72◆ ガルシア戦役――一滴
結論を言えば、俺はそう時間を掛けずにレヴナントを斃した。
それほど知能の高くない個体に、そう梃子摺る訳もない。
瓦礫すら浚われて平らになった地面の上で、特大の松明のように燃え盛って溶け出していくレヴナントを見守り、息を整えながらも安堵に肩を下げる。
市街に新たな被害を出すこともなく討伐完了。
それは何よりだったが――
「……なんで?」
全力疾走の名残で弾んだ息の隙間から、俺は思わず怪訝の声を落とした。
視線を投げるのは避難区域となっているはずの街区の方角。
――そちらから漂う、身に馴染んだ気配を紛うはずがない。
「カル……?」
カルディオスの魔力の気配。
――だが、そんなはずはない。あいつはもう限界だった。
魔力を振り絞ればあと一回くらいなら魔法も使えるだろうが、どうしてそこまで無理をして――
――トゥイーディアが離れようとした瞬間に、彼女の手を掴んでまで引き留めようとしたカルディオスが、唐突に脳裏に浮かんだ。
その直後に、心配そうに俺を見ていたあの翡翠色の目が、瞼の裏を刺すように蘇った。
「――――っ!」
心臓が冷えるような厭な予感に、考えるよりも先に、俺は思わず走り出していた。
燃え残るレヴナントの残骸を踏み越えた瞬間、靴が焦げる苦い臭いが漂う。
最後の残り火が靡いて消えていく。
――カルディオスが無理をして魔法を使った。
考えられるのはつまり、あいつの身に危険が迫ったのではないかということ。
今の状態であっても、カルディオスは大抵の危険にならば対処してみせるだろう。
救世主として長の年月、様々な戦場に身を置いてきたのは俺たち全員に共通していることだから。
カルディオスとて魔法一辺倒の戦い方しか出来ないわけではない。
いつの人生でも、あいつは殴り合いだって剣術だって上手になるし、いざというときにははったりだけで窮地を潜り抜けていたこともある。
だがそれでも、その信頼は、今この瞬間に俺が焦らない理由にはならない。
「――ああもう、ほんとに……っ!」
走りながらも悪態を吐く。
その声と息が、冷たい風に百にも千切れて流れていく。
「何なんだ今日は、次から次にっ!」
◆◆◆
海へ向かった道を逆戻りして、俺はカルディオスを置いて来た集会堂を目指して走った。
魔力の気配は明瞭で、あいつがあそこから動いていないということが分かる。
異様に動悸がした。
余程のことがない限りは、カルディオスに心配は要らないと分かっている。
だがそれでも、海の方が片付いたみんなと合流するまで待っていられなかった。
コリウスが崩した街区を抜ける。
瓦礫がごっそりと削られて、平らになった地面はむしろ走りやすいはずなのに、足を速めても速めても、前に進んでいる感覚がしなくて苛々した。
ようやくまともに建物が形を保っている区画に到着したときは、そのことにまずほっとしたくらいだ。
――レヴナントはここにはいない。それは分かる。
あの耳障りな絶叫は聞こえない。
それに、漂う魔力の気配もカルディオスのものだけだ。
何があってカルディオスが魔法を使ったのか、全く分からない。
唯一考えられるとすれば、と、俺は唇を噛んで、最悪の可能性を脳裏から振り払おうとした。
最悪の可能性は、歪んだ鏡面のような黄金の瞳の形をして、俺の脳裏に浮かんでいた。
「……違う」
自分に言い聞かせるためというよりは、事実を整理するために、俺は呟いた。
全力で走っている最中のこと、声は切れ切れだった。
――ヘリアンサスが原因ではない、それは確かだ。
カルディオスとヘリアンサスの間で戦闘が勃発したならば、カルディオスの魔力の気配は途絶えていなければおかしい。
ヘリアンサスを相手に、カルディオスであれ誰であれ、たった一人で凌ぐのは不可能だ。
それに、避難場所に何かがあったわけではなさそうだ――だいぶ近付いて来たけれど、悲鳴も聞こえないし、混乱の様子はまるでない……。
――いや、でも……。
避難場所になっているはずの街区を目の前にして、俺は内臓が悉くせり上がってくるような不安に、思わず足を緩めた。
――静か過ぎる。
落ち着いているだとか混乱がないだとか、そういう感じではもはやなかった。
人声が一切しない。
いやそれどころか、人の気配がまるでない。
息を吸い込む。
走ったせいか不安のせいか、肺腑が半ばを塞がれたかのように息苦しかった。
足早に路地を幾つか抜け、避難場所になっている街区に足を踏み入れる。
左右を見渡したが、巡回しているはずの隊員の姿もない。
街路樹から折れた小枝が、かさかさと乾いた音を立てて敷石の上を風に吹かれて滑っていた。――それ以外は、無音。
ここは北東の街区で、ここから東に至るまでに、幾つか同じような扱いになっている街区があるはずだ。
何らかの理由で、ここにいた人たちがそちらへ移ったのかも知れない。
――でも、なんのために?
カルディオスの魔力の気配はまだ漂っている。
いつもに比べれば微弱だが、それでも明瞭に。
こういう、輪郭がくっきりとした、特段明瞭な気配は、みんなが固有の力を使っているとき特有のものだった。
俺は唇を噛む。
――有り得ない。
カルディオスが俺たちから離れた場所で、意識を失うリスクをとるなんて滅多にない。
確かに避難場所に救世主は一人、あいつなりに色々と責任を考えることもあっただろうが、それでも。
怪訝が焦燥に変わった。
無意識のうちに、俺はまた走り出していた。
走りながらも耳を澄ませたが、人声は一切しない。
まるでここだけ、この街区の時間だけが止まったかのように。――そんな馬鹿な考えが頭を過って、俺は首を振った。
――有り得ない。
確かに、時間を操ることの出来る魔法は一つだけある。
他でもない俺の固有の力――正当な救世主の地位にあるときにのみ、俺に許される得意分野だ。
トゥイーディアの魔法が、人の精神にまで手を伸ばすことが出来る魔法であるということでの唯一性を有するのと同様、俺の魔法は人の時間に作用する唯一の魔法だった。
だが、それでも、俺にだって街区ひとつの時間を止めることなんて不可能だ。
それに第一、今はその魔法は使えない。誰にも――そのはずだ。
いよいよ混乱しながら、俺は狭い路地に飛び込んで、身体を横向きにして走った。
自分の息の音と靴音が、反響するように耳の中を満たした。
焦る余りに、路地から飛び出そうとした瞬間に、建物の角に強かに肩をぶつけた。
顔を顰めつつも足は止めない。
苛立たしげに踏み出した足許で、何かを燃やした跡のような、こんもりとした灰の山がふわっと散った。ズボンの裾が白く汚れた。
――灰? 何かを燃やした? なんでこんなところで?
掠めるような疑念が過ったが、今この場で考え込むような内容でもない。
俺はすぐにそれを忘れて、一心に敷石を蹴って集会堂を目指した。
いつの間にか空気の臭いが変わっていたが、頭を焼く焦燥が、その事実をさして重要なものではないと俺に思い込ませていた。
静まり返った街区に、俺の靴音だけが異様に響く。
――そしてそのとき、俺はこの街区で初めて人を見た。
「……は?」
愕然とした自分の声を、俺は他人事のように聞いていた。
――最初は、黒い麻袋が落ちているのだと思った。
その一瞬後には、その下に黒々と水面を広げている液体を奇妙に思った。
そして数秒をおいて、俺はそれが人であることを認識した。
「……は……?」
人だ。
しかも二人。
ガルシアの制服を着て、折り重なるように倒れている。――いや。
――俺は息を吸い込んだ。
そしてようやく、その場に血の臭いが充満していることを認識した。
つい先刻に、重傷者を治療した部屋の比ではなかった。
鼻の奥から喉に張り付き、吐き気を催させる程に濃く、強く、鉄錆の臭いがぬめるように空気を覆っている。
愕然としながらも、俺の頭は正常だった。
すぐさま、弾かれたように俺は走り出していた。
倒れている二人が絶命しているのか、それともまだ辛うじて息があるのか、それを確認することはしなかった。
――今の俺にとっては、カルディオスこそが最優先だった。
敷石を蹴って走る。
角を曲がる。
そこに、今度は五人。
ガルシアの隊員が倒れている。
三人は仰臥して敷石の上に五体を投げ出しており、うち二人には両腕がなかった。
四本の腕が、誰かが投げ捨てたかのように、少し離れたところにばらばらに転がっている。
黒く水面を広げて固まりつつある血溜まりに、俺は自分の影が映るのを見た。
五人のうちの二人は、蹲ったままに横倒しになったかのような格好で倒れている。
五人が五人とも、どこの傷が致命傷になったのか分からないほどに血塗れで、傷の位置さえ定かでなかった。
血飛沫は点々と敷石を汚して、引き千切られて投げ捨てられた腕が辿った軌跡は、その赤い跡のために残酷なまでに明白だった。
「――――」
俺は思わず口許を押さえた。
――見覚えがある。
まるで幼子が戯れに玩具を放り投げるかのように、人の身体の一部を放り投げるこの暴挙。
――でも、なぜ。
絶命した五人を飛び越えるようにして走る。
行く手にまたも隊員の遺体。
一人がもう一人を庇うように倒れている。
二人分の血溜まりが敷石を染めて、敷石の間の溝を伝って広がっている。
そこから離れた場所に、もう一人。
逃げようとしたところを背後から撃たれたように見えた。
胴が半ばから千切られていて、恐らく体内に残っている血液よりも、敷石の上へ溢れ出した血液の方が多いだろうと思われた。
――点々と、あちこちに、数えれば発狂しそうになるほどに、隊員が落ちている。
いつの間にか俺は息を止めていた。
気付いて再開した呼吸が、血の臭いを体内に運んで吐きそうになった。
――どうして。
いや、今は――カルディオス。
集会堂は近い。
音はない、俺の靴音と荒らいだ息の音の他は。
通りを挟んで立ち並ぶ居宅の中ですら静まり返っていて――
――本当に? 静かなだけか?
通りで起こった理不尽な殺人に、息を潜めているだけか?
唐突に降ってきた厭な予感に、俺は思わず、傍の一軒の傍へ足を寄せていた。
こんなことをしている場合ではない、早くカルディオスの無事を確かめなければと、分かってはいても足が止まらなかった。
昼中とあって、通りに向かって開く居宅の窓の帳は上げられていた。
白いレースの薄い帳がもう一枚あるようだったが、避難場所となったこの居宅の中の人物が外の様子を不安に思ったのか、その帳も半ばが引かれて室内の様子が見えていた。
――俺は絶句した。
窓越しに見える広い居間で、少なくとも六人がソファやテーブルに身を伏せて、大量の血の海に沈んでいた。
「……嘘だろ」
呟いた自分の声が震えるのが分かった。
「なんでこんな……」
膝が笑いそうになった。
どれだけ長く生きてきても、俺は人が死ぬのに慣れない。
あるいはそれは、慣れてしまえば人間性とおさらばすることになる最後の一線を、無意識のうちに悟っているがゆえのことなのかも知れない。
――口の中は乾き切っていた。
殆どよろめくようにして、俺は身体の向きを変えた。
息が震える――みっともないほどに。
どうか夢であれと思った。
今この瞬間に俺が知覚している全てが夢であれと。
「……カル」
呟いて、俺は辛うじて足を踏み出す。
通りを挟んで斜向かいに位置する居宅の扉が開け放しになっているのが、ふと目に入った。
その扉の前に、まだ幼い少年が倒れている。絶命は明らかだった――血飛沫が扉を半ばまで染め上げているほどだった。
「カル」
また呟いて、俺は足を速めた。走り出す。
――そして俺はそのとき、この街区で初めて人の声を聞いた。
それは悲鳴だった。
罵声にも似ていた。
壮年の男の――声。
どこから――
「っ――――!」
思わず、つんのめるようにして俺は加速した。
声がどこから響いてきたのか分かったからだ。
集会堂だ。
敷石を蹴る自分の足音が、滅多になく乱れたものになっていることが分かったが、それは意識にすら昇らなかった。
もはや方々で倒れている隊員たちにすら注意を払わず、俺は真っ直ぐに集会堂を目指して走り――
――カルディオスの魔法が見えた。
まるで集会堂を守るように包んでいる木の根。
木の根はそのまま周囲に向かって伸ばされようとして、そしてそこで力尽きたかのように途絶えている。
敷石の上で、のたくるように木の根だか蔦だか分からないものが渦巻いている様は圧巻だった。
恐らくここで、カルディオスの魔力が尽きたのだろう。
木の根に包まれて、まるでこの数刻の間に古代の遺物と化してしまったかのような集会堂。
入口までがっちりと固められていたが、三段の階を駆け上がった俺は、考えるまでもなく入り口を封鎖している木の根を焼き払った。
しかし、さすがカルディオスの魔法の産物。
普通の木の根のように、一撃で焼き切れてはくれない。
高熱に抗う根を数度に亘って焼いて、最後には焼き切れるのを待たずに蹴り飛ばして突破して、俺は集会堂の中へ足を踏み入れた。
――強烈な、籠もった血の臭いがした。
集会堂の中、最初に足を踏み入れることになるがらんどうの大部屋には、死体はひとつもなかった。
もしかしたらカルディオスが外を警戒して、続き部屋の方へ全員を誘導したのかも知れない。
そのカルディオスは、入り口の正面の壁に力なく凭れ掛かって意識を失っている。
だらんと床に投げ出された手、放り出されたような長い脚、どこにも、血の一滴すら被ってはいないし出血していない。
だが、左手に開くアーチ形の出入り口の方から、鉄錆の臭いが、目に見えるのではないかと思うほどに濃く漂ってきていた。
そして、今しも、その部屋から這い出して来たと分かる男性が――
――その刹那、時間が止まったかのようにすら思えた一瞬に、俺はその男性が誰であるかを判別した。
さっき、トゥイーディアを呼び止めていた隊員だ。
南東の戦況を尋ねてきた男性。
あのとき既に、彼の左足は折れているようだった。
そして、だからだろう、今も両手で床を這うようにして、続き部屋から這い出して来ている。
その身体が、まるで大量に墨を含んだ筆のようだった。
衣服にも掌にも血がべったりと付いていて、這いずるその身体の痕が、赤黒く克明に床に描かれていた。
男性は悲鳴を上げている。
時間が止まったようにすら思えたその一瞬には、音すら定かでなかったが、口を大きく開けて目を見開き、喉を震わせる様はむしろ明瞭に見て取れた。
――俺は足を踏み出した。
相当に素早く動いたはずだったのに、まるで糖蜜の中で動いたかのようにすら感じた。
男性は、俺に気付いた様子すらなかった。
這いずって、壁際のカルディオスの方へ手を伸ばした。
たすけてくれ、と叫ぼうとしたのが分かった。
救世主だろう、助けてくれ、と――
――かつん、と、高く靴音が響いた。
その瞬間に、物理的に俺の足が止まった。
恐怖のためや動揺のためではなく、見事に足が固定された。
「――あ」
声が出た。
何と叫ぼうとしたのかは、俺にすら分からなかった。
危ないと叫ぼうとしたのか、それとも――
かつん、と、靴音。
左手の続き部屋から、俺たちが恐れて止まない魔王――ヘリアンサスが姿を現していた。
黒い外套には血の汚れなど一滴もなく、白皙の頬にも新雪の色の髪にも、無論のこと汚れひとつなく。
ヘリアンサスは無表情だった。
中性的な美貌に、感情のひとかけらも載せることなく、無言。
いつものようなゆったりとした歩き方ではなくて足早に、苛立たしげでさえある足取りで、つかつかと男性の後を追う。
「――助けてくれ!!」
男性が叫んだ。
動かない足の代わりに、俺は手を振り上げた。
――そして、愕然とした。
――魔力が魔法を成さない。
こんなことは生まれて初めてだった。
俺の魔力が、世界の法を書き換えようとしない。
虚しく魔力が霧散する。
「――待、」
声が喉を突破して溢れた。
全く咄嗟のことだった。
今まさに殺されようとしている男性の、命乞いのための言葉を吐こうとした。
男性は恐怖そのものの顔をしている。
顔色は蒼白で、必死に伸ばした手がカルディオスを掠める。
――カルディオスは目を覚まさない。
作り物めいた完璧な面差しは伏せられたまま、ぴくりとも動かない。
「助けてくれ、きゅう――!」
かつん、と靴音を立てて、ヘリアンサスが男性のすぐ後ろに立った。
ひあ、と、声が喉に詰まったような声が、男性の口から零れ落ちた。
「待て、」
「――汚らしいね」
ヘリアンサスが呟いた。
俺の声など聞こえていない様子だった。
伏せた顔の半ばが影に落ちている。
俺はその瞬間に、今生で最大の恐怖を覚えて凍り付いた。
「たす」
最後に命乞いをしようとしたのが自分だったのか、それとも男性自身だったのか、それは俺には分からなかった。
とん、と、軽く、ヘリアンサスが男性の肩に触れた。
その瞬間、まるで触れられた指先から不可視の質量を流し込まれたかのように、男性の身体が膨れ上がった。
動物の内臓で作った浮袋に空気を入れたときのように、ぶわり、と。
その身体が宙に持ち上げられた。
見えない大きな掌で掴み上げられたかの如く。
――そして皮膚が、内臓が、血管が、筋という筋が引き千切れた。
真っ赤な霧が漂って、続いて白雨のような音がした。
大量の血液が石造りの床を叩いて跳ねる音だった。
どしゃ、と鈍い音を立てて、男性の残骸が床に落ちる。
ばしゃん、とおぞましい音がして、なおも血が噴き出して床一帯を血の海にした。
――俺は目を見開いて息を止めた。
自分の眼球が映した事実を、その意味の咀嚼を、頭が拒否したかのようだった。
見えた光景の意味がなかなか像を結ばなかった。
――奇妙なことに、床を叩いた大量の血液はヘリアンサスに降り掛かっていない。
跳ねたその一滴さえも、ヘリアンサスの靴の爪先すら汚さなかった。
傍のカルディオスにさえ、一滴たりとも降っていない。
まるで、血液ですらこの化け物から逃げ出したかのように――
「――そうだ、血の一滴まで僕を畏れろ」
低く低く、男性の残骸に向かって命令するかのようにそう囁いて、ヘリアンサスが顔を上げた。
そして、頭を巡らせて俺を見た。
黄金の目がすっと細められて、魔王はにっこりと微笑んだ。
「――やあ、ルドベキア。先刻ぶり」
殆ど友好的でさえある声でそう言って、ヘリアンサスは左手を、指先についた水滴を払うかのように振った。
しゃらん、と、その手首で腕輪が幽かな音を立てる。
ひゅ、と風を切る音がして、辛うじて形を残していた男性の残骸が、勢いよく俺の右手の壁に向かって飛ばされていった。
どしゃん、と、水をいっぱいに詰めた革袋を地面に投げ付けたときのような音がして、その残骸が壁に激突して、真っ赤な液体を撒き散らしながら床に落ちる。
水を含ませた絵具を付けた筆を、力いっぱい振り回したかの如くに、無秩序に無意味に、壁一面に赤色が散った。
ころころと、小さな球体が床を転がった。
俺は咄嗟にそちらを見て、そして堪らずその場に膝を突いて小さく嘔吐いた。
――男性の、眼球が転がっていた。
正視に耐えない凄惨さに、胃液が喉元までせり上がってきた。
「……ん?」
視界の中で、血溜まりを踏んだヘリアンサスの足が動いた。
身体の向きをこちらに向けたのだと分かった。
その靴底にさえも、血が一滴も付着していないのを俺は見た。
「どうしたの?」
平然とした声音でそう尋ねるヘリアンサスを、俺は精神力のありったけを掻き集めて睨み上げた。
床に手を突いて立ち上がる。
血の臭いが余りにも濃いので、手を突いた床までもがぬめっているような錯覚があった。
よろめきながら立ち上がった俺を、ヘリアンサスは微笑んで見ていた。
小さく首を傾げて、むしろ不思議そうに。
――その視線を受けることに、剣で刺されるよりも覚悟が必要だった。
それでも必死に視線を上げたままにして、俺は辛うじて言葉を吐き出した。
「……カルから離れろ」
ヘリアンサスが瞬きした。
そして、心底から楽しそうに満面に笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ、ルドベキア。――でも、そうだね、」
静かに両の掌を合わせて、ヘリアンサスはにっこりと微笑んだまま、首を傾げる。
「せっかくだから、少し話そう?
――思えば、」
かつん、と、ヘリアンサスが一歩踏み出した。俺に向かって。
俺の本能が、ヘリアンサスから離れようとした。
だがそれを理性が留めた。
――ヘリアンサスの後ろにカルディオスがいる。
この際俺はみんなの中で最初に命を落とすことになっても止むを得ないが、カルディオスまでそうさせるわけにはいかない。
意識のないまま死んだりしたら、次に目が覚めたときにあいつがどれだけ動揺するか。
――だが、ああ。
近付いて来るヘリアンサスを、ばくばくと脈打つ心臓の鼓動に合わせるように眩む視界の中で見て、俺は唯一の未練を脳裏に浮かべた。
――せめて、死ぬならトゥイーディアの傍が良かった。
あいつの飴色の目が、鮮やかに瞼の裏に浮かんだ。
それを掻き消すように目の前に立ったヘリアンサスが、にこやかに言う。
「連中のいない――二人で会うなんて久し振りじゃない?
きみ、いつもいつもさっさと死のうとするんだもの。
――この、死にたがりめ」