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90◆ 魔王討伐――手品の時間

 轟くレヴナントの咆哮に、さしもの俺たちも全員が、一刹那の間思考停止に陥った。


 びりびりと瓦礫が震える。

 レヴナントまでの距離はおよそ十ヤード程度。

 そこから迸る、言葉のない亡霊の絶叫――



 それを無表情に聞きながら、ヘリアンサスが呟いた。

 色彩のない、冷えた声だった。


「――せっかく、僕は世双珠を避けてあげたっていうのに」


 その一言で全てを悟ったのか、トゥイーディアが愕然としてレヴナントに向き直るのが見えた。


 俺が話したシャロンさんの仮説と、今この状況が、彼女の頭の中で結びつくのが見えるようだった。



 同じく息を呑む気配は、他のみんなからもあった。


 けれど。



 ――誰もトゥイーディアを責められないだろう。


 我を失って当然の状況だった。

 今この瞬間まで、あの仮説には裏付けも何もなかった。



 だが同時に、状況は最悪を超えた。



 ――俺たちが万全と言わず、その半分程度でも余力を残した状態であれば、レヴナント一体如きは脅威にならなかっただろう。

 だが今は、全員が重傷を負っている上に魔力も体力も尽き掛けている状況だ。


 それに加えて、ヘリアンサスがここにいる。

 ヘリアンサスがレヴナントを使役できるのならば、もはや相討ちですら有り得ない――



 血と粉塵に汚れた蜂蜜色の髪を揺らして、トゥイーディアがコリウスを見た。

 飴色の目と濃紫の目が互いを映して、一瞬後、短い頷きひとつ残して、コリウスの姿が素早くその場から掻き消える。


 俺たち全員を舐め切り、動向に欠片たりとも注意を割かないヘリアンサスとはいえ、コリウスがいなくなったことには気付いただろう。


 しかしヘリアンサスは、それについて言及しなかった。

 情動一切を削ぎ落したかのような顔で、無言でレヴナントを見上げていた。


 その冴えた黄金の目に、翳が落ちて暗く見えた。



 ――ああああああ。



 レヴナントが絶叫する。巨大な頭部を激しく振り、見開かれたその黄金の眼に、目まぐるしく眼下の光景を映し出す。

 結膜(しろめ)のない、巨大な(たま)のようなその眼――縦長に黒く瞳孔の切れ込む、濁った黄金色の。


「……目がある……」


 ディセントラが掠れた声で呟くのが聞こえてきた。

 ――こいつ、眼のあるレヴナントは見たことなかったっけ、と、俺はこんな場合であっても少し考え――しかしすぐに、首を振って思考を打ち切る。


 そろりと足を踏み出して、俺はアナベルの傍に行こうとした。


 この状況、立って歩けないのはさすがに(まず)すぎる。

 彼女の治癒だけでも完了させねば、戦闘どころの話ではない。


 しかもアナベルは、俺たちよりもレヴナントの近くの位置にいる。


 恐らくアナベルも、同じことを考えて俺を待ち構えているはずだ。

 俺の隣に立つカルディオスもまた、早く行けというように、後ろ手に俺へ合図していた。



 が、俺が動いた途端、弾かれたようにレヴナントがこちらを見た。


 濁った金の眼が、違えることなく俺を見ていた。



 ――あああ、ああああ。



 唸るような咆哮が、ぱっかりと裂けた巨大な(あぎと)から漏れる。

 実体すら定かでないその顔貌が、炯々と輝く双眸のためか、幾許かの陰影を伴って見えた。



 ――ああ、あああああ!



 咆哮が高まる。


 そしてレヴナントが、全く唐突に、前動作も何もなく、出し抜けにその巨大な左腕を、薙ぐように振った。

 その、妙にはっきりと形作られた五指が掠めた瓦礫が、どがっ! と盛大な音を立てて抉れ、粉塵を巻き上げる。


 その軌道上にいたのはディセントラで、咄嗟に彼女が避けかねると判断した俺が、ぱんっと両手を合わせていた。

 それを合図に、ディセントラを筐体に閉じ込めるようにがちりと空気が硬化して、盾となる。



 ヘリアンサスが俺を見た。

 そして、レヴナントが出現してから初めて表情を動かして、しゃらりと腕輪を鳴らしながら俺を指差した。


 そして、自慢げに言った。


「――ほら、魔王だ」



 違う、と俺が反駁するよりも早く、ディセントラを守る空気の盾に指先をぶつけたレヴナントが、弾かれたようにその手を引いていた。


 魔力の摩耗を嫌って――というよりも、摩耗を許容するだけの魔力ももはや無く――、俺は素早く空気の硬化を解除。

 ディセントラが後退る。


 レヴナントは、驚くほど人間らしい動きでまじまじと己が指先を見て、それから、またも俺を見ていた。

 そして、妙に低く、唸るような声を上げた。


 その声が、間違いなく、言葉を成して聞こえた。



 ――か……ぁわいそう……にねぇぇぇ



 カルディオスの翡翠の目が、訝しげに俺を見た。


 だが、彼が何を言うよりも先に、レヴナントが突如として、激しくその頭を振り始めた。

 その仕草は、錯乱した人間にも似て見えた。


 そして、まるで苛立った人間が両手で机を叩くときのような、そんな手振りで両手を上げた。



 ――考えるよりも先に、カルディオスの手から黒い斧槍を奪い取り、俺は走り出していた。


 魔力と時間が許すか否かの兼ね合いで、重篤な傷しか塞ぐことが出来ていない。

 そのためにまだ残っている、穿たれた全身の傷が劈くように痛んだが、そんなことを言っていられない。


 レヴナントがこのまま手を振り下ろせば、恐らくその掌がアナベルを直撃する。


 アナベルは動けない。


 ヘリアンサスが、驚いたように俺を見た。

 奴が何かを言った気がしたが、そんなことはどうでも良かった。

 ヘリアンサスの動向は、他のみんなが見てくれているだろう。



 レヴナントの掌が振り下ろされるまでの数秒間に、俺は瞬発力の全てを振り絞ってアナベルの傍まで走り抜け、最後には、座り込んだ彼女の頭上を飛び越えるようにして、アナベルを庇う位置に立った。


 その動きにも傷が開いて、またも出血が始まったのが分かる。

 だがもうどうしようもない。俺の魔力にだって限りがあるのだ。


 斧槍を頭上に掲げ、レヴナントと自分たちの間の空気を一気に硬化させる。


 ぎんっ、と凄絶な音と共に、絶対法を超える魔法の対価として、ごっそりと魔力が持って行かれた。


 ばんっ! と、咄嗟の障壁に叩き付けられるレヴナントの巨大な掌。


 その打擲が、まるで直接俺の身体を叩いたかのようにも感じられた。

 正確には、そう感じられるほどに身の内から抜き取られていく魔力の勢いが壮絶だった。


 思わず膝を屈しそうになるが――そうしてはいられない。


 歯を食いしばり、唇を噛み、俺は背後にいるアナベルの治癒を一心に念じて目を閉じた。



 ――頼む、頼む……振り返っていられない。アナベルの傷を見て治療していられない。

 これで治ってくれ、頼む……!



 更にごっそりと魔力が減っていく。

 魔法を使うために魔力の中に手を突っ込めば、底を擦るような、そんな残量。


 それでも、もはや祈るようにして世界の法を書き換えた、その事の成否を案じて息を詰めたのは一瞬。


 すぐさま、背後でアナベルが立ち上がる気配があった。

 とはいえ、すぐに彼女に援護を頼むのは無理な話だ。


 そもそも魔力が枯渇し掛かっている上、今の彼女の精神状態を思えば――



 ――温和に、柔和に、愛おしそうに微笑む、赤い髪のシオンさんの姿が、脳裏に過った。


 俺ですら、これほど鮮明に彼のことを覚えている。



 ならばアナベルは。


 誰より大きな愛情を彼に注いだアナベルは。

 あのとき、王城の大広間で、涙を光らせながらシオンさんに生還を約束したアナベルは、――どれほど。



 何度思い返したことだろう、何度焦がれたことだろう、何度後悔したことだろう。



 俺の想像すら及ばない別離の苦痛を、今なお抱えているアナベルは、その傷口を抉られたばかりなのだ。



 だからこそ、――



「――下がってろ!!」


 叫ぶというように怒鳴るようにそう言って、俺は自分の背後からアナベルが飛び退って距離を置いたことを、気配のみを頼りに悟った。



 ――ここであと一秒を持ち堪えれば、恐らくはトゥイーディアやディセントラから、何某かの援護があっただろう。

 だがこの一瞬未満、俺はアナベルが取り敢えずは安全圏へ退避したこと、その安堵を真っ先に覚えてしまった。



 安堵が張り詰めていた神経を緩め、途端、全身を劈く傷の痛みが何倍も鮮明になって、ありとあらゆる身体の箇所で爆発した。



「――――っ!」


 痛みは直截的に集中を奪い、硬化した空気の強度に響いた。


 ばきん、と、聞こえてはならない音がした。


「は、――」


 息を呑んだ直後、あえかな音と共に木端微塵に砕け散る、硬化させた空気。


 硝子片のように陽光を反射しながら降り注ぐその欠片を巻き込んで、レヴナントの巨大な掌が、俺の頭上から振り下ろされた。



「ルドベキア!!」



 複数人が一斉に叫んだ。

 だが俺には一人の声しか聞こえなかった。


 トゥイーディアが――俺にとっての、朝のいちばん眩しいところを集めたような彼女が――、信じられないほど悲痛な声を張り上げている。



 そんなにつらそうな声を出すなよ、と言いたかった。


 おまえ、俺のこと嫌いじゃん。俺はおまえのこと大好きだけど。

 いつも喧嘩ばっかりしてんじゃん。俺が悪いんだけど。


 だから別に、俺が怪我をしようが痛がろうが、ここで死のうが悲しむことないじゃん。


 ていうか悲しまないでくれ。

 俺を惜しんで悲しんでくれるのなら嬉しいんだけど、でもそれ以上に、おまえの顔が曇るところは見たくないんだよ――



 そんな、阿保らしいばかりの刹那の思考ののち、俺は瓦礫の上に叩き付けられていた。

 斧槍が跳ねて、りぃん、と高い音が鳴る。


 ヘリアンサスが力任せに押し潰して更地にしたとはいえ、凹凸は残っている。

 その凹凸が容赦なく背中側の傷を抉り、さっき塞いだばかりの傷が見事に開いた。

 ぐちゃ、と肉が潰れる音が聞こえてきたくらいだ。


 余りの痛みに、瞼の裏で光が炸裂する。

 意識が飛びそうになるのを、必死になって繋ぎ留める。


 そうしてから、あれ、どうやら俺は死んでないらしいぞ、と分かった。


 すぐ傍で大絶叫が上がっており、どうした誰か怪我をしたのか、と勘繰った直後に、叫んでいるのが自分だと気付いた。


 痛みに、自覚よりも先に絶叫が喉を突き破っていた。


 自覚して、叫び声を引っ込める。

 咳き込み、その拍子に血を吐きながら、俺は瓦礫を引っ掻くようにして身を起した。


 立ち上がれない。

 足のどこかがおかしくなったのかも知れない。感覚がない。


 そもそも俺は、レヴナントの掌をどこに受けたんだ。

 全身が痛すぎて、もはやそれすら分からない。頭は避けたみたいだけど。



 眩暈に揺れる目を上げる。


 レヴナントは、再び高々と両手を振り上げていた。

 見ただけでその殺傷力の高さが分かるほどに巨大な掌。


 陽光を切り取って黒々とした影に見えるそれが、眩暈のために四つにも五つにも見えてくる。



 ――ああ、死んだ。



 驚くほどすんなりと、俺は理解した。



 ――これは死ぬ。俺は防げない。もう魔力がない。



 生まれて初めて、俺はヘリアンサス以外の何ものかに殺されようとしている。



 ――思えば、酷い人生だった。



 掌が振り下ろされるその一瞬未満の間、視界とは裏腹に、妙に冴えた脳裏でそんなことを思う。



 ――生まれがそもそも魔王だし。暗殺から逃げ続けてやっとの思いで生き抜くなんて、不幸すぎる。十八年の間、俺は安心できる睡眠からも食事からも隔離されていたのだ。暗殺が表面化してからのことなんて思い出したくもない。何人を巻き添えで死なせたか。

 そこから延々と漂流して、やっとのことで大陸まで来たら、色々と様変わりし過ぎてて腰抜かすし。みんながどこにいるか全然分かんなかったし。再会のときに大泣きしちゃったし。

 そもそも、まだみんなと再会してから一年ちょっとしか経ってないし。これ、今までの人生の最短記録じゃないか、再会してから死ぬまで。



 音も聞こえない――否、音が鼓膜を震わせるまでの僅かな間も経っていない、瞬きのその半分ほどの時間の走馬灯。



 ――ああ、でも……、



 陽光がレヴナントの掌を薄墨色に透けさせる。

 柔らかな春先の太陽が、信じられないほど美しく降り注いでいる――



 ――トゥイーディアがいたから、いいか。

 どれだけの年数に亘って不幸な目に遭っていようが、思い出すのも嫌なくらいに散々な目にあっていようが、人生の片隅にでもトゥイーディアがいてくれれば、それは俺にとって最高の人生だ。豊かな人生だ。

 欲を言えばもう少し、トゥイーディアの笑顔が見たかったけれど、それは望み過ぎというものだろう。

 俺はトゥイーディアに会えて、彼女の声が聞けて、彼女とたまには共闘できて、何度か彼女を助けることが出来た。十分だ。



 どうか願わくば、トゥイーディアがここを生きて乗り越えて、彼女が心から愛しているらしい、今の彼女の郷里に帰れますように――



 そう考え、祈り、俺はせめて目は閉じるまいと、迫る掌を凝視した――




「――手を出すな」




 唐突に、切り裂くように明瞭に割って入ったその声が、まるで物理的な障壁を俺とレヴナントの間に作り出したかのようだった。

 ぴたりとレヴナントの掌が止まった。


 まさに、俺の鼻先で。



 ぶわ、と、掌が巻き込んでいた空気が風になって頬にぶつかる。


 俺は思わず目を細め、今の声の主が誰なのか、分かり切ったその答えを求めて、(いたずら)に思考を空転させた。



 そろり、と、巨大な掌が目の前から持ち上げられる。


 それを目で追って、そして俺は左側に顔を巡らせた。


 突き抜ける驚きに目が滑ったが、しかし見間違うはずもなかった。



 ――ヘリアンサスが、俺のすぐ傍まで歩を進めていた。


 情動一切を削ぎ落した無表情で、歪んだ鏡面のような瞳に、俺には窺い知ることの出来ない何かの感情を烈火の如くに煌めかせて、レヴナントを――その濁った金の眼を、瞳を眇めて見上げていた。



 ――あ、あ、ああああ?



 レヴナントが呻く。

 迷うように蹈鞴を踏み、その衝撃に瓦礫が揺れる。

 持ち上げられた掌が、危うげに上下する。



 その全てを冴えた黄金の目に映して、ヘリアンサスが再び口を開いた。


 押し殺した声で、何かを諳んじるような口調だった。



「――“()()()()()()()は、僕以外から害されない”」



 決して大きな声ではなかったが、その言葉を聞いた途端、鞭打たれたかのようにレヴナントが後退った。


 そのまま巨躯を屈めて膝を突く――恭順の姿勢。


 膝を突くその動きにさえ、震動を拾って瓦礫が揺れる。



 ――この灰色の亡霊が、このような反応を示すのを、俺は今まで見たことがなかった。



 愕然として、すぐ傍に立つヘリアンサスを見上げる。


 陽光が純白の髪を透かして、複雑な陰影を頬に落としていた。



 ――その黄金の瞳が翻って、俺を見た。

 表情が動いた。


 ゆっくりと、滲むように、ヘリアンサスは優しげに微笑して、俺を見下ろして腰を屈め――



「……気付いてなかったの?」



 秘め事を打ち明けるかのように親しく、そう囁いた。



「今まで、きみを殺したことがあるのは僕だけなんだよ」



 ――知っている。


 俺の、――俺たちの死因は、悉くがこの白髪金眼の魔王。

 唯一コリウスのみは例外があるが、他は――


 そんなことを考える俺の目の前で、ヘリアンサスはなおいっそう笑みを深めて、



「――老いですら、きみの命を盗ったことはない」



 誇らかなまでの口調でそう囁いて、ヘリアンサスは、腕輪の鳴る左手を持ち上げて、俺を指差した。



 ぱあん! と、弾けるような高い音が響いて、俺の腹部に細く、腹から背中までを貫通する穴が開いた。





◆◆◆





 一瞬、間抜けにも茫然とした俺は、直後に爆発した痛覚の衝撃に、叫ぶことすら出来ずに倒れ込んだ。


 どくどくと血が流れていくのが分かる。

 目が霞む。


 恐らく、ガルシア戦役のときにトゥイーディアが穿たれた穴よりは遥かに直径が小さいが、そもそも内臓を幾つか貫通している時点で生命が危ぶまれることは自明の理。



 ――あれ、どうしよう。


 ――このままにしていていいんだっけ。


 ――あれ、これ、どうなるんだ?


 ――待って、待って、待て待て待て――



 錯乱した思考が流れた刹那ののち、もはや怒号じみた悲鳴が上がった。


「――血を止めて!!」


 耳を劈くその声に、なぜか俺は無条件に従うことが出来た。


 底を突き掛けた魔力を掬い上げて、ありったけの集中力を振り絞って止血に充てる。

 痛みは鮮烈なままだったが、血が止まったことは感じられた。



 だが、起き上がることが出来ない。

 指先の感覚がない。


 身体が芯から凍えている――



 瓦礫が揺れる感覚があって、誰かの足音が聞こえた。


 必死になって顔だけを上げる。


 ――トゥイーディアが、どうやらヘリアンサスを俺から引き離そうとしてくれているようだ。



 ヘリアンサスは肩を竦めて、悠々とした足取りで俺から数歩を離れ――


 ガウンの裾を翻し、くるり、と振り返った。

 その視線の先にはレヴナント。相も変わらず膝を突き、恭順の姿勢を示す薄墨色の巨人。



「――“番人ルドベキアが、この僕に会いに来た”」



 諳んじるように、ヘリアンサスがそう言った。

 ――レヴナントは動かない。


 それに、少しだけ意外そうに目を瞬かせてから、ヘリアンサスは続けて言った。

 やはり、何かを諳んじるように。



「“()()には遺漏ない”」



 レヴナントの巨大な黄金の眼が、俺を見た。


 それからヘリアンサスを見て、あああ、と声が漏れた。



 ――直後、()()()()()()()()()()()()()()


 これには、瀕死といえども俺も目を見開いた。

 それどころかトゥイーディアも、カルディオスも、ディセントラも、アナベルも、愕然と目を見開いてそちらを見ている。



 手足の末端から透けていくレヴナント。

 するすると解けるように、忽ちのうちに胸部までが透き通って消えていく。


 そして頭部が。

 まるで瞼を閉じるように黄金の双眸が消えていき、そのまままるで、空気そのものに溶け込んでいくかのように姿を消す――



「――よし」


 レヴナントが完全に消失したことを見て取って、ヘリアンサスがわざとらしく頷いた。


 そうしてから、頭を傾けるようにして俺を見て、にっこりと笑った。

 まるで悪戯がばれた子供のように肩を竦めて、ヘリアンサスは悪びれることもなく。


「きみがあんまり死にそうな顔してるから、撃っちゃった。

 でもまあ、案外と素直に退散していくものだね。きみも今度やってみたら?」


 そう言ってから、ヘリアンサスは愉快そうに肩を揺らす。


「――けど、ごめんね。きみ、なんだか僕のせいで死にそうだね」


 しゃあしゃあとそう抜かすヘリアンサスに向かって、象牙色の長剣が振られた。

 トゥイーディアだ。


 彼女は今俺の傍にいて、ヘリアンサスを俺から引き離そうとしてくれている。


 とはいえ、もう彼女も限界だ。

 剣が振り下ろされるその軌道も、もうさっきまでのような冴えはない。


 ヘリアンサスが、うるさそうにその剣を払う。

 ぱしん、と振り払われただけで、トゥイーディアが大きく体勢を崩した。


「――諦めが悪いね、ご令嬢」


 軽侮の色濃い声音でそう言って、ヘリアンサスが一歩、トゥイーディアに近付いた。



 トゥイーディアが、ヘリアンサスから視線を外した。



 ヘリアンサスが眉を寄せる。

 それを他所に、トゥイーディアの飴色の双眸が、真っ直ぐにカルディオスを見た。



 カルディオスは――見た目の年齢でいえば――この中の誰よりも年上だというのに、迷子になった子供のような顔でトゥイーディアを見ていた。


 腹部の損傷はどれほどだろう、口許は吐血で真っ赤に濡れていて、しかしそれすらも、カルディオスの絶世の美貌を縁取る装飾のようですらあった。



 ――どんな最高級の宝玉でも追い付かないほどに美しいカルディオスの翡翠の目を見て、トゥイーディアは距離を跨いで頷いた。


 そして、呟くように言った。


「……カル、お願いね」


 カルディオスが息を吸い込み、どこか茫然としているアナベルに歩み寄ってその腕を掴んだ――



 ――それを、俺はどこか静謐な水の膜を通して見るかのように見ていた。

 現実味がまるでなかった。



 カルディオスに腕を引かれて、アナベルが愕然とした様子でその顔を仰ぎ見る。

 彼女が何か囁いたが、声までは聞こえなかった。


 カルディオスは真一文字に唇を引き結んで、アナベルを引き摺るようにしながら後退っている。



 ――トゥイーディアは確かに、カルディオスに頼んでいた。

 自分のいないところでは、アナベルがヘリアンサスと接触しないようにして欲しい、と。



 でも、ここにトゥイーディアはいるじゃないか。


 なんであの、奇妙なお願いを蒸し返すんだ。



 ここにいるじゃないか、トゥイーディア。

 ちゃんとここに――




 ――――ああ。




 ヘリアンサスが、きょとんとした顔でカルディオスを見て、それからトゥイーディアを見た。

 色素の薄い唇が、嘲るように歪んだ。


「……上手く誤魔化したね、ご令嬢」


 トゥイーディアは応じなかった。

 傍目にもふらつく彼女が息を吸い込み、象牙色の長剣を構えた。



 ――トゥイーディア、



 俺は、瓦礫を掻き毟るようにして身を起した。

 上体を起こし、そのまま立ち上がろうとする。


 自分が流した血の中に手を突いてしまい、生温いぬめった感覚と共に、盛大に手が滑って、踏ん張ろうとしたせいで掌の傷がまた増えた。

 皮膚が捲れて肉が抉れる。

 爪が剥がれたのが、刺されたような激痛で分かった。



 ――トゥイーディア、死ぬ気だ。



 手を突いて、震えそうになる腕を叱咤して体重を支えて、脚を曲げて膝を突く。

 立て、立て、と自分に命じる。



 ――自分がいなくなるから、だからカルディオスにアナベルのことを頼んだんだ。

 でも、駄目だ、そんなの駄目だ。少なくとも俺よりは後じゃないと。



 妄執じみた恋慕が身体を動かす。

 あるいは全くの保身。


 トゥイーディアがいない世界では息すらしたくないという、トゥイーディアが目の前でいなくなるなんて死んでもごめんだという、俺の小汚い本能。



 膝立ちの姿勢から、なかなか立ち上がれない。



 ――がぃん! と硬質な音が上がって、俺は身を竦めた。

 トゥイーディアがヘリアンサスに打ち掛かっている。


 真っ白な光の鱗片が、象牙色の刀身を彩ってふわふわと舞い落ちている。

 弾かれた剣先が瓦礫を叩いた瞬間、ぼご、と音がして、瓦礫に見事な大穴が開いたのが見えた。



 立たなきゃ。立って、なんとかしてあの子を助けないと。



 掴んだままの斧槍を地面に突き、縋るように立ち上がる。



 足が震えた――なんでこんなに格好悪いんだろう、俺。

 一回でいいから、トゥイーディアに格好いいと思ってもらいたいんだけど。



 泣きそうだ。

 鼻の奥がつんとする。

 トゥイーディアに生きててほしいのに、俺自身が弱すぎる。


 なんだよこれ。何なんだよ。

 こんなにいつもいつも頑張ってるんだから、もう何回目の挑戦かも覚えてないくらいなんだから、そろそろ一回くらい譲ってくれてもいいじゃないか、報われてもいいじゃないか、なあ?



 歯を食いしばって立ち上がろうとしていると、どうやら見かねたらしいディセントラが、俺の方へ駆け寄って来て左肩を貸してくれた。

 右肩は血塗れ。出血は止まらず、どくどくと軍服を染めていく血液の赤と反比例に、ディセントラの頬からは血の気どころか生気すらも引いていっていた。



 それでも走り寄って来てくれたのだから、ディセントラという女はつくづく凄い。



「……――コリウスが、……」


 ディセントラが囁いた。


 直後、またも剣戟の音。

 ヘリアンサスは、もはや退屈そうな顔を前面に出してトゥイーディアの剣を苛立たしげに払っていた。



 ――そうだ、コリウスが、()()()()()()を連れて来るはずだ。


 もっと早くに切るべき手札だったのかも知れないが、俺たちは救世主だから、やっぱりぎりぎりまで自分たちで頑張りたかった。卑怯な手段は採りたくなかった。


 それに欲を言えば、最後の手札を切る前に、多少なりともヘリアンサスを削っておかねば、どちらにせよ全てが水泡に帰す可能性が高かった。



 ――俺たちはヘリアンサスを、僅かなりとも削れただろうか。



 あの最後の切り札においてヘリアンサスの動揺を誘うことが出来れば、まだ僅かとはいえ余力のある、ディセントラかコリウスが特攻してくれるだろう。


 本来は俺がその役割を担うべきなのかも知れないが、もう無理だ。



 ――それに。



 息を吸い込む。


 同瞬、とうとうトゥイーディアの手から象牙色の長剣が零れ落ちた。

 がらん、と乾いた音を立てて足許を叩いた剣を一瞥し、しかし微塵の恐怖も動揺もなく、トゥイーディアが間近のヘリアンサスを見据える。



 溜息を零したヘリアンサスが、決まり切った作業を片付けるかの如き仕草で、左手をトゥイーディアに突き付けて――



 ――ディセントラを後ろに押し遣り、俺は地面を蹴った。


 ぼた、と足許を血が叩いたが、あんまり意識しなかった。


 握っていた斧槍が妙に重く感じたので手を離す。

 斧槍が瓦礫の上に落ち、がらん、と響いた大音響に、ヘリアンサスがこちらを向いた。



 ――この瞬間の俺は、もはや死が確定したも同然のトゥイーディアではなく、まだ幾許かは余命のありそうなディセントラを庇って、彼女が進退を決めるまでの間隙を稼ぐために、前に出たように見えただろう。


 何しろ、ヘリアンサスとディセントラには、僅か数ヤードの距離しか開いていない――



 地面を蹴る。

 あと数歩でヘリアンサスだ。

 血が落ちるが、そこまでならば気力で持たせてみせる。


 徒手になったことを、事実から遅れて認識して、俺は右拳を握り固めた。


 掌の傷が意識を劈き、皮肉にもそれを以て俺は正気を保っている。



 拳を振り被る俺を、ヘリアンサスは愉快そうに見ていた。


 トゥイーディアの方が、むしろ恐怖に切迫した目で俺を見ていた。

 彼女の唇が動く――来るなと叫ぼうとしているのが分かる――



 ――ヘリアンサスの左手が、すい、と動いて、トゥイーディアから逸れて俺に向けられた。


 その動作ひとつが、俺に最後の活力を与えた。



 トゥイーディアが助かるかも知れない。



 その可能性、真夏に雪が残るほど薄い可能性なのかも知れないが、だが零ではなくなったその可能性が、最後に残った俺の闘争心に火を点けた。



 ――なおも一歩。弾みがつく。

 勢いを溜める。


 拳ひとつで何が出来るわけもないが、だが何もしないよりは遥かにマシだ。



 そして俺が、振り被った拳を振り下ろそうとしたその瞬間、



「――ヘリアンサス!!」



 声が轟いた。

 カルディオスの声だった。



 刹那に満たぬその瞬間に、トゥイーディアが唖然として目を見開いたのが分かった。



 俺の視界の左の隅に、この場から離れずにアナベルと寄り添って立つカルディオスが見えていた――あいつはやっぱり、この場を見捨てて逃げて行くことが出来なかったらしい。


 あるいはアナベルが、猛烈に抵抗したのかも知れないが。


 カルディオスが伸ばした右手から、小さな流星のように輝く炎弾が撃ち出されようとしていた。



 ヘリアンサスが瞬きして、奴からすれば右手から聞こえたカルディオスの声に振り返った。



 すぐ傍に俺もトゥイーディアもいるというのに、呼ばれて振り返るその行為こそが、あらゆる状況を排して最初に顔を出す、条件反射だと言わんばかりに。



 純白の髪が揺れる。

 黄金の目が、懐かしそうに細められた。



 ――その余裕に溢れた態度が、火の点いた俺の闘争心を逆撫でした。



 ああ、いいだろう、最後の最後まで、今回もやっぱり俺たちを馬鹿にし続けるというのなら、俺も今回ばかりはおまえを馬鹿にさせてもらう。



「――さあ、」



 食いしばった歯の間から囁く。

 声は、俺自身の耳にさえ潰れて届いた。




()()()()()()




 ――ぼっ、と、俺の拳が燃え上がった。

 本当に――さながら手品のように。


 魔力の残滓を掻き集めた、万全のときとは天地の隔たりのある炎。

 緋色に揺らいで光る、俺からすれば温いくらいの。



 ヘリアンサスが、目を見開いて俺を振り返った。


 この長い人生で初めて、本心からの、震えんばかりの驚愕がその瞳に溢れているのを俺は見た。


 大きく目を瞠り、あらゆる余裕と訳知り顔の剥がれ落ちた、外見年齢相応の――茫然とした表情が、その顔を唐突に染め上げた。



 ――なぜだろう。

 俺がこれまでに一度たりともしなかった、こいつを馬鹿にするような言動を、瀕死のこの状態において取ったからか。



 掠めるような疑問を覚えたが、それすらすぐに霧散する。


 拳は振り下ろされている。


 踊る炎の陰影がくっきりと、ヘリアンサスの見開かれた黄金の瞳に映り込む。




「――()()()、なんで、()()のこと思い出して――?」




 愕然と口走ったヘリアンサスの、その左の頬を、振り抜いた俺の右拳が確かに捉え、抉るように殴り飛ばした。



 ――肉の焦げる臭いがした。



 ――ああ、この魔王も人と同じで、炎に当たれば皮膚が焼けるのか。













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― 新着の感想 ―
[良い点] 本当にもう最高です! 1つ1ついい点を挙げていとすごく長くなってしまい迷惑になりそうなので、1点だけ、 登場人物の感情がダイレクトに伝わってきてめちゃくちゃワクワクします!!! [気になる…
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