11◆ 愛の軽重
翌日、トゥイーディアはいつもと同じように起きてきて、いつもと同じように手早く朝食を摂って、いつもと同じように俺たちと一緒に市街に出た。
傍目には平然として見えただろうが、明らかに笑顔が少なかった。
昨日までと比べてなお少ないのだから、もう無いも同然である。
俺は泣きたい。
トゥイーディアに笑っていてほしい。
作り笑いで無理をするんじゃなくて、心から寛いで笑っていてほしい。
驚いたことに――そして、恐れていたことに、トゥイーディアはメリアさんにすら、今のお父さんの状況を伝えていないようだった。
朝食のときにはメリアさんもいて、彼女は「昨日の書簡は何だったんです?」とトゥイーディアに訊いていたのだ。
――多分、トゥイーディアからすれば、メリアさんに「御父上のところに帰りましょう」と言われたときに断り切れるかどうか、危ぶまれるものがあったのだろう。
俺がそう察すると同時に、同じことを察したらしいカルディオスが勢い込んで何か言おうとしたが、トゥイーディアに見事に遮られていた。
トゥイーディアは、気にしないようにとメリアさんに申し渡して、さっさと彼女に席を外させたのだ。
その強引さに俺は目を瞠ったが、ディセントラは早くも泣きそうな顔をしていた。
カルディオスは唖然とした様子で、トゥイーディアを見て一言。
「――まじ?」
トゥイーディアは作り笑いを唇に引っ掛けて、穏やかに応じた。
「余計な心配を掛けたくないのよ。どうせ大丈夫なんだから」
コリウスとアナベルは無反応だった。
俺たちと席を同じくしてはいても、何の関心もないと言わんばかりだった。
――あるいはそう見えるだけかも知れない。
この二人の態度も表情も、長い付き合いであっても読み難いから。
とはいえ、アナベルはずっとくるくるとスープを掻き混ぜていたから、何かを考え込んでいたことは確かである。
カルディオスはまだ何か言おうとして、しかし結局口を噤んだ。
「もうちょっと頑張れよ!」と内心で怒声を上げた俺はちなみに、誰よりも無関心な顔をしていたはずである。
市街に出た俺たちは、昨日の嵐が嘘のように晴れ渡った晴天の下で、昨日までと同じように瓦礫を撤去し、怯える市民の皆さんを落ち着かせ、レヴナントの出現の気配がないかどうかを見回った。
前日の嵐で瓦礫は崩れ、陥没した地面に雨水が溜まって水没している箇所もあった。
陽光は素晴らしい暖かさで瓦礫から水気を取り除きつつあったが、日光の届かない日陰にはなおも黒々と水が溜まり、瓦礫も湿ったままである。
どうやら集中力をどこかへ放り出していたらしいカルディオスが、一度見事にそんな水溜まりに嵌まり、わっと声を上げて腰まで水に浸かった。
どぼん、と間抜けな音を立てたカルディオスに、数日前までならほぼ全員で大爆笑していたところである。
コリウスも苦笑のひとつくらいは見せただろうし、アナベルは溜息混じりにカルディオスを窘めただろう。
だが今は、誰もにこりとも笑わず、俺が無言で手を貸してカルディオスを引っ張り上げて、アナベルがこれまた無言でカルディオスの軍服を乾かしたのみだった。
落とし穴に嵌まった格好になったカルディオスが、水底の瓦礫に激突して怪我でもしていないか尋ねたものの、カルディオスは上の空で頷いたのみだった。
――カルディオスが何を考えているのか、俺には痛いほど分かった。
俺も同じことを考えていたから分かった。
俺たちがひたすらに考えて案じていたのは、傍目にはいつもと変わらず、慈愛の笑顔を浮かべて市民や隊員を励まし、落ち着かせているトゥイーディアのことだ。
眩しい陽射しみたいな蜂蜜色の髪を陽光に煌めかせて、瓦礫の上を渡り歩いて取り残されている遺体がないか確認し、瓦礫をいとも容易く消し去っていくトゥイーディア。
白い光の鱗片が幻想的に陽光の中を漂う様は、有り得べからざる春の雪のよう。
俺は何度か、正視に耐えないほどに潰れた遺体を見付けたトゥイーディアが、その姿を遺族に見せることすら憚って、誰にも言わずに素早く遺体を消し飛ばすところを見た。
そしてその度に、トゥイーディアの瞳が翳っていくのを見ていた。
――トゥイーディアは優しいから、その優しさゆえに自分を傷つけることがある。
気にしないように言って彼女を労いたいのに、俺はそのためにはぴくりとも動けない。
――認めたくはないが、瓦礫の撤去作業で最も頼りにされるのがトゥイーディアである。
何しろ彼女は、何の痕跡も残さず瓦礫を消し飛ばすことが出来る。
どうにも出来ない大きさで転がる瓦礫の撤去に、これほど有り難い能力はない。
復興作業に尽力する隊員や市民の方からお礼を言われる度に、トゥイーディアもそれを再確認したことだろう――そしてますます、ここを離れられないという現実を突き付けられていることだろう。
以前から、救世主だ救世主だと騒がれてはいたが、今や俺たちが通るだけで額づかんばかりに拝む人たちがいる。
救世主さま、と呼ばれる声に、軋むほどの依存と妄信を感じる。
そんな声を聞く度に、俺は胃の腑の中に鉛を突っ込まれるような気持ちを隠して微笑んでいたが、トゥイーディアは恐らく本心から、そんな人たちの力になりたいと思っているのだろう。
その救世主としての責任感が、トゥイーディアの枷となっている。
そして、俺もそう易々とここを離れられたりはしない。
午後には俺たちは全員で、怪我人が一箇所に集められている場所を訪い、主には俺が怪我人の治療に当たるが――別に俺だけでもいいんじゃないかとは思うけれども、離れ離れになったが最後、二度と会えない気がしてしまうので仕方がない――、三、四日程度では怪我人の数が減ったようには思えない数の怪我人がいるのだ。
魔法による治療は俺にしか出来ない芸当だから、俺がガルシアを離れた瞬間に、この人たちが治療を受けられないことが確定してしまう。
別に、自然に治癒が見込める怪我ならば、それくらい我慢しろよと思わないでもないが――何しろ俺の心の天秤は、トゥイーディアこそを最優先にして働くので――、通常なら治らないような怪我をしている人にそれは言えない。
出来るだけそういう重篤な怪我を負っている人を優先して治療に当たってはいるし、ヘリアンサスによる大虐殺のために、そういった怪我人は――つまりは、命を落とさずに踏み留まった人は――少ない。
だがそれでも、
「……目が痛い」
ぼそ、と呟いたのはアナベルだった。
――この言葉が、彼女が己の眼球の痛みを訴えたものではないことくらいは、俺にも分かる。
分かるからこそ、俺は短く頷いた。
ずらりと並んで横たわる怪我人の間に膝を突いて、ひたすらに治療を繰り返す俺に、そして俺の傍に立つ他の救世主たちに、周囲から注がれる視線。
その熱。
その重さ。――それこそを、アナベルは「痛い」と言ったのだ。
縋るような目。祈るような目。
――それら全部が俺たちには重い。
これまでは、救世主と露見するや否や魔界まで死出の旅に出ていたから、こうまで長く一箇所で、救世主として頼られることに、俺たちは慣れていない。
しかもこんな、異様な熱のある視線。
――トゥイーディアは正しい。
もしも俺たちが、このガルシアを離れてしまったら、残された人たちは――ガルシア戦役で家を失い、家族を失い、親しい人を亡くした人たちは、こうして治療を待っている人たちは、瓦礫の下にいる親しい誰かを案じている人たちは、――きっと心を折るだろう。
俺は〈呪い荒原〉の傍の集落を訪れたとき、救世主であるというその価値だけで、そこにいる人たちの士気を上げた。
そして今、俺たちがガルシアを離れるということは、それと真逆のことを、あのときとは比較にならない規模で行うということに他ならない。
――トゥイーディアはそれを分かっている。
ガルシアにこそ、今は救世主が必要であるということを悟っている。
それに比べて、レイヴァスで助けるべき人は一人。
その差を、彼女は豊かな情愛を抑えて、その感情と距離を置いて、俯瞰して見ている。
そして、ここにいるべきだと判断している。
――それが分かる。
だって俺は、他の誰よりトゥイーディアを見てきたから。
トゥイーディアは頭がいいから、俺よりずっと色んなことを見て、色んなことに気付いているだろう。
だから、分かっているはずだ。
――トゥイーディアだけがレイヴァスに戻るならば、それ程の動揺は招くまいということ。
俺にとっては、トゥイーディアが単独行動をするという恐れてやまない事態の到来だが、俺たち五人がガルシアに留まれば、トゥイーディア一人の行動は人心に強くは影響しないだろう。
元よりが彼女はレイヴァスからの“お客さま”だ。
それが分かっていてなお、トゥイーディアが単独でのレイヴァスへの帰還を言い出せない理由。
――それも、俺は分かっている。
◆◆◆
「――アナベル、おまえから言え」
カルディオスがそう言ったのは、トゥイーディアが席を外した間隙のことだった。
俺たちは今や、吹雪の中で身を寄せ合う子供のように互いにべったりとくっ付いていることばっかりだった――そのくせ目も合わせようとはしたかった――が、些細な用事で席を外すことがないわけではない。
例えばそれは、ディセントラが市街の復興作業で疲れ切った友人から声を掛けられて、その人たちを安心させてあげるためにも席を立って彼らと話すときであったり。
身分のあるコリウスやカルディオスが、テルセ侯から何かの用事で呼び出されるときであったり。
俺が重い空気に耐えかねて、ルインの様子を見に行くときであったり――
――そして、今みたいな、カーテスハウンからガルシアに、飛脚が到着したときであったり。
ガルシアは、軍事施設であるがゆえに、指揮官級の者たちへの書簡はともかく、隊員への書簡など滅多にない。
それでも飛脚が到着すると、トゥイーディアはまるで何か他の用事があるかのように装いながらも、ふらっと席を外すようになっていた。
誰も何も言わなかったが、レイヴァスからの続報を待っているのは明らかだった。
――トゥイーディアが伯父さん(レイヴァスの公爵らしいということを、俺がトゥイーディアの言葉からぼんやりと察しているだけの人だ)から、あの書簡を受け取って、早くも五日が経とうとしている。
俺たちは毎日毎日、ガルシアの復興やら怪我人の治療やらレヴナントの警戒に当たっていて、俺たちの上に積み上がる依存と妄信は岩をも砕く重さになろうとしていた。
そしてこの五日というもの、カルディオスやディセントラがお父さんの話題を出そうとする度に――言外にトゥイーディアに帰国を勧めようとする度に――トゥイーディアはそれをするりと躱していた。
その一方で彼女の明るい顔はぱったりと見られなくなったので、俺からすれば殺された方がましなんじゃないかと思うような数日間だった。
トゥイーディアのために何かしたいのに、俺はそう思っていることさえ明らかに出来ないし、仄めかすことすら出来ない。
――カルディオスに名指しされて、アナベルが首を傾げた。
処は大広間から数段の階を下った中庭の傍。
俺たちは中庭に向かって開く窓に凭れ掛かるように立っていて、実を言うとこの場所は、内輪の話をするのには向いていない。
何しろ人の目が届きやすい場所だからね。
とはいえ、飛脚の到着に気付いたトゥイーディアがふらっと席を外したのが、俺たちがここにいたタイミングだったのだ。
そうなるとこの場から動きづらいというのが、この数日、ずっと付かず離れずで一緒にいた俺たちの条件反射だった。
中天からやや傾きつつある陽光が、宿舎の建物に阻まれながらも、ささやかに中庭に届いて、春の新芽が開き始めた中庭を長閑に暖めている。
外の空気はもう暖かい。春は本腰を入れて世界を謳歌しようとしていた。
――そんな春の日差しからは隔絶された石造りの廊下で首を傾げて、アナベルがカルディオスと目を合わせる。
薄青い髪がさらりと揺れて、薄紫の目が訝しげに細められた。
「……は? あたしから?」
素っ気なくそう言って、アナベルは眉を寄せた。少し怒ったようにも見えた。
カルディオスは勢い込んで頷いたが、続く言葉を呑み込んだように、一旦は開いた口を閉じた。
――それがなぜなのか、俺には分かった。
多分、他のみんなも分かっていた。
アナベルに向かって、シオンさんの名前を出せないからだ。
トゥイーディアが一人でレイヴァスに戻ろうとしないのは、アナベルに申し訳が立たないからだ。
かつてこいつが、シオンさんと一緒にいる未来を捨ててまで俺たちに同行してくれたことを、俺たちは忘れられないし、そのときにアナベルを無事に帰してやれなかったことを、悔やまない日はなかったといっていい。
――あのときの正当な救世主は、他でもないトゥイーディアだった。
責任感の強い彼女が、俺たちと比べてなおアナベルへの罪悪感を募らせていることなど、想像に難くない。
アナベルは彼女自身の幸せよりも、魔王討伐を選んでくれた。
救世主としての役割を選んだ。
――では、今のトゥイーディアは。
今のトゥイーディアがレイヴァスに戻ることは、救世主の役割から逸脱することだろうか。
――アナベルは数秒の間カルディオスを眺め遣って、それから不機嫌に呟いた。
「あたしから何をトゥイーディアに言うのよ」
カルディオスが息を吸い込んだ。
言葉を選ぼうとしている彼が、無意識のうちにコリウスの方へ視線を動かそうとして、しかしはっとしたように思い留まったのが見て取れた。
コリウスもそれを察したはずだったが、彼はいつも通りの冷ややかな無関心さを湛えて佇んでいるだけだった。
「……だから――」
カルディオスが言い差す。目が泳ぐ。
「――イーディだけでもレイヴァスに戻れば……」
ディセントラが何かを言い掛けた。
言い淀むカルディオスに、助け舟を出そうとしたのかも知れない。
だがそれを遮って、アナベルが小さく呟いた。
「それをどうしてあたしから言うのよ」
俺たち全員が言葉を呑み込んだ。
元より俺は、トゥイーディアが話題に昇っている以上口を出すことすら儘ならなかったが、その俺をして、輪を掛けて言葉を封じられた気がした。
――俺たちは、あのとき以来、アナベルの前でシオンさんの名前を出したことすらない。
だからきっとアナベルは、俺たちがあのことをどれだけ申し訳なく思っているか知らない。
俺たち全員から言葉を奪って、アナベルは小さく息を吐いた。そして、中庭に目を向けて呟いた。
「……あの魔王がトゥイーディアのお父さんに、何をするつもりなのか知らないけれど、」
――“命か名誉か、思い出だって『対価』たり得る”――ヘリアンサスはそう言っていた。
そして、命も名誉も思い出も、失っていいものであるはずがないことも明白だった。
アナベルの薄紫の瞳が、中庭に降り注ぐ日光を眺めている。
仄かに金色を帯びた暖かな白色の光を、冷めた温度の眼差しで捉えている。
そうして息を吸い込んだアナベルが、まるで心の中で何かの垣根を飛び越えたように見えた――今まで、言うまいとして秘めていたことを、一挙に口に昇らせたかのように、アナベルの口調が早く、激しくなった。
「カルディオス、あなたはこう言ってるわけね、――あたしが昔諦めたことを、トゥイーディアが諦めなくて済むように、あたしからあの子に言ってやれって」
カルディオスが息を止めたのが分かった。
口を出していない俺ですら、呼吸が苦しくなった。
――初めてだった。
アナベルが、シオンさんのことで俺たちを責めるようなことを言ったのは、生涯を通して初めてだった。
数秒の沈黙ののち、カルディオスが、絞り出したような声を押し出した。
「……あのときとは違うだろ」
アナベルが瞬きした。
儚い薄紫の瞳が、カルディオスの煌びやかな翡翠色の瞳を向いた。
「違う?」
小声で尋ね返した彼女の目から視線を逸らして、カルディオスはアナベルの足許辺りに眼差しを当てた。
声は苦し紛れで掠れていた。
「あのときとは違う――安全な場所に行こうとしてるわけじゃない……イーディのお父さん、危ない目に遭ってんだから……」
――俺は息を止めていた。
ディセントラも、コリウスでさえもそうだった。
俺たちは息を止めて、アナベルとカルディオスを見ていた。
今このとき、この百年以上で初めて、俺たちはシオンさんのことを話している。
彼の存在を会話の中で匂わせてしまうことはかつてもあったが、こうしてはっきりと、彼の存在を前提として会話を成り立たせるのは初めてだった。
――そして、カルディオスの言には一理がある。
シオンさんを選ぶということは、アナベルが安全な場所に留まるということだった。
そして今、トゥイーディアが直面している問題は、危機的状況にある二つのうち、どちらを優先するかということ。
ガルシアは逼迫した状況の中にあるが、トゥイーディアのお父さんも危険な状況にあることは変わりない。
だからこそお父さんを助けに行くことは、救世主としても理に適った行動であると言えるはずだ――
「――そうね」
アナベルが認めた。
俺が予想したよりも、随分と穏やかな声だった。
「確かにそうね。イーディが、あの子のお父さんを助けに行きたいなら行けばいい。あたしは止めたりしない。
――でも、」
窓枠に凭れ掛かっていた身体を起こして、アナベルが身体ごとカルディオスに向き直った。
カルディオスが一歩下がった。
――アナベルの薄紫の瞳に、恐ろしいほどの激情が閃いていた。
「――あたしがあの子の背中を押す義理はない。
あの子が勝手にあたしに何を思っていようが、もしも悪いと思っているのだとしても、あたしがそれを和らげてやる義理はないの。
――あのとき、あの子は、」
息を吸い込み、アナベルは高まろうとする自分の声を抑えた様子だった。
「――ちゃんとあたしに訊いたわ。
あたしが魔界まで行くかどうか、ちゃんとあたしに訊いてくれた。あたしは行くと言った。
あたしがシオンを見捨てた」
アナベルの口からシオンさんの名前が出るのは、何百年ぶりだろう。
呼ぶ声ひとつをとってさえ、張り裂けんばかりの愛情が満ちたその名前。
「あの子はちゃんと分かってたでしょうね。五人だけで魔王討伐に挑めば、どれだけあっさり負けるのか、あたしはその前の人生で経験済みだったもの。
それを踏まえて、行かないなんて言えるわけがないでしょう」
コリウスが息を吸い込んだ。
濃紫の目が見開かれて、不意を討たれたような驚きと衝撃を籠めて、アナベルを映して微かに震えた。
――魔王討伐前に死んだことがあるのはこいつだけだ。
他でもないこいつ自身の恋人に、代償ゆえに殺されて。
被害者と加害者が引っ繰り返った瞬間だった。
“〈心から信じた人〉を殺された被害者”であったコリウスが、“自分の落伍ゆえにアナベルに夫を選ぶ余地を許すことが出来なかった加害者”として論われた。
――俺たちはこんなにも、互いに対して傷を抱えていたのだ。
「あの子はあたしに、あなたたちとシオンを天秤に掛けさせた。
あたしはあなたたちを採った――救世主としての責任を採った」
アナベルからすれば、コリウスを責めたつもりは欠片もなかったのだろう。
彼女はコリウスを見もせずに、カルディオスをもはや睨むように見据えて、感情を抑え込んだ声で続けた。
「それで、あなたは言ってるわけね。
――あたしには出来なかったことをあの子にやらせてあげろって。
あたしがその背中を押してやれって」
ディセントラが無言で顔を覆った。
アナベルの言葉に耐え難いものを覚えていることは明らかだった。
俺はどうすればいいのか分からずに、ただ茫然と突っ立ってアナベルを見ていた。
――だが一方内心では、これでトゥイーディアがお父さんを助けに行ける目が消えたということを、絶望的な心情で察していた。
ここまで言われて、なお何かを言えるカルディオスではない。
俺たちには何も言えない。
アナベルに対して積み重ねてきた罪悪感が、これ以上のことを許さない。
カルディオスが大きく息を吸った。
俺たちの傍を隊員が数名通って、只事ではない雰囲気の救世主たちを横目でちらりと窺ったが、すぐに足早になって大広間へ上がって行く。
その靴音が遠ざかってから、カルディオスが口を開いた。
「……あんまりだろ」
低く呟いたカルディオスの声に、俺は覚えず目を見開いた。
――まだなおアナベルに向かって反駁できるとは。
俺のその反応が目に留まったかのように――あるいは他の理由があったのかも知れないが――カルディオスが、ちらりと俺を見た。
それからアナベルに視線を戻して、訴えるように。
「――アナベル、おまえは知ってるんだろ。
あんまりだ。こんなの、イーディが可哀想だ」
直情的なその声に、今度はアナベルが息を吸い込んだ。
ディセントラも、ぱっと顔を上げてカルディオスを見て、どうしてだか驚いたように淡紅色の目を瞠った。
――どうしてだろう。
なんでトゥイーディアのことを可哀想だと言うんだろう。
お父さんが危急の事態にあることを言っているようには聞こえない。
別のことを指してそう言っているような、そんな語調だった――
アナベルが息を吐いて、それから、やや穏やかになった声で呟いた。
「……ええ、そうね。勘違いしないで。あたしはイーディが大好きなのよ。でも……」
すうっと視線を流して俺を見て、アナベルが微笑した。
――俺はどきりとした。
あのとき、シオンさんに生還を約束したときに見せたアナベルの笑顔と、似通うものがある笑みだった。
泣き出す寸前のような顔――
「……どうせなら、もっと早くに――」
アナベルが言い差して、ゆっくりと息を吸い込んだ。
俺は何て言ったらいいのかも分からず、ただ茫然と、馬鹿みたいに謝った。
「……ごめん」
どうせなら、もっと早くに俺が魔王になっていれば、アナベルはシオンさんと一緒にいられたかも知れないのに。
魔王がアナベルとシオンさんを祝福する側に立っていれば、何の問題も無かったのに。
――アナベルは多分、俺が魔王として生を享けたのだと知ったその瞬間から、ずっとずっとそう思っていたのだ。
「ルドベキアは悪くない」
条件反射じみた反応で、ディセントラが差し込むようにそう呟いた。
俺は首を振ったが、アナベルは頷いた。
「ええ、そうね、悪くない――誰も悪くない。
あたしが、物事を割り切れるほど大人じゃないだけ……」
息を吐いて、俯いて両掌に顔を伏せて、アナベルはくぐもった声で呟く。
「――今生は本当に、何もかもがおかしい……」
息を吸い込んで、アナベルは顔を上げた。
片手を窓枠に掛けて、首を傾げた。
そしてカルディオスを見て、微笑した。
「あたしはイーディが好きよ。あなたのこともルドベキアのことも、嫌いじゃないわ。
――そうね、イーディは可哀想。本当に可哀想……」
呪文のようにそう呟いて、アナベルは視線を下に向けた。
「……もう自分でも訳が分からないのよ。
可哀想なイーディが大好きよ。責任感の強いイーディが大好き。一生懸命なあの子が本当に好きだわ。
でも、あたしが選べなかったことをあの子が選ぶの? お父さんってそんなに大事なの? あたしには分からないわ」
「アナベル、けど」
カルディオスが切羽詰まった声を出した。
「イーディのお父さんは、現に危ない目に遭ってんだ。助けに行くのは悪くない。
これがお父さんじゃなかったとしても、救世主なら助けに行くべきだ――」
「――いいえ」
きっぱりと、俺が内心で驚くほどに迷いなく、アナベルが断言した。
同瞬、とうとう堪りかねたかのように、コリウスが口を挟んだ。
まるでここでアナベルの味方をしておかなければ、彼女に対して申し訳が立たなくなると思っているかのような口調だった。
「――トゥイーディアの父君の状況は分からないが、彼がレイヴァスの法の下で裁かれようとしているのなら――それが冤罪であってもだ」
カルディオスがコリウスの方へ目を向けようとして、途中で心が折れたかのように彼の靴の爪先を見た。
コリウスの方もカルディオスのことは見ず、どちらかと言えばアナベルやディセントラの方を見ながら言葉を続ける。
「父君を助けようとすれば、最悪、レイヴァスの司法とぶつかることになる。
通常の審議での決着が可能であればいいが――」
コリウスは言葉を濁したが、その後に続く内容を、頭の回転の鈍い俺でも察することが出来ていた。
――最悪、力づくでお父さんを救出することになれば、怪我人どころか死人を出すことになりかねないのだ。
いつかの、密輸団を制圧したときとは話が違う。
真面目に職務に励んでいるだけの司法官の人々を、俺たちが――あるいはトゥイーディアが、私情のために傷つけ、あまつさえ殺害に及ぶとすれば、それは救世主の振る舞いではない。
カルディオスにも、コリウスが言わんとするところは伝わっただろう。
だがカルディオスは、コリウスに向かってではなくアナベルに向かって、やや声を荒らげて言い募った。
「――そんな仮定の話を気にしてる場合か。
言っちゃあ何だが、この際は名前も知らない人たちより、イーディのお父さんを優先すべきだろ!」
「正気で言ってるの?」
アナベルが、カルディオスに向かって一歩踏み出した。
窓枠に掛かった手にぐっと力が籠められた。
「相変わらず頭が軽いわね。あなたがどう思おうが関係ないの。イーディがどう思うことになるか、あなたに分かるの?」
カルディオスが、ぐっと言葉に詰まった。
――今度は、大広間から数名の隊員が下りて来た。
俺たちは一様に押し黙って、彼らが立ち去るのを待った。
カルディオスとアナベルは、露骨に「早く行け」と言わんばかりにそちらを見たから、隊員たちは「何か悪いことしたかな」と言わんばかりの顔になって、そそくさと足を速めて俺たちの視界から出て行った。
それを見送ってから、アナベルがやや声を低めて――ただし語調は激しく、捲し立てるようにカルディオスに向かって言った。
「ほんとに真面目な子なのよ。
今は良くても、次の人生は? その次は?
この一生の、この一回きりのお父さんのために、この先延々と、あの子に罪悪感を覚えたまま生きろって言うの?
――あの子は救世主だから、今までやってこられたのよ」
俺は息を詰めていた。
コリウスは押し黙っていたが、ディセントラはじりじりと前に出て、いつでもアナベルとカルディオスの間に割って入ることが出来るように準備していた。
「分からないの? ヘリアンサスが敵に回ってるのよ。あのヘリアンサスが、あの子を馬鹿にすることなく、あの子の敵に回ってるのよ。意味分かる?
――お父さんを助ける? 言うのは簡単ね。でも、ヘリアンサスがいるのよ」
俺は、これほどの勢いで言葉を並べるアナベルを見たことがなかった。
――今生は本当に、みんなの初めて見る顔が沢山ある。
だが、こんなのごめんだ。
アナベルの勢いに、俄かに怯んだかに見えたカルディオスだったが、しかしすぐに倍の勢いで返した。
「だから何だよ。逆でも一緒だろ。この先一生、あのときお父さんを助けられなかったってイーディに思わせるつもりか?」
アナベルが足を踏み鳴らした。
「だから? ――イーディが行きたいなら行かせればいい。でもあたしはその背中を押したりしない。イーディに、この先千年続くかも知れない後悔を植え付けるなんてごめんだわ。
大体そんな――」
烈火の如き激情を瞳に昇らせて、アナベルは吐き捨てた。
「――親子の情なんて、あなたにだって分かってないでしょう、カルディオス」
「分からないからなんだよ」
カルディオスも、一歩アナベルに向かって詰め寄った。
ディセントラが反射じみた動きでその肩に手を掛けたが、それを撥ね退けて。
「大事だってことは見りゃ分かんだろ。――自分に分かんないものを持ってるイーディが羨ましくなったか、アニー?」
「はあ?」
アナベルが腕を組んだ。
腹を立てたときのこいつの癖だ。
俺は思わず、二人の間にいつでも障壁を組み立てられるよう備え始めた。
ここでカルディオスとアナベルが喧嘩を始めれば、石造りの壁など容易く吹っ飛ぶことになりかねない。
「あたしが? あの子を?」
心底馬鹿にし切った声音を出したアナベルに向かって、カルディオスが指を突き付ける。
一瞬俺は、それが魔法の行使の合図となる仕草ではないかと思って肝を冷やしたが、カルディオスは単純な、腹立ち紛れの仕草としてそうしただけのようだった。
「ほらな。おまえ、イーディのこと馬鹿にしてんだ。憐れんで悦に入ってんだ。
――イーディがどんだけおまえに引け目を感じてるか、分かってねーわけじゃねぇだろーが。なんであいつに一言掛けてやるだけのことが出来ねーんだよ」
カルディオスの、論理の飛躍が見える暴論に、俺ですら口を挟みそうになった。
本当ならディセントラが「言い過ぎ」だとかと割り込みそうだが、彼女はなぜか、唖然とした顔でカルディオスとアナベルを見ているだけだったので。
だが俺が口を挟む隙もなく、カルディオスが、まるで言葉に弾みがついて止まらなくなったかのように暴言を吐き出した。
「大体、トリーだって好きな人の一人や二人、今までに置いて来てるだろーが!」
ディセントラが、はっきりと顔を強張らせた。
コリウスでさえ顔色を変えた。
俺は聞いていられなくて俯いた。
――最悪だ。
カルディオスも頭に血が昇ってたんだろうが、それにしても最悪だ。
言っていいことと悪いことがある。
愛情に貴賤はないだろうが、軽重はあるだろう。
アナベルがシオンさんに注ぐ愛情に比べると、ディセントラの恋愛は軽いと言わざるを得ない。
ディセントラはずっと彼らのことを覚えているだろうが、でも、それだけだ。
夜毎に涙を零すほどに焦がれてもいなければ、他の人を恋愛対象として捉えなくなるといったこともない。
――アナベルは、束の間言葉を失ったように見えた。
むしろぽかんとして、身長に開きのあるカルディオスを見上げていた。
直後にカルディオスも、はっとしたように口を噤んで一歩下がった。
表情に鮮やかに後悔が昇ったが――遅きに失した。
「……それが礼儀か」
アナベルの、聞いたことがないほど低い声がした。
薄紫の瞳が凍てついた。
冷気が強く渦巻いて、俺たちの周囲だけが真冬に逆戻りしたかのようだった。
「伴侶より役目を選んだあたしへの、それがおまえの礼儀か」
とうとうディセントラが割り込んだ。
カルディオスから離れて、アナベルの肩を正面から掴んで後ろに下がらせようとする。
「――アナベル、落ち着いて。分かるでしょ、本気じゃない」
それすら聞こえていない様子で、アナベルは自分の肩を掴むディセントラの手を振り払った。
「――それでも、だとしても余計に。だったらトゥイーディアも役目を選ぶべきでしょう。
あたしがどうして、あの子が人を殺しかねない方向に背中を押してやる必要があるのよ」
カルディオスが、半ば以上は自分のことが信じられない様子で口許を押さえた。
ありありとその様子を目に映してなお、アナベルの舌鋒が鋭さを帯びて声が高まる。
「あの子が今のお父さんを助けに行きたいなら行けばいいわ。あたしはそれを止めたりしない。
――だけど、ええ、そうね。あたしがあの子を憐れんでるのは事実だわ。あたしが知ってる幸せを、欠片たりとも知ることのないあの子が可哀想だわ。可哀想なあの子が大好きよ。責任感の強いあの子が大好きよ。
あたしが、」
息を吸い込み、アナベルが言い切った。
「あたしがシオンを選びそうになったとき、あたしを無理にも役目から遠ざけることも出来たのにそれをしなかった、公平なあの子が大好きよ」
コリウスが息を呑んだ。
階段の上を見て目を見開き、息を吸い込み損ねたみたいな、半端に小さな声を出す。
「――アナベル」
アナベルには聞こえなかったらしい。
自分を止めようとするディセントラをなおも振り払いながら、失言に茫然としているカルディオス目掛けて、詰め寄らんばかりにして声高に言い募っている。
「あの子が人を殺すことになれば、あの子は一生それを後悔するでしょう。あの子がこの千年の間つらい目に遭い続けて、それでもまだああやっていられるのは、あの子に救世主だっていう自負があるからでしょう、それが分からないの?
――あたしですら役目を完遂したのよ。行きたくもない魔界に行ったのよ。それで、イーディは? 人を殺しかねない場所に、自分のお父さんを助けに行くの? この一生の間のお父さんでしかない人のために、この先千年後悔し続けるかも知れないのに? 親子の情ってなに? そんなに大事なものなの?
あいつは――ヘリアンサスは別に、『対価』とやらを捧げて人を殺すわけじゃないんでしょう、なら――」
アナベルがそこまで言ったとき、俺も気付いた。
コリウスが気付いていたことに。
ディセントラも同時に気付いて、アナベルからぱっと手を離して後退った。
その動きで、アナベルも訝しげに眉を寄せてディセントラを見て、そしてその淡紅色の眼差しを追って大広間へ続く階の上を振り仰いだ。
――そして、凍り付いた。
漂っていた冷気が霧散した。
階の上に、ここまで戻って来たトゥイーディアが佇んでいた。