09◆ 『対価』の話
大広間に轟く怒声を、まるで己に向けられた歓声であると捉えたかのように嬉しげに微笑んで、ヘリアンサスがカルディオス越しに大広間の入口を振り返った。
大広間はいよいよ静まり返り、トゥイーディアの怒声が木霊して聞こえているかにも思われた。
息を荒らがせ、怒りのままに溢れる魔力を震わせて、トゥイーディアがこちらへ向かって足を進めている。
もはやヘリアンサスしか見えていないのではないかと思える形相で、長椅子で凍り付く隊員たちを、ややもすると跳ね飛ばしかねない勢いで。
雨でずぶ濡れになっていた彼女が、しかし、雨の滴でさえもトゥイーディアの荒ぶる魔力から逃げ出すかのように、目に見えて水気を払いつつあった。
ヘリアンサスが、くるりと身体の向きを変えた。
長椅子の反対側に足を下ろして、通路に向いて座り直して足を組む。
背後のテーブルに肘を乗せて、傲然とトゥイーディアを眺める魔王の眼差しは、俺からは見えなかった。
見えたのは、彼我の距離が十ヤード程度に縮まるに至り、ヘリアンサスがひらりと手を振った――その仕草だった。
まるで、昔からの友人が親愛の念を籠めて駆け寄って来るのを見付けたかのようだった。
そして、ヘリアンサスが言った。
「――やあ、ご令嬢」
その語尾と同時に、トゥイーディアがヘリアンサスの前に立った。
彼女の肩が震えていたが、断じて恐怖のためではなかった。
その顔貌を白く染め上げて、灯火を映す飴色の目の中で嵐のように光るのは、ひたすらに激怒のみだった。
カルディオスが何か言おうとした。ヘリアンサスと隣り合うことを強いられているカルディオスからすれば、トゥイーディアは目の前にいる。
だが、口を開いたカルディオスが言葉を呑み込む、その横顔が俺から見えた。
トゥイーディアは俺たちに一瞥たりともくれなかったが、俺たちには今やトゥイーディアしか見えていなかった。
どんなときでも己の感情を律しようとする彼女が、今は理性を最後の一欠片まで捨て去ったような顔をしている。
腰掛けたままのヘリアンサスを見下ろして、トゥイーディアが震える声を押し出した。
押し殺した低い声が軋んでいた。
「――話がある」
ヘリアンサスは尊大に手を振ってみせた。
まるで、取るに足りない人間に温情で直言を許す君主のように。
「だろうね。――ここで構わないよ。言ってごらん」
「――っ」
話があると言ったトゥイーディアが、ヘリアンサスを前に言葉に詰まった。
気を呑まれたのではなかった――全くの逆だと分かった。
怒りの余りに声を詰まらせ、息を詰まらせ、震える手を持ち上げてヘリアンサスを指す。
「――おまえ、おまえは――」
ヘリアンサスが笑った。
奴の背中しか見えていなくともそれが分かった。
なぜなら肩が震えている。声が漏れている。
くすくすと笑って、ヘリアンサスが首を傾げた。
「――あの使者、きみに何て伝え方をしたの? 書簡を渡すだけじゃなかったの?」
ぱりっ、と微かな音が鳴って、トゥイーディアの周囲で真っ白な稲光が乱舞し始めた。
灯火を蹴散らす白い光が、明白な災害として人の目に映ったはずだ。
ヘリアンサスへの畏怖と怯懦に硬直していた周囲の隊員たちが、一斉に身動ぎした。
知覚すら覚束ないほど巨大な恐怖の前に、十分に知覚できる恐怖が降ってきて、俄かに我に返ったかのようだった――彼らが生存本能に従って動き始めた。
この場から、この大広間から逃げ出そうとする、一個の大きな生物にも見えた。
まごつき、躓きながらも、徐々に徐々に、潮が引くように、大広間から隊員が姿を消していく。
音すら立てまいとするように慎重に。鼠が猫から逃げるように。
俺たちは動くことも出来ずに、ただ茫然とトゥイーディアを見詰めていた。
大勢が動いているのだとは信じ難いほどに静かな靴音が、潮騒のように俺の耳の奥で響いている。
恐らくトゥイーディアには、周囲の様子など見えてもいるまい。
「――陛下に何をした」
呼吸すら詰まらせながら、辛うじてトゥイーディアがそう言った。
――俺たちは一斉に瞬きした。
この状況にあってなお、予想外の一言に対する驚きが仕草に表れた。
陛下? つまりは――レイヴァス国王?
お父さんに何かあったんじゃなかったのか?
「……ふ」
ヘリアンサスが、声を殺そうとして失敗したかのような、漏れ出る笑みを零した。
背後のテーブルに右肘を突いたまま、左手を持ち上げて口許を隠す。
そして数秒、必死に笑いを堪えるかのような間を取ってから、ヘリアンサスは左手を下ろして真面目腐った声を出した。
「――それはご想像にお任せするけれど。でも、まあ、こう思っておきなよ」
ぱちん、と左手の指を鳴らして、ヘリアンサスは平然と。
「きみが色々と勝手をするから、そのつけが回ってきたんだよ」
「――ふざけるな」
トゥイーディアがヘリアンサスに詰め寄った。
かつりと鳴った靴音が、魔力を拾って有り得ないほど深く響く。
「私はあのとき、陛下の書状を検めた。魔界から戻って来た後にはこの国の皇城でお言葉も賜った。
――ただの一度も、私は、アーヴァンフェルンで救世主として尽くすことを、禁じられたことなんてない」
断言したトゥイーディアの言葉の意味が、俺にはすぐには分からなかった。
恐らくはカルディオスも、アナベルもそうだった。
即座に反応したのはディセントラとコリウスで、コリウスが愕然と目を見開く一方、ディセントラが息を呑んで立ち上がった。
――いつの間にかヘリアンサスの魔法は解けていて、俺たちの身体は動くようになっていたのだ。
ディセントラの動きでそれに気付いて、俺たちは一斉に席を立つ。がたんっ、と長椅子が動く。
だが俺たちは動けない。
恐怖に急かされて立ち上がっても、ここでトゥイーディアを見捨てて逃げることが出来ない。
なぜならば俺たちは、まだ辛うじて仲間でいるから。
そしてディセントラに至っては、ヘリアンサスの魔法が解けていることへの驚きすらも一欠片もなかった。
彼女の淡紅色の瞳には、驚愕以上の恐怖が映っている。
――それを見て、俺も漠然と、自分の予想よりも数段悪い事態が起こっているのだということを理解し始めた。
――背筋が冷える。呼吸が苦しい。
トゥイーディアはディセントラの方へ視線を向けなかったが、物音にヘリアンサスが振り返った。
新雪の色の髪を揺らして振り返り、ディセントラを黄金の瞳に映して微笑む魔王。
莞爾と笑んで、ヘリアンサスが囁く。
「――相変わらずだね、赤毛の女王。正解だ」
明白に、ディセントラの思考を読んだと分かる言い振りだった。
もはや大広間は閑散としていた。
俺たちの他には誰もいない。食事を途中で打ち切って、全員が逃げるように大広間を出て行ったのだ。
じっとりと湿っていた空気は跡形もなく消し飛んで、いま肌に触れるのは、トゥイーディアを基点として拡がる刺々しい空気だけだった。
石造りの床が、魔力に圧迫されて軋む音が微かに上がっている。
一番近いところにある蝋燭の炎が、魔力を孕んだ空気の流れに、引き千切れる寸前のように忙しなく揺らめいて影を躍らせている。
「……有り得ない」
蒼褪めた頬で、震える声で、ディセントラが断言した。
自分の思考が魔王に筒抜けになったらしいと気付いただろうに、それに対する感情は、嫌悪の一欠片でさえも声になかった。
視線はトゥイーディアに向かっており、声音にはただひたすらに、トゥイーディアのための恐怖が昇っていた。
「イーディには書状があった。間違いなくレイヴァス国王がトゥイーディアに、アーヴァンフェルンで任に服すことを許していた――今さら何を」
俺は息を吸い込んだ。
――もう一年も前になるあの日。俺たちが魔界に向かうよう勅令を受けたあのとき。
確かにトゥイーディアにはレイヴァス国王からの書状が届けられていた。
あの日、この国の皇城の大広間で、トゥイーディアはそれを検めて血判を押していた。その光景をまざまざと思い出す。
あの書状でトゥイーディアは、アーヴァンフェルン皇帝の命に服すことを、主君であるレイヴァス国王から許されていたはずだ――
どうして今になってあの書状が取り沙汰されているのか分からず、俺は茫然と瞬きを繰り返していた。
遠雷が轟く音が微かに聞こえる。
「――陛下に何をしたの」
トゥイーディアの声が、沸点を超えた怒りに軋んでいる。
「おまえ、――お父さまに、」
「僕がきみのお父さんに、直接何かをすると思い込んでいたわけだ、きみ」
ヘリアンサスがトゥイーディアを遮り、しゃらりと腕輪を鳴らして口許を押さえた。
笑いを堪えるのを隠すかのように。
「それで、こう思っていたわけだ、――『僕が何をしようと、オルトムント・リリタリスならば大丈夫に違いない』」
諳んじるようにそう言って、ヘリアンサスが立ち上がった。
黒いガウンの裾が足許にすとんと落ちる。
かつん、と靴音を鳴らし、ヘリアンサスは一歩動いて身を翻し、トゥイーディアだけではなく俺たち全員を見渡す位置に立った。
自分を睨み据えるトゥイーディアに微笑み掛けて、芝居がかった仕草で両手を広げて、白髪金眼の魔王は朗らかに告げた。
「さて、ところが、読みが外れた。――きみ、何て言われたの? それがちょっと気になるな。直截的に言われたの?
『あなたは反逆者の娘になりました』とでも?」
――反逆者?
俺は息を呑んだ。
カルディオスが目を見開くのが見えた。
アナベルは、衝撃に打たれたように全身の動きを止めた。
コリウスの、厭な予感が当たったとき特有の溜息を、俺の耳が拾った。
――反逆者?
書状の話が出たということと併せて考えると、――信じられないことだが、トゥイーディアがここで、アーヴァンフェルン帝国という国で、救世主として務めを果たしていることこそが、彼女の父の罪状として問われているということか?
なんで、と、最初にそう思った。
――筋が通らない。
トゥイーディアの行動と彼女のお父さんとの間の関連も薄ければ、そもそもトゥイーディアがここにいることに罪がない。
書状があった。つまりは国同士の約束があったはずだ。
国家間で取り決められた契約を反故にすることは、相手国に宣戦布告を勧めるかの如き愚行に他ならない。
そして同時に、レヴナントの被害が急増したこの国において尽力することを咎めるなど、人道にも王道にも悖ることだ。
俺の知るレイヴァス王国は――格式を非常に重んじるあの国は――そのような道理の通らない罪は問わないはずだ。
そして、一瞬遅れて理解が降って来た。
――だからだ。
だから、トゥイーディアは真っ直ぐにヘリアンサスに詰め寄ったのだ。
通常ならば有り得ない罪が問われているこの状況において、それを招いたのがこの魔王に違いないということを、考えるまでもなく悟って、問い詰めるためにここまで引き返して来たのだ。
――ヘリアンサスの言葉に、トゥイーディアは応じない。
ただ、ヘリアンサスに向かって更に一歩を詰め寄った。その全身が震えている。
魔力はいよいよ、痛みを齎すほどに空間いっぱいに張り詰めていた。
そんな救世主を首を傾げて眺め遣り、ヘリアンサスはわざとらしくも手を打ってみせる。
「ああ、失礼。違うね。――国家反逆の罪に問われているだけであって、まだ罪状は確定していないんだっけ」
トゥイーディアが手を振り上げた。
彼女の左の小指には、指輪の形をした武器が黝く煌めいていたが、それを抜こうともせずに素手を振り上げた。
ここまで直情的に動くトゥイーディアを、俺は見たことがなかった。
その直情的な動きを、ヘリアンサスが鼻で笑った。
そして、トゥイーディアの手を、振り下ろされる前に手を伸ばして掴んだ。
予定調和といった動きで――寸分の狂いもなく、予め知っていた動きをなぞるかのように。
トゥイーディアの手首をいとも容易く掴み取って、ヘリアンサスは微笑む。
「――このまま腕を折ってもいいんだけど、僕はきみが思う以上にきみに感謝してるんだ。多少の無礼には目を瞑ろう」
言い放って、ヘリアンサスはそのままトゥイーディアを突き飛ばすようにして手を離した。
短い距離をよろめいたトゥイーディアが、咄嗟に一歩前に出たカルディオスに抱き留められて体勢を立て直す。
そして、カルディオスの方は振り返りもせず、弾けるように怒声を上げた。
「おまえ――お父さまに手を出そうとすることだけでも許し難い、よくもこんな――」
声を詰まらせたトゥイーディアの心情を、俺は推し量ることしか出来なかった。
――トゥイーディアのお父さんは、騎士だ。
レイヴァスでの騎士の位は高い。
国に対する忠誠心、国王からの信頼の篤さが問われる地位だ。
その地位にある彼が反逆の罪に問われたとなると、名声に塗られた泥は拭い難い。
それだけでなく、もしも仮に罪が確定してしまえば、騎士の位にある者に対する反逆罪の罰は苛烈を極めるだろう。
平民ですら死刑台を踏むことが間違いない罪だ。
国王の剣であるべき騎士に対する罰は、常軌を逸するものになるはずだ。
トゥイーディアの瞳に浮かぶ激情を何と呼ぶのか、俺にはもう分からなかった。
――父を案じる情愛。
父を失うことへの恐怖。
父の現状に対する危機感。
父の尊厳と矜持を傷つけられたことへの義憤と嚇怒。
そしてそれを招いたのが自分であるという罪悪感。
そしてそれよりも大きな、俺には想像のつかない何かを所以とする罪悪感――
「――“許し難い”?」
ヘリアンサスが首を傾げた。そして、衒いもなく言い放った。
「おかしなことを言うね。言ったでしょ?
――僕が何をしようが、誰をどうしようが、それは僕の勝手だ。当然の権利だ。
――そしてきみが、」
真っ直ぐにトゥイーディアを指差して、ヘリアンサスは明瞭に。
「きみが僕を許すも許さないも――いや、その前提からだ。きみが僕に怒りを覚えるのも覚えないのも、本来ならば僕の許しを得てからの情動と思え」
傲然と告げて、しかし直後にヘリアンサスはにっこりと微笑んだ。
黄金の目が柔和に細められた。
「――とはいえ、今回は許そう。きみに働く情動の全部を、僕は歓迎するよ」
「は……?」
トゥイーディアの表情が、初めて激情以外の感情を映した。
――即ち、困惑。
ヘリアンサスの暴論に惑ったのではなかった。
むしろ、目の前の魔王が何を言っているのか分からないといった風情だった。
茫然と飴色の瞳を揺らして、トゥイーディアが吐息に載せたような問いを吐き出す。
感情の抜けたような声で。
周囲一帯に立ち込めていた魔力の気配が、明白に薄らいだ。
「……おまえ、……何がしたいの――?」
一瞬、ヘリアンサスが驚いたように目を見開いた。
この瞬間のトゥイーディアから、その問いが出て来ることは予想していなかったようだった。
だがすぐに余裕の笑みを浮かべて、しゃらんと腕輪を鳴らして手を組んだ。
「そうか、推測も立たないか――当然だ」
訳知り顔の微笑で、ヘリアンサスは俺たちを見渡した。
「じゃあ、お馬鹿なきみたちに説明してあげよう。本来なら不要のことだけれど――」
蕩けんばかりの黄金の瞳にトゥイーディアを映して、ヘリアンサスは口許を綻ばせた。
「――きみには随分と楽しませてもらっているからね。まあ、その分腹立たしい思いもさせられているけれど、ルドベキアに比べればましだ。これは僕の厚意だと思ってほしいな」
遠雷の音が微かに聞こえる。
どこからかびゅうびゅうと風が鳴る音が耳に届く。
灯火が揺れて、大広間の中で影が踊る。
暗がりを際立たせるその陰影。
すっ、と右手の人差し指を立てて、ヘリアンサスは、まるで陽気な学者が取って置きの新説を打ち明けるかのように、声を潜めて囁いた。
「――僕の目的はね、『対価』を払うこと」
「…………」
その言葉の意味を取りかねて、眉を寄せたのは俺だけではなかった。
――対価を払うことが目的?
そんな馬鹿な話があるだろうか。
対価は取り立てられるもの。
それをわざわざ支払うことを目的にするような、そんな奴がいるだろうか。
俺たちの理解が追い付いていないのを正確に見て取って、ヘリアンサスは苦笑した。
そして、立てた指を振る。ひょいひょい、と、猫をじゃらすみたいに。
「分かってないね。――何のための『対価』なのか、まずそこを訊いてほしいな」
出来の悪い教え子を叱責するかの如き口調でそう言って、ヘリアンサスは右手と左手の指先を合わせた。
五指をそれぞれ合わせて、人差し指だけを互いにくるくると回す。
「魔力の丈を超える魔法を使うとき、本来なら存在しないはずの魔法を使うとき、何が必要になると思う?」
囁いて、ヘリアンサスが微笑む。
火傷の痕の残る頬でなお、嬉しそうに。
「『対価』だ。魔力の丈を補う『対価』。
この世の法を書き換えるに足る『対価』だ」
ここでしばし口を噤んで、ヘリアンサスは何かを考え込んだ様子だった。
言葉を選ぶようでもあった。
しかしすぐに口許を綻ばせて肩を竦める。
「どうして『対価』を払うことが魔力の丈を補うことになるのか、話してもきみたちには分からないだろうね。――本当なら、ルドベキアが知っていたことなんだけど」
俺に視線を向けて、ヘリアンサスは黄金の瞳に翳を落とした。
そして口許だけで微笑んで、低く呟く。
「この馬鹿者め。全部忘れてしまっているものね。
――でも、まあ、そうだね……。疑似的な魔力を生むものだと思えばいいよ。足りない魔力を、あの子が魔力であると認識する別種別方向の“何か”で補い、あの子を騙す――」
息を吐いて、ヘリアンサスはまたいつものように、俺たちを馬鹿にし切った明るい笑顔を浮かべた。
俺たちの相槌を求めることもなければ、俺たちの反応すら見てもいなかった。
俺たちが自分の言葉を聞いているということを、確信しているがゆえの話し方だった。
「――僕の魔力は無尽蔵だけど、存在しない魔法まで楽に使えるわけじゃない」
さらりと恐ろしいことを口にして、ヘリアンサスは得意げに唇の端を吊り上げる。
「だから、『対価』を考えたんだ」
その口振りが、頑是ないまでの誇らかさが、この魔王の外見年齢相応よりもなお幼く聞こえた。
声の根底に流れる嗜虐性さえなければ、本当に――小さな子供が何かを自慢しているようでさえあった。
ヘリアンサスの黄金の瞳がトゥイーディアを見た。
間違いなく、今この瞬間、トゥイーディアだけを見ていた。
対するトゥイーディアは、どこか茫然とした顔だった。
何を言われているのか、咄嗟に理解が追い付いていないようでさえあった。
向かい合う魔王と救世主。
笑みに細められる黄金の瞳と、茫然と見開かれる飴色の瞳。
「――僕がどうして、きみの婚約者だなんていう、吐き気がするような地位にいると思う?
ずっと――本当にずっと、色々と考えていたんだ。
僕の方でやっと準備が整ったのが、前回のきみたちと会ったときだ。ルドベキアを魔王に返り咲かせる算段は付いていたけれど、そう言ってやったときのきみの顔は、今でもちゃんと覚えてる。
世界は僕に味方した。前回、きみが正当な救世主だった――」
灯火の光を弾く黄金の双眸が、いっそう嬉しげに細められる。
純白の睫毛に霞が掛かる。
遠雷の音が、石造りの壁を通してさえ聞こえてくる。
「――もう千年も二千年も前になるけれど、あるいはもっと前になるけれど、きみが僕のいちばん大切なものを盗んだ。
ならば『対価』は、きみに纏わるものが相応しい。それが因果というものだ。――ずっとそう、思ってた……」
トゥイーディアが何かを言おうとした。
だが、それを完璧に遮って、一声たりとも彼女に漏らさせず、ヘリアンサスが宣言する。
「――僕が選んだ『対価』は、きみのお父さんだ、ご令嬢」
俺の呼吸が止まったが、それは傍目には分からなかっただろう。
他のみんなの反応は――コリウスでさえも――顕著だった。目を見開いてトゥイーディアへ視線を移す。
表情は各々で全然違っていたが、危機感だけは共通していた。
そしてトゥイーディアは、何を言われたのか呑み込みかねているような顔だった。
は、と小さく声が漏れたが、それも無意識のことだろう。
だが、忽ちのうちに正気に戻って、瞬きののちには怒気が表情に広がった。
息を吸い込み、トゥイーディアが激昂した声を上げる。
「……おまえが言う“私”は、“お父さまの娘じゃない私”でしょう、お父さまに何の関係がある!
――どうしてお父さまを……!」
「なぜならきみが、滑稽にもきみの今のお父さんを、本物のお父さんだと思っているからだ」
打てば響くように、ヘリアンサスが応じた。
その声音には、いつものような、相手を小馬鹿にする響きはなかった。
むしろ厳粛でさえある声に、トゥイーディアが絶句する。
そんなトゥイーディアをしばし眺めて、ヘリアンサスは表情と声音を一変させる。
いつもと同じ、相手を馬鹿にして楽しむものへと。
その表情のまま、ヘリアンサスは芝居がかった仕草で頭を下げた。
慇懃無礼に、まるで紳士の格好をした道化が山高帽を脱いで挨拶するかのように。
顔を上げて、新雪の色の髪を顔から払って、ヘリアンサスは明瞭に告げる。
「本当に感謝するよ。『対価』は、対価であるがゆえに、そのものの価値が大切になる。
僕の望む魔法はかなりの無茶だから、『対価』には相応の価値が必要だ」
ヘリアンサスは嬉しげに、陰惨に、いっそう深く微笑む。
トゥイーディアは言葉を失ったかのように、ただただその黄金の瞳を見詰めていた。
「――世界とは客観で、客観とは無数の主観だ。
だから『対価』の価値は、その主観に遵う」
トゥイーディアが息を吸い込む。肩が震えた。
そんなトゥイーディアからすっと視線を外し、ヘリアンサスは俺たちを見渡した。
カルディオスを見てからアナベルとディセントラへ視線を流し、俺を見て、コリウスに視線を当てた。
それから俺に視線を戻し、またトゥイーディアへと瞳を向ける。
黄金色の毒が撒かれたかのようだった。
「――残念ながら、僕に親子の情なんてものはない」
ヘリアンサスが歌うように囁く。内緒話をするみたいに。
「それでも幸い、僕はルシアナを知っているからね。親子の情――それそのものの価値は分かる。だから対価として立てられる。
術者である僕の理解があるからには、あの子もきっと受け取ってくれるだろう」
トゥイーディアに向かって、ヘリアンサスは指を振る。
天秤の二つの皿を指差して、それらが釣り合っていることを確認するかの如くに。
「どうやらきみが定義する親子の情は、僕の千年の妄執に匹敵するらしい」
感嘆すら籠めて囁いて、ヘリアンサスはこの長い人生で俺が初めて見る仕草をした。
――即ち、手を伸ばしてトゥイーディアの頬を指先で撫でたのだ。
いっそ優しげな手付きだったが、この魔王がトゥイーディアに触れたというそれだけで、俺の内臓全てが捩れたかのようだった。
テーブルを乗り越えて、割り込んで、トゥイーディアを庇って立ちたい――
――それら全てが代償に阻まれる。
ヘリアンサスの白魚の手に撫でられるトゥイーディアの頬は蒼白で、透き通るほどに蒼褪めていた。
表情と呼べるものは欠片も浮かんでいなかったが、僅かに怯えたようにも見えた。
カルディオスが手を上げたが、ヘリアンサスの視線がふと翻って彼を見た途端、動きが止まった。
ふ、と息を漏らして微笑んで、ヘリアンサスはトゥイーディアに目を戻した。
にっこりと、まるで賞賛するように湛えられた笑みの恐ろしさ――
「きみが心からきみのお父さんを大切にしていること、その存在に世界すべてに匹敵する重さを置いていることを感謝しよう。
そのきみの主観があるからこそ、僕はきみのお父さんを、僕のための『対価』として成立させることが出来そうなんだから」
そこまで言って口を噤み、ヘリアンサスは視線を少しばかり泳がせて、呟いた。
「――いや、それだけじゃないかな。きみのお父さんが勝ち得た感情の全部だね。
あの人、巷では英雄とも言われている人だろう? 本当に、そんな高名な人を親としてきみが生まれてくれて良かったよ」
心からの安堵すら籠めてそう言って、ヘリアンサスはトゥイーディアから手を離した。
途端、トゥイーディアが、今の今まで呼吸を止めていたと分かるほどに深く、息を吸い込んだ。
そんな彼女を、明瞭に嘲笑の眼差しで見て、ヘリアンサスが一歩下がってトゥイーディアとの距離を開けた。
「僕がきみのお父さんの何を『対価』に立てたのか、それは好きに想像してくれ。
命か名誉か、思い出だって『対価』たり得る。
――その対価を、僕のために僕以外の者が手に入れること、それが僕の支払う『対価』だ。
どうやらあの子にとって、僕が僕のために対価を手に入れることは、余りにも容易いと判断されることらしいね」
ぱん、と手を叩く。しゃらん、と腕輪が鳴る。
「きみのお父さんの“何か”と、僕が対価のために払う労苦。
その二つを『対価』にして、僕は千年前――あるいは二千年前に逃したものと、生涯最大の嘘で穢したものを取り返す」
ヘリアンサスが笑顔を消した。
そして、腕輪を鳴らしてトゥイーディアに指を突き付ける――宣戦布告の合図のように。
「さあ、ご令嬢、きみは盤上遊戯の差し手でもある。
手を出すか、出さないか、それはきみの自由だ」
言い切って、そして一拍を置いてから、注釈を入れるように付け加える。
「もちろん手を出すならば、それが“救世主”としての行いを逸脱することを承知していてくれ。
――何しろ対価を払って為す僕の魔法は、断じて魔王としてのものではないからね。
誰かの命を奪うものですらないよ、約束しよう」
歌うように宣言したヘリアンサスの、その言葉に嘘がないことを、俺たちは寸分違わず理解した。
――なぜならば、嘘を吐く必要がない。
こいつが明日に全世界の人間を惨殺すると宣言したとしても、それを俺たちが止めることも出来ないのは、つい先日に証明された通り。
だからこそ、この魔王には、嘘を吐いて誘うべき俺たちの油断がない。
嘘を吐くに足る理由がない。
それゆえの、言葉の信憑性。
言葉を失う俺たちを見回したヘリアンサスが、お道化た仕草で一礼した。
舞台役者の真似事みたいだった。
一礼から顔を上げてなお、ヘリアンサスの表情に笑みはなかった。
「それでは、ご令嬢。
――きみがこの盤上遊戯の席に着くかどうか、席に着かないならばその後のきみの行い全部を、席に着くならばきみの抗いを、どちらにせよ、僕はとても楽しみにしているよ」
胸に手を当てて、ヘリアンサスは首を傾げた。
黄金の瞳にトゥイーディアが映っている。
彼女の、茫然とした表情が。
「今日より先は、――約束しよう、僕がきみを軽んじることはない」
その言葉の通りに、揶揄う笑みの欠片もなく、ヘリアンサスは胸に手を当てたまま、事実を述べる淡々とした口調で続ける。
「僕に手を掛けるには――僕の影を踏むことさえも、きみでは足りない。
力が足りない。時間が足りない。重さが足りない。意思も足りない。何もかも足りない。器じゃない。
――だがそれでも、きみが彼に置く価値は、僕の妄執を贖うに足る」
まるでそれが最高の賛辞であるかのように言葉を贈って、ヘリアンサスは両手の人差し指を立てて、それを胸の高さでゆらゆらと揺らした。
まるで選択肢を二つ、目に見える形でトゥイーディアの前に並べるみたいに。
「きみがお父さんを諦めるか、それとも無駄に足掻いて血を流すか、どちらにせよ、」
ふ、と、ヘリアンサスの唇が歪んだが、それは小馬鹿にするような笑みではなかった。
挑戦的でさえある笑みが、火傷の痕が残る頬に浮かんでいた。
「――トゥイーディア・シンシア・リリタリス嬢」
黄金の双眸が、二つ並んだ灯火のように煌めいて瞬く。
「――ここからがきみの、今生の佳局だ」
4章はここからです。
活動報告も少し書いています。
よろしければご覧ください。




