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05◆ 帰着の刻

 どんどん明るくなる光景を見ながら、俺たちは荷車に乗せてもらってガルシアへ戻ろうとしていた。



 揺れる荷車に、俺は――というか多分、全員が――傷の痛みが煽られることを覚悟していたが、とうとう痛覚でさえも力尽きたかのように、全身に薄い膜が一枚張っているかのように、痛みすら段々と曖昧になってきていた。


 荷車とはいえ、結構大きなものである。

 二頭の馬に牽かれて、前方にはちゃんと御者台も付いている。

 さすがに乗客用の座席はないものの(だって本来の用途は人を乗せることではないからね)、大きさ的には無蓋の馬車と言ってもよく、ルインは多分、出発のときには相当に慌てていただろうに、夜明け前の寒さを勘案して毛布も積んで来てくれていた。



 ルイン曰く、自分が御者をやっているので、俺たちは荷台で寛いでいてくださいとのことだったが、


「――ルインそこ代わってくれ……」


 思わず顔を覆って、俺はルインの背中側のすぐ傍で呟いた。

 荷台と御者台の境に肘を突いて頭を抱える俺に、無言で手綱を取っていたルインは驚きの眼差し。


「……お怪我なさっている兄さんに、こんなことはさせられませんが――如何なさいました」


 俺は無言。

 答えられないというより、どう答えたらいいのか分からない。



 ――荷台の空気は、最悪の一言に尽きる。


 カルディオスが前方の端っこで膝を抱えて蹲っており、暗褐色の髪が荷車の震動と風のためにふわふわと揺れていた。

 膝に顔を伏せて動かないカルディオスの隣に、慣性でよろめく他は微動だにしないムンドゥス。

 彼女の、顔貌を除く全身は罅割れに覆われている――尤も、俺たち以外にその傷は見えないみたいだが――ので、荷車が揺れる度に、その罅割れから彼女がぱりんと割れていかないか、こんな場合でなければ心配になるところだ。

 銀の瞳に過ぎ去る景色を映し出しているムンドゥスは、姿形が完璧すぎることも相俟って、まるで陶器の人形を乗せているようですらあった。


 そんなムンドゥスから一人分くらいの空間を開けてディセントラ。

 荷車の縁に肘を突いて、赤金色の髪を風に遊ばせている。時々俺たちそれぞれを振り返って見ては、その度に悲しそうな溜息を吐いている。

 何というかこう、無条件で人を味方に着けるような美しさを持つディセントラのことだから、そんな顔を見ていると俺まで余計に悲しくなってくる。


 そしてカルディオスと対角線を成す位置にアナベル。

 ムンドゥス程ではないが無表情で、薄青い髪を風に靡かせて膝に肘を突き、頬杖を突いて、何を考えているのか全く分からない。

 がたん、と荷車が揺れる度に頬杖から顎を落っことして、かくん、と体勢を崩すところを見るに、こんなときだというのにこいつは眠気を覚えているのかも知れない。羨ましい限りの豪胆さだ。

 あるいは現実逃避の表れなのかも知れないが。


 コリウスはアナベルの傍――荷台の後ろで後ろ向きに座っているので、顔が見えない。

 ひとつに結った銀色の髪が、ゆらゆらと揺れている様子しか見えない。


 全員無言。

 ひたすらに空気が重い。


 お互いが色々と過敏になり過ぎた結果、毛布に手を伸ばすことさえ躊躇われ、毛布は荷台中央に積まれたままとなっている。

 荷台の揺れに合わせて、ゆさゆさと揺れる毛布がなんだか虚しい。



 顔を押さえて黙りこくる俺に、ルインが首を傾げたらしかった。


「……兄さん?」


 俺は息を吸い込んで顔を上げた。


「いや、ごめん――ていうか、おまえ」


 ちら、と、灰色の髪を揺らすルインを横目で見てから、俺は呟いた。


「何にも訊かねえのな。こっちまで引っ張り出したときもだけど」


 ぱちくり、と柘榴色の目を瞬かせてから、ルインがにこっとした。

 こいつも俺と――今の俺とは同い年の十九歳のはずだけど、それにしては純真無垢な笑顔だった。


「はい。兄さんは色々とお考えでしょうから」



 がたん、と荷車が揺れる。

 柔らかい地面を馬の蹄が踏む、ぽくぽくと規則正しい足音。


 夜明けの温かさを含んだ風が吹く――潮の匂いがする。

 それに、春の匂いがする。

 丘陵地帯を吹き渡る風が、春の香りを連れてきている。


 左右に視線を向ければ、地平は既に春の霞に煙っている。


 行く手には、もうガルシアが見えていた。


 先日のガルシア戦役の爪痕が深い、半壊した都市。

 夜明けの白い光の中に黒々と影を落とす、海辺の要塞。



「――その『兄さん』もぼっこぼこにやられてんだけど。それについては何かないの。幻滅とか」


 ぼそ、と呟いた俺に、ルインが目を見開いた。

 まるで、「その考えはなかった」と言わんばかりの表情だった。

 それからちょっとだけ考え込む様子を見せてから、口を開く。


「……いえ、正直――物見台からも、様子は見えたのですが」


 見えてたんだ。

 いや、まあ、位置関係からしてそりゃあ見えてたか。


 怖い思いさせただろうな、と思って顔を顰めていると、ルインは考え考えといった調子で呟いた。


「兄さんのことは――無論、お強いと存じてはいましたが、思っていたよりずっとでした」


 負けたんだけどね。


 はあっと溜息を零すと、ルインは自分の返答が俺の気に障ったと思ったのか、ちょっとびくっとしてから、付け足すように言った。


「兄さんが事ある毎にムンドゥスを会わせないようにと言っていた、白い髪に金の目の、あれが兄さんの敵ですね」


 俺は思わず、ははっと乾いた笑い声を上げた。


 ――“あれ”って。一応、あれが魔王なんだけど。

 ルインも一応魔族だから、本来ならば恭順して然るべき相手だ。


 だが、まあ、否定する内容ではない。


「うん、そう。敵っつうかかたきっつうか、もう、そういうの」


 がくん、と項垂れてから、俺は呟いた。


「別にもう、あいつにムンドゥスのこと会わせてもいいよ。あいつ、俺たちの予想とは違って、ムンドゥスにはあんまり会いたくないらしいしな。会わせたら嫌がらせ程度にはなるかも」


 僕に近付くな、と、ヘリアンサスはムンドゥスに向かって言い放っていた。

 そもそもあいつがムンドゥスに向かって言った第一声が、「動くな」である。


 ムンドゥスはヘリアンサスに懐いているようだが、ヘリアンサスがムンドゥスに向ける感情は度し難い。


 ルインが、俺の台詞を、冗談なのか指示なのか図りかねるといった顔をしたので、俺は「冗談だよ」と付け足した。

 ルインはほっとしたように表情を緩めてから、ちら、と荷台の方を振り返って、


「――あの、皆さま……」


「あんまりそっちは訊かないでくれ」


 自己防衛本能丸出しでそう言った俺に、ルインは言葉を呑み込んだ。

 ごくん、と言葉を呑んだ様が見えるようだった。


 ――がたこん、と荷馬車が揺れる。

 なんだか自分が牛や豚になって運ばれている最中のような気がしてきた。


 ルインとの会話を勝手に打ち切って、俺は目を閉じた。


 荷馬車はそれほど速度を出しているわけではないから――多分ルインが、あんまり揺れないように気を遣ってくれているのだ――向かい風が激しく顔にぶつかるということもない。

 額と頬に空気の流れを感じるくらいだ。

 時折そこに天然の風が混じって、生まれたての太陽に温められた空気がゆっくりと流れていく。


 ――みんな、何を一番にショックに思ってるんだろう、と、俺はふと思った。


 俺としては、ヘリアンサスの言葉の全部が衝撃だった。

 みんなは何だろう――コリウスが俺たちを信じていなかったことだろうか。

 それとも代償の成り立ちへの疑いだろうか。

 それとも俺たちが、コリウスの好きな人を殺してしまったという事実だろうか。

 あるいは誰かは、俺が〈呪い荒原〉を作り出したかも知れないという可能性を、真面目に検討しているのだろうか。


 ――トゥイーディアは。


 トゥイーディアは、何にいちばん衝撃を受けたんだろう。


 彼女だけは、コリウスの代償を知っていたのだ。

 知っていてなお、トゥイーディアは態度にも表情にもそれを昇らせなかった。


 だからもしかしたらトゥイーディアは、その秘密を守り切れなかったことに対してこそ、あれ程ショックを露わにしたのかも知れない――


 瞼の裏に、飴色の瞳が浮かんできた。

 俺にとっては闇夜の灯火に等しいあの輝き。

 子供っぽいくせに優しくて、色々と抱え込もうとし過ぎて、一人で頑張り過ぎるトゥイーディア。

 他人のことにはうるさい程に過敏なのに、自分のことは自分一人で何とかしようとしてしまう、愚かしいまでに一生懸命なトゥイーディア。



 ――お父さん、何もなければいいんだけど。



 ふとそう思って、俺は息を吐いた。


 俺が(その他数名と一緒に)地下に閉じ込められたとき、助けに来てくれたのはトゥイーディアだった。

 そこから脱出までの間に、彼女は故郷の話をしてくれたが、今の彼女は本当に、心から、今のお父さんを愛している様子だった。



 だから、お父さんに何かあったら悲しむだろう。



 ――トゥイーディアのお父さんのことを想ってというよりは、彼に何かあることでトゥイーディアの顔が曇ることを恐れて、俺は一度顔を見たっ切りの、そしてその面差しすらももう忘れてしまった今生のトゥイーディアの父親、オルトムント・リリタリスのために、しばし祈った。





◆◆◆





 俺たちがガルシアに帰り着いたのは、ガルシアの瓦礫の撤去作業の開始と、ほぼ時を同じくしてのことだった。


 ガルシア戦役で半壊した都市の瓦礫はまだ堆く積もっており、瓦礫は荷車で運搬されて海に捨てられることになっているが、なかなか海岸まで運べないというのが現状だった。


 コリウスが瓦礫を纏めて運ぶ――というか、吹っ飛ばす――という手もあるにはあったが、誰かの遺体がその中に紛れてしまっていては困る。

 何しろ弔えなくなるし、永遠にその人を捜し続けることになってしまう遺族の方々に、それは余りにも申し訳ない。

 そのために、まずは人の目で瓦礫の山を検める必要があるのだ。



 救世主がぼろぼろになって戻って来たということで、市街に入るなり俺たちは大注目を浴びたが、それはもうどうでも良かった。

 平時であれば気まずさのひとつも覚えたのだろうが、今はそこまで心を割けない。



 さすがに荷車のまま、高低差のある市街を抜けて行くのは不可能なので、俺たちは気力と根性の限りを尽くして、自力で市街を抜けねばならなかった。


 荷車はそのまま瓦礫の傍の一画に置いて、ルインは相当心配そうな顔をして俺に付き添ってくれたが、トゥイーディアが廃村からガルシアまで一人で踏破したことを思えば俺は頑張れる。

 精神的に限界だろうカルディオスに付いていてやって、とお願いすると、ルインは不承不承といった様子ではあったが言う通りにしてくれた。


 ちなみにこのとき、コリウスの方を名指ししなかったのは、単純にコリウスの内心を測りかねてのことだ。

 ――あいつがもしも、一人になりたいと思っていたら、傍にルインが来たら鬱陶しいだけだろうし。


 なお、カルディオスの隣にはムンドゥスがぴったりとくっ付いて歩いていたが、いざカルディオスが倒れそうになったときに、この芸術品のような少女ではとてもではないが支えにはなるまい。



 ガルシア市街の廃墟と化した街区には、辛うじて瓦礫を撤去した道が設けられている。


 そこを通り、市街の中心に近いところに行き着けば、何事もなかったかのような平和な町並みを望むことが出来る。

 あのときの俺たちの奮戦は無駄ではなくて、全壊した街区はごく一部なのだ。


 そこをひたすら砦を目指して歩くに当たっては、もはや夢の中を歩いているが如しだった。

 進めども進めども進んだ感じがなくて、空気は重くて、その沈痛な空気が、肺腑を通って全身に行き渡って足を重くしているような気がした。


 砦に向かって緩やかな上り坂を描き、段差も随所にある道を、俺は足を引き摺って歩くのがやっとだったが、それが負傷や失血に起因する体調ゆえのことなのか、あるいは心情ゆえのことなのか、それは自分でも判断がつかなかった。


 耳の奥には自分の靴音だけが響いていて、周囲に人がいたのかどうか、いたとしてどんな目で見られていたのか、もはや意識にも昇らなかった。




 ――そうして、ようやっと砦前の城壁に行き着く。


 ここまではルインも付き添ってくれたが、ルインは砦には入れない。

 めちゃめちゃ心配そうな顔ながら、ルインがムンドゥスを連れて離れようとする――ここで一悶着。


 ムンドゥスが俺たちから離れようとしないのだ。


 正確には、カルディオスから離れようとしない。

 ヘリアンサスの言い付けを守ろうとしているのか何なのか。


 小さな手で、ぎゅう、とカルディオスの外套の裾を掴んで強硬に動こうとしないその様子に、はじめは面食らい、それから宥め(すか)してなんとかカルディオスから引き離そうとした俺たちだったが、余りにも意固地なムンドゥスの様子に、当のカルディオスがぶち切れた。


 普段なら、「いーよいーよ」とにこにこしながらムンドゥスを寮まで連れて行ってこっちに戻って来るか、あるいは彼女に掴まれている外套をばさっと脱いでしまうか、そんな風にあしらいそうなこいつではあるが、もう色々と限界だったんだろう。


「ふざけんなてめぇ!」


 と、小さな子供相手に怒鳴るカルディオスを、俺は人生で初めて目の当たりにした。

 周囲から人の目が集まるのを、ガルシア市街に入ってから初めて肌に感じた――それほど驚いた。


 驚愕したのは俺だけではなかったが、ディセントラが涙ぐみながらカルディオスを宥めている間に、怒鳴られたことでびっくりしたのか、カルディオスから一歩離れたムンドゥスをルインが回収。

 後ろから抱き上げられて足が宙に浮いたムンドゥスは、無表情ながらもどこかきょとんとした風情だった。大きな銀の目に、激昂に息を荒らげるカルディオスが映っている。


 そんなムンドゥスを抱き上げたルインも、意外そうに目を瞠っていた。

 短い付き合いではあっても、カルディオスが子供に怒鳴るような奴ではないということは分かっていたのだろう。


 アナベルも困ったように――あるいは呆れたように額に手を当てていたが、コリウスはカルディオスの方を見ていなかった。

 砦の方を振り仰いで、一人だけ我関せずといった態度をとっていた。


 ディセントラはまたもぼろっと涙を零したが、俺もそろそろ泣きたかった。

 なんなんだ、これ。こんな雰囲気、俺は経験がない。

 喧嘩ならそれこそ何百回もしてきたが、こういう膠着状態じみた薄氷のような空気なんて、今まで一度も味わったことがなかった。



 とにかくルインにムンドゥスを任せて、俺たちは砦の中へ。

 ルインからすれば、わざわざ砦まで来てから寮へ引き返した流れになるが、それだけ俺たちを心配してくれたということだろう。


 砦への城門を潜るに当たっては、直前の騒ぎを目の当たりにしていた門を守る当番からでさえ、驚きの目を向けられた。



 砦の中に入れば、さすがに周囲を無視していられない。

 宿舎へ向かう短い距離の中でさえ、隊員たちが、茫然とした――あるいは愕然とした顔で俺たちを見ているのを感じた。


 まあ、救世主が無断で砦を空けて、かつ傍目から見ても分かる重傷で戻って来たとあっては妥当な反応か。


 ただでさえ今は、ガルシア復興のためにあれこれと救世主が頼りにされている局面。

 まず、俺たちがどこへ行っていたのか。そして、そこで何があったのか。その二つについては、どんな馬鹿でも疑問に思って然るべきことである。


 しかしそれでも俺たちが、何があったのか問い詰められないのは、俺たちが救世主であるという遠慮のため――そして、俺たちの間に漂う余りにも重い雰囲気のせいだろう。


 ひそひそと囁き合う声があちこちから聞こえてきたが、もうどうにでも言ってくれという気分。


 本来なら色々やることがあるのかも知れないが、俺たちにそこまでの気力はなかった。

 もうこのまま真っ直ぐに、安心して休める場所まで行って、そこで何もかも忘れてぐっすり眠りたい。

 そしてあわよくば、この現実が夢だった世界で目を覚ましたい。


 傷の痛みですら曖昧になっているこの状況、本当に今この瞬間は夢じゃないんだろうか。


 そう願いつつ、俺たちは宿舎へ足を踏み入れた。

 俺とディセントラが先頭を争うような格好になったが、これはもう、二人ともがカルディオスとコリウスの様子を見ていたくなったがためだ。


 宿舎の大広間に足を踏み入れた瞬間に、そこで朝食を摂っていた隊員たちから集まる視線。

「リリタリスのご令嬢だけじゃなかったのか」「何があった」「どうなさった」みたいな声がどよめきのように上がったが、俺やアナベル、そしてコリウスのみならず、いつもなら愛想を振り撒くディセントラとカルディオスでさえそれを黙殺した。


 そのまま、テーブルの方へは視線のひとつも配らずに、大広間を突っ切って奥へ。

 今はとにかく休みたい。


 そうして突き進む最中、お怪我が、という声がして気付いたが、どうやら誰かの傷が開いて、床に点々と血が落ちているようだった。


 申し訳ない、誰の傷だ、塞がないと――と思った次の瞬間に、俺はその血が自分の掌の傷から滴っているものであることに気付いた。


「――――」


 掌は――というか、指先に至るまでが――、分厚い手袋越しに感触を覚えているかのように現実味がなく、痛みすら朧ろにしか感じない。


 痛くないからまあいいか、と考えて顔を上げ、俺は大広間から通路に降りる数段の階段を降りようとして――



 ――驚きと安堵に、危うくそこで膝を折りそうになった。



 思わず涙すら出そうになったが、俺のその情動は顔に出ない。態度にも出ない。


 代わりのように、ディセントラが小さく叫んだ。


「――イーディ!」



 トゥイーディアがそこにいた。



 階段を下ってすぐのところ、中庭に向かって開いた大きな窓を額縁のようにして、トゥイーディアが横顔を見せて立っている。

 俺たちよりも先にここまで帰り着いていたはずだが、着替えてもおらず血塗れの軍服のまま。


 そして、一人ではない――メリアさんが一緒にいる。

 トゥイーディアがメリアさんの手を握って、何かを頼み込んでいる様子だった。

 右手でメリアさんの左手を握り、左手に、何だろう――何かを持っている。


 呼ばれてこちらを振り返ったトゥイーディアの表情は、メリアさんに向けていたものそのままの、切迫した表情だった。


 だが、俺たちを認めて一秒、ふあ、とその顔が緩む。

 春の新芽に煙る中庭を覗く窓を背にして、俺からすれば絵になるような表情だった。いや、絵にしてしまうのも勿体ないんだけど。


 飴色の瞳を細めて、トゥイーディアが口を開いた。

 こちらに向き直ろうとして、彼女が僅かによろめいたのを、メリアさんが手を伸ばして支えてくれる。


 メリアさんの表情は、もはや心配を通り越して怒ったようなものだった。


 自分を支えてくれたメリアさんに、小さく「ありがと」と囁いてから、トゥイーディアが改めて俺たちに目を向ける。

 頬は真っ白で今にも倒れそうだったが、声音はいくらかしっかりしていた。


「――良かった、ルインくんと合流できた?」


 開口一番にそう言ったトゥイーディアに、俺ですら言いたいことが喉元までせり上がってきた。


 ぐっとそれを堪える俺を他所に、ディセントラがもはや涙声で詰る。


「なんで、もう、なんで黙っていなくなるの……!」


「ごめんね」


 にこ、と力なく微笑んでから、トゥイーディアはメリアさんに向き直り、左手に握っていた何かを彼女に押し付けた。


 目を細めてよく見る――自覚がなかったが、どうやら疲労のためか失血のためか、目の焦点を合わせるのが難しくなってきているようだった――と、それはどうやら封筒のようだった。厚みのある紙の、大振りの封筒。


 ――トゥイーディア、一人で先に砦まで戻って来て、着替えもせずに手紙を書いていたのか。


 誰に宛てての手紙なのかは、さすがの俺でも分かる――お父さんだ。

 恐らくは近況を尋ねる手紙を、矢も楯も止まらずに(したた)めたのだろう。


 きちんと臙脂色の封蝋が押されたその封筒を、ぐい、とメリアさんに押し付けて、トゥイーディアは言った――先程までメリアさんに向かって告げていたのだろう言葉の、続きと分かる声音だった。


「――お願いね、飛脚(ゆうびん)をたくさん急かすのよ」


「承りますが、お嬢さま……」


 メリアさんは、ちらりと俺たちを見て声を潜めた。

 眉を寄せて、案じるようにトゥイーディアの顔を覗き込む。


「御父上とてお時間は限られているのですから、お手紙もそう頻繁に届くものではございませんよ。何もそれほどご心配なさらなくとも。

 ――それよりも今は、ご自身を。本当にどうなさったのです――」


「私は大丈夫よ。見た目ほど酷くはないの」


 きっぱりと言い切って、トゥイーディアはメリアさんの手を離した。

 そしてその拍子に、メリアさんの手の甲に自分の掌から血が移ったのを見て、申し訳なさそうに眦を下げる。


 それに対して嘆息したメリアさんに微笑んで――いつもより、無理もないが、力なく淡い微笑だった――、トゥイーディアが首を傾げて念を押す。


「ごめんね、メリア。でも、これからすぐにカーテスハウンまで行って飛脚を見付けてね」


「承知しました。ですからどうかお休みください。お嬢さまがそんなご様子であらせられては、わたくしもおめおめとお傍を離れられません」


 頑として言い張るメリアさんに、トゥイーディアは唇の端っこに苦笑を載せた。

 そして、ふ、と手を持ち上げて俺たちを指差した。


「大丈夫よ、みんながいるもの」


「お嬢さま……」


 メリアさんは憂い顔。


 まあ、そりゃそうだろう。

 俺たち全員重傷だし。

 とてもじゃないけど、トゥイーディアを抱えて部屋まで運んで行けるようには見えないだろうし。


 それに加えてメリアさんは、何があったのかを本気で訝る顔だった。


 メリアさんのその表情を正しく読んで、トゥイーディアはゆるゆると首を振る。

 疲れて気怠げな仕草だったが、有無を言わせぬ強さもある仕草だった。


「――メリア、救世主には色々あるのよ。じゃあ、お願いね」


 そうとだけ言って、メリアさんを手で促すトゥイーディア。


 メリアさんは数秒、迷う様子でトゥイーディアを見詰めていたが、「必ずお休みくださいね」とトゥイーディアに念押しし、彼女が頷くのを見て取ってから、くる、と踵を返した。


 俺たちに深く頭を下げてから、階段を上がって大広間へ向かって歩を進めるメリアさん。

 こつこつ、と足早な靴音が遠ざかっていく。



 その後ろ姿を見上げるようにして見送ってから、トゥイーディアが俺たちの方を見た。

 疲労の滲む表情で俺たち五人に順番に視線を当ててから、彼女が微笑む。


「……置いて行ってごめんね。なんかこう、じっとしていられなくて。きみたちを起こすのも忍びなかったし」


 そう言って、歩くというよりよろめくようにして、ふらふらと俺たちに向かって歩を進めるトゥイーディア。


 常ならば、誰かが進み出て彼女を支えそうなものだが、今は誰も進み出なかった。

 俺は代償のせいだし、他のみんなは多分、体調と心情のせい。


 結果として、自力でディセントラの傍まで辿り着いたトゥイーディアが、みんなを見渡してにっこりと笑うのを、俺はごく間近で見ることになった。


 トゥイーディアは――まるで、あのヘリアンサスの言葉一切を聞いていなかったかのように、いつも通りの柔らかい表情で微笑んでいた。


「ほんと、みんな()()()()だね……。休もっかぁ」


 語尾が柔らかく耳朶に触れる。

 闇夜の灯火のように温かくて明るい声だった。


 折れそうになっていた心に添え木をされるのを感じながら、俺はトゥイーディアの顔を見られずに、彼女の足許辺りを見ていた。


 トゥイーディアの軍靴には血の染みが出来ていて、一部は破れていて、全体的に赤茶けた灰色に染まっている。


 そうして俯いている俺には、誰の顔も見えていなかったが、恐らくみんながみんな、どんな顔をすればいいか分からないといった顔をしていたことだろう。


 その場から動くに動けない俺たちを、トゥイーディアは――恐らくは困ったような顔で――しばらく見ていた。


 それから、かつり、と靴音を鳴らして、トゥイーディアの靴が動いた。


 彼女が俺の方向に床を踏むのを、俺はぼんやりと見て取って、一拍置いてどきりとした。


 どきん、と心臓が脈打つのと同時に、トゥイーディアが手を伸ばして、そっと俺の左手を取った。


 傷に触れないよう、細心の注意を払ったと分かる繊細な仕草だった。

 彼女の指先に火が点いていたとしても、俺はこれほど鮮明にその感触を知覚することはなかっただろう。



 肌に触れたトゥイーディアの指先から、奇跡そのものみたいな温度が自分の中に流れ込んできた。

 死にそうになっていた心が、俄かに深呼吸したかに思えた。


 さっきまでとは全く違う意味で涙が零れそうになったが、そんな感情を表に出せるのならば苦労はない。



「――あ?」


 内心とは裏腹に、不機嫌極まりなく視線を上げた俺は、自分の目の前で微笑むトゥイーディアの飴色の目を見た。


 晴れた夕暮れのような優しい色合いの瞳が細められて、間近で俺を映していた。

 淡い金色に透けて見える睫毛が、それこそ春霞のように瞳の上に伏せられている。

 優しい陽射しみたいな蜂蜜色の髪は、くしゃくしゃに解けて血と粉塵に汚れていたが、正直そんなのは関係なかった。

 頬も額も、擦過傷と粉塵と血の汚れで損なわれていたが、それは、痛々しくはあっても欠点にはなり得なかった。


 俺の生涯を救うに足る、何よりも尊い微笑だった。


「そんなに嫌そうな顔しないでよ」


 ちょっと寂しそうにそう言ってから、トゥイーディアは唇の端にいっそう深く微笑を刻んだ。


 飴色の目が、少しだけ潤んだように見えて、俺はこんな場合だというのにほっとした。

 ――トゥイーディアは、辛いときも悲しいときも絶対に泣かない。


 彼女が泣くとすればそれは、嬉しいときや感極まったとき――あるいは悲しみの出口において、初めて涙を零すような人だ。


 だからもしも、ここで彼女が涙を見せるとすれば、それはこの状況において、何かが彼女の救いになったがゆえに違いなかった。


 すん、と小さく鼻を啜ってから、トゥイーディアが首を傾げた。

 飴色の瞳の中で、柔らかい光が揺蕩った。


 そして俺と目を合わせて、トゥイーディアははっきりと言った。


「ルドベキア、ありがと」


「……は?」


 俺の声は低く剣呑で、僅かたりとも俺の本心を映さない。

 そんな俺の口調に苦笑してから、トゥイーディアはなおいっそう、明るいまでの口調で続けた。


「コリウスを引き留めてくれたでしょ? ありがと」


「――――」


 俺は口を噤んだ。瞬きして、目を逸らした。

 どう応じていいのか分からなかったし、トゥイーディアが俺の返答を求めていないことも分かったからだった。


 トゥイーディアの手を振り払う体力すらも底を突いたがために、俺の左手は未だに彼女の手の中にある。

 指先に、彼女の肌の温かさを感じている。


 もしかしたら今までの人生の中で、これ程に長くトゥイーディアに触れていることが出来ているのは初めてかも知れない。



 ――トゥイーディアは今、俺に言葉を掛ける振りをして、コリウスに言葉を掛けている。



「コリウスがいなくなっちゃったら困るもの。――ほんとにありがと」



 コリウスを引き留めたのは俺だけど、彼女もまた俺と意見を同じくしているのだということを、婉曲にコリウスに伝えている。



 ――俺は人知れず息を止めていたが、それは目の前にいるトゥイーディアにも伝わらない。

 トゥイーディアにこそ伝わらない。


 俺の代償はそういうものだ。



 俺の顔をじっと見て、トゥイーディアは微笑を消して憂いに眉を顰めた。


 その表情の変化すら、眉の動かし方ひとつをとってさえ、俺が心底から彼女を愛おしく思っているなどということは露ほども知らずに。


「それから、今日はゆっくり休んでね。ものすごく顔色悪いわよ」


 いや、おまえも。


 そう思ったものの、それは口には出せなかった。


 無言を貫く俺に吐息を零して、トゥイーディアが俺の手を離した。

 ゆっくりと、丁寧に、俺の手を元の位置に戻すようにして、僅かの衝撃も与えないようにしてくれた。


 それから俺たち全員を見渡して、トゥイーディアが呟いた。

 俺に向かって言葉を並べることで最後の気力を使い果たしたかのような、疲れ切った声音だった。


「――ほんとに、もう休みましょ」


 ふう、と息を吐いて、トゥイーディアは疲れた口調の中に、少しの悪戯っぽさを滲ませる。



「今はもうみんな限界だから、階段から落っこちても助けは来ないわね。

 みんな、頑張って部屋まで戻るのよ」














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