02◆ 記憶の裏側
――人の幸不幸というのは、当たり前だが属人的なものであって、自分が不幸せなときに誰かが幸せだったりするし、勿論その逆も有り得る。
その人生では、俺は結構幸せだった。
東の大陸の南海岸から大陸を半ばまで縦断するほどに長く、海岸に垂直に突き刺さるようにして峰を連ねる峻険なヴェルティ山脈の、その北の端っこの麓で生まれた俺は、生まれた瞬間に自分が貧乏くじを引かなかった――つまりは、正当な救世主の地位を免れた――ことを悟り、産声と共に快哉を上げた。
そして、果たして誰が貧乏くじを引いたのか、再会した暁にはせいぜい高笑いしながら揶揄ってやろうと、しめしめと思いながら六年間を当時の生家で過ごした。
俺の当時の生家は、山脈の裾野に小ぢんまりと広がる村にあり、その村はささやかな畑からの収穫と山の恵みで成り立っていた。
俺は――外見上の――同年代のガキどもに比べて、遥かに聞き分けも良ければ効率も良く、せっせと畑仕事を手伝う、村でも重宝される子供だった。
まあ、子供に付き合って騒ぐより、黙々と働く大人を手伝ってる方が疲れないっていう、極めて保身的な考えの下の行動だったわけだけれど、そんなのを他人が知るわけないしね。
とはいえ閉鎖的な村にあって、「村の外で生きていく」みたいな考えは誰の頭にもなく、当然ながら俺もそういう目で見られていた。
つまり、この村で死ぬまで生きていくよね、という――ついでに言えば、同年代の誰と結婚して子供つくるの? と言わんばかりの。
一生その村にいるというのは、俺にとっては論外の考えだったし、あまつさえ誰かと結婚するなんて考えた日には真面目に全身に鳥肌が立ったものである。
みんなを捜しにここから出て行くにはどうしたもんかなと思っているうちに――俺が生まれて六度目の秋――、稀に見る冷夏のための不作が村を襲った。
貧しいその村にあって、余剰の蓄えなどあるはずもなく、この村の人たちはこれからどうなるんだろうと思うと胸が痛かった。
が、俺一人があれこれしたところで、人口が少ないとはいえ村一つの食い扶持を稼ぐことはまず不可能。
というわけで、俺は俺に出来る精一杯のことをすることにした――即ち、口減らしのために村を出ることにした。
当時の親には大いに泣かれたが、俺はその涙にちょっと引いていた。
何しろ俺には、親子の情というものがよく分からない。
なので、確かに世話をしてくれた記憶はあるが、だがそれだけの他人――よく知らない他人が目の前で大号泣するという、地獄のような時間を愛想笑いで乗り切ることとなったのだ。
そののちに身一つで村を出て、しかしながら素直に野垂れ死ぬわけにもいかず(何しろみんなに会わずに死ねないからね)、俺はとにかく綱渡りのように寝床と食糧を工面しながら最寄りの町に向かった。
そこで(見た目上の)年齢不相応の聡明さを発揮して、町で一番裕福そうな家の下働きとして潜り込むことに成功。
仕草ひとつとっても、カルディオスの真似をすれば結構人から好かれるんだな――ということを学んだほか、俺はそこで過ごした三年半で、一生分の愛想笑いを遣い切ったかと思った。
とはいえその甲斐あって、俺はえらく可愛がられた。
そこで上手いこと給金を弾んでもらい、俺はそれを元手にちょっと遠出をして、当時のその国――国の名前は何だったかな――の、そこそこでかい町に向かった。
そこでちょうど、町を守る衛兵隊の隊員を募集していたもので、これ幸いと(たった九歳で)そこに乗り込んだわけである。
そこで“やべぇ”と思ったことは、衛兵隊は来るもの拒まずという姿勢ではなかったこと。
一応は試験と題した、現役の隊員さんとの一騎打ちを経て入隊を許されるものだったのだ。
俺があからさまに狼狽えたので、「いいから子供は帰んなさい」と優しく声を掛けてもらったが、俺は別に自分の心配をしていたのではなくて、不幸にも俺の相手をすることになる隊員さんの身を案じて狼狽えていたのである。
とはいえ引っ込みもつかなくなり、「ここで目立てば、それが誰かの耳に入りますように」と祈りながら一騎打ちに臨んだ俺は、当然ながら親子以上に歳の離れた(ように見える)おじさんを秒で伸してしまい、大騒ぎになったものだ。
――で、俺はそこでトゥイーディアとカルディオスを見付けた。
二人は別に、示し合わせてそこにいたわけではなくて、カルディオスはこの町いちばんの豪商の家に生まれついており、衛兵隊の試験にもしかしたら俺たちのうちの誰かが来るかも知れないと、薄い期待を抱いて見物人の中に顔を出していた。
トゥイーディアは隣町に生まれていて、やっぱりカルディオスと同じ考えで見物人の中に紛れていた。なお、彼女が衛兵隊に志願するのは、年齢からして不可能だった――何しろそのとき、彼女はまだ五歳だったので。
ちなみにカルディオスも、トゥイーディアと同い年だった。
見物人の中に、どうやらお互いにまだ気が付いていないっぽい二人をばらばらに見付けたときの、俺の驚きたるや。
大騒ぎになっている周囲を凌ぐ勢いで、「ええええっ!?」と大声が出たくらいだ。
カルディオスもトゥイーディアも、小さいながらも頑張って俺の方に来てくれようとしていたが、――そして小さなトゥイーディアが、とてとてとこっちに向かって走って来ようとして、人波に消えたりまた顔を出したりする様はめちゃくちゃ可愛くて、かつ俺はトゥイーディアが誰かに踏まれないかものすげぇ気を揉むこととなったが、――俺が、「えっ、えっ」と二人を交互に指差しながら絶句するのを見るに至って、二人ともお互いに気が付いた。
これにてめでたく三人再会。
俺はカルディオスに対してしか喜びの表情を見せられなかったが、実際には五歳のトゥイーディアの可愛らしさに内心で悶絶していた。
この世でいちばん柔らかい宝石みたいだと思ったね。
取り敢えず三人でお互いに走り寄って再会を喜んでいる間にも、たぶん代償がなければ血を吐いていた勢いで感動していた。
この世の奇跡を詰め込んだ飴細工みたいに可愛かった。
再会という目的を果たした俺は、取り敢えず二人を連れてそこからとんずらすることにして、カルディオスも極めてあっさりと家出を決意した。
トゥイーディアは、「ご両親にご挨拶は?」だとかを、(細くて可愛い幼い声で)言っていたが、カルディオスはそれを一笑に付した(幼いながらに堂に入った感じで)。
ちなみにトゥイーディアは、わざわざ一回隣町まで戻って両親に挨拶するのだと言って譲らず、実際そうしていた。
俺はそのために足止めを喰らうことをめちゃめちゃ厭味ったらしくトゥイーディアに向かって毒づき、トゥイーディアがそれに対して応戦したことで大喧嘩になり、カルディオスが青筋立てながら俺たちの仲裁に入ることになったのだが――それはさておいて。
トゥイーディアもカルディオスも、「今回の自分は救世主ではない」と、(めっちゃ嬉しそうに)断言したので、俺たちは救世主の噂を尋ね歩くこととして、しばらく三人で旅をした。
思い返してもとにかくトゥイーディアが可愛かった。
俺たちは、長い人生の記憶を持って、毎回毎回人生を途切れさせることなく生まれるが、身体までが最初から大人として生まれるのではない。
なので、トゥイーディアもカルディオスも、そして俺も、そのときは子供の体力しか備えていなかったのである。
俺は二人より四つ年上だったからまだ良かったが、トゥイーディアとカルディオスの小さな歩幅では、町から町への移動すら儘ならないうえ、二人ともすぐに体調を崩した。
トゥイーディアは体調が悪くても我慢してしまうので、彼女の不調を感じ取ったカルディオスが大騒ぎして俺たちに休息をとらせることもあった。
それに、小さな子供の例に漏れず、トゥイーディアは――例えば、おなかが一杯になった昼下がりとかに――、こてんと素早く昼寝に入ってしまうことがあった。
ちょっと腰を下ろして休んでいて、振り返ったら身体を丸めてすぅすぅと寝息を立てていたりした。
めちゃめちゃ可愛かったね。
俺は代償のせいで、そんなトゥイーディアを叩き起こそうとしてしまうことさえあったが、カルディオスが常に猛然とそれを止めてくれた。
たまに、カルディオスとトゥイーディアが寄り添ってすやすやと寝ているときもあったが、あれはマジで目の保養だった。
トゥイーディアはとんでもなく可愛いし、カルディオスは――まあ、あいつのことだから、生まれ落ちたその瞬間から万物に愛された美貌を備えていることは言うまでもない。
天使がいる……と感動しつつ、俺はそういうときはいつも、トゥイーディアが突然誰かに誘拐されて行ったりしないように、ちょっと離れたところから彼女を見守っていたものだ。
カルディオスのことはあんまり見ていなかった。あいつのことだから、誘拐されても上手くやりそうだし。それに何より、ちょっとそこ代われとずっと思っていたので。
――と、そんな感じで、俺たちはそれから二年に亘って三人で旅をした。
端から見れば、ちょっとだけ年上の俺が、弟と妹を引き連れて歩いているように見えたかも知れない。
実際、宿をとるときなんかは、「兄妹です」と言い切ることも多かった。
まあ、誰もどこも欠片も似ていなかったけれど。
ちょっとでも疑わしそうな顔をされたときには、取り敢えずカルディオスににこにこ笑ってもらう。そうすると大抵上手くいく。
兄貴と弟と妹に見えていたかも知れないが、実態をいえば、すぐに喧嘩に発展していく俺とトゥイーディアを、延々とカルディオスが宥め続けた二年間だった。
最後の方は真面目に嫌そうな顔をして、「トリーはどこにいるんだ!」と憤っていたっけ。
そんな、カルディオス待望の仲裁の名手ディセントラと、そして加えてアナベルと、俺たちは旅を始めて二年ののちに再会した。
ディセントラは軍門のお嬢さまとして生まれついており、アナベルはディセントラの身辺警護の衛兵(ディセントラに身辺警護が必要かどうかは論ずるまでもないことで、かつ衛兵よりもディセントラの方が百倍は腕が立つので、衛兵の彼はまあまあ可哀想な立ち位置の人だった)の従妹だった。
再会に当たって、アナベルは勝ち誇った顔で俺たちとの再会を喜んだが、一頻り俺たちとの再会を喜び終わったディセントラの顔は死んでいた。
顔を見てすぐに分かったが、このときの正当な救世主は彼女だったのだ。
俺とカルディオスは、いつもの如く彼女の不幸を大いに笑って揶揄ってやり、トゥイーディアもまた、必死に笑いを堪えながらディセントラの不幸を慰めていた。
五人が揃ったこの時点で、俺は十一、トゥイーディアとカルディオスは七歳。
ディセントラは九歳になりたて、アナベルは十二歳だった。
割と早いうちに再会が叶った部類であり、俺は自分の運の良さに大満足だった。
あとはディセントラが救世主であるとバレて、「魔王討伐行って来い」と世間様から大合唱を喰らうのを待つのみ――とも思えたが。
そう。
一人足りない。
コリウスはどこだ。
あいつがいないなら、ディセントラが救世主であるとバレるのはまずい。
何しろ魔王討伐に出発できない。
いや、コリウスのことだから、救世主の噂を聞き付ければ、俺たちのところへ駆け付けて来てくれるとは――
「――いや、あいつ、来ないだろ……」
と言ったのはカルディオスだった。
七歳にして既に圧倒的な美貌を備えていた彼は、俺たちがそのとき集まっていたディセントラの居室――つまりは、軍門のお嬢さまの居室に相応しい派手な内装を、己の付属物の如くに霞ませる存在感を放っていた。
なお、ド庶民の俺たち三人がディセントラと再会できたのは、町をうろついていたアナベルと先に再会できたからだ。
いつも無愛想なアナベルが笑顔を見せ、トゥイーディアと抱き合う姿は微笑ましかった。二人とも子供なだけになおさらに。
二人に年齢差があったこともあって、トゥイーディアは、まるで生き別れの姉と再会した妹みたいにも見えた――二人とも、どこも何にも似てないんだけどね。
全く見知らぬ、汚れた旅装束の子供三人を連れて戻って来た従妹を見た、ディセントラの護衛官であった少年の驚愕は察するに余りある。
こんな怪しい子供をお嬢さまには会わせられん! と頑張っている間に登場した当のお嬢さまが、歓喜の悲鳴と共に俺たちに抱き着きに来たのを見たときも、彼は目玉が転げ落ちそうな顔をしていた。
そんなすったもんだの末に再会した俺たちではあったが、残る一人、コリウスの行方については手掛かりなし。
あいつが自発的に俺たちを捜して会いに来る可能性は――
「……割と低いんじゃないかしら」
と、ディセントラも憂い顔。
何しろ、コリウスである。
このときの俺たちが知っているコリウスといえば、再会のときであってもちょっとだけ眉を動かすだけで、「ああ、きみたちですか」と言い放つような、氷の如き態度をとる奴だったのである。
俺たちはあいつの笑顔すら見たことはなく、何なら話し掛けない限り、向こうから話題を振ってくれることもなかった。
自分が救世主に当たったときには、割と飄々と役目に当たっていたが、他の――俺たちが救世主に当たったときときたら、あいつはマジで嫌そうな顔で、不承不承といった様子で俺たちと一緒にいた。
つまり今回、あいつが一人で役目からとんずらするのも有り得る――と、俺たちは真面目に案じていたのである。
「――あいつがいないと困るよな」
「困るわねぇ、戦力がた落ちになるもの」
「コリウスだけだものね、魔王の背後をとったことがあるの」
「うん、あいつ、コリウスを殺すのに振り返りもしなかったな」
「それだけじゃないわよ。魔界に着いた後に、誰があたしたちをあの城に運ぶのよ」
と、そんなことを言い合って、俺たちは溜息。
コリウス、どこだ。
あいつの得意分野は誰より便利なんだよ……と。
「カル、きみ、前回の人生でコリウスにスープをぶっ掛けたでしょ。あれを根に持って、コリウスが来てくれなかったらどうする?」
悪戯っぽく言ったトゥイーディア(めっちゃ可愛い。七歳なのに大人びた顔をしてるところがまた可愛い)に、「ええっ」と叫ぶカルディオス。
「俺だってそのあと壁まで叩き付けられたじゃん!」
あれめっちゃ痛かったんだぜー、などと嘯き、立派な内装にそぐう立派な椅子に座ったまま、床に届かない足をぱたぱたと揺らすカルディオス。
――そんな馬鹿な話をしていた俺たちは、そう、全く知らなかったのである。
その瞬間にさえ、一人でいたコリウスがどれだけ不安な思いをしていたかということを。
後から知ったことだが、このときコリウスはただ一人だけ西の大陸で生を享けていた。
例によって生まれに恵まれたあいつは、どこぞの貴族のお坊ちゃんだったらしいが、待てど暮らせど俺たちの誰一人として現れないので、二十歳を数えた時点で家名を捨てて出奔していたとのこと。
――俺たちがやっとのことでコリウスと再会したのは、それから更に一年後。
ディセントラは、「救世主だってバレたくない……」と口癖のように呟き、俺たちはそれを高みの見物と言わんばかりに眺めながら、お嬢さまのお墨付きで、自由に遊んで暮らしていた。
当時のアナベルの従兄だった、ディセントラの護衛の彼が、ディセントラに惚れていることは割とすぐにみんな分かっていたので、その恋の行方を野次馬根性で見守ったりもしていた。
ディセントラは恋多き女だし、ガチの好意をぶつけられると割とあっさり陥落するが、自分が正当な救世主に当たっているときは、そういう色恋沙汰にも慎重になる傾向がある。
なので、護衛の彼の恋は旗色が悪かった。
まあ、俺の恋よりは全然勝ち目あるよ、と、俺は内心で彼を励ましたりしていた。
トゥイーディアも、結構真面目に彼の恋を応援していた。
アナベルは鼻で笑っていたが。――アナベルが初めて恋を知るのはこの後のことだったからね。
そんな風に俺たちは、極めて愉快に暮らしていたが、その間にもコリウスがどんな思いをしていたのか、今となっては申し訳なさを感じるレベルである。
俺たちがコリウスを見付けたのは、ちょうどその町で何かの祭りがあって、そこに王立騎士団が来たと騒ぎになっていたときだった。
なんで騎士団が来たのかは全く覚えていない。
表敬訪問みたいなものだったのかも知れないし、また別の何かの理由があったのかも知れない。
お祭り前日に俺たちは町へ繰り出して――というより、王立騎士団の誰かさんに挨拶に行かないといけないディセントラの巻き添えを食って、堅苦しい場所に連れて行かれるのが嫌で逃げ出して――、適当にぶらぶらしていた。
そしてそこで、ようやくコリウスを見付けた。
コリウスはコリウスで、王立騎士団がこの町に来ると噂を聞いて、一縷の望みを懸けてここに来ていたらしい。
こいつは、俺たちの予想とは全く真逆に、再会に対して必死だったのだ。
「あっ!」と声を上げたのが誰だったのかは忘れたが、その瞬間のコリウスの顔はよく覚えている。
というか、俺たちは、明らかに飛び抜けて年上に生まれたらしいコリウスに、しばし絶句していた。
そう、このとき、コリウスは二十三歳。
彼を除いた五人の中で最も年長だったのがアナベルで、彼女が十三歳だったのだから、実に十年先んじて生まれていたことになる。
コリウスは道端で愕然と立ち尽くしていた。
俺たちはそのときまで、そこまで感情を露わにしたコリウスを見たことがなかった。
――そして。
がくっ、と膝を突いたコリウスが、そのままぼろぼろと泣き始めたものだから、俺たちは大いに狼狽した。
「誰こいつ」とカルディオスが呟いたのは、一生コリウスに黙っておくべき事柄である。
カルディオスは、突然猫が逆立ちを始めたのを見るような顔でコリウスを見ていた。
大の男が道端で号泣するという珍事態に、周囲から視線が集まる集まる。
俺たちは、「ここで変に目立ってディセントラに迷惑を掛けるわけにはいかん」という思いから、すぐさまコリウスに駆け寄って行って、彼を人目につかない所へ連行しようとしたのだが――
――無理だったね。
あそこまで肩を震わせて号泣する人間を、立たせてどっかに連れて行くのは無理だね。
顔をぐしゃぐしゃにして泣くコリウスを、取り敢えず四人で包囲するように立って、俺たちは割とマジで、「だれこいつ……」という目を見交わしていた。
トゥイーディアがあわあわして、コリウスの肩でも撫でてやるべきか、迷うような顔をしていた。
何しろ当時のコリウスは、俺たちに触れられることすら嫌がっていたからね。
とはいえ、まあ、泣き止ませないといけないことは自明の理だったので、いきおいコリウスの正面に立っていた俺が、代表して奴の肩をぽんぽんと叩いてやると。
「――生まれ方を間違えたかと思った……!」
ぼろ泣きしながらコリウスがそんなことを言ったので、俺は思わず笑ってしまった。
結構可愛いとこあんじゃん、と思いながら、「よしよし落ち着け」と。
端から見れば、十二の俺が二十三のコリウスを慰めているという、珍妙極まる図。
数十分を掛けてコリウスを落ち着かせたものの、コリウスからすれば、俺たちと引き離されていた二十三年間が完全にトラウマとなったらしく、泣き止んで立ち上がってから、手近にいた俺とアナベルの肩に手を置いていた。
アナベルは鬱陶しそうな顔をしていたが、俺は面白くてならなかった。
笑いを堪えるが余りに腹筋が痙攣したほどだ。
だって、あのコリウスが。
俺たちに触れられることすら嫌がり、口を利くことすら億劫そうだったコリウスが、難破した人間が大海原で板切れ一枚に縋るように、俺とアナベルに縋り付いているのである。
「――コリウス、あなた、どこにいたの」
と、トゥイーディアが尋ねた。
トゥイーディアは、自分と距離を置いている人間に対しては「きみ」ではなく「あなた」と呼び掛ける――つまりこのときのトゥイーディアは、俺たちとあからさまに距離を置きたがるコリウスに、他人行儀に接していたのである。
「……西で生まれて」
と、大号泣の名残で鼻を赤くしたまま、ぼそぼそと答えるコリウス。濃紫の目が暗かった。
「十五になっても誰にも会わないので、さすがにおかしいと思って――三年前に家を出て、東まで来たんです……」
めっちゃ頑張ってた。
こいつ、実はちゃんと再会に向けて頑張る奴だった。
――俺たちがそういう驚嘆の目を見交わしていると、コリウスは鼻を啜ってから俺たちを見渡して。
「――きみたち、まだ小さいんですね……会えないわけだ。
それで、今回外れくじを引いたのは誰です?」
「ディセントラ」
四人分の声で応答すると、コリウスはこくんと頷いて、
「そうですか……会えますか?」
おお。
こいつ、ちゃんと人に会いたいと思える奴だった。
――そんなことを考えながら、俺たちは各々笑いを押し殺しながらコリウスをディセントラの許へ引っ張って行った。
ディセントラは、コリウスには大いに同情しながらも残念そうにしていた――まず間違いなく、コリウスの大号泣を見逃したことを悔しがっていた。
とはいえコリウスは、ディセントラに再会してもちょっと泣いた。
よっぽどしんどい二十三年間だったらしい。
その夜、安心の余りに気絶するように眠りに落ちたコリウスを他所に、俺たちは大いに盛り上がったものである。
「あんなあいつは見たことない!」と。
このとき既に俺たちは、最初の頃の記憶なんて失くしていた。
だから正確に、何回目の人生だったのかは覚えていなかった。
それでも結構長い付き合いだったのに、コリウスが人並みの情緒を持っているということを、初めて確認したというような盛り上がりようだった。
――まあ、一眠りして落ち着いたコリウスは、翌日から平常運転に戻ったように見えたわけだけど。
いつも通りの冷静で感情に乏しい顔をするコリウスを見て、カルディオスが残念そうに舌打ちしていたことは、俺とアナベルしか知らない事実である。
さて、これにて全員が揃った。
ディセントラはいよいよ、死刑が確定したみたいな悲壮な顔をしていたが、このときの人生でも、南の島にいる魔王は、ド田舎諸島より南に出て行った漁船を軒並み撃沈させたり、定期的に大陸に向かって作物を枯らす毒の瘴気を送り込んできたりしていたので、名乗りを上げるのにそう愚図愚図はしていられなかった。
ディセントラはまだ子供と言っていい年齢だったけど、それでもね。
己こそが救世主であると名乗りを上げるのは、毎回のことだけど、精神的にしんどい。
その後の大騒ぎを身を以て知っているから、なんかこう、気持ちに鉛の重みを付けられたみたいな感じがするものだ。
俺も救世主を経験したときに、「我こそが救世主」と名乗りを上げたわけだけど、なんというかこう、そのまま消え去りたくなるくらいの大騒ぎになって、ちょっと泣きそうになったこともある。
まあ、ぶっちゃけ俺はそのまま逃げることも可能なわけだけどね。
正当な救世主の地位にあるときだけは、俺は逃げ足においてもコリウスに勝る。
と、まあ、そんなわけで、項垂れたディセントラを見捨てられるはずもないトゥイーディアが彼女に付き添う一方で、俺たち四人はさっさと、大騒ぎになるだろうディセントラの住む館を抜け出していた。
魔王討伐にはちゃんと付いて行くから今だけ許して、みたいな感じで。
アナベルはそのまま、一人で街中をぶらぶらしに行き、俺はカルディオスとくっ付いていた。
俺とカルディオスは、殴り合った回数も相当に多かったが、その分なんというか気心が知れていて、昔から一緒に行動することも多かったからね。
で、このときびっくりしたことに、コリウスも俺たちに付いて来た。
今までになかったことである。
こいつも単独行動上等みたいな態度だったのに、そんなに孤独な二十三年間はつらかったのか……と、俺とカルディオスはこっそり顔を見合わせていたものだ。
――世の中って、思ってるより因果応報のつくりをしているな……と知ることになったのはその数十分後。
昼時を迎え、腹が減った喉が渇いたということで、誰が食べ物と飲み物を調達しに行くかということを、コイン投げで決めた後のことだった。
カルディオスが飲み物を、コリウスが食い物を買いに行くことになり、二人が近くの露店に向かっている間に、俺は町の広場を囲む石垣に、一人でちょこんと腰を下ろしていた。
で、理由は忘れたが、俺は中年の、昼間っから酔っぱらった男に絡まれることになっていた。
きっかけはマジで忘れ切ったから、本当に些細なことだったんだと思う。
見た目は十二歳のガキだったとはいえ、中身は百歳を超えていた俺は、目の前でうるさく騒ぎ立てる男の声を、はいはいと黙って聞きながら、「因果応報、これもディセントラを見捨てた報いか……」と考えていた。
さっさとその場を離れるという手もあったが、そうなるとカルディオスはともかくコリウスがびっくりしそうだなと思って動きかねた。
あいつ、なんか無言で俺たちが消えちゃったら、またぶり返すみたいに泣きそうなんだもん……。
一人がそんなに辛かったのかね、なんていうことを、俺は自分も大概似たような醜態を遠い将来に晒すことになるなどとは思いもせずに考えていた。
男は片手に酒の入った木の皮のコップを持ったまま俺に向かってがなり続けており、俺は男本人よりもそのコップを、警戒を籠めて眺めていた。
石垣から飛び降りて、ちょっとだけ男と距離を取る俺は、割と子供らしからぬ様子に見えたかも知れない。
成人してからでさえ、酒の匂いだけで昏倒することもある俺だ。
十二歳の子供の身体で酒の匂いを嗅ぐのはまずいだろうと思ったわけ。
とはいえ、戻って来たカルディオスを男の身体越しに見付けて、そっちに気を取られた俺は、警戒虚しく酒を頭からぶっ掛けられることになったわけなんだけど。
あのときは真面目に狼狽えたね。
息を止めて口で息をして、さすがに、「このやろう……!」と苛立った瞬間、
「――ルドになんてことすんだ!!」
と、すっ飛んで来たカルディオスが(手に持っていたコップ三つはあっさり地面に落とした上で)、ものすごい勢いで男を蹴り倒していた。
そのまま俺に飛び付いてきて、大丈夫か気分は悪くないかと気遣った、あいつが考えていたのはまず間違いなく、俺がぶっ倒れた後の処理の大変さだ。
あのとき俺は十二歳、カルディオスは八歳だったわけだから、俺をカルディオスが担ぐのは無理だったからね。
コリウスは――このときの俺たちからすれば――普通に俺を道端に捨てて行きそうだと思っちゃうような奴だった。
俺が必死に鼻を覆う中、立ち上がった男は憤怒の表情。
まあ、八歳の子供に蹴り倒された気まずさもあったんだろうけど。
だが、そこでそいつがカルディオスに向かって唾を吐いちゃったものだから、今度は俺が激昂。
「カルに何すんだ!!」
と、息を止めることも忘れて奴に殴り掛かり、真下からその顎を殴り上げたところで眩暈第一弾。
あ、やべ、と動きを止めた俺の様子から俺の状態を悟り、カルディオスがぶち切れる。
その混沌の中戻ってきたコリウスの、絶句した顔は今でも覚えている。
何が起こった、と言わんばかりの顔で現れたコリウスに、俺たちに絡んでいた男がほっとした様子で噛み付いた。
多分だけど、コリウスを俺たちの保護者だと思ったんだろうな。
あんたんのとこのガキどもが俺を蹴って殴ってどうのこうの、と捲し立てるその男を遮って、コリウスが懐疑の瞳で俺たちを見下ろす。
「――何があったんですか」
俺は早くも酒の匂いにふらふらしていたが、これだけは言わねばならんと奮起して、真っ直ぐに男を指差して(後からカルに聞いたけど、俺はそのつもりでも指先はちょっとずれていたらしい)、「こいつがカルに唾を吐いた」と。
カルディオスはカルディオスで憤然と男を指差して、「こいつがルドに酒をぶっ掛けた」と。
男も負けじと、「そもそもこいつが最初に俺を蹴り倒した」とカルディオスを指差す。
俺は内心、コリウスがこの場を上手く収めるだろうと思って安心していた。
何しろ氷のように冷徹なコリウスのこと、適当に俺とカルディオスに頭を下げさせてこいつを落ち着かせるんだろうな、と。
コリウスは瞬きして、なるほど、と頷いた。
それから流れるように自然な仕草で、手に持っていた三人分の蒸しパンを、はい、とカルディオスに渡した。
カルディオスは、激昂していたところに差し出された蒸しパンを、反射のように受け取ってきょとん。
え? と翡翠の目を瞬かせるカルディオスと、ふらふらしている俺を見下ろして、コリウスは真顔で言ったのだった。
「カルディオス――ルドベキア。内密で頼む」
あれ、いつもの敬語はどうした――と、俺が霞み始める頭で疑問符を飛ばした次の瞬間、コリウスが――あのコリウスが――、めちゃくちゃ豪快に男の横っ面をぶん殴っていた。
後ろに吹っ飛びそうになった男を、得意分野の魔法でぴたっと止めた結果、鼻血を出した男が白目を剥きつつもその場に直立するという、なんともシュールな状況になっていた。
俺は唖然。
カルディオスも唖然。
そんな中で、コリウスはめちゃめちゃ清々しい顔で、
「ルドベキアがこの状態では、食べるに食べられないな……。戻ろうか。
カルディオス、それ、食べてしまっていいよ」
と。
反射のように、「お、おう」と頷いたカルディオスが、「いやいやいや」とぶんぶん頭を振って、
「おまえどうしちゃったの!?」
と叫んだのもさもありなん。
コリウスはこんなことをする奴ではなかったからね。
「別に――」
と、コリウスはコリウスで、いよいよ倒れそうになっている俺を、極めて珍しいことに手を伸ばして支えつつ。
「酒を頭から浴びせられて、唾を吐かれたんだろう? 当然だと思うが」
カルディオス絶句。
ふらふらしていた俺ですら目を見開く。
カルディオスは愕然とした顔でコリウスを見上げて、
「おまえどうしたの……? いつもの厭味ったらしい丁寧語はどうしたの……?」
と、割と失礼なことを驚愕の眼差しで口走る。
コリウスは肩を竦めて、
「なんだかもう、距離をとるのも疲れたんだよ。問題は僕の気の持ちようだからね。それに――」
はあ、と溜息を吐いて、コリウスは心底嫌そうに呟いたものである。
「――あそこまでの醜態を晒したんだ。今さら取り繕うものはない」
まあ確かに、と思ったのが俺の立っていた限界で、そのまま背中から地面に倒れそうになるところを、コリウスの手で助けられたのを覚えている。
そのまま俺は、昏倒するに出来ない半端な気持ちの悪さにうーうー呻きながら、コリウスにおんぶしてもらってディセントラの館まで戻った。
ディセントラの館はやっぱり大騒ぎになっていたが、吐き気を堪えていた俺はあんまり覚えていない。
覚えているのは、疲れ切った顔のトゥイーディアとディセントラと顔を合わせたときに、コリウスが――俺たちに初めて見せる、ちょっと悪戯っぽい顔で――「内緒な」と念を押すように、唇に指を当てて俺とカルディオスを見てきたことだ。
こいつ、そんな顔もするんだ、と思った。
俺が真っ青になっているのを、トゥイーディアがびっくりしたように見ていて、人におんぶされてるところを見られるのが恥ずかしかったのと、そうも言っていられないくらいにいよいよ気分が悪くなっていたことも覚えてはいるが――それ以上に。
――大事な記憶のはずだった。
このとき、俺たちより十年先んじて生まれてしまって、二十三年間誰にも会えずに過ごし、再会で号泣を披露したコリウスの醜態は、それから数百年に亘って語り継がれることになる。
だが一方で、この人生を境にコリウスが俺たちに心を開き始めたのも事実だ。
再会のときに、軽い抱擁くらいはしてくれるようになったのも、この人生の後からだった。
酒を酒と気付かずに飲んでしまったり、あるいはカルディオスの隣にいて、酒の匂いを嗅いでしまったりして昏倒した俺を、部屋まで担いで戻って介抱してくれるようになったのも、この後からだった。
コリウスが、トゥイーディアと一緒に晩酌をした結果に二日酔いに苦しむことになったのもこの後で、それからコリウスはトゥイーディアと酒を飲もうとはしなくなったが、それは今までの拒絶とは違う、親愛のある警戒心のゆえだった。
――くらくらする。頭がぼんやりする。
あれ、俺、今――酒でも飲んでしまったんだっけ。
どんどん記憶が遠ざかる――まるで夢から覚めるときみたいに。
あれ、俺、――眠ってた?
喉の奥にしょっぱい味がする。
涙を大量に飲み込んだみたいに。
頭の芯がじんじんと痛み始めた――本当に、泣き明かした後みたいに。
――あれ、俺……何してたんだっけ。
思い出そうとすると、頭がいっそう激しく痛んだ。
鈍い痛みに鋭利な刃が隠されていたように、きりきりと痛み始める頭の奥。
それだけではなくて、心臓が痛い。
胸が痛む。
まるで無数の硝子片が、内側から心臓に突き刺さっているような痛み。
――大事な記憶のはずだった。
――楽しい記憶のはずだった。
なのにどうしてこんなに胸が痛むのか――
――ああ。
がん、と、殴られたように頭が痛む。
――ああ、そうだ。コリウス。
コリウスは――
あのときに、ちらっと見せた悪戯っぽい顔。
みんなに対して、丁寧な言葉遣いを止めたこと。
トゥイーディアも釣られたように、コリウスに対する二人称を、いつの間にか「きみ」にしていた。
あの次の人生から、俺たちはコリウスが再会に向けて尽力することを疑わなくなった。
だから、コリウスの方も、俺たちを信じていると思っていた。
――コリウスは俺たちに心を開いていると、勝手にそう、思っていた。
毒を湛えた黄金の瞳の幻影が蘇る。
――俺たちは、代償について……あるいは呪いについて、口に出すことが出来ない。
だが、ヘリアンサスがコリウスの代償を断言した、あの瞬間のコリウスの表情に否定を示す感情が一欠片でもあっただろうか。
――あのときのコリウスの顔貌を占めたのは、絶望的なまでに深い、肯定ゆえの驚愕だった。
容赦なく記憶が整理されていく。
全身の痛みが鮮明になった。
全て無視して息を止めてしまいたいのに、どうやら俺の心臓は俺を生かすことをやめていない。
――コリウスの代償は、〈心から信じた者に裏切られること〉。
これが真実だとすれば、コリウスは俺たちを信じたことがないということになる。
俺たちは誰も、コリウスを裏切ったことがないのだから当然に。
俺は、俺自身も代償を背負っているからこそ、代償の強制力が絶対であることを知っている。
だからこそ分かる――理解できてしまう。
コリウスとの間にあると思い込んでいた信頼関係は、全部こっちの気のせいだったのだ。
もしもそうでないというならば、コリウスは全員から手酷い裏切りに遭って、今頃は本当に独りで生きていたはずだ。
――コリウスは俺たちと一緒にいる。
それが答えだ。残酷なまでに明瞭な。
――そして、コリウスをかつて殺したあいつの恋人こそが、コリウスの、〈心から信じた人〉だったのだとすれば。
俺たちは結託して、その人の命を奪ったということになる。
コリウスが最後の最後まで守り抜かれたと信じたその信頼を、コリウスから一度も信頼を向けられたことのない俺たちが踏み躙った。
――そして、コリウスにその代償を課したのが……呪いを掛けたのが、本当に俺だったのだとしたら。
胸の底が抜けたような恐怖が、一気に全身を浸して冷やしていく。
俺はどれだけコリウスを苦しめたのだろう。
――俺は、俺が一番、行動に制限を受ける代償を背負っていると思っていた。
――でも、違うのだ。
俺にはそうやって自分を憐れむ権利は欠片もなかった。
感情の発露に制限を受ける俺とは、まるで次元が違う。
――コリウスは、思考や心情にまで制限を受ける代償を背負っていたのだ。
考えなくないのに、思考を止めてしまいたいのに、立ち戻る記憶がばらばらになっていた思考を繋いで、紡ぎ合わせて、意識の範囲に言葉を並べ立てていく。
何も感じたくないのに、感情が勝手に動いて俺自身を傷つけようとする。
コリウスに対する――彼の半生への、眩暈にも似た同情がある。
あいつだって、ふと気が緩むときはあっただろう。
そんなときでも常に、胸中で俺たちに一線を引き続けるのがどれほど精神を摩耗することだったか。
あいつは恐らく、本心から寛ぐことは一度もなかったのだ。
そんな中でも正気を失わず、ある程度は俺たちに歩みを合わせてくれていたのだ。
――いや、本当に?
思考がぐるりと回って、仄暗い感情を直視した。
――本当に、コリウスはそんなにつらかったのか?
実はずっと、見た目通りに冷ややかに、俺たちがコリウスを信頼していることさえも、内心で鬱陶しく思っていたのだとしたら?
感情には返報性がある――コリウスにとっては向けられる信頼でさえも重荷であったはずだ。
理不尽にコリウスを責める気持ちが、唐突に剥き出しになった。
そのことに、俺自身が動揺した。
自分がこんなに、聞き分けのない子供みたいな感情の動かし方をするとは思わなかった。
自分がこんな考え方をする人間だとは思いたくないのに、情動は正直だった。
信頼されていると思っていた、その全部が嘘だったことに、理由があったのだとしても俺は傷付いている。
裏切られたような気持ちになっている。
これまでのコリウスの言動をいちいち反芻して、「あのときも俺を疑っていたのか」と、勝手に推測を立てている。
コリウスに全幅の信頼を置いていた自分の、その気持ちが誰にも受け止められずに、ただただ勝手に垂れ流されていたのだということに、気まずさにも似た呵責の気持ちがある。
でも、やっぱり、それだけではない。
コリウスに対する、本心からの、絶望にも似た罪悪感もまた、直視するのが難しいほどの巨大さで胸を占めていた。
あいつが今でも好きでいるだろうあの人を、俺たちが殺したこと。
コリウスが、恐らくは俺たちなんかよりも遥かに大事に思っているだろう人を、俺たち如きが殺したことに。
そして――コリウスへの思考を皮切りにした、自分たちの関係性に対する、漠然とした危機感と不安がある。
――本当に、もしも仮に俺たちが、互いに呪いを掛けるほどに憎み合う過去があったのだとしたら、どうすればいい?
そんなことは今さら関係ないと言えればいいが、その過去を今に至るまで引き摺っているのならばそうは言えない。
思い返せば確かに、記憶にある限りの最初の方では、俺たちは喧嘩ばっかり繰り返していた。
乱闘を演じたことも数え切れない。
それでも辛うじてずっと一緒にいたのは、魔王討伐という共通の目的があったからだ。
そして俺たちは、数知れぬ喧嘩を乗り越えて仲良くなってきた、信頼を築いてきたと思っていたけれど、少なくともその一部は真っ赤な嘘だったと判明したわけだ。
他にも同じような奴がいたら?
――俺にとって、俺たち六人の関係性は、それそのものがもはや故郷のようなものだった。
唯一心を許せる拠り所だった。
その一部が、完全に壊れてしまったような心許なさ。
代償というものの存在を、俺はいつからか知っていた。
最初から知っていたのか、自力で気付いたのかはもう覚えていない。
だが、代償の存在理由は知らなかった。
――もしも本当に、俺たちが――もう覚えてもいない昔に、互いに呪いを掛けることによって、それを以て代償がそれぞれの人生に刻まれたのだとしたら。
俺がコリウスを傷つけ続けたように、誰かが俺を苦しめ続けているということになる。
だとすれば俺は、昔のことは今さらどうでもいいなんていうことは、とても思えない。
――そして、万が一にも。
俺がコリウスに呪いを掛けた後、一国を焼き払って〈呪い荒原〉を生み出していたのだとすれば。
俺は一体何人を殺したことになる?
一国を焼き払ったというならば、その国民の殆どを殺したことになるだろう。
そして本当に、その焼き痕こそが〈呪い荒原〉だというのならば――あの呪われた大地は、俺の記憶にある限りずっとあそこに在ったのだから、それから先もずっと――今に至るまで。
俺は何人を殺し、何人から故郷を奪った?
トゥイーディアが俺を信じてくれたように、自分はそんなことをしないと断言できればいいけれど、――可能か不可能かを論ずるのならば可能だと、俺には分かってしまう。
それゆえに恐ろしい。
俺がもしも、正当な救世主としての魔力量を備えていたならば、――その上で、一切の手加減をせずに魔法を使えば、国ひとつを焼き払うことも可能だろう。
そして、俺は確かに、あの呪われた大地に立って、毛ほども影響を受けはしなかった。
今生においてのみ、範囲を広げ続けている〈呪い荒原〉――今生において、前世までと違ったことは何だ?
考えるまでもない、俺が魔王として生まれたことだ。
俺が魔王に生まれたことに呼応して、〈呪い荒原〉が広がり続けているのであれば――
腹が捩れるほどの恐怖に悲鳴を上げたくなる。
――トゥイーディアは、違うと言ってくれた。
俺を信頼してくれた。
だが、彼女が知らない俺の一面を、俺は知っている。
――確かに、コリウスとの間に何があったのであれ、俺が俺自身のために国を焼くことはないだろう。
さすがに、今よりも遥かに若く幼かったのだとしても、俺は自分の理性をそこまで薄弱だとは思わない。
だがもしも、コリウスとトゥイーディアの間に何かがあったのならば。
トゥイーディアが物事に絡んだ瞬間に、自分の理性が全ての天秤を彼女の方に傾けることを、俺は骨身に染みて知っている。
だが同時に、やっぱり違うとも思う。
トゥイーディアに何かがあって、そのために一国を焼き払おうとしても、俺には出来ない。
なぜならば代償が、俺にそんなことを許さないから。
それに仮に、そのときは何かの理由で代償を潜り抜けたのだとしても。
――俺はやっぱり、最後の最後にトゥイーディアを思うだろう。
トゥイーディアを思って、彼女が虐殺なんかを望むわけがないと理解するだろう。
そうやって踏み留まるだろう。
彼女が俺に齎す気持ちの全部が、最後の最後で俺を止めるだろう。
俺は刻一刻と彼女を好きになり続けているから、今よりずっと過去の俺は、今ほど彼女を愛してはいなかっただろうが、それでも――
――最初に芽生えた気持ちの萌芽が、その本質が、今と変わりなかったからこそ、俺はいっそ呪いや病の類に思えるほどに深く、トゥイーディアを愛しているのだ。
ヘリアンサスに向いていた、トゥイーディアの毅然とした飴色の瞳が脳裏に甦って、ふっと呼吸が楽になった――直後に、あのときに俺を見たコリウスの、あらん限りの驚愕と衝撃が刻まれた濃紫の瞳が浮かんできて、またも呼吸が重くなる。肺腑がまるで、肉ではなくて鉄で出来ているかのような。
感情が千々に乱れている。
振れ幅が大き過ぎる感情が幾つも幾つも、間断なく心臓を締め上げて呼吸すら苦しい。
どの感情を表に出せば良いのかすら分からない。
手足には感覚がなく、もういっそこのまま死んでしまえば楽だとも思ったが、そうなってしまうと、次に生まれたときに俺は、生まれて初めて、みんなとの再会のために動くべきかを迷うことになるだろう。
そこで怖気づいてしまって、もう二度と救世主として立てなくなるかも知れない。
――それは、駄目だ。
トゥイーディアに会えなくなるのも困るけど、それを差し引いても、駄目だ。
――理由もなく強くそう思って、俺は意識を取り戻してから初めて、自覚を籠めて息を吸い込んだ。
駄目だ、駄目だ、と、自分の背後で誰かが囁いているような気さえした。
――駄目だ。
救世主の役割から逃げるようなことがあってはならない。
そうなる可能性は潰すべきだ。
俺たちは救世主でなければならない。
俺たちは魔王を殺さなければならない。
そのために、今に至るまで生きてきたのだと、声のない誰かが俺にそう言っているようにすら感じる。
急かすように背中を押す掌さえも知覚する錯覚。
そして、己の錯覚に促されるままに、俺は目を開けた。
――予期した明るさはそこになかった。
既に日が沈み、辺りは宵闇に満ちている。
空気が冷えて、全身の皮膚が強張っている。
頬の下には硬い瓦礫の感触があって、どうやら俺は瓦礫の上に横になっているらしい。
――そう自覚するに至って、俺はようやく思い出した。
ヘリアンサスが去ったあと、糸が切れたようにトゥイーディアが気絶したのだ。
彼女の重傷具合からして、そのときまで意識を保っていたのが奇跡なんだけど。
そしてもはやトゥイーディアの失神に声を上げる気力もなく、そのまま全員が、傷さえも放置して意識を手放したんだった。
俺は取り敢えずみんなの重篤な傷だけでも何とかしようとしたけれど、魔力はもう残っていなくて、その場に倒れたんだっけ。
もう疲れていたし、何も考えたくなかった。
冷えた風が吹く。
それを半ば以上は他人事のように感じながら、俺は瓦礫に手を突いて起き上がろうとした。
ずる、と手が滑って、掌に穿たれた傷が唐突な激痛を訴えた。
俺は息を吸い込む。
――身体の下が、案の定血の海になっている。
すっかり冷えて固まった血に埋もれて、俺は今の今まで気を失っていたようだ。
俺は生きてるからいいけど、出血多量で死んだ奴はいないだろうな。
トゥイーディアがいちばんに心配だけど、コリウスも俺と同じくらいは出血していた――
――コリウスの名前を、もはや無意識の範疇で思い描いた瞬間に、堰を切ったように心臓が痛んだ。
「――――あ」
声が出た。
その一声が何のためのものだったのかは、俺自身でさえ自覚がなかった。
ようやく上体を起こし、冷えた夜空の下に広がる瓦礫の上を見渡す。
時折吹き渡る風の音の他は全くの無音で、上空に冴えて輝く満月の光を受けて、瓦礫がほの白く光って見える。
息をする度に全身が痛んだが、気絶のような睡眠であっても、僅かながら俺の魔力を回復させていた。
出血のために魔力の回復は鈍いが、それでも、空になっていた魔力が幾許か戻っている。
ふらふらする。
頭の中で、脳みそがゆらゆらと動いているようだ。
眩暈を堪えて周囲に視線を向ければ、目を覚ましているのは俺だけ――いや。
ムンドゥスが、膝を抱えて座っていた。
鏡のような銀の目はぱっちりと開いて満月を映し出しており、彼女が眠っていないことを俺に教えている。
瞬きの他には身動きもせず、コリウスの傍にいたはずの彼女は、今は倒れ伏したカルディオスの傍に、膝を抱えて行儀よく座っていた。
カルディオスと一緒にいるように、というヘリアンサスの言い付けを守っているのかも知れなかった。
黒真珠の色の髪が、夜に溶けていきそうなほどに美しく深い色合いで、月光に光輪を弾いている。
本来ならば、年端もいかないこんな子供を、今に至るまで寒空の下放置していることを謝罪するべきである。
だが、今の俺にそんなことが出来ようはずもなかった。
自分を憐れむのと、自分を責めるのと、コリウスのことを考えるのと、自分たちの過去を考えて怯えるのに、今は必死だ。
とにかく、自分が今もじわじわと出血を続けているらしいことは感覚で分かったので、自分の重篤な傷を塞ぐこととする。
治癒を唯一扱える俺が死んでしまったら、残るみんなも死んでしまうことになるからね。
緩く息を吸い込んで、目を閉じて集中。
今の俺が絶対法を超える魔法を使うのは、常日頃よりずっと難しい。
身体的にも精神的にも、たぶん今生で一番ぼろぼろの状態だ。
回復した僅かばかりの魔力がまたも呑蝕されていくのと引き換えに、ようやく手足の感覚が戻った。
覚えず息を吐いてから、俺は目を開けて、この間に目を覚ました奴がいないかどうか、もう一度みんなを見渡す。
さっきよりは楽に頭を巡らせることが出来た。
負傷に加えて、瓦礫の上で無理な姿勢で数時間眠ったせいで身体の節々が痛むが、これはもう無いも同然の不快感だ。
みんなに声を掛けないと。
全員が重傷だった。
下手したら、眠っているそのままに死んでしまいかねない。
とにかく俺が、治療のために動かないといけない――
そう思い、俺は瓦礫に突いた掌に体重を掛けた。
傷の痛みは脳天を劈くほどだったが、知覚と認識に差異があって、俺は痛みを痛みとして認識することすらもはや放置している。
地面に突いた手に体重を掛けたのは、立ち上がるためだった。
身体の下に目を向けて、そして夜陰にも明らかな、どす黒い血溜まりを見て顔を顰める。
それから息を詰め、一瞬目を閉じて、勢いを付けて膝立ちになり、右膝を立てて足裏を瓦礫の上に突く。
たったそれだけの動作に、全力疾走でもしたかのような疲労感が伴った。
そんな状態に、もはや危機感すら湧き上がらず、ただただ億劫だなと思いながら俺は顔を上げて――
――そして、息を止めた。
月明りに映える銀髪。
宝冠のようなその色が、今は地面から持ち上げられている。
そしてその下に、満月の光を拾って黒にも近い色に映る濃紫の目が、間違えようもなくはっきりと開いて、俺を見ていた。
コリウスが目を覚ましていた。




