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85◆ 魔王討伐――名前

 先程までの無表情が嘘のように微笑んで、ヘリアンサスは首を傾げた。


「――へえ、僕の勝ち?」


 まるで、子供に付き合わされた大人が、子供の決まり事で勝ちを言い渡されたかのような、ほんの少しの肩透かしと戸惑いを籠めてそう言って、ヘリアンサスは肩を揺らした。


 笑ったがゆえのことだったが、心底から笑っているわけではなさそうだった。

 黄金の瞳には含みがあって、むしろ暗く沈んだ色合いを示していた。


「いつもみたいに悪足掻きしないの?

 ――随分と、自分の魔法に自信があるんだね」


 俺は息を吸い込んだ。


 ヘリアンサスとの距離は二、三ヤードにまで縮んでいるようではあるが、実際にはどうだか分からない。



 この空間――時間が空間を喰った世界の中においては、遠近すらも全てが狂う。


 というよりも、万物に等しく流れる時間から切り離された結果として、光景がおかしな具合に見えているのだ。


 今見ているこの世界は、そのまま一種の心象風景であるという風に言ってしまっても、多分間違いではないだろう。

 身体ごと夢の中にいるようなものだ。


 事実、ヘリアンサスの傍にいたはずのトゥイーディアは――というよりも、トゥイーディアの形をした朧げな露草色の影は――、いつの間にかヘリアンサスの左手の、少し離れたところに佇んでいた。

 他の四人も、寄り集まって立っていたはずなのに、いつの間にかそれぞれの影は点々と離れて立ち尽くしている。


 トゥイーディアたちから見れば、俺もそういった影の一つに見えているはずだ。

 あいつらはあいつらで、俺が止まっているように見えているか――それとも目にも留まらぬ速さで動いているように見えているのか。


 トゥイーディアの目に映っている俺には少しの興味があるが、残念ながらそれを知ることなく俺は殺されることになるだろう。



 この空間の最も大きな特徴――自分の〈時間〉を支配下に置かれた以上、書き換えるべき世界の法の把握すら覚束なくなり、魔法の行使が不可能になるということ。


 あのトゥイーディアですら、この魔法に巻き込まれたときには俺の魔法の解除を待つしかなかった理由がそれだった。


 ――魔法なしに、俺がヘリアンサスから身を守ることが出来るはずもない。

 そして仮に奇跡的に魔法が体を成したとしても、その魔法を撃つ〈時間〉が与えられなければ意味がない。


 今このとき、トゥイーディアも、他のみんなも、同じことを考えて俺と同じ結論に至っているだろう。



 ――即ち、またしても負けたのだと。



 あっさりと、一瞬で俺たちにその事実を突き付けている――俺たち全員が、明瞭に色と現実味を保って見ている唯一の存在――ヘリアンサス。


 この白髪金眼の魔王こそが、この場における時間の支配者だ。



 ヘリアンサスが見ている世界ですら、俺は明瞭に想像できた。

 ――正常な世界と、この青く塗り潰された世界を、二重に見ている視界のはずだ。

 この魔法を使っているときの感覚の奇妙さは筆舌に尽くし難い。

 時間を止めた世界に片足を突っ込んでいるかのような、あるいは、自分が世界という盾の表裏を同時に見ているかのような。


 何を考えているのか知らないが、ヘリアンサスは俺と〈時間〉を共有している。

 尤も、他の奴とも〈時間〉を共有していることも十分に有り得るが。


 俺たちの〈時間〉を掌握したヘリアンサスからすれば、複数人と同時に話すことなど朝飯前だろう。

 この魔法を使っているときには、俺にだって出来た芸当なんだから。

 誰かの〈時間〉を止めておいて、一方で誰かの〈時間〉を自分と同期させればいいだけだ。



 微笑むヘリアンサスの黄金の目を見返して、俺は呟いた。

 声音は相変わらず、自分でも妙に思うほど平坦だった。


 人間、絶望と落胆が過ぎると声に感情が出なくなるらしい。


「……自信があるとかないとかじゃない。こうなった以上、俺たちはおまえの俎上の魚だ」


 ヘリアンサスは肩を竦めた。


 その動作にすら、現実でどのくらいの時間が掛けられているのか、俺には分からない。

 ――これはそういう魔法だ。


「うん、そうだね。

 ――今回はきみたち、いつもよりはちょっと策を練ってたの? 僕からはあんまり分からなかったけれど。ねえ、どういう作戦だったの?」


 衒いなく認めて、ヘリアンサスは無邪気なまでに――手品の種明かしをせがむようにそう言った。


「――言うと思うか?」


 このときばかりは本心からの軽蔑を籠めて、俺はヘリアンサスを睨み据えた。


 間近にこの魔王がいてなお、恐怖は――覚えるのも馬鹿馬鹿しいと無意識のうちに判断したかのように――湧き上がってこなかった。


「次の人生で同じことをするかも知れないのに?」


 尤も、次にこいつと相対するのが野外であるかどうか、俺には分からないが。



 ――次の人生では、ヘリアンサスが魔王として生まれるだろうか。

 それともまた俺だろうか。


 もしもまた俺が魔王として生まれたら、再び暗殺を掻い潜らなければならないと考えると暗澹たる気分になる。

 だが、それはもう別にいい。


 トゥイーディアが同じ目に遭いさえしなければ、俺はもうどうでもいい。


 トゥイーディアのことだから、俺よりは遥かに上手く暗殺を躱すだろうけれど、結果がどうこうというよりも、彼女が危険に晒されたり、眠れない夜があるかも知れないということが、俺にとっては耐え難い。


 ――いや、待てよ。

 トゥイーディアは次に生まれるとき、記憶を失っているはずだ。

 そうなると、普通に魔王として即位してしまったりすることも有り得るわけか。

 俺が聞いた話だと、魔王の地位は男児が継承するものだったはずだが、それは置いておくにしても。


 トゥイーディアが魔王になるとか、ヘリアンサスより(たち)が悪い――何しろ俺たちはトゥイーディアを殺せないし。

 魔界に行って魔王と対面して、そこでがっくり頽れる自分たちが目に浮かぶ。

 いやそもそも、六人揃わない限り、俺たちは魔界に行ったりしないから、――下手すりゃ一生トゥイーディアの顔が見られないことになるのか。


 それは嫌だな。



 ――ヘリアンサスが俺を魔王に据えたからくりを、俺は知らない。


 そのからくりが、俺にのみ適用できるものなのか、それとも俺たち全員に適用できるものなのか、俺は知らない。



 だから、――どうかトゥイーディアだけは、次も救世主として生まれつきますようにと願った。



 ――トゥイーディアが、次も救世主として生まれますよう。

 次も、願わくば、彼女が愛される環境に恵まれますように。

 トゥイーディアを大事にしてくれるのであれば、それが親だろうと兄弟だろうと近所の人だろうと構わない。


 次に生まれるときに、俺たちのことを忘れてしまうトゥイーディアが、どうか幸福な生活に恵まれますよう。

 お腹を空かして眠れない夜があったり、寒さに震えて切ない思いをすることがありませんよう――



 ヘリアンサスが目の前にいるのに、いつ殺されてもおかしくないのに、俺は馬鹿みたいにトゥイーディアのことばっかり考えていた。


 抵抗が無意味である以上、他の何をするよりも、彼女のことだけ考えていたかった。



 今までのトゥイーディア。怒ったときに眉を顰める表情ですら、俺は好きだ。

 今生のトゥイーディア。微笑むときの目の細め方、唇の綻び方、全部好きだ。


 次の人生のトゥイーディア――



「――次」


 俺の台詞に、ヘリアンサスが唐突に真顔になった。

 その一言を繰り返して、眉を寄せた。


 俺は瞬きした。

 我に返って、再びヘリアンサスに焦点を当てた。


 ヘリアンサスの黄金の瞳が、俺から僅かに逸れたところを眺めていた。

 現実味のない風景の中において、残酷なまでに現実を突き付ける瞳。


 それから、ヘリアンサスは取って付けたような笑顔を浮かべた。

 視線を俺に当てて、目を細めた。


「……気が早いね、ルドベキア。確かにきみたちは今――というより、いつも――僕の俎板の上に載っているようなものだけれどさ。

 言ったでしょ、“ちょっと話そう”って。――別に、今すぐにきみたちを殺したりしないよ」


 いつでも俺たちを殺せるのだということを言外に告げて、ヘリアンサスはガウンを翻して、俺の目の前を行ったり来たりし始めた。


 茂みの形をした靄のような影が、ヘリアンサスに触れる度に溶け消えて、そしてすぐに元のように()()と静かに佇み続ける。


 風もなく動きもない、異様な光景の中を、白髪金眼の魔王だけが逍遥する。


「きみが思っている以上に、僕は今の状況を楽しんでいるんだ。

 せっかく、首尾よくきみを魔王に返り咲かせたんだから。そう簡単に終わらせたりはしないよ」


 光源のある光が差さないがゆえに、陰影すら希薄な絵画じみた姿を見せながら、ヘリアンサスはそう言い放って肩を竦めた。


 大きく息を吸い込んで、そうして吐き出す息に載せて、呟くように。


「――多分、これからもっと楽しくなる」


「…………」


 俺は黙っていた。


 ヘリアンサスの言葉を、俺たちが信用したことはなかった。

 自分の命が保証されたなどということは、到底確信できないというものだった。


 ただ、ヘリアンサスの言葉に引っ掛かりを覚えて、沈黙ののちに思わず呟く。


「……俺を魔王に据えるのは、簡単なことってわけじゃないのか」


 尋ねたというより独り言だった。


 ――“せっかく”俺を魔王に据えたのだ、とヘリアンサスは言った――例によって、俺が魔王になるのは初めてではないという言い回しだったが、その部分は狂言として頭の中で処理をしておく。俺はずっと救世主だった自覚がある――、つまり、ヘリアンサスといえど、任意のときに俺を魔王に据えられるわけではない?


「当然じゃないか」


 俺の独り言に応じて、ヘリアンサスは微笑んだ。


「簡単なことなら、もっと早くこうしてたよ。

 何しろ、()()()()()()()()()()()()


「――有り得ない」


 俺は呟いた。


 記憶にある限り昔からずっと、俺は救世主だった。


 もはや無表情になっている俺の顔を見て、ヘリアンサスは苦笑じみた表情を浮かべた。

 そして、すっと左手を持ち上げて、その人差し指でトゥイーディアがいるはずの方向を指差した――もちろん、ヘリアンサスには正確に、トゥイーディアがどこにいるか見えているだろう。


 しゃらん、と、この空間においてさえ澄んだ音を立てる腕輪。


「きみを魔王に返り咲かせたからくり、教えてあげたらきみはびっくりするだろうね。

 彼女はびっくりするというより怒っていたけれど、きみはきっと、気持ちいいくらいびっくりしてくれる」


 思案げにそう言って、魔王はくすりと笑う。


 俺は顔色が変わったことを自覚した――この人生において俺を散々な目に遭わせてくれた、そのからくりの種明かしがくるのかと思ったためだ。


 しかしヘリアンサスは、まるで子供におやつはまだだと伝えるかのように悪戯っぽく、左手の人差し指を唇に宛がった。

 内緒話をするときみたいに。


「――でも、ちょっとお預けだね。今ここで僕が喋っても、誰にも聞こえていないわけだし。それじゃあつまらないものね」


 俺の表情が一気に剣呑なものになったことは見えていただろうが、ヘリアンサスはそれを気に留めた風もなかった。

 ただ、気を利かせて俺たちを驚かせようとしているかのようにそう言って、ヘリアンサスは腕輪を鳴らして手を振る。


「ひとつ、予告してみよう。――僕がこの魔法を解いた後の、ご令嬢の顔は見ものだと思うよ。きっと見事なまでに周章狼狽してくれる」


 にこ、と微笑んでから、ヘリアンサスはむしろ感慨深げに言葉を続けた。


「……きみの魔法を使ったのは予定外だったけど、良かったかも知れない。

 少なくともご令嬢は大いに気を揉むだろうし――それだけで、僕としては楽しい」


 トゥイーディアが俺に隠し続けている、俺が今回魔王として生まれさせられたからくり――それを、どうやら知ることは出来ないらしい。


 その苛立ちを押し込めるために息を吐いて、俺は瞬きした。

 ふと、なぜそれほどにヘリアンサスがトゥイーディアを嫌うのか、掠めるように疑問が(よぎ)ったのだ。


 俺たちは六人が六人とも、これまで死力を尽くして魔王ヘリアンサスを殺そうとしてきたが、ヘリアンサスからこうも強く憎悪を向けられているのは、見たところトゥイーディアだけだ。


 他の五人に対して、ヘリアンサスはむしろ無関心で――いや。



 ――憎くて憎くて仕方がないよ。



 つい先日に告げられたヘリアンサスの言葉を思い出して、俺は短く息を吸った。


「……へえ。何だってそんな予定外のことをした?」


 尋ねながらも俺は、俺に対する嫌がらせがこの後にあるのかも知れないと、ぼんやりと思っていた。


 ヘリアンサスは俺から視線を外して、どことなく上の空の様子で、右手の指先で左手首の腕輪をいじった。


 不透明な空色の宝石を鎖に通して、小さな装飾金具で固定して連ねた、寸法の大きな腕輪。

 留め具は簡単なもので、腕輪の片端の小さな輪に、もう片端の棒を通して引っ掛けているだけのもの。

 さして高級そうなものではなく、際立って豪奢なものでもない。


「……腹が立って……」


 いっそ素直なまでの口調で、何か他のことを考えているかのような語調で、ヘリアンサスは応じて呟いた。


 それからぱっと瞬きし、俺に視線を戻して、急に気が向いたかのように微笑んだ。

 左腕を軽く掲げて、俺に向かって腕輪を示すようにして。


「これ、気に入ってるんだ。古いものだし。

 傷がついたかと思って、腹が立ったんだよ。――幸い、」


 と、気を回して報告してあげるのだと言わんばかりに、ヘリアンサスは続けた。


「傷はなかったよ」


「――――」


 想像以上に下らない理由に、俺はしばし言葉を失った。


 ――確かに、ヘリアンサスがこの魔法を使う直前、トゥイーディアが大剣でヘリアンサスの左手を払っていた。

 そのときに、剣が腕輪に触れたように見えなくもなかっただろう。


 だが、そんな程度のことで。


 気に入りの装身具ひとつ程度のことで、斯くも容易く絶体絶命の窮地に立たされているわけか、俺たちは。


「――そんな、」


 殺されることが確定したかのような状況に、恐怖がどこかに置き去られていたこともあり、俺は覚えず、思ったままの言葉を口に出した。


「そんな程度のことで――」


 ヘリアンサスが瞬きした。



 ――さあっと、魔王の背後から風が吹いた。


 風が吹くはずのないこの空間で。


 生温かいその風が、ヘリアンサスの雪色の髪を泳がせる。ガウンがゆったりと翻る。

 だが、茂みの形をした浅縹色の靄は動くことも靡くこともなく。



 魔王の冴えた黄金の瞳が、真っ直ぐに俺を見ていた。

 そして、出し抜けに声が上げられた。


「――()()()()()のこと?」


 上げられたその声は、むしろ驚いたように高いものだったが、直後、低く低く、同じ言葉が繰り返された。


「……そんな程度――」


「――――」


 唐突に激変した魔王の雰囲気に、この空間それそのものの雰囲気に、俺は息すら憚った。


 死ぬことが確定したような状況下、恐怖すらどこかに置き去られたと思っていたが、どうやら違ったようだ。

 この期に及んでも、魔王の表情の変化に、声色の変化に、恐怖は鮮やかに蘇ってちりちりと前頭を灼いた。

 腹の中に、焼けた石を突っ込まれたようですらあった。

 心臓が肋骨を激しく打つ。


「――きみがどうこう言うことじゃない」


 低く呟いたヘリアンサスが、俺に向かって右手を上げた。


 俺は思わず一歩下がったが、魔王は単純に、俺に指を突き付けたのみだった。

 ――その動作にすら、目が眩むほどの恐怖を俺に植え付けながら。


「僕にとっての物事の軽重は僕が決める。

 それが即ちこの世界での物事の軽重だ」


 傲然と断言して、魔王は金眼をすっと眇めた。


「僕がどう振る舞おうが、誰を殺そうが生かそうが、それは全て僕の勝手だ。僕にはその権利がある。

 ――そして、いいか、きみたちは、逆だ。

 どう振る舞うか、生きるか死ぬか、全て僕の裁可が必要であると思え。きみたちがのうのうと豊かに暮らしているのは、全て僕の掌の上のことだ」


 言い切って、軽く息を継いで、ヘリアンサスは手を下ろして首を傾げた。


「――今回は、楽しいことも多いけれど、その分腹が立つことも多いな」


 呟いて、ヘリアンサスは無表情に俺の目を見て、唇を歪めた。


「特にきみだ……本当に、何も知らない顔を見ていると腹が立つ……」


 ぱちん、と指を鳴らして、ヘリアンサスは後方を振り返った。

 現実の立ち位置とはまるで異なるはずのその方向に、点々とみんなの姿があるのを、俺は見た。


「……一人か二人なら構わないかな」


 独り言のようにそう言って、ヘリアンサスが俺を振り返った。


 歪んだ鏡面のような黄金の目に、嗜虐的な光を湛えて首を傾げて、魔王は囁くように言った。


「今回はね、僕は慎重に事を運ぶつもりだった――例えば、きみたち六人を、しばらくの間は殺さずにおこうっていうこととかね。

 でも、こうも腹が立つことが重なるなら別だ。

 一人や二人なら、欠けても大勢(たいせい)に影響がないかも知れない。影響があったとしても仕方がない。そもそもが僕を不愉快にさせたことが悪い。

 ――それで、ねえ、どいつがいい?」


 秘め事を打ち明けるかのように親しげに囁くヘリアンサスに、俺は茫然として口を開けた。


「……は?」


「理解が遅いな」


 不出来な麾下を軽く叱責するかの如き口調でそう言ってから、ヘリアンサスは指を立ててみせた。



「きみはご令嬢を選ばないだろうから、それ以外の四人だ。

 その中で、どいつを殺してほしい? 選ばせてあげるよ。

 ああ、ただ、カルディオスは選ばないでおいてくれると嬉しいかな」



「……――」


 俺は無言で、まじまじとヘリアンサスを見た。

 何を言われたのか、その理解がまず難しかった。


 理解が及んでなお、感情の底が抜けたかのように、一切の情動が動かなかった。



 ――そして、息を吸い込んだ。



 やるべきことがはっきりした。

 トゥイーディアが自責の念を覚えるかも知れないと思うと胸が痛んだが、もうこれしかない。



 ――歯を食いしばる。腹を括る。


 随分と長く生きてきた俺ではあるが、この決断は初めてだ。



「――ヘリアンサス」


 呟けば、ヘリアンサスは、まるで義理で表情を作っているかのように、にっこりと微笑んだ。


「うん?」


 軍服の、鳩尾の辺りを左手で押さえる。


 カルディオスには悪いが、これしかない。

 軍服越しにはっきりと感じる硬質な感触を、衣服ごと握り込んだ。


「――おまえは、ほんとに、魔王らしい魔王だよ」


 負け惜しみのように、食いしばった歯の間から声を押し出す。


 ヘリアンサスは、まるで賛辞を贈られたかのように謙虚に微笑んだ。


「きみほどじゃないよ」


 衣服越しに掴んだ硬質な感触を、衣服ごと引く――首の後ろで首飾りの留め具が外れる感覚があった。

 左手指から力を抜き、ウエストコートの前から右手を突っ込んで、シャツの隙間からそれを掴み取る。


 ぐっと握った拳の中に鎖を指で手繰って握り込んで、俺はその右拳を身体の横に落とした。


「おまえ、言ってたな。“命の有無は魂にしたがう”って」


 俺の唐突な台詞に、ヘリアンサスが訝しげに瞬きする。

 眉を寄せて、不機嫌に呟いた。


「――そうだけど?」


 大きく息を吸い込んで、俺は右拳を自分の蟀谷に当てた。ヘリアンサスがいっそう眉を顰める。


「何してるの?」


「だったら、」


 ヘリアンサスの言葉を無視してそう言って、俺は反問する。


 掌の中には冷たさがある。

 光景一切に現実味がない中でも、確実な冷たさ――硬さ。



「時間は何に(したが)うと思う?

 ――俺が知らないわけがあるか?」



 今はこんな状況だが、



()()()()()()()()()()

 全部知っていて当然だろう」



 俺はこの魔法を強制的に解かせる方法を知っている。

 俺が絶対法に開けた穴、俺の固有の力なのだから、弱点を含めて全て熟知していて当然だ。



「――()()()()()()()()()()



 ヘリアンサスが首を傾げた。

 俺の言わんとするところを、捉え損ねたかのようだった。



 ――俺は上がりそうになる息を必死に宥めて、正面から魔王を見据えた。


 浅縹あさはなだに塗り潰された光景の中、確固たる現実性を維持して佇むヘリアンサスを。



 ――この魔法は、相手を万物に等しく流れる〈時間〉から切り離す。

 だが、生死の流れを阻みはしない。

 この魔法が生死の境さえも誤魔化すものであるならば、俺はヘリアンサスがこの魔法を使っただけでは、まだ敗北を確信したりはしなかった。



 そしてだからこそ、この魔法を行使するときには、絶対に食い止めなければならないことがあった。



「この魔法は、支配下に置いた相手が死ぬと強制的に解ける」



 ――相手が命を擲ったとき、この魔法はその優位性を失う。



 それを知っているのは、恐らくは、この魔法の正当な行使者である俺一人。


 だからこそ必然的に、この状況を命と引き換えに打破できるのもまた、俺一人だった。



「次の俺と会うときは、」



 ヘリアンサスが、瞬きもせずに俺を見ていた。

 見事なまでの無表情で、快も不快もその顔貌からは汲み取れない。


 そして、こいつがどう思ってどう行動しようが、手の届かない場所に俺は足を掛けようとしている。



「――長々喋って足許掬われねぇようにしろよ、()()()



 この状況さえ打破できれば、トゥイーディアには生き残る目があるだろうと信じたい。



 ――奥歯を噛み締める。


 これほど長く生きてきても、自殺を考えたのは初めてだ。

 死にたいだとか殺してくれだとか、思うことこそあったものの、まさか自分で自分を殺すことになろうとは。


 目を閉じるまでもなく鮮やかに、眼前には飴色の瞳の幻想が浮かんでいた。



 俺が死んだと知ったときに、トゥイーディアがせめて一瞬でもそれを惜しんでくれますようにと、身勝手にも心底から祈って、俺は右拳に意識を、



 ヘリアンサスが、何かの楽器を奏でるかのように白い指先を閃かせて、






 有り得ないほどに重く、大きく、時計の針が進む音が轟いた。






 ――ばしゃん、と水音がした。


 紛れもない現実の音だった。



 はっとして瞬きする。

 同時に、自分の左足が、半ば川に突っ込まれていることを自覚した。


 靴は元より軍服のズボンも、膝までが滴るほど濡れている。


「な――」


 慌てて茂みに上がると、水を掬った靴が()()()と音を立てた。


 ――この川は、川縁から少しの距離までは底が浅い。

 川底の砂が、俺の足の動きに水の中をふわりと舞って、透明な水がしばし濁った。



 ――突然のことに頭が追い付かないが、()()()いる。


 周囲は川畔の茂みの光景。陽光は燦々と贅沢に降り注ぎ、風が吹く。

 肌に触れる、春を目前にした気温がある。

 水辺の匂いがする。茂みが風に揺れる音が聞こえる。


 唐突に世界が音と光に溢れたようにすら感じ、眩暈と耳鳴りが同時に襲ってきた。



 なぜかは分からない。


 だがヘリアンサスが、俺の自決の前に魔法を解いたのだ。そうでなければ、俺たちの現実への回帰は有り得ない。



 あの空間で動いた際に、俺がどっちに向かって歩いていたのか判明した――俺はどうやら、川に向かって歩いていたらしい。


 他のみんなは一歩たりとも動いておらず、ヘリアンサスさえ立ち位置を動かしていない――



 全員が、さすがに状況の把握に手間取っていた。


 各々、あの空間でどれだけの〈時間〉を過ごすことを強制されたのかは分からない。

 俺は数分だった――まさか数年の時間経過を体験させられた奴はいないだろうな。


 そして、現実にはどれだけの時間が経っているのか。


 把握しなければならない事柄が多すぎて、俺はその場で足が止まった。



「――――きみ、何か言われた?」



 出し抜けに、トゥイーディアの声がした。

 動揺に上擦った声だった。



 直後、どんっ、と、大砲のような音が轟いた。



 ぶわ、と風が吹く。

 そして水音――きらきらと輝く川面を砕く、叩き付けるような音。


 高く上がる水飛沫が、陽光を弾いて白く光る――


「……イーディ」


 小さく震えるディセントラの声が聞こえて、次の瞬間には頭を揺らす絶叫が上がった。


「イーディ!!」


「トゥイーディア!!」


 俺は動けない。

 口が開かない。



 たった今、ヘリアンサスの軽い指の一振りで吹き飛ばされ、川に背中から落ちたのがトゥイーディアであると、分かるからこそ何も出来ない。



 トゥイーディアは一瞬、川底まで叩き付けられたかに思われた。

 完全に沈んで、それから一秒、川面を突き破るようにして立ち上がった。


 立ち上がり、激しく咳き込んで水を吐き出す。

 足が着く場所に立った彼女が、腰まで水に浸かりながらも濡れた髪を掻き上げ、視界を確保した。

 右手にはしっかりと大剣が握られたまま。


 水の中で、無意識にだろうが次の一撃に備え、安定した足場を探して半歩動いている。

 左手が半端に持ち上げられて、ディセントラたちに向かって、「大丈夫」と示すような手振りをした――同時に、「来るな」とも取れる仕草だった。

 仕草は冷静に見えたが、表情には、なお混乱の色が濃かった。


 げほ、ごほ、と咳き込んで、突然水の中に放り込まれた彼女が、咄嗟のことで水を吸い込んでしまったのだと分かる。



 ――そして、



「ごめんね」


 魔王ヘリアンサスが、悠々と歩を進めてトゥイーディアに歩み寄った。


 比喩ではなく、川面の上を歩いている。

 水面を凍らせることもせずに、波紋すら広げずに、当然のように。


 そして、川底に立つトゥイーディアを間近で見下ろして、にっこりと微笑んだ。


 そして屈み込む――川面に届いたガウンの裾が、濡れて沈んでいくはずなのに、まるで床の上で広がるかのように、一滴の水も受け付けずに打ち広がった。

 川の流れの影響もなく、微動だにせず。


「――今のは完全に八つ当たり」


 す、と手を持ち上げて、


「で、これは、」


 ぱんっ! と軽い音がして、トゥイーディアがなおも後ろに弾かれた。

 ばしゃっ、と音がして、飛沫が上がる。


 よろめいた彼女が、川底に大剣の切先を突き立てて転倒を防いだ。

 川底が一段低くなったのか、今のトゥイーディアは鳩尾まで水の中だった。


「――きみ自身への腹立たしさだ」


 よろめき、ふらつきながら、トゥイーディアが川底から剣を抜き、構えたのが見えた。


 黝い大剣が川面に反射される陽光を捉えて、水面を映して輝いている。


 トゥイーディアが纏う外套の袖から、ぼたぼたと滴が落ちている。


 我に返る間もなく立て続けに衝撃を喰らって、彼女が今も眩暈に襲われているのが分かった。

 だが頭を振ってそれを振り払うようにして、トゥイーディアが、今度は明確に、「来るな」と俺たちに向かって手振りで示した。


 こっちに向かって動いていた四人が、つんのめるように足を止めるのが、視界の端に映った。



 ぱっ、と、トゥイーディアの周囲で真っ白な光の鱗片が大量に乱舞する。


 直後、ぼわり、と、音が無いことこそが音として聞こえたかのような、耳の中のどこかが狂ったような音と共に、トゥイーディアを中心として、直径五ヤードほどの同心円状に川面が抉れた。



 まるで巨大な硝子玉を水面に押し付けたかのようだった――ただし、他の質量に押し出されて川面が抉れたのではなかった。


 流水が消滅した結果の現象だ。


 そして一瞬後には、また新たに流れる川の水を受け容れて、抉れたその場所に水が流れ込む。

 水流が翻って飛沫が上がる。


 周囲に向かって、トゥイーディアが無差別に得意分野の魔法を使ったのだ。

 だからこそ、俺たちに向かって来るなと示したのだろう――彼女の魔法に巻き込んではならないと。



 そして無論のこと、トゥイーディアはヘリアンサスごと消し飛ばすつもりでその魔法を行使したのだろうが、



「あんまりがっかりさせないでよ」


 トゥイーディアの眼前で、ヘリアンサスは傲然と立ち上がっていた。


 ガウンの裾こそ靡いたものの、それのみ。

 傷もなく、水飛沫のひとつも浴びず、厳然とそこに立つ白髪金眼の魔王。



 トゥイーディアが口を開いた――何か言おうとした。

 視線が一瞬、ヘリアンサスではなく俺たちの方を向いた。



 はっと息を引いたのは俺たち全員が同時。

 そしてまた、声に出さない確認も同時だった。



 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 ()()()()()()()()()()()()()()()



 直後、ヘリアンサスが、何らの躊躇いもなくトゥイーディアの頭を川面に突っ込んだ。

 かつて何度も、俺たちの手足を引き千切ったときと同じ顔で。



 ――俺の頭に、()()と血が昇った。



 トゥイーディアが藻掻いて水面が波立つ。


 ヘリアンサスの手を払い除けて、ばしゃ、と水面から顔を出し、咳き込んで水を吐き出す彼女に向かって、ヘリアンサスは責め立てるように告げていた。


「――そういえばさっき、言い掛けたね。きみの下策を教えてあげよう」


 屈めていた腰を伸ばして、川面の上に漣すらも立てずに立って、ヘリアンサスはトゥイーディアの頭を蹴りつけた。


 水面を割って後ろに倒れ込んだトゥイーディアを、しかし俺たちは()()()()()()()()()()()()


 空中を乱舞する水飛沫の中、咳き込んで肩で息をするトゥイーディアを平然と見下ろして、ヘリアンサスは彼女に向かって指を突き付けて、明瞭に言った。



「――僕に一撃でも入れたいのなら、きみは一人で来るべきだった」



 トゥイーディアが立ち上がらない。

 何かの干渉を受けているのだということは明白だった。


 俺たちは――そして誰よりも俺は、祈る心地でトゥイーディアの言葉を待つ。


 ヘリアンサスは、軽侮も露わな口調で、腹立たしげなまでの語調で言葉を続けている。


「きみにとっての弱みを五人も連れて来て、真面目にやる気があるの?

 ご令嬢、褒めてあげよう――きみが一人で来ていたら、きみはもしかしたら僕の影になら、傷ひとつ程度は付けられたかも知れないよ」


 トゥイーディアが口を開いた。


 ヘリアンサスが首を傾げる。

 侮蔑と嘲弄の眼差しで彼女を見下して。



「――今度は誰に助けを求めるの?」



 俺たちが声を揃えた。


 トゥイーディアを、全員が凝視していたからこそ、ぴたりと声が揃って響いた。



 ――俯いたトゥイーディアの唇が動く。


 最後の一言のために。



「……――『()()()()()()()』」


「――『トゥイーディア』」



 ヘリアンサスが怪訝に眉を寄せた。


 トゥイーディアがトゥイーディアの名を呼んだ意味に、さしもの魔王もその瞬間に考えを巡らせたのが分かった。



 俺が、川に向かって飛び降りた。

 川底の柔らかい砂に、軍靴が僅かに沈み込む。


 弾けた水面が割れて飛沫が上がる。


 それすら緩慢に感じられるほど集中して、俺はヘリアンサスだけを見て走り出す。


 右拳の中には硬い感触。


 ヘリアンサスまでの距離は十五ヤードほど、川の中とはいえそう何秒も掛かる距離ではない。


 軍靴の中に水が押し寄せ、軍服が水を吸って重みを増す。

 跳ねる水滴が手の甲にまで降り掛かる。



 陽光に煌めく飛沫が宙を泳ぐその向こうに、怪訝に眉を寄せたヘリアンサス――



 ――その足許が、がくんと沈んだ。



 トゥイーディアが跳ねるように立ち上がり、飛沫を上げて数歩下がった。



 ヘリアンサスの周囲一帯で、水位が明らかに下がり始めていた。

 それどころか水流が滞っている。


 みしみしと軋む音が聞こえる――川底が陥没していく音だ。



 真上から、目に見えない圧倒的な質量を押し付けられたかの如く、ヘリアンサスを中心として下へ下へと押され、水は流れることさえ封じられてそこに留まり、川底は地底へ向かってめりめりと押し潰されていく。




 ――五回ほど前の人生で、魔法を使うときに詠唱を用いるという手法が流行したことがあった。


 その方法は、応用の幅は狭いものだったが相応の利点も有していた。


 一つは、詠唱を行うという行為そのものを引き金として成功させることが出来るため、安定した魔法の使い方が出来るという点。

 そしてもう一つは、()()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()という点。



 俺たちは、俺たち自身の名前を詠唱として、ずっと息を合わせて唱えていた。



 その詠唱で指定した世界ののりの変更は、“重力の増幅”。


 この魔法の最も大きな特徴は、俺たち六人が息を合わせて行使する魔法であるということを前提とした、消費魔力の甚大さ。

 六人分の魔力を、魔法に喰わせることを前提として成り立つ魔法。


 しかもその六人全員が、常人よりも遥かに魔力に恵まれ、そしてうち二人はそれこそ化け物じみた魔力量。


 ヘリアンサスの周囲の重力が、今この瞬間にどれだけの加重を受けているのか、それはもはや、魔法の行使者である俺たちですら想像の埒外のこと。



 この魔法を発動するために――周囲に瓦礫でもあれば、自分たちまでその崩落に巻き込まれることが予想されたために、俺たちは川を目指してヘリアンサスを誘い込んだのだ。




 ――ヘリアンサスの真下の川底は、既にひしゃげて見る影もない。


 地底に向かって、この下の地層にまで影響を及ぼす魔法。


 潰れていく地面が周辺にどういう影響を及ぼしたのか、俺たちの足許までがぐらぐらと揺れた。

 川面が波立つ――ヘリアンサスの周囲を除いて。


 圧縮を受け付けない水が、それでもなお悲鳴を上げるほどの重み。


 空気ですら、歪んで落ちていくのが見えるようだった。



 俺とトゥイーディアが、期せずしてヘリアンサスを挟む位置に立ち、発動した魔法に息を止めている。


 容赦なく魔力が吸い上げられていく感覚がある。


 俺たちが魔法を打ち切るか、あるいはヘリアンサスがこの魔法を突破するか、あるいは――ヘリアンサスが死ぬか。

 そのどれかの結果が訪れるまで、延々と魔力が吸われていくこの魔法。



 その数秒、さすがにヘリアンサスも動きを封じられたかに見えた。

 こいつが潰れて死んでくれるのが、俺たちにとっては最良の結果――



 何かが割れるような、凄絶なまでに低く重い音が、足許から這い上がってきた。

 川底を成す地盤の一部が割れたのかも知れない。



 ――ヘリアンサスが顔を上げた。



 その表情を見て、俺はぞっとした。

 腹の底から震え上がった。



 ――六人分の魔力で編まれた魔法を受けてなお、ヘリアンサスは微笑んでいたのだ。



 そして、口を開いた。



 重力の嵐の如き状況の中で、身体を動かすことすら出来ないはずなのに、平然と。

 声は揺らぎもしなかった。


「――わあ、すごい」


 トゥイーディアが大剣を構えた。

 しとどに濡れて、髪からも外套からも滴を落とす彼女が――何度も水の中に落ちて、恐らくは身体中が痛んでいるはずの彼女が、微塵も怯まずに川底に足を踏ん張った。



 ――ヘリアンサスが右手を上げる。

 その指先が陽光を捉えて、妙にくっきりと光を纏って見えた。


 ゆっくりと――勿体ぶるように手を上げて――振り下ろす。



 弾けるような音と共に魔法が霧散した。

 魔力の供給が打ち切られた。


 水がぶつかり合う音――押し込められていた水が流れ出し、川底が沈んだ分水位が下がったその場所に向かって、周囲の水が流れ込む音。



 白く水面が翻るその上を平然と踏んで、魔王は傲然とトゥイーディアを見下ろした。



「――さあ、今度こそこれでお終いかな、ご令嬢?」



「――いいえ」



 烈火のように激しく、短く、トゥイーディアが応じた。

 同時に踏み込む――大剣が翻り、躱したヘリアンサスを捉え損ねた切先が水面を叩いて飛沫を上げる。


 ヘリアンサスが声を上げて笑い――



 ――十分だ。



 俺がヘリアンサスに肉薄するに、十分な隙をトゥイーディアが稼いだ。



 ヘリアンサスに向かって川底を蹴る。

 柔らかい砂を、押し付けるように蹴り立てる。


 水が足に纏い付き、跳ね散っては複雑な形の結晶のように陽光に煌めく。


 ヘリアンサスは俺に背中を向けて、トゥイーディアの方を向いている。



 俺が右拳に握り込んでいた首飾りが、その瞬間に白い長剣へと変貌を遂げた。



 冴え冴えと輝く象牙色。

 変貌と同時に、柄は俺の手の中に握られている。



 陽光を弾いて、小さな星のように、純白に煌めき渡るその切先――



 川底を蹴って突進する。

 長剣を両手に握り、大上段に振り上げる。


 膝で蹴り上げる水が鬱陶しい。



 思考までもが加速に燃え上がるようなその一瞬。

 全てが緩慢に視界に映る。




 魔王までの距離は三ヤード、二ヤード、一ヤード――





 ――届け。





◆◆◆





「――確かに私たちはあいつに、手傷の一つもつけられたことはない。

 でも、それでもあいつに、死角があるとすれば、――それは、」



 三日前の夜、灯火に照らされたトゥイーディアが告げた、その言葉。



「それは、あいつが私たちに対して何の警戒心も持っていないという、その一点」





◆◆◆





 まさにその言葉を証すが如く、無防備にこちらに向けられた魔王の背中に向かって、陽光を宿す純白の切先が振り下ろされた。













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