91◆ 魔王討伐――諷喩
――ああ、この魔王も人と同じで、炎に当たれば皮膚が焼けるのか。
――そんなことを、俺は眩暈の中で考えて、よろめいて瓦礫の上に倒れ込むヘリアンサスを追うように、俺自身もまた前のめりに膝を突いた。
どっと血が溢れる。
身体の下が血の海になりそう。
耳が痛くなるほどの静寂の中、飛来するカルディオスの炎弾が空気を焦がす音だけが響き――
直後、我に返ったトゥイーディアが、彼女の重傷からすれば信じられないほど素早く、連続で魔法を撃ち出した。
真っ白な光の鱗片を纏う光弾が、一息のうちに十以上、尻餅をつくように倒れ込むヘリアンサス目掛けて降り注ぐ。
カルディオスが撃ち出していた炎弾もまた、一直線に魔王を指して尾を引きながら着弾しようとした。
――が、
「……――びっくりした」
ヘリアンサスが顔を上げた。
光弾は全て、その寸前できらきらと光りながら空中に留められている。
カルディオスの炎弾もまた、着弾を待たずして掻き消された。
爛れた左頬を軽く押さえて、ヘリアンサスは初めて見るほどに好戦的な、少年のような面差しをしていた。
座り込んだまま、俺を見てにっと笑う。
傷に気を遣ったためか、唇の片端だけを吊り上げるような、左右非対称の笑みだった――これまでに見たこいつの表情の中で、一番人間らしい表情だった。
――ぱっ、と最後に強い光を放って、トゥイーディアが撃ち出した光弾が消失していく。
その様が、克明にヘリアンサスの黄金の双眸に映り込んだ。
「――ああ、ほんとにびっくりした。きみ、僕のこと思い出したわけじゃないね?
そんなはずないよね、不可能だし」
歌うようにそう言って、ヘリアンサスは「よいしょ」と立ち上がった。
ぱんぱん、と深青色のガウンから粉塵を払って、ヘリアンサスは一歩下がり、大仰に手を叩いてみせる。
ぱち、ぱち、ぱち。
それが拍手だと、一拍遅れて俺は気付いた。
ヘリアンサスはいとも容易く立ち上がったが、俺はしばらく立てそうもない。
「――おめでとう!!」
ヘリアンサスが声高に宣言した。
その声が、蒼穹に吸い込まれて消えていく。
「おめでとう、ルドベキア! おめでとう、救世主諸君!
きみたちは、長い長い人生の中で初めて――」
芝居がかった仕草で両手を広げて、ヘリアンサスは言い切った。
「――そう、初めて!! この僕に一撃入れたんだ!
誇っていいよ、ルドベキア。偶然の賜物だったけれどね。
――それにしても、これ、痛いね。きみたちがあんまりにも弱いから、僕、実を言うと怪我をすること自体すごく久し振りなんだ。
いったぁ……」
わざとらしく顔を顰め、頬に宛がった左手の中に、ひんやりとした氷雪の冷気を生み出すヘリアンサス。
――ああ、本当に、今のこいつは魔王の権能である治癒を扱うことが出来ないのだ。
一種の感慨すら籠めてそう思う俺を見下ろして、ヘリアンサスは、いつもと同じ頑是ないまでの嗜虐性を秘めた微笑みを零した。
つい先程、あれほどに色濃く黄金の目に渦巻いた驚愕は、今や欠片も見られない。
「じゃあ、ルドベキア。ご令嬢。これで満足した?
快挙じゃないか。僕に尻餅をつかせるなんて、千年ぶり? 二千年ぶり? それくらいでしょ?」
事も無げに言い放つヘリアンサスの言葉に、血を失っていよいよ目が霞む俺は、違和感を覚えて眉を寄せた――何を買い被ってるんだ、こいつは。
俺は今まで一度たりとも、この魔王が尻餅をつくところなど見たことがない。
正真正銘、さっきのが初めてだったはずだ。
恐らく他のみんなも、俺と同じことを考えたに違いない――
――だが、ああ、いよいよ今回もここまでらしい。
ヘリアンサスは俺たちを殺すだろう。
一番近くにいる、俺から殺していくだろう。
首を捩じ切られるのか、頭を砕かれるのか、心臓を潰されるのか、それは分からないけれど。
だがせめて、傍にいるトゥイーディアがそれほどショックを受けない殺され方をしたい。
そう思って息を吸い込む。
瞬きして、目許に力を籠めて、眩暈を抑え込もうとする。
立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。
さっきは本当に、火事場の馬鹿力で動いていたようなものだったみたいだ。
辛うじて右足の膝を立て、地面に足裏を突いたが、そこまでだった。
その右脚に体重を掛けて立ち上がる、その動作が出来ない。
そんな俺を、にこにこと微笑ましそうに眺めながら、ヘリアンサスが手を伸ばし――
「――ヘリアンサス!!」
またも名前を呼ばれて、ヘリアンサスが眉を寄せた。
溜息を吐きつつ、視線を――今度は左方へ――翻し、
――コリウスが、ヘリアンサスから二十ヤードほど離れたその場所に戻って来ていた。
顔色は蒼白、息を弾ませ、出血をいっそう酷くして、だがしっかりと二本の脚でそこに立って、傍には。
「……――は?」
ヘリアンサスが、俺たちの前で初めて間の抜けた顔を晒した。
いつものわざとらしい驚きとは違う。
火傷の痛みも忘れたかに見えた。
本気で、心底から唖然として、ヘリアンサスはコリウスの隣にいる――瓦礫の中にあって、なおいっそうの神秘性を放つ、黒真珠の色の長い髪を幾重にも編み込んで足許に流す、身の丈四フィート三インチ程度の、絶世といってなお足りぬ美貌を持つ少女を見ていた。
――瓦礫の上を吹き渡る風も、その黒真珠の髪を揺らさない。
余りにも長い髪を編んで束ねて結い上げた、その重みが風の強さに勝るのだ。
だが切り揃えられた額髪はさらりと揺れて、その下でぱちりと開いた大きな鏡の色の瞳が、無感動に戦場を映し出していた。
コリウスが、ムンドゥスを――俺たちが切れる最後の手札と一緒に戻って来たのだ。
ムンドゥスは、ルインと一緒に廃村の物見台にいたはずだ。
が、この場にルインはいない――コリウスが気を利かせて、あいつだけでも逃がしてくれたのかも知れない。
ムンドゥスは、鏡のような銀色の目でヘリアンサスを見詰めている。
生真面目な表情で、周囲の惨状など意に介さない、恐ろしいまでの静謐な美貌で。
――こうしてみれば、ヘリアンサスとムンドゥスはあらゆる点において対照的だった。
片や新雪の色の髪、片や黒真珠の色の髪。
片や眩いばかりの黄金の瞳、片や静謐なばかりの銀の瞳。
片や繊細なまでに白い肌、片や黒檀を彫り抜いたかのような美しい黒い肌。
片や完璧に整った姿形、片や罅割れに覆われた姿形。
ヘリアンサスが息を呑んだ。
この白髪金眼の魔王がそのような挙動をとるところを、俺たちは初めて見た。
「――は? ……なんで?」
驚き以外の色の抜け落ちた声で茫然と、ヘリアンサスが呟いた。
こてん、と首を傾げて、ムンドゥスが、水晶の笛を鳴らすかのように高く澄んだ声を出した。
その珠の声音が、戦場にはあるまじき程に幼く美しく響いた。
「……ヘリアンサス」
意外にも、ムンドゥスはヘリアンサスに駆け寄って行ったりはしなかった。
コリウスの隣に立ったまま、まるで傍まで来ていいと言われるのを待っているかのように、身体の後ろに手を回して、首を傾げるのと一緒に、少しばかり身体も傾けていた。
ヘリアンサスが瞬きした。
愕然とした声が、その唇から漏れた。
「……――ムーン、なんで」
この魔王が他人を、愛称で呼んでいる。
――人質作戦は、思った以上の当たりかも知れない。
そう思った直後、ムンドゥスが、とた、と一歩を踏み出した。
名前を呼ばれて、傍まで来て良いという許しが出たと思ったのかも知れない。
コリウスがはっとしたように手を伸べてその肩を押さえようとする――
――それに刹那先んじて、ヘリアンサスが廃村に轟く大声を出した。
「――動くな!!」
ぴた、とムンドゥスが足を止めた。
唐突に轟いた怒声にも、まるで怯えた様子はない。
むしろ俺たちの方が竦んだ。
ヘリアンサスが声を荒らげる場面など、これまでに出くわしたことがない。
金眼を燃やして、ヘリアンサスが俺を見下ろした。
その表情に、これまでに目の当たりにしたことがない、激しいばかりの憤怒が閃いていた。
「どういうつもりだ――機織り塔に入ったのか!」
声を荒らげて詰め寄られ、動くに動けぬ俺は息を止めた。
ここまで瞬時にヘリアンサスの激情が沸点を振り切れることは予想だにしていなかった。
それは他の五人も同様だった――すぐ傍のトゥイーディアは勿論、その後ろのディセントラも、離れたところに寄り添って立つカルディオスもアナベルも、そしてムンドゥスの隣に立つコリウスも、予測を超えるヘリアンサスの憤激に茫然としている。
「入らないよう命じたはずだ! ――どうしてあの子がここにいる!!」
俺たちは応じられない。
皮肉のひとつも飛ばしてやりたいが、感情が爆発したかのようなヘリアンサスの怒気が、俺たちから言葉という言葉を奪っていた。
「……ヘリアンサス」
ムンドゥスが、首を傾げたままに呼ばわった。
ぴたりと口を噤んで、ヘリアンサスがそちらを振り返った。
長い漆黒の睫毛を瞬かせて、ムンドゥスは、謳うように呟いた。
「――糸が切れたの。機を織れなくなった。ヘリアンサスに会わないといけなくなったの。
だから、」
「ムーン――ムンドゥス」
食いしばった歯の間から囁くような声を押し出して、ヘリアンサスが呻いた。
「言ったはずだ――あそこから出てはいけなかった」
それを聞いて、あのとき――ムンドゥスと初めて出会ったとき、機織り塔の中で理不尽なまでに強く突き上げてきた気持ちと同じ気持ちが、唐突に俺の胸に湧き上がった。
――可哀想だ、閉じ込めておくのは可哀想だ、という。
だがそれを口に出せない。
ヘリアンサスは、初めて見るほどに激した眼差しで、今度はトゥイーディアを睨め付けていた。
「……機織り塔に入ったんだな」
低い声でそう断言して、ヘリアンサスは純白の睫毛を伏せた。
激情に、大きくその肩が上下した。
「――考えておくべきだった……あの島まで行くというのなら、有り得るはずだと考えておくべきだった……臣下の誰かが口を割ったんだな……」
左手で顔を押さえて、その拍子に火傷に触れたにも関わらず、痛みは欠片たりとも表に出さず、ヘリアンサスは呟いた。
そして顔を上げ、嚇怒に光る瞳をトゥイーディアに当てる。
「そうだ、ご令嬢。きみたちの前世において、僕が使ったあの兵器――確かにこの子が僕に贈ってくれたものだ。だけどあれは複製の有り得ない、唯一無二のものだ――きみが砕いた時点で、あれはもう終わったんだ。
――にも関わらず、きみは」
ヘリアンサスが一歩踏み出した。
なお立ち上がれない俺の肩を乱暴に押し退けて、呆気ないほど簡単に倒れる俺に一瞥もくれず、立ち尽くすトゥイーディアに詰め寄って。
「――何度、あの子に近付いた?」
低い――地を這うほどに低い声で、ヘリアンサスの言葉が恫喝じみて響いた。
右手が伸ばされる――その手がトゥイーディアの左肩を掴む。
めきめきと、彼女の骨が軋む音が聞こえるほどに力を籠めて、ヘリアンサスは。
「――まさかあの子に手を触れたりはしなかっただろうな?」
ばきっ! と耳を劈く音と共に、トゥイーディアの肩が砕けた。
トゥイーディアの、悲鳴になり損ねた掠れた声が、一瞬だけ俺の耳に届いた。
――俺は動けない。
負傷の程度が限界を超えたというだけではなく、今度こそ、命の危機に晒されているのがトゥイーディアだからこそ、――俺の代償があらゆる行動を禁じている。
恐怖の余りに、身体の全ての感覚が消え去ったが、ヘリアンサスはトゥイーディアを殺さなかった。
唐突に、突き放すように彼女から手を離し、さすがにその場に頽れるトゥイーディアを見下ろして一歩下がった。
激情に肩を上下させて、ヘリアンサスはいつもの余裕など消え去った、直情的なまでの声で。
「……気が変わった」
陰惨に低く呟いて、ヘリアンサスは拳を握った。
この魔王がこれほどに人間らしく感情を露わにするところを、俺は初めて見た。
「正式に使者が来るまで黙っていてあげるつもりだったけれど、こうまで僕に腹立たしい思いをさせるなら別だ」
新雪の色の髪を掻き上げて、魔王ヘリアンサスは微笑んだ。
いつもとはまるで違う、激情を抑え込んで震えるばかりの笑みだった。
そして、ヘリアンサスが告げた。
明瞭に、明確に――蒼白な顔で震えるトゥイーディアへ。
「――ご令嬢。お父さんは元気かい?」
 




