04◆ 掬い上げるに重く
今生のトゥイーディアは、いつもに増して独断専行が過ぎるし、あれこれと一人で抱え込んでいる。
だが、何もこのタイミングでいなくなることないじゃん。
ディセントラとカルディオスは座り込んだままで、失血と疲労のために項垂れていた。
コリウスとアナベルは瓦礫の上を歩き回って、義理のようにトゥイーディアを呼んで捜している様子。
コリウスの傷の重篤な部分は塞いであるが、アナベルは大丈夫か――と思った直後、俺はアナベルの、砕けた足は戦闘中に何とか治癒を施したのだと思い出した。
――明けていく夜の最後の名残のように、瓦礫の上を朝靄が漂っている。
俺はふらつきながら立ち上がった。
もうそろそろ発狂しそうだ。
いなくなったのが、百歩譲ってディセントラとかアナベルならまだ冷静でいられたが、今この瞬間、いなくなってほしくないのはコリウスとカルディオス、それからトゥイーディアなのだ。
コリウスとカルディオスについて言えば、いなくなってしまうと俺たちの今後の関係に長い影を落としそうだから。
トゥイーディアについて言えば、彼女がいるのといないのとで、俺の精神状態が根本から違うから。
俺にとっての朝のいちばん眩しいところ、視界にいてくれるだけで勇気づけてくれる万能薬、声を聞くだけで安らげる生涯の想い人。
この場で泣き喚いてやろうかとちらっと思ったが、そんなことが出来るはずもなかった。
俺がどれだけトゥイーディアのことが好きで彼女に頼っているのか、その感情の発露は全て悉く代償に阻まれているのだから。
そのために、立ち上がった俺は――傍目には――極めて冷静に、よろめきながらではあったものの、迷いなくディセントラの方へ近付いた。
言うまでもなく治療のためだ。
傍に膝を突いて改めて見れば、暁闇の中にあってさえ、ディセントラの顔色の悪さは明白だった。
今はそれに加えて涙ぐんでいる。
くすん、と鼻を啜ってディセントラが呟くのを、俺は彼女の右肩を治療しながら聞いていた。
「――みんな眠っちゃったから、気付かなかったの……。
どうしたのかしら、あの子、こんなときにいなくなるような子じゃないのに……」
心配の余りに俺は吐きそうだったが、顔には一切それが出ず。
淡々と治療を進め、ディセントラの重篤な傷を塞いでいく俺の耳が、周囲をぐるりと歩き回ってから戻って来たアナベルの、陰鬱極まりない声を捉えた。
「――ねえ、これ、トゥイーディアが勝手に、一人でヘリアンサスにもう一回挑んでるってことも有り得るんじゃないかしら」
ディセントラの淡紅色の瞳から、ぼろ、と大粒の涙が零れた。
俺は思わずはあっと息を吐き、振り返ってアナベルを見て顔を顰める。
「おい、アナベル。ディセントラが泣き出したぞ」
「あら、ごめんなさい」
全く悪いと思っていない様子でそう言ったアナベルが、腕を組んで振り返った。
そちらに、やはり付近をぐるりと見て回って来たらしいコリウスが、瓦礫を踏んで戻って来ている。
「いた?」
「いなかった。ここから離れようとして、途中で倒れていることもあるかと思ったが」
疲れた声音のコリウスの言葉を聞きながら、俺は重篤な傷を塞ぎ終えた(ついでに、その間に泣き止んだ)ディセントラから離れ、カルディオスの方へ近付く。
カルディオスはコリウスの方を一切見ないようにして顔を伏せており、その隣に座っているムンドゥスは、相変わらずの無表情で明けゆく空を眺めていた。
鏡の色の大きな瞳に、深青の空の色が微かに映り込んで菫青石のように煌めている。
カルディオスの隣、ムンドゥスの反対側に膝を突いて、俺は彼の肩を叩いた。
「カル、どこが痛い?」
「……え?」
翡翠色の目を瞬かせて俺を見て、それからカルディオスは首を捻った。
「え? ……どこだろ、分かんね……、なんか立てないんだけど」
「…………」
こいつ、傷よりショックの方がでか過ぎて、もはや痛覚を無視してしまっているらしい。
俺は取り敢えず頷いて、一言断ってからカルディオスの軍服を捲り上げた。
確か蹴られていたのはこの辺だな、と思って腹部を見ると、思った以上の惨状。
肉が持って行かれたように抉れているその様相に、俺は素早く蓋をするように手を伸ばして治癒を開始した。
この状態では、そりゃあ立てないだろう。
――刻一刻と夜が明けていく。
夜から暁闇へ、そして朝焼けへと東の空が移り変わっていく。
青く澄んだ空に金の曙光が差し、そしてやがて赤みが差す。
赤と金が層を成して、まだ深青の色を示す中天との境目の、その一筋が白く見える。
「この近くにはいない」
「じゃあ、先に一人でガルシアに帰ったってこと?」
「……なんでそんなことする必要があるの? あの子も、負傷が完治してるわけじゃないでしょう?」
カルディオスの治療を終えた俺は、言葉を交わす他の三人の方を、膝立ちの姿勢で振り返った。
瓦礫の凹凸が膝に痛いが、そんなことは思っていられない。
やはりと言うべきか、声音こそ取り繕ってはいても、ディセントラもアナベルも微妙にコリウスから視線を外している。
コリウスは、そんなことには気付いてもいないと言わんばかりの様子で、顎に手を宛がって思案顔。
ただその指先が細かく震えているのが、明るくなりつつある視界の中では見えてしまった。
「トゥイーディアのことだから、ガルシアに戻って誰かを呼んで、僕たちをここから連れ帰るのに人手を確保する、というのは考えそうなことだが――、違うだろうな」
「ええ、でしょうね」
ディセントラが頷いて、半壊した廃村を見渡した。
朝靄に沈む廃墟は、いっそ幻想的な雰囲気すら醸し出している。
ディセントラもまた、傷が治り切っているわけではないから、その廃墟を見渡した動きは、強張ってゆっくりとしたものだった。
朝焼けの中で、赤金色の髪が暖炉の火のように照り映える。
「誰かを呼んでしまえば、この状況の説明が必要になるし……」
トゥイーディアが、俺たちの中から完全にいなくなってしまったんじゃないかという不安に、俺は吐きそうだった。
――確かにトゥイーディアには、コリウスのことについて、自分のせいだと言わんばかりの振る舞いがあった。
だけどそんな、このタイミングでいなくならなくても……。
トゥイーディアはそんな無責任な人じゃないけど、だがもうこの状況、何が起こるか分からない。
人に対する信頼というより、世界に対する信頼が一気に揺らいでいる気がする。
回復した僅かばかりの魔力ももうすっからかんで、俺は思わず瓦礫の上に座り込んだ。
カルディオスが、ぎゅっと俺の左腕を掴んでくる。
こいつはこいつで、多分、今はありとあらゆる意味で不安なはずだ。
取り敢えず、俺は気力を振り絞って、掴まれている方と逆の腕を持ち上げて、俺の腕を掴むカルディオスの手首を握り返す。
そのとき、ふ、と、ムンドゥスの大きな銀の瞳が俺たちを向いた。
今までは、移り変わる空の色を一心に見上げていたというのに、俺たちがお互いに縋り付き合うようにするのと同時に、滑らかに視線を落として瞬きし、俺たちに焦点を合わせた。
そして、こてん、と首を傾げたムンドゥスが、水晶の笛を鳴らすかのように高く澄んだ声を出した。
「――トゥイーディア?」
俺は思わず飛び上がった。
ムンドゥスが唐突に声を出したのに驚いたのと、トゥイーディアが戻って来たのかという期待が半々だった。
周囲を見渡したが、広がる瓦礫の上には、俺が心底から惚れている彼女の姿はなく――蜂蜜色の髪の一筋たりとも見えず。
カルディオスも同じように周りを見渡していたが、トゥイーディアの姿がないことを確認して、怪訝そうにムンドゥスに視線を向けた。
「おい、トゥイーディアがどこに行くのか、おまえ、見てたの?」
尋ねられて、ムンドゥスは瞬きする。
黒檀を彫り抜いて創ったかのような完璧な顔貌の中で、銀の瞳が鏡のように煌めく。
そして、無花果の色の小さな唇を開いて、ムンドゥスは答えた。
「見ていない、でも、」
もう一度瞬きして、ムンドゥスはカルディオスから俺に視線を移し、それからまたカルディオスを見た。
「カルディオス、ルドベキア。トゥイーディアを捜している?」
情動の削がれたような声で、しかし歌うように美しく尋ねられ、カルディオスが頷いた。
俺は肯うことが出来なかった。
恐らく、トゥイーディアを捜しているということを認めれば、その仕草ひとつにも俺の必死な思いが透けるからだろう。
カルディオスが頷いたのを見て、す、とムンドゥスの右手が持ち上げられた。
陶器に走る罅割れに見える傷に覆われた指が、真っ直ぐに北を――ガルシアの方を指差した。
「あっち。あっちにいる」
「まさか一人でヘリアンサスのところに行ったのか?」
即答じみたカルディオスの問いは、ムンドゥスに向けられているというよりは俺に向けられていた。
翡翠の目に、火花のように激しく混乱と恐怖が踊っている。
だが直後、ふるふるとムンドゥスが首を振った。
切り揃えられた黒真珠色の額髪が揺れる。
「ヘリアンサスは一人でいる。――会いに行かないの?」
そう問われたのは俺だったが、俺は無視した。
何を罷り間違って、俺がヘリアンサスのところに顔を出さないといけないんだ。
ムンドゥスの言葉を信じる理由もなかったが、トゥイーディアがこの周辺にいないとなると、心当たりはガルシアくらいしかないというのも確かだ。
さすがに猪突猛進が過ぎるトゥイーディアといえど、カーテスハウンまで行って汽車に乗ったりはしていないだろうから。
トゥイーディアはガルシアに戻っているんじゃないか、と、少し離れたところにいる三人に俺が伝えてみたところ、三人の意見も大体は俺と同じだった。
「――問題は、どうして先に自分だけ戻ったのかということだが……」
コリウスがぼそりと呟き、カルディオスがそれに応じて口を開いて、さっと目を逸らして顔を伏せた。
そして、俺にしか聞こえない程度の声で小さく言う。
――どうやら、コリウスと目を合わせるのも怖ければ、話をするのも論外だと思っている様子だった。
無理もないとは思うが、俺は胃の腑が捩れるような気持ちになった――カルディオスとコリウスの間に唐突に発生した、この蟠りと言うにも大き過ぎる障害を排除しなければ、俺たちは元には戻れない。
「……ヘリアンサスが、イーディのお父さんのこと、何か言ってたじゃん。だから心配になったんじゃねーの」
お父さんは元気かい、と言い放ったヘリアンサスの声が、俺の耳の奥にも蘇った――そしてその直後の、トゥイーディアの蒼白になった表情も。
確かにトゥイーディアからすれば、ヘリアンサスがお父さんに何をしたのか――何をしようとしているのか、恐怖さえ覚えていることだろう。
だが、それにしたって、俺たちを起こしてから一緒に砦まで戻ってくれてもいいのに。
それともトゥイーディアは、俺たちが親子の情なんていうものを理解していないことを分かっていて、相談するだけ無駄だと思ったんだろうか。
「――――」
どんどん思考が嫌な方向へ陥っていくのを自覚して、俺は息を吸い込んだ。
――駄目だ。今は疲れているし、余裕もないし、良くない精神状態だ。
今この状態で、何かを考えようとするのは良くない。
恐らくはみんなが、俺と似たような思考回路を辿ったことだろう。
「……じゃあ――」
ディセントラが言い差した。
全員を見渡して口を開こうとした。
「立てるか、歩けるか」と訊こうとしたことは明白で、だから俺はそれに先んじて、「大丈夫だ」と言おうとした。
だが、誰の言葉も結実しなかった。
かっかっ、と、規則正しい音が聞こえてきたのだ。
俺の耳に狂いがなければ、それは蹄の音に聞こえた。それも複数。
更に、車輪が回転するがらがらという音。
なんだ、誰だ、と、全員が口を噤み、音が聞こえてきた方向――北側、まだ辛うじて原型を留めている廃村の方向、朝靄の向こうを見据えて、しばし。
「――兄さん!!」
瓦礫の手前まで馬を進めて来たらしいルインが、血相を変えて瓦礫に攀じ登って、こっちに向かって走って来るのが見えた。
突然のルインの登場に、俺たちは軒並みびっくりして瞬き。
――ルインは、今生における俺の乳兄弟に当たる。
ムンドゥスの世話係として魔界から連れて来て、かつ、この戦場――というか、戦場からぎりぎり外れた物見台――にも連れて来ていた。
とはいえ、どうしてこのタイミングで登場するのか。
思えば、ムンドゥスをヘリアンサスの目の前まで連れて来たのはコリウスなので、そのときにルインをどこへ行かせたのか――逃がしたのか、待機させたのか――は、コリウスしか知らないことだ。
そして今、「おまえはあのときルインにどういう指示を与えたんだ」とは訊けない。
そんな雰囲気ではない。
なので俺は、駆け寄って来るルインに向かって、ぽかんとした顔で問い掛けていた。
「――え? おまえ、なんでここにいんの?」
そう訊いたのはもはや反射で、直後に俺は、こんな場合ではあっても、決まりの悪さを感じてルインから目を逸らした。
ルインは――何をとち狂ったか――俺に心酔していたから、ここまでずたぼろにやられた俺を見て、さぞかしがっかりしたことだろう。
ルインは瓦礫の上を器用に走って、躓くこともなく、まさに俺の方へ飛んで来た。
ざり、と瓦礫を踏んで俺のすぐ傍に滑り込んで来ると、そのままぎゅう、と俺の手を握る。
ちなみに今の俺は、左の肘辺りをカルディオスに握られ、右手でカルディオスの手首を握り返している状況だ。
ルインに握られたのは左手の甲だったが、なんかこう、雁字搦めになっている感が強い。
こんな状況、いつもならカルディオスは笑って俺の腕を離しそうなものだが、今日は違った。
ルインが傍まで来ても、まだ俺の腕を握ったままでいる。
ルインは柘榴色の目を潤ませて、すん、と鼻を啜ってから、俺の質問に答える形で口を開いた。
「――トゥイーディアさまが」
「イーディ?」
と、反応したのはカルディオスだ。
俺は生憎、「トゥイーディアはどこだよ!」と叫ぶことが出来ない。
代わりのように、カルディオスが少し声を大きくした。
「イーディ、今どこにいんの?」
「と――砦に戻っていらっしゃいますが」
ルインが、ぱちりと目を瞬かせてカルディオスを見た。
それから、どうやら自分が思っているほど俺たちが状況を把握していない――ということを理解したらしく、ひとつ頷いて口を開いた。
「コリウスさまに、ガルシアまで先に戻るようご指示いただいて、僕はガルシアまで下がっておりまして」
なるほど、コリウス、ルインのことは逃がしてくれていたのか――そう思ったものの、俺はコリウスの方を見られなかった。
カルディオスに至っては、あからさまに顔を伏せた。
俺たちの表情に妙なものを感じたのか、ルインは怪訝そうにしながらも言葉を続ける。
「つい二時間ほど前に、トゥイーディアさまがようやくお戻りになられて――僕に、兄さんたちは恐らく歩けないだろうからお迎えに上がるように、と――」
待って、トゥイーディアは歩いてガルシアまで戻ったの?
俺は内心で驚愕したが、感想はカルディオスも同じだったらしい。
ばっと顔を上げて、愕然と囁く。
「……え? イーディ、歩いて戻ったの? あの傷で?」
「はい、あの、ええ……」
歯切れ悪く頷くルインに、俺は内心で顔面蒼白。
カルディオスは表面上も顔面蒼白。
恐らくほぼ全員が同じ顔――コリウスはどうか分からないが。
「イーディ……倒れなかったか……?」
カルディオスの低い囁き声に、ルインはぶんぶんと首を振り、
「いえ、お倒れにはなっておりません。ただかなり――ご無理はなさっているようでしたが――」
俺は顔を覆いたくなった。
カルディオスは実際に顔を覆った。
とはいえ、ここで大騒ぎしても何にもならないことは明らかである。
とにかく腰を上げねば――と思ったまさにそのタイミングで、コリウスの声がした。
「――とにかく、ここにいても何にも……」
そこで、不自然に声が途切れた。
――俺たちの間に、鉛のように重い沈黙が落ちた。
今までなら――昨日までなら、コリウスは普通に、「ここにいても何にもならないから戻ろう」と言っていただろう。
で、それに対してカルディオス辺りが、「おまえほんとに冷たいね、怪我のこと気遣ってよ」くらいのことを返していただろう。
コリウスはそういう奴だと、俺たちは思っていた。
言うことも表情も冷たいが、多分内心ではちゃんと俺たちのことを考えてくれているだろう、と。
――だが、今やその認識すら揺らいでいる。
果たしてコリウスが、一度であっても俺たちを本心から気遣ったことがあるのかどうかということすら。
俺が懇願した結果としてコリウスはここにいるが、それがみんなの総意であるとも限らない。
そういう全部を弁えているから、コリウスは口を噤んだ。
コリウスが口を噤んだ理由が分かるから、俺たちも何も言えない。
数秒間の、余りにも重苦しい静寂ののちに、ディセントラの声がした。
「――ルインくん、どうもありがとう。
それで、私たち、今は馬に乗ることも侭ならないと思うのだけれど」
ルインは、どうやら俺たちには尋常ならざることが起こったらしいと理解しつつある顔で、しかしディセントラの方へ顔を向けて、いつもの忠実極まる表情で応じた。
「はい。トゥイーディアさまからもそのように伺っておりましたので、荷車を借りて参りました。――あの、粗末なもので申し訳ないのですが」
俺たちは一斉に首を振った。
来てくれただけで有難いよ、という気持ちは、どうやら全員共通だったらしい。
コリウスも一緒に首を振っていて、それを見た俺はなんとなく安心したものだった。
――ああ、まだ、意見が合うこともあるんだな、と。
意識もせずにそう考えてから、俺は首を振る。
別にコリウスが昨日までと別人になったわけじゃない。
裏側を覗いた気になって、俺が勝手に疑心暗鬼になっているだけだ。
「――カル、そろそろ手ぇ離して」
そう囁いて、俺はよろめきながら立ち上がった。
カルディオスが俺からぱっと手を離すのと同時に、まるでカルディオスが俺から離れるのを待っていたかのように、ムンドゥスがちょこん、と手を伸ばし、カルディオスの外套を摘まんだ。
ルインが、俺が今にも死ぬんじゃないかと怯えているような顔で、俺を支えて立つのを手伝ってくれる。
それに礼を言ってから、俺は瓦礫の上をふらふらと歩いて、転がったままの象牙色の長剣に近寄った。
最後にこれを握っていたのはトゥイーディアのはずで、曙光の気配にさえ繊細に光を拾って煌めく象牙色の柄には、べったりと彼女のものと思しき血液が付着していた。
「――――」
胸の奥がざわりとしたが、俺は息を吸い込んでその気持ちを押し込めて、屈むというより転ぶのを堪えるといった仕草で、その長剣の柄を持ち上げた。
持ち上げると同時に、長剣の重さに倒れそうになるところを、がぃん、と瓦礫に切先を突き立てて堪える。
はあ、と息を吐いて、俺は、今度はちゃんと腰を入れて長剣を瓦礫から持ち上げた。
ずっしりとした重みを掌に感じたのは一瞬――すぐに、長剣は簡素な意匠の首飾りへと変貌を遂げた。
その首飾りに頭を潜らせつつ周囲を見渡すと、少し離れたところでアナベルが黒い斧槍を持ち上げたところだった。
持ち上げるというよりもむしろ、地面から引き抜くといった方が近いんじゃないかと思うほどの、自分の身体よりも重いものを持ち上げようと苦心しているかのような仕草だった。
はっとしたように、コリウスがそちらに向かって一歩を踏み出し、しかし直後にその一歩を戻すのが見えた。
カルディオスが、焦った様子でアナベルの方へ足を踏み出したのを見たからのようだった。
「……アナベル、俺が持つよ」
申し出たカルディオスに斧槍を預けつつ、アナベルは首を傾げた。
どうやらアナベルもカルディオスも、コリウスの挙動には気付かなかったらしい。
気付いたのは俺の他にはディセントラで、俺と視線を合わせたディセントラは、明瞭過ぎる絶望を瞳に浮かべていた。
薄青い髪をさらりと揺らして首を傾げたアナベルが、誰にともなく呟く。
「――イーディ、これを持って行かなかったのね」
カルディオスが、言われて初めて気付いたというように手にした斧槍を見下ろし、頷いた。
斧槍が、素早く耳飾りの形に変ずる。
それを左耳に着けながら、カルディオスは憂い顔。
「確かに、そーだな。重くて持ち上がんなかったのかな」
「そんな可愛い理由ならいいけれど」
と、小さく呟くアナベルの声が、ささやかな風に乗って俺にも届いた。
「護身用の武器はあたしたちに残して、自分は丸腰で砦に戻ったなんて。
――あの子が死ぬ気になってるなんてこと、なければいいんだけど」
不吉なその言葉に、俺たちは一様に沈黙した。
いつもならアナベルに突っ掛かるカルディオスさえ口を噤み、俺たちの沈黙は動作の硬直すら伴って、ルインに躊躇いがちな声を掛けられるまで続いたのだった。