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81◆ 魔王討伐――世双珠

 広場を、逍遥するような足取りで行ったり来たりしていたヘリアンサスは、俺とカルディオスが二人揃って建物の間から瓦礫を踏み越え、広場に進み出た瞬間に、いっそ嬉しげでさえある表情でこちらを振り返った。


 カルディオスが、俺の隣で息を止めたのが分かった。


 俺も全く同様だった。

 だが、意地と根性を振り絞って、カルディオスより一歩前に出る。


 今、前に出るべきなのは俺だ。

 カルディオスはむしろ後衛に当たるべきなのだ。



 ――いつもだ。

 いつも、この白髪金眼の魔王は、こういう嬉しそうな顔で俺たちを殺してきた。



 彼我の距離が十数ヤード開いていてさえ、俺たちは物理的な圧迫感にも似た恐怖を、この目の前の、十代後半の青年の姿をした化け物に抱いている。


「やあ」


 と、深青色のガウンを翻し、魔王は朗らかに言った。

 陽光に目を細めて、心底嬉しそうに見えた。


「誰も出て来ないから、帰っちゃったのかと思ったよ」


「――帰らねぇよ」


 恐怖が詰め込まれた喉を辛うじて動かして、俺は言葉を吐き出した。

 ちりッ、と、俺の足許に赤い火の粉が散った。


「おまえを殺して帰るか、おまえに殺されるか、――どっちかだ」


 黄金の目を眇めて、ヘリアンサスは肩を竦めた。

 そして、俺が示した二つの結果を表現するかのように、左右の手の人差し指をそれぞれ立てて、ゆらゆらと揺らしてみせた。

 小難しい顔で自分のその手を見下ろして、ふ、と顔を上げたヘリアンサスは、まるで初めて算術の問題に正解した子供のように笑っていた。


 立てていた二本の指を拳に仕舞い込んで、今度はぱっと手を開いて掌を合わせ、ヘリアンサスは明るく言った。



「どっちも外れだ、ルドベキア」



「――それは良かった」



 凛とした声が響いた。

 聞き違えるはずもないトゥイーディアの声だった。


 ――次の瞬間、音もなく、ヘリアンサスの足許が崩落した。

 否、正確に言うならば消し飛んだ。


 ヘリアンサスの足許が、直径二ヤード程度の円形に消失する――真っ白な光の鱗片が舞い上がる。



 トゥイーディアが固有の力を、ヘリアンサスの足許に向かって行使したのだ。

 恐らくはヘリアンサス本人をも魔法の対象にしたのだろうが、それは弾かれたというところか。



 ヘリアンサスは、わざとらしくびっくりしたような顔をしてみせる。

 その両足が、何もない位置を踏んでいる。


 唐突に開いた底のない奈落にすら、何の脅威も感じた様子はなかった。


「――ああ、久し振りに見たね、これ」


 笑い含みにそう言って、ヘリアンサスは、奴から見て右手に視線を向けた。

 ――そこから、今しも瓦礫を駆け抜けて、手にした黝い細剣を翻すトゥイーディアが疾駆してくる。


「前は、確か、――そうそう、」


 ヘリアンサスが言い差した言葉をへし折るようにして、俺がヘリアンサスの立つ、不可視の足許を炎上させた。


 爆裂音と共に巻き上がった炎を、まるで気の利いた手品を見たかのように笑って見下ろして、ヘリアンサスはもはや、消火すら面倒だと言わんばかりに、悠々と――踊るような足取りで、数歩下がって敷石を踏んだ。

 確かに炎に巻かれたはずの足にすら、一切その痕跡はなく。



 だが、いい。これでいい。


 トゥイーディアがこの禁じ手を――仲間すら巻き込みかねない、足場を消し飛ばすという手段を採ったのは過去にただ一度だけ。


 アナベルをシオンさんの許へ帰さなければならなかった、あのときだけだ。


 ()()()()のことを、アナベルに思い出させて堪るものか。


 言葉は掻き消した。


 ヘリアンサスは嘲るように俺を見ている。


 それが、俺が咄嗟に撃った炎の火力の低さを嘲っているのか、それとも俺の意図に気付いて嘲っているのか、それは俺には分からなかった――そして、どうでも良かった。



 カルディオスを置いて走り出す。


 走りながら撃った二撃目の炎弾が、過たずヘリアンサスの足許を抉った。

 ぼご、と音がして、その足許が陥没する。


 だが、燃え上がった炎はヘリアンサスに何らの害も及ぼさない。


 素早く手を振って自ら鎮火――消えゆく炎の最後の一片(ひとひら)を踏むようにして、ヘリアンサスに肉薄したトゥイーディアが細剣を振り抜く。


 ――いや、違う。


 ヘリアンサスに衝突するその瞬間、トゥイーディアの手の中で、細剣は素早く大槌に姿を変えた。

 柄の長い大槌を振り抜くトゥイーディア――


 がんっ、と凄絶な音と共に、ヘリアンサスの鼻先で大槌が止まる。

 如何なる作用か知らないが、空気中に白く同心円状の波が立つのが見えた。


 魔王は、極めて魔王らしく、救世主の挑戦を鼻で笑った。


 その反応にはさしたる情動を動かさず、受けられたと見るや、トゥイーディアは大槌を引いていた。


 引く瞬間には大槌は細剣に戻っていて、その器用さに俺は内心で舌を巻く――巻きつつも、もはや眼前にあるヘリアンサスの澄ました顔面目掛けて、渾身の力で拳を振り被っていた。


 白熱する炎に包まれた右拳。


 ヘリアンサスが溜息を零す。

 たったそれだけで、俺の拳を包んでいた炎は速やかに消えていった。


 だがそれは織り込み済みのこと。


 ちりん、と小さく澄んだ音を立てて、俺の拳が振り抜かれるまさにその軌道上に、唐突に透明な短剣が出現した。

 迷いなく、逆手に掴み取る――冷たい。


 アナベルが瞬時に用意した氷の短剣。

 未だ熱が残る俺の手の中にあってさえ溶けない氷。


 殴る動作から突き刺す動作に切り替えて、握った短剣をヘリアンサス目掛けて振り下ろす。

 さすがに予想外だったのか、ヘリアンサスが鬱陶しそうに一歩下がろうとして――眉を寄せた。


 するすると無音で、氷の蔦がヘリアンサスの足を絡め捕っている。


 アナベルが生み出し、ディセントラが不変の魔法を付与した、角張った氷の蔦が。


 自らの足を絡め捕る拘束具に、恐らくヘリアンサスは気付いていなかった。

 あるいは気付いていても、対処を後回しにした。


 アナベルとディセントラが魔王に対して稼いだ時間は僅か一瞬、されど一瞬。

 その一瞬のうちに、俺が握る氷の短剣の切先は、ヘリアンサスの脳天目掛けて振り下ろされている。


 かぁん! と、甲高い音が響いた。

 俺の手の中で氷の短剣が砕け散った。破片が掌を突き刺す鮮やかな痛みがあったが、無いも同然の軽傷だ。


 ――この結果は当然だ。

 トゥイーディアの剣ですら受けるヘリアンサスの魔法が、俺の振る氷の短剣を弾けないはずがない。


 だがその間に、ヘリアンサスの頭上一帯に、大量の瓦礫が所狭しと浮かべられて並べられていた。


 唐突に空が翳ったかと思えるような質量に、ヘリアンサスが不機嫌に眉を寄せる。


 俺とトゥイーディアが同時に身を翻し、ヘリアンサスから離れた。

 コリウスとディセントラが並んで、俺たちから見て右手――ヘリアンサスからすれば左手の、建物の間に立ってこちらを見ているのが分かった。


 ――この瓦礫、浮かべているのはコリウスだ。

 だがここから先は、ディセントラの領分だ。


 ――高さゆえに、実際の重さよりも遥かに勝る質量を獲得した瓦礫の群れに、ディセントラが得意分野の魔法を付与する。


 そして、コリウスが瓦礫に与えていた魔法を解いた。


 耳を劈く大音響と共に、浮かべられていた瓦礫がヘリアンサス目掛けて落下する。

 元より氷に足を取られていたヘリアンサスは躱せない。


 落ちる以外には、破壊すら許さないディセントラの魔法を纏って瓦礫が落ち――


 ――ぴた、と止まった。

 ヘリアンサスの頭上、触れんばかりの低空で、微動だにせずに止められた。


 同時に、ぱきん、と甲高い音がして、ヘリアンサスを捕らえていた氷の蔦が砕け散る。


 トゥイーディアが飛び出した。

 真っ直ぐにヘリアンサス目掛けて駆け抜ける彼女の手の中で、細剣は斧槍に姿を変えている。


 ヘリアンサスはむしろきょとんとして、自らに向かって疾駆してくるトゥイーディアを見ていた。


 そして、頓着なく、踊るような仕草で踵を返し、すたすたと奥へ――トゥイーディアとは反対側へ――最初に俺が熱波で薙ぎ払った瓦礫の傍の、まだ建物も道も残っている方へ、まるで追い掛けっこをするかのように足早に向かった。


 そしてくるりとトゥイーディアを振り返って、ぱちん、と指を鳴らす。


 途端、ヘリアンサスが宙に留めていた瓦礫の山が、真下のトゥイーディア目掛けて落下――その寸前に、真っ白な光の鱗片が大量に宙を舞い、塵一つ残さずに瓦礫の山を消し飛ばした。


「……相変わらずだねぇ」


 何を思ったかそう呟くヘリアンサス目掛けて、トゥイーディアが組み付くようにして斬り付けた。


 ヘリアンサスは、いちいち組み合うことを厭うたのか何なのか、自分自身が倒壊させ、瓦礫の山と化した建物群――広場を囲うように広がっている瓦礫の上に、軽い仕草で飛び乗ってそれを躱す。


 そして、鹿爪らしく断言した。


「最初に言ったでしょ。温情で一太刀もらってあげてもいいと思えるくらいには芸を見せてよ」


 ヘリアンサスを捉え損ねた細剣をひゅん、と振って、トゥイーディアは応じもせずに再び敷石を蹴った。


 彼女自身も瓦礫の上へ。

 そして、ヘリアンサスの方へ。


 家屋の立ち並ぶ方向へ――突き進めば、俺が最初に薙ぎ払った瓦礫の果てに見えているのと同じ、川のある方へ。



 正午を迎えた太陽に煌めく川面が、俺が押し開けた瓦礫の道越しには見えている。



 素早く瓦礫の上を渡り終え、平屋建ての建物と建物の間の道へ入ったヘリアンサスが、トゥイーディアを一瞥して溜息を零す。


 ちょうど日陰に入る位置であったが、新雪の色の髪は影にあってさえ光を弾くように煌めいて見えた。

 零された溜息は、むしろ嘆かわしげですらあった。


 そのヘリアンサスに向かって、俺もまた敷石を蹴る。

 前衛をトゥイーディアと一緒に担うことが、今の俺の役割だ。


 ヘリアンサスは、まるで気負った様子もなく、散歩の途中に子犬に絡まれたと言わんばかりの動きでゆらゆらとトゥイーディアの剣を躱している。

 騎士であるトゥイーディアの剣戟の速度は、目で追うことすら苦労する代物だが、まるでヘリアンサスは、トゥイーディアの動きを予め知っていたようですらあった。


 トゥイーディアのことをあんまり意識し過ぎると動けなくなるのは明白なので、俺はそんな魔王だけを見ていた。

 魔王目掛けて、瓦礫を踏み越え、足裏で瓦礫を崩し粉塵を巻き上げながら走り寄る。


 外套をはためかせて瓦礫から飛び降り――そして、その勢いを殺さず飛び蹴りを見舞った。


 確実に膝が入ったと思ったが、――違う。

 ヘリアンサスは懇切丁寧でさえある動きで、決められた殺陣をなぞるかのように俺の蹴りを躱し、かつ同瞬に振り抜かれていたトゥイーディアの細剣も、如何なる魔法によってかぴたりと止めていた。


 着地し、俺はすかさずヘリアンサスの顔面目掛けて炎弾を放つ。


 ふうっ、と、迫る炎弾に吐息を吹き掛けたヘリアンサスが、たったそれだけの仕草で炎弾を消し飛ばした。

 ただし、熱波の余波で、すぐ傍の家屋の窓枠が吹き飛び轟音が上がる。

 日陰の中で粉塵が舞う。


 次瞬、細剣を受けられた衝撃によろめいたトゥイーディアが、しかしすぐに踏ん張って細剣を翻した。


 溜息混じりにそれを躱したヘリアンサスが――


「――あれ?」


 よろめいた。


 驚いたようにぱちくりと黄金の目を瞬かせたヘリアンサスは、しかし一瞬後にはにっこりと微笑む。

 しゃらん、と腕輪を鳴らして左手を振って、極めてにこやかに。


「ああ、そうそう、きみもいたね」


 ――ヘリアンサスが後ろへ踏み出した一歩、その箇所の敷石を、速やかかつ正確に朽ち果てさせて足場を崩したアナベルは、平生変わらぬ無表情で、俺たちよりやや後ろに立って魔王を見ている。


 体勢を崩したが、しかしそれのみ。

 ヘリアンサスはすぐに、まるで自分専用の床を張り直したかのように、確固たる足場の上に立った。


 そのまま、誘うように更に数歩を下がり、


「――――?」


 俺とトゥイーディアが追撃の手をぴたりと止めたことに、訝しそうに首を傾げた。


 高い位置にある太陽は、殆ど影を生じさせていない。

 しかしそれでも僅かに生じた、低い建物の小さな影の中で、その仕草は驚くほど人間らしく、幼げにさえ映った。


 どうしたの、と言わんばかりのその表情に、さすがに息を荒らげたトゥイーディアが――ヘリアンサスとは対照的に、降り注ぐ日の光に蜂蜜色の髪を煌めかせる彼女が、万感の憎しみを籠めてにっこりと微笑んで、応じる。


「――芸を見せてあげるわ」


 ヘリアンサスが口を開いた。

 何かの応答をしようとしたのだろうが、その言葉は発されることなく打ち切られた。



 がんっ、と轟音を立てて、ヘリアンサスを囲むように四本の柱が唐突に突き立つ。



 有り得べからざることに、まるで敷石から生えてきたようですらあった。


「――カルディオス」


 出し抜けに、全く無表情になって、ヘリアンサスが呟いた。


 ――応じる謂われもない。


 口を閉ざす俺とトゥイーディアの目の前で、出現した柱の間を埋めるように、〈無から有を生み出し〉て、堅牢な石の壁が出現した。


 さながら、天蓋のない小さな塔がヘリアンサスを閉じ込めたかのよう。


 建物と建物の間の狭い道を塞ぐように、高々と築き上げられる――継ぎ目ひとつない完璧な石壁。



 そしてその、天蓋のない真上。



 陽光を弾いて、明るく不吉に。


 長短様々な剣に、穂先の鋭い槍、――数えるのも馬鹿馬鹿しくなるほどに夥しい数の刃物が。



 真下のヘリアンサス、四方を壁に囲まれた魔王を指して降り注いだ。





◆◆◆





 三日前の夜、トゥイーディアの私室で。



「――ここまでが僕たちの目論見から大きく外れずに進めば、戦場は、最初にルドベキアに開いてもらう経路の、――つまりは、川まで続く瓦礫の傍の、建物の間だ」


 円卓に肘を突いて、コリウスが言う。

 アナベルはぼそりと。


「でも、ヘリアンサスが上手いことそっちに行ってくれるとは限らないんじゃないかしら」


「そのためのトゥイーディアとルドベキアだ」


 冷淡なまでの口調でそう言って、コリウスは灯火の明かりが揺らめく濃紫の目で、俺とトゥイーディアを交互に見た。


「言っては何だが、おまえたちを含め僕たちは、ヘリアンサスにとっては脅威ではない。

 だが仮にヘリアンサスが、トゥイーディアの言うように、すぐに僕たちを殺す気がないならば、――常識的に考えれば、」


 ヘリアンサスが常識の通じない相手であるということを、言外に認める予防線を張った上で、コリウスは物静かに言葉を続ける。


「――ヘリアンサスは、あちらから僕たちを攻撃するというよりは、むしろ迎撃に重点を置くはずだ。

 つまり単純に、あいつが、……そうだな、『受けるのが面倒だ、避けよう』という考えに至るまで、僕たちでとにかく手数を稼ぐんだ。

 特におまえたち二人には、積極的に最前線に立って前衛を担ってもらうから、あいつを誘導するべき方向を意識して、そちらに押し出すように猛攻しろ。いいな?

 ――トゥイーディアはまず大丈夫だと思うが、ルドベキア。かっとなって僕の言ったことを忘れたりしないように」


 念を押すコリウスに、俺は思わず、「いや忘れねえよ」と。

 トゥイーディアが口許を隠してふふっと笑う。


「――けどさ、」


 と、カルディオスがトゥイーディアの隣で手を挙げる。


「そこまで行って、俺が打ち合わせ通りに魔法を使ったって、別にとどめにはなんねーと思うよ?」


「分かっている」


 と、コリウスが苛々と溜息を零す。


 そのコリウスをちらりと見てから肩を竦め、ディセントラが言葉を引き取った。


「カルディオス、前提のお話を忘れてるわ。

 ――私たちがまず第一に目標にするのは、ヘリアンサスを()()()()まで誘導すること。

 そこまで行けば、何があるかは覚えてるでしょ?」


 ああ、と手を打って、カルディオスは指を鳴らしてディセントラを指差した。


「なるほどね。まず罠から使うってわけだ」


「そういうこと」


 満足そうに微笑んで、ディセントラは円卓の上に組んだ腕に、自ら凭れ掛かるような姿勢を取る。



「――可能性の高いものを後に残しましょう、ね?」





◆◆◆





 どがががっ、と、冗談みたいな音と共に、大量の刃物が天蓋のない塔の内部に降り注ぐ。


 その衝撃たるや、廃村全体が震えて感じられるほど。

 元より脆くなっていたところにその衝撃がとどめとなったのか、すぐ傍の建物の扉が、蝶番から外れてばたんと倒れ、濛々と埃と粉塵を舞い上げた。



 刃物は次々に生成されて降り注ぎ、味方の所業ながらも、俺は思わずぞわりと身震いした。



 ――カルディオスの魔法は、リスクこそ大きいが、それに見合う剄烈さを持っている。


 この魔法がもしもリスクを伴わないものであれば、俺は今までカルディオスと繰り広げた喧嘩の相当数で負けを貰うことになっていただろう。

 ぶっちゃけ、カルディオスの魔法に完璧に対処できるのは、ただ一人トゥイーディアだけなのだ。


 アナベルとディセントラの固有の力が互いに双璧を成すように、カルディオスとトゥイーディアもまた、〈創造〉と〈破壊〉の対を成すようなものだから。



 トゥイーディアが一歩下がり、後ろを振り返った。


 俺も、ちらりとそちらを見遣る。



 俺たちの後ろにはアナベルが無表情に立っており、張り詰めた薄紫の目でヘリアンサスを閉じ込める無蓋の塔を見詰めていた。


 その更に後ろにコリウスとディセントラが追い付いて来ており、コリウスが意識を失ったカルディオスを支えている格好だ。



 トゥイーディアがカルディオスの目を覚まさせるにせよ、それはカルディオスの魔法がその効果を終えてからでなければ出来ない。

 この魔法を行使している最中のカルディオスの意識は、どうあっても戻してやることが出来ないのだ。


 ゆえに、トゥイーディアはいつでもカルディオスの精神に干渉できるよう身構えながらも、駆け寄るのを堪えている。



 ――降り注ぐ刃物が、ぴたりと止まった。


 同瞬、トゥイーディアが指を鳴らした。

 考えるまでもなく、カルディオスの目を覚まさせるためだ。



 トゥイーディアが指を鳴らす、ぱちん、という音が狭い道に響いて、一秒――



 カルディオスが創り出した無蓋の塔が、根本から崩れ去った。

 まるで一つの建造物が風化していく様を、時間を凝縮して眺めたかのようだった。



「――やっぱり駄目だったか」と呟く、意識を取り戻したカルディオスの、他人事のように冷静な声を俺は聞いた。



 さらさらと解け、風化し、塵となっていく無蓋の塔。


 その中から、傷一つない魔王ヘリアンサスが足を踏み出した。


 あれだけの数が降り注いだ刃物は、どうしてだか影も形もない。

 足許の敷石は無残に割れ砕け、さながら嵐の後のようだったが、肝心のヘリアンサスには何の影響も見られない。


 ガウンに塵のひとつも付いていないのを見て、俺は自分の顔が強張るのを自覚した。


 風化していく塔の中から踏み出し、延いては日陰から日の光の下へと踏み出したヘリアンサスは、その一瞬、ひどく無表情だった。


 しかし直後、日陰から踏み出すと同時に、純白の髪を掻き上げてにこりと微笑んだ。

 影から光へ姿が塗り替わると同時に、表情までもが塗り替わった。


 しゃらん、と腕輪が鳴る。

 空色の宝石が、不透明に光を弾いて煌めく。


 黄金の瞳が陽光を捉えて、底抜けに明るく、恐ろしいまでに明るく光った。


 酷薄に、非情に微笑んで、白髪金眼の魔王は、芝居がかった仕草で両手を広げてみせた。


「カルディオス、見事な魔法だったね。きみの魔法は、僕は結構好きだよ。

 ――さて、ご令嬢」


 距離を跨いでトゥイーディアを覗き込むようにして、ヘリアンサスは首を傾げた。


「――これで万策尽きたとは言わないでね。

 言ったよね?」


 嗜虐的に微笑んで、ヘリアンサスはゆっくりと、まるで何かを読み上げるかのように。


「僕はきみのことが大嫌いだけど、今のきみには、僕を楽しませるに足る一定の価値を置いているんだ。いつもは盤上遊戯の駒の一つであるきみが、今は僕と同じ差し手の一面もあるからね。

 ――次はどうやって楽しませてくれる?」


「そうね、」


 トゥイーディアは、辛うじて冷静さを保った声で応じた。


 彼女の心臓が激しく脈打っているのが、俺には分かった。

 緊張を抑え込もうとしているがゆえの奇妙な静けさのある声だった。


「――死後の世界が楽しいものであるという保証があるなら、おまえを楽しませてあげられるってことになるんだけど」


 ありったけの怒気の籠もった皮肉を受け、すっとヘリアンサスの表情が失せた。


 黄金の瞳の温度が下がるのが、明瞭に、ありありと分かった。

 それどころか、その眼差しが凍てついていく。



 そして、表情が変わった――鮮烈なまでに。



 ――俺は思わず、トゥイーディアに、「下がれ」と言い掛けた。

 危ないから下がれ、と。


 代償ゆえに声は出なかったが、緊張と恐怖は如実に顔に出た。


 俺たちより後ろにいるアナベルたちですら、恐怖に一歩下がった気配があった。



 これ程に感情を露わにする魔王を、俺たちは見たことがなかった。



 何が逆鱗に触れたのかは分からないが、ヘリアンサスが激怒している。


 ふ、と純白の睫毛を伏せた魔王が、一呼吸を置いて、押し殺した声で呟いた。


 ――その声に、さしものトゥイーディアも一歩下がった。



「――()()()()()()()



 怒りそのものが、空気を通じて伝播してくるかに思えた。


「――白々しい……本当に。きみたちが、」


 言い差して、しかしヘリアンサスは言葉を呑み込んだようだった。

 ふ、と軽く息を吐いて顔を上げる。


 その(おもて)に、冴え冴えとした微笑が載っていた。



「まあ、今はいいや。どうせきみたちは覚えちゃいない。

 ――()()()()()()()、きみたちは、」



 軽く腕を組んで、それから左手の指関節を(おとがい)に当てて、ヘリアンサスは笑みを零した。


 その表情に何を見たのか、トゥイーディアがはっと息を吸い込み、片手を上げる――そして、短い驚愕の声を漏らした。


 ――今この瞬間に、トゥイーディアもまた、自身の魔力が魔法を成さなかったあの驚愕を味わったのだと、俺には分かった。

 同じ驚愕を覚えたことがあるからこそ分かった。


 そんなトゥイーディアを、明瞭な嘲弄の眼差しで見据えて、ヘリアンサスは両掌を合わせてわざとらしく首を傾げた。


 ――さらり、と純白の髪が揺れる。

 その髪の上を、陽光が滑る。


「――僕が思っていたより優しいんだねぇ、きみたち。

 だって、」


 くふ、と笑みに息を零して、ヘリアンサスは俺でもなくトゥイーディアでもない一点を、嘲る眼差しで見据えた。


 咄嗟に俺は振り返り、そしてそこに、ヘリアンサスと視線が合って顔色を蒼白にする、ディセントラを見付けた。


「よくよく思い返せば分かるじゃない?」


 楽しげでさえある口調で続けるヘリアンサスに、トゥイーディアが怒号じみた声を上げた。


「――ヘリアンサス」


「ああ、ご令嬢は知ってるよね」


 にこ、と微笑んで、ヘリアンサスは和やかに言った。

 視線はディセントラに据えられたままだった。



 ――そのとき、漠然と、俺はヘリアンサスの言わんとしているところを察した。


 先ほど、一体何が奴の逆鱗に触れたのかは分からないが、こいつはその腹いせにディセントラを使おうとしている。



 口を開いた。

 同時に、ヘリアンサスが俺を見た。


 黄金の目が、蕩けそうな色を湛えて細められた。


 そして魔王は、自らの唇に人差し指を当てた。

 内緒話をするときみたいに。


「……しぃー、黙っててね」


 がきん、と、自分の身体が硬直するのが分かった。



 ――あのとき、集会堂で、生き残りの最後の一人を助けられなかったときと全く同じだった。


 俺の――そして恐らくは、トゥイーディアの――五体に係る世界の法を、ヘリアンサスはいとも容易く書き換えている。



 ディセントラに視線を戻して、ヘリアンサスは妖艶に微笑んだ。毒のある花のように美しく。


「――ね、そこの赤毛。……僕がきみなら、こいつらと連むのは早々にやめてるけどなぁ。

 ねぇ、きみって案外、」


 首を傾げて、ヘリアンサスはよく透る囁き声で。


「――頭が悪いのかな。

 それとも、振る舞いほどには、この五人のことを大事に思ってなんていなくて、」


 俺は動けなかった。

 トゥイーディアも同じ状況であることが克明に分かった。

 それどころか恐らく、アナベルやコリウスも。


 強制的な沈黙が満ちる中、ヘリアンサスは極めて明るく言い放った。



()()()()()()、って程度に考えてるのかな」



 魔王がそう言い切ると同時に、俺は自分の身体が動くようになったことを感じた。


 ――だが、唇だけが縫い留められているかのように動かない。



 ディセントラの顔色は、蒼白を通り越してもはや灰色だった。



 ――ディセントラの代償は、〈仲間の誰かが必ず自分を庇って死ぬ〉というもの。

 ゆえに俺たちのうち一人は、毎回必ず、確かにディセントラの前で死んでいた。



 ヘリアンサスは今、それを(あげつら)っている。



 ――このとき、俺はようやく、魔界からの帰還直後、ヘリアンサスを訪うに当たって、トゥイーディアがディセントラを断固として同行させなかった理由を悟った。


 ディセントラの代償ゆえに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、その結果誰かが命を落とすことを恐れたのではないかと俺は思っていた。


 だが、違う。


 これを避けるためだ。



 ヘリアンサスがディセントラを、取り返しがつかないほどに傷つける、この一言を避けるためだったのだ。



 ――違う、と声を大にして言いたかった。


 ――ディセントラ、おまえがいなかったら、誰がコリウスの対等な話し相手になってやれるんだ。

 おまえがいなかったら誰が、あの魔王の大広間で俺たちに的確な指示を出せたんだ。


 おまえがいなかったら、――



 声が出ない。



 ――ディセントラ、おまえがいなかったら、()()()()()()()()()()()()()()()()()



 声が出ない。



 心臓がばくばくと脈打っている。


 ディセントラが今この瞬間、どれだけの傷を負ったのか、俺にはもはや分かりかねた。



 ――聡明で情に厚い彼女が悩まなかったはずはない。

 俺たちと行動を共にすることで、必ず一人は自分を庇ったがゆえに死ぬ現実を、耐え難く思わなかったはずはない。


 今までどんな気持ちで、目の前で死ぬ仲間を見てきたのか――そしてその次の人生で、前回の死に際を苦々しく語る俺たちの言葉を、どれだけの罪悪感と共に聞いてきたのか。


 代償のことは言葉に出来ないがゆえ、その苦痛はなおいっそうのものだっただろう。



 だからこそこいつは、魔王の城に殴り込みを掛けるときはいつも、率先して先陣を切り、単独行動をとろうとしてきたのだ。



 茫然とヘリアンサスを見詰める彼女の顔色は灰色で、淡紅色の瞳が震えている。

 震える指先を絡めて組み、ディセントラが顔を伏せた。


 組んだ指を額に当てて、まるで弾劾に耐えるかのように。


 ――逃げるように他人から視線を逸らす、そんなディセントラを、俺は初めて見た。

 肩が震えている。いや、全身が。



 が、そのとき、唐突に訪れた沈黙を破って、カルディオスの声が聞こえた。

 この狭い道にあって、沈黙の中にあって、妙に響いた声だった。


「――……は?」



 トゥイーディアが息を吸い込んだ。


 咄嗟にそちらを見た俺は、絶句した。



 ――ディセントラ以上の動揺を露わにして、トゥイーディアがヘリアンサスを見ている。

 飴色の目に浮かぶ憎悪は、もはやその激しさの余りに、憎悪と呼べる枠を超えていた。



 ヘリアンサスもまたそちらを見て、本気で嬉しそうに笑っていた。

 拳を口許に当てて笑い声を殺してさえいた。


 そして幾秒か、苦労して笑い声を喉に仕舞い込んだらしい魔王が、首を傾げて呼ばわった。


「――ねぇ、ご令嬢?」


 その呼び声が合図だった。


 俺たちが言葉の自由を取り戻した。


 すぐさまアナベルが、ディセントラの傍まで下がって彼女の手を握る。何かを囁く声が聞こえてきた。

 ヘリアンサスの前にあって、これほど直情的な行動に出る彼女を見たのもまた、初めてのことだった。


 トゥイーディアが肩で息をする。

 まるで一マイルを全力疾走した直後のように。


 そして、潰れた声で囁いた。


「――おまえが、何を言ってるのか、」


 息を吸い込み、ありったけの憤怒と激情を籠めて。


「――私には、分からないわ」


「きみ、本当に面白いね」


 せせら笑うようにそう言って、ヘリアンサスは細い指をトゥイーディアに突き付けた。


「いつもそうだよね。大したことは分かってないくせに理解者ぶって。

 ――()もそうだったね。きみは結局、何も大事なことは知らないままだった。言わせないままだった」


 少し口を噤んでから、ヘリアンサスは指を鳴らした。

 そして、今しも閃いたことであるかのように続けた。


「――今も知らないままだよね。滑稽だなぁ」


 こいつが何を言っているのか、俺には分からなかった。


 トゥイーディアが一歩踏み出した。

 いつもとは全く違う、衝動的な一歩に見えた。


 す、と手にした細剣を刺突の構えで引いて、もしも怒りという感情が質量を持つものであったなら、敷石を陥没させていただろうと思うほどに、一歩一歩に激怒を籠めて、トゥイーディアがヘリアンサスに詰め寄る。



「――私が何を知っていようが知るまいが、」



 ヘリアンサスは首を傾げて、面白がるようにトゥイーディアを見ている。


 そのヘリアンサスの喉元に細剣の切先を突き付けて――例によってそこから先は動かないのだろうが――、憤怒に震える声で、トゥイーディアは低く囁いた。



「――明確に、おまえが間違っている点が一つある」



 ヘリアンサスが、億劫そうに右手を持ち上げた。

 ふ、とその指先を黝い細剣の先へ宛がって、揶揄の色も濃く微笑む。


「へえ? どこだろう」


 言いながら、ヘリアンサスが細剣の切先を手で払おうとする――寸前、トゥイーディアがその切先を引いた。


 円を描くように剣を引いたトゥイーディアが、そのまま、踊るような足取りでヘリアンサスとの最後の一歩を詰め、詰めるだけでなく外套の裾を翻して、足裏をヘリアンサスに叩き込もうと、


「そういうのやめてよ」


 たたっ、と数歩下がってトゥイーディアとの距離を取り、その蹴りを回避したヘリアンサスは、お道化たように顔を顰めていた。

 ふわ、と靡いたその純白の髪の先で陽光が遊ぶ。


「足蹴にされるの、好きじゃないんだ」


「へえ、そうなの」


 知ったことかと言わんばかりに吐き捨てて、トゥイーディアは更に一歩をヘリアンサスに向かって詰める。



 ――俺はいつの間にか息を止めていた。


 トゥイーディアは冷静さを失ったように見える、()()()――



「――おまえが間違っている点だけど、」



 言い差して、トゥイーディアが左手を振る。


 どご、と鈍い音がして、ヘリアンサスの足許が消失した。

 陽光の中でもはっきりと分かる白い光の鱗片が、幻想的なまでに美しく立ち昇る。


 燐光を放つ雪片が舞い上がっているかのようだった。


 溜息を零し、何ら危なげなく、何もない虚空を踏んで立ったヘリアンサスが、呆れたように首を振りながら一歩下がった。



 ――()()()()()()()()()()()()を。



 ふ、と、トゥイーディアの唇が笑みに弧を描くのが見えた。


 開いた彼我の距離を詰めようとはせず背筋を伸ばして立った彼女が、右手の細剣を地面に突き、左手をヘリアンサスに突き付ける。



「――ディセントラは赤毛じゃないわ」



 ヘリアンサスに突き付けた指をぱちんと鳴らして、トゥイーディアはそんなことを断言した。



「磨いた銅みたいに綺麗な赤金色よ。似てる色でも全然違うんだから」



 かッ、と、ヘリアンサスのすぐ傍――俺たちからすれば左手の、家屋の中で青く光が弾けた。


 閉じ込められていた光が俄かに勢いを増したように、筋状の光を周囲に撒き散らす宝玉――



「――だからおまえが呼ばわった『赤毛』は、きっと他の誰かのことなのね」



 ――青い世双珠が、弾けるような光を放って世界の(のり)を書き換え始めた。



 トゥイーディアの目と鼻の先から向こうが、瞬く間に氷結した。


 ばきばきと音を立て、分厚い氷が道を、建物を、分厚く覆って広がっていく。

 真っ白な冷気が幽かな霧のように立ち昇った。


 唐突に氷河へと塗り替わった周囲の様相に、足許を氷に固められたヘリアンサスが、黄金の目を瞬かせて自らの右手、光が放たれた場所を見る。



 冷気がしゅうしゅうと音を立てる。



 騎士の一族というだけあって、トゥイーディアが実家から持ちだした世双珠は、相当大規模に世界の法を書き換えることが出来るものだった。



 そして世双珠の特徴のひとつ――この魔法は、維持に魔力を呑蝕しない。



 ――だからこそ、氷で駄目ならば炎で。

 それでも駄目ならば〈動かす〉魔法を応用した穽で。


 この先、世双珠の数だけの罠がある。


 俺たちの魔力は喰わない、僅かではあれヘリアンサスを削ることを目的とした罠が、点々と。



 分厚く張った不透明な氷が、陽光に白く輝いている。



 凍てついた光景を前に、トゥイーディアが地面に突いていた細剣を引き抜き、構える。


 そうしながらも言葉は明瞭に、ディセントラに向かって投げられた。




「言ったでしょ、ディセントラ。大丈夫よ。

 ――きみは何も間違ったことはない」














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