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16◆ カーテスハウン発

 救世主がガルシアを出ることについて、士気を損なわないのははっきり言って不可能だ。


 ――と、ディセントラは断言した。


「何て言い繕っても、隊員からはあれこれ言われると思うのよね。だからイーディたちはこっそり出て行って、後で私とコリウスで誤魔化す方がいいと思うの。別に、わざわざ挨拶するような長い遠出じゃないって印象付けてみせるから、任せて」


 とのこと。

 ――コリウスはそれはそれは面倒そうな顔をしていて、それが俺とカルディオスの内心を大いに乱したことはさておいて。



 ディセントラの言葉に甘えて、俺たちは翌日早朝、こっそりとガルシアを抜け出してカーテスハウンの白亜の駅に立っていた。


 俺たちがその気になれば、見付からないようにこっそり脱走することなんて造作もないからね。

 まあ、今朝はムンドゥスのお陰でえらい気を揉んだが、こいつは言われたことには案外素直に従うので、抱えて移動する分に支障はなかった。

 ムンドゥスを抱える役割を押し付けられたカルディオスは不服そうだったが、コリウスが目の前にいる状況で、今のこいつが積極的に口を開くはずもないので、何も言わなかったというわけである。

 ルインは本人に「こっそり外まで出て待ってて」と言えば安心して任せられたし、メリアさんはそもそもが、外に出ようがどうしようが注目を集めるような人ではない。


 ――そんなわけで、コリウスも交えた俺たちは粛々とガルシアを出ることが出来た。


 コリウスは、ディセントラと一緒にガルシアに残るが、俺たちがガルシアからカーテスハウンに向かうのに馬を使う以上、その馬をガルシアに戻す役目の人間が要る。

 それがコリウスに振られたというわけだが、正直言って人選ミスだった気がする。

 少なくともカルディオスのためを思うのならば、ディセントラが来るべきだった。


 カーテスハウンの駅の前で下馬して、鞍に括り付けていたトランクを外した後、コリウスがさっさと馬同士の手綱を繋いで引き返し始めたときのカルディオスの安堵の溜息は、大海溝よりも深いと思えるものだった。



 ――そんなわけで、今の俺たちは七人連れ。


 俺と、トゥイーディアと、アナベルとカルディオスと、ルインとムンドゥスと、メリアさん。


 当たり前だがガルシアの制服で国境を跨ぐわけにはいかないので、全員私服である。

 春を迎えたとはいえ、南国育ちの身には朝晩が肌寒く感じるので、俺は外套を羽織っている。


 一方、北国育ちのトゥイーディアは青いドレスの上から薄い大判のストールを羽織っているだけだった。

 寒くないのか、とこっそり考えつつも、久し振りに見るドレス姿のトゥイーディアは大いに眼福。

 軍服でも可愛いし綺麗だと思うけれど、ドレス姿はドレス姿で目の保養。


 ちらっとしか見られない彼女の姿を瞼の裏に焼き付けて、俺は改めてトゥイーディアの想い人(推定)のハンスとやらに殺意を募らせる。

 二十年足らずしか生きてないくせに、トゥイーディアの気持ちを掻っ攫うって何なんだよ。


 アナベルは、いつもは青い衣服を身に着けることが多いのに、今日は黒い外套の下に紫丁香花(ライラック)を思わせる色のワンピースを着ていた。

 他意はないとは思う、ないとは思うが、半喪服にも見えるその出で立ちに、若干トゥイーディアの顔色が悪い。

 カルディオスも同じように感じたらしく、ちょっと気持ち悪そうにしている。


 そのカルディオスは、適当に見繕ったのだとしても高級そうな一揃いに身を包んでいた。

 とはいえウエストコートは身に着けておらず、シャツの上に外套を羽織っているだけだ。



 何しろ急に決まった帰国なので、メリアさんはあれこれと準備不足を嘆いてトゥイーディアに謝っていたが、むしろ夜の間に荷物を纏めてくれたメリアさんには感謝しかない。


 その上、汽車の中で食べられるようにと何か作って来てくれたらしくて、メリアさんは自分の荷物と併せて、布巾を被せた大きな藤籠も持っていた。


 お陰で、彼女が馬に乗るときには、全員一致でメリアさんの無事を見守っていたくらいである。

 とはいえ、メリアさんは案外器用に横乗りをこなした。


 見るからに大荷物なので見かねて、一度は片方を持とうかと申し出たが断られてしまった。

 一応俺も救世主なので、遠慮させてしまったのかも知れない。



 ――白亜の駅は、早朝とあって静まり返っている。

 物音といえば靴音と、同行者と話す誰かのぼそぼそとした喋り声だが、人が余りいないためにその音すら疎らだ。


 朝日も昇りたての時間だからね。

 俺たちが歩を進めると、高い天井にその靴音が跳ね返って木霊になったくらいである。


 ――ぶっちゃけ、この時間だと一日の最初の汽車をかなり待たないといけなくなるが、ガルシアで隊員たちが活動開始してから砦を抜け出すリスクの方がでかかったのだ。



 で、この時間だと、さすがに切符すら売られていない。

 然るべき時間になれば誰かが来て切符を売ってくれるはずのカウンター付近で、俺たちはしばしうろうろすることになった。


 他のみんなより、俺とルインがうろうろしがちだった。


 なんでって、寒いからだ。

 春とはいえ早朝。寒い。

 動いてないと震えてしまう。


 同じようにうろうろしたり、あるいは荷物を傍に置いて蹲るようにしてカウンターを見詰めている人が二、三人いたが、それぞれの事情が気になるところである。

 俺たちは他の連中が起き出す前に出発したという事情があるけれど、他の人たちは、この時間に駅にいるのはどういう理由なんだろうね。


 ルインは甲斐甲斐しくも、俺の荷物を持つことを申し出てくれたが、さすがに断った。

 使用人みたいな真似はしなくていいと言っているのだが、ルインはちょっと眦を下げて、


「今日は片手が空いているので……」


 と言っていた。


 ――ルインの片手が空いているのは、ムンドゥスがカルディオスから離れようとしないからだ。

 魔界からこっちに戻って来たときには、大抵ルインと手を繋いでいたムンドゥスではあったが、ヘリアンサスから「カルディオスと一緒にいろ」と言われて以来これである。


 今も、トランク片手にカウンターの向こうに人が座るのを待つカルディオスの外套の裾を、はっしと握って離さずに突っ立っている。

 仕草はいっそ子供らしいのに、恐ろしいくらいに美しい顔貌に浮かぶ表情が完璧な無表情なのがちぐはぐだ。



 そうこうしているうちにようやく、気怠そうにしているでっぷりと太ったおじさんがカウンターの向こうに座った。


 すかさずカウンターに寄って行って、切符の購入に当たったのはトゥイーディアとカルディオスである。

 カルディオスはカウンターに寄って行くときに、ムンドゥスをルインに押し付けて、彼にムンドゥスの手を握らせていた。


 そうでもしないと、ムンドゥスは雛鳥の如くにカルディオスに付いて行っていただろう。


 背後から切符の購入を見守っていると、金はカルディオスが出した様子。

 メリアさんは主人を立たせてしまったということで、唖然としたような顔をしていた。


 最初は気怠そうにしていたおじさんだったが、カルディオスが何か言った途端、めちゃめちゃ愛想が良くなっていた。

 上機嫌に何か言いながらカルディオスに七人分の切符を握らせており、俺はルーラで生まれて初めて汽車に乗ったときに、とんでもなく胡乱な目で見られながら切符を買ったことを、何となく思い出していた。


 おじさんに何か言って片手をひらりと振り、カルディオスがトゥイーディアを促して踵を返して戻って来る。

 途端、ルインの手を離してカルディオスの方へ()()()()と駆け寄って行くムンドゥス。

 編み込んだ黒真珠色の髪が揺れ、その様子は微笑ましいと言えば微笑ましいのだが、カルディオスは結構うんざりとした顔を見せた。


「――汽車、八時前に来るってさ」


 俺の分の切符を差し出してくれながら、カルディオスがぼそっと呟いた。


 薄くて茶色い紙に、「エレリア」と走り書きされている切符を受け取って、俺はそれをポケットに突っ込んだ。


 メリアさんが小声で、「わたくしが承りましたものを」とトゥイーディアに言っている。

 トゥイーディアは自分の分とメリアさんの分の切符を握り締めて、断固とした声で応じていた。


「その荷物を私に預けるか、それか私があれこれするのを黙って見てるか、どっちかにするのよ、メリア」


 そう言われて、メリアさんもぐっと押し黙った模様。



 白亜の駅を奥へ進んで、エレリア方面へ向かう汽車が到着するはずの乗降スペースで汽車を待つ。


 俺たちの後から切符を買ったらしい人たちも、それぞれの目的地の方面へ向かう汽車を待つ場所へ歩いて行っていた。


 それからしばし、徐々に駅に人が入って来たらしく、人声が増えてきた。

 三々五々に連れ立って人が入って来て、俺たちの周囲にも数人が手持無沙汰そうに立ち始める。


 そうなると、カルディオスが目立ち始めた。


 ムンドゥスを脇に、トランクを持って片脚に体重を掛けて立っているカルディオスは、もうそれだけで絵になっているのだ。

 ちらほらといる汽車を待つ人たちが、かなり熱心な視線を送り込んでくるくらいである。


 注目を集めたくない気持ちがあるのだろうトゥイーディアが、そうっと無言でカルディオスから離れて立つことを選び、それに気付いたカルディオスはちょっと悲しそうな顔をしていた。

 集まってくる視線には無頓着でも、今や数少なくなった、気軽に話せる人が離れて行くのは寂しいらしい。


 トゥイーディアと磁石か何かでくっ付いているかのように、メリアさんも彼女の傍に立っている。

 アナベルもどっちかというとそっちに寄って行ったので、俺はカルディオスの傍に留まった。

 ルインは俺から離れないので、端から見ると俺たちは、三人連れと四人連れの、別々の集団に見えていたかも知れなかった。



 トランクを足許に置き、俺が無言で外套のポケットに手を突っ込んでいると、カルディオスがちらっとこっちを見てきて、躊躇いがちに声を出した。


「――()みーの?」


「寒い」


 即答で返した俺に、カルディオスはふっと笑った。

 いつもの、明るいばかりの笑顔ではなくて翳のある笑顔だった。


 俺たちからだいぶ離れた場所で立っていた若い女性の二人連れが、そのタイミングで小さな悲鳴を上げたのを、俺は偶然だとは思わない。


「おまえ、ほんとに寒がりだな。もう春なのに」


「育ったとこの気候が良かった」


 ぼそ、と返して、俺はルインを振り返った。


「おまえも、寒くねぇ?」


 問われて、ルインはなんだか照れたように微笑んだ。そして頷く。


「――そうですね、正直に言うと、まだ少し寒いです」


「だよな」


 言葉を返して、俺はカルディオスに視線を戻す。


「な?」


 カルディオスはまた少し笑った。

 底抜けに明るい笑い声ではなくて、内心を押し込めたような笑い声ではあったが、それでも俺は少しほっとした。


「弟くん、ルドと違って騒がねーじゃん」


「俺だって騒いでないだろ」


 むすっとして言い返し、俺はそのままぼそぼそとカルディオスと喋っていた。

 つまらない雑談だった。


 これから向かうレイヴァスは寒いだとか。

 ようやく季節は夏に向かって動き始めているが、レイヴァスの夏は短い。

 レイヴァスの冬はそれこそ極寒なので、このまま冬までレイヴァスにいることになれば、俺は死んでしまうかも知れないだとか、そういう冗談。


「くそ、どうせなら南に向かいたかった……」


 毒づけば、カルディオスが軽く笑った。


「南にはもう行ったじゃん。な、弟くん」


 振られて、ルインが嬉しそうに頷く。


「はい、拾っていただきました」


「おまえが飛び込んで来ただけだろ」


 突っ込みながらも、俺は嘆息。


「なんであの島、気候だけはいいんだ……。お陰で寒さに打たれ弱くなっちゃったじゃねえか」



「――それは」



 唐突に、聞こえると思っていなかった清冽な声が聞こえてきて、俺はぎょっとしてその声の主を見下ろした。


 ムンドゥスが、鏡のような銀の双眸で俺を見上げていた。

 水晶の笛を鳴らすような高い声で、感情の籠もらない淡々とした言葉を発していた。



「ルドベキアが決めたから」



「……は?」


 俺は思わず眉を寄せた。


 カルディオスはそろそろムンドゥスに付き纏われるのにうんざりしているらしく、この発言も真剣に受け止めた様子はなかった。

 はあ、と溜息を吐いて俺を見て、肩を竦める。


「へえ、ルド。島ひとつあっためることも出来んの、おまえ」


 俺は思わず息を呑んで、吐き出す息に載せて呟いた。


「おまえ……、洒落にならねぇぞ……」


 カルディオスもはっとした顔になって俺から顔を背け、「ごめん」と。



 ――もしも仮に、そんなことはないと信じたいが、俺が一国を焼き払ったことがあるならば、確かに気候ですらある程度は歪められるのかも知れない。


 だが、だからこそ、そんなことはあってはならない。



 ムンドゥスはことりと首を傾げて、歌うように呟いた。



「ルドベキアが選んだ――」



「弟くん、ちょっとこいつ黙らせて」


 カルディオスがルインに向かって言い放ち、結果的にその一言を以てムンドゥスは口を噤んだ。


 ルインは訳が分からないという顔をしていたが、取り敢えずはムンドゥスを傍に寄せようと思ったらしく、手を伸ばして「ムンドゥス」と呼ばわった。

 それをさらりと無視して、ムンドゥスはカルディオスの外套の裾を握り直す。


 カルディオスは鬱陶しさを前面に押し出した表情をしたが、ムンドゥスの手の甲をもびっしりと覆う罅割れを見て溜息を吐き、彼女の小さな手を振り払うことを諦めた様子だった。




 ――そうしているうちに、煙で汚れた白亜の円蓋の下に汽笛が鳴り響いた。


 ぽぉ――っ、と甲高い音に振り返れば、もくもくと黒煙を噴き上げながらこちらへ軌道上を走って来る汽車の、黒光りする筐体が見えてきていた。


 がしゃがしゃがしゃと、車輪が回転する騒々しくも重々しい、規則正しい音が接近して、見る間に視界の中で大きくなる汽車が、きぃぃっと甲高い音を立てて円蓋の下に滑り込んで来た。


 巻き込まれた空気が駅の中に吹き込んで、ぶわ、と風になって吹き抜けていく。


 きいいい、と、軋むような音を立てて汽車が完全に停車して、黒光りする筐体に引っ張られる、精巧な木造の乗車部分(全部で五つが連結されていた)で、一斉に扉がばたりと開いた。


「――カーテスハウン、カーテスハウンです」


 汽車の中から車掌さんの声が聞こえてきて、わらわらと数名が汽車の中から降りてきた。

 疲れたように伸びをして、各々荷物を手にして歩き去って行く一団が過ぎ去ってから、俺たちもまた汽車に乗り込む。



 まずはトゥイーディアが、扉に取り付けられた手摺に掴まりながら汽車に乗り込んで、自分の分とメリアさんの分の切符を車掌に差し出した。

 後ろにいるメリアさんを示して、彼女の両手が塞がっていることをアピールしている。


 車掌さんは一瞬胡乱げに眉間に皺を寄せたが、すぐにトゥイーディアの身なりが良いことに気付いたらしい。愛想よく微笑んで、ぺりり、と二枚の切符を二つに割いて、片割れを自分の首から下げた箱に入れ、残った二枚分の片割れをトゥイーディアに返却した。


 トゥイーディアが微笑んで会釈し、自分に続くメリアさんが汽車に乗り込むときだけ、振り返って彼女からトランクを受け取った。

 メリアさんは空いた片手で手摺に掴まって乗車し、頭を下げてトゥイーディアからトランクを回収。


 続いてアナベルが、淡白に汽車に乗り込んで社内に消えて行く。


 続いて俺に促されたルインが、若干緊張しながら乗り込み、車掌さんに切符を差し出した。


 分かる、緊張するよね、魔界にこんなの無いもんね。


 車掌さんは、ルインが緊張していることは見て取った様子だったが、特段怪訝に思うこともなかったらしい。

 ぺり、と切符を半分に割いて、片割れをルインに返却する。


 ほっとしたようなルインが、数歩だけ車内に入って、振り返って俺を待つ。

 俺は手振りで、「先に入れ」と指示して、先にカルディオスを通した。


 何しろこいつにはムンドゥスがくっ付いているので、最後尾にこいつを残した結果に、ムンドゥスが転落でもしたら目も当てられない。

 さすがに俺も、木端微塵になるムンドゥスは見たくない。


 カルディオスも俺と同じことを警戒したらしく、先にムンドゥスを通そうとした。

 だが、ムンドゥスが駄々をこねるようにその場で足を止めてしまったので、軽く溜息を吐いて自分が先に立つ。

 翡翠の目が俺を見て、俺の意図を察したらしく、ちょっと安心したように細められた。


 ひょい、と身軽な仕草で汽車に飛び乗ったカルディオスが、貴公子のような仕草で――ただし、現実にいる貴公子ではなくて、御伽噺の中にしかいないような完璧な貴公子だ――ムンドゥスに手を差し伸べた。


 それを見たからなのか何なのか、さっきこっちを見て悲鳴を上げていた若い女性の二人連れが、そわそわしながらこっちに寄って来た。

 同じ汽車に乗るにしても、他の入口が空いてるんですけど。


 ムンドゥスはしばし、難しい顔で目の前に差し出されたカルディオスの掌を見ていた。


 車掌さんがいらっとしたようだったが、間髪入れずに振り返ったカルディオスがにこっと微笑んだのを見て、全て忘れ去ったように愛想よく微笑み返した。


「――ほら、ムンドゥス」


 カルディオスから声を掛けられるに至って、ムンドゥスが動いた。

 不承不承という様子ではあったが、カルディオスの手を取って、汽車に乗り込んだのだ。



 ――そして、がくん、とムンドゥスの身体から力が抜けた。



 俺はぎょっとした。

 思わずトランクから手を離す。ごとん、とトランクが白亜の床を叩き、ばたんと倒れた。


 その場で頽れようとするムンドゥスを、さすがに焦った様子でトランクを放り出し、カルディオスが抱き留める。

 ムンドゥスは危うく、床に倒れ込む寸前で、掬い上げるように抱き上げられた。


 俺は思わず安堵の息を吐き、意味なく片手で顔を拭う。


 ふわ、とムンドゥスを横抱きにして抱き上げたカルディオスは、俺と全く同じ顔をしていた――即ち、「忘れてた」と。



 ――そう、忘れていた。

 こいつ、なんでか知らないが、世双珠を使った移動手段を利用するときには昏倒するんだった。



 目を白黒させる車掌さんに、ほう、と息を吐いてムンドゥスを抱え直したカルディオスが、にこ、と微笑み掛けた。

 蝶を呼ぶ花みたいに美しい笑顔だった。


「――ん、何でもないよ、だいじょーぶ。この子、ちょっと身体が弱いんだ。

 ――ルド、俺のトランクも拾って来て。あと切符、外套のポケットに入ってんだよね。取ってくんない」


 俺も息を吐いて、まずは自分のトランクを拾い上げて汽車に乗り込み、自分の分の切符を車掌さんに差し出した。


 車掌さんがそれを二つに割いている間に、カルディオスの外套のポケットに手を突っ込んで奴の分の切符を取り出し、同じように車掌さんに差し出す。

 二枚分の切符の片割れを受け取った俺は、ムンドゥスを抱き上げたまま颯爽と車内へ進むカルディオスのトランクを拾い上げて、溜息混じりに彼の後を追った。


 この汽車は、出入り口が独立したスペースになっている。

 出入口から硝子張りの扉を潜って、ようやく客室というわけだ。


 客室内は、通路を真ん中にして、窓際に二人掛けの座席が設けられている。

 二人分ずつ向かい合わせになるように座席が配されている中、みんなはもう席を決めて腰掛け終えていた。


 足で扉を蹴って開けたカルディオスは、その様子をぐるりと見回してひとつ頷く。


 そんな彼がムンドゥスを抱えているのを見て、トゥイーディアとメリアさんが同時に、「えっ」と声を上げた。


「えっ、ちょっと。その子、大丈夫なの?」


 トゥイーディアが席から立って茫然とするのを、カルディオスは肩を竦めていなす。


「だいじょーぶ。そっか、イーディはあれだもんね、ガルシアに戻るときの汽車は一緒じゃなかったもんね。こいつ、前もこーなってたから。へーきだと思うよ」


 トゥイーディアはびっくした顔のまま座り直し、「船だけじゃなかったんだ……」と。


 メリアさんはその隣で、ぱちぱちと瞬きを繰り返している。



 ――位置としては、出入り口に近い位置でこちらを向く席にトゥイーディアとメリアさんが座っていて、その背中側にアナベルとルインが座っている。


 車内はがらんとしていて、奥の方に初老の男性が一人座っている他には、他の乗客はいないようだった。



 カルディオスはつかつかと通路を進んで、ルインの目の前の席にムンドゥスをよいしょと下ろし、ルインを見て、きっぱりと言った。

 アナベルの方はちらりとも見なかった。


「――弟くん、こいつ見てて。俺、付き纏われてもう()()()()


 ルインが立ち上がり、「はいっ」と答える。


 その声が元気いっぱいだったからか、奥の方の初老の男性が、何事かというように伸び上がってこちらを見てきた。

 目が合ったので、俺は取り敢えず愛想笑い。


 ルインがいい返事をしたことに満足げに微笑んで、カルディオスはまた通路に出てくる。

 そして、奴のトランクも持ったまま突っ立っている俺に、「ありがと」と笑い掛け、手を伸ばして俺から自分のトランクを受け取った。


 俺は肩を竦めて頷く。


 ――心情としては、俺はトゥイーディアの向かいの席に座りたかった。

 だが代償が俺にそんなことを許すはずもなくて、俺の足は勝手に他のところに行こうとする。


 が、堂々とトゥイーディアの向かいの席に座り込んだカルディオスが、足許にトランクを置いて、当然のように俺を見上げた。



「ルド、こっち座れ」



 ――えっ。



 俺はその瞬間、これまでにカルディオスの見目を称えたどの詩人よりも言葉を尽くして、こいつの美点を語りそうになった。


 だが、まあ、代償がある限りそれは無理というものである。

 俺がトゥイーディアの傍にいられることへの感謝に起因する全ての言葉も仕草も、悉く封じるのが俺の代償なのだから。



 現実には、俺は如何にも嫌そうに顔を顰め、カルディオスから重ねて言葉を掛けられて初めて、溜息を吐きながら彼の隣に腰を下ろしていた。


 トランクを足許に放り出して、不承不承という感じで足を組みつつも、俺の心臓は人知れずばくばくと脈打っている。



 だって、トゥイーディアが近い。

 正面はメリアさん、その隣、窓際にトゥイーディアがいる。


 汽車の座席は別に広くはないから、ともすれば膝が触れそうだ。

 多分、手を伸ばすことさえ出来れば、トゥイーディアの手を握ることが出来る距離。



 緊急事態でもないのに、こんなに近くにいられるとは。


 しかも、エレリアまでは汽車で二日らしいし、上手くすれば二日もこの距離のままでいられる。

 嬉しい。嬉し過ぎて心臓を吐きそう。



 トゥイーディアの気持ちが、たとえどこかの誰かに掻っ攫われてしまったのであろうと、俺の気持ちはもうずっと昔からトゥイーディアだけのものだ。


 視界の端に映るトゥイーディアの横顔は、窓際に頬杖を突いて外の、駅の光景を眺めている、ぼんやりとした――どことなく愁いのある表情。


 発車を待ちながら彼女が何を考えているのかなんて、考えるまでもない。

 お父さんのことを考えているんだろう。


 トゥイーディアは笑顔こそが可愛いし、愁いのある表情を見せられると、彼女に何か心配事があるのかと思って、俺としてはつらくなる。

 そして今は、トゥイーディアが誰を思って愁いを重ねているのかなんて明白だから、余計につらい。

 出来るならば、トゥイーディアの人生の全部は俺が守りたい。


 ――そういう風に思ってはいても、俺としてはトゥイーディアのどんな表情であれ好きだし、見ればどきどきするし、こうやって近くに寄ることが出来れば嬉しい。


 俺の恋情は、結構自分勝手だ。



 自分が犬であれば、多分俺はお座りをしながら尻尾をぶんぶん振っていた。



 トゥイーディア、こっち向いてくれないかな――と思っていると、ふと顔を上げたトゥイーディアが、(こうべ)を巡らせてこっちを見た。



 俺の心臓と息が止まった。


 えっ、マジで? 俺を見てる?



 何しろ視界の端っこでしかトゥイーディアを見ていられないので、トゥイーディアの視線の行方までは咄嗟に分からない。


 だが、もしトゥイーディアがこっちを見ているならば、変な顔は見せられない――なんていうことを考えていると、「あの」と遠慮がちな声が聞こえた。


 ――ん?


 声が聞こえた方を振り返る。


 そこに、二人連れの若い女性がいた。

 一人は薄紅の、もう一人は若草色の余所行きのドレスを着ていて、小振りのトランクと、鍔広の白いお揃いの帽子を手に持っている。


 二人はカルディオスを見て声を掛けたらしいが、カルディオスは気付いていない様子で、トゥイーディアに倣うように窓の外をぼんやり見ていた。


 俺は正面のメリアさんと目を合わせた。

 メリアさんの目がありありと、「わたくしでは声を掛けられないのでお願いします」と俺に言っていた。


 トゥイーディアの侍女さんの無言のお願いを断るのもな、と思って、俺はカルディオスの肩を小突いた。


「――おい、カル」


 カルディオスが瞬きして、俺を振り返った。


「ん?」


 俺は、通路に立っている二人連れをざっくばらんに親指で示した。


「知り合い?」


「え」


 ぽかん、と瞬きしたカルディオスが二人連れを見て、記憶を探るように翡翠の瞳を眇めた。


 が、カルディオスが反応するよりも早く、彼の目が自分たちを向いたことを確認した二人連れが、わっとばかりに声を上げていた。


「やっぱり! 見間違うはずはないと思いましたわ! カルディオスさま!」


 薄紅のドレスの方の女性が言って、ぐっと身を乗り出したので、俺はこれ以上なく仰け反って、背凭れに背中を押し付ける羽目になった。


 甘い香水の匂いがして、俺は思わず顔を顰める。



 過去の経験から言うが、俺はどの人生でも例外なく香水の匂いが嫌いだ。


 例外が、トゥイーディアがつけていたことのある香水の匂いだ。

 一度でもトゥイーディアが身に纏っていた香りならば、俺の頭が勝手に、「これはトゥイーディアの匂い」と判断して嫌悪を好意に変更してしまうらしい。

 ちなみにトゥイーディアは、薔薇の香水が苦手で、金木犀の香水が好きみたいだった。



 名前を呼ばれたカルディオスは、反射のようににこっと笑った。


 その間に、若草色のドレスの方の女性が、薄紅の方の肩を引っ張って、「迷惑なさってますよ……」と、俺の現状を訴えてくれた。

 どうも。


 薄紅の方は俺を一瞥して、「ごめんあそばせ」と言い放ち、カルディオスに視線を戻して、明らかにわざとらしい媚びた声を上げた。


「どちらへ向かわれますの。わたくし、あれから――」



 ――その後、滔々と続く女性の話を聞くに、どうやらカルディオスがうっかり遊び相手に選んだ誰かのようだった。


 びっくりしたのは、それがどうやら三年くらい前の出来事であるらしいこと。

 つまりこの女性、カルディオスが救世主であるということを、噂レベルでしか知らないのだ。


 助かった、ここで救世主が一気に四人もどこかに行こうとしているなんて、大騒ぎされていいことなんて一つもないからね。


 そして、三年にも亘ってカルディオスのことを忘れていない、この女性の執念に俺は恐れを成した。


 若草色のドレスの方は、どうやらそれより後にカルディオスに手を出された人らしい。

 薄紅のドレスの方に比べて、慎ましやかな感じで一歩下がってはいるが、カルディオスを見る目の熱が半端じゃない。


 怖ぇな、と考えた俺はしかし、俺がその数百倍の長い年月、これとは比べ物にならない重い気持ちをただ一人に向け続けていることに思い至って、覚えず真顔になってしまった。


 これ、奇跡が起こって俺の気持ちがトゥイーディアに伝わることがあれば、何よりもまず怯えられるのでは。

 身の危険を感じて逃げられたりしたら、俺は衝撃で死んでしまう。



 カルディオスは取り敢えずにこにこしながら、どこに行くのかという追及を上手い具合に躱して、「久し振りだね、二人って知り合いだったんだね、どこ行くの?」などと、卒なく話題を相手側に振っている。


 まず間違いなく、この二人の名前すらも思い出してはいるまい。

 こいつはそういう奴だ。


 俺越しに交わされる会話に、俺は段々と苛立ってきた。

 特に薄紅の方の女。声がうるせぇ。


 早く発車しねぇかな。


 俺が苛々していることが伝わったのか、カルディオスと若草色のドレスの女性が申し訳なさそうな目を向けてきた。

 分かってんなら退散しろよ、この女。



 ぽぉぉ――っ、と、汽笛が轟いたのが聞こえた。

 俺は思わず安堵の溜息。


 発車するなら、二人の女はどこかの座席に腰掛けに行くだろう。

 やっとこのお喋りから解放されて、俺はトゥイーディアの顔を見ていられる。



 ――と思っていると、トゥイーディアがすっとメリアさんに身を寄せて、その耳許で何か囁いた。

 メリアさんがちょっとびっくりしたような顔をして、しかし直後に安堵に似た表情を浮かべると、頷いた。


 なんだ? と思っていると、二人が一斉に立ち上がって、トランクを持ち上げた。



 ――俺は内心で悲鳴を上げた。

 待って、トゥイーディア、行かないで。



 カルディオスも、驚いたようにトゥイーディアを見上げる。


「イーディ?」


「お二人とも、お立ちになっていては転ばれるかも知れませんから、」


 と、カルディオスを無視して、慈愛の微笑を浮かべたトゥイーディアが言った。


「どうぞ、こちらにお掛けください。彼とお話があるのでしょう?」


 二人の女が、「まあ、いいんですの?」だとか暢気な声を上げている。


 俺は内心で、百回くらいこの二人連れを火刑に処す欲求を抑え込む羽目になっていた。

 このクソが、絶対それを期待して、汽笛が鳴るまでここで粘ったんだ。


 目の前が暗くなる思いである。


 ひどい、こんな、さっきまではあんなに嬉しかったのに。

 ちょっとくらいトゥイーディアの近くにいさせてくれよ。


 とはいえ、まだ生き残る目はある。


 俺だって、この二人の女の(主に薄紅の方の)お喋りにうんざりしているのだ。

 トゥイーディアとメリアさんに紛れて席を立って、他の座席に移ることは不自然ではないだろう。


 で、一番近い座席に三人揃って移動することになったとしても、それは別に変ではないだろう。

 トゥイーディアが先に席に着いてしまうと、多分俺はその傍に寄れなくなってしまうから、先に俺がどこかに座ればいい。


 トゥイーディアのことだから、必要以上に俺を避けることはないはずだし、一応は連れなんだから近くにいようとしてくれるはずだ。


 そこまで考えて、俺も立とうとした。


 そのとき、ぽん、と、トゥイーディアがカルディオスの暗褐色の髪の上に掌を置いた。

 そして、苦笑めいた表情で彼を見て、窘めるように。


「――程々にね、カル」


 二人の女が、すごい目でトゥイーディアを見た。

 それに対抗するように、メリアさんが顎を上げて二人を睨み据えた。


 俺は出来るならば、カルディオスと二人の女を殴り倒しているところだった。


 カルディオスは、その視線の衝突には気付かなかったらしい。

 自分の頭の上に置かれたトゥイーディアの手を、反射じみた動きできゅっと握って(視線の衝突が激しくなった)、余所者には見せない、甘えるような調子で言っていた。


「イーディ、どこ行くの?」


「お邪魔みたいだから外すの」


 さらりと返すトゥイーディアに、カルディオスは「えっ」と声を上げる。

 素の声だった。


 なぜかきょとんとした顔で俺を見てから、カルディオスは瞬き。


「えっ、じゃあ、ルドと一緒にあっちの方に行っとく……?」


「…………!」


 俺は思わず、カルディオスのことを抱き締めたくなった。

 前から分かってたけど、いい奴じゃん、こいつ。


 が、トゥイーディアはそれを笑い飛ばした。


「いいえ、メリアといるわ。きみ一人に口が二つ付いてるわけじゃないんだからね、ルドベキアにはここにいてもらったら?」


 俺は唖然。

 この二人は、あくまでもカルディオスと喋るために寄って来たのだ。

 何を罷り間違っても、俺に用など欠片もあるまい。

 それが分からないトゥイーディアじゃないだろうに、なんで。

 俺も連れてってくれればいいのに、なんで。


 なぜかカルディオスも唖然。

 ぽかんと口を開けて、またなぜか俺を見た。

 そしてまたトゥイーディアを見上げて何か言おうとして、ぐっと言葉を呑み込む。


 そうこうしているうちに、トゥイーディアは本当にメリアさんを促して、さっさと席を外してしまった。


 トゥイーディアが先に座席を決めてしまった以上、ここから逃げ出せたとしても俺は、彼女の傍には行けないだろう。



 ――ひどい。ぬか喜びだった。

 この二日間、トゥイーディアが近くにいてくれれば最高だったのに。



 絶望のどん底に叩き付けられている俺を他所に、女二人が嬉々として、さっきまでトゥイーディアとメリアさんがいた席に座り込む。

 カルディオスの正面に薄紅の方が、俺の正面に若草色の方が座った。


 悪気はなかったのかも知れないが、俺は絶対にこの二人を許さない。



 大人げないまでに不機嫌な顔で足を組む俺に、若草色の方は申し訳なさそうな目を向けてきたが、薄紅の方はカルディオスしか見ていなかった。


 そしてカルディオスは、義理と反射で浮かべていた愛想笑いすら引っ込めて、トゥイーディアの方しか見ていなかった。


 がたこん、と汽車が揺れて、再びの汽笛と共に走り出す。

 がたんごとんと揺れて、後ろへと流れ去って行く駅の景色。


「――カルディオスさま?」


 と、カルディオスの視線が自分を掠めすらしなくなったことに躍起になったのか、身を乗り出す薄紅の方。


「あの、今の方は?」


「俺の大事な人」


 さらっと返して、顔色を変える薄紅の方には目もくれず、カルディオスは俺を見た。


「なあルド。イーディたちの方に行っててくんない? 女の子二人だと、ナンパとか色々心配でしょ」


 よし任せろ! と言って立ち上がろうとして、しかし俺は出来なかった。

 意思とは全く無関係に、冷静極まる言葉が口から零れ落ちた。


「は? この汽車のどこにあんなのを口説く奴がいるんだ。そもそも人がいねぇだろうが」


「おまえね……」


 カルディオスが額に青筋を立てたところで、ひょいっとアナベルが顔を出した。


 俺たちから見れば、若草色の方の女の頭の上から、アナベルの薄青い頭が覗いたような形だ。


 座席の上に膝立ちになってこちらを見下ろすアナベルの薄紫の瞳は、これ以上なく不機嫌な軽蔑に満ち溢れていた。


「――うるさいんだけど」


 二人連れの女は、唐突に頭上から響いた氷点下の声にあからさまにびくっとしていたが、カルディオスの反応の比ではない。


 カルディオスはまるで、盗みの現場が見つかった子供のように俯いて、アナベルの視線を避けて顔を背けた。

 両手の指先をそれぞれ合わせて、人差し指を互いにくるっと回して、「ああ」だか「はい」だか不明瞭な声を出す。


 そんなカルディオスを一瞥して、アナベルの頭が引っ込んだ。


「……あの、今の方は?」


 数拍を置いて、薄紅の方がおずおずと尋ねた。


 声量が下がって有難い限りだ、と俺が考えると同時、カルディオスが不機嫌な瞳で二人連れの女を見た。


「――は? きみたちに関係ないでしょ。

 ていうかごめん、俺、きみたちの名前すら覚えてないんだけど。話合わせるのももう面倒だから、どっか行ってくんない?」


 俺は思わず額を押さえた。


 座席の向こうから、アナベルの深々とした溜息が聞こえてきた。

 ルインの、「げっ」という声も聞こえた気がした。


 ――カルディオスは確かに、興味のなくなった相手を切るときは結構容赦なく切るが、ここまで直截的に言うのも珍しい。

 アナベルの顔を見て、精神的に余裕がなくなったのが丸分かりだ。


 二人連れの女は、しばし唖然として目を見開いて口を開けていた。


 それから、若草色の方が恥じ入った様子で俯き、ごにょごにょと口の中で何かを言ってから荷物を手に立ち上がる。


 一方の薄紅の方はさあっと頬に朱を昇らせ、何か怒鳴ろうとしたように口を開いたが、踏んだ修羅場の数は伊達ではないカルディオスが、機先を制するように冷ややかに言っていた。


「聞こえない? どっか行って。ていうか俺、それなりに可愛い子にしか声掛けないんだけど。

 きみ、ほんとに俺の知り合い?」


 俺は呻いた。


 言い過ぎだ、という意味を籠めてカルディオスの脚を蹴ったが、奴は小動(こゆるぎ)もせずに傲然と座っている。


 薄紅の方の女は、何を言いたいのかすら見失った様子でぱくぱくと口を動かしていたが、やがて憤然と立ち上がった。


 そのままドレスを翻して客室の奥の方へ向かう。


 汽車が揺れる度によろめいていて、俺はトゥイーディアが通路に頭を突き出して、転倒を心配するようにそれを見送るのを見ていた。



 無事に女二人が別の座席に収まるのを見届けたトゥイーディアが、通路に身を乗り出して、「こらっ」というようにカルディオスに視線を向けた。


 カルディオスは肩を竦めてそれをあしらう。


 俺は思わず奴の蟀谷を小突いた。


「――おまえ、いつか刺されるぞ」


 二人連れの女が歩いて行った方では、そっちに座っていた初老の男性が(声は筒抜けだっただろうから、何が起こったか勿論のこと察していただろう)、二人を慰める言葉を掛け始めている。

 優しい人なんだな。



 カルディオスは、目が笑っていない顔でははっと笑って、正面から俺の目を見た。


 翡翠の瞳が魔性の輝きを宿して俺の顔を映した。



「俺が刺されたら、ルド、(かたき)とってくれる?」



「――――」


 俺は覚えず、言葉と一緒に唾も呑み込んだ。

 言葉の綾とはいえ、最悪の喩えを出してしまった。


 俺の顔を見て、カルディオスはひらっと手を振って目を逸らし、窓際に頬杖を突いて外の景色を眺め始めた。


「悪い、冗談だよ」


 俺は緩く息を吐き出して、それには答えずにカルディオスとは反対側を向いた。


 窓までは少し遠いが、向こうの窓際に誰もいないから、外の景色は十分に見える。

 汽車はカーテスハウンを既に脱していて、飛ぶように過ぎ去っていくのは丘陵地帯の景色――


「――なあ、ルド」


 不意に名前を呼ばれて、俺はカルディオスの方を振り返った。


 カルディオスは窓に頭を凭せ掛けて外の景色を見ていたが、意識は他のところに向けているようだった。


「なんだ?」


 応じると、カルディオスはごく小さな声で――それこそ、前にいるアナベルたちにも聞こえないくらいの、汽車の車輪の音に紛れてしまいそうな声で、呟いた。


「今、俺、ひどいこと言ったじゃん」


 俺は思わず、深々と頷いた。


 ぶっちゃけあの二人に関しては、ざまぁみろと思わなくもないが、過去にカルディオスが泣かせた女の子は数知れず。


「――もしさ、おまえのことを好きな子がいたとしてさ、」


 カルディオスがぽそっと言って、俺は間髪入れず、胸が痛むほど切実に、トゥイーディアが俺に好意を持ってくれたらどんなにいいかと考えていた。


「――おまえが、全く以てその子に興味がなかったとするじゃん。

 そしたらさ、」


 はあ、と息を吐いて、カルディオスは窓から頭を起こして俺の方を見た。

 存外に真面目な顔だった。



「おまえ、俺みたいに酷いこと言ったりする?」



 俺は瞬きした。


「経験がないから分からない」と答えようとして、しかしそういえば最近経験したな――と思い出した。


 自分が何と言ったのか、正確なところは思い出せないが、たった今のカルディオスの言い草より数段マシだったことは確かだ。


 なので、俺は首を振った。


「――いや? そんなことはないんじゃね?」


 カルディオスは瞬きして俺を見て、それから急に唇を綻ばせた。


 いつもみたいな――というか、以前みたいな――屈託のない笑顔ではなくて、なんだか疲れたようにも見える笑顔だったが、それでも不幸中の幸いを見付けたみたいに嬉しそうだった。


「そっか」


 小声でそう言って、カルディオスは今度は背筋を伸ばして窓の外に視線を向けた。


 訳の分からない質問だけをされた俺としては、面食らうより他にない。


「は? なんだよ」


「んーん」


 カルディオスはそう言って、俺の方に凭れ掛かってきた。



「おまえが酷いこと言わない奴なら、それでいーの」



「…………?」


 しばしぽかんとした俺だったが、取り敢えず、カルディオスが甘えたいならそのままにしておくことにした。



 アナベルに対して、言っていいことと悪いことを踏み違えて、深過ぎる断絶を刻んだのはこいつが焦っていたせいだが、それはトゥイーディアのことを考えて必死だったせいだ。

 こいつが悪い奴だからじゃない。


 コリウスに関して言えば――コリウスの恋人に関して言えば、こいつは本当に悪くない。

 少なくとも、こいつがやらなければ俺がやっていたことだ。みんなそうだ。


 俺たち全員が共犯なのに、こいつは自分だけが悪いと思って気に病んでいるのだ。



 ――多分、俺たちが思っている以上にカルは疲れているだろう。

 眠れない日も多かっただろう。



 今は少なくとも、アナベルは視界の外にいて、コリウスとは離れている。


 ちょっとは呼吸も楽だろう。



「――寝てれば? 枕にくらいはなってやるよ」


 凭れ掛かってくる暗褐色の頭を軽く叩いてそう言うと、カルディオスが鼻を啜ってから、「ありがと」と呟くのが聞こえてきた。



















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