜に飲みたい。おまえに酒の味は分かんねーだろーから、店の人に甘いやつ訊いて買って来て」
お遣いの体をとられてしまっては、俺としても外に出ざるを得ない。
汽車に缶詰めになっていた二日間の後なので、正直に言えば出歩けるのは嬉しいのだが。
「おまえ、一人で大丈夫?」
思わずそう訊いてしまったのは、カルディオスの雰囲気がなんだか儚く見えてしまったからだったが、問われたカルディオスは胡乱な瞳で俺を見てきた。
「は? 餓鬼じゃねーんだから」
はいはい、元気そうで何より。
トランクを部屋に置いて、預けられた(カルディオスの言葉を額面どおりに受け取るのであれば、貰った)財布のみを外套のポケットに突っ込んで、俺は町に繰り出した。
ウェルスは順番に俺たちを宿に案内したわけだが、真っ先に案内されたのがここだったので、俺は他のみんなの宿がどこなのか知らない。
この町にそう何軒も宿があるわけではないはずなので、その気になって探せばすぐに見付かるだろうが。
普通の港町であれば、そこは物流の拠点である。
地元のものから遠方のものまで、様々なものを扱う市が開かれるのが通常だ。
だが、エレリアに関してはその恩恵を隣町に掻っ攫っていかれた結果、店自体があんまりない。
日用品や食料品を扱う店はあるけれど、見て回るべき店がない。
とはいえ、汽車でじーっと座っているだけだった二日を思えば、こうして足を伸ばせるだけ上々。
海猫の声を運ぶ潮風は暖かく、俺はまだ外套を着ているものの、道行く人たちには随分と軽装の人も増えている。
エレリアは、ルーラやアミラットとは違って、おおよそ平坦な地形に恵まれた町だ。
海辺に向かっての傾斜はあるが、微々たるものだ。
お陰で町中には階段も坂も少ない。
長い年月のうちに、ここを行き交う人たちの靴底に角が削り取られたような敷石を踏んで、俺は取り敢えずカルディオスのお遣いを果たすべく、目的のものが売ってそうな店を探して歩いた。
甘いものと酒、とのご要望だったが、先に見付けたのは小さいながらも歴史を感じさせる佇まいの酒屋だったので、取り敢えずその店内へ。
大きな硝子が嵌め込まれて店内が見えるようになっているドアを押し開けると、ちりん、と軽やかにドアベルが鳴った。
古さがそのまま艶になったような木造の店内は狭く、酒瓶が収められた棚が並ぶ中に無愛想なおじさんがいた。
聞かなくても、これが店主だと分かる。
店内に入った時点で、長居は危険と分かっているので、俺は「他人に頼まれて来た」ことを説明した上で、「取り敢えず甘い酒をくれ」と。
店主はめちゃめちゃ面倒そうに腰を上げたが、俺が財布を取り出した瞬間からめちゃめちゃ親切な顔にすげ変わった。
あれこれ酒を指差しながらも、愛想よく色々喋ってくれる。
この酒屋さんは、海の向こうから取り寄せた酒を扱っているこの町で唯一の店だとか、創業はこの店主さんの爺さんの代だとか。
この店主の爺さんか、男は歳喰ってからお嫁さんを貰うこともあるから、ぎりぎり俺たちの前世と世代が被っているかどうかってとこだな――なんてことを考えていると、ものすごい勢いでドアが開き、ドアベルがちりんちりんと激しく鳴った。
俺はぎょっとしたし、店主は不機嫌に額に皺を刻んだ。
まあ、この人からすれば俺は上客だから、接客の邪魔をされたくないのかも知れない。
が、振り返った俺は内心で拳を握り締めた。
目を疑うといった顔でそこに立っていたのは、俺と同じくトランクを手放して身軽になったトゥイーディアだったのだ。
「――なんで……」
真剣に慄いた顔で俺を見てくるトゥイーディアに、店主が俺の方を向いて、「お知り合いですかい?」と。
知り合いどころか数百年の付き合いで、俺の好きな人です!
――とは答えられない俺は、微妙な顔で唸った。
トゥイーディアがいつものように説明してくれるかと思いきや、彼女も微妙な顔で唸っていた。
しかしそれも一瞬のことで、トゥイーディアはすぐさまこっちに近寄って来ると(俺の心臓が肋骨の中で宙返りした)、声を低めて囁いた。
「――なんでこのお店にいるの?」
俺は、甚だ本意ではないことに、全く無表情だった。
「……カルに頼まれて」
ああ、と呟いて、トゥイーディアが気まずそうに一歩下がった。
「びっくりした。きみの顔が見えたからすっごく焦っちゃった」
なるほどね。
この店には縁の無さそうな俺の顔がドア越しに見えて、思わず飛び込んで来たわけか。
――嬉しい。
俺の顔を見付けてくれたのが嬉しい。
更には俺を心配して飛び込んで来てくれたのが嬉しい。
許されるならば盛大ににやけているところだ。
とか何とか思って、俺は必死に、「カルの好きな酒が分からないから、一緒に選んでほしい」という言葉を絞り出そうとした。
トゥイーディアのことだから、カルディオスのためであれば付き合ってくれるはずだ。
だが、代償が俺の口を堅く閉ざしている。
それを突破しようと人知れず四苦八苦しているうちに、別の人間が店内に入って来た。
俺は自分の顔が、見事に不機嫌に歪んでいくのを自覚した。
入って来たのはウェルスだった。
他には誰もいない。
みんなを宿に案内し終えたのなら、なんでこいつがここにいるんだ。
しかもなんでトゥイーディアと一緒にいるんだ。
トゥイーディアはぱっと振り返って、ウェルスの方へ歩み寄って行く。
ウェルスの表情が戸惑ったものであることを見て取って、眦を下げて手を合わせる。
「――すみません。お酒が苦手な人がここにいるのが見えたもので、つい」
にこ、とウェルス相手に微笑み掛けるトゥイーディアを見て、俺はいよいよ無表情。
「色々とご迷惑を掛けたお礼をしようにも、軍籍の方にお酒は不釣り合いですね」
鮮やかにそう言葉を続けたトゥイーディアのお陰で、俺は大体の事情を察した。
大方メリアさん辺りの主張だろうが、トゥイーディアは勿体なくも、今日一日この間抜けを職務から引き剥がしたお礼をしようとしているらしい。
実はこいつに殴られたことがある、とメリアさんに言えば、メリアさんも復讐の鬼になりそうなもんだけど、言ってないのか。
心配を掛けたくないとか、トゥイーディアには色んな考えがあるんだろうけど、俺としてはもやもやする。
だが、まあ、ウェルスも、「お礼をするくらいなら離れてください」と言わんばかりの顔。
そういえばこいつ、土下座でトゥイーディアに謝っていたこともあったっけ。
俺からすれば全然足りない謝罪だが、こいつからすれば気まずさとか色々あるんだろうね。
――そんなことを考えているうちに、トゥイーディアがウェルスを促して店から出て行こうとしていた。
ウェルスは、トゥイーディアと二人にされるくらいならばと、縋るような目を俺に向けてくる。
俺は徹底的な無表情でそれを迎え撃った。
ウェルスの目が、おろおろと泳いだ。
「ご令嬢、ルドベキアさまのご用事は――」
「ああ、大丈夫だと思いますよ」
冷淡なまでに、ぶった切るようにそう言ったトゥイーディアは、俺の方をちらりとも見なかった。
「お遣いのようなので。店主さまがよしなになさるでしょう」
――いつもなら、カルが好きな酒について、ちょっとくらいは助言をくれるだろうに、マジで?
二人が出て行って、ばたん、とドアが閉まる。
俺は思わず、ぱちくりと瞬き。
もしかして俺、輪を掛けてトゥイーディアに嫌われてないか?
――その考えに、それこそ足許が崩れて行くようなショックを受けていた俺は、取り敢えず店主の勧める酒を言い値で買った。
元より酒の良し悪しは分からない。
多少ぼったくられていたのだとしても、逆に勉強してもらっていたのだとしても俺には分からないし、カルディオスもそれは承知のことだろう。
ついでにそのまま、この辺で甘味を買える場所を訊いてみるとすらすら教えてくれたので、厳重に包まれた酒瓶を抱えた俺は、教えられた店に真っ直ぐ向かった。
もう町並みを見て楽しむような気分じゃない。
辿り着いた店でも、取り敢えず店主のお勧めを購入。
菓子については俺も良し悪しが分かるので、別にぼったくられたりはしなかった。
店主は俺が抱える酒瓶をしげしげと見た後で、親切に幾つかのお勧めを見せてくれたのだ。
いい人だった。
恙なく宿に戻った俺は、退屈そうにしていたカルディオスにお遣いの品を届けて、日も暮れた頃に、あの態度の軽い小僧が運んで来た夕食を摂った。
海辺らしい魚料理中心の献立だった。
トゥイーディアは魚料理も好きだから、もしも彼女が同じような献立を食べていたのであれば喜んだことだろう。
夜中に、カルディオスは宣言どおりに一人で酒盃を呷り、何だかんだと酒についての講評を下していた。
俺にはさっぱり分からなかったが、少なくともカルディオスが飲んでいる酒が、割らずに飲むのに向いていないくらいに度数の強いものであることは匂いから理解した。
カルディオスは顔色も変えず、酒と甘味を楽しんでいた模様。
「イーディがいればな」と呟いていたので、一人酒を寂しく思っていたことは確かだが、俺が付き合えるのは甘味の方だけだからね。
――と、思っていたが、俺はカルに付き合ってやることは出来なかった。
適当に選んで口に入れた小さなケーキを食べてからの記憶がない。
気付くと翌日の昼近くになっていて、俺は爆笑するカルディオスから、あのケーキにはどうやら蒸留酒が使われていたらしいと聞いた。
生地にも使われていたし、ケーキに練り込まれていた干し葡萄も蒸留酒に漬け込まれていたのだとか。
俺がばったり眠り込んだ後に、慌ててケーキを口に入れてそれを確かめて、笑い出すカルディオスが目に浮かぶ。
詐欺だ。
普通の菓子だと思ったじゃないか。
あの店主、俺が酒瓶を抱えて菓子を買いに行ったから、俺のことを酒好きだと思ったんだな。
食べる前に匂いで気付こうにも、そもそもカルディオスが酒を飲んでいた状況だったので、どこからどう酒の匂いがしているのか、そんなの俺に分かるわけじゃないじゃないか。
憤慨する俺を見て、涙が出るほどカルディオスは笑っていた。
その後、俺の頭をぽんぽんと叩いて、笑みに震える声で。
「おまえ、すぐ寝ちゃったから、俺が寝台まで運んでやったんだよ。――久し振りで懐かしかったわ」
そうだろうな。
この頃は酒なんて口に入れないように気を付けてたからな。
――そう思いつつも、俺もちょっと懐かしくなった。
以前までの人生で、誤って酒を飲んで爆睡をかます俺を寝室まで連れて行くのは、大抵がカルディオスかコリウスの役目だった。
次の日に目を覚ましてきょとんとしていると、二人から雨のように苦言が降ってきたことを覚えている。
カルディオスは俺と身長が釣り合うから、笑って済ませてくれることの方が多かったが、コリウスからすれば俺を運ぶのは相当にしんどいことだったようだ。
「次に僕の目の前であの醜態を晒したら、骨の一本や二本は折らせてもらうからね」
と、冗談なのか本気なのか判別のつかない、冷ややかな声で言われたこともあったっけ。
まあ、その次にあいつの前で同じ醜態を晒したときも、あいつは何だかんだ言いつつ介抱してくれたわけだけど。
――あいつはそういう奴だった。
いい奴だし、冷ややかではあっても優しい奴だ。
そういうことを思わず考えて、俺は鼻の奥がつんとするのを感じた。
それを誤魔化すために、なおさらに声を上げて、「不可抗力だ、俺は悪くない」などと言い募ったが、カルディオスはずっと笑っていたので、聞いていたのかいなかったのか。
――もしかしたらカルディオスも、何かを誤魔化すために笑っていたのかも知れない。