82◆ 魔王討伐――疾雷
呼気も凍るほどの冷気が、廃村の一画を極寒の地に染め上げていた。
鳥瞰してみれば、廃村の一画のみが氷漬けになっている、奇妙な光景が見えたはずだ。
氷が軋む――
――膝までを氷に埋め立てられた格好になったヘリアンサスは、瞬きひとつの間、微動だにしなかった。
そして、唐突に、弾けるように笑い始めた。
――俺はぞっとした。
ばきんっ、と硬質な音を立てて、ヘリアンサスの足を押し包んでいた氷が砕ける。
さながら、魔王の足を包む氷が円筒状に弾けて、この白髪金眼の化け物に、存在を譲ったかにも見えた。
ヘリアンサスは顔を押さえ、氷を震わせる笑い声を響かせながら、息も苦しい様子で、膝の高さにせり上がっている氷に腰掛けた。
まるで、気の利く誰かが用意した椅子に座るかのように。
俯いて腹を抱え、もう片方の手で顔を押さえて、ヘリアンサスはなおも笑い続ける。
背中が震えて肩が震える。新雪の色の髪が揺れる。しゃらしゃらと腕輪が鳴る。
――いっそ不気味なその笑い声に、俺たちは声もなかった。身動きひとつ出来なかった。
玲瓏たる笑い声はしばらく続き、そしてようやく、ヘリアンサスが顔を上げた。
黄金の目の端に、笑い過ぎたがための涙まで光っていた。
はぁ、と、笑いの残滓の残る息を吐き出して、ヘリアンサスは指先でその涙を拭った。
そして、僅かに震える声で呟いた。
「……あぁ、あぁ、これは、傑作だ」
右手を、世双珠がある方向へ伸ばしたヘリアンサスが、くいっ、と、その指を曲げる。人を呼び付けるかの如き尊大な仕草だった。
――途端、青く輝く世双珠が、見事に宙を飛んでその掌に収まった。
魔法の効果は続いており、ゆえに世双珠は今も、内部から光を放っている。
芯から青く煌めいて、きらきらと白い光の粒子を、その周囲に纏う青い宝玉――
その宝玉を右掌の上でころりと転がして、ヘリアンサスは氷の上に立てた左膝に頬杖を突いた。
さらりとその頬を滑る純白の髪。心底面白そうに歪んだ、色素の薄い唇。
真下から差す世双珠の光を受けて、謎めいて煌めく黄金の瞳。
「傑作だ、本当に。――ルドベキア」
唐突に名前を呼ばれて、俺は思わず一歩下がった。
ヘリアンサスの歪んだ鏡面のような目は、笑みに細められて俺を見ていた。
「本当に面白いね。――以前に言ったっけ? きみたちが僕を殺せるとすれば、それは最初の一回目だけだったって。その一回目を、きみが不意にしたんだって、言ったっけ?」
――そうだ、そう言っていた。
内心でそう認めつつも、俺は声が出なかった。
世双珠を拳に握り込み、そしてその拳の甲を口許に当てて、ヘリアンサスはなおも笑った。
くふり、と歪む唇が、この上なく魔王らしい残虐性を宿していた。
「そう、そうだ――情動だけがあっても意味がない。知識がなければ意味がない。だから無駄だと言ったのに――」
俺たちには意味の分からない言葉を並べて、ヘリアンサスはまた拳を開いた。
その掌の上で、ころころと世双珠を転がす。
そうしながらも、ヘリアンサスは俺だけをじっと見ていた。
言葉は明瞭だった――残酷なまでに。
「――僕に、これを使った魔法は効かないよ」
はっきりと空気を穿って響くその声。
ヘリアンサスはにこりと笑って肩を竦める。世間話でもするように。
「きみが僕の機嫌をとってくれるなら、別に受けてあげてもいいけどさ。
――でも、本当に、狙ったような下策だね。きみたちの最初の一回目の大誤算がここで顕在化するなんて、本当になんて面白いんだろう」
ふふ、と肩を揺らして、白髪金眼の魔王は事も無げに言い放った。
「この先にも幾つかあるみたいだね。四つ――うーん、五つかな? 別に、僕にとっては普通の道と変わらないよ。ここからずーっと歩いて行ってあげようか。この次は火だね、分かるよ」
は、と小さく声を漏らしたのは誰だったか。
俺もトゥイーディアも数歩下がって、そして後ろにいた四人は逆に数歩を進み出ていて、俺たちはいつの間にか、ほぼ横並びに立っているような具合になっていた。
その中でも俺とトゥイーディアだけが、辛うじて前面に出たのは最後の意地である。
「……――おかしい」
小さく、本当に小さく、ディセントラが呟いた。
声はまだ、直前のヘリアンサスの言葉の影響を残して震えていたが、語調は平生のものに戻っていた。
そして彼女の頭脳の明晰さも、また。
「――おかしい。世双珠は、以前までなかった――それなのに、どうしてあんな風に知った口を叩く?」
俺たちはその問いの答えを知らない。
世双珠の数や種類までが正確に把握された慮外の事態に、俺たちが咄嗟に対応しかねているのを見て、ヘリアンサスはいっそう嗜虐的に微笑んだ。
「ねえ、ルドベキア。――まさかきみがこれを考えたんじゃないよね?」
名指しにされて、俺は必死になって、下がりそうになる足許を踏ん張った。
ここから下がれば、トゥイーディアだけが前に立っていることになってしまう。
黄金の目で俺を見て、ヘリアンサスは頬杖を突いたまま首を傾げる。
風が吹き、純白の髪が陽光を受けて翻る。
一面に広がった氷が白く煌めく。
「――違うよね? だってきみ、」
ころ、と、ヘリアンサスの掌の上で転がる世双珠。
陽光を受けて、青く透き通った影を魔王の白い掌に落としている。
輪郭ばかりが薄墨色の、水滴が落とす影にも似た陰影。
「僕にこいつは無意味だってこと、誰よりよく知ってるものね?
――あ、違うか。もう今は忘れてるか」
――俺はそんなことは知らない。
反射のようにそう考えたものの、俺は声を出せなかった。
訳知り顔で微笑むヘリアンサスをじっと見たまま、トゥイーディアが硬い声を出した。
「――ルドベキア」
その声を聞いて、胸の一番奥で僅かに恐怖が軽くなったのを感じながら、俺は低く応じた。
つい一瞬前までが嘘のように、あっさりと声が出た。
「……なんだ」
「私たちに隠し事してる?」
まるで、形式的に訊かなければならないことを訊いているのだと言わんばかりの、情動の殆ど籠もらない問いだった。
トゥイーディアの飴色の目は、ひたむきなまでにヘリアンサスだけを見ていた。
陽光の下にあってなお、光を弾く蜂蜜色の睫毛の影になって、その瞳の色は暗い。
俺は小さく息を吸い込んで、答えた。
「――おまえに言われたくねぇんだけど。……少なくとも俺はしてねぇよ」
今生、最も隠し事が多いのはトゥイーディアだ。
それを本人も自覚しているのか、トゥイーディアの返答までに二秒あった。
だが、返答自体は確固としたものだった。
「――分かった。じゃあ、あれは戯言ね」
俺は思わず、内心で目を見開いた。
――トゥイーディアは動じていないし、俺の言葉を毛ほども疑っていない。
この靭さはどこからくるんだろう。
ヘリアンサスに、俺たちの声は聞こえていなかっただろう。お互いに、それ程の小声だった。
魔王は、まるで玩具に飽きたかのように俺から視線を外して、掌に載せた世双珠をしげしげと眺めていた。
持て余すように肩を竦めて、独り言のように呟く。
「――さて、これ、どうしようか。
壊しちゃってもいいけれど、そうすると後が厄介だから……」
ころん、と掌を滑らせた世双珠を、器用にもそのまま指先に移して、ヘリアンサスは興味深い標本のようにそれを目の前に摘まみ上げた。
黄金の瞳に、薄青い影が映り込む。
頬杖を外して、少し考え事をするかのように顔を顰めて。
――そして魔王は、出し抜けに、くい、と上を向いた。
右手に摘まんだ世双珠を、まるで大きな葡萄の粒ででもあるかのように、仰向いた口に含んで――
――ごくん、と、ヘリアンサスの喉が嚥下に動くのを、俺は見た。
「――――」
理解不能な事態に、俺たちは一並び愕然として、その場に立ち尽くしていた。
「……――世双珠って、食べられるのか」
辛うじてそう言った俺の声は震えていた。
――理解不能、全てにおいて桁違いの魔王だと分かってはいたが、ここまで生理的に人外の所業を披露されたのは初めてだ。
「――いや……」
応じるカルディオスの、同じく震える声を、俺は聞いていた。
「……俺の知る限り、世双珠を取り扱った料理本も献立もねーぜ――」
このとき、この場で、咄嗟に冗談めかした言葉回しが出てきたカルディオスのその胆力を、俺は素直に尊敬する。
世双珠を呑み込んだヘリアンサスが立ち上がった。
かつて何度も見た――あの城の大広間で、俺たちを見て玉座から立ち上がったのと、全く同じ仕草で。
ぱん、と、手が打ち鳴らされる。
途端、ぱっと弾けるように、廃村の一画を埋めていた氷が消失した。
溶けたのではない――無数の真っ白な光の粒子になって、見事に消え失せた。
当然、ヘリアンサスは足場を失ったことになるわけだが、すた、と敷石の上に降り立ったヘリアンサスは、微塵も体勢を崩さなかった。
そして、艶然と微笑んだ白髪金眼の魔王は、無邪気そのものの顔で首を傾げる。
「――さて、お次はなんだろう」
廃村を悠々と歩くヘリアンサスに、雨霰と魔法が降る。
炎弾が敷石を抉り、魔王に触れることも出来ずに弾かれて廃屋に飛び込み、それを内側から爆発させる。
熱波に耐えかねて倒壊する家屋が、濛々と粉塵を巻き上げる。
黒煙が立ち昇り、敷石が真っ赤に光って溶けていく。
溶け出した敷石の上を歩くヘリアンサスの足跡が、点々と溶岩に刻まれる。
――それなのに、ヘリアンサスの身体からは、一筋の煙も上がりはしない。
数えるのも馬鹿馬鹿しくなる程の数の氷塊が、次々に、叩き付けるように降り注ぐ。
熱された敷石に降る氷塊が、互いの温度差からして有り得べからざることに、真っ赤に爛れた敷石の上に形を保って転がる。からからと乾いた音がする。
あらゆる変化を禁じられた、鋼鉄よりも硬いその破片の一つですら、ヘリアンサスに掠りもしない。
まるで磁石同士が反発するかのように、氷塊がヘリアンサスを逸れて、小さな彗星のように吹き飛んでは、立ち並ぶ廃屋に穴を穿っていく。
炎弾や氷塊に抉られた敷石が、見えざる手で持ち上げられるかのように引き剥がされる。
背の低い家屋が、巨きな掌に握り潰されるかの如くに粉砕される。
そしてそういった、敷石や砕けた家屋の欠片は、全て狙い澄ましてヘリアンサスに向かって宙を吹き飛んだ。
まるで、水滴の代わりに瓦礫が舞い飛ぶ暴風雨。
だがそれさえも、まるでヘリアンサスの周囲に発条仕掛けの装置が配されてでもいるかのように、跳ね飛んでは見当違いの場所へ落ちる。
廃屋が砕けて崩れ落ちていく。敷石が抉れて、噴水のように破片が噴き上がる。あるいは既に瓦礫の山となった場所に、新たな瓦礫が粉塵を舞い上げて積み上がっていく。
爆音と破裂音が轟き――、止まる。
音ですら、光でさえもが停止して、あらゆる事象がその顕現を禁じられ、俄かに、時間が止まったかと思える数秒が流れた。
炎弾も、氷塊も、瓦礫も、その場にぴたりと止まって動かない。
空中を埋め尽くして、ただひたすらに魔王ただ一人を殺すために吹き荒れる、その全てが静止した。
空気の流れでさえも停止して、陽炎でさえもその波紋を留める。
歪んだ景色は歪んだ景色のまま、現実離れした光景が広がり――
――かつん、と靴音。
白髪金眼の魔王が、平然と次の一歩を踏み出した音。
あらゆる動きを禁じる空間にあって、空気ですら、呼吸のための移動さえも拒む空間にあって、何らの影響を受けていないと言わんばかりに。
悠々と一歩を踏み出して、そしてヘリアンサスは、まさに目の前でぴたりと動きを止められた、大きな家屋の破片に手を伸ばした。
す、と、上品でさえある仕草で、指先で軽くそれに触れた――
――轟音が戻った。
停止していた全てが吹き荒れた。
ヘリアンサスが触れた瓦礫が木端微塵に砕け散る。
耳を聾する大音響。
炎弾が廃屋を倒壊させていく。
石造りの壁が吹き飛び、天井が崩落する轟音。
粉塵が立ち昇る。黒煙がもうもうと頭上を靡く。
氷塊は殺意ある水晶の如くに降り注ぎ、互いにぶつかり合って甲高い不協和音を奏でる。
「――嘘でしょ、いま絶対、確実に〈止めた〉と思ったのに……!」
「ディセントラ、いいからあたしの氷に掛けてる魔法を維持して。このままだとコリウスの弾が切れるわ」
「いや、もう、しばらく建物は壊せない。これ以上やると障害物がなくなる――周辺一帯更地になるぞ」
「それ、俺にも自粛しろって言ってる? さっきからばんばん建物吹っ飛んでんだけど。
吹っ飛ばす気はねぇんだけど、あいつに当たんないのが流れていってる」
「見れば分かる。どのみち、そろそろおまえは控えてくれ。同士討ちは歓迎できない。
――カルディオス、焦れているのは分かるが得意分野は使うんじゃないぞ。ここでおまえの介抱は出来ないからね」
「……あーもう、分かってるよ!」
ヘリアンサスを常に視界に捉えられるよう、平らな屋根の形を生かして、ひたすらに建物の上を走り抜けながら、俺たち五人は各々、互いを鼓舞するためもあって声を出していた。
自分たちの魔法に巻き込まれて自分たちが怪我をするような、一世一代の間抜けな事態を避けるためもあって、俺たちは建物の上に登っている。
ディセントラが先日指摘していたように、この廃村の建物は、洪水時を想定して、屋根の上を移動することを前提に設計されているようだった。
一度上がって来てしまえば、あとは建物同士の間隔の狭さを生かして、割と縦横無尽に走ることが出来る――
――今はもう無理だけど。
俺たちが通路としている、川へ向かう一並びの建物群を除いて、周辺は既に瓦礫の山。
特に、ヘリアンサスが歩を進めている道の向こう側は酷い。もはや建物が残っていないといって過言ではない。
ヘリアンサスは――そして俺たちは、川の方向へ進んでいる格好になっている。
廃村の中心から川と反対側の区画、そして瓦礫をぶん投げるに当たって、位置的に向かなかった――俺たちからすればヘリアンサスとは反対側に当たる――区画については建物は健在だが、俺たちの目に届く範囲は本当にもう酷いものである。
鳥瞰してみれば、俺たちが走る建物を境目として、瓦礫の山と形を残す建物の部分が綺麗に分かれているように見えただろう。
ヘリアンサスが進む方向は、俺たちが誘導しているというのもある。
川へ――というよりは、世双珠の罠が完全に外れた以上、今度は広い場所へ出てもらいたかったのである。
世双珠は、今まさに俺たちが通路としている一並びの建物の中に、点々と隠してあった。
つまりは、戦争並みに火力のある魔法が吹き荒れている只中においても、壊れていないことが明白な位置にある。
これは偶然そうなったというよりも、コリウスが気を回した部分が大きい。
コリウスはちゃんと、いつか俺がシャロンさんからの受け売りで話した、「世双珠が破損したところでレヴナントが発生する」という仮説を覚えていてくれたのだ。
今この場でレヴナントまで出て来たら、俺たちといえどさすがに死ぬからね。
天災以上の威力で吹き荒れる魔法の中を、散歩か何かのようにゆったりと進むヘリアンサス。
傷ひとつ無いどころか、汚れひとつ無い。
これはもう、俺たちの誘導が成功しているというよりも、
「――なんかもうあからさまに、乗ってやってると言わんばかりね……」
息を弾ませながらも苦々しげに呟いた、ディセントラの言葉が全てである。
屋根を駆け抜け、次の屋根に飛び移る。
暗黙の了解で、コリウスが先頭、その後ろにディセントラとアナベル、そしてカルディオスと俺が殿である。
この位置取りは、―――言うまでもなく――他の三人に比べて飛んだり跳ねたりが苦手なディセントラとアナベルが、万が一にでも躓いたりしたとき、俺たち三人がこの二人を庇えるようにするためのものだ。
とはいえディセントラもアナベルも、今生においては軍人である。
凡人ならまず、屋根の上をここまで全力疾走できないし、そもそも屋根から屋根へ飛び移ることも、ここまでスムーズにはこなせない。
それは疑うべくもないが、何だかんだでそこは男女差。
同じ訓練を受けたとしても、単純に走るだけというこの動きにおいては、生まれながらの筋力がものを言う。
因みに俺はアナベルやディセントラとも殴り合ったことがあるが、別に勝率十割というわけではない。
俺に筋力の優位があるように、ディセントラやアナベルには知力や機転の優位があるからね。
――そうだ、対人戦闘においては、単純な身体能力のみがものを言うのではない。
知力に機転、そして魔法に土壇場の胆力や経験値――そういった全部が、殺し合いにおいて勝敗を分けるものに成り得るのだ。
だからこそ、――俺より小柄で、俺より線が細くて、俺より繊細に出来ている彼女が、俺より遥かに強いということを俺は知っている。
――今の俺たちは、魔力量においては恐らく並び立つだろう。
単純な力比べでは、恐らく俺が勝るだろう。
でも、知っている。
仕草のひとつひとつが、触れなば折れんばかりに繊細に見えようと、微笑む表情が飛び切り可愛いものだろうと、話し口調がどれだけ穏やかで心安らぐものであろうと、いざというときの彼女の爆発力を俺は知っている。
知力も機転も胆力も、俺が彼女に勝るものは一つもない。
彼女が強いと知っている。
だがそれでもなお、吐きそうになるほど彼女の身が案じられてならないのは、俺が彼女に心底惚れ抜いていて、これまでに百万回くらいは恋に落ちているがゆえだ。
――どうか、どうか、
絶対に顔には出せない、言葉にも出せない、仕草にも表情にも出せない心で、祈る。
――どうか彼女が、俺より先に死んだりしませんよう。
彼女がいない世界の空気を、俺は呼吸のためであっても吸い込んだりはしたくない。
「――、ディセントラ、止めてくれ」
走りながら片手を軽く挙げて、コリウスが短く言った。
途端、息を引くように、ディセントラが自分の魔力を引っ込めた。
赤金色の髪が、汗で頬に張り付いている。
躊躇いがちな春が顔を覗かせているだけのこの季節、気温のせいでは有り得ない。
「トリー、だいじょーぶ?」
少し足を速めてディセントラの隣に追い着いて、彼女の頬から髪を払ってやりながら、カルディオスが憂慮の色の濃い翡翠の瞳でディセントラを覗き込んだ。
ディセントラのことだから、まだ魔力には余裕があるだろう。
カルディオスが案じているのは体力の方だ。
こく、と頷いたディセントラは、しかしカルディオスの方を見ていなかった。
ヘリアンサスがいる方向を、一心に淡紅色の瞳で見詰めていた。
――コリウスの合図があったということは、そういうことだ。
この銀髪の男はいつだって目敏い。目敏さだけならディセントラを上回る。
何でもかんでも、人から知らされるのではなくて、自分で見て判断しないと気が済まないとばかりに。
だから――
――許されるならば祈っていた。
あるいはこんな役回りには断固反対していた。
俺にはそのどちらも出来ない。
代償が、徹底的に俺の恋慕も愛情も阻むから。
なおも、ヘリアンサスの周囲には魔法が渦巻いている。
先ほど控えろと言われたから、俺の炎弾はその数を減らしているが、火力において俺に劣るカルディオスは、まだ小さな流星のような炎弾を、これでもかとばかりに降らしている。
コリウスも、瓦礫を砲弾のように撃ち出す魔法を緩めていない。
アナベルもまた、氷塊を落とし続けているが――その氷が熱を受けて溶け始めていた。
ディセントラが魔法を解いたからだ。
コリウスが、先んじてディセントラの魔法のみを解かせた理由は明白で――他の四人の魔法とは違って、ディセントラの魔法だけは、即死という言葉ですら生温く感じるほどに、直截的に死を持ってくるからだ。
生きることを許さない静止が、ディセントラの魔法の真骨頂である。
――その魔法ですら、ヘリアンサスのことは捉え損ねたわけだが――
「……ルドベキア」
コリウスの囁き声を受けて、俺が完全に魔法を打ち切った。
常識外れの俺の高温を、コリウスが警戒したのだと分かる。
――ヘリアンサスが一瞬、間違いなくこちらを見上げた。
陽光に煌めいて見える新雪の色の髪が揺れて、黄金の目が、光を反射する宝石みたいにこちらを向いて光った。
だが、直後。
ぱっとヘリアンサスの視線が翻る。
斜め後ろを振り返って笑う。
そして、左手をすっと伸ばした。
まるで親しい友人が後ろから走って来たのを、手を伸べて歓迎するかのように――ただしその意図は全く逆で。
そして、足を止めたヘリアンサスが首を傾げて問い掛けた。
「――死ぬ気になったの? ご令嬢」
「――いいえ、おまえを殺しに来たの」
応じたトゥイーディアが――まさに俺たちが踏む家屋の、その陰から踊るように飛び出した今生の救世主が、手にした黝い大剣をヘリアンサスに叩き付けた。
――単純な剣戟が、ヘリアンサスに対して有効打にならないことは先刻承知の上のこと。
今のトゥイーディアが任されている役割は、謂わば目くらましである。
たかがそのために、俺の〈最も大切な人〉が最前線で命を危険に晒すことを、俺が内心で業腹に思っていることなど、この世の誰も知らないことだが。
トゥイーディアがヘリアンサスに接近するまでの間、俺たちはとにかく魔法を大盤振る舞いしてヘリアンサスをこちらへ誘導してきた。
その間にトゥイーディアが俺たちの後ろを回り込んで、ヘリアンサスに肉薄するタイミングを見計らっていたというわけだ。
万が一にも俺たちがトゥイーディアに怪我をさせては笑えない。
それは心情的にも、戦略的にも最悪の事態だ。
なので、警戒したコリウスがまずディセントラに、それから俺に、順に魔法を打ち切らせたというわけである。
今、トゥイーディアは殆ど人間離れした動きで、瓦礫の砲弾を避けてヘリアンサスに肉薄し、大上段に構えた大剣を魔王に叩き付けている。
大剣が弾かれた――音は、なおも的を外した瓦礫が散らばる大音響に紛れて聞こえなかった――、トゥイーディアがよろめいた。
よろめいた彼女の軍靴が、転がっていた小さな氷の欠片を踏み砕き、砕かれた氷が陽光に白く輝く。
そして一瞬未満ののち、トゥイーディアの蜂蜜色の髪が翻る。
日差しに煌めく蜂蜜色の髪がふわっと広がって、黝い大剣が翻り、再びヘリアンサスに叩き付けられた。
「――ねえ、ご令嬢」
ぴた、と、見もせずにその大剣を止めて、ヘリアンサスはゆるゆると首を振った。
そして、まるで至らない教え子を叱責するかのような手付きで、右手の人差し指をトゥイーディアの胸に突き付ける。
「言ったよね。せめて少しは芸を見せて。――僕がせっかくきみに置いてあげている価値を、溝に捨てるような真似はやめてほしいな。
これじゃあ全然楽しくない。もう何百回と繰り返したことを、なんで今も試そうとするのさ」
いっそ責めるようにそう言って、ヘリアンサスがぐっと人差し指を押し出す――
――俺は息を止めた――
――寸前、鮮やかにトゥイーディアが身を伏せた。
仰け反るように上体を反らせ、そのまま身体を沈めた――かと思うと、一瞬後には膝を前に傾けて体重を前方に掛け、しゃがみ込んだその姿勢で、ヘリアンサスの足許を薙ぐように大剣を一閃――
――同時に、トゥイーディアを捉え損ねたヘリアンサスの魔法が、ものの見事に俺たちが今立っている建物の壁をぶち抜いた。
ばごんっ、と響いた轟音と、足許が揺れる衝撃。視界の下から粉塵が立ち昇ってくる。
アナベルがよろめいたのを、すかさずカルディオスが片手で支えた。
コリウスが手を振って合図して、俺たちは次の建物の上へ――
代償があるからこそ、俺は、危うく足許が崩落しそうになったことに対する危機感しか表情に載せられなかった。
だが本心では、その場で座り込みそうになるほど安堵していた。
良かった、トゥイーディアは躱した。
あれを躱すなんて人間じゃねぇなとちょっと思うけど、でも無事だ。
――トゥイーディアが一閃させた大剣を、ヘリアンサスは片足を刀身に乗せてぴたりと止めていた。
まるで、転がってきた毬を足裏で止めたかのようだった。
そして黄金の目を瞬かせて、大剣から足を離して、
ぱんっ! と軽い音がした。
トゥイーディアが吹き飛んだ。
何が起こったのか、俺が理解できないでいるうちに、俺たちの十数ヤード前方――つまりは、川の方向――で、濛々と粉塵が上がった。
石造りの建物が倒壊する音がそれに続き、衝撃に地面が揺れる。
カルディオスが何か呟いた――「駄目だ」だとか、「嘘だろ」だとかいった言葉に聞こえた。
俺は何も言えなかった。
ディセントラが息を呑む気配すら、遠くのものと感じていた。
がら、と瓦礫の崩れる音がする。
風が立ち込めた粉塵を運んで流れていく。
そして、トゥイーディアが現れた――ヘリアンサスに蹴り飛ばされて十数ヤードを吹っ飛び、廃屋に突っ込んでそれを倒壊させるほどの衝撃を受けたトゥイーディアが。
這い出すように瓦礫の中から現れて、手にした大剣を杖に立ち上がろうとしている。
「――――」
――俺には息すら難しかった。
恐らく、吹っ飛んだ瞬間に背中側の空気を圧縮して緩衝材にして、衝撃は殺したのだろう。
あの勢いで建物に叩き付けられたら、普通は生きてはいない。
――怪我の程度が、ここからでは分からない。
がらがらと崩れる建物の中から這い出して、さすがにふらつきながらも立ち上がる、トゥイーディアが左手の甲で口許を拭った。
血の汚れを拭ったのだと、この距離があっても明確に分かった。
足許の小さな瓦礫を蹴って退かして、敷石に突いていた大剣を構え直す。
一瞬にして頭から粉塵を被ったトゥイーディアが、しかし微塵も怯んだ様子もなく、ちらっと微笑みを浮かべたのが見えた。
「――油断しちゃった」
悪戯っぽく彼女がそう呟いたのが、遠目に見える唇の動きから――そして、俺が今まで彼女を見詰め続けてきた年数の長さゆえに、分かった。
「――イーディ、なんて」
カルディオスが身を乗り出そうとするのを、コリウスが片手で止める。
そして、いっそ冷徹なまでに冷静に、切って捨てるように呟いた。
「立っているから大丈夫だろう」
「はあ?」
アナベルが思いっ切り薄紫の目を眇める。
内心でめちゃめちゃそれに賛同しながらも、俺はあっさりと言っていた。
「今は喧嘩してる場合じゃないだろ」
「ルドが冷静だとすっげー腹立つな」
カルディオスが吐き捨てるように言い、アナベルとディセントラが無言で頷いた。
いつものことなのに、なんでだ。
むしろコリウスを責めろよ。
――とはいえ、本当に、今はそんな場合ではない。
ヘリアンサスは、自分が蹴り飛ばしたトゥイーディアが立ち上がるのを、面白くもなさそうに眺めていた。
ここですかさずとどめの一撃を飛ばさないのが、いつでも余裕綽々のこいつらしい所業である。
トゥイーディアもまた、そんなヘリアンサスを真っ直ぐに見て、微笑を引っ込めた。
そして、無表情に左手でヘリアンサスを手招いた。挑発も明らかな仕草だった。
――自分が川の側に立っているから、手っ取り早くヘリアンサスを誘い出そうとしているんだろうが、俺は臓腑が冷えるほどの恐怖を感じた。
トゥイーディア、頼むから無茶をしないで、思い切った真似をしないで。
彼女を見たヘリアンサスは、予想されて然るべきことに、不機嫌そうに眉を寄せて腕を組んだ。
ちらりと俺たちの方を見上げて、またトゥイーディアの方へ視線を戻す。
そうして数秒ののち、魔王はにっこりと微笑んだ。
「――ちょっと腹が立ったから、まあいいや」
そう呟いて、ヘリアンサスは左手でトゥイーディアを指差した。
しゃら、と、その手首で揺れる空色の宝石。
「そういえば、外できみたちとこうしているのも久し振りだよね」
トゥイーディアが眉を寄せた。
――当然だった。
俺たちが、魔王の城ではなく野外で、こうして魔王討伐に挑むのは今回が初めてなのだから。
だが、そんなトゥイーディアの反応は一顧だにせず、ヘリアンサスは極めて楽しげに宣言していた。
「――大丈夫。ちゃんと加減はしてあげるから」
トゥイーディアが、ヘリアンサスに向かって一歩踏み出した――そのとき急に、影が差した。
弾かれたように、トゥイーディアが上空を振り仰いだ。
眩いほどの晴天が、いつのまにか翳っていた。
どこからともなく、霧のように湧き出した暗い雲の群れが、見る間に折り重なって厚みを得て、晴天を埋め尽くして唸っている。
数秒ののちには、見渡す限りの、圧し掛かるような曇天が広がっていた。
真昼の陽光は分厚く積み上げられた雷雲に阻まれて、辺りは忽ちのうちに薄暗がりに落ちていく。
まるで巨大な獣の腹が鳴るような音が連続して降ってきて、
「――……は?」
そのとき、真面目なまでに、現実に異を唱えようとするかのように、その光景を振り仰いでそう呟いたのは俺だけではなかった。
――有り得ない。
この規模の魔法は、正当な救世主の地位にあるアナベルならば有り得るが、だが、ここまで急激な変化は有り得ない――
ヘリアンサスが左手を振り上げた。
小さな子供が、雷雨の危険も知らずにはしゃぐかのような身振りで。
手首で跳ねる、宝石を連ねた古びた腕輪――その宝石が反射に光る。
ぴかっ、と、黒雲の中で稲光が光ったのだ。
稲光に照らされた雲が白く光った。
魔王の金眼がこちらを見上げた。
急速に暗くなった光景の中で、奇妙なまでにはっきりと、その笑顔が見えた。
「――ねえ、カルディオス。
僕があべこべのことをしても、きみは吃驚してたよね」
そして、ヘリアンサスが手を振り下ろした。
落雷の閃光と轟音が、全く同時に廃村を染め上げた。