13*◆視線
「――トゥイーディア、あなたの恋が絶対に報われないもので、本当に良かった」
アナベルがはっきりとそう言った瞬間の私の思考を、何と呼ぼう。
――まず最初に、ルドベキアの顔が浮かんだ。
私が正面から見る彼の顔は大抵が無表情なので、見事にその顔で浮かんできた。
みんなも、ルドベキアがどれだけ私に無関心なのかは知っている。
だからまあ、報われないというのは妥当な評価で――
と、まともな思考がまずは走った。
そして一瞬後に、閃光のように、雷のように、有り得ないほど利己的な考えが降ってきた。
――アナベルの『贖罪』は、〈自分の言葉に裏切られる〉というもの。
彼女が想いを籠めた言葉であればあるほど、彼女自身の言葉が彼女を裏切る。
だから一瞬、間抜け極まりないことに、私は、たった今の言葉がアナベルを裏切って、ルドベキアの気持ちが私に向くことがあるのではないかと思ったのだ。
アナベル自身もそれを考えていて、言外に私を許しているのではないかと――それゆえの言葉ではないかと。
だが更に一秒後、そんなことは有り得ないと気付く。
――“想いの籠もった言葉”、その定義は何だろう。
例えばアナベルが如何に想いを籠めて、「太陽は明るい」と言ったとして、その言葉が彼女を裏切って、太陽が暗黒に転じることがあるだろうか。
さすがにないだろう。
――つまり、どんなに想いを籠めて事実を述べたとしても、アナベルの贖罪は働かない可能性が高い。
だから、多分、この場合の「想い」は「願い」と同義だ。
アナベルが願う思いが強ければ強いほど、その思いを乗せた言葉が彼女を裏切る――
――あのとき、シオンさんに生還を約束したとき、アナベルがその言葉にどれだけの願いを乗せていたのかなど、想像するにも余りある。
だから、アナベルの今の言葉が裏切られるとすれば、それはアナベルが心底から、私の恋が報われないものであればいいと願っている場合だろう。
――さすがにそれは、有り得ない。
私が許されているかどうかではなくて、アナベルはそんな人ではない。
アナベルは、そんなことを願うような人ではない。
私はそれを知っている。
一見冷ややかに見えても、情に厚い優しい人だ。
私のことをどれだけ許し難く思っていたとしても、心底から私を憎んでそんなことを言うはずがない。
それに、そもそも、ルドベキアの自由を侵害しかねないようなことを、アナベルがしようと思うはずがない。
――私が気付いたくらいなのだから、アナベルは勿論のこと、自分の贖罪が働く条件を弁えているだろう。
最初から知っていたのか、それとも徐々に自力で気付いたのか、それすら定かでない自分の中での不文律が、どんなときに自分に牙を剥くのかを。
勿論、贖罪が働くのは全くの無作為であるという可能性もある。
アナベルが何かにつけて悲観的な未来予想をするのが、私の推測の通り、出来るだけ悲観的な未来を避けたいがゆえのことだとすれば――アナベルは、無意味と分かっていることはしない主義の人だから――、あるいはアナベルの贖罪は、想いの籠もった言葉でないものに対しても働くことがあるのかも知れない。
だがそれでも、想いの籠もった言葉に対してこそ本領を発揮する贖罪のはずだ――あの魔王が、あれほど嬉しそうな顔でそのように暴露したのだから。
――だからアナベルは、私を赦して言葉を作ったのではない。
アナベルは私を憎んではいないだろうけれど、私を赦すことも絶対にない。
あのとき、無理にでもアナベルを置いて行くことが出来たのに、それをしなかった私を。
むしろ、一瞬ではあれ、アナベルを生涯に亘って苦しめる贖罪に託けて浅ましい期待を抱いた私は万死に値する。
――こんなだから、あの人も私を見てくれないんだ。
そう思って首を振る。
こんな私に、それでもなお、選択肢を示してくれるアナベルへの気持ちを、もう私はどう言えばいいのか分からない。
役に立たない弱音を吐く私の手を引いてくれるカルディオスへの気持ちを、私は言葉で表すことさえ出来ない。
――息を吸う。
吸い込んだ息と一緒に、自分の中の一番大きな感情を仕舞い込んだ。
アナベルは――言葉の通り――、親子の情を私に許したが、恋情は許さないだろう。
いや、彼女のことだから、許す許さないではなくて、己の快不快を論ってああ言ったのだろうけれど、だからこそなおのこと。
あのときアナベルにシオンさんを見捨てさせた私は、自分自身の恋情に蓋をしなければならない。
今までは、ルドベキアがちょっとでも危ない目に遭っていれば、他のみんなを置いて真っ先に飛んで行って、何とかして笑顔のひとつも見ようとしてきたけれど、それももうなしだ。
私の足許を千年に亘って支えてきた愛情を落とす。
この愛情も恋慕も、もうどうしようもなく――消せないほどに育ってしまっている感情だから、目を背けて見ないことにする。
どのみちルドベキアにとっては不要極まりない感情だ。
だからなかったことにする。
それが私の、精一杯の誠意であり、文字通りの贖罪だ。
――それと引き換えるように、
「私は、」
――カルディオスの手の中から自分の手を引き抜いて、指輪を外す。
これは、この武器は、救世主のためのものだ。
――今この瞬間、私は今生の救世主の役割から下りる。
私利を通すために、私情を優先するがために、私は救世主ではいられない。
次の人生でカルディオスが私を救世主に戻してくれるときまで、私は役目よりも私心を選ぶ。
だからこの武器は、私が持っているべきではない。
もしも今生において、もう一度魔王討伐に挑むことがあれば、そのときはこの武器を取るだろうけれど。
――指輪を握り締める。
同時に、私を千年守り続け、支え続けてきた恋慕の情から遂に手を離して、私は声を押し出した。
「私は、お父さまを助けたい」
◆*◆
強情に真面目なトゥイーディアのその言葉に、俺を除いた他の四人が一斉に息を吐き出した。
吐いた息の色は様々で――ディセントラやカルディオスは安堵だった。
アナベルは諦めの色が濃かった。
コリウスは――何だろう、俺にはもうこいつの内心は窺うことすら出来ない。
そして唯一無反応を貫いた俺は――代償さえなければ――、快哉を叫ぶところだった。
良かった、本当に良かった。
こう、出来ればトゥイーディアの背中は俺が押したかったとか、そういう利己的な思いは色々あるけれど、それは差し置いておくとして。
――アナベルが、トゥイーディアを止めないと断言したのだから、これでトゥイーディアはお父さんを助けに行ける。
トゥイーディアがこの先一生、自分のお父さんを助けられなかったと苦しむことは避けられるのだ。
俺たちが動くのだから、トゥイーディアのお父さんを危機的な状況に陥らせるとすれば、それは人ではなく時間だろう。
決定的な事態に対して、俺たちが間に合わないことが一番に懸念される――
と、ここまで考えて、俺は思わず眉を寄せた。
――トゥイーディアがお父さんを助けに行くとして、俺たちは?
トゥイーディアのことだから、俺たち五人はガルシアに残ってくれとか言い出しかねない。
いやまあ、それが救世主としては正解の行動なんだろうけど。
そう分かってはいるけれど、俺としてはトゥイーディアの単独行動は避けてほしい。
何かあったときに助けに行けないし。
それにそもそも、トゥイーディアとの距離が海を隔てたものになるのは嫌だ。
ガルシアから救世主全員が離れるのは難しいとしても、せめて俺と、(俺がついでに助けにすっ飛んで行くための)もう一人はトゥイーディアに同行させてほしい――
俺がそう考え至るのと同時に、カルディオスが出し抜けに、思い出したように言った。
トゥイーディアの左手を握りながら。
「――イーディ、俺も一緒に行くよ」
指輪を右手に握ったまま、トゥイーディアが瞬きした。
それからぎゅっと眉を寄せ、何かを言おうと口を開き、しかしすぐに口を噤む。
眼差しを落として、右手の中で転がす指輪を一瞬じっと見てから、トゥイーディアはカルディオスの手の中にある自分の左手を引っ込めて、その手で逆にカルディオスの手首を握って、すっとその掌を上向かせた。
カルディオスが翡翠の瞳を瞬かせた。
中庭から廊下に差し込む僅かな陽光の反射にさえ、華やかに煌めく双眸。
「イーディ?」
訝しげな声で名前を呼ばれながら、トゥイーディアはカルディオスの掌に、黝い指輪を握り込ませた。
正当な救世主の手を離れて、指輪が黒く色を沈める。
それを隠すように、両手でカルディオスの指を包んで指輪を握らせながら、トゥイーディアは呟いた。
「……ありがと、カル」
――てっきり、トゥイーディアのことだから、「駄目よ、残って」とでも言うかと思ったが。
意外過ぎるトゥイーディアの一言に、面食らった顔をしたのは俺ばかりではなかった。
コリウスもディセントラも、そしてカルディオス本人も、意外と言わんばかりに目を見開く。
だが一方でアナベルだけが、どことなく複雑そうな表情でトゥイーディアを見ていた。
――その顔を視界の端で見付けて、俺にも分かった。
トゥイーディアは今、救世主としての役割よりも親子の情を採ったのだ。
だからこそ、救世主としてカルディオスを窘めることが出来ない。
真面目で頑固な彼女らしい線引きだ。
そういう融通の利かないところも、俺は大好きだ。
そして同時に、俺は内心で顔面蒼白。
同行を申し出れば、トゥイーディアがそれを拒まないにせよ、俺は同行を申し出ることが出来ない。
俺の代償が、この局面でも俺の行動を縛っている。
つまり俺がトゥイーディアに同行できるのは、全員でトゥイーディアのお父さんのために動こうという話の流れになった場合か、あるいは誰かが俺に、トゥイーディアに同行しろと言った場合に限られる――
「――イーディ?」
カルディオスが訝しげに語尾を上げて、渡された指輪をまじまじと眺めた。
「どしたの? これ、今はイーディのでしょ?」
首を傾げる天与の美貌に淡い微笑で応じて、トゥイーディアは首を振った。
「いいえ」
軽く息を吸い込んで、トゥイーディアはきっぱりと言った。
「私はこれから、救世主にあるまじきことをするわけだから。
それはもう私のじゃないわ」
カルディオスは瞬きして、それから何かを言おうとして、結局は何も言わずにこくんと頷いた。
彼の掌の上で、黒い指輪の寸法が変わった。
それをするりと左手の中指に嵌めながら、カルディオスは呟いた。
視線はトゥイーディアに向かっていたが、言葉は俺たちに向けたものだった。
「――おまえらはどーする? ここに残る?」
トゥイーディアと一緒に行く、と答えようとした俺の声は、案の定、喉で潰れて言葉にならない。
声を出そうとしたことさえ、端から見ていて分からなかったはずだ。
カルディオスは恐らく、気まずさ余ってトゥイーディアの方を見たままなのだろう。
コリウスに対してだけではなく、今やアナベルに対しても、恐怖に近い罪悪感があるはずだ。
それを思って、俺は思わず両手で顔を押さえる。
だがすぐに顔を上げて、みんなの意見を知るために視線をぐるりと巡らせた。
ディセントラとコリウスが、思案顔で視線を合わせていた。
二人で思考を分け合っているみたいな目をしていて、それだけで相手の考えていることの概要を読み取っている様子なのがすごい。
俺は多分、そんな二人の意見を待つような顔をしていることだろう。
何が何でもトゥイーディアと一緒にいたい俺の恋心は、絶対に表情にも態度にも出ないんだから。
だが、それを他所に、アナベルが軽く手を挙げて見せた。
こういうときに自分から意見を出すのは珍しい奴だから、俺はもちろんコリウスもディセントラも、思わずアナベルに視線を集中させる。
一方のカルディオスは、頑としてアナベルの方は見なかった。
軽く俯いて、トゥイーディアの足許の辺りをじっと見ている。
そしてトゥイーディアもまた、アナベルに向けようとした視線を途中で泳がせて、石造りの天井の方を眼差しで撫でるように見回していた。
――大広間から、三人連れの隊員がこちらへ向かって階段を降りて来た。
救世主が勢揃いして何やら話し合っている様子を見て、気まずそうな顔になった三人が小走りで俺たちの傍を抜けて行く。
こつこつと慌ただしく響くその靴音が遠ざかってから、アナベルは薄紫の瞳を彼らの背中から俺たちの方へ戻し、無表情に言い切った。
「――あたしはイーディと一緒に行くわ」
全く真逆の宣言を受けると思い込んでいたらしいトゥイーディアが、ぎょっとしたように飴色の目を瞠ってアナベルを見た。
「えっ」と小さくその唇が動いたのが見えたが、声は出ない様子。
カルディオスもまた、愕然とした様子で口許に拳を当てている。
よっぽどアナベルと距離を置きたかったらしい。
トゥイーディアの反応を視界の端に捉えて、アナベルがそちらを向いた。
さら、と薄青い髪が揺れて、眉が顰められる。
「なによ、イーディ」
軽く問い詰めるような口調で言われて、トゥイーディアはいっそう視線を泳がせる。
「あ、いや……」
「――性に合わないのよ」
はあ、と息を吐いて、アナベルは呟いた。
視線がふいっと逸らされて、トゥイーディアは少しだけほっとしたような顔をした。
「どういう結果で落ち着くのか、ここでずっと待ってるのは」
ぼそりと続けられた台詞に対して、トゥイーディアが瞬きして、数秒。
すうっと息を吸い込むと、彼女は頷いた――やはりというべきか、救世主としてアナベルにガルシアに残るべきだと告げることはなかった。
「……そう、なら――」
きゅっと身体の脇で拳を握ってから、トゥイーディアはおずおずと微笑む。
「――アナベルが一緒にいてくれた方が、私も安心できるかも知れない」
アナベルは意外そうに瞬きしたが、トゥイーディアのその口調は、なんとなく――単純に「アナベルを頼りに出来るから」という理由ではないように聞こえた。
俺はちょっと眉を寄せて、トゥイーディアが妙に――必死になって、アナベルをヘリアンサスから遠ざけようとしていることを思い出した。
――なんでだろう。
ふとそう考えたものの、俺如きが脳みそを振り絞ったところで、正解に行き着くのは不可能というものだろう。
肝心なのは、アナベルの意思表明のお陰で、「みんなでトゥイーディアに着いて行く」という流れを引き寄せられたのではないかということ。
そして一方で、「じゃあ三人ずつに分かれましょうか」とか言い出されかねないということ。
事態がどっちに転ぶのか、俺は祈ることしか出来ない。
コリウスが溜息を吐いた。
彼が口を開いたが、その機先を制するようにして、ディセントラが声を出していた。
いつもと同じ玉を転がすような声音だったが、少しだけ上擦って聞こえる声だった。
「――だったら、」
彼女が一歩コリウスに近付いたので、俺は心臓が止まるかと思った。
「私とコリウスとルドベキアが残りましょう」と言われるかと思ったのだ。
だが、ディセントラは言った。
「先にイーディたちがレイヴァスに向かって、後から私とコリウスが追い掛けるのはどうかしら」
コリウスが眉を寄せた。
俺も大体同じような顔でディセントラを見遣った。
ディセントラは胸元でぎゅうっと掌を握っており、もはや祈るように俺たちを見詰めていた。
淡紅色の瞳が薄ら潤んでいるのを見て、俺は思わず呻く。
俺たちはみんなだけど、泣き虫のディセントラが泣くのに弱いのだ。
「イーディは、ここでじっとしてるのなんて嫌でしょ。だから早く出発した方がいいと思うの。
でも、さすがにガルシアをこのままにして、六人でこっそり出て行くことなんて出来ないから――」
くすん、と鼻を啜るディセントラに、トゥイーディアが若干おろおろした様子で半端に手を伸ばす。
トゥイーディアも例に漏れず、ディセントラの泣き顔には弱いのだ。
「――私とコリウスが、取り敢えず何とかして、救世主らしい理由をいっぱい並べて、ここを落ち着かせてから追い掛けるわ。
ルドベキアは、」
ディセントラの目がこっちを向いたので、俺は曖昧に肩を竦めた。
「あんまりそういう、救世主らしく振る舞わなくちゃいけなかったり、注目されながら混乱を収めたりするのは苦手でしょ。
だったら、怪我人の治療だけ大急ぎでやってもらって、イーディに付いて行ってもらうのがいいんじゃないかしら」
――それを聞いた瞬間、心臓が大きく脈打った。
代償さえなければ俺は、ディセントラを高々と抱き上げて感謝の絶叫を上げるところだった。
ありがとう、ディセントラ。
俺をトゥイーディアの方へ押してくれて、本当にありがとう……!
内心では心臓が壊れるんじゃないかと思うほどにばくばくと脈打っていたが、それが表に出るようならば苦労はない。
俺はただちょっと顔を顰めて、「おまえがそう言うなら」みたいな態度で小さく頷いた。
だが一方、コリウスは渋面を作る。
「待て、ディセントラ」
俺の心臓が、今度は勢いよく縮んだ。
冷水を頭からぶっ掛けられたようにも感じた。
コリウス、頼むから、変なことを言って議論を白紙に戻したりはしないでくれ……!
――必死に祈る俺の内心など知る由もなく、コリウスは淡々と――むしろ少し苛立たしげに言っていた。
「全員でレイヴァスに行くのを前提にするな。冷静に考えろ。
何人かはここに残るのが合理的だ――特にルドベキアは」
ちら、と濃紫の水晶のような視線を向けられて、俺は危うくコリウスに対する殺意を覚えるところだった。
「治療が出来るルドベキアは、少なくともガルシアにいるべきだ」
「――そうね」
ぽそ、とトゥイーディアが同意の声を上げて、俺は膝を折りそうになった。
なんで。
なんで、他の奴に対しては救世主らしい窘めをしなくなったのに、俺に対してはするの……?
そんなに俺から離れたいの……?
とはいえ、俺の表情は無。
そのままの醒めた顔でトゥイーディアを見るに、トゥイーディアは何だか複雑そうな顔をしていた。
その内心は窺い知れないが、俺の胸中は半狂乱。
――もし、トゥイーディアのお父さんが怪我をするようなことになってたらどうするんだ。
治癒の魔法は俺にしか扱えない。
なんでここで頼ってくれないんだよ。
理性で抑え込むコリウスへの殺意が爆発しそうになっているところへ、「いいえ」と、断固としたディセントラの声。
俺が彼女を見ると、ディセントラは泣き出す寸前の顔に頑固な表情を乗せて、薔薇色の瞳に縋るような光を湛えていた。
――その顔を見て、俺は自分の勝利を確信した。
ディセントラがこういう顔をするときは大抵、彼女の意見が通るのだ。
救世主の使命を標榜するトゥイーディアならば、稀にこんな顔をされても撥ね退けることもあったけれど、トゥイーディアは今それをしない。
「いいえ」
ディセントラが、断固たる口調で繰り返した。
「ルドベキアもレイヴァスに行くのよ。
――コリウス、あんたはもしかしたら、私たちと距離を置きたいのかも知れないけれど」
カルディオスが、あからさまにびびった顔で一歩下がった。
コリウスも薄らと顔を顰める。
そんなコリウスに指を突き付けて、ディセントラはひどくきっぱりと言い切った。
「私たちの人生は、まだまだずーっと長いんですからね。今のうちに身内のことは片付けておかないと、次からどうなるか分からないでしょ。
――今このタイミングで、離れ離れなんてごめんだわ」
コリウスは眉間に皺を刻んだ。
「――それで、どうして僕もおまえと一緒にしばらくは残ることになっているんだ」
言外に、「残るならおまえ一人が残ればいいだろう」と言っている声音だったが、ディセントラは赤金色の髪を肩から払って胸を張る。
「あら、そんなの。
私一人よりも、頭のいいあんたに居てほしいからに決まっているでしょう。
コリウス――あんたはどうあれ、私はあんたの頭が切れることを信頼してるんだから」
開き直ったが如きのディセントラに、コリウスはしばし、面食らったように目を見開いていた。
そんなコリウスの顔をじっと見て、ディセントラは警戒するように。
「――もちろん、私が出発するときには、引き摺ってでもあんたも連れて行くわよ、コリウス」
不穏な語調でそう言われ、我に返ったように瞬きして、コリウスはディセントラから目を逸らした。
「いや――」
こほん、と咳払いして。
「いや、大丈夫だ。むしろ僕がおまえを引き摺って行った方が移動は速い」
ディセントラが、ほっとしたように頬を緩めた。
堂々とした態度の裏では、自分の主張が通るか不安に思っていたことが、ありありと分かる顔だった。
だがすぐに表情を取り繕って、典雅に頷く。
「ええ、そうね。実際に引き摺って行かれるのは遠慮したいけれど」
コリウスが折れたことを確信し、俺は内心で快哉を叫ぶ。
一方でトゥイーディアは、どっちかっていうとおろおろした様子でディセントラとコリウスを窺っていた。
傍のカルディオスが断固としてコリウスを見ないので、まるで弟がやらかした失敗を詫びるタイミングを探っている姉貴みたいな感じになっている。
トゥイーディアのその様子に気付いて、コリウスがまた眉間に皺を刻んだ。
そして、素っ気ないぶっきらぼうな声で呟く。
「トゥイーディア、おまえは自分のことで頭が一杯なんだろうが――」
おろおろしていたトゥイーディアが、その言葉で忽ちのうちにしゅんと項垂れた。
アナベルが冷ややかな目でそれを見守る一方、カルディオスが泡を喰った様子で彼女の背中をさすってやっている。
俺は、出来るならばコリウスに向かって、「気を遣え!」と怒鳴っていたところだった。
ディセントラは、「もう已む無し」みたいな顔で瞑目してしまっている。
コリウスは息を吸い込んで、カルディオスの方は一切見ずに、トゥイーディアだけを視界に収めている様子で、やや声を低めて言葉を作った。
「――実際に、ヘリアンサスが何をしようとしているのか分からないんだ。
あの魔王のやることだ。とにかく阻止の方向で動いて間違いということはないだろう。
少なくとも、僕はそのためにレイヴァスに行くと思ってくれ」
トゥイーディアのために動くのではないと念を押す言葉だった。
それを聞いたトゥイーディアが目を上げて、ちょっと躊躇ってから、こくりと頷く。
その、どことなく幼く見える仕草に、俺は状況を忘れて見惚れるところだった。
可愛い……。
――トゥイーディアの心を射止めた奴は誰なんだろう。
顔を合わせることになれば、俺は下手するとそいつを殺しかねない。
本当に世の中は不公平だ。
俺はこんなにトゥイーディアのことが好きなのに――俺ほどトゥイーディアのことを好きな奴は、きっと今も昔もこれからもいないだろうに、俺のこの重過ぎる愛よりも、どこかの誰かのささやかな愛情の方が、トゥイーディアを喜ばせるに足るなんて。
そんな不条理について俺が考えを馳せている間に、トゥイーディアは躊躇いがちにディセントラに近寄って、小さな声で言っていた。
「――トリー、ありがとう。すごく負担を掛けちゃうと思うけれど……」
「あら、いいのよ」
トゥイーディアの言葉を半ばでへし折って、ディセントラが薔薇千輪に勝る艶然たる笑顔を浮かべた。
「大丈夫、言い分はもう色々と考えてあるの。
ガルシアの復興の手伝いが出来なくなるのは申し訳ないけれど、少なくともここの人たちが心を折るようなことにはさせないわ」
断言したディセントラは、俺から見ても格好よかった。
――アナベルが何か言おうとした。
だがそれを、彼女に向かってふわりと優雅に指を向けて留めて、ディセントラはちょっと顔を顰めてみせる。
「大丈夫だってば。――ほんとに。
私、出来ないことは最初から言い出さないの、知ってるでしょ? だから任せて」
アナベルがなおも口を開いたが、結局は諦めたような溜息と共に瞑目してゆるゆると首を振り、口を噤んだ。
コリウスは渋面でディセントラを見て、ぼそりと。
「――僕はガルシアに対する言い分を考えないからね。言い出したのはおまえなんだ」
予防線を張るコリウスに、ディセントラが「任せて」とひらひらと手を振ってみせる。
――その遣り取りに、俺はなんだか涙が出そうになった。
相変わらず、コリウスとカルディオスは目も合わせないし、俺とコリウスの間にも蟠りが出来たままだ。
それだけではなくて、カルディオスとアナベルの間にも、トゥイーディアとアナベルの間にも、深過ぎる断裂が生まれてしまっている。
だがそれでも、こういう――軽口みたいな言い合いをする仲間を見るのは久し振りで、それが嬉しくて涙腺が緩んだのだ。
俺だけではなくて、トゥイーディアもアナベルも、同じような顔でディセントラとコリウスを見ていた――と、アナベルが、くるりと唐突に振り返った。
そしてそのまま、きょろきょろと辺りを窺っている。
「……アナベル?」
怪訝に思って呼び掛ける。
アナベルは、「いえ……」と言葉を濁しながらも、どことなく気持ち悪そうに俺たちの方へ向き直り、ぎゅう、と自分を抱き締めるようにして二の腕を擦った。
「……なんだかこの頃ずっと、誰かに見られてる気がするの。人の目に過敏になり過ぎかしら」
先日までならここで、「そーだぞ」だとか、カルディオスが茶化しに掛かっていたのだろうが、生憎と今のカルディオスは、ひたすらアナベルから視線を逸らしているのみ。
なので俺が、軽く息を吸い込んで口を開いた――吸い込んだ空気は春の昼下がりの匂いがした。
まるで太陽が花の香りを吸い込んで、それを光と一緒に地上に注いでいるような。
石造りの冷たい砦の中にあってさえ、春の気配は克明だ。
「――そうだ、敏感になり過ぎだ」
カルディオスが言いそうなことを考えて、俺は出来る限りの親しみを声に籠めた。
「誰もそんなに、おまえに興味なんてねーよ」
アナベルは俺を見て、薄紫の目を眇めた。
俺の発言の無礼を咎めるというよりは、俺が誰のことを真似て言葉を形作ったのかを見抜いて、それを咎めるかのような目付きだった。
しかし結局、アナベルは頓着せずに、軽く息を吐いて肩を竦める。
「――そうね」
呟いて、アナベルは眩しい陽光が降り注ぐ中庭をぼんやりと見遣った。
「じゃあ、あたしたちは夜逃げの準備をしましょうか」
夜逃げじゃないから、と、ディセントラが堪りかねたように突っ込んだのは、さすがに罪悪感が臨界点を突破しそうなトゥイーディアの、暗く項垂れた顔を見てのことだっただろう。