15◆◇愛する資格
――落ち着け、そんな場合じゃない。
頭の奥の方で殺意が発火しているのを感じつつ、俺は奥歯を噛み締めて必死に自分に言い聞かせる。
代償がある限り、俺が嫉妬に任せて誰かを殺すなんてことは出来ない相談ではあるけれど、唐突に頭の中が沸騰したようになっている。
――このせいで、上手く会話が聞き取れなくなるのは困る。
とはいえ、今話しているのはトゥイーディア。
俺がどんな精神状態だろうが、彼女の声が聞こえないなんて有り得ない。
ぐしゃ、と、唐突に味のしなくなった鶏肉を噛み切りつつ耳を傾ける。
言葉を続けるトゥイーディアの声音は、親愛を籠めつつもどこか困ったようなものだった。
「――ただ、ハンスはアル従兄さまに比べて、あんまり細かいところには気が回らない人だから、上手く取り次いでくれるかどうか……」
食べ切った鶏肉の骨を皿にことりと置きつつ、俺は躍起になって、トゥイーディアの声音から親愛以外の何かを聞き取ろうとしていた。
――俺はずっと、トゥイーディアが本気で誰かを好きになったのならば、血涙を呑んで応援できると思っていた。
トゥイーディアの幸せのためならば、自分の感情なんて土の下深くに埋葬して、なかったことに出来ると思っていたのだ。
あるいは、トゥイーディアが幸せであればそれでいいと、高尚な気持ちになれると思っていた。
だが、実際はそんなことはなかった。
俺は悪足掻きにも程がある諦めの悪さで、トゥイーディアの恋心を否定しようとしている。
俺に代償がある限り、トゥイーディアと心が通じることはないと分かってはいるが、理性と感情は別物であると深く理解した。
嫉妬が距離を跨いで人を殺すことが有り得るならば、今頃ハンスとやらはご臨終を迎えていることだろう。
俺のトゥイーディアへの気持ちは、無償の愛だなんて高潔なものではなくて、あくまでも、重過ぎる恋慕だ。
「じゃあ、お兄さんの――アルフォンスさま? その人は今どこにいらっしゃるの」
ディセントラの質問に、トゥイーディアがゆるゆると首を振ったのが、円卓越しに見えた。
蜂蜜色の髪に灯火が映ってちらちらと光る。
「――私がレイヴァスを出る頃には、伯父さまのご領地の飛び地を任されておいでだったわ。王都からも早馬で一月掛かる場所よ。戻っていらしていればいいけれど、もしもまだそこにおいでだったら遠すぎるわ。すぐには会いに行けない」
俺の隣で、ルインがどこからともなくハンカチを取り出した。
甲斐甲斐しくそれを差し出してくれて、鶏肉の油で汚れた俺の指を拭おうとしてくれる。
それに対して、「ありがと」と応じてハンカチを受け取る俺の声は、自分で聞いても薄気味悪くなるほどに内心と乖離した、冷静極まりないものだった。
トゥイーディアの言葉を聞いたカルディオスが、ふと、条件反射のようにコリウスを見た。
距離がある場所に急ぐのならばコリウス。
この数百年で育ってきた思考回路が、ふとした弾みで顕れたらしい。
だがすぐに顔を逸らしてばつが悪そうにする。
そんなカルディオスを、ムンドゥスが彼の膝の上で振り返って、大きな銀色の瞳でまじまじと見上げる。
しかし、カルディオスが何も言わずとも、思考回路を同じくするのは全員である。
俺と同じく鶏肉を食べ切ったアナベルが、行儀悪くもぺろりと指を舐めてから、事も無げに言い放った。
「そのときはコリウスにお願いすれば?」
コリウスがアナベルに視線を向ける一方、カルディオスと俺が揃ってびくっと肩を揺らす。
俺たち二人が二人して、コリウスに対して蟠りがあるがゆえだ。
そしてトゥイーディアもびくっと肩を跳ね上げていたが、こっちはアナベルに対して蟠りがあるがゆえのことだろう。
そんな俺たちを見て、ディセントラが静かに顔を覆う。
俺たちの様子は見えていただろうに、コリウスはそれに対しては何ら反応を示さなかった。
ただ、水晶のような目でアナベルを見て、素っ気なく頷いた。
「必要となれば」
ほう、と息を吐いたのは、俺とカルディオスが同時だった。
俺たちは何となく、コリウスに何かを頼んだりすることにすら居心地の悪さを覚えるようになってしまっている。
同時に、コリウスが仲間のために何かをしてくれる気があるのかどうかということに、なんだか自信を失ってしまっているのだ。
一方のアナベルは特段コリウスに対して気まずく思っていることもないらしく、肩を竦めてその言葉を受けていた。
――と、また振り返って、天井と壁の境目辺りとぐるりと見渡して怪訝そうにしている。
その挙動に、「どうしたの」とディセントラから声が掛かると、くるりと円卓の方へ向き直りつつも、どことなく薄気味悪そうに眉を寄せた。
「……なんだか見られてるような感じがして」
「壁から?」
訊き返したディセントラの口調に、相手を馬鹿にする響きはなかった。
だがアナベルはむすっと顔を顰めると、円卓に頬杖を突いてやや尖った声を出した。
「過敏になってるだけよ、悪かったわね。
――イーディ、じゃあ、」
声を掛けられて、トゥイーディアがちょっとだけびくっとする。
それから軽く息を吸い込んで、丁寧にアナベルと目を合わせた。
一方のディセントラは、アナベルの口調に肩を竦めている。
「――なあに?」
トゥイーディアの返答を聞いてから、アナベルは整理するように。
「レイヴァスに着いたら、まずはあなたのお父さんの居場所の確認ね。
会いに行けるようならそれでいいけれど、会えないようであればあなたの伯父さんを頼るのね?」
「そうね」
反射のように肯定してから、トゥイーディアは小さく咳払いして、頷いた。
「――うん、そう。
とにかくお父さまを説得しないと……」
ん? 説得?
助けに行くのに説得も何もあるのか?
俺がその言葉に違和感を覚えると同時に、怪訝そうに上がる声がふたつ。
「説得?」
と声を上げたのは、奇しくもカルディオスとアナベルが同時だった。
自分とアナベルの声が重なったことが分かるや否や、まるで声を出したことを取り消すかのように顔を伏せるカルディオス。
アナベルは氷のような軽蔑を浮かべた瞳でカルディオスを一瞥してから、やや不機嫌な表情でトゥイーディアに視線を当て直した。
顔を伏せていても、アナベルの視線の温度は十分に感じられるところだったのか、カルディオスが片手で顔を覆う。
膝の上にムンドゥスがいなければ、立ち上がって部屋を出て行っていたかも知れなかった。
俺は取り敢えず、アナベルの目がこっちを向いていないことを確認した上で、手を伸ばしてカルディオスの肩を叩いた。
元気出せよ、という意味でそうしたのか、気にすんなよ、という意味でそうしたのか、はたまた意味なんて無かったのか、俺自身にもよく分からない仕草になった。
一方、アナベルの視線の上に置かれたトゥイーディアは、怯んだように目を泳がせている。
そんな彼女を眉を顰めて見て、アナベルは訝しげに。
「――説得って、どういうこと、イーディ。何を説き伏せる必要があるの」
俺はてっきり、トゥイーディアのお父さんも相当な頑固者で、「司法が私の身の潔白を証すことがなければ逃げも隠れも出来ん」とか言い出す人なのかと思った。
ヘリアンサスが敵に回っている以上、多少強引な手段を採ることになったとしても、法律の大部分を無視することになったとしても、まずはトゥイーディアのお父さんの安全第一だ。
だが、そういうのを分かってくれないくらいに頭の堅い人なのかと思ったのだ。
――だが、いや、よく考えるまでもなく、トゥイーディアのお父さんが頑固者だとは限らない。
トゥイーディアが頑固なのは生来のものだ。
つまり、彼女の血や身体に属する性格なのではなくて、彼女の魂に属する性格のようなものだ。
だから別に、トゥイーディアとお父さんの間に何の共通点もなくとも俺は驚かないし、むしろ共通項がない方が自然だ。
今までの人生で押し並べて――トゥイーディアだけではなくて俺たち全員――、父母と共通点を持って生まれてきたことがある奴なんていない。
もちろん、例えば俺が黒髪の親を持ったりだとか、ディセントラが涙脆い親を持ったりだとか、そういう偶然はあったけれども。
だからこそ、トゥイーディアのお父さんが彼女とは正反対の、淡白かつ損得勘定しかしないような、そういう人であっても不思議はないのだが――
「――お嬢さま」
不意にメリアさんがそう言って、隣のトゥイーディアの手をぎゅっと握った。
帝都まで一緒に行ったときと比べて、俺たちの間に漂う雰囲気が余りにも悪いことに面食らってはいるようだったが、それでもまずは隣にいるトゥイーディアのことを、一番に考えてくれたようだった。
「お嬢さま、大丈夫ですよ」
強いて落ち着いた声を出したメリアさんの言葉の意味が、俺にはよく分からなかった。
コリウスは、怪訝そうというよりは興味もなさそうに頬杖を突いている。
たぶん俺も傍目には、奴と遜色ない無関心な顔つきをしていることだろう。
一方、カルディオスとディセントラは真面目に怪訝そうな顔。
そしてアナベルは、眉間に薄らと皺を刻んで、不機嫌極まりない声を出していた。
「……ちょっと、イーディ? あたしたちは、別に助かりたくもないと思ってる人のために駆り出されるわけ?」
その語調が、トゥイーディアに喧嘩を売るには十分なほどに皮肉の棘に満ちていたので、ディセントラが若干慌てたように、
「駆り出そうとしてるのは私だから。私が、みんな一緒じゃないと嫌だって言ったんだから、ね?」
などと口早に言い募り始めた。
恐らくはここでアナベルとトゥイーディアが大喧嘩を始めることを警戒してのことだった。
今ではぎくしゃくとしていて、そして先日までは微笑ましいくらいに仲の良かったトゥイーディアとアナベルではあるが、かつて俺とカルディオスが何度も殴り合いの喧嘩を演じたことがあるように、この二人だって舌戦も肉弾戦も繰り広げたことがあるのだ――そしてその度に、周囲を結構犠牲にしてきたのだ。
今ここでトゥイーディアとアナベルが喧嘩になれば、最悪の場合、宿舎の一画が吹き飛ぶ。
とはいえ、トゥイーディアは無言で俯いたのみだった。
アナベルに反駁も出来ないほどに彼女に対する罪悪感を募らせている――ということもあるだろうが、それだけではないように見えた。
悄然と肩を落とすトゥイーディアに、俺には理解の出来ない何かの罪悪感が圧し掛かっているのが見えるようだった。
アナベルも含め、俺たちは一並び怪訝に眉を寄せたが、どうやらメリアさんはかなり正確にトゥイーディアの心境を推し量ることが出来ているようだった。
彼女が、如何にも理解者という顔でトゥイーディアに寄り添っているので、俺は胃の腑が嫉妬に圧迫されるのを感じたくらいだ。
「お嬢さま、大丈夫ですよ。――御父上がどれだけお嬢さまを大切になさっているか」
潜めた声で囁くメリアさんの語調に、俺は居心地の悪さを感じて尻をもぞもぞ動かした。
食事を止めてしまったので、左手に持つ皿が手持無沙汰だ。
その上のパイを食おうにもなんか食べづらい雰囲気だし、食べたい気分でもなくなったし。
外套越しに硬い床の感触がする。
ルインが俺を見て首を傾げて、今にもどこかにクッションを調達しに駆け出して行きそうな顔をしたので、俺は手振りで「大丈夫」と伝えた。
俺以外のみんなも、大概が似たような反応を示していた。
――親子の情は、俺たちには分からない。
あるいはずっと昔には理解していた感情なのかも知れないが、もう忘れてしまった。
両親と言われても、咄嗟に顔と名前が思い浮かばないのが普通になってしまっている。
こっちから所謂肉親に向ける親愛なんて皆無だし、向こうから親愛を向けられても困ってしまう。
よく分からない他人から、よく分からない理由で大事にされるのは居心地が悪い。
――トゥイーディアが息を吸い込んだ。
そして、吸い込んだ分だけ息を吐き出して、頷こうとして失敗したみたいに首を振って、前屈みになって膝に肘を突いて頭を抱えた。
「……お父さまは――」
トゥイーディアが声を出した。
押し潰されたように掠れる声だった。
言葉は、メリアさんの気遣いに報いるものではなくて、アナベルへの義理を辛うじて果たそうとしているようなものだった。
「――本当にごめんなさい、お父さまを助けたいのは私の我侭で……お父さまはきっとそれをお望みにはならない」
「……なんで?」
ぽかんとした顔で、カルディオスが声を上げた。
――危機に瀕している人間は、助けを差し出されれば程度の差はあれ有難がるものだ。
それを俺たちは、この長い長い人生で見てきた。
コリウスが、ちらっとカルディオスの方を見た。
それに気付いて、カルディオスが打たれたように怯んで目を逸らす。
コリウスは無表情のまま円卓の上に視線を戻し、俺は二人の間の雰囲気に、そろそろ吐きそうになってきた。
ディセントラが悲壮な顔になって、無言で円卓に肘を突いて両手で額を押さえる。
だが、顔を伏せたトゥイーディアからはそんな様子は見えていないはずだ。
彼女は、絞り出すように言葉を続けていた。
「……お父さまは――あまり、ご自身のことには執着なさらない方だから」
言葉を選ぶようなその物言いに、いらっとしたらしいアナベルが指先で円卓を叩く。
とんっ、と音がして、まるでその音に叩かれたかのように灯火が揺れて、部屋の中で影が踊った。
「下手したら死刑台に上がることになるのよ。執着がなくても助かりたいと思うのが人でしょうに」
トゥイーディアが息を止めた。
――彼女が、ここで「そうね」とアナベルに同意して話を打ち切ることを検討したのが、目に見えるように分かった。
そして直後に、ここで誤魔化して話を打ち切れば、後々に辻褄が合わなくなって、いざというときに俺たちが判断を誤りかねないということを、ありありと想像したのも分かった。
それが分かるくらい、俺はずっとトゥイーディアだけを見詰めて生きてきた。
――息を吐いて、また吸い込んで、トゥイーディアが顔を上げた。
飴色の瞳が灯火に煌めいた。
そして彼女は、感情を押し殺した声を出した。
「お父さまは、死罪であっても受け容れると思う――それが司法の出した回答なら、正誤はともかく是非を問うことはないでしょう。正誤を問うたとしても争わないでしょう」
息を吸い込んで、ぎゅっと拳を膝の上で握って。
「お父さまは、生きたいとは思っていらっしゃらない」
「お嬢さま」
メリアさんが咎めるような声を出した。
トゥイーディアの拳の上に掌を重ねて、眉を寄せ、小声でトゥイーディアを叱る。
「滅多なことを仰いませんよう」
「――だって、困るじゃない」
メリアさんの手が乗っていない方の手指で目を擦って、トゥイーディアは呟いた。
「いざってときに、この人たちが、」この人たち、と言って示されたのは俺たちで、他人行儀のその呼び方に、俺の心臓がちくりと痛んだ。「お父さまご自身の自己防衛に期待しちゃって、その結果何もかもが水の泡になるようなことになったら」
コリウスが眉を寄せ、くる、と丸椅子の上で向きを変えてトゥイーディアに向き直ったので、俺からはコリウスの背中しか見えなくなった。
黒い絹のリボンで結わえられた癖のない銀髪が、肩の辺りで揺れる背中。
「――トゥイーディア。おかしな話だが、父君の協力なしに父君をお助けするのは無理だぞ。
何が敵に回っているか、おまえも分かっているだろう」
メリアさんがいるから固有名詞を避けたものの、言わんとすることは明白。
――ヘリアンサスがトゥイーディアのお父さんを逃がすつもりがないことを、思い出させて強調するような口調だった。
――メリアさんは、無論だが、ヘリアンサスのことをロベリア家の嫡男だと思っている。
かつ、トゥイーディアの婚約者と思って敬っている。
ここで俺たちがヘリアンサスに対する敵意であったり殺意であったりを剥き出しにして、彼女に要らぬ混乱を強いることはないのだ。
だが、その気遣いのゆえに、メリアさんは訝しげな顔をする。
しかしながら何も言わなかったのは、身分の差を意識しているがゆえだろう。
コリウスは、救世主であるだけでなくこの国の辺境伯の子息だ。
「――そう、だから、何とかして説得しないと」
トゥイーディアが呟くように言って、小さく息を吐いた。
「お父さまの昔馴染みの方とかに、出来るだけ協力していただければいいのだけれど」
アナベルが瞬きした。
「イーディ、あなたがちゃんと説得しなさいよ」
ご尤も。
――トゥイーディアみたいな可愛い娘から頼まれれば、世の父親はほいほい言うことを聞くだろう、と俺が一片の疑いもなく信じてしまうのは、自分がそうするだろうからだ。
トゥイーディアにお願いされたことなら、俺は何だってしてあげたい。
出来ないけど。
だが、トゥイーディアはぎゅっと口を噤んだ。
彼女が唇を噛んでいるのが、円卓越しに、灯火の明かりに仄見えた。
そんなトゥイーディアの顔を覗き込んで、メリアさんが勇気づけるように声を掛ける。
「――お嬢さま。お嬢さまのためなら、御父上はきっと万の軍勢に包囲されていらっしゃっても生還なさいますよ」
「どうかしら。――お母さまのためならそれも軽々となさったでしょうけど」
ぼそ、と呟いて、トゥイーディアはゆるゆると首を振った。
「お母さまがいなくなってから、お父さまが生きてらっしゃるのは惰性と義務感のためよ。メリアは知らないでしょうけれど、お母さまがいらっしゃるときには、お父さまはそれはそれはよく笑う方だったのよ」
苦々しげに言葉を作るトゥイーディアに、メリアさんは曖昧な表情を見せた。
よく知らないが、恐らくはメリアさんは、トゥイーディアのお母さんが亡くなった後に雇われ始めたのだろう。
以前にトゥイーディアが、そうだというようなことを言っていたし。
「――だから私は、私のために、頑張ってくださいってお父さまに言いに行かなきゃならない」
言葉を放り出すようにそう言って、トゥイーディアは申し訳なさそうにアナベルを見た。
――自分の我侭に付き合わせることを詫びるような。
自分のためだけにしかならないことのためにアナベルに譲ってもらったことを詫びるような。
アナベルはその眼差しを受け取って、物静かに肩を竦めてみせた。
多分アナベルのことだから、トゥイーディアのお父さんのことなんてあんまり考えてはいなくて、トゥイーディアが何を思ってどう動くのかということにだけ、注意を払っているのだろう。
トゥイーディアもそれを察したのか、俯いて、小さな声で呟いた。
「……その権利があるかどうかは置いておくとして」
「お嬢さま」
窘めるようにメリアさんが呼んだ。
「旦那さまのご息女であらせられるのですから。何を仰います」
カルディオスが微妙に表情を歪ませるのが、俺の視界の端に映った。
ディセントラも、何とも言えない顔をしている。
――俺たちは、この六人でこそずっと仲良くやってきたから、今さら赤の他人を捉まえて来て、家族の情を訴えるトゥイーディアの心情を理解できない。
そしてトゥイーディアのことを、他人の娘なんだと言われても、違和感の方が先に立つ。
事ここに至ってさえ。
コリウスとアナベルは、無関心そのものの顔で円卓に肘を突いているほどだ。
俺たちが助勢するのはあくまでもトゥイーディアに対してであって、彼女のお父さんに対してではないのだと、言葉にせずとも物語る姿勢である。
そしてトゥイーディアもまた、唐突に真顔になって、まじまじとメリアさんを見ていた。
そして、端的に呟いた。
「――本当に?」
「はい?」
聞き返すメリアさんの若草色の目をじっと見つめて、トゥイーディアは首を傾げる。
どことなくうわ言めいた口調だった――ずっと考えてきて押し込めてきたことが、疲労に混じって表に出て来たみたいな、そんな口調だった。
「メリア、私を見て、お父さまの娘だと分かる?」
メリアさんは訝しそうに眉を寄せた。
「何を仰います――」
「髪の色も目の色も、顔立ちのひとつにすら、あの方と似ているところを見付けられる?」
メリアさんが目を泳がせた。
――無理だろうな、と、俺たち全員が同じことを考えているのが分かった。
何しろ、トゥイーディアの姿は、記憶にある限りどの人生においても変わっていない。
つまり彼女の容姿を決定したのは、もう覚えてもいない遥か昔の、彼女の最初の父母の血だ。
今のトゥイーディアのお父さんが、トゥイーディアの姿形に影響を及ぼせるはずもない。
「出来ないでしょう。――お母さまとだってそうよ。似てないの。全然」
まるでそのことが罪悪であるかのように吐き捨てて、トゥイーディアは両の掌を丁寧に合わせた。
「――本来、私にはお父さまをお助けする権利はない」
押し殺した声でそう言って、トゥイーディアはアナベルの方を見た。
アナベルは冷ややかにトゥイーディアの仕草を見ていたが、その冷ややかさが何のゆえであるものなのかは、俺には分からなかった。
「アナベル。みんなも。本当にごめんね」
合わせていた掌をぱっと離して、トゥイーディアは膝の上に手を重ねた。
良家の令嬢らしい仕草が、軍服にあっては妙に浮いて見えた。
「――私は愛されるには足りないし、」
諦めたようにそう言って、トゥイーディアは肩を竦めた。
罪悪感を誤魔化すような、強張った仕草だった。
「愛するにも資格がない。
――よく分かってるから、これは本当に私の我侭なのよ。
もちろん、」
飴色の瞳をコリウスに移して、トゥイーディアが首を傾げる。蜂蜜色の髪が揺れる。
「コリウスの言ったことも尤もだとは思うけれどね」
コリウスの言ったこと――ヘリアンサスが何をしようとしているのか分からないからこそ、あの魔王のやることを、とにかく阻止の方向で動いて間違いということはないだろうっていう、あれか。
メリアさんが怪訝そうにしながらも、なおも小声でトゥイーディアを窘める。
トゥイーディアはひらひらと手を振ってそれをあしらって、ディセントラの方を向いた。
「――私の下らない話はここまでにしましょ。ごめんね、変なことを言い出して。
それで、ねえ、トリー。明日私たちがここを出て行くに当たって、変な目で見られたり士気を下げちゃったり、そういうことが避けられる方策ってないかな?」
ディセントラの返答までに一拍の間があった。
「……そうねぇ」
もう既に回答があるのだと分かる口調でそう言い差したディセントラが、しかし言葉を切って、訝しげにアナベルを見た。
「――どうしたの」
俺もアナベルを見た。
アナベルは振り返って、部屋の中をぐるりと見渡している最中だった。
「いえ、なんでも――」
そう言い掛けてからしかし、アナベルは薄気味悪そうに。
「――やっぱり見られてる感じがする」
ディセントラの顔が曇った。
す、と彼女が視線を動かしてトゥイーディアを見る。
五感を拡張して、遠隔地の様子を見ることが出来るとすればトゥイーディアの魔法が第一に考えられるからこその仕草だろうが、トゥイーディアは首を振った。
「私は別にアナベルのことを見てないわ。あいつだって――」
あいつ、とトゥイーディアが言ったのがヘリアンサスであるということを、俺たちは暗黙のうちに了解している。
トゥイーディアの他にトゥイーディアの固有の力を扱うことが出来るのは、あの白髪金眼の魔王をおいて他にはいない。
「――距離があり過ぎて無理よ。
あいつをこの部屋に入れたこともないし、不可能」
言い切ったトゥイーディアの口調から推すに、魔法を形成する魔力云々の問題ではなくて、魔法の性質として無理だと言い切っているようだった。
メリアさんは怪訝そうにしたが、アナベルはトゥイーディアの返答を聞いて首を傾げた。
灯火に淡く輝く薄青い髪が、するりと項を滑って揺れる。
「そう。じゃあ、気のせいかしら」
自分に言い聞かせるようにそう言ったアナベルは、しかし到底そうだと信じ切れない様子で、まだなお訝しげに自分の背後を振り仰いだ。
「……誰かが笑ってるのが聞こえた気がしたのだけど――」
「――――」
なんとなく、俺たちは沈黙した。
普段ならこんな空気を茶化してくれるに違いないカルディオスが、それこそ石のように押し黙っている状況で、空気は重石を括り付けられたかのように重くなっていく一方だった。
◆◇◆
青髪の子が言うように、おれはずっと笑っていた。
――視界は輪郭をとらない水彩画のように曖昧で、現実とは違う色味で塗りたくったように色とりどりで明るくて、不明瞭で、雑多だ。
おれのものではないおれの目を通して見ると、おれには万物がこんな風に目に映る。
もしかしたらあの子は、ずっとこんな景色を見ているのかも知れないが、おれには実際のところは分からない。
聞こえる音も不明瞭で、声が言葉になって聞こえることもあれば、声は聞こえないのに言葉の意味だけが聞こえることもある。あるいは全く何も聞こえないこともある。
――そんな不具な情報の中であっても、聞こえてくるものも見えるものも興味深い。
だが、ああ、熱心に見詰め過ぎて伝わってしまったらしい。
あるいはあの青髪の子の勘が鋭いだけなのか。
そういえばあの子は、昔はそれはそれは抜け目のない敏腕のマーショネスとして知られていたんだったか。
寝そべり椅子に腰掛けて、膝に肘を突いて、額を押さえて笑う。
“笑っていればなんとかなる”とあいつに教えられて、実際に笑うしかない事態に遭遇してからこちら、おれは確かに笑顔で過ごすことが多くなったが、――今は違う。
今は本当に、面白くて笑っている。
――“愛されるには足りない”、だって?
知っている。勿論そうだ。
愛されるにも足りなければ想われるにも足りず、そして憎まれるにも今一つ届かない。
それがご令嬢だ。ルドベキアの想い人だ。
だから半端な呪いしか背負っていない。
――“愛するにも資格がない”、だって?
酔狂なことを。
愛するに何の資格も要るものか。
強いていうならば自分の心に根を下ろしたものが、愛するに足るものであればそれでいい。愛せるものであればそれでいい。
それを小難しく云々する、あのご令嬢の理屈っぽい頭の中身には笑いが絶えない。
――そして、ああ、本当に。
おれが考えに考え抜き、ありとあらゆる根回しをしたとしても、それが一瞬で水泡に帰す危険がある。
その危険を現実に持ってくるとすれば、それはあの青髪の子だ。
あの子に掛けられた呪いを、あの子が逆手に取ることを、おれは一番に警戒しなければならない。
――呪いは、不完全だ。
ただ一人、ご令嬢だけは完璧に近い呪いを掛けたが、他の連中に関しては――特にルドベキアが掛けた呪いの一つに関しては、お粗末極まりないものだ。
だからこそ、警戒が必要になる。
あの青髪の子の言葉を、おれの半身がどう判断するのか、おれには分からない。
あの子がご令嬢のために一言零すだけで、おれの計画がご破算になっては笑えない。
――だが、どうやら大丈夫だ。
あの青髪の子は何も言わないだろう。
おれが予想した以上に、おれが見込んでいた以上に、あの青髪の子はご令嬢を恨んでいる。
あのときのおれの些細な嫌がらせが、こうも大きく実を結んだのだと思うと感無量だ。
――あの青髪の子には頭が上がらない。
笑いを堪えてそう考える。
――あの子は何も言わないだろう。
ただ一言がご令嬢を助ける可能性があると分かっていてなお、口を噤み続けるだろう。
そしてあの子が掛けた呪いが、おれにとってどれだけの助けになったことか。
ああ、本当に。
色とりどりの絵具を零したかのような視界を眺めながら、おれは目尻に滲んだ涙を拭う。
――万が一にも全てを引っ繰り返されては困るから、おれはあの子を見守り続けることになるだろうけれど、それでも。
息を吸い込んで、おれは脚を組む。
――きみに借りを作ったことを認めよう、スクローザ夫人。




