84◆ 魔王討伐――時間
「――きみたちが僕を殺したいのはよく分かるけれど」
のんびりと歩きながら、ヘリアンサスはゆったりとした口調で呟いた。
倒壊した廃村の瓦礫の上を、まるで散歩道か何かのように、身体の後ろで手を組んで、時折、わざとらしさすら感じさせる足許の危なっかしさを見せながら。
「今までと同じことしかしてないじゃないか。何か策はないの? ――っと」
瓦礫の山を登り、わざとらしくよろめいて、両手をぱっと広げて身体の均衡を保ったヘリアンサスが、そのままたたっと跳ねるように瓦礫の山を登り切る。
そうして、まるで山登りをした後のように、清々しくさえある声を上げた。
「わあ、随分と川が近いんだ。すぐそこじゃないか」
――そりゃそうだろう。
天候が回復するや否や、トゥイーディアはヘリアンサスを川の方へ動かすために、自分の得意分野の魔法を連発した。
たった今ヘリアンサスが――そして、見掛け上はそれを追うトゥイーディアや俺たちが――登った瓦礫の山は、ヘリアンサスを捉え損ねたトゥイーディアの魔法が土台を吹き飛ばした結果として崩れ去った、川に最も近い場所に立ち並んでいた家屋の成れの果てである。
一瞬の閃光と同時に廃墟の山を一撃で作り出したトゥイーディアを驚異的だと評すべきか、確実にその軌道上にいたはずなのに、片手を翳すだけでその閃光を避け果せたヘリアンサスをこそ、そう評すべきか。
ヘリアンサスは恐らく、当たりさえすれば奴を殺すに足るトゥイーディアの魔法を、避けるついでにここまで歩を進めたのだろう。
疾雷を呼んで以降、ヘリアンサスからの反撃は露ほどもなかった。
――それが、ヘリアンサスが俺たちを馬鹿にし切っているからだということを知っている。
今までもそうだった。こいつはしばらくは俺たちの攻撃をあしらって、それから飽きたように俺たちを殺しに掛かるのだ。
一度こいつが反撃に本腰を入れてしまうと、大抵の場合、俺たちは抵抗の暇もなく殺されてきた。
ぱっ、と白い光の鱗片が散って、トゥイーディアが魔法を撃った。
ヘリアンサスは、ちら、と視線のみでそちらを振り返る。
それから、深青色のガウンの裾を翻し、軽い仕草で瓦礫の山の上から川辺へと飛び降りた。
ふわ、と、少しゆっくり過ぎるように映る動きで着地し、余裕綽々にガウンの裾を整える。
そうして、悠々と川縁の茂みを見渡して、瓦礫の山の上に立つ俺たちを振り仰いだ。
表情は、頑是ないまでの笑顔だった。
「策がないなら手伝ってあげたいところだけど、さて、僕を殺すのに僕が手を貸すというのもおかしい話だよね」
にこにこと愛想よくそう言い放って、ヘリアンサスは川から吹く風に泳ぐ純白の髪を掻き上げた。
再び燦々と降り注いでいる日光に、その手首の腕輪が煌めく。
川の流れは穏やかで、茂みを押し分けて行けばすぐに川面に到達しそうだった。
海の近くを流れているだけあって、谷を成さない平らかな川だ。
しずしずと流れて、音すら穏やかに――
トゥイーディアが瓦礫の下に飛び降り、大剣を揮うと同時に呼ばわった。
――そのために、呼ばわるために、彼女は一人でヘリアンサスとの接近戦をこなさねばならない。
「――『アナベル』!」
全く同時に、瓦礫の山の上に留まる俺たち五人も同じように呼んでいる。慎重に、正確に。
「『アナベル』」
――俺の心臓ははち切れそうだった。
トゥイーディアがたった一人でヘリアンサスの間近にいることに、恐怖しかない。
怯える余りに目を逸らしたいのに、危機感ゆえに目を離せない。
心臓の鼓動で肋骨が折れそうだった。
この局面だけは、俺は計画の段階から嫌だったのだ。
せめて俺がトゥイーディアと代わりたかったのに、トゥイーディアは譲ってくれなかった。
俺も、代償のせいで強くは申し出られなかった。
せっかくトゥイーディアと並び立つだけの魔力に恵まれている俺が、この局面では後方に引っ込まねばならない。
不意を討つためではあるが、不意を討つ前にトゥイーディアにもしものことがあればどうするんだ。
――そういう諸々の意見はカルディオスが言い立ててくれてはいたが、トゥイーディアは三日前の夜、笑ってそれを一蹴していた――
――俺がトゥイーディアと肩を並べられるのは、この後だ。
そう分かってはいても、それまでが耐え難い。
魔王は茂みに足許を埋めて、川の方へ向かって頓着なく足を進めていたが、トゥイーディアが呼ばわった名前を聞くなり、くるりと振り返った。
かさ、と茂みが音を立てる。
黄金の目が、面白そうに歪んだ。
「――へえ? どうして呼ぶの?」
トゥイーディアは答えない。
先ほど彼女が揮った大剣のその軌跡から、真っ白な光が溢れ出していた。
俺が知る限り最も破壊に特化した、余儀を許さず遣い手の意思を徹す光。
だがそれも、ヘリアンサスが戯れるように指を振るや霧散する。
同時に、川面からまるで掘り出されるように浮かび上がった氷刃が、無数にヘリアンサスに向かって飛来――それも、眼差しを配ることもなく、ぴたりとヘリアンサスは止めて、そのまま指も振れずに川面に投げ返す。
ぼちゃん、ぼちゃん、と、断続的に水音が上がる。
飛沫が上がる。水飛沫がきらきらと陽光を反射して白く光る。
ぎり、と唇を噛んだトゥイーディアが、立て続けに呼んだ。
「――『コリウス』!」
「『コリウス』」
俺たち五人の声も重なる。
こちらは静かに。
コリウスがすっと手を伸ばして、途端、積み上がっていた瓦礫が、砲弾のようにヘリアンサスに向かって撃ち出されていく。
――俺は内心で冷や汗。
みんな器用だな。なんで、得意分野とはいえ、慣れない魔法ともう一つの魔法を、同時並行で訳なく使えているわけ?
そのうち俺の番がくるが、上手く出来るか分かんねぇぞ。
トゥイーディアを前線に出している時点で、元より俺の内心は大荒れなのだ。
とはいえ今はまだ、ヘリアンサスに目立った反撃の様子がないから正気でいられているわけだけど。
いつもより精緻な集中が可能かと言われれば、誰より自分が懐疑的にならざるを得ない。
ヘリアンサスは飛来する瓦礫の砲弾を、まるで要らない茶菓子を断るかのような手振りで止めた。
ぴた、と空中に留まる瓦礫の群れ――それが落ちようとして――
その後ろに、いつの間にかトゥイーディアが回り込んでいた。
――今生のトゥイーディアは、騎士だ。
身ごなしにそれが表れている。
今までのどの人生よりも素早く、無駄がなく、洗練された身のこなし。
膝までを埋める茂みの中にあってさえ、そこを狩場としている猫のような静かな動き。
そして、トゥイーディアが叫んだ。
本当に、タイミングとして、ただ呼んだとしか思えないように。
「――『ディセントラ』!」
ディセントラが、ぱちんと指を鳴らした――その音でさえ、トゥイーディアに届く前には止まったのが分かった――
全てが静止する。
トゥイーディアとヘリアンサスの間にある、瓦礫の砲弾の全てが、まるで時間が止まったかのように――
「『ディセントラ』」
俺たちも呟く。ディセントラも同様に。
ディセントラが停止させた瓦礫の砲弾を、まるで空中に置かれた飛び石を渡るように踏んで、トゥイーディアがヘリアンサスに肉薄する。
瓦礫を蹴って跳び、身を屈めて瓦礫の下を潜り――そういった全てを、猫みたいに素早く正確に。
決められた経路を辿るようでさえある安定感と共に、数秒と掛けずに瓦礫の飛び石を駆け抜けて、ヘリアンサスを間近に見下ろして大剣を振る――
ぴっ、と、ヘリアンサスが指を振った。
途端、拘束を解かれたかのように、ばらばらと落ちていく瓦礫の群れ。
それに巻き込まれてトゥイーディアが潰されることを、誰より案じて心臓が止まりそうな思いをしたのは俺だろう。次点でディセントラだ。
だが、トゥイーディアは崩落よりも一瞬早く、瓦礫の最後の一つを蹴って飛び降りていた。
ぶつかり合いながら落ちていく瓦礫が轟音を上げ、細枝が折れる音が幾つも重なって耳を劈く。
茂みを緩衝材にしてさえ、地響きが轟く。
根こそぎにされた茂みの下から土埃が、そして砕けた瓦礫から粉塵が濛々と噴き上がる――それを歯牙にも掛けずに前だけを見据えるトゥイーディアの、飛び降りた先にヘリアンサスがいる。
同時に俺たちが、示し合わせるまでもなく瓦礫の山の上から飛び降りた。
――ディセントラまでが呼ばれた。
残る名前はあと二つ。
他のどんな言葉より、名前が一番だと結論づけた理由――間合いの計りやすさ。
そしてどんな局面であろうと、口に出すにそう違和感は覚えられないだろう数少ない言葉だったこと。
その真価が生きている。
距離を詰めるべき間合いとなった。
トゥイーディアとヘリアンサスが相対する、それを川を左手にして正面に見る位置に、俺たちが茂みを押し分けて進み出る――瓦礫の山から飛び降りた勢いでそこまで達した、それと全く同時に、トゥイーディアが空中で身を捩り、ヘリアンサスに向かって渾身の膝蹴りを見舞っていた。
魔王は欠片も動じなかった。
軽く首を傾げて、茂みの中で半歩下がる、それだけでトゥイーディアを躱して、
「――言ったよね? 足蹴にされるのは嫌いだって」
やや不機嫌な声で呟いた。
躱されたトゥイーディアが、無防備な着地が危険だと判断して、有り得ない動きで宙返りした。
恐らくは足場となる場所の空気を圧縮したんだろうが、早いし器用だ。
ばっ、と外套が翻って、宙返りしてヘリアンサスから距離を取り、トゥイーディアが見事に着地する。
ばきんっ、と、茂みの中で細枝が折れる音が鳴る。
着地の衝撃を殺すために膝を撓めた彼女の、腰までが茂みに埋まって見えた。
――そして立ち上がりながら、流れるように自然に、トゥイーディアが叫んだ。
「――『ルドベキア』!!」
「『ルドベキア』――」
呟いた。
他の四人と同時に、俺も。
口許を隠して、出来るだけ静かに。
そして、片手を振り上げた――
――瞬間、ヘリアンサスがこちらを見た。
まだ距離が開いているはずなのに、その黄金の目が俺を捉えたのが分かった。
冴え冴えと明るい、歪んだ鏡面のような眼差しが、鋼鉄のような冷たさで俺を見た。
そして、ヘリアンサスはトゥイーディアを見た。
川を背にして、正面からトゥイーディアと向き合う魔王の横顔が、もう川のすぐ傍まで来ている俺たちからもはっきりと見えた。
――魔王までの距離は十ヤード程度。
魔王とトゥイーディアが睨み合う距離は、その半分もなかった。
さく、と茂みを踏み分けて、ヘリアンサスが一歩踏み出した。
――ばれた?
何より先にその可能性が脳裏を過って、俺は動きを止めた。
だが、違った。
ヘリアンサスは明確な嘲笑を湛えて、叩き付けるように言っていた。
「あいつは来ないよ」
「――――」
トゥイーディアは応じない。
硬く強張った表情の奥で、彼女が何を考えているのかは分からない。
そんな彼女を嬉しそうに見て、ヘリアンサスはなおいっそう笑みを深める。
「あいつは、きみのためには何もしないよ」
――カルディオスが息を吸い込んだのが分かった。
一方の俺はといえば、ヘリアンサスがなぜそんなことを言っているのかが分からなかった。
俺がトゥイーディアのためには何もしないことなんて、彼女自身が一番よく分かっているはずだ。
今さら、誰に何を言われるまでもないだろう。
むしろトゥイーディアは俺を嫌っている。
ヘリアンサスが俺絡みで何を言おうが、動揺しようにも出来ないだろう――
――そう思った直後に、ヘリアンサスが――蕩けんばかりに優しい声で、殆ど気遣わしげでさえある語調で――ただし明瞭な嘲弄を籠めて、――囁くように言葉を続けた。
それが聞こえた。
「ねえ、教えてあげたでしょ? ご令嬢。
きみへの二つめの呪いは何だったっけ?」
「――――」
コリウスが、唖然とした様子で目を見開いた。
数瞬遅れて俺は、ヘリアンサスが口にした『呪い』という言葉が、俺が呼ぶ『代償』に等しいものだと気が付いた。
ディセントラとアナベルが、ぴたりと動きを止めた。
二人の顔に、俺と瓜二つの表情が浮かんだ。
――即ち、怪訝と疑念と衝撃。
俺は息を吸い込むことも出来ずに、しばし肺腑の中を空にする驚きを、脳天を揺らすほどの衝撃と共に呑み込もうとした。
――は? 二つめ?
理解不能な情報を突然差し出されて、ものの見事に思考が空転するのが分かった。
――トゥイーディアに課せられている代償は、〈救世主を経験した直後の人生において記憶を失う〉というもの。
それのみのはずだ。
俺に課せられている代償はただ一つ、〈最も大切な人に想いを伝えることが出来ない〉というもの。
ゆえに、他の五人にも一つずつの代償が課せられていると思い込んでいたが――違った?
トゥイーディアには二つの代償が課せられている?
――何を? 何という代償を?
――俺に何か関係がある代償なのか?
俺が茫然としたのは僅か数秒、すぐに、僅かに震えるトゥイーディアの声で、俺ははっと我に返った。
「――違う」
押し殺した声で反駁するトゥイーディアを、嘲るように顔を反らして見下して、白髪金眼の魔王はせせら笑った。
「内心では気付いてるくせに。
――だからでしょ、ほら――」
す、と右手を持ち上げて、ヘリアンサスが真っ直ぐにこちらを指差した。
弾かれたように、トゥイーディアが俺たちを見た。
――俺たちを、違う、カルディオスを。
カルディオスはぽかんとしていて、怪訝そうというよりは訳が分かっていない様子だった。
思わず彼を見た俺に気付いて、カルディオスが首を傾げる。
そして口を開こうと――
「――カル!!」
悲鳴じみた声で名前を呼ばれて、カルディオスは翡翠色の目を大きく見開き、トゥイーディアに視線を当てた。
彼が動揺しているのが分かったが、それは十割が、トゥイーディアの尋常ではない表情のゆえだった。
――鬼気迫るほどの危機感。
動揺といって有り余る恐怖。
「カル、きみ――」
「――本当に、」
トゥイーディアを遮って、嘲笑に唇を歪めたヘリアンサスが傲然と言った。
言葉がトゥイーディアを打擲するのが見えるようだった。
「本当に、きみがそうやって狼狽えているのは面白い。
――ねえ、ご令嬢、きみの下策を教えてあげようか」
ヘリアンサスが、左手の人差し指をトゥイーディアに向けて振る。
反射のように、トゥイーディアがそれを大剣で払った。
寸前でふっと手を持ち上げたヘリアンサスの動きがあって、大剣は奴の腕を掠めもしなかった――ただ、手首で揺れる腕輪が、ちりん、と軽く、さざめくように揺れた。
――ヘリアンサスの表情が、溶けるように抜け落ちた。
持ち上げられたままの左拳が握り締められる。
その手首の内側に筋が浮かんだのが見えた。
トゥイーディアが息を吸い込む。
――魔力は残っている。中断は魔法を妨げない。引き金には指が掛けられたままだ。
――それを、確認したような深呼吸だった。
そして彼女が唇を開いて、
「……――鬱陶しいな」
ヘリアンサスが呟いた。
直前までとは、声音も語調も何もかもが違う、淡々と乾いた一言だった。
トゥイーディアが息を止めたのが分かった。
言葉が喉の奥で消えたのが、我がことのようにありありと分かった。
ヘリアンサスの目が、恐惶を強いるほどに冷たく、凝然と、冴え渡ってトゥイーディアを見ていた。
左手は翳されたままだった。
手首に対して輪の直径の大きな腕輪が、手首の骨に引っ掛かるようにして、陽光を弾いて下がっている。
ふ、と頭を巡らせて、ヘリアンサスがこちらを見た。
その黄金の瞳が、これほどに冴えた光を宿しているのを、俺は見たことがなかった。
かく、と首を傾げて、ヘリアンサスが息を吐く。
そして、全くの無表情のまま、もはや視線の行方も定かではないほどに硬く沈んだ眼差しのまま、言葉を足許に落とした。
「――ねえ、ちょっと話そうか」
左手が下ろされた。
しゃらん、と腕輪が鳴った。
下ろされた左手が、そのまま世界に幕を下ろしたかのようだった。
――光景一切が塗り替わる。
遠近が狂う。
近いものも遠いものも等しく、晴れた日に臨む遥か遠くの山脈、まさにその青い色合いそっくりに染め上げられていく。
地面も空も、空間ですら。
そして人ですら。
陽光が遮られる――それなのに、明るいまま。
現実味のない浅縹に塗り上げられたその光景を、俺は知っている。
知っているからこそ、腹の奥から力が抜けていくような感覚に襲われた。
もはや恐怖すら感じるに値しないほど、決定的な一手だった。
――あらゆる感情が撹拌されて溶け合って、俺の感覚を現実から切り離したようだった。
遣り切れなさだけが群を抜いていた。――あれほど周到に準備したのに。かつてない好機だったのに。
今度こそトゥイーディアを守れると思ったのに。
――それなのに、結局これか。
狡いだろう、本当に。
息を押し出し、俺は額髪に手を突っ込んだ。
目を閉じて唇を噛んだ。
額髪に突っ込んだ手の爪を立てた。
涙が出るかと思ったが、それもなかった。
遣り切れなさは腹の中で渦を巻いて、心臓を痛むほどに締め上げる。
どうやらそれは、涙になって外に出て行ってくれたりはしないらしい。
……つくづく、どこまでも遣り切れない。
――顔を上げる。
息を吸い込んで、俺は一歩前に出た。
見渡せば、トゥイーディアも、他のみんなも、今や露草色の影になっていた。
“これ”を知っている、誰よりも。
奇妙な影に塗り潰されたその空間において、ただ一点、現実味と色を保っている存在がある。
――白髪金眼の魔王ヘリアンサスだけが、俺の視界に映る、正気を保った世界の一欠片だった。
――その姿を見ても、俺はもはや恐怖すら覚えられなかった。
魔王に向かって歩を進める。
足許を埋めていた茂みもまた、浅縹色の影になっている。
まるで輪郭のはっきりした靄のよう――俺の前進に、靡くのではなく溶けるように形を崩して、そしてまた形を戻して、影絵のようにそこに在った。
今、俺の行く手で魔王は顔を伏せて、左手首の腕輪を神経質なまでに検めていた。
傷がないかどうか、壊れていないかどうか、念入りに確かめるように。
金具で繋がれた、不規則な形の空色の宝石の一つ一つを。
そして宝石の間に覗く、古びた金具の一つ一つを。
丁寧に慎重に。
彼我の距離を数歩の距離にまで詰めてから、俺はそんな魔王に声を掛けた。
今生において、俺が自分からこいつに声を掛けるのは、恐らく初めてのことだった。
声は、自分でも奇妙に思うほどに平坦なものだった。
「――ヘリアンサス」
ヘリアンサスが顔を上げる。
無表情のまま、俺を見て、手を下ろした。
深青色のガウンの裾が、滑るようにその手首を落ちて、手の甲までをも包み隠した。
しゃら、と幽かに鳴る音を聞いて、俺は息を吸い込む。
――そして、吐き出す息に載せて、呟くように認めた。
「また、おまえの勝ちだな」
――この魔法は、俺の魔法だ。
〈時間〉に手を掛けることにおいて、この世での唯一性を有する、俺が正当な救世主の地位にあるときにしか使えないはずの魔法だ。
その魔法を、今はヘリアンサスが行使している。
――この魔法が、使用と同時に使い手の勝利を確定させることを、俺は誰よりよく知っていた。
この魔法を、己の命を保って突破したのは、目の前にいる魔王ヘリアンサスただ一人。
余儀を許さぬ破壊を扱うトゥイーディアですら完封した、群を抜いて強力な魔法。
唯一俺だけに許されていたはずの、〈相対した相手の時間を支配下に置く〉魔法。
今、ヘリアンサスの掌中に握られている〈時間〉は、考えるまでもない――俺たちの〈時間〉だ。
――俺の〈時間〉が、この場における支配者であるヘリアンサスと同等の進み方を強制されているのに比して、恐らくトゥイーディアたちの〈時間〉は停止させられている――あるいはもしかしたら、トゥイーディアたちの〈時間〉に比べて、俺とヘリアンサスの〈時間〉が加速させられているのかも知れない。
その正解はヘリアンサスでないと分からないだろうが。
――そして、どちらにせよ同じことだ。
自分の〈時間〉の手綱を相手が握った以上、殺されるに当たって抵抗のしようがあるわけがない。
今この瞬間にも、ヘリアンサスには俺たちに対する、理不尽なまでに明確な生殺与奪の権がある。
――負けだ。
完膚なきまでの、文句のつけようのない負けだ。
少なくとも俺は。
俺だけは、この状況を、生きたまま乗り越えることは出来ない。
この魔法の唯一の破り方を俺は知っているが、だからこそ。
――ヘリアンサスが瞬きした。
そして、黄金の瞳を細めて、にっこりと笑った。