73◆ ガルシア戦役――命の有無
死にたがらないでね、と、トゥイーディアはよく俺にそう言った。
トゥイーディアからすれば、俺は誰彼構わずに庇うために前に飛び出し、みんなの中でも早いうちに命を散らす馬鹿な奴だからだろう。
前回もそうだった。
――きみは死にたがりだから。
たまには後ろでじっとしてるのよ?
船の上で掛けられた言葉を、今でも俺は鮮明に覚えている。
海鳥の声や波の音、帆が風を孕む音と一緒に、俺は大事に大事にその言葉を抱えている。
彼女と同じような言葉で俺を呼んだヘリアンサスに、俺は背筋が粟立つのを感じた。
覚えたのは純粋な嫌悪だった。
俺の表情を見て、すたすたと俺に近付きながら、ヘリアンサスは声を出して笑った。
血の臭いの充満する空気を震わせる、高らかな笑い声。
「そんな嫌そうな顔しなくても。まあ、きみが死にたがる理由も知ってるけどね」
肩を竦めて事も無げにそう言って、ヘリアンサスは硬直する俺の顔を覗き込んで足を止め、また笑った。
「ほんと、面白いねぇ。今からそんな顔をしてくれるんだから、ちゃんと全部話してあげたときの顔は見ものだろうね。
――少なくとも“カウンテス”は、……ああ、リリタリスのご令嬢は、とっても面白い顔を見せてくれたよ」
――カウンテス? ……伯爵令嬢? 女伯爵?
トゥイーディアを称するには余りにも不似合いな呼称に、俺は思わず眉を寄せた。
だがその怪訝も長くは続かない。
ヘリアンサスの前に立って、恐怖か憎悪以外の感情を長く持つことは不可能だった。
意識してゆっくりと息を吐いて、俺はそろりと足を動かした。
つい数秒前――目の前で殺されようとしたあの男性を助けようとしたあの瞬間に、間違いなくヘリアンサスによって物理的に留められた両足は、彼の絶命と同時に動くようになっていた。
仕草のひとつもなく、眼差しを配ることもなく、ヘリアンサスは息をするように容易く、俺の五体に係る世界の法を書き換えていた。
――“ちょっと話そう”、と、こいつは言った。
何を話すことがあるのかは不明だが、少なくとも、今すぐに俺の命を取るつもりはないらしい。
ゆっくりと動く俺を、ヘリアンサスはむしろ機嫌の良い様子で眺めていた。
俺が動くのに合わせてゆっくりと身体を回転させて、常に俺と向き合うような格好を取ろうとしている。
俺は俺で、こいつに背中を晒すなどという自殺行為はとてもではないが出来ない。
そのために、ヘリアンサスを睨んだまま、俺はじりじりとその身体を回り込むこととなった。
危機感は頭を灼くほどだった――ヘリアンサスの他一切が目に入れられないほどだった。
ヘリアンサスが集会堂の入口を背にするに至って、俺は自分がヘリアンサスを挟んで百八十度、大回りの楕円を描いて回ったことを知った。
息を吸い込み、今度は後退って、壁際のカルディオスの傍までそろそろと近付く。
ぬるり、と、足許が血で滑った。
嘔吐感を堪えながら、俺はじりじりと下がる。
足下から、血の臭いがじわじわと這い上がってくるようにすら感じた。
眩暈がした。吐き気も。
「――カルディオスは大丈夫だよ」
ヘリアンサスが、僅かに目を眇めてそう言った。
どこか得意げな含みのある声音だった。
それがいっそう恐ろしく、俺は足を滑らせそうになりながらも、カルディオスのすぐ傍まで下がった。
そのまま血溜まりの中で膝を突いて、すぐ隣で項垂れるカルディオスの首筋に手を触れる。
視線はヘリアンサスに据えたまま凍っている。
じわ、と、生温い粘ついた液体の感触が、羊毛を通してすら膝に感じられた。
悪寒がした。
しかし同時に、俺の指先が、カルディオスの首筋で確かに血液が脈打っていることを伝えた。
――覚えず安堵の息が漏れた。
カルは生きてる。怪我もしていない。
大丈夫だ。
「だから、大丈夫だって言ったじゃないか。疑り深いね」
ヘリアンサスが呟く声を、殆ど意識せずに聞き流して、俺は必死に呼吸を深くして落ち着こうとした。
――落ち着け、落ち着け。
今するべきは、まず第一にカルディオスの安全確保。
それから、出来れば俺自身が生き延びること。
どちらも、この場に他の救世主が来ない限りは無理だ。
だから俺は、この魔王が気を変えてしまわないように、何とかしてこいつの気を引き続けなければならない。
幸いにも目の前の魔王は、何を考えているのかは分からないが、俺と対話する意思がある。
混乱が、俺の呼吸を短く詰めようとした。それに抗って息を吐く。
分からないことが多すぎる。
この状況――それに、さっきの。
俺は唇を噛んだ。
さっき、急に魔法が使えなくなった。
あんなことは生まれて初めてだった――少なくとも記憶にあるうちでは。
ヘリアンサスが、俺たちの知らない何らかの手段で可能にしたことだろうが、それにしても俺たちに不利過ぎる。
――俺がここを生き延びることが出来る、という前提に立った話ではあるが、出来る限りの情報収集も、次点で優先するべきことだろう。
「――なんで、」
息を吸い込み、俺は声を出した。
恐怖に声が掠れたが、それでも十分に聞き取ることは出来るだろう声。
ヘリアンサスが首を傾げて、俺の言葉を待つ風情を見せる。
「――なんで、殺さない?」
低い俺の問い掛けに、ヘリアンサスはわざとらしくも目を瞠った。
「殺してほしいの?」
「…………」
黙り込む俺に向かって、ヘリアンサスはくすくすと笑う。
そして、しゃらん、と腕輪を鳴らして左手を振った。
「冗談だよ。――まだ殺さないよ、もちろん。
以前から言ってるでしょ? きみたちが全員揃ったときに、きみがどうして魔王になってるのか説明してあげるって。ここには全員いないでしょ?
今、きみたちを殺しても――つまらない」
愛想よくさえある声音でそう言って、ヘリアンサスはしばらく黙ってから、付け加えるように呟いた。
「平和主義なんだよ、僕」
「――――」
俺は耳を疑った。
――これだけの殺戮を行っておいて、どの口が。
愕然とした俺の顔を見て、ヘリアンサスは肩を竦めた。
どういった感情がその胸の内で動いたのかは分からなかったが、彼は急速に機嫌を悪くした様子だった。
――俺は息を詰めた。
ヘリアンサスの不機嫌は即ち、今この状況では、俺の死にさえ直結する情動だ。
しかし、ヘリアンサスは俺を殺さなかった。
こいつが指先を閃かせるだけで俺は容易く絶命しただろうが、それをしなかった。
ヘリアンサスは――少しだけつまらなさそうな表情になりつつも――、まるで高慢で気難しい賢人が、偶さかの気紛れを発揮して誰かに教えを垂れようとしているかのように、つっけんどんな声音で言った。
「――で? 他に何か訊きたいことある? みっつくらいなら答えてあげるよ。僕、今は割と機嫌がいいんだ」
俺は立ち上がった。足下がぬるついて滑った。
足を上げようとすると、凝固しつつあった血液が、粘つく僅かな抵抗を靴裏に伝えた――水飴を引っ張るかのような。
――吐き気を堪えるために、俺は鼻ではなくて口から息を吸った。
血の臭いが目からも沁み込んでくるような気がした。頭痛がし始めた。
「……さっき、魔法が使えなかった」
尋ねたというよりは確認するような口調になったが、それを聞いたヘリアンサスは、先ほどまでとは一変して、にっこりと笑った。
「うん、そうだろうね。僕が使わせなかったからね」
ぱん、と小さな音を立てて両掌を合わせて、ヘリアンサスは歌うように続けた。
「きみたちの魔力をどうこうするのは、別に僕にとって難しい話じゃないんだ。きみはそれも知ってたはずだけど、忘れちゃったんだね。
――まあ、最近は見せてこなかったから仕方ないのかも知れないけど。何しろそんなことしなくても、きみたちって簡単に死んじゃうからさ」
束の間、俺は言葉を失った。
思考が空白になったあと、怒濤のような絶望に膝を折りそうになった。
――最悪だ。
俺たちにとって、こいつに対する勝ちの目は、どうやら億分の一もないらしい。
戦っている最中に魔法を封じられようものなら、俺たちはどうしようもない。
「……――」
この場で何もかも投げ出してしまいたくなる程に陰鬱な気分になったが、しかし俺にはそれが出来ない。
――トゥイーディアがここにいれば、絶対に心を折らないだろうと分かっている。
トゥイーディアは、救世主が心を折ることなど望まないと分かっている。
いつでも、呪いのように、永遠に俺を叱咤して支える飴色の瞳の幻想。
俺は口を開いた。
――俺たちの魔力をどうこうすることに、ヘリアンサスには制約があるのかを訊こうとした。
トゥイーディアがここにいれば訊きそうなことは、残念ながら俺は彼女ほど頭が良くないから分からないが、後でトゥイーディアに報告したときに、彼女が興味深そうな顔をするだろうことを想像した。
――が、俺が何を言うよりも先に、ヘリアンサスがぱっと手を振った。
何かの幕を下ろすかのような仕草で。
「はい、ひとつめはお終い。それに関してはもう答えない。
――次の質問はある?」
俺は一歩足を踏み出した。
ヘリアンサスに近付くためというよりは、右手の――入り口から見れば、左手の――続き部屋に通ずるアーチ型の出入り口を覗くためだった。
――生存者がいるのかを知りたかった。
先ほどヘリアンサスを回り込むようにして動いたときには、俺はヘリアンサス以外の何物も見えなくなっていたから――尤も、今この状況で、生存者がいたとしても俺がその治療に当たることが出来るとは思えないが。
そうしながら、俺は唇を舐めて、また口を開いた。
とにかく目の前の魔王の気をカルディオスから逸らしたかった。
背中に目が生えようとしているのではないかと思うほど、カルディオスの方が気になって仕方がなかった。
「レ――レヴナントは、おまえが命令して動かしてるのか」
俺の問いに、どうしてだかヘリアンサスは冷笑した。あるいは憫笑かも知れない。
整った唇を歪ませた感情は冴え冴えとした影を面差しに落とした。
「……そうだね、肯定も否定も出来ないけれど――」
そう言って、ヘリアンサスは首を傾げた。言葉を選ぶように。
「――一部はそうだ、と言っておこう。機微は違っても大差ないね。
僕があれを完全に使役したことはないけれど、あれは僕のために動くことがある。
僕はあれを動かすことも出来る、確かにね」
そこで一呼吸をおいて、ヘリアンサスは俺に向かって微笑んだ。
どことなく底意地の悪い含みのある表情だった。
「きみもね、ルドベキア」
「……有り得ない」
呟いた言葉は反射の代物だったが、ヘリアンサスは敢えて否定はしなかった。
まるで聞き分けのない子供を見るかのように俺を見て、いっそう憫笑を深めたのみだった。
――有り得ない、と、自分に言い聞かせるように俺は考えた。――今までだってレヴナントは、間違いなく俺を殺そうとしてきた個体ばっかりだった。
俺のために動いたことなど一度もない。
世迷言にも程がある――
軽く頭を振って落ち着こうとしながら、俺は更に言葉を重ねた。
「前までは……あんなの、いなかっただろ。おまえが作ったのか」
問うや否や、ヘリアンサスは目を見開いた。
そして、声高らかに笑い出し始めた。
――ここまで、腹も捩れんばかりに笑う魔王を、俺は初めて見た。
顔を押さえて、身体を折って、心底からの笑い声を響かせている。
集会堂の中を、驟雨のように打つ笑い声。
石造りの天井に反響して、ばらばらに砕けた笑い声が、俺を嘲るように頭の上に落ちてくる。
――頭痛がいっそうひどくなった。
この場に充満する死の気配と、余りにも不釣り合いな声だった。
笑い過ぎて息を弾ませながら、ヘリアンサスがゆるゆると首を振る。
「――面白いね」
笑いの残滓に震える声でそう言って、ヘリアンサスは黄金の瞳に俺を映してその目を細める。
「きみ、そんなこと考えてたの? 違うよ、むしろ逆だ。
――いや、待てよ。淵源まで遡れば違うとも言い切れないのか……」
後半は呟くように、口許を覆った手の中にぼそぼそと声を落として、しかしヘリアンサスはまたすぐに笑顔で顔を上げ、手を下ろした。
「ともかく、ルドベキア、きみは相変わらず面白いね。是非また話し相手になってほしいな。
――よし、あの亡霊に関する質問はこれでお終いにしようか。他に何か訊きたいことはある?」
上機嫌に掌を合わせて、ヘリアンサスは伸びやかにそう告げた。
――あと二歩ほど前に出なければ、続き部屋の中の全体が見えない。
今の俺の立ち位置から斜めに窺う続き部屋の中は、赤黒い血の海になっていた。
並べられた長椅子の最後尾が僅かに見えていて、長椅子の上から溢れた血が、ぼたぼたと大粒の滴を床に落としているのが見えた。
少なくない人数がその血の海の中に頽れて倒れている――奥の方で生き残っている人がいるのだとしても、この角度では見えない――
ヘリアンサスは微笑んで俺の質問を待っている。
吐き気と頭痛を堪え、俺は眩んだ視界の中心に魔王を据え直した。
次の質問は直截的に憎悪を映した。
「――なんでここにいる」
唸るように尋ねた俺に、ヘリアンサスは心外そうに目を見開いた。
そして、珍しくも言葉を探すように視線を上に飛ばした。
――ヘリアンサスの視線が自分から外れた瞬間に、俺は、まるで背中に括り付けられていた数十ポンドの重石が取り払われたかのようにすら感じた。
「……そうだな――」
呟くそうにそう言い差して、ヘリアンサスは、その黄金の瞳をまた俺に当てた。
俺は息を詰めた。
「――歩いてる最中に、ここでカルディオスが魔法を使うのが分かったから。だから来てみた」
さらりと答えたヘリアンサスに、俺は絶句した。
「……は?」
「だから、カルディオスが、」
ヘリアンサスは、むしろきょとんとした様子で、左手を伸ばしてカルディオスを指差した。
その手首で、不規則な形の空色の宝石を連ねた腕輪が、しゃらりと揺れた。
黄金の眼差しは俺に据えられたままだった。
俺は無意識に、その指先の延長からもカルディオスを庇おうとして、半歩横に動いた。
そんな俺の挙動を、ヘリアンサスは瞬きして見守りながら、言葉を続けるために口を開いた。
「ここで魔法を使ったから。――推測だけど、」
と、まるで親切な助言をするかのように、ヘリアンサスは言葉を足した。
「レヴナントが一体、こっちに向かって来てたでしょう。あれを見て連中が騒いだんじゃないかな。
カルディオスはそれに気を遣ってあげたってところかな」
――有り得る話だ。
レヴナントが一体海の方から逃げ出したことは、障害物が失せていたことも相俟って、遠くからでも分かっただろう。
それに怯えた住人を守るために、カルディオスがリスクを取って魔法を使うのは、珍しくはあるが有り得ない話ではない。
特に、この避難場所にいた救世主はカルディオス一人。
このちゃらちゃらとした軽い男は、万事においてそうやって軽く物事に当たるのではない。
ただでさえ、相当に無理をしているトゥイーディアを見ていたのだから、自分自身も多少無理をしなければと思っていたとしても不思議はない。
そう理解しながらも、俺は思わず、茫然とした声を落としていた。
「――カルが魔法を使うことがおまえに、何の関係がある」
ヘリアンサスは瞬きした。
黄金の目が一瞬、しかし確かに、カルディオスに移った。
それから、こいつにしては珍しくも明確に唇を噛んで、ヘリアンサスは俺に瞳を戻した。
眼差しが、唐突に凍てつき硬直したかのように鋭かった。
「それは、きみには関係ないね」
「おまえ、」
荒波の中で息継ぎをするかのように、激情の中からやっとの思いで声を出して、俺は詰るように言っていた。
「――余程のことがない限り、俺たちの邪魔はしないんじゃなかったのか……!」
言っても詮無いことだと分かっている。
この魔王に何某かの約束の履行を求めるほど愚かしいことはないと分かっている。
俺たちはこいつに、どんな形であれ信用も信頼も向けたことはない――だからこそ、意味のない言葉だと分かっている。
それでも、反射のように溢れてきた言葉だった。
俺の言葉を聞いたヘリアンサスが眉を寄せ、それから、ぽかんとしたように表情を緩めた。
そして、芝居がかった仕草で肩を竦めて両手を広げた。
本気で心外そうに、ヘリアンサスは――むしろ何かの権利を侵害されたかのように、滔々と言った。
「――うん、だから、邪魔なんてしてないでしょ?」
何を言われたのか理解できなかった。
俺は愕然として、目の前に立つ魔王の黄金の双眸を見た。
「は……?」
「だから、邪魔。してないでしょ、僕は」
言い聞かせるようにそう言って、ヘリアンサスは戯れるように床を踏んで、くるりと回ってみせた。
その拍子に、魔王は一歩の距離を俺から離れた。新雪の色の髪が、柔らかそうに靡くのが見えた。
「僕はきみと違って、約束を破るのが嫌いなんだ」
その一言だけは心底から腹立たしそうに言って、ヘリアンサスは黄金の瞳を眇めて俺を見遣る。
「きみたちがレヴナントを一掃するのに、僕が手を出したりした? してないでしょ」
かつかつ、と床を鳴らして立って、ヘリアンサスは左手の人差し指で俺を指した。
突き付けるように。
「違う?」
「違う!」
思わず叫んだ。
その声の中で火の粉が散った。ぱっと光って散っていく。
「おまえ――これだけ殺しておいて――!」
ヘリアンサスは瞬きした。
そして、壁に向かって放り投げた人間の残骸をちらりと見た。
微塵も表情を動かさずにそれを確認して、肩を竦める。
「別に、こんなの。どうしようが僕の勝手だ」
頭痛と眩暈がいっそう酷くなった。無意識に、俺は一歩を踏み出していた。
視界にはヘリアンサスだけがいた。
――この魔王に、倫理観は欠片もないと分かっている。
俺たちとは全く別の、根源から異なる生き物だと。
だが、感情が動くのは容易だった。
「外の人たちを殺したのも、おまえだろうが……!」
「ああ、うん」
いっそつまらなさそうに黄金の目を眇めて、ヘリアンサスは呟いた。そして、溜息混じりに続けた。
「色々とうるさかったんだ。騒いでる人間を突き止めるなんて面倒だから、この辺り一帯を黙らせる方が早かった。――何て言うんだっけ、ほら……」
視線をわざとらしく宙に泳がせて、それからヘリアンサスは嬉しそうに指を一本立てた。
「そう、効率。効率が良かったんだ」
「死ね」
考えるよりも先に、俺は吐き捨てるようにそう言っていた。
足が、なおもヘリアンサスとの距離を縮めるために動いていた。
床を踏んだその足許から、焦げたような臭いが漂ってくる。
俺は我慢強い方ではないから、どれだけ歳を重ねても、怒りで前が見えなくなるのは悪い癖で――自分が何かされたのならば、俺はもう大人になったから許すことが出来るけれど、人を守れなかった責任転嫁で憤怒するのは、みんなにも指摘されている悪い癖で――激怒の余りに道理を見失うことは以前もあった。
そういうとき、俺の暴走した魔力は悉くが大火を呼ぶ形となって顕現した。
例外となったこともあるにはあったが、そのときには俺の近くにあいつらのうちの誰かがいて、俺が落ち着くまで俺を止めていてくれていたのだ。
――今ここにいるのはカルディオスだけで、あいつは俺に声を掛けられない。
自分が無事にこの場を乗り越えることを、その瞬間の俺は忘れ果てていた。
臓腑を焼く嫌悪と憎悪が、何よりも鮮烈な感情だった。
「死ね、――死ね。殺してやる」
「無理だよ」
のんびりとした口調で告げて、ヘリアンサスは日向ぼっこをする猫のように目を細めた。
「きみは救世主じゃない。僕を殺せるのは救世主だけ――今生でいえばあのご令嬢だけだ」
俺が自分との距離を詰めるのを嬉しそうに見ながらも、ヘリアンサスは不思議そうに唇に指を当てる。
「――で、どうしてきみは怒ってるの?」
憤怒に息を詰める俺をじっと見て、それからヘリアンサスは、コインを投げてその表が出るか裏が出るか、慎重に見極めようとするときのような顔で、試すかのように呟いた。
「……死人が出たのを怒ってるの?」
「――――」
溜息を零して、ヘリアンサスは自分の指先に向かって落とすように。
「……別に、生きてたから死んだだけだよ」
あのね、と、唇に当てていた指を俺に向かって翻して、ヘリアンサスはまるで講釈を垂れるかのように、理の当然だというように、苛立たしげなまでの声音で断言した。
「きみたちは何か勘違いをしてるようだけど、生きている人間を守るのはそれほど価値のない行いだ。
他の生き物とは違う。
たくさん生まれてたくさん死ぬ方が、人間が生まれた意味に合ってる」
俺を映す黄金の瞳の中に、怒りに度を失った自分を俺は見た。
ヘリアンサスはそんな俺を嘲笑するように唇を歪めて、俺に向かって立てた指を振る。まるで猫をじゃらすかの如くに。
「――生命の価値は、その辺で動いている肉の塊だ。器の方に重きを置くのが正しい。
それも、この世に存在する肉体は多ければ多いほどいい。――だけど、魂は、」
す、と、指先を下げて俺の心臓の辺りを示して、ヘリアンサスは言い放った。
「――残念なことに使い回しだ。数に限りがあるらしいね。
だから出来るだけ、早く死なせてまた生まれさせて、中身を色んな器に合わせてあげる方がいいんだよ。残念ながら肉体は、魂なしに命を得ることはないからね。
生死は肉体に依存するものであっても、命の有無は魂に遵う」
「だったらおまえが死んでみせろ」
激怒の余りに低くなった声で、俺は恫喝の如くに言葉を吐いた。
「死んだ方がためになるって言うなら、今この場で死んでみせろよ」
ヘリアンサスはにっこりと微笑む。
目の前で子犬が吠えているのを見ているかのような表情だった。
「僕の肉体は特別製だよ。魂もだけど」
物静かにそう言って、ヘリアンサスは身体の後ろで手を組んで、一歩下がって俺から離れた。
微笑んだ顔貌の中で、黄金の目が見慣れない感情に細められていた。
「きみたちがむやみやたらに神聖視して持ち上げる精神なんてものは、偶然に生じた慮外の産物だ。むしろ害悪の夢を生んだ毒だ。どうせ全部嘘っぱちだ。
――だから、ルドベキア」
首を傾げて、ヘリアンサスはなおも見慣れない感情に白く光る双眸で俺を見た。
「――きみが何を怒ってるのか、僕にはさっぱり分からないな」
「――――ッ!」
無意識のうちに一歩踏み出して、俺は拳を振り上げていた。
耳の奥でごうごうと血潮が轟いていた。
ヘリアンサスは平然と俺を見上げて、
――――
「……あ?」
視界の端に引っ掛かるように映ったものに、俺は思わず、弾かれたようにそちらを向いた。
ヘリアンサスが首を傾げるのが見えた――
――首を巡らせた先に、アーチ型に開いた続き部屋への出入り口がある。
俺はいつの間にかその場所まで足を進めていたのだ。
殺戮から間があってなお、その向こうの続き部屋には今も赤黒い血の霞が漂っていた。
床はおろか壁や天窓にまで、恐ろしい程に真っ赤な血が、慄くほどに大量にぶちまけられていた。
石造りの壁や床の元の色が、今や分からなくなっていた。
長椅子は悉く、真っ赤な塗料を被ったかのように見えた――固まりつつある血の色が、不気味に光ってさえ見えた――。
天窓から、粘ついた大粒の滴が長椅子に向かって落ちている。
元より曇天は多くの光を天窓に与えてはいなかったが、今や天窓から差し込む光は深紅の色を帯びて見えた。
床は、血の海といってまだ生温い惨状を呈していた。
誰かが冗談で、赤い絵の具をありったけ床にぶちまけて、それを何日も何日も繰り返したかのようだった。
――そんな血の海の中に、何人も何人も、折り重なるように倒れている。
負傷していた隊員も避難していた市民も。
長椅子の上に積み重なって、あるいは床の上に折り重なって、元の肌の色さえ分からないほどに血塗れになった人たちが、何人も――何十人も。
元の持ち主さえも分からない四肢が、あちこちに放り出されているのが見えた――まるでヘリアンサスが、無邪気に玩具箱の中を引っ繰り返したかのようだった。
――ただし、人間の入った玩具箱を。
「――――は、あ?」
愕然とした声が漏れた。
これほどの惨劇を、俺は今までの人生で見たことがなかった。
それこそ仲間が死んだときでさえ、転がる死体は最大で五つだったのだから。
だから、これは――
振り被った拳が落ちた。
頭の芯が熱に浮かされたように現実味がなかった。
――これは、違う。
「ヘリアンサス、おまえ――」
白髪金眼の魔王は、情動一切を動かさない顔をしていた。
「何か悪いことした?」
「――他人の生き死にを、上から勝手に決めつける権利が誰にある?」
沸点を遥かに超えた怒りに、もはや感情が抜けたような声が出た。
俺の言葉に、ヘリアンサスは瞬きした。
そして、頷いた。
「僕にある」
爆裂音と共に、俺の足許の床が爆発した。
木端微塵に砕け散る石造りの床に、ヘリアンサスがわざとらしく目を丸くする。
爆風に煽られて、俺から向かって前方に、叩き付けるように吹き飛ぶ床材の欠片でさえ、まるで逃げるようにヘリアンサスを掠めすらしなかった。
割れた床の上に、まるで即座にもう一枚の床が生じたかのように、ヘリアンサスは体勢を崩しもしない。よろめくことさえなく、微動だにせずそこに立つ。
その平然と澄ました顔面目掛けて、熱波がうねる。
一瞬で爆炎を纏った俺の拳が、殴るというよりは上から下へ叩き付けるような動きで、間近に立ったヘリアンサス目掛けて振り下ろされる――
はあ、と、ヘリアンサスが零した溜息が、忽ちのうちにその爆炎を消し去った。
熱波すら、なかったこととして取り扱われた。
そしてそれどころか、何の仕草も眼差しの移動もなく、ヘリアンサスは強固に正確に、俺の拳をぴたりと空中に止めた。
「――俺が魔王だとしても!」
ぴくりとも動かない拳を、それでもまだ振り下ろそうとして全体重を掛けながら、俺は喉が裂けんばかりに怒鳴った。
「それでもおまえよりはマシだ!!」
ヘリアンサスは醒めた黄金の双眸で俺を見ている。
俺が激すに至って、急速に俺からの興味を失ったようだった。正面から俺を見るというよりは、視界の端で俺を捉えているだけだと分かった。
「俺がおまえを人間だと思ったことは一度もないが――!」
ヘリアンサスは、氷のように冴え冴えとした表情で、世の中全てに飽きたかのように視線を遊ばせている。
「――ここまでするならおまえは、人間の都合で、人間の善悪で、人間の尺度で殺されるべきだ!!」
ヘリアンサスが、もはや俺に視線すら向けずに冷笑した。
声にすら火の粉が散る俺の怒鳴り声も、この魔王の髪を一筋たりともそよがせることすらなかった。
拳に体重を掛ける――動かない。
膝で蹴り上げようとした足も、まるで決まり切った台本に縛られているが如くに動かなかった。
――耳障りな声が聞こえた。
一秒遅れて俺は、それが自分の絶叫だと気付いた。
言葉にすらならない、吼えるような潰れた絶叫が、俺の喉から上がっている。
同じくそれを耳にして、ヘリアンサスはどこか驚いた風情で俺に視線の端を当てて、それからまるで舞台役者のような仕草で喉に手を宛がった。
そして、くすりと笑って、口を開いた。
「――喉、傷めるよ」
「ああああああ!!」
言葉にならない憤怒の激情が、心臓を喰い破ろうとしているかにすら感じた。
心臓を喰い破って外に出ようとしている何か、外に逃がさねば気も狂わんばかりの何か――
もはや意味を成さない俺の声にも、いっそ傾聴するかのように耳を傾けて、ヘリアンサスは呆れたように瞳を回した。
「――何してるの」
「こ――」
俺の拳の中から炎が噴き上がった。
天井近くにまで噴き上がった炎が、びしり、と天窓に罅を走らせる。
集会堂の中の空気が波打って、熱気を迎えて上方へ奔った。
ばきん、と、硝子の割れる音がする。
天窓の周囲の石造りの天井にまで、あっと言う間に蜘蛛の巣状の罅割れが走った。
足許でぶくぶくと音がする――血溜まりが沸騰していた。
「殺してやる――!!」
「きみは、救世主じゃないから、無理かな」
言い聞かせるように、しかし上の空で、ヘリアンサスが呟いた。
割れ落ちようとする天井を、魔王は興味深そうに眺めていた。
純白の髪はそよとも動かず、白皙の肌は熱のひとつも帯びていない。
――辛うじて残った理性で、俺はカルディオスの周りからのみ熱を排していた。
そのために、周囲との温度差の激しさに、カルディオスを半球状に覆うようにして白い靄が発生していた。
ふわふわと、まるで趣味の悪い手品のように、カルディオスを隠していく白い霧――
天井から硝子の破片が落ちてきた。
ひょい、とふざけた仕草で手を振ったヘリアンサスが、白い光の鱗片と共にその破片を消し去る。
あはは、と小さく笑って、魔王は眉を上げて俺を見た。その金眼の中に、俺は凄絶な殺意に塗り潰された俺自身の顔を見た。
――その顔が、続き部屋の中に見えた顔に重なった。
――血塗れで、苦痛に歪んでいて、他の人と折り重なっていた。
けれど、何度も顔を合わせていたのだから間違えるはずがない。
あの中にはニールもいた。
あの遺体の中には、ニールの遺体もあった。
「――なんで殺した!!」
激情の余りに泣き叫ぶようにして、俺は問い詰めた。
答えが欲しかったというよりは、この魔王の中に、僅かであっても罪悪感を見付けたかった。
ヘリアンサスは顔を顰めた。まるで、何度言い聞かせても言い付けを守らない子供を見たときのように。
「だから、」
「なんで――」
息を吸った。火の粉を同時に吸い込んだ。
今や俺の周囲に、赤い雪のように火の粉が舞い散りつつあった。
空気が熱を孕んで膨張する。
足許の床がなおも割れていく。血溜まりは、カルディオスの周囲一フィートを除いて干上がりつつあった。
天窓の割れた一箇所から、熱気が外へ向かって噴き出す甲高い汽笛のような音がする。
「なんで――」
拳が動かない。
まだ空中の一点に縫い留められたまま、ただ徒に熱気を噴き上げて赤く光っている。
「――俺の友達も中にいた!!」
――このとき、どうしてこんなことを叫んだのか、俺には分からなかった。
友人という概念をこの魔王が理解しているのかも不明であれば、俺の友人如きをこの魔王が気に掛けるとも思えない。
しかし、このときの俺はただひたすらに、この魔王を通してその向こうにあるとしか思えない、運命の理不尽に向かって絶叫していた。
「なんで殺した!!」
「――そう」
ヘリアンサスが、俺が激し始めてから初めて、正面から俺を見た。
そして、微笑というには余りにも重い悪意を籠めた表情を、艶然とその面に浮かべた。
「そう、そんなのがいたんだ。
――なら、本当に、殺して良かった」
「――――」
正面から鋼鉄の鈍器で殴られたかのように、俺は言葉を失った。
積年といっては軽すぎる――空のてっぺんにあるものが地面に向かって引かれるのと同じだけの重みのある、軋むばかりの感情の籠もったヘリアンサスの声を、俺はこのとき初めて聞いた。
「――ねえ、きみ、聞いてたでしょ?」
ヘリアンサスが手を伸ばして、俺の左の拳に触れた。
男にしては細く、成人にしては柔らかい指が、俺の指の甲を、羽が掠めるようにして撫でた。
――途端、集会堂の中に渦巻いていた熱気が霧散した。
まるで空気を塗り替えるかのように明瞭に、一線を引くかのようにきっぱりと、ヘリアンサスが俺の魔法を終わらせた。
圧倒的な彼我の差を、理性よりも先に身体が判断したかのようだった――拳から力が抜けて、両の拳が俺の身体の脇に落ちた。
――右手はそのまま、だらんと落ちた。
だが左手首は、断固たるヘリアンサスの手に握られた。
ヘリアンサスは軽く手を掲げて、俺の手首を掴んでいる。
その掴んだ手首越しに、煌々たる黄金の眼差しで俺を見ている。
「僕がご令嬢のことをどう思ってるか、きみ、聞いてたよね? 大嫌いだって言ってたの、覚えてるでしょ?
――それで、ねえ、僕がきみをどう思ってるか分かる?」
ぎり、と、左手首を握ったヘリアンサスの手に力が込められた。
自分の手首がその場で引き千切られることを、俺は瞬時に確信した。
――だが、やがて、ゆるりとヘリアンサスは指の力を緩めて、蛇がとぐろを解くかのように俺の手を離した。
だらん、と、俺の左手が身体の脇に落ちた。
そんな俺を、なおも冷酷に艶然と煌めく黄金の瞳で見守って、ヘリアンサスは微笑を刻んだままの唇で、はっきりと言った。
「――憎くて憎くて仕方がないよ」
押し殺した声でそう告げて、ヘリアンサスは目を細めた。
優しげでさえある蔑みの表情だった。
「きみがとっくに忘れたことも、僕はずっと覚えている。
――ねえ、」
ヘリアンサスが、右手を不意に持ち上げた。
まるで肩の高さの何かを掴もうとしているかのような仕草で――だがそこには何もない。
「――ねえ、だって、きみは僕の、」
ヘリアンサスが何と言ったのか、俺には聞き取ることが出来なかった。
――弾けるような大音響。
高く轟いたその音に被って、鈍い音が響いた。
人が床に倒れるときの音によく似た――
――いや、それそのものの。
ヘリアンサスが、唐突にそこに現れたコリウスを、まるで決められた殺陣をなぞるかのように放り投げていた。
何の前触れもなく出現したコリウスの腕を右手に掴んで、男にしては小柄な体躯のヘリアンサスが、自分よりも上背のあるコリウスを、いとも容易く壁に向かってぶん投げたのだ。
表情すら変えずに、平然と。
カルディオスのすぐ傍の壁に叩き付けられ、ずるりとコリウスが床に落ちた。
衝撃の余りに声も出ないのか、呻き声すら上がらない。
「――――」
俺は声が出なかった。
何が起こったのか、その理解がまず難しかった。
――瞬間移動直後に、衝撃に備える方が無理な話だ。
だって、そもそもそんなことをする必要がない。
なぜなら、瞬間移動は、移動先の者が察知できるものではないから。
そのはずだった。
道理を容易く覆し、察知できるはずのないものを楽々と知覚して、ヘリアンサスは頭を傾けるようにしてコリウスを見下ろした。
まるで害虫を見るかの如き、厭わしげに冷ややかな眼差しだった。
――コリウスが激突した壁に罅が生じているのを、俺は見た。
見て、ぞっとした。――あの勢いで激突したならば、コリウスには骨折すら有り得る。
コリウスが瞬時に起き上がらないことが、彼が受けた打撃の重さを示していた。
ヘリアンサスは、徹底的に蔑んだ眼差しのみをその銀色の髪に投げた。
言葉はひとつたりとも向けることなく、興味の欠片も瞳に載せはしなかった。
すぐにその視線はコリウスから外される。
外套を翻して、ヘリアンサスは集会堂の入口を振り返っていた。
かつん、と、靴音が鳴ってその場の空気が変わる。
――見えずとも、その表情が分かった。
声音から明らかだった。
「――やあ」
魔王は今、満面の笑みを浮かべていると。
「――遅かったじゃないか、ご令嬢」




