18◆ 遠慮は投げて
アーサー・ウェルスは、ウェルス男爵の次男坊である。
散々トゥイーディアに絡んだ挙句、あろうことか彼女に手まで上げたことを、俺は絶対に忘れない。
こいつが瀕死の重傷を負っていようが、平然と無視する自信がある。
カルディオスも、もはや殺意に近い怒気を浮かべてウェルスを睨み付けている。
そんなカルディオスの後ろから、トゥイーディアが少しばかり焦った様子で前に出ようとした。
こつ、と、靴の踵が昨日の雨の名残に濡れた敷石を鳴らす。
「ウェルスさん、そういえば、今はこちらにいらっしゃったんですね」
一応、ウェルスは左遷されてここにいるわけだが、トゥイーディアの言葉に嫌味は欠片もなかった。
彼女の言葉だけを聞けば、ウェルスが自ら志願してここにいるように捉えられたかも知れないくらいだ。
「あの、お願いなんですけど、」
恐らくトゥイーディアは、ウェルスに「ここに救世主がいることは内密に」を念を押すつもりで前に出ようとしたのだろうが、カルディオスが咄嗟のようにトゥイーディアの肩を片手で掴んで自分の後ろに再び押し遣った。
結果として、言葉を半ばでへし折られることになったトゥイーディアが、「ちょっと!」と抗議の声を上げる。
彼女が、綺麗にカルディオスの後ろに回収されていったので、俺からはトゥイーディアの声だけが聞こえる寸法である。
ムンドゥスもトゥイーディアに巻き込まれる形で、カルディオスの陰に隠れるように収納されていた。
トゥイーディアの様子を想像すると可愛いが、カルディオスはその可愛いトゥイーディアを完全に庇い込んで、「危ないから!」と連呼していた。
ナイス、ナイスだ、カルディオス。
こんな奴に、トゥイーディアは見せることすら勿体ない。
内心で拳を握り締めて歓呼の声を送っていると、はあ、と呆れたような溜息が近くから聞こえてきた。アナベルだ。
「――港町にいると知り合いに会うようになってるのかしら」
と、ぼそっと呟くアナベル。
冷めた目でトゥイーディアの方を見つつ呟く彼女の声に、俺は思わずびくっとしたが、すぐにそれを抑え込んだ。
俺はまだぎりぎり、アナベルに対する蟠りはない。
「どういう意味?」
尋ね返すと、アナベルの薄紫の瞳がちらっと俺を見上げて眇められる。
日陰において、紫苑の色に透き通る双眸。
「以前もあったでしょう。港町で、あなたのお知り合いに声を掛けられてたじゃない」
「――――」
しばらく沈黙してから、俺は思い出した。
あれだ。
キャプテン・アーロの海賊――もとい、今はアーロ商会の、元海賊のハーヴィンに声を掛けられたときだ。
「あー、あったな」
頷いて答えると、「でしょう」と言わんばかりに溜息を吐いたアナベルが、声を抑えながらも騒ぐカルディオスとトゥイーディアを後目に(そして、その様子をあわあわと見守るメリアさんとルイン、カルディオスになおもくっ付いているムンドゥスを後目に)、ウェルスの方へ一歩踏み出して、淡々と言った。
挨拶も名乗りも何もない、簡潔極まる言葉だった。
「――ねえ、悪いんですけれど、ここにあたしたちがいることは内密でお願い出来ます? 色々と事情があるもので」
ウェルスはウェルスで、カルディオスの過剰反応に茫然としている様子だったが、そう告げられてアナベルに視線を移し、もう一度トゥイーディアの方を見て――結果的にカルディオスを見ることになっていたが――、アナベルに目を戻すと、強張った動きで頷いた。
「――は、はい。リリタリスのご令嬢がお出でのように見えたので、ご挨拶をと思ったまでで……」
こいつ、なに殊勝なこと言ってんだ。
今さら何されても俺は許さねえぞ。
――と、俺は大人げなくも考えたが、カルディオスは全面的に俺と同意見らしかった。
トゥイーディアを背後に庇い込んだまま、警戒心満点で尻尾を膨らませる猫みたいにウェルスを睨み据えている。
「は? おまえ何言ってんの?」
アナベルは、ウェルスとトゥイーディアが散々揉めたことを知らない。
なので、さすがに怪訝そうにカルディオスを見た。
結果的にその視線を受けたカルディオスが怯んだので、ようやくトゥイーディアが彼の陰から脱出してきた。
「――もう、カル。話は着いたって言ったじゃない」
むすっとしながらそう言って、ストールを羽織り直すトゥイーディア。
花弁のような形で小さく広がる青いドレスの袖が手首で揺れる。
カルディオスは何か言おうとしたが、アナベルがなおも自分を見ていることに気が付いて、黙り込んで俯いた。
トゥイーディアはそんなカルディオスを困ったように見て、ほっそりとした手を伸ばして、ちょいちょい、と暗褐色の髪を整えるようにその頭を撫でた。
カルばっかりずるい。
それから飴色の目を細めてにこっと微笑んで、優しく言った。
「心配ありがと、カル」
ほんとに、カルディオスばっかりずるくないか?
なんだか遣り切れなくなってきた。
俺のそんな内心が表に出るようならば苦労はないので、トゥイーディアは何も感知せずにウェルスに向き直って、愛想笑いと分かる微笑を浮かべた。
「ごめんなさい、騒がしいところをお見せして。
――恙なくお過ごしのようで何よりです」
「いえ、お久しゅう――」
呟いたウェルスは、まじまじとトゥイーディアを見て(俺はその目を潰したくなった)、訝しげに眉を寄せた。
「……皆さまお揃いではないので?」
「――――っ」
トゥイーディアが言葉に詰まった。
普段なら卒なく返すことも出来ただろうが、元よりレイヴァスへの帰郷に罪悪感を抱えているのが、思いっ切り顔に出ていた。
多分、「ここで救世主が四人も揃って何してるんだ」みたいな意味に聞こえたんだろうね。
俺は思わず溜息。
ウェルスのことだから、ここでレイヴァスに渡航することがバレたらすっげぇ面倒そうだ。
「救世主のくせに云々」とか抜かして、トゥイーディアの罪悪感を煽りかねない。
カルディオスも同じことを考えたのか、後ろから片手で、ぐいっとトゥイーディアの肩を引き寄せた。
不意打ちにトゥイーディアがよろめいて、彼女がカルディオスに凭れ掛かるような姿勢になる。
メリアさんが咳払いしたが、恐らくカルディオスには聞こえていない。
「俺たちには色々あんの」
言い切って、「行こ?」とトゥイーディアの顔を覗き込むカルディオス。
ほっとしたようにトゥイーディアが小さく頷いたところで、ウェルスがさらっと言った。
「――レイヴァスへの定期船をお遣いなのでしたら、入港が三日後、出航がその翌日ですが、……宿の手配などはお済みで?」
――定期船を使いに来たってバレてる。
しかもレイヴァスに向かうってバレてる。
レイヴァス以外にも定期船は出てるだろ、この港。
そう思いつつも、カルディオスやアナベルは勿論、俺もトゥイーディアも、眉ひとつ動かさなかった自信があった。
伊達に長生きしていない。
ムンドゥスは言わずもがなの無表情でカルディオスのトランクの角に掴まっているだけだし、そもそも位置的にウェルスからは見えていなかろう。
意外にも、ルインはルインで表情を動かさなかった。
唯一メリアさんが、びっくりしたように口許に手を当てた。
トゥイーディアは眉を寄せて、首を傾げてウェルスを見遣った。
百点満点の白の切り方だ。
「は? 定期船?」
白を切られて、ウェルスは逆に驚いたようだった。
「――違いましたか?」
瞬きしてトゥイーディアを見て、ウェルスは自分の後ろに誰もいないことを確認するように振り返ってから俺たちに向き直った。
明らかに平民と分かるメリアさんとルインに胡乱な目を向けてから(位置関係から、小柄なムンドゥスのことは見えていないはずだ)、ちょっと声を潜めて、トゥイーディアに一歩近付きつつ、言葉を作る。
トゥイーディアに近付かれたことにも俺はいらっとしたし、ルインに失礼な目を向けられたことにも腹が立った。
が、そんな感情も、次のウェルスの発言に対するトゥイーディアの驚愕の声に掻き消された。
「……ロベリア卿がご逝去なされたと聞き及びましたので、てっきりご葬儀かと――」
「は!?」
トゥイーディアが声を上げた。
滅多に聞かない驚愕の声に、俺は思わず目を見開く。報せに対する感想が、トゥイーディアの声で吹っ飛んで行った。
ウェルスが声を潜めたことを無駄にするかの如き、路地に響き渡る声だった。
トゥイーディアと同時に、メリアさんも驚きの悲鳴を小さく上げて、両手で口許を押さえていた。
トゥイーディアの声にびっくりしたように、カルディオスが彼女の肩から手を離す。
トゥイーディアがウェルスに詰め寄り、その勢いに、俺とアナベルが一歩ずつ下がった。
俺たちの前を素通りしてウェルスの目の前に立ったトゥイーディアが、俺たちの存在を忘れ去ったかのように、語調激しく問い詰める。
――ロベリア卿。
実際に血の繋がりがあるのかは大いに疑問だが、一応は、ヘリアンサスの父親に当たるはずの人物。
少なくともヘリアンサスは、ロベリア家嫡男を名乗っていた。
「いつです!?」
詰め寄るトゥイーディアの勢いに、ウェルスは仰け反るように二歩後退った。
ざざ、と、敷石の上の細かな砂利がその靴底と擦れて音を立てた。
が、後退りながらもウェルスは、律儀にも返答はこなした。
「報せは昨日でしたが、実際にご逝去なさったのは――」
レイヴァスからアーヴァンフェルンまでは、最低でも一月は掛かる距離だ。
だが今の時代、国家元首だけは距離に関係なく報せを遣り取り出来るはず。
ロベリア卿が、レイヴァスでどれだけ重用されていた人なのかは知らないが、地位によってはその手段での報せの遣り取りもあろう。
瞬きのうちにそう考える俺は、実際のところ、ロベリア卿なんて人間は知らない。
なので、その人が亡くなったことへのショックは無いに等しく、単純に、このタイミングでの彼の逝去がヘリアンサスの仕業であるのかどうかを考えていた。
――海を跨いで、国境を越えて人を殺すことも、あの魔王ならば可能だろう。
息を呑む俺の耳が、つっかえがちなウェルスの言葉を聞き取った。
「――四日前と聞いております……」
「四日前――」
茫然と繰り返したトゥイーディアが、しばし視線を彷徨わせる。
路地裏に吹き込む暖かい春の風に、はらりとその蜂蜜色の髪が揺れた。
それからトゥイーディアは、すう、と息を吸い込んで言葉を作った。
風に紛れそうな小さな声だった。
「お報せは陛下から……?」
「ええ、はい、まあ」
ウェルスは更に一歩下がりつつ、首肯した。
そしてまた、ルインとメリアさんを不躾な目で見てから言葉を続ける。
「我々――つまり、貴族位のある者には昨日知らされまして……」
――どうしてわざわざ、他国の貴族の訃報がガルシアの隊員にまで知らされたのか、その理由に、俺はようやく思い当たって息を吸い込んだ。
ヘリアンサスがレイヴァスへ帰国するからだ。
その理由として、訃報が全体に知らしめられたのだ。
トゥイーディアが愕然として言葉を失っている。
他人の前で、これほど感情を表に出す彼女も珍しい。
メリアさんがおろおろした様子で、トゥイーディアに駆け寄るべきかを思案した様子だったが、殆ど無意識のように、カルディオスがそれを止めていた。
茫然としているトゥイーディアから視線を外して、ウェルスが俺たちを見た。
そしてぐっと眉を寄せる。
「……ご葬儀に向かわれるならば、ご婚約者が同行なさっているのが筋だとは思いますが」
どことなく責めるような響きのある声だったが、トゥイーディアには恐らく届かなったと思われる。
むしろメリアさんの方が、怯んだようにびくっとしていたが、それにもトゥイーディアは気付かなかったらしい。
しばし考え事をするかのように口許に手を遣っていたトゥイーディアが、ぱっと顔を上げ、ウェルスの顔を見て微笑した。
影にあって、普段よりも色濃く見える飴色の瞳が細められる。
「――ええ、そうですね。そのご訃報よりも先に、別の報せが入っていたもので、急いてお先に出立してしまいました」
にこ、といっそう深く微笑んで、トゥイーディアはウェルスに向かって一歩踏み出した。
そのまま有無を言わせず奴の手を握って、まろやかな瞳でウェルスの目を覗き込む。
――なんでこんな奴ですらトゥイーディアに手を握ってもらえるのに、俺は指先さえも握ってもらえないんだろう、ということを、俺が思わず考えてしまったことはさておいて。
口調はごく丁寧に、その実有無を言わせぬ重みを籠めて、トゥイーディアが言い放っていた。
「――汽車の中におりましたもので、その報せを私は存じ上げておりません。詳しくお話を伺いたいわ。
お仕事もおありでしょうけれど、どうぞお手すきのときに、駐屯所まで連れて行ってくださる?」
◆◆◆
ウェルスのことだから、嫌そうな顔のひとつでも見せるかと俺は思ったが、意外にも奴は二つ返事でトゥイーディアの頼みを了承した。
とはいえ、喜び勇んでの二つ返事ではなくて、已むに已まれぬ二つ返事であった様子。
ウェルスの顔にありありと、「どうしてリリタリスの令嬢に声を掛けてしまったのか」という後悔が浮かんでいた。
とはいえ、こいつもトゥイーディアには思うところがある様子で、彼女の頼みとあらば断われないといったところか。
俺からすれば、今ここで土下座しないだけ反省が足りないし、そもそも猛省していたとしても、こいつがトゥイーディアにしたことは許されることではない。
――俺たちからすれば、ロベリア卿の訃報は即ち、ヘリアンサスが手を下したかも知れない殺人事件であり、落ち着いてその話を聞こうとするのは納得のいく話だった。
しかしながら、メリアさんからすればトゥイーディアの行動は、婚約者の父の訃報のために、軍人を職務から引き離そうとしている暴挙である。
彼女はずっと、トゥイーディアを止めようと前に出ようとしている様子だったが、カルディオスがさり気なくそれを妨害していた。
多分カルディオスも、レイヴァスに渡った結果にヘリアンサスと顔を合わせることになるのかどうか、その予想の助けになる情報は何であれ大歓迎なのだろう。
他の隊員に救世主の顔を見られた結果として、騒ぎになるのは拙いということは、さすがのウェルスも理解できた様子だった。
俺たちからすれば、「こっそりこの国を出て行こうとしているのが露見するとやばい」ということでも、ウェルスからすれば、「貴族ではない隊員はロベリア卿の訃報を知らないのだから、救世主が現れればその理由も分からず驚いて当然」という風に解釈される。
解釈違いは指摘するまい。指摘するだけ面倒だ。
そのため、ウェルスがいったん部隊の方に引き返し、適当な理由をつけて暫時の自由行動を得る。その間俺たちはここで待ち、自由行動を得たウェルスが俺たちを駐屯所に案内してしばらく話をしよう――という風に落ち着いた。
ぺこ、と、案外素直にトゥイーディアに頭を下げてから、ウェルスが立ち去る。
それを見送ってから、アナベルがちらっとトゥイーディアを見て呟いた。
「――全然悲しそうじゃないわね、イーディ。
一応は親類縁者に当たるんじゃないの?」
言われて、トゥイーディアはばつが悪そうな顔をした。
恐らくは、親子の情――即ち親類縁者への情を訴えて、自分が役目を放り出したことを考えたのだ。
訴えた割には情が薄いじゃないかと言われたように感じたのだろう。
トゥイーディアのことだから、「伝聞だからまだ実感が湧かない」だとか何とか、言い訳はいくらでも思い付いただろう。
だが結局、トゥイーディアはやっぱりトゥイーディアらしく、素直に答えた。
「一応はね。でもお会いしたのは一度だけなの」
アナベルは瞬きして、頷いた。
ふうん、と呟いた声がどことなく冷ややかだった。
ウェルスが戻って来るのを待つ間、トゥイーディアとメリアさんがぼそぼそと、ロベリア卿の訃報を報せる使者と自分たちが入れ違いになっている可能性について話していた。
使者さんが無駄足を踏むことを案じているのだ。
メリアさんは結構真剣にそれを心配していたようだったが、トゥイーディアは楽観的だった。
「こんな港町の部隊にまで、昨日に知らされたんでしょ? きっとガルシアには、私たちの出発直後くらいに報せは届いてたはずよ。
だったらディセントラとコリウスが上手く事を運んでくれるでしょう」
と、一点の曇りもない信頼に裏打ちされた言葉を口に出して、俺とカルディオスとアナベルに、何とも言えない表情をさせていた。
信頼したい気持ちは山々だし、ディセントラは上手くやってくれるとは思うけれど、コリウスはどうだろうな……。
そうこうしているうちに、町は活気づいてきていた。
店は開いていたとはいえ、早朝の人通りの少ない時間が終わり、徐々に住民が外に出て来たのだ。
そしてちょうど、港に入港した船があったらしい。
船が着いたぞ、と、どこかで誰かが声を上げるのが聞こえてきた。
それに混じって、海の方からは海猫の声も空気を渡って聞こえてくる。
路地裏に小さく反響しながら響くような、その町のざわめきを、俺は壁に凭れ掛かって聞いており、アナベルは地面に置いたトランクに腰掛けて聞いていた。
ルインは俺の傍にしゃがみ込んでいて、俺が、「さっきのあいつの失礼な目付きに腹が立たなかったか」と話し掛けると、むしろきょとんとして柘榴色の目で俺を見上げて首を振っていた。
どうやら、胡乱な目で見られたことには気付いていなかったらしい。
こいつが不要な軽侮の念に煩わされることがなくて良かった。
トゥイーディアとメリアさんは、路地の入口の方に寄って行って、町の様子を見ている様子。
カルディオスはアナベルから距離を置いたところでしゃがみ込んでおり、その隣で、あたかもカルディオスの動作を真似するかのように、ちょこんとムンドゥスもしゃがみ込んでいた。
梃子でも自分から離れないこの小さな生き物に、カルディオスはいよいよ苛立っている模様である。
「おまえさー、なんで俺に付いて来んの?」
と、そこそこうんざりした声で訊いていた。
ヘリアンサスにそう言われたからだろ、と俺は思わず考えたが、ムンドゥスは意外にもそうは答えなかった。
編み込まれて結われてなお、しゃがめば地面に引き摺るほどに長い黒真珠色の髪に彩られた姿が首を傾げ、銀の大きな目が見開かれてカルディオスを見上げる。
そしてムンドゥスは、澄んだ声で断言した。
「行き連れに、カルディオスが最適だから」
カルディオスは胡乱な顔をして膝の上に頬杖を突いた。
「生憎とおまえは最適じゃねーわ……」
――そうしているうちにようやく、ウェルスの役立たずが戻って来た。
俺がこいつに対して不機嫌な顔しか見せないことについて、恐らくウェルス本人は、それが地下での出来事に起因したものだと思っているだろう。
俺がトゥイーディアのことを思って不機嫌になっているなどと、こいつが一考でもしようものなら、もしかしたら俺は代償の強制力で、ウェルスに対してにこにこ笑うようになってしまうかも知れない。
そんな気持ち悪いことはしたくないので、俺としてはウェルスがその考えに至らないことを祈るばかりである。
「――遅くなりまして……」
と、ここまで走って来たことが分かる、若干息の上がった声でウェルスが言えば、そーだそーだと頷く俺とカルディオスの様子には気付いた様子もなく、
「急かしてしまったようで申し訳ありません」
とトゥイーディアが一礼する。
そんな丁寧な言葉、こいつに必要ないよ、なんてことを俺は思う。
――不貞腐れて、俺はトゥイーディアから視線を外し、自分の足許辺りを睨み付けた。
もしかしたら俺は、トゥイーディアに想い人がいると分かってから、ただでさえ狭かった心が更に狭くなったのかも知れない。
自分の心がささくれ立っているのが分かる。
「――ウェルスさん?」
重ねてウェルスを呼ばわるトゥイーディアの声が聞こえて、俺は嫌々ながら視線を持ち上げた。
何事かとウェルスを見遣れば、ウェルスはどうやら、このとき初めて目の当たりにすることになったムンドゥスに、度肝を抜かれたらしかった。
ムンドゥスを方を見て、愕然とした表情で目を見開いて、見事にぴくりとも動かない。
気持ちは分かる。
この世のものとも思えぬ、異様なまでの美貌の少女だ。
驚くなという方が無理だし、それは分かるが、
「ウェルスさん、ウェルスさん」
と、大変可愛らしくウェルスに呼び掛けて、奴の目の前でトゥイーディアが手をひらひらさせるのを見て、俺の狭い心はすごい勢いで火を噴いていた。
なんだよ、俺だってあんなのしてもらったことねえよ。
目の前でトゥイーディアの白い掌が何往復かして、ウェルスははっと我に返った様子。
立ち上がるカルディオスと、その外套の裾にしがみ付くムンドゥスを、底が抜けたような驚愕の眼差しで見て、一言。
「――あなたのお子さまか」
「どっかに脳みそ落としたの?」
と、これまたカルディオスが一刀両断。
氷点下の眼差しでウェルスを見下すカルディオスにも、俺は大いに同意する。
何しろムンドゥスは見たところ十歳くらいだ。
そうすると、カルディオスが十一とか十二のときの子供ということになってしまうしね。
それにそもそも、この二人は全然似ていない。
姿形が美しいという点は一応の共通点だが、さすがのカルディオスの天与の美貌も、恐怖すら感じさせるムンドゥスの美しさと比べられるものではない。
暴言に、ウェルスがさすがに気色ばんだが、自分が馬鹿なことを口走ったと直後に気付いたらしい。
「失礼した」と口の中で呟いて、ムンドゥスから視線を引き剥がすようにしてトゥイーディアを見た。
やっとか、と言わんばかりにアナベルが溜息を吐く。
俺も同感。
「――お待たせいたしまして。こちらへ」
ようやく踵を返したウェルスについて俺たちは路地を出て、通りを下った。
ガルシア部隊の駐屯所は、どうやら港にほど近い位置にあるらしい。
多分、この町の存在意義が港だからだろうね。
他のどこが被害を被るよりも、港がレヴナントによって壊滅することが恐ろしいのだ。
「――レヴナントはここにも多いですか?」
と、ウェルスと並んで歩きながらトゥイーディアが尋ねる。
俺は、ウェルスが躓いて盛大に転べばいいのに、と念じながらその後ろ姿を眺めて歩いていた。
カルディオスもそわそわしながらトゥイーディアを見ていたが、アナベルがトゥイーディアとメリアさんのすぐ後ろを歩いていて、そのためにトゥイーディアとウェルスの間に割って入ることが出来ないようだった。
そのカルディオスの外套の裾を握るムンドゥスはちょこちょこと足を進めていたが、カルディオスの歩調に付いて行けずに躓きがちだった。
カルディオスがムンドゥスを一顧だにしないので、彼女が転んでもすぐに助け起こせるように身構えて、ルインがムンドゥスのすぐ後ろを歩いてくれていた。
「ガルシアとは比べ物になりません」
トゥイーディアの言葉にウェルスが応じて、ちょっと躊躇った後に続けた。
「――あの後、ガルシアに大量のレヴナントが出たと……」
ガルシア戦役のことを指してそう言われたのだと察して、トゥイーディアが「ああ」と呟いた。
冷淡に聞こえる呟きだったが、軋むほどの後悔が詰まっていた。
メリアさんが、案じるようにトゥイーディアの顔を窺うのが見えた。
トゥイーディアの声を聞いて、俺の心臓もぎゅっと縮んだ。
ウェルスが無神経にも言葉を重ねるようであれば、俺はその場で暴れ出す心積もりだったが、ウェルスは驚異的な成長を見せて口を噤んだ。
その沈黙が、この馬鹿の寿命を延長したことに疑いはない。
はしゃいだ声が背後から聞こえて、三人組の子供が俺たちを追い抜いて走って行った。
二人は男の子で、一人は女の子。
よく日に焼けた肌は三人共通で、まだ春だというのに随分と薄着だ。
歳は六、七歳といったところか。
「――ガス小父さんの船、戻って来たって!」
「今行けばたぶん、お土産もらえるよ!」
今にも転ぶんじゃないかと心配になるような勢いで走って行く子供たちの背中が、あっと言う間に遠くなる。
それを微笑ましそうに見送った道行く人たちは、しかし一方で俺たちに怪訝そうな目を向けていた。
そりゃまあ、そうだろう。
ガルシアの制服を着た男が、まるっきり民間人に見える七人を引き連れているのだ。
しかもカルディオスやトゥイーディアは、一目で貴族と分かる出で立ちだしね。
俺としては目立たないことを祈りつつ顔を伏せるしかなかったわけだが、カルディオスがいる限り、目を引かないというのはまず不可能だった。
こいつは本当に、人目を惹く花みたいなもんだから。
そんな視線に晒されながらも、ウェルスに案内されたのは、港のほど近く――港の様子が間近に見える高台に位置する、広々とした三階建ての石造りの建物だった。
嵐が来たら吹っ飛びそうだな、と思ったものの、造りは頑丈そうに見える。
潮風に長年吹かれてきたからか、建物そのものに海の匂いが染み込んでいるような感じがした。
町外れの、海を望む崖の上にぽつねんと建っている建物で、周囲は空き地になっている。
舗装もされていない空き地の中に聳える建物は、使われてさえいなければ怪談話の種になりそうだった。
人の気配に活気づいている建物の正面玄関を避けて、ウェルスは俺たちを裏口へ案内する。
どうやらこの建物、勝手口の他に裏口もあるらしい。
先に一人で裏口から中に入り、周囲に人がいないことを確認したウェルスに促されて、俺たちはガルシア部隊の駐屯所の中へ。
駐屯所っていうから、もうちょっと町中の、こぢんまりした所を想像してたよ――と思っていると、全く同じようなことを考えていたらしいルインと目が合った。
思わず俺が小さく笑うと、ルインは照れたように微笑んだ。
石造りの建物の中は薄暗い。
嵐が来れば、窓硝子など容易く砕け散ることに疑問はないので、この建物の窓は随分と小さく、数も少なかった。
そのためだろうが、日が昇ったこの時間にあってさえ、廊下には点々と灯火が点されている。
廊下には絨毯のひとつもなく、素っ気ない石造りの床が剥き出しになっていた。
今の時間は、人が駐屯所の玄関辺りに集中するのか、周囲に人声はない。
かつんかつんと俺たちの靴音が反響して、ウェルスは結構びくついていた。
ウェルスはどうやら、救世主を独断で駐屯所に入れてしまった事態に、かなり緊張しているらしい。
足早に廊下を歩いて、使われていないのだろう部屋の扉を開けて、入れ入れと手振りで急かしてくる。
はいはい、と俺たちは足を速めて、ウェルスが示した部屋に入った。
廊下と同じく絨毯のひとつも敷かれていない、素っ気ない応接室である。
無骨なシャンデリアがぶら下げられてはいるが、勿論のこと灯は入れられていない。
窓は小さなものが上の方に一つ開いているのみで、やっぱり室内は暗かった。
そして、応接室なんて滅多に使われないのか、結構埃っぽい。
籠もったような臭いと、空気が動いたことで舞い上がった埃に、こほ、と、アナベルが小さく咳き込んだ。
「――申し訳ありません、こんな部屋しかなく……」
泡を喰ったようにウェルスが言い訳を開始した。
その際にちらっとカルディオスを見たのは、以前に問答無用で殴り倒されたことを覚えているからか。
その応接室の調度品は、部屋の真ん中にローテーブルと、そのローテーブルを囲むようにソファが配されているのみ。
ローテーブルの上はおろかソファに関しても多分、埃が積もっている。
この駐屯所は、掃除夫を雇っていないのか、あるいはその掃除夫が仕事をさぼっているのか。
――そんなことを考えて、俺は思わず眉間に皺を寄せた。
トゥイーディアの矢車菊の色合いのドレスは、間違いなくそこそこ値の張るものだ。
埃で汚すには忍びない。
一方、一瞬たりとも考えた様子はなく、足許にトランクを置いたカルディオスがさっと外套を脱いでいた(ムンドゥスがびっくりしたように銀の瞳を見開いた)。
そのままごく自然にソファに歩み寄り、ぱさっと外套を広げてソファに掛ける。
ふわ、と埃が宙に舞ったが、外套の上は埃に汚れずに腰掛けられるようになった。
そしてカルディオスは、振り返ってにこっと笑った。
国宝になりそうな笑顔だった。
こういうことをさらっと出来てしまうこいつが、俺は本気で羨ましい。
「はい、イーディ。こいつと話があるんでしょ。座りなよ」
呼ばれて進み出ながらも、トゥイーディアはぱちりと瞬き。
ソファをちらっと見て、眦を下げて呟く。
「――外套、高価そうなのに……」
「イーディのお尻の方が高価いよ。
俺たちは、別にこいつに話はないから立ってるしね」
お道化たカルディオスの物言いに、トゥイーディアがふっと噴き出した。
とはいえ、カルディオスも結構必死である。
ここでトゥイーディアだけを名指しして、アナベルを呼ばなかった――カルディオスの心情的には、呼べなかったのだろうが――ために、トゥイーディア以外の人間は立っているというアピールに入っている。
故意に無視したわけではないと、婉曲にアナベルに主張したいようだった。
それに気付いたのかどうかは、アナベルの表情に乏しい顔からは窺えなかったが、彼女がソファに座ろうとすることはなかった。
すとん、とトゥイーディアが行儀よく腰を下ろしたところで、カルディオスが当然のような顔で俺を見てからシャンデリアを指差した。
自分でやれよ、という意味を籠めて息を吐きつつも、俺がぱちんと指を鳴らす。
途端、シャンデリアに灯が入って煌々と輝き始めた。
部屋が照らされて、いっそう埃の積もった現状が露わになる。
ふわふわと宙を漂う埃が白く照らされて、光の粒子のように浮かんで見えた。
アナベルがうんざりしたように溜息を吐いたものの、メリアさんにおずおずとハンカチを差し出された結果、多少の我慢は已む無しと考えたらしい。
しばしの瞑目ののち、完全なる無表情になった。
ルインが俺を気遣わしげに窺ってきたが、奴隷として生まれたこともある俺を舐めないでほしい。
こんなの余裕だ。
ていうかここで苛々して、トゥイーディアに心の狭い奴だとバレたくない。
いや、もうバレてるだろうけど、そこは心情だから。
一方、カルディオスが外套を脱いだ結果として、行き場を失くしたのがムンドゥスである。
彼女は、ずっと掴んでいた外套を見失って、右手を半端に彷徨わせていた。
だがすぐに、俺の隣に戻って来たカルディオスに静かに近寄って、彼のシャツをちょこんと摘まんだ。
カルディオスは鬱陶しそうにしたものの、その指先までが罅割れに覆われているのを見て、ムンドゥスの手を振り払うのは堪えた模様。
ウェルスは身の置き場がない様子で、俺たちに押されるようにして部屋の奥に立っていた。
入口のすぐ傍のソファにトゥイーディアが座って、俺たちはその後ろに一並び立ちっぱなし、そしてトゥイーディアとローテーブルを挟んだ位置にウェルスが立っている、という具合だ。
本来ならば、入り口から遠い側――即ち上座に俺たちが座るべきだが、埃っぽいこの部屋の奥にまで入り込みたいわけではない。
シャンデリアの灯に束の間目を細めてから、トゥイーディアがウェルスを見上げて首を傾げた。
蜂蜜色の髪の上に、きらりと灯火が映って見えた。
「――無理を申し上げましたね、ウェルスさん」
ウェルスの顔は微妙に強張っていたが、「いえ……」みたいなことを口の中で呟いていた。
トゥイーディアはその返答を聞いて、彼女の持つ全ての遠慮を後ろに放り投げたかのような声で迫っていた。
「それでは、ロベリア卿の訃報について、詳しくお聞かせ願えますか?」
――トゥイーディアが後ろに放り投げた遠慮は、どうやらメリアさんが受け取ったらしい。
彼女はずっと顔を伏せて、軍人を職務から引き剥がして質問に答えさせようとする、自分の主人の暴走ぶりを嘆くように目を閉じていた。
 




