71◆◇ガルシア戦役――無言の信託
俺の行動指針としては、このまま東ないしは北東の街区の避難所にカルディオスを預け、俺とトゥイーディアは海側へ応援に行く、というものだった。
トゥイーディアの頭の中では恐らく、避難所にカルディオスを預けた後、俺はその場で怪我人の治療に当たることまでが想定されているだろう。
俺としては、今この状況でトゥイーディアに一人になられることほど恐ろしいことはないので、なんとかそれを回避できないかと考えているわけだけど。
――わけだけど、難しそうだ。
いざ避難所の扱いになっている区域に足を踏み入れ、俺はそう認めざるを得なかった。
俺たちは、市街の外縁を辿って東の街区にまで到着したわけではない。
最短経路を通って――つまり、ガルシア市街の中心部を通って、北の街区を経由してから北東の街区に向かった。
ガルシアは、馬蹄形を成す市街が港を擁する砦を囲うような、そういう独特な造りをしている。
そのために、砦を通過せずとも市街の中心を突っ切ることで、ガルシアを南北に縦断することが可能なのだ。
戦地に近い側から避難所に入ったからだろうが、避難場所は阿鼻叫喚の様相を呈している模様。
そうはいっても、北の街区は俺たちの予想よりは被害を受けておらず、レヴナントが殴ったのか踏んだのか、数棟の建物が傾いて、かつ敷石が数箇所捲れ上がっていた程度。
ディセントラがどれだけ町並みの保護に心を砕いたのかがよく分かる。
だが一方で、大量のレヴナントを目の当たりした人々の混乱たるや。
避難場所になっていると思しき一画を前にしたときから、耳を劈く泣き声が聞こえてきたほどである。
それを耳にした瞬間、カルディオスはうんざりと溜息を零していた。
俺はトゥイーディアの手前、そういう反応は全て堪えた。がっかりされて堪るもんか。
なお、トゥイーディアはふーっと息を吐いて気合を入れた模様。
彼女はあんまり人付き合いが得意な方ではないし、人見知りというわけではないが、気心の知れた人間以外とは距離を置いて接したがる節がある。
とはいえこの非常事態、救世主として、縋って来る人には優しくせねばと、改めて気合を入れたのだと分かった。
正面からは泣き声、背後――北西の街区の方からは建物が倒壊する地響きが聞こえてくる、なかなかの地獄絵図。
カルディオスは遠慮なく嫌そうな顔をしているが、さすがに何も言わない。
だが、その表情の理由は結構明白だ。
この状況で救世主が中に入れば、周囲から人が殺到してくるのは目に見えている。
「……気絶した振りでもしてれば?」
思わずこっそり囁くと、カルディオスは唇の端でにやっとした。
「いいね、それ」
避難場所は――さすがに建物ひとつに住民が入り切らないので――ガルシア隊員が警護や怪我人の応急手当のために巡回し、おおまかに区切られた街区の一部だった。
救世主が三人連れで到着したのを見て、巡回していた隊員の一人が駆け寄って来て状況を説明してくれたが、向こうも向こうで混乱しているのか、「生き残った中で重傷者は少数」ということと、「混乱がひどい」ということしか伝わってこなかった。
もうちょっと実のある報告しろよ、と俺はいらっとしたが、ぐっと堪えて表情には出さなかった。
何しろトゥイーディアが見ているからね。心が狭いとか思われたくない。
一方でカルディオスは不機嫌に眉を顰めたが、こいつはそんな顔をしていてなお美しさが先に立つから問題ない。
トゥイーディアは慈愛の笑顔で隊員を労い、南東のレヴナントが片付いたことを朗報として伝え、カルディオスをこの場に置いて行きたい旨を申し入れていた。
隊員はカルディオスを見て、見るからにぐったりしているその様子に愕然としてから、慌てた風で「こちらへ」と踵を返した。
トゥイーディアの申し入れにより案内されたのは、二階分の高さはあろうかという吹き抜けの建物だった。
広々としていて入り口も窓も大きく、広い三段の階を上がって開け放たれた両開きの扉から中を覗くと、どうやら二つの大部屋に分けられているらしい。
扉を潜ってすぐのところは、椅子も机も何もない大部屋。
そこから左に視線を転ずれば、アーチ形に刳り貫かれた扉のない出入口があった。
その向こうには、奥に向かってずらりと並べられた長椅子が見える大部屋が開いている様子。
どちらの大部屋にも、天井には大きな硝子の天窓が開いており、晴れてさえいれば、中は光の洪水かと思うほどに眩しく照らされるだろうと思われた。
だが今は、曇天を映してどんよりしているし、何より中の雰囲気が最悪だった。
二つある大部屋は、どちらも避難してきた人たちでいっぱいになっている。
多くが市民の皆さんだったが、中には負傷した隊員も見当たった。
冷たい石造りの床に直に座り込んでいる人が殆どで、隣にある大部屋で長椅子に腰掛けているのは、どうやら怪我人が大半である模様。
先導する隊員に従って、カルディオスを担いだ俺と、それに付き添うようにしてトゥイーディアが中に入るや注目が集まり、その視線が翻る様には音が聞こえそうなくらいだった。
隣の大部屋からは、わざわざアーチ形の出入り口まで寄って来て、こちらを覗く人たちもいる。
全員が全員、不安と恐怖の表情を浮かべ、泣き喚いている子供もいれば、啜り泣いている者もいた。
中は寒い。
窓はさすがにぴったりと閉じられているものの、入り口が開けっ放しになっているのだから当然に。
とはいえ中の人たちからすれば、外の様子が分からないのも怖いんだろう。
ガルシア市街の北側には、俺はあんまり来たことがない。
なので俺は、こんな建物があることも、ここが普段何に使われているのかも知らなかった。
そういう考えが顔に出ていたのか、隊員がこっそりと教えてくれた。
曰く、ここは市民が集会で使うような場所らしい。
なるほどね、と俺は頷く。
今いる、この何もない部屋は恐らく着座のない集会に、左にある部屋は着座のある集会――あるいは誰かの話を聞くために使われるものなのだろう。
「集会堂、と呼ばれている場所です。ここが一番広くて良いかと思ったのですが……」
と、声を潜める隊員に、俺は思わず苦笑い。
広い分だけ人もいっぱいいるから、集める注目が半端ではない。
担いだカルディオスを横目に見遣れば、奴はぐったりと気を失っている振りをしていた。
俺たちが数歩、その集会堂の中に入るに至って、壁際に座り込んでいた人々が膝立ちになった。
隣の大部屋からは、いよいよアーチ形の出入り口に人が集まり始め、「救世主さまだ……」という声があちこちで漏れ始める。
「どうなってるの……」
「お怪我なさったのかしら……」
「終わりだ、終わりだ、ガルシアがこんな……」
絶望に満ち溢れた囁きがあちこちで湧き上がり、俺は思わずカルディオスの腕を揺らした。
おい、おまえの演技のせいで皆さん動揺してるぞ、と。
同時にトゥイーディアも、極めてさり気なくカルディオスの肩を叩いていた。
それから、すす、と奴に身を寄せて、耳許で囁く。
「――ちょっと周りの人に笑い掛けてあげてよ。それだけで元気になる人、多分いっぱいいるわよ。きみの天下の美貌の見せどころよ」
むちゃくちゃ言ってる……。
カルディオスは目を閉じたまま、む、と唇を曲げた。
が、姉のように慕うトゥイーディアからの言葉とあって、不承不承ながらもゆっくりと目を開けた。
そして、まるで「たった今目が覚めました」と言わんばかりの様子で、俺の肩から顔を上げる。
そのままの動きで周囲を見渡して、カルディオスが微笑んだ。
負傷者に相応しい弱々しい笑みではあったが、それがなおいっそうの色気をその微笑に与えていた。
その笑顔を見た人々の間に、水を打ったような静けさが落ちた。
全員が全員、目を奪われた様子でぽかんとしている。老若男女問わず。
俺たちを先導してくれていた隊員も、目玉が落っこちそうな顔でカルディオスを凝視していた。
もうこれは、単に見目が整っているというだけではなくて、一種の魔法かも知れない。
その異様な状況に、いつの間にか集会堂の中全体が静まり返った。
しん、と静まり返った集会堂で、人々が道を開けてくれる中を粛々と進んで、俺たちは入り口から見て正面の壁際の、少し空いているスペースにカルディオスを座らせた。
こいつの不調はガチなので、カルディオスは体勢を崩して頽れるようにして壁際に座り込んだ。
壁に背中を預け、床に手を投げ出して呻く。
近くにいた人たちが、なぜだか膝立ちになってカルディオスから距離を置いた。
怖がったとかではなくて、表情を見るに、恐らくは常軌を逸した美貌に対する近寄り難さからの様子。
何なんだ、こいつ。
思わずそんなことを考えてしまう俺を後目に、トゥイーディアがカルディオスの正面に膝を突いて、よく透る声を出した。
傍目にはカルディオスに話し掛けている言葉だったが、その実、周囲の人を意識しているということがよく分かった。
「――カル、おつかれさま。しばらくここにいてね。きみのお陰で南東のレヴナントは片付いたし、あとちょっとで私たちの勝ちね。ほんとにありがと」
ざわ、と、集会堂の中にざわめきが走った。
今度は絶望のためではなくて、希望のためだった。
その反応を十分に意識して、周囲に顔を向けたトゥイーディアが端正に微笑んだ。
俺にとってはカルディオスの笑顔よりも、数千倍は眩しい笑顔だった。
「大丈夫ですよ」
気負いのない声で、明瞭に、トゥイーディアはそう言った。
その声を、彼女を仰ぎ見るようにして聞いている人々は、この大部屋中に座り込んでいるだけあって、まるでトゥイーディアに対して軒並み平伏しているかのようにも見えた。
立っている俺からは、無数の頭ばっかりが見えて、たとえこの中に知り合いがいたとしても気付かないだろうと思われた。
そんな中に立つトゥイーディアは、俺の好きな、俺の尊敬する、救世主の顔をしていた。
にこ、となおも周囲を安心させるように微笑んで、トゥイーディアが立ち上がろうとする。
その手を、はっしとカルディオスが掴んで引き留めた。
さっきまで泣いていた女の子が、きゃあ、と小さな黄色い悲鳴を上げる一方、トゥイーディアは本気で戸惑って、腰を屈めた半端な姿勢でカルディオスを見下ろし、ぱちり、と飴色の目を瞬かせた。
「……どうしたの?」
カルディオスが何か言おうとした。
こいつはときどき、野生の勘みたいな切れの良さを発揮することがあるから、このときももしかしたら――何か、嫌な予感を覚えていたのかも知れない。
しかし結局、カルディオスは翡翠の目を伏せて首を振った。
小さく息を吸って、呟く。
「――ごめん。気を付けて」
「もちろん」
ふわふわとカルディオスの暗褐色の髪を撫でて、トゥイーディアは彼の手の中から自分の手を抜き取った。
そうして背筋を正して俺を振り返って、彼女は俺が恐れていたことを口に出した。
「――私はアナベルの方を見てくるから、きみ、まずは避難した人たちの治療をお願いできる?」
「――――」
反駁の言葉を吐こうとして、俺は出来なかった。
――トゥイーディアが正しい。俺はそうするべきだ。
素っ気なく頷く俺。
その段になって、ここまで俺たちを先導してくれた隊員が、はっとした様子で口を開いた。
「――救世主さまっ、ここにも怪我人はおりますが、重傷者は別の……」
「そっちに案内して」
言葉半ばで遮って、俺は冷たいまでの声で告げた。
トゥイーディアが一人で行動することへの不安から、声音が冷ややかになったものだったが、その真意が人に伝わるはずもない。
トゥイーディアは、単に俺が不機嫌になっていると思ったのか、窘めるように眉を顰めた。
そのとき、また別の声が上がった。
「救世主さま……」
俺は苛立ちを隠しもせずに振り返った。
トゥイーディアの単独行動が決定して、色々と堪えていたものが溢れてきたのだ。
一方でトゥイーディアは、いつもと変わりない慈愛の表情で振り返った。
「はい?」
声を掛けてきたのは、今しもアーチ形の出入り口を潜り、向こうの長椅子のある部屋からこちらへ向かって、ふらふらと歩いて来た男性だった。
格好を見るにガルシア隊員。
ぱっと見ただけで、彼の左足が折れているのが分かった。
瓦礫の下敷きになったか何かだろう。
血も出ているが、命に係わるものではない。
壁に縋るようにしてアーチ型の出入り口に辿り着いたらしき彼は、そこから先を壁から手を離して歩こうとして――何しろ、こちらの大部屋の壁際にはぎっしりと人が座り込んでいて、壁に縋って歩ける状態ではなかった――、しかし均衡を崩してよろめいた。
傍で座り込んでいた、こちらは一般人とみられる壮年の男性が、慌てた様子でその隊員を支えた。
「――大丈夫ですかい、あんた……」
「ああ、ああ、すまない」
低くそう言った隊員が、トゥイーディアに視線を戻して、もはや縋るように言った。
無数の人の頭越しに、命綱を投げるようにして言葉を投げた。
「救世主さまに頼るばかりで申し訳ございません。南東は――南東の状況は――」
「もう大丈夫ですよ。片付きました。この方々の避難を先導くださり、ありがとうございました」
言下に、だが優しく、トゥイーディアが告げた。
距離を跨ぐために、よく透る声をやや張った。
「私たちではそこまで及びませんでした。お怪我をなさっているのですね、ここでしばらくお休みください。負傷をおしての任務、よくお勤めでした」
――重傷者が他の場所に集められており、俺がそちらの治療から先に当たるのであれば、ここの負傷者の治療は後回しになる。
ここで自分に声を掛けてきたからといって、トゥイーディアがこの男性を特別扱いして俺に治癒を頼むことはない。
トゥイーディアはときに、冷淡に思えるほどに公平で平等だ。
今の状況が、軍人の戦線復帰を急ぐべきものだったのならば話は別だっただろうが、今の状況はそうではない。
にっこりと微笑んでそれ以上の言葉を封じ、トゥイーディアが踵を返す。
カルディオスの心配そうな眼差しに手を振って、俺もそれに続いて踵を返した。
そしてその拍子に、座り込んだまま伸び上がってこちらを見ている、顔馴染みのニールを発見した。
彼は壁から少し離れたところで、見慣れない私服姿で石の床に座り込み、何か言いたげに俺を見ていた。
――休暇中にレヴナントの大群を目の当たりして、さぞかし肝を潰したことだろう。
他の人に埋もれるようにして座り込んでいるニールの、怪我の程度を見て取るのは不可能だ。
心配ではあったものの、ここでニールだけを特別扱いするわけにもいかない。
取り敢えず、気付いたということだけを知らせるべく、俺はニールを指差してにっこりした。
ほ、とニールの顔が緩むと同時、ざわりとどよめいてニールの方へ集まる視線。
――あ、ごめん。
要らない注目を集めてしまい、ちょっとした申し訳なさを感じつつ、俺はトゥイーディアに続いて、避難した人々が開けてくれる一本道を通って集会堂の外へと出た。
扉を潜って階を下りると同時に、びゅう、と強く風が吹いた。
春の気配を掻き消すような冷たい風に、俺は思わず身を竦める。
そんな俺とは対照的に、外套すら羽織っていないというのに、トゥイーディアは平然として見えた。
階を下りたところで、靴の踵を鳴らして身体ごと俺を振り返り、少しばかり声を低めて言葉を作る――そしてその声が俺に間違いなく届くように、ちょっとだけ俺に身を寄せてくる。
俺は内心で、そんな場合でもないというのにどきどきした。
「――重傷者は出来るだけ治療してね。命に係わる人は特に。せっかく今まで無事に残った人なら、ちゃんと助けないと」
内心とは裏腹に、俺は素っ気なく頷く。
ごぉぉ――と、また地響きが聞こえてきた。十中八九はコリウスだろうが、避難が完了した区画の建物を壊して、レヴナントに対する武器としているらしい。
その方角をちらりと見てから、トゥイーディアはいっそう声を低くした。
「――その治療が終わったら、他の人は後回しにして、こっちの応援に来て」
いいの? マジで?
そんなの言われたら、俺、治療なんて爆速で終わらせてみせるよ。
――勢い込んでそう言いたかった俺だが、代償がそれを許すはずもない。
現実には俺は、溜息混じりに呟いていた。
「分かったからさ、引き留めんのやめてくれない」
「…………」
思いっ切り胡乱な目で俺を見て、トゥイーディアはすっと俺から身を引いた。
俺は死にたくなったが、トゥイーディアははあっと息を吐くと、身軽な動きで身を翻した。
こつっ、と敷石が鳴る。解れた蜂蜜色の髪が翻る。
――彼女が離れると同時に、俺は、自分の心臓の近くであらゆる負の感情から自分を守っていた護符が、色褪せて消えていくようにすら感じた。
トゥイーディアはいつだって、どんなときであっても、ただそこにいるだけで俺を守る光を放つ存在だった。
本人はそんなことを、露ほども知ってはいないけれど。
「――じゃあ、そういうことで」
そう言って、地響きが聞こえてくる方向へ足を速めて向かうトゥイーディア。
ここは無事な建物ばっかりだから、あっと言う間に彼女の姿は建物の間に消えていった。
俺は俺で、すっかり俺の先導役になってしまった隊員を振り返り、端的に尋ねた。
「――で、重傷者はどこ?」
◆◆◆
重傷者は、集会堂から少し離れた場所に集められていた。
どうやらそれなりの金持ちが、重傷者のために邸宅を開放したらしい。
庭園に向かって大きな窓が開いた談話室に、重傷者が運び込まれて呻いている様には、いっそ違和感すら覚えた。
談話室を見渡して、俺は思わず小さく息を漏らした。
――そんなに数は多くない。
いつかの、東の国境で最初に治療に当たったときくらいの人数がいたらお手上げだったが、ここにいるのは多くて二十人程度だ。
――あれだけ城壁が倒壊し、居宅が崩壊した。
重傷者が全部で二十人足らずなどという奇跡は有り得ない。
ここにいるのは、まだ生きている人たちだけだ。
――ここにいない他の重傷者たちは、助けられなかった人たちなのだ。
しかし、そう分かってはいても、俺は目先の、治療を要する人が少ないのだという事実に集中した。
治療が終われば、俺はトゥイーディアの傍まで行ける。
そのことに意識を集中しなければ、動揺が顔に出そうだった。
むせ返るような血の臭いが籠もっている。
そこに、死臭すら混じっているように感じられた。
ここまで俺を連れて来てくれた隊員を振り返り、俺は軽く頭を下げた。
彼も、ここには長くいたくないだろう。
「――もう大丈夫です。行って」
隊員は、刹那の逡巡ののちに頷いた。
顔が強張っていたが、彼は礼儀を忘れなかった。踵を合わせて敬礼し、「は」と折り目正しく返答して、邸宅の外へと踵を返す。
それを見送って、俺は外套ごと腕捲りをしながら室内に向き直った。
重傷者の間を、止血や応急手当のために行き来していた数人が、縋るように俺を見ていた。
彼らも血塗れだった。
ここでどれだけ彼らが尽力していたのかを、はっきりと物語る姿だった。
――重傷者の大半は意識もなく、脂汗を浮かべて呻いているだけだった。
変に相手に意識があるよりは治療はスムーズだったが、それだけに胸にくるものがある。
更に言えば、魔王の魔力といえども、〈失われたものを取り返すことは出来ない〉という絶対法を超えられる範囲は僅かだ。
権能として可能であっても、魔力が追い付かない。
俺が今の十倍程度の魔力を持っていれば、それこそ四肢の欠損すらも何とかなるかも知れないが、論理上、そんな人間は存在しない。
俺は間違いなく、この世界で最大の魔力を持つ人間のうち一人だ。
だからこそ、何かの下敷きになって潰れた片脚を、俺は取り戻してやることが出来ない。
――俺がそれを説明したとき、左脚が潰れた男性の傍にいた若い女性は泣き崩れた。
彼女が男性にとって何なのか、俺は知らなかったし訊かなかった。
変に聞いてしまうと、それが自分の傷になるということを、臆病な俺はこの数百年で学んでいた。
男性の潰れた片脚は、実際にはもう半ば以上が捥げていたが、大量の包帯で巻かれて、辛うじてまだ身体と繋がっていた。
それが恐らくは、治癒を可能にする救世主が――俺がいるからこそ、一縷の望みを懸けて切り落とさずにいたものだと分かった。
だが、俺はそれに応えられない。
ただ潰れただけの脚ならば、俺とて望みを懸けただろうが、この脚はもう死んでしまっている。
――片脚を失うことが避けられないその男性は、ガルシア隊員の制服を着ていた。
とはいえ、俺は彼の名前を知らない。
顔を見たことはあるのかも知れないが、大量の血を失って顔色を失くしているだけでなく、死相の片鱗すら浮かべた彼の今の顔と、記憶の中から合致する顔を探してくるのは不可能事だった。
意識はなく、浅く切迫した呼吸を繰り返している。
「……ごめん」
聞こえないと分かっていても呟いて、俺は彼の傍にいる、ぽろぽろと涙を零す女性に、顔を伏せるように促した。
女性はもはや誰の声も聞こえていない様子だったが、身振りで促すに至って、両手で顔を覆って俯いた。
それを見届けてから、俺は彼の、潰れた右脚に手を掛けた。――歯を食いしばる。
「ごめん、俺にはどうにも出来ない」
懺悔するようにそう囁いて、俺は彼の右脚を、腿の半ばから引きちぎった。
顔を伏せてはいても、音から何が起こったのか悟ったのだろう――傍の女性が、悲鳴じみた泣き声を高く上げた。
俺の、食いしばった歯がぎりぎりと鳴る。
――鮮血が飛び散って、俺の衣服までが真っ赤に染まった。
掌は滴るほどに血に濡れた。
べったりと、生温い厭な感触が、掌どころか指の間、指先にまで纏わりついた。
鉄錆の臭いが、強烈に鼻腔を満たして吐きそうになった。
傍の女性には血が飛ばないよう気を遣ったが、それは無駄だった。
泣きながら顔を上げた彼女が男性に縋り付くように抱き着いて、あっと言う間に彼女もまた血に濡れたから。
既に神経が断たれて、痛みを感じることも出来なかったのだろう、男性は意識を失ったままぐったりしている。
素早く止血し、皮膚のみを再生させて傷口を塞ぎながら、俺は何度も謝罪の言葉を繰り返した。
男性本人に対しての言葉か、傍の女性に対しての言葉か、俺自身にももはや分からなかった。
「……何を詫びてらっしゃる」
血塗れになりながらも、次に治療に当たった初老の男性は辛うじて意識があって、どうやら俺の醜態を見ていたらしい。
あるいは、女性の悲鳴で目が覚めたのかも知れない。
掠れた声で、治療の間中ずっと、同じことを呟き続けた。
啜り泣く女性の声の隙間から、俺はずっとその言葉を聞いていた。
何度も同じことを繰り返す彼は、意識があるとはいっても、夢現の状態のようだった。
「……死ぬところだった……本当なら……それが生きてる……命あっての物種だ……そうとも、生きてさえいりゃあ……何とかなりましょう……。
何を詫びてらっしゃる……死ぬところだった……」
治療が終わると同時に、ズボンで掌を拭ってから、俺は彼の手の甲を軽く叩いた。
言葉を掛けるべきだったが、その言葉が見当たらなかった。
夢現の状態ではあっても、俺が触れたことは分かったのか、男性は年齢の刻まれた口許を微かに緩めて、呟いた。
「――そうとも……生きてる……あんた様が生かしてくだすった……。
目を開けて、あいつはまたあの娘の顔を見られる……」
俺は頷いた。
見えない命綱を掴むように拳を握った。
――手にはまだ、潰れた脚を引き千切った感触が克明に残っていた。
重傷者の治療を終えた俺は、付き添いの誰とも目を合わせることなく、何かに追い立てられるようにしてその場を飛び出した。
粉塵が舞い上がり、地響きの音がする方角を目指して走りながら、ズボンで何度も掌を拭う。
拭っても拭っても、指の間の厭な感触が消えていかなかった。
両手を握り合わせるようにして、指の腹で指の間を拭っても同じだった。
擦り過ぎて、遂に一箇所で皮膚が裂けた。
「――――っ」
息を吸い込み、唾を呑む。
鼻の奥にこびり付いた鉄錆の臭いのお陰で、それにすら血の味がした。
風が吹く。
春が、覗き掛けていた爪先を引っ込めたかのような冷たい風。
潮の匂いを含む風が顔にぶつかる。それを捉まえようと、俺は大きく息を吸う。
そうして、肺腑の中の空気を入れ替えようとした。
冷たい空気が胸を満たして、鼻の奥の鉄錆の臭いが僅かに和らいだように思えた。
――日暮れまであとどれくらいだろう。
この状況だ、家を失った人は多い。
そういった人が今夜をどこで過ごすのか、みんなが落ち着いて考えるだけの時間はあるだろうか。この寒さの中の野宿は自殺行為だ。
曇天ゆえに、太陽の正確な位置は分からなかった。
走りながらふと思い出して、俺はウエストコートのポケットから銀の懐中時計を引っ張り出す。ズボンで拭い切れなかった血が、指紋の形になって艶やかな銀の表面に掠れた跡を残した。
ぱちん、と蓋を開けて文字盤を一瞥する。――三時すぎ。日暮れまではまだ時間がある。
懐中時計をポケットに放り込むように戻す。
敷石を踏む自分の足音だけを聞くよう意識しながら、俺は建物の間の狭い路地に飛び込んだ。
ここは初めて来る街区だが、あいつらの魔力の気配が明瞭である以上、道に迷うことは有り得ない。
狭い路地を、身体を横向きにして走り抜ける。
靴音が反響して耳にこびり付いた。
途中で、投げ捨てられてくしゃくしゃになった新聞が、風に吹かれて乾いた音を立ててこっちに滑ってきて、俺は危うくその上に足を乗せてしまって滑るところだった。
「くそっ」
悪態を吐いて、俺は路地から走り出る。
潮の匂いはいっそう濃くなっていた。
路地から走り出たところで、ちょうどこちらに向かって歩いていた三人連れの隊員がいて、唐突に飛び出して来た俺にぎょっとした様子で足を止めていた。
驚かせてごめん、の意味を籠めて軽く手を挙げ、俺はアナベルの、今は他よりも一段と濃く漂う魔力の気配目掛けて、なおも走り続けた。
避難所になっている区域を抜けたからだろう、一般人の姿は見事にない。
正直、ここまで見事に避難を徹底させたガルシアの指揮系統に、俺は内心で舌を巻く思いだった。
如何に緊急事態とはいえ、権力の行使に反対する人物もいそうなものなのに、本当に見事だ。
走るうちに、周辺の様相は一変した。
家屋の悉くが倒壊し、しかも巨大な何かを引き摺った痕が幾つも残っている、異様な状態。
瓦礫はむしろ少なくて、瓦礫ごと巨大な何かを海の方へ運搬していった痕跡が明白だった。
――コリウスだ。
しかし、俺が想像していたよりも、家屋が倒壊している範囲が小さかった。
てっきり、街区を丸ごと潰すような事態になっているのかと思っていたが、違う。
いわば筋状に、幾つか街区が倒壊した爪痕が残っている――というような状態。
上空からここを見下ろせば、巨大な鉤爪が市街を引っ掻いたかのように見えたかも知れない。
家屋が倒壊した範囲の、すぐ傍の建物が無事であるのを見て、俺はさすがに瞠目した。
――ディセントラ、凄すぎる。
被害を出す範囲を最小限にするために、あいつがどれだけ心を砕き、あらん限りの技術を尽くしたのか、それはもう俺の想像の埒外だった。
いくらディセントラでも、今のあいつは準救世主。
今無事に残っている全部を、同時に〈止め〉て守ることは不可能だっただろう。
だから恐らくは、時間差を設けて事に当たったのだろうが、それにしても――
緻密な計算と打ち合わせで、ディセントラとコリウスが、ガルシア市街をぎりぎりまで守り抜いたのだ。
――南東側に住んでいた人に申し訳がない。
掠めるようにそう思ったが、ある意味仕方のないことではあった。
こんな芸当は、俺やトゥイーディア、カルディオスでは不可能だ。
ディセントラがいたからこその快挙だ。
言い訳のように内心で言葉を重ねながら、俺は障害物のなくなった、コリウスが建物の悉くを倒壊させた痕を辿るようにして走り始めた。
足下で細かな砂礫が鳴る。砕け散った硝子片が、曇天にすら微かな光を反射する。
――人はいない。一人も。
ディセントラたちは危険な区域から、徹底的に人を排除してから、この大掃討を開始したのだ。
息せき切って俺が海を望む断崖にまで到着したまさにそのとき、名状し難い甲高い音が響いた。
砦は港を擁するが、市街の端から海へは断崖になって落ち込んでいる地形だ。
俺が辿り着いた場所よりも砦に寄った断崖の端に、薄青い髪を潮風に靡かせたアナベルが佇んでいた。
その後ろにディセントラとコリウスがいて、さすがに疲れたように各々膝に手を置いているのが、遠目でも見えた。
――トゥイーディアは?
そう思って目を泳がせる。そしてすぐに見つかった。
トゥイーディアはアナベルの更に向こうにいて、海の方を真っ直ぐに見ている。
俺もまた、海の方へ視線を転じた。
――曇天を映した鉛色の海の上に、大量のレヴナントが犇めいていた。
眼下に一塊になっているというよりは、眼下一帯を占領し、海の上――相当先の視界が及ぶ果てまで、灰色の巨人の群れが続いているようにさえ見えた。
そういえばレヴナントは、海面に立つことも出来るんだった。
コリウスによって瓦礫ごと海上に放り出されたレヴナントたちはそうやって、奇妙なまでに凪いだ海の上に立って、断崖の上を眼のない貌で見上げている。
連中の呻き声が、海鳴りに混じって耳の底に溜まっていく。
瓦礫はもうとっくに海底に沈んだのだろう。
海にあるその痕跡は、同心円状に広がっている、海面がうねるような波紋のみ――
――違う、既に凍っている。
波紋の形もそのままに、辺り一帯の海面が凍り付いている。
見渡す限りの大海原が、凍結してぴくりとも動かない。
仄かに白く、冷気が海面付近を漂っている。
アナベルが、海に向かって手を伸べた。
薄青い髪が潮風に揺れる。ただそれだけ。
他一切は微動だにしない、清雅なその横顔を、俺は遠目に見ていた。
それこそ氷の彫像のように動きを止めて、一瞬。
指先までも繊細に、まるで何かの舞踊の一部であるかのように、アナベルが海へ向かって伸べた手を振る――その指先に、冷えた空気が白く凝っているのが見えた。
ばきんッ、と、鼓膜を抉るような凄絶な音がした。
レヴナントの足許で、凍り付いていた海面が割れた音だ。
深々とした亀裂に向かって、レヴナントを大量に乗せた氷が傾く――
レヴナントは落ちない。
当然だ、連中は海の上に立つことも出来るのだから。
そしてそんなことを、アナベルが知らないはずもない。見落とすはずもない。
先程とは逆の手を、アナベルがすうっと伸べた。
やはり、何かの踊りのようだった。
こういう大規模な魔法を使うとき、こいつはいつだって、こんな風に繊細な仕草をとる。
ぱちん、と、アナベルがその手指を鳴らした。
その音が、まるでレヴナントに対して何かの裁断を下すかのように響いた。
――途端、海が弾けた。
少なくとも俺にはそう見えた。
凍っていた海面の下から、大量の海水がうねって弾け、レヴナントを打ち上げるかのように氷を突破して溢れ出した――その海の動きが、レヴナントの大部分を呑み込んだ。
俺の目の高さにまで、打ち上がった波が達した。
波に揉まれるレヴナントが、すぐ目の前に見えたくらいだ。
俺にはよく分からないが、アナベルはときどきこういう魔法を使う。
潮の満ち引きにかかる時間帯とか、あとはなぜだか月の満ち欠けとか、そういう全部が影響するらしいが、準救世主の地位にあるときであっても、アナベルは海流の一部を操ることが出来るときがある。
レヴナントを呑み込んだ海水が打ち上げた氷が、情け容赦なくレヴナントに突き刺さる。
レヴナントの絶叫が、爆発音にも似て耳を打った。
更には、レヴナントを押し包んだ海水それそのものも、間髪入れずに凍り付き、中へ封じ込めたレヴナントごと砕け散った。
巨大な氷の欠片が海面を割って落ち、ざん、と波の音が響く。
飛沫が上がる。
今度は俺の目の高さには達しなかった。
それでも、屈んで手を伸ばせば、宝石のように煌めく飛沫に触れられるのではないかと思うほどに高く激しく、大粒の飛沫が宙を泳いだ。
今この瞬間に、一気に何体のレヴナントが葬られたのか分からない――百は超えていたかも知れない。
海の傍であれば、アナベルは無敵に近い。
生き残った十数体のレヴナントが、アナベルから逃げ出そうとするかのように、海原目掛けて後退り始めた。
中には膝を撓めて、断崖の上へ登ろうとしているものもあった。
アナベルが、後ろへ軽くよろめいたのが見えた。
コリウスがはっとしたようにその肩を支える。
――さすがにきついか、アナベル。
とはいえ、もう十分だ。
残ったレヴナントは十数体。ここに救世主が五人いる。
アナベルが多少は取り逃がしても、俺たちで片を付けられるレベルの話だ。
アナベルが、コリウスに背中を預けながらも、もう一度手を振った。
ぱあん! と甲高い音がして、またも海面が弾ける。
捉えられたレヴナントが少なくとも五体、数秒ののちには氷の欠片へと変じて散っていく。
あああ、ああああ、と、残ったレヴナントが意味のない絶叫を噴き上げた。
海原に向かって滑るように下がるものと、断崖の上へ飛び上がろうとするものと――
アナベルが、大きく手を振った。
海原を一時覆った氷は、既に全てレヴナントに対する凶器として使用され、砕かれている。
柔軟さを取り戻した海面が大きく波打って、足許からレヴナントを呑み込んでいく――
波に浚われ、巻き込まれたレヴナントが一体、まるでそこから逃げ出そうとするかのように、がむしゃらに手を伸ばすのが見えた。
ぱきんっ、と大量の海水が凍る音がするのと同時、まるで水の中から転び出すかのように、レヴナントが空中に脱出した。
海水が引き裂かれて飛沫になる。
大粒の水晶のように煌めいて宙を泳ぎ、ぶつかり合って弾ける飛沫――
レヴナントが、俺より更に北側の断崖に、全身を打ち付けるようにして着地した。
そのままよろよろと立ち上がる、その姿は妙に人間らしかった。
そして、更に人間らしく頭を振って、絶叫を噴き上げながらレヴナントが走り出す――
アナベルがこちらを、レヴナントの方を見た。
一体とはいえ、レヴナントを市街の方へ取り逃したことに対する動揺が、薄紫の目を揺らしたのは一瞬だった。
すぐに俺を発見して、アナベルが海の方へ視線を戻す。
――信託は無言だった。だが明確だった。
俺があのレヴナントを仕留めることを、アナベルは確信してあいつを放置した。
そもそもがこの大立ち回り、一体たりともレヴナントを逃がすことなく決着する方がおかしい。
頷く暇すら惜しんで、俺は市街の方へ身を翻した。
手を伸ばす――どんっ! と腹に響く爆音が轟き、レヴナントの足許が爆発した。
悲鳴じみた絶叫を噴き上げ、レヴナントが前のめりに倒れ掛け、しかし踏み留まる。
――仕留め損ねた。
舌打ちし、俺は地面を蹴って走る。
速さをいえばコリウスが追うのが最善だが、コリウスが市街地でレヴナントを仕留めようとすれば、まだ無事に残っている街区を崩して瓦礫とし、武器にするしかない。
これまでに崩した街区の瓦礫を、軒並みレヴナントの運搬に使ってしまっているのだから当然に。
一方で俺ならば、既にコリウスが砕き切った場所でレヴナントを炎上させれば一件落着だ。
逃げ出そうとしているレヴナントとの位置関係から見ても、他の誰より俺が適任。
赤金色の髪を翻してディセントラが振り返り、手を握り合わせて目を伏せるのが、視界の端に見えた。
ふわ、と強く漂う彼女の魔力の気配。
――もう既に疲れ切っているだろうディセントラが、それでもなお、無事に残る街区を保護しているのだ。
そしてそうすることで、必然的にレヴナントを、俺に有利な場所に誘導してくれている。
「ありがと、ディセントラ!」
一声叫んで、俺は、まるで眩暈に襲われた人間のようによろめきながら走る灰色の巨人を追って、市街の方へ駆け戻り始めた。
◆◇◆
耳障りな絶叫と爆発音が聞こえてきて、ぼんやりと通りを歩いていたおれは顔を上げた。
ガルシア隊員たちは皆が皆、通りを歩くおれからは顔を逸らして歩き去る。
路傍の石は路傍の石なりに、見逃してもらう方法というものを覚えるらしい。
どうでもいいことだ。
そんなことよりも。
――この音。
聞き慣れた音に眉を寄せる。
てっきりあの青髪の子がレヴナントを掃討するものと思っていた。
海の上であれば可能だろう。
あの子が海の上で魔法を使うところなど見たことがないが、あの子の魔法がそれを可能にするということを、おれは知っている。
「……おかしいな」
呟いて、音が聞こえた方向を振り仰ぐ。
曇天が、まるでたくさんの灰色の羽毛を押し並べたみたいに見えた。
全体に灰色で、一部は白く、一部は黒い。
――空の色には名前がある。空気の温度にも名前がある。
そんなことを反芻しながら目を眇める。
そしてすぐに、おれは足を止めた。
先程までは機嫌が良かった自覚があるが、ここに至って自分の感情が不快へと動いたのを感じた。
こちらへあれが向かっている。
それはいい。
どこへ向かおうが、別にいい。
おれが生死を気に掛けなければならないものは六人だけで、感情論へと重心を動かせば、その人数は三人に減ずる。
それ以外は構わない。
――だが、ただ一点、おれの感情を不快の底へと落とす事実がある。
足を踏み出す。
ちょうどそのとき、目の前の曲がり角から、黒い軍服を着たガルシア隊員が三人、唐突に現れた。
足音がこちらに聞こえていたのかも知れないが、おれが聞いていなかったのだから、この三人は足音を立てていなかったも同然だ。
そしておれの足取りの延長にいるならば、
「――邪魔だよ」
親切にも一声掛けてから、おれは、頭の先から爪先に向かって、数秒を掛けて塵になっていく三人の残骸を跨ぎ越した。
跨ぎ越すその瞬間に、ちょうど三人の爪先が塵になって敷石の上にこんもりと積もったところだった。
元は人体だったもので靴底を汚す趣味はないからね。




