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67◆ ガルシア戦役――女王陛下

 レヴナントが大挙して市街に押し寄せた瞬間、市街の人々は当然のことながら無防備だった。


 それまでガルシア市街でレヴナントが発生した例などなく、また堅牢な城壁で守られた都市内部であったのだから当然だ。


 加えてここは、救世主のお膝元。



 常日頃から緊張感を持って過ごすなど、要求する方が無理というものだ。



 悲鳴は広々とした都市の一画で上がり、そして都市中に響くほどに大勢が叫んでいた。

 あるいは、叫ぶことすら出来なかった人々も大勢いたことだろう。


 ――幸いだったのは、昼日中のこの時間帯にあっては、自宅にいる人が少なかったということだ。

 ガルシアは都市の外側から内側に掛けて、徐々に建物が高くなるよう設計されている。そして最も外側――即ち、最も建物の丈が低くなる場所にあるのは、無論のことながら市民の居宅だ。


 この時間帯は、町の中心部辺りに人が移動していた。それが一点目の、非常な好運だった。


 そして二点目の好運は、カルディオスが市街の外にいたことだ。


 俺をからかって言った、町の傍に留まるという約束を、あいつは忠実に守っていた。そして、俺たちが人型のレヴナントと戦っている最中に天高く上がっていた炎を、勿論のことながら見ていたのだ。

 見て、何らかの異常事態が発生したと悟っていたカルディオスは、ガルシアを眼前にするところまで戻って来ていた。

 そこでレヴナントの群れを見て、さすがのカルディオスも肝を潰しただろうが、それでもあいつの判断も行動も冷静だった。


 ガルシア南東で発生したレヴナントは、市街に雪崩れ込む前に、カルディオスという障害と鉢合わせしてその数を削られたのである。


 そして少なくとも、いち早く“レヴナントを全滅させることが出来ない”と判断したカルディオスが城壁の上に立ち、あらん限りの声で警告を叫んでくれたお陰で、レヴナントが叩き潰し大破させた城壁の下敷きになることを免れた人々が一定数いた。



 ――その地獄絵図の始まりは、俺にとっては音だった。

 曇天を劈く悲鳴。建物が倒壊していく音が、俺がいた市街の中心部にまで届く。

 レヴナントの咆哮と絶叫が、幾つも幾つも。


 音がぶつかり合って響いて、聞こえてくる方向すら定かでなかった。


 そして地響き。

 地面が微かに揺れているようにさえ思える程の、大きな質量がどこかで地面に叩き付けられているがゆえの、耳鳴りのようにすら聞こえる地響き。


 続いて、空へ立ち昇る粉塵が見えた。

 曇天に溶けそうな色ではあったが、それでも微かに、倒壊した城壁と家屋から舞い上がる粉塵が、風に乗って上空に漂っていくのが見えた。



 俺たちに浴びせられていた歓声はぴたりと止まり、周囲の人々はむしろ怪訝そうにしている。

 この怪訝が恐慌に変わった瞬間に、ここがどれだけ阿鼻叫喚の有様になるのかは、もはや俺の想像の埒外だった。



 その刹那、俺は茫然としていた。

 優先順位をつけることの出来ない事態の発生に、頭が真っ白になった。



「――カルディオスがいる」


 ディセントラが呟いた。

 その明瞭な声が、茫然としていた俺を現実に引き戻した。


 俺だけではなく、トゥイーディアも度を失うほど狼狽えていた。

 単独で対処することの出来る危機には一切動じないトゥイーディアも、この規格外の事態には自失したかに見えた。


 アナベルは当初から、決まり切った動作をなぞるようにしてディセントラを見ていた。



 ――ディセントラが女王様気質だと言われるのは、何も単に高貴な生まれを引き当てることが多いためだけではない。



 ディセントラは淡紅色の目で、ここからは状況すら定かには見えない市街の南東の方面を見詰めていた。

 顔色は白く表情は硬かったが、それはヘリアンサスが近くにいるがためのことだ。



 ――個として事態に当たる際に他を采配し、先陣を切るのを得意とするのがトゥイーディアならば、指揮官としての才能に最も恵まれているのがディセントラだった。


 情に脆く贔屓目の激しい彼女ではあったが、いざ有事となれば、名前も顔も知らない守るべき対象の一部を他のために切り捨てることも決断してのける非情さも持ち合わせている。

 それはトゥイーディアにも共通することではあったが、トゥイーディアとディセントラの最も大きな差は、自分が先頭に立つことに拘るかどうかだ。

 トゥイーディアがあくまでも自分を先陣に置くことに拘るのに比して、ディセントラは一歩退くことも知っている。


 ガルシア港にあの巨大兵器が出現したときに、全員に役割を割り振って、かつ俺を先頭に立てたのはディセントラだ。

 あれがトゥイーディアだったら、まず間違いなく俺は海岸から動くなと言われていたはずだ。


 その彼女が、なぜ魔王の城に踏み込んだときだけは先陣を切りたがるのか、それを俺は不思議に思っていたものだが、今なら分かる――代償のゆえだ。


 俺もカルディオスも、細かいところにまでは目を配ることが出来ないので、指揮を執るというよりは使われる方が向いている。

 アナベルはディセントラとは真逆で、指揮を執る際に犠牲が出ることを許容できない。ディセントラが一人を見捨てて百人を助けるために戦力を割り振る決断をする場面で、彼女は一人を助けるために戦力を分けることを考えてしまう性質たちだった。普段は無感動に振る舞うアナベルの、愛情深さの一端である。

 そしてコリウスは逆に冷淡すぎる。脅威を排除することにばかり目を向けて、死屍累々が積み重なろうとも、案外と気にしない奴なのだ。



「――整理しましょう。まずこの、耳障りな叫び声からして、レヴナントが大量に発生してる」


 ディセントラが、低く抑えた声で呟いた。


 視界の隅でヘリアンサスが頷くのが見えた。

 まるで、ディセントラに対して「正解だ」と告げるように。


 退屈そうな楽しそうなそんな顔で、ヘリアンサスは粉塵の上がる街区の方を黄金の瞳で見ている。


「あっちでカルディオスの魔力の気配がする。南東ね、そちらでレヴナントが発生しているのは、まず間違いない」


 早口に言葉を続けて、ディセントラは南東を指差す。

 そしてその指を翻して、北西を示した。


「あと、あちらからも声が――いえ、とにかくレヴナントが発生しているようだから」


 見通しの悪い市街の中心の一画で、少ない情報からそこまでを判断して、ディセントラは指を一本立てた。


「――民間の方々には、ガルシア市街の東から北東に避難するように伝えて。

 途中で会った隊員にもこの指示を伝えて」


 なんで東から北東? と思いながらも、ディセントラの言うことにまず間違いはないので、俺は頷いた。

 アナベルとトゥイーディアは、ざっくりと意図を察した顔で頷いた。


 それを見てから、ディセントラはトゥイーディアに視線を向けた。


「――イーディ、カルディオスと合流して。()()()()()()()()()()()()、広域の殲滅が出来るのはあいつだから。イーディと一緒なら、何かあったときにカルディオスをすぐに戦線復帰させられるでしょ」


「ディセントラ」


 呟くように、アナベルが言葉を差し挟んだ。薄紫の目がしんしんと冷えていた。


「カルディオスが広域殲滅に踏み切れば、町が無事では済まない」


「仕方がないわ」


 切り捨てるように、ディセントラは応じた。


「どのみち、もうレヴナントに潰されている区画を更に砕くだけの結果になるでしょう。今は人命を優先すべきよ」


 何か言おうとして、しかしアナベルは口を噤んだ。

 表情は硬かったが、ディセントラの言葉に合理性があると判断して譲ったのだ。


「アナベルは北西へ。ちょうどいいわ、私とコリウスで、レヴナントを海へ追い込む。

 海に落としさえすれば、あんなの、アナベルにとっては物の数ではないでしょう」


 短く頷くアナベル。

 全く同時に、トゥイーディアとアナベルが踵を返して通りを逆方向に進み始めた。


 立ち去る寸前、トゥイーディアはヘリアンサスを見た。


 ヘリアンサスは欠伸すら漏らしていたが、トゥイーディアの視線を感じるとにこりと愛想よく微笑んで首を傾げてみせる。


「――大丈夫だよ、言ったでしょ。お手並みを拝見しているよ」


「――――」


 言葉の上では応じず、しかし視線に猜疑と嫌悪を籠めてヘリアンサスを睨め付けてから、トゥイーディアが通りを駆け下りていく。

 その際に、自分が流した血溜まりに足を取られて滑りそうになっていた。

 彼女らしくもないその些細な失態は、ヘリアンサスが傍にいるがゆえの動揺によるものだっただろう。


 救世主のための武器は、片手剣の形のまま俺の手の中にあった。


 ディセントラが俺を見た。


「私は一旦砦に戻って、コリウスと合流してからアナベルの方へレヴナントを追い込む。市街に被害を出すことの了承も併せて取るわ――コリウスがいれば話も早いでしょう。

 あんたは、」


 息を吸い込んでから、ディセントラは言った。


「――寮に子供が多くいるから、安否を確認してからイーディとカルディオスの方へ。合流はしなくていいけれど、南東のレヴナントに対処してちょうだい」


 俺は瞬きし、ディセントラの言外の指示を汲み取った。


 ――寮には確かに子供も多くいるが、わざわざそのために、六人の中の最高戦力の一人である俺に時間を割かせるのはディセントラらしくない。

 この指示はつまり、ヘリアンサスに対する人質として確保しておくべき、ムンドゥスの無事を確認しろという意味だ。


「分かった」


 短く言って、しかし俺は確認の意味で重ねて尋ねた。


「いいんだな? 俺もあいつも南東に対処するとなったら――」


「大丈夫よ」


 ディセントラは早口で、言下に俺の言葉に応じた。


「イーディとあんたを分けるのは、この状況では意味がないの。分けるべきなのはむしろ、私とあんたよ。曲がりなりにも防御の真似事が出来る人間を、あんたと一緒には出来ないし。

 アナベルが海の傍にいさえすれば魔法の威力に心配はない」


 六人の救世主の中で、戦力として他より頭一つ飛び抜けるのが、俺とトゥイーディアだ。

 だからこそ、二手に分かれるとなれば俺とトゥイーディアを分けるのが基本だと思っていたが、――なるほど。


 確かに、俺は防御のために魔法を使うことが出来る。

 そしてディセントラは、無生物に限って言えば魔法で守ることが出来る。

 確かに俺と一緒にいれば役割が重複するし、海に向かってレヴナントを追い落とす戦法を採るならば、大海の水を扱えるアナベルに怖いものはないだろう。


 もっと言えば、海にレヴナントを追い落とす過程で犠牲になりそうな家屋を保護できるディセントラは、アナベルと一緒に行動するのが望ましい。

 逆にいえば俺の得意分野はアナベルの足を引っ張りかねない。


 元より南東にいるカルディオスをわざわざ北西に向かわせる意味はなく、あいつに得意分野の魔法を使わせるならば、トゥイーディアは絶対にカルディオスと行動を共にする必要がある。


 そうなれば自ずと割り振りは決まってくるわけか。


 更に言えば、これでディセントラが民間人の避難を東から北東へと指示した理由も大体分かる。

 北西に発生したレヴナントを、そこから更に西側の海に追い遣るための戦場と、南東で発生したレヴナントを殲滅するための戦場が展開されることになるのだ。


 南東の戦場がどれだけ拡大するか分からない現状、民間人を南側に寄せることは避けるべき。

 そして北西に発生したレヴナントを抑え込む勝算があるからこそ、敢えてそちらの戦場に寄せた避難の場所を指定したんだろう。


 そういう全部を、ディセントラは一秒で考えついた。

 俺の頭では、提示された号令から後追いで察することしか出来ない。


 だがそれはどうでも良くて、今この瞬間に何より大切なのは、俺が戦うよう指示された場所だ。



 ――俺は、今回において、奇跡的にトゥイーディアの傍で戦うことが出来る。



「分かった」


 息を吸い込んでそう答えて、そして俺はヘリアンサスに視線を向けた。


 ヘリアンサスは興味深そうに俺たちを見ていて、視線を受けてひらひらと手を振った。


「気にしないで。いい退屈凌ぎだ、ぶち壊す気はないよ。

 僕はその辺をぶらぶらして、きみたちの頑張りを見守るだけにするから、安心していて構わない」


 なおも猜疑を籠める俺たちの視線に、ヘリアンサスは肩を竦めて軽く笑った。


「本当だよ。()()()()()()()()()()、僕は今回きみたちの邪魔をしない。

 ――けれど、まあ、信じる信じないの話じゃないよね」


 にっこりと、毒のある花のように美しい笑顔を浮かべて、ヘリアンサスは衒いなく言い放った。



「きみたちがどう思っていようが関係ないでしょ?

 きみたちに僕はどうこう出来ないから、諦めるしかないんじゃない?」



 ディセントラが息を吸い込んだ。

 俺は唇を噛んだ。


 ――本当に、その通りだ。


 ここでヘリアンサスを脅威と判断しようが傍観者と判断しようが、俺たちに出来ることはない。

 むしろ、ヘリアンサスに下手に手を出して、救世主が何人か欠ける方が問題だ。



 踵を返した。

 まずは寮、それからトゥイーディアの傍へ。


 それだけを意識するように、息を吸い込んで気を落ち着ける。


 それからふと思いついて、視線を上げて立ち並ぶ店のテラスを見た。

 そしてそこに、目当ての人物を見付けて声を上げる。


「――ティリー!」


 周囲に避難を促しながら通りを上って行こうとしていたディセントラが、なぜか足を止めて俺を振り返った。

 それを殆ど意識せずに、呼び掛けに応じて身を乗り出し、こちらへ手を振るティリーに向かって、俺は大声で指示を下した。


「民間の方々をガルシアの東から北東の街区に避難させてくれ! 非番の隊員にもこれ、伝えて! 下手したら俺たちが巻き込むから、急いで!」



 ディセントラが走り出したのが視界の隅に見えた。



 ティリーは一瞬、虚を突かれたように絶句したが、すぐに息を吸い込んで、叫ぶような応答を返してきた。



「――承りました!!」





◆◆◆





 先に通りを下ったトゥイーディアが、避難の指示を叫びまくってくれたのか、寮まで走る俺は、東側に向かって避難の途を辿る民間人の群れと複数回に亘って擦れ違った。


 彼らを誘導していたのは休暇を満喫していたはずの非番の隊員たちで、突然の異常事態に顔を強張らせる彼らは、軍服こそ着ていないものの、軍人の顔で民間人を誘導していた。



 そのうちディセントラが砦でコリウスと合流して、砦にいた隊員たちも避難誘導に合流するだろう。

 更には、市街から離れて任務に当たっていた隊員たちも、今まさにこちらへ向かって引き返して来ている途上だろう。


 ディセントラが砦に向かったのならば、まず間違いなく、俺たちに下したのと同様の指示を伝えるための伝令を、砦から市街に向かって放つはずだ。


 ガルシアの人口を、俺は正確に把握しているわけではない。

 だが、東へ向かう人の群れは多くて長かった。

 突っ切るのも面倒になって、焦れた俺は途中で傍の建物の屋根に攀じ登り(魔力の無駄だけど、速度を採ったのだ)、屋根伝いに移動を開始した。


 冷たい寒風が、びゅうびゅうと俺の耳を塞いで流れていく。

 救世主専用の武器は、今は黒く緩いチョーカーに形を変えて、俺の首元にあった。

 傾斜する屋根の上で均衡を保って走ることくらいは造作ないが、それでも異様なまでに心臓が忙しなく脈打っていた。


 ヘリアンサスの黄金の目の残像が、脳裏でちらちらと閃く。

 それが、視界に見える惨状に重なって映る。



 ――()()()()()がない限り、僕は今回きみたちの邪魔をしない。



 余程のこと――ヘリアンサスにとっての余程のこと。


 それが一体どういった事態を指すのか、俺には分からない。

 俺はあの魔王のことを知らないから、あいつの判断基準など推し量ることが出来ようはずもない。



 ――だが、それでもどうか、()()()()()が起こりませんようにと祈った。



 外套を引き千切ろうとするように、強く風が吹いた。



 屋根の上に立てば、行く手の惨状は明々白々に視界に入る。



 市街に入って咆哮するレヴナントはざっと見ただけでも十体を超える。

 それが続々と増えていくのだから、目を疑う気持ちにもなろうというもの。


 城壁は一部が倒壊し、その手前に見える家屋も、もう既に十棟以上が崩れ去って粉塵の中に沈んでいた。

 屈み込んで家屋に手を掛け、まるで子供が砂遊びで作ったお城を崩そうとするかのようにその家屋を倒壊させようとしているレヴナントもいれば、市街の中心部を目指してゆらゆらと歩き出し、その巨大な足裏で容易く家屋を倒壊させていくレヴナントもいた。


 目を転じれば、まだ辛うじて無事を保つ城壁に手を掛け、それをへし折ろうとしているレヴナントもいる。

 城壁のすぐ内側には背の高い木が植えられているが、それもばきばきと幹を半ばから折られ、樹冠は倒壊した建物の間に沈んでいた。



 ――走りながら、揺れる視界で見ているうちに、市街中心に向かって進んで行こうとしていたレヴナント二体が、唐突に蹈鞴を踏んで立ち止まった。


 その胸部に当たる場所に大穴が開いている――トゥイーディアだ。


 トゥイーディアが、空気を刃に変じてレヴナントに突っ込んだのだ。


 トゥイーディアの姿は見えない――当然に。

 ここから見付けるには距離があり過ぎる、彼女の姿は小さ過ぎる。


 レヴナント二体は、溶け出していこうとする胸の穴を、掻き毟るようにして押さえた――その脳天にも同じように空気の刃が降る。



 本来ならば、誰よりも広域に亘る殲滅戦において強さを発揮するはずのトゥイーディアだが、レヴナントが相手となれば各個撃破の戦法に切り替えざるを得ない。

 合流すれば、俺は広域への攻撃も可能だ。


 少なくともいないよりはマシ程度には思ってもらえるだろう。

 急がないと。



 屋根を伝い走り、寮が見えた時点で――右往左往する人々に激突しないよう注意を払いつつ――地面に飛び降りる。


 その辺りはまだ避難が及んでおらず、狼狽と恐慌に走り回る人たちが、何度も俺にぶつかってきた。

 向こうからすれば、俺からぶつかりに行ったように感じたかも知れない。


 周囲は騒然としている。

 背中を押される。目の前に小さな女の子がべそを掻きながら突っ込んで来る。誰かに押された人がよろめいて、俺の肩に盛大にぶつかる。


「東に向かって! 東に避難して! 大丈夫、救世主が動いてるから!!」


 怒鳴らんばかりの声で叱咤して、突っ込んで来た女の子を母親らしき女性の方へ押し遣ったり、目の前で転んだ人を助け起こしたりしながら、俺はとにかく叫んだ。


 なかなか進めない。

 くそ、地面に降りるの早すぎた。


「東に避難して! そこは戦場にならないようにするから! 早く!!」


 走り回る人々から、誰だ、と誰何の声が上がる。


 俺は――そんな場合でもないのだが――いらっとした。


 これがカルディオスとかディセントラなら、こんなことは絶対に訊かれない。

 なぜならあいつらは、強烈に記憶に焼き付く顔をしているから。

 ていうかそもそも、ただの一般人ですと言い張るには無理があるだろうというくらい、万物に愛された姿形をしているから。

 あの二人なら、尤もらしい顔で何か言えば通るのだ。


「救世主だよ!!」


 叫んだ俺に、その場の全員が殺到して来ようとする。


 状況が訊きたいのか、俺の傍にいれば安全だと思っているのかは分からない。

 無理もない反応だとは思う。


 だが俺は、いっそう苛立ちながら人並みを掻き分けて足を進めた。


「早く避難して! 俺はこれからレヴナントの方に行くんだから、くっ付いて来てもいいことないぞ! 東に向かって!! この通りを上ればガルシア隊員がいるから!

 ――家財? 置いてけ、命あっての物種だろ!!」


 声が嗄れんばかりに何度も叫んで、ようやく人並みが指向性を持って動き始めた。


 ふーっと息を吐いて、俺はようやく目の前に見えた寮に飛び込んだ。



 ――呼び鈴は鳴らさず、扉を蹴破るようにして中に踏み込む。

 途端、騒がしい子供たちの声が耳に届いた。


 ああくそ、ここもか。ルインは大丈夫か。


 とにかくも奥に向かって進む。

 小さめの緑の扉の向こうの食堂に、不安と恐慌でいっぱいの顔をした子供たちが並んでいた。


 ばーんっと扉を開けて息も荒く登場した俺に、その場の視線が集中する。


 そして、あっと言う間に不安の声が歓声に変わった。


「――救世主さま!」


 巻き起こった大合唱を無視して、俺は目を走らせて寮母さんを捜した。

 苦も無く食堂の中央付近の彼女を発見すると、無言でそちらへ向かって突き進む。


 餓鬼の烏合に何を説明しても埒が明かない。

 話が分かる大人に一回話を通す方が早いのは自明の理だ。


 子供を押し退けて目の前に来た俺に、ふくよかな寮母さんは目を瞠った。

 だがすぐに使命感があらゆる疑問に打ち勝ったのか、端的に尋ねてきた。


「ここにいればよろしいのか、避難を――」


「避難して」


 言下に指示して、俺は厳しくなり過ぎた口調を後付けで和らげるために、唇の端で微笑んだ。


「東側に避難してください。そこは戦場にならないよう、他の救世主が取り計らうはずです。あなたがここの子たちを引率して送り届けてください。すぐにガルシア隊員が見つかるでしょうから、そこまで気負うことはないでしょうけど。

 ――で、俺たちが預けた二人ってどこにいます?」


 一息に言い切った俺に、寮母さんは不安を押し込めようとするように息を吸ってから、心許なげに答えた。


「ルインくん、ですか。ここには下りて来ていませんが……」


「分かった」


 短く言って、俺は寄って来ようとする子供たちを手で制しながら言葉を続けた。


「あなたは子供が残っていないか重々確認してから、全員纏めて避難させてください。

 ただし、俺たちが預けた二人については俺が何とかするんで、気にしないで。いいですね?」


 言葉の途中から、寮母さんはこくこくと頷き始めていた。

 更に数回頷いて、ぎゅっと前掛けを握って、寮母さんは案外にしっかりとした口調で答えた。


「はい、はい。承りましたわ」


「ありがと」


 そうとだけ言い置いて、俺は子供を掻き分けながら更に奥へ向かった。


 ルインのことだから、恐らくはムンドゥスの部屋で彼女に張り付いていることだろう。

 ムンドゥスの部屋がどこにあるのかは知っている。


 奥の狭い階段を昇る途中、逆に駆け下りて来る子供たちと幾度が擦れ違った。

「救世主さま!?」と目を見開く彼らをあしらい、適当に安心させるようなことを言いながら、俺は可能な限り素早く階段を駆け上がる。


 記憶にある通りの狭い廊下を、気が急く余りに壁にぶつかりそうになりながら進んだ俺は、ムンドゥスの部屋の扉をノックも声掛けもなしに開け放ち、中に飛び込んだ――


 同時に、ムンドゥスが俺の鳩尾に頭をぶつけるようにして突っ込んできた。


 視界に、ぱっと跳ねて翻る、編み込まれた黒真珠色の髪が閃光のように煌めいて見えた。


「――は」


 思わず声が出る。

 そこに重なって、ルインの声が聞こえてきた。


「兄さん!」


 俺を押し退けようとするかのように頭突きを繰り返すムンドゥスを、咄嗟に肩を掴んで引き離して抑え込みつつ、俺はルインに目を向けた。


 狭い部屋の中、床には足の踏み場がない程に本が散乱していた。

 積み上げられていた本の山を、誰かが蹴り倒して回ったかのようだった。


 いや、“誰か”じゃなくて、まず間違いなくムンドゥスか。


 半ば開いて床に落ち、他の本の重みで頁が折れてしまっている本もある。


 ルインはムンドゥスの傍に立っていて、息を荒らがせて顔を真っ赤にしていた。


「ルイン、どうした。ムンドゥス――何かあったのか?」


 思わず尋ねた俺に、ルインは首を振る。


「いえ、あの――先ほど、外が騒がしくなったときから様子がおかしくて。外に出ようとするので止めていたんですが――」


 俺は息を吸い込み、なおも部屋の外に出ようと小柄な身体を震わせるムンドゥスを抑え込んで、視線と言葉はルインのみに向けた。


「――市街にレヴナントが大量に流れ込んで来てる。出来るだけ被害は出ないようにするつもりだけど、どうなるか分かんねぇ。本当なら避難してもらうべきなんだけど――」


 言い淀んで、思わず目を伏せる。

 しかしすぐに顔を上げて、俺は言葉を続けた。


「――悪い。こいつを見られるわけにはいかない奴が、街中(まちなか)をうろついてる。

 だからここにいてくれ。こいつを一人にするわけにはいかねぇから、おまえも――」


「はい」


 言下に、一切の迷いも躊躇いもなく、ルインが頷いた。柘榴色の目に動揺はなかった。


「ここにいます。この子を外へは出しません」


 俺は短く息を吸った。

 罪悪感に、心臓がぴりりと痛んだ。


「――悪い。危ない目に遭わせる」


「いいえ」


 即答して、ルインは明瞭に言葉を綴った。



「兄さんのお役に立ちたくて、無理を申し上げてここに来ました。

 本望です」



「――――」


 ムンドゥスの肩を押さえていた片手を持ち上げて、俺は思わずルインの肩を、よくカルディオスに対してするように、軽く戯れに拳で叩いた。


「ありがと。おまえ、いいやつだな、いい弟だよ」


「――――!」


 唐突にルインが胸を押さえて感極まった顔をしたので、俺はぎょっとした。


「ど――どうした」


「兄さん、いま、弟と」


 ルインは、ちょっと潤んだ目で俺を見てきた。俺は瞬きした。


「お、おう」


「弟――」


 息を吐くようにしてそう言って、両手でしばし顔を押さえたルインが、ぱっと顔を上げて頷いた。


「はい、兄さんに恥じないよう努めます、もう悔いはありません」


「いや、死ぬなよ」


 思わず真顔で突っ込んでから、俺は自分の鳩尾にごつごつと当たるムンドゥスの頭を、額を掌で押すようにして引き離し、その場に片膝を突いて彼女と視線を合わせた。


「で、おまえは――、――っ」


 言い差した言葉が途切れた。


 ぎょっとして、俺は軽く仰け反った。



 ――ムンドゥスは、いつもあれ程に無感動に無表情に、人形のような顔をしているというのに、そして今もその表情は変わらないというのに、瞳に明らかな熱があった。


 全身を覆う罅割れに唯一侵されていない、完璧に整った恐ろしいまでの顔貌の中で、鏡のような銀の瞳に、泣き出す寸前のような感情の塊が光っている。



「――ルドベキア」


 ムンドゥスが、ようやくまともな言葉を発した。

 無花果の実の色をした唇は震えていなかったが、声が僅かに震えていた。


「ルドベキア、あの人はどこ」


 俺は一刹那呼吸を止めた。

 ――『あの人』、まず間違いなくヘリアンサスのことだ。


 黒檀を彫り抜いたかのように美しい手指が、縋るように俺の襟元を軽く掴んだ。


「ルドベキア、あの人はどこ。あの人に会わないと」


「――なんで」


 思わず平坦な声で反問した俺に、ムンドゥスはゆるゆると首を振る。

 その首筋にすら、凄惨な罅割れが走っている。


「おかしいの。わたしは努めたの。なのにこんなことになっている。あの人に何かあったの」


 相も変わらず訳も分からない説明に、息を吸い込んだ俺は素気無く応じた。


「違う、何もない」


「違う」


 否定に否定を重ねるムンドゥスに、俺は宣告するように伝えた。


「ここにいろ、ムンドゥス。あいつはここにはいない」


 ムンドゥスの、漆黒の長い睫毛が瞬いた。

 銀色の目は美しさの余りに全てを拒絶するように煌めいた。


「違う――」


 そう呟き、しかしすぐに、もう一度ゆっくりと瞬きしたムンドゥスが、不意に細い指先で俺の頬に触れた。


 俺はぎょっとして、危うく彼女を突き飛ばしそうになった。


 それをしなかったのは単純に、あらゆる害を為すことすら不敬と思える、恐怖すら招くほどの、徹底的なムンドゥスの美しさのゆえだった。


「ルドベキア、あの人に会いに行くの?」


「は?」


 ムンドゥスはぐっと俺に顔を近付けた。


 鏡のようなその銀の目に、俺は自分の怪訝な顔を見た。



 俺の背後の廊下で、この階に残留者がいないことを確かめる寮母さんの声が聞こえてきた。

 どこかでばたんと扉が開いて、数人分の足音が廊下を走って行く。



 そんな全てを俺の感覚から奪い取るほどに、圧倒的なまでの、暴力的なまでの美しさで、ムンドゥスが銀色の目を細める。


「ルドベキア、あの人に会うの? あなたがあの人に会うなら、わたしが会う必要はない」


 俺は息を吸い込み、一拍の沈黙ののち、応じた。


「――ああ、俺が会うよ」


 す、と、ムンドゥスが俺から離れた。

 罅割れだらけであってなお美しい黒い素足が、床に散らばった本を踏んだ。


 得体の知れない少女から距離が開いて、俺はほっと息を漏らす。


 長く編み込まれた黒真珠の色の髪を揺らして、ムンドゥスは先程までの様子が嘘のように落ち着いた銀色の瞳で俺を見て、呟いた。


「……そう、なら、いいの」


 ルインがほっとしたように息を吐く。

 俺が来るまで、こいつを部屋の中に留めておくことに、相当苦労していたのだと分かる吐息だった。


 俺は立ち上がり、ムンドゥスに向かって言い聞かせるように。


「いいか、ここにいて、この部屋から出るなよ」


 ムンドゥスは俺に銀の瞳を向けて、それから頷いた。


「分かった」


 俺はルインに目を向け、手を伸ばして肩を叩いた。


「ごめんな、苦労させる。――ここは守り切るようにするから。

 もし万が一、命が危ないと思ったら外に出ろ」


 胸に手を当てて、ルインは頷いた。


「はい、承知しました」


「ごめんな、ありがとう」


 そう言って、俺は一歩大きく後退って廊下に出て、がちゃりと扉を閉めた。



 大きく息を吐き、顔を上げて、扉を押し離すようにして走り出す。


 ――これで後はもう、障害はない。




 俺はトゥイーディアの傍に行ける。



















一人称の限界が訪れ始めました……


群像劇が書きたい&群像劇が書きやすいvs.一人称縛り




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