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65◆ 化け物ふたつ

 ――俺たちの人生は途轍もなく長くて、死んでいた期間を含めずとも、もう何百年生きてきたのか分からない程だ。



 だが、その長い人生――前回までの人生では、一度たりともレヴナントなどという災害が発生していたことはなかった。


 この百年の間に出没するようになったレヴナントが、そもそも一体なぜ発生しているのか、俺は知らない。


 だが、可能性を言うならば、最もそれが高いのはヘリアンサスだ。

 ヘリアンサスが、如何なる手段によってか、この人型の災害を発生させている――事実ヘリアンサスからは、それを認めるような発言すらあった。



 ――そのヘリアンサスとレヴナントが接近している場面を、俺は見たことがなかった。


 未知ゆえに、募る恐怖はいっそう鮮烈だった。

 ヘリアンサスがレヴナントに何らかの強制力を持っているにせよ、その程度が分からなければ対処のしようがない。



 人型のレヴナントのみならず、ヘリアンサスまでもが近くにいる。


 ――状況は、地下に閉じ込められたときとは比較にならないほどに悪かった。

 最悪といってもまだ足りない。


 危機感はヘリアンサスを認識していたが、俺の中の恐怖は、より近い距離にあるレヴナントの方へ傾きつつあった。


〈呪い荒原〉の傍で、最初にこの形のレヴナントを見てからずっとそうだったように――不可解な、理不尽な怯懦が俺の心臓をばくばくと動かしていた。

 鳩尾の辺りに氷が当てられているようにすら感じるほど、強烈な恐怖が俺の頭の大部分を侵食していた。


 だがそれでなお、俺に幾許かの冷静さが残った理由は単純だった。



 ――今度こそ、俺は一人ではない。それどころか、目の前にトゥイーディアがいる。



 トゥイーディアたちは今まさに、通りに向かって飛び降りたところだった。


 テラスからそのまま通りへ向かって欄干を越えて飛び降りるトゥイーディアのその動きに、俺は場違いにも、今生でトゥイーディアに再会したときを思い出していた。

 あのときもトゥイーディアは、船の甲板の欄干を越えて、俺たちの方へ来てくれた。


 相変わらず器用に、足許の空気を緩衝材にして敷石の上へ着地し、翻るドレスの裾を手で払うように整えて、そのまま、周囲を安心させるように手を振って見せているトゥイーディア。


 ディセントラもまた、周りに向かって微笑めいたものを浮かべたが、トゥイーディアに比べれば緊張は明らかだった。

 そしてアナベルに至っては、周辺のことはまるで気にしていないかのように、ただ注意深くレヴナントのみを見ている。これは緊張だとか恐怖だとか、そういうもののゆえではなくて、単純にアナベルの性格からの言動だ。



 多分――動きを見るに、トゥイーディアたちはヘリアンサスに気付いていない。


 まだ距離があり過ぎる。

 俺の方からは偶然、テラスの角度があって見えただけだ。だから俺が、脅威が一つでないことを伝えなければ。



 息を吸い込むと同時に振り返って、俺は強いて抑えた声でティリーに告げた。


「――客をここから出すな。建物の中の方がまだ安全だ。出来るな?」


 近くにディセントラがいる。

 ディセントラは――対象が無生物であれば――、〈止める〉ことによって守ることが出来る。


 建物の外にいる人間は俺が守るしかないが、建物の中にいる人間ならば、ディセントラがその方法で守ることも出来るはずだ。


 俺と同じく人型のレヴナントを見て、事態を理解したらしきティリーは頷いた。

 さすが軍人というべきか、聞き返したり狼狽えたりといったことはなかった。


 それを見て、俺は欄干の上へ身を乗り出し、そのまま欄干を踏み越えて、トゥイーディアたちと同じく通りへ向かって飛び降りた。



 ――レヴナントの、濁った黄金の眼が俺を見た気がした。



 胃の腑が腹の中で捩れたようにすら感じて、俺はみっともなくも、着地によろめいて片膝を突いた。


 勢い余って地面に手を突く。

 掌の下に、ざらついた敷石の冷たさを感じて、俺は息を吸い込んで立ち上がった。


 レヴナントはまだ、周囲に向かって害を為していない。

 だからこそ、速やかにこいつを片付けなければならない。


 ここにいるのが俺だけであれば絶望的な事態だが、ここにはトゥイーディアが――正当な救世主であり、破壊において明確に絶対法を超える権限を与えられた彼女がいる。


 位置関係をみれば、俺の十ヤードほど通りを下ったところにトゥイーディアたちが、そして彼女たちから更に十ヤードほど通りを下った場所に、ふらふらと敷石を踏むレヴナントがいる。


 レヴナントはかくんかくんと首を振り、歩調とは全く噛み合わない動きで腕を揺らして、ゆっくりと通りを上っている。


 ――ヘリアンサスがいる方向を目指している。


 トゥイーディアが、左の小指から指輪を抜き取ったのが見えた。

 直後、彼女の右手の中に、見事に黝く輝く細剣が現れた。


「――中へ。建物の中へ」


 トゥイーディアが、驚異的なまでに落ち着いた声を上げた。

 その声が、静まり返ったこの一画に、明瞭に響いた。


 ざっ、と、敷石を靴底が擦る音が幾つも上がった。

 救世主の号令を受けて、(まろ)ぶように体勢を崩しながらも、周囲の人々が手近な建物の中に下がろうとしている。



 ぴた、とレヴナントが足を止めた。


 トゥイーディアが一歩踏み出した。



 俺は咄嗟に、先に行ってしまおうとするトゥイーディアを追い掛けるように走り出した――いや事実、俺はトゥイーディアに追い着こうとしていた。


 その最初の一歩が、信じられないほど重く感じた。


 人型のレヴナントへの接近に対して、俺の本能があらん限りの力で抗っているようですらあった。

 後ろから誰かに足を掴まれていたとしても、これ程の抵抗は覚えまいとすら思った。


 だが同時に、背筋が粟立つ別の恐怖もあった。

 ――俺の後ろには、まだ距離があるとはいえ、ヘリアンサスがいる。



 ヘリアンサスに殺されたことは多々あるが、人型のレヴナントが俺を殺したことはまだ一度もない。



 走り出した俺が、ディセントラとアナベルに並ぶ。

 二人とも、人型のレヴナントの方ばっかり見ていたのか、俺がいることにたった今気付いたらしい。


 驚いたような顔で俺を見る二人と、それからトゥイーディアの背中を見て、俺は押し殺した声で囁いた。


「……ヘリアンサスが近くにいる」


 ディセントラとアナベルが、全く同時に目を見開いた。

 二人の双眸に、鮮やかな恐怖が走った。


 アナベルがそのまま動きを止めたのに比して、ディセントラは勢いよく後ろを振り返っていた。

 まるで、ヘリアンサスがすぐ後ろに迫っていないことを確かめるように。


 俺はそれを正面に見ながらも、視界の端にいるトゥイーディアの反応に、神経の全てを集中させていた。


 ぱっ、と、半ばを結い上げた蜂蜜色の髪を翻して、トゥイーディアが俺を振り返った。


 ――テラスからならヘリアンサスが見えたが、まだここからは見えない。

 だが、トゥイーディアは俺の言ったことを否定しなかった。


 飴色の目で俺を見て、そして、理の当然のように、凛とした声で断言した。


「――そう。じゃあ、こっちをさっさと片付けないとね」


 そう言って、くるりとレヴナントに向き直るトゥイーディアが、また一歩踏み出した。


 レヴナントは、かくかくと首を揺らしながらその場に佇んでいる。


 俺の足許が冷えた。

 あのレヴナントは恐らく、何の前触れもなく攻撃を仕掛けることが出来る。


 トゥイーディアの周りの空気、トゥイーディアが吸い込む息ですら、あいつは武器にすることが出来るはずだ。


 ――それが、途轍もなく恐ろしかった。


 自分の最も大切な人が、その人を明確に傷つける手段を持っているものに相対しているという事実が、心の底から怖かった。


 呼び止めて警告したいのにそれも出来ない。

 代わりに俺が先頭に立つべきなのにそれが出来ない。

 肩を並べることすら、その動機が俺の恋慕であるがゆえに、周囲から促されることなしには出来ない。


 ――早く、ディセントラかアナベルが、俺の背中を叩いてくれないか。

 そうすれば俺は、それを動機として動くことが出来る。


 内心でじりじりすること一秒――体感で言えば一時間。


 後ろを振り返っていたディセントラが、目に見える範囲にはまだヘリアンサスがいないことを確認して、俺を見た。

 淡紅色の目が動揺を映して震えていたが、彼女は口を開いた。



「――それで、逢引(デート)はどうだったの?」



 ――俺は耳を疑った。


 その瞬間だけは恐怖すら忘れた。



 こいつとは長い付き合いだが、ここまでの愚行を晒したのは見たことがない。

 魔王の城でヘリアンサスと相見えたときですら、こいつはむしろ冷静に、俺たちに向かって指示を下すことすらあるのに。


 愕然としてディセントラを見てから、俺はアナベルに視線を映した。


 さぞかし呆れ果てた顔をしているかと思いきや、アナベルは案外真面目な顔で俺を見ていた。

 もしかしたら、ディセントラの発言が余りにもぶっとび過ぎていて、聞き間違いだと思ったのかも知れない。


 ディセントラに視線を戻して、俺は叫んだ。

 この間約二秒。


「おまえ、状況分かってる!?」


 はっ、とディセントラが瞬きした。


 そして息を吸い込んで、思いっ切り俺の腕を引っ張る。

 同瞬、ディセントラの魔力の気配が色濃く匂った。彼女が、周辺の家屋を己の固有の力で保護しようとしているのだ。


「早く前に出なさい、あんたは経験あるんでしょ!」


 ――理不尽だ。だがこれでいい。


 息を吸い込んで一歩前に出た俺は、そのときトゥイーディアが、細剣の切先をレヴナントに向けるのを見た。



 まるで、瀕死の虫を見た子供が、それが生きているのか死んでいるのか試すために、戯れにつつくような仕草だった。

 手にしているのが凶器であるということすら、俄かには信じ難く思うほどに、子供っぽい仕草ですらあった。


 細剣の切先は、まだ距離のあるトゥイーディアとレヴナントの位置関係を正確に反映して、ただ中空に向かって突き付けられる。


 だが、その動作を引き金に、ばんっ! と、銅板を思い切り叩いたような音がした。

 紅蓮の火球がレヴナントの頭上で生じて、落下しながら爆発したのだ。


 トゥイーディアの、幼げですらある仕草からは不釣り合いなほどに剄烈な魔法だった。


 熱波が通りを駆け抜け、爆発の勢いに、建物へ避難しようとしていた人々が叫ぶ。

 ここにはガルシア隊員だけではなくて、一般の市民もいるのだから、恐慌は当然だった。


 爆炎の光は強烈だったが、それも一瞬だった。


 濛々と蒸気が上がる。

 余りにも蒸気が濃く立ち込めたので、勢いよく噴き上がった霧が、唐突にその場を覆ったようですらあった。


 水気が炎と相打つ凄まじい音がして、直後にトゥイーディアが起こした風が蒸気を上空へ向けて吹き払った。


 レヴナントは相も変わらず、かくりかくりと首を揺らしてそこに立っている。

 奇妙なまでに反撃の気配がない。


 その足許の敷石は、熱気が砕かれてさえいたが、レヴナントには傷ひとつなかった。


「――ふうん」


 トゥイーディアが呟いた。

 冷め切った声だった。


 俺が、ようやくトゥイーディアに並ぶ位置に立った。


 人型のレヴナントまでの距離は五ヤード程度。

 恐怖は足を竦ませるに十分なほど、抑えようもなく湧き上がってきたが、俺の隣にはトゥイーディアがいる。


 彼女に怯えたところは見られたくないし、そして何よりも、トゥイーディアの存在それそのものが、万能の妙薬の如くに恐怖を打ち消しつつあった。


 トゥイーディアは俺に一瞥もくれず、レヴナントだけを淡々とした眼差しで見て、口を開いた。

 言葉は俺に向けられたものではなかった。


「――アナベル、相殺できる?」


 アナベルの固有の力は、〈状態を推移させること〉。


 その真骨頂は、絶対法すら一部侵す強烈な、〈変化の強制〉だ。

 ディセントラの固有の力と双璧を成す魔法で、彼女が正当な救世主であるときは、潮の満ち引きや人の年齢、そして局所的な天気までも動かす凄烈な威力を誇る。


 そしてその魔法は当然に、万人が使えるところによる魔法の上位互換としても作用する。


 このレヴナントはまさしく、周囲の空気に溶け込んだ水気を抽出することで、高温に対処するに足る水分を生み出し、更に言えばそれは、冷気を招くことによって成り立つ魔法だ。


 そしてそれこそ、アナベルが最も手軽に扱う魔法と同一のもの。


 そうであるがゆえに、トゥイーディアの要請は極めて単純だった。

 つまりは、レヴナントが水気の抽出を行う過程において、アナベルがそれを妨害すること。


「やってみるわ」


「ありがと。――ルドベキア」


 トゥイーディアが、やはりレヴナントから目を離さずに、俺を呼んだ。


 怯えて竦んでいるのが見顕されたかと、俺はどきりとした――だが違った。


 細剣を握り直して、トゥイーディアは事も無げに言い放った。


「アナベルがあいつの魔法を相殺してくれるから、ちょっとは炎も効くでしょう。だから、きみはあいつを燃やしてね。

 私は、」


 かつん、と敷石に靴音を響かせて、トゥイーディアは。


「――あいつの魔法が想定以上に厄介だった場合に備えて、斬りに行くから」


 内心で俺は目を剥いた。

 だが表情としては淡々としていて、俺はぶっきらぼうなまでの口調で呟く。


「……俺がおまえを火達磨にしてもいいなら、いいけど」


 トゥイーディアの横顔が、滅多にないほど勝気に微笑んだのが見えた。


「大丈夫よ、アナベルがいるもの」


 ひゅ、と剣を振って、トゥイーディアが次の一歩を踏み出す。


 同時に、俺が指を鳴らした。



 空気を抉るような、ごッ、という低い音が轟いた。

 レヴナントの頭上に火球が浮かんだ。色はむしろ白に近い。

 余りの高熱に、周辺の空気が陽炎になって逃げていく。


 俺の指先の合図を受けて、それがレヴナント目掛けて、短い距離を落下した。


 着弾――爆音。

 爆ぜる轟音が空気を揺らし、地面をさえも揺らしたように思われた。

 周囲で悲鳴が相次いで上がり、しかしそれは歓声すらも含んでいた。


 天高くまで穂先を上げる業火。

 細く突き立ち、レヴナントのみを標的とするそれは、さながら巨大すぎ、高温すぎる蝋燭の火のようですらあった。


 炎の、最も高温に青く色が沈むその場所に、レヴナントが芯のように佇んでいる。


 レヴナントが炎を相殺しようとしたのは、俺には何の前触れもないことだった。

 しかし、この世界で最もその魔法に精通したアナベルからすれば、予期は容易かったらしい。


 じゅう、と、小さく、炎の一片(ひとひら)が消し止められる音がした――だがそれだけだった。


 周囲の家屋を保護するディセントラの魔力の気配に混じって、アナベルの魔力の気配が、大きく膨れ上がって感じられた。

 レヴナントの魔法を妨害して、冷気に招かれて空気に溶ける水分が具現化する傍から、それらを全て、再び空中へ還していくアナベルの魔法。


 同じことをしろと言われても、俺には絶対無理だ。

 この芸当をこなすには、俺では到底足りない。


 業火の中で全身が溶け出すに至って、レヴナントもまた、何かがおかしいと気付いたようだった。

 尤も、そういった認知や情動が、こいつにあるのかは知らないが。


 ゆるゆると両手を上げる――その手を、濁った黄金の眼でじっと見る――手指の形が崩れ、炎の中に薄墨色の煙が混じる。

 がくん、とレヴナントが膝を折った――否、膝から下が焼け飛んだ。


『――あ?』


 声が出た。


 俺はぎゅっと拳を握った。

 手が震えるのを抑え込むためだった。



 ――まただ。理由も合理性も何もなく、俺はこの声が、()()()()()()()()()()()()()と思ってしまう。



 レヴナントが、炎の中で倒れ込んだ。

 炎が生む上昇気流に煽られているからなのか、妙にゆっくりと倒れ伏そうとしていた。



 ――ここで消えてくれ、消し飛んでくれと、俺は思わず祈った。

 このまま、トゥイーディアが怪我のひとつもすることなく終わってくれ――



『――あ、あ、ああああ』


 レヴナントが顔を上げた。


 足を踏み出した――消し飛ばしたはずの足が、炎の中でさえ再生し、その身体を業火の外へ運ぼうとしていた。

 手が伸ばされる――その五指が、瞬く間に明瞭な形を取り戻す。


 顔貌の中で、口唇であろうと認められる膨らみが、ぱっかりと開く。


『ああああ、どォして――』


 膜を突き破るようにして、レヴナントの半身が炎から出た。

 炎がその脱出に対して、最後の抵抗を示すように、ぱっと火の粉が散った――直後。


 ひゅん、と空気を切り裂く音がした。

 見事な太刀筋で、黝い細剣が振るわれる。


 それは言うまでもなく、トゥイーディアが揮ったものだった。


 上から下へ一刀両断、まるでレヴナントが炎から踏み出して来るのを待ち構えていたかのような、迷いのない一振り。


『――あ?』


 声を出し、だがそれだけだった。

 レヴナントは躱しすらしなかった。


 レヴナントの首が落ちた。

 正確には、人で言えば肩甲骨の辺りから斜めに、トゥイーディアがばっさりと斬り落とした。


 右腕と、肩と、頭が、他の部位から切り離されて敷石の上に転がった。


 俺は手を振った。炎を消し止めるためだった。

 この高温の傍に、トゥイーディアを長く置いておく理由がない。


 事実、短い間とはいえ炎の傍に立ったトゥイーディアの頬は、熱気に炙られて赤くなっていた。

 更に言えば、ディセントラとアナベルもまた、熱気には顔を顰めていた。


 ぱた、と敷石の上に落ちた頭を――正確には、頭と一緒くたになっている幾つかの部位を、トゥイーディアは冷静極まる瞳で見下ろした。

 そして視線を翻し、残った部位に目を向ける。


 頭を失った胸から下の胴体――左腕はこっちに残っていた――は、しばし棒立ちになった後、そのまま前のめりにどうと倒れた。


 薄墨色の煙が上がり始めた。

 それは十割が、胴体側から立ち昇る煙だった。


『――ああああああ!』


 レヴナントの絶叫が響いた。

 その声の余りの異様さに、あちこちから悲鳴が上がった。

 

 トゥイーディアが細剣を翻す。

 意図は明らかだった。転がった頭に、再び剣を振り下ろすためだ。


 声が出たということは()()()()()()()


 俺も全く同時に、レヴナント目掛けて炎弾を撃ち込んでいた。


 ぼッ、と、巻き上がるように、地に落ちたレヴナントの半身を炎が包み込む。


 その音に重なって、まるで見当違いの位置に細剣の切先が叩き付けられる、耳に痛い音が上がった。

 敷石に当たって剣先が跳ねる。


 それを追うように、鮮血が敷石に滴った。


「イーディ!!」


 ディセントラとアナベルが同時に叫んだ。


 俺は息が凍ったかとすら思った。



 トゥイーディアの右前腕に、何の前触れもなく穴が穿たれていた。

 透明な杭を打ち込んだかの如く――否、まさしくその通り。


 レヴナントが、トゥイーディアの周囲にある空気を武器として使ったのだ。

 硬化させた空気を杭として打ち込んで、トゥイーディアの剣先の狙いを逸らせた。



 トゥイーディアは、むしろびっくりしたような顔をしていた。


 そして直後に眉を顰める。

 ――絶叫してもおかしくないだけの大怪我をして、彼女が示した反応はそれだけだった。

 声のひとつも上げず、そして驚異的なことに、細剣を取り落としすらしなかった。


 対処は冷静で淡々としていて、俺はトゥイーディアの痛覚がまともに機能しているのか不安になった。

 トゥイーディアは、確かめるように傷口付近に触れて、そして指先に当たった透明な杭を、表情すら変えずに引き抜いたのだ。


 肉が裂ける壮絶な音がして、いっそう血が溢れて敷石を叩く。


 トゥイーディアのドレスに降り掛かった血が、斑点模様に光った。


 からん、と軽い音と共にその杭を放り出し、トゥイーディアは大きく息を吸い込んで。


「ルドベキア、治して」


 本当ならば彼女が傷を負った瞬間に施したかった治癒を、俺はようやく、その声を受けて施すことが出来た。


 この場において、破壊において最大の火力を誇るトゥイーディアに、むざむざ手傷を負わせたままでいる利点がない。

 だからこそ、俺の手も魔力も、トゥイーディアの言葉に応じて動いた。


 大きく一歩でトゥイーディアに近付いて、彼女の前腕に手を翳す。

 ぽぅ、と、白く治癒の光が灯った。


「――ルドベキア」


 アナベルが短く呼んだ。


 意図は明白で、俺はアナベルと眼差しを交換すると同時に、レヴナントを押し包んでいた炎を消し止めた。


 炎を維持しながら治癒を施すことも、俺からすれば可能だ。

 だがどうやら、アナベルは俺が余計なことを考えず、治癒のみに集中することを望んだらしい。


 炎が消し止められた瞬間から、耳を聾する硬質な音が幾度も上がった。

 がいん、がいん、と響くその音は、アナベルが繰り返しレヴナントに――地面に落ちたレヴナントの胸から上の部分に対して、氷の鉄槌を下す音だ。

 空中から水気を抽出してそれを凍り付かせ、刃の形に整えて次々にレヴナント目掛けて落としていく。

 余りにも目まぐるしく氷が降るので、敷石に氷が激突する音は間断なく耳を打った。


 手数も異様だが速度も異様だった。


 あっと言う間に、レヴナントの周囲には砕けた氷の欠片が(うずたか)く積み上がった。

 曇天の、弱々しい陽光にすら、その透明な山が白く光った。


 ――そして、それだけの圧倒的な暴力を受けてなお、レヴナントは徐々に再生しつつあった。


 氷の刃に貫かれる度に叫び、耳障りな声を轟かせながらも、その胸から下の身体の部位が、まるでどこかから何かが集まって来るようにして、再び構築されつつあった。


 その再生の勢いに、レヴナントの薄墨色の体躯に突き刺さったアナベルの氷が押し返されているのだ。


 アナベルが無表情に舌打ちした。

 そして、薄青い髪を揺らしてディセントラを振り返る。


「――ディセントラ。町並みの保護も大事だけれど手伝ってちょうだい」


「任せて」


 ディセントラが即座に応じ、アナベルの真横に進み出た。

 胸の前で手を組んで、まるで敬虔に祈りを捧げるような姿勢――


 直後、アナベルが降らせる氷の驟雨に、ディセントラの魔法が付与された。

 レヴナントに突き刺さった氷刃が、一切の変化変動を拒否してそこに留まる。


 瞬く間に、レヴナントの背中が、まるで針山のような有様になった。


『――あ、ああ、あああああ!』


 レヴナントが叫ぶ。

 だがなお、再生が止まらない。


 氷の針を穿たれてなお、今やレヴナントの足が、膝の辺りまで再生されつつあった。


「……なるほど」


 場違いなまでに冷静に、トゥイーディアが呟いた。

 治癒は終わりつつあり、彼女は細剣の柄を握る手に、力を籠めたり力を抜いたりしていた。


「きみが苦戦するわけね。あれじゃ終わりが見えないし」


 不満を零すかのようにそう言って、トゥイーディアが俺の顔を覗き込んできた。


 いきなり間近に寄ってきた好きな人の顔に、俺は心臓が止まるかと思った。


「一回目に遭遇したときはどうやって斃したの?」


「――〈呪い荒原〉に突っ込んだ」


 ぼそっと答えた俺に、トゥイーディアは飴色の目を瞠った。


「そうだったの。それでよく無事でいられたわね。

 でもまあ、今からあれを〈呪い荒原〉に連れて行くわけにもいかないしねぇ。――時間もないし」


 呟いたトゥイーディアは間違いなく、ここへヘリアンサスが姿を現すまでに、このレヴナントを討伐する気でいる。



 ――俺が一人でこれと同じレヴナントに遭遇したときは、悉く重傷を負った。

 だが今回は――レヴナントに、奇妙なまでに攻撃性が見られないことを差し引いても――、救世主側に有利に事が進んでいる。

 救世主が四人いるからなのか、それとも俺が役立たず過ぎただけなのか。



 治癒が完了し、トゥイーディアが俺から離れた。

 ドレスの裾を翻し、堂々と歩く彼女が声を上げる。


「アナベル、代わるわ」


 なおも氷の驟雨を降らせながら、アナベルが振り返った。

 そして、トゥイーディアの腕が完治していることを確かめた。

 しかしそれでも、愁うように薄紫の目を細める。


「あら、そう? でも――」


「ちょっと考えたのよ」


 トゥイーディアは言って、左の人差し指を振った。


 恐らくは周囲の目を気にして、意識的に余裕があるように振る舞っている。

 今のところ――不自然なまでに――レヴナントが周囲を攻撃する様子を見せないが、軍人でない一般人は、建物の中に避難してなおパニックの寸前だ。


 それを押し留めようとしている。


 建物はディセントラが完璧に保護しているが、その窓や戸口の明り取りから通りを見る人々の目には、恐慌の色が濃い。

 しかも、腰が抜けたのか何なのか、建物の壁にへばり付くようにして座り込んでいる連中も数名見えている。


「さっき私がぶった斬ったとき、こいつ、頭の側から再生したでしょ?」


 トゥイーディアは指を揺らす。


「どう見ても、足側の方が体積は大きかったじゃない? にも関わらず、こいつが頭側から再生したってことは、再生の基点になるのが頭ってことでしょ? ――もしかしたら、右腕とかかも知れないけれど」


 そう言って、トゥイーディアは喚くレヴナントのすぐ傍にまで迫った。


 氷の驟雨はなおも続いているが、ばきばきと凄まじい音を立てるその光景に、勿論のこと彼女は怯まない。


 す、と細剣を振り翳して、彼女はごくごく静かに告げた。


「だから、こいつを取り敢えず細かくしていって、どこまで再生が可能か見てみましょう」


 そして、彼女は細剣を振り下ろした。



 ――細剣が過たずレヴナントの右腕の付け根を捉え、そこを易々と両断した。



『ああああああ!!』


 レヴナントが絶叫する。


 俺は無意識に一歩下がった。

 ただただ怖かった。

 見えない鞭で打擲されたようですらあった。

 膝が笑いそうになるのを必死で堪え、息を嚥下する。


 トゥイーディアは表情ひとつ変えず、切り離したレヴナントの右腕を蹴り飛ばした。

 輪郭すら曖昧な薄墨色の腕が通りを転がり、すぐに薄墨色の煙と化して空中を流れ始める。


 そしてまた、右腕が再生され始めた。


 氷の驟雨は止んでいた。


「――右腕じゃない」


 呟いて、トゥイーディアが再び細剣を振り下ろす。

 まるで断首刑の執行人のようだった。


 今度は頭が飛んだ。


 比喩でなく、斬撃の勢いで、斬り飛ばされた首が毬のように転がったのだ。


 無数の氷棘で突き刺されていた身体の再生が止まった。

 薄墨色の煙が、濃密に渦を巻いて立ち昇る。


 代わって、転がった頭部の下に、頸が、そして肩が再生されようとし始めた。


「――やっぱり頭か」


 むしろ嬉しそうに呟いて、トゥイーディアが足早に、転がった頭を追った。



 通りを上る方向。


 ヘリアンサスが向かって来ているはずの。



『ああああ、どォして――どォしてぇぇぇ』


 転がった頭部が叫んでいる。


 他のレヴナントよりは人に近い、眼窩も鼻梁も口唇も認められる頭が。

 金色の眼が光っている。


 周囲の市民は恐怖に静まり返っている。

 そして俺もまた、恐怖の余りに吐きそうだった。


「……ルドベキア?」


 ディセントラが、俺の様子に気付いたように声を掛けてきた。

 特に言葉にして何かを訊かれたわけではなかったが、俺は首を振った。


 口許を押さえて吐き気を堪える。

 頭の芯が熱を持ったように感じた。


 がんっ! と、細剣の切先が敷石を噛む耳障りな音が聞こえてきた。


 トゥイーディアが、寸分の躊躇いもなく、レヴナントの頭部を剣で貫いたのだ。

 人で言えば耳から耳へ刃を通すように貫かれて、しかしなおレヴナントが叫び続ける。


『どォして! どォして!』


 トゥイーディアは眉を寄せた。

 可憐なドレス姿と、余りにも乖離のある表情だった。


「……うるさいな。頭を幾つに割ったら死んでくれるの?」


 言いながら、トゥイーディアが剣を引き抜く。


 螺旋状に灰色の霧が立ち昇った。


 そこに更にトゥイーディアが斬り付けようとする――そのとき、再生されたレヴナントの右腕が勢いよく振り回された。



 が、トゥイーディアは顔色を変えない。

 その腕は彼女に届かない。



 振り回されたレヴナントの右腕を押し潰すようにして、氷塊が唐突に生成された。


 敷石を陥没させる勢いで、人の頭部よりも一回りは大きな氷塊が落とされる。


 アナベルが、間髪入れずにトゥイーディアの援護をこなしたのだ。


『――あああああ!!』


 右腕を潰されたレヴナントがのたうち、絶叫する。


 そう、のたうつに足るだけの身体が、既に再生されていたのだ。

 左腕と、腰までの胴体。


 再生は素早く無音で、まるで身体の足りない部分をどこかの誰かが描き足しているかのように当然に、行われた。


 氷塊に潰された右腕を、自ら引き千切るようにして、レヴナントが左腕を突いて身を起した。

 金の眼の中で、漆黒の瞳孔が広がっている。


『どォしてみみ見ている!』


 レヴナントが絶叫した。

 その声が曇天に届かんばかりに響いた。

 俺の耳が、わぁん、と鳴った。


 アナベルが氷塊を消失させる。

 消失を見越して足を踏み出し、トゥイーディアが細剣を振った。ドレスの裾に氷の粒が纏い付く。


 そして、初めて、トゥイーディアの一閃をレヴナントが受けた。

 俺がよく使う魔法と同じ、硬化させた空気。


 見えない盾が細剣の刃を阻み、そのとき初めてトゥイーディアが苛立ち以上の怒りを露わにした。


「――このっ、」


 ドレスの裾が翻る。

 トゥイーディアの右足が、詰るように見えない盾を蹴りつけた。

 ばんっ! と、窓硝子を力いっぱいの平手で叩いたような音がして、空気の盾に罅が入った。


 ――さすがのトゥイーディアも、膂力のみでこの芸当は無理だ。

 彼女は、自分が与えた“衝撃を増幅する”よう魔法を使ったのだ。


〈無から有を生み出す〉わけではないから、衝撃の増幅は理論的には可能だろう。

 だがそんな魔法が、どれだけの繊細さを要求される技術なのか、分かるからこそ俺は瞠目した。


 衝撃などという、目で見えない抽象的なものを魔力で捉えるには、どれだけの天性の才能が必要であることか。


 ――同時に、怪訝にも思う。

 いちいちこんな力任せの手段を採らずとも、トゥイーディアには最強の破壊の魔法があるのに、なぜ、と。


 いや、もしかしたら、トゥイーディアも焦っているのかも知れない。

 傍にヘリアンサスがいるという事実に、俺が思う以上に焦燥を抱えているのかも知れない。



 どちらにせよ、吐きそうな程に怯えている俺よりはましだ。



 片足と細剣を力いっぱい不可視の盾に押し付けて、トゥイーディアが吐き出すように囁いた。


「――同じ魔法を使わないで」


 低く押し殺した言葉が終わると同時、遂に空気の盾が砕けた。


 ――砕ける音はまさしく硝子、微かに白く光を弾きながら散る盾の残骸を追うように、トゥイーディアが細剣を閃かせる。

 太刀筋は確かにレヴナントの眉間の辺りを捉えていたが、寸前でレヴナントが()()()()()()

 刃はレヴナントの、人で言えば腰の辺りを抉るに留まった。


 ――いつの間にか、レヴナントの全身が再生されていたのだ。

 しゅるしゅると灰色の糸が空中で織られていくように、再生は素早く音もなく、いとも容易く実行されていた。


 トゥイーディアが痛烈に舌を打った。


 俺は息を吸い込んだ。――このままトゥイーディアだけに前線に立ってもらっているわけにはいかない。


 再生されたばかりの両足が敷石を踏み、レヴナントはぽっかりと口唇を開く。

 溢れた声は悲鳴じみていた。


『どォしてみ見ていいいる! じじ慈悲を、あぁぁぁ与えて――』


「黙れ」


 トゥイーディアが剣を振るう。

 真横に一閃された細剣は、レヴナントに到達する前にしかし、硬質な音と共に阻まれた。


 同瞬、レヴナントの足許で、敷石を巻き込んで爆炎が上がる。

 これは言うまでもなく俺のしたことだ。

 レヴナントが、トゥイーディアの剣から自分を守るために築いたのだろう空気の障壁は、そのまま俺の炎からトゥイーディアを守る盾として機能した。


 レヴナントが、炎を厭うように後退った――いや、後退ろうとして、足が焼失したがために膝を折るようにして倒れた。


 しかし、ぐい、と頭を上げて、金色の眼で俺を見た。


『――じ慈悲を、あぁぁ与えて、やっただろぉぉぅう』


 同じだ。

〈呪い荒原〉の傍で出た人型のレヴナントと、こいつは同じことを言っている。


 俺に向かって、俺を他の誰かと間違えて、意味の通らない戯言を抜かしている。


「……知らない」


 俺は呟いた。

 炎が燃えるちらちらとした閃きが妙に目に突き刺さって、一度強く目を閉じた。


 そしてすぐに目を開いて、俺は歯を食いしばって囁く。


「――知らない。そんな覚えはない」


 レヴナントが敷石に手を突いて、奇妙なまでに人間らしい動きで立ち上がった。


 両足はまたも再生されており、討伐に終わりが見えないことに、トゥイーディアがいよいようんざりしたように溜息を落とした。


 建物内からこちらを覗く人々にも、いっそう色濃く不安が見える。


 立ち上がったレヴナントは、どうやら炎を消そうとしている。

 だが、それをアナベルが徹底的に妨害していた。


 苛立ちを逃がすように息を吐いたトゥイーディアが、ちらりと俺を振り返り、端的に呟いた。


「――ルドベキア、あいつの背中側」


 俺は頷いた。

 表情は仏頂面だったが、戦場においては好悪の感情よりも、言動の妥当性が問われるのは言うに及ばず。


 トゥイーディアの指示は簡単だ。

 このまま、レヴナントが俺たちから離れて行くようでは困るのだ。

 だからこそ、奴の背中側に俺が障壁を作って、レヴナントの動きを妨害しなければならない。


 きぃ、と、硬いものを擦るような音を立てて、レヴナントの背中に触れんばかりの位置に、透明な障壁を築く。

 範囲はごくごく狭くしたが、その気になれば広げることも出来るだろう。


 空気を固めただけあって、目で見るのは難しいが、触れれば当然、その障害物に気付く。



 障壁を築いて一秒、レヴナントは自分が障壁と炎に挟み撃ちされたことに気付いた。



 ――その一瞬、レヴナントの身体が膨れ上がったようにすら感じた。


 しかし恐らく、それは俺の主観の問題だった。

 レヴナントに情動があるはずもないが、俺の中の正体不明の怯懦が、レヴナントの怒りを勝手に想像して作って、そして怯える余りに相手を大きく捉えただけだ。


『――お、おぉぉオマエ、おぉぉぉオマエ』


 レヴナントが声を荒らげた。


『ななん何の、何の、何の――』


 喉が干上がったかに思えるほどには怯んでいたが、俺は必死に表情を取り繕った。

 トゥイーディアの後ろ姿が視界にあるからこそ、俺は辛うじて表情を誤魔化すことが出来た。


 レヴナントが震えている。

 わなわなと震えるその様子は、まさに、怒りに震える人間そのものにも見えた。


 そして唐突に、声を噴き上げるように、レヴナントが絶叫した。



『――バンニン!!』



 その瞬間、トゥイーディアが硬直した。

 彼女にはあるまじきことに、手にした細剣を取り落としそうになったのが見えた。


「は――?」


 トゥイーディアが茫然と声を落とした、その瞬間、レヴナントが地面を蹴った。



 ――ディセントラとアナベルが、その刹那にレヴナントの姿を見失ったように瞬きをしたのに比して、俺とトゥイーディアは頭上を仰いでいた。


 驚くほど素早く、そして信じられない程に高く、レヴナントが地面を蹴って上空へ飛んでいた。


「――あら」


 俺とトゥイーディアの様子からレヴナントの行方を発見して、アナベルが呟いた。

 無表情ゆえに、そして無感動な声音ゆえに、その言葉に込められたのか感心なのか皮肉なのか、それは俄かに分かりかねた。


「レヴナントにしてはすばしっこいし器用なのね」



 レヴナントの動きを目で追えたか追えなかったか、その差は普通に動体視力の差だ。

 ぶっちゃけ、アナベルもディセントラも肉弾戦は向いていない。


 俺は十八年間引き籠もって生活していたとはいえ、吹き矢を仕掛けられたこともある生きるか死ぬかの生活のお陰で、そこそこ五感の鋭い身体を手に入れている。

 トゥイーディアは言うに及ばず騎士だしね。


 それに比べて、アナベルもディセントラも、毎回のことながら近接戦闘よりは中距離あるいは遠距離での戦闘を好む。


 言うまでもなく、俺たちの身体は生まれ直す度ににまっさらなものになっているので、過去にどれだけ鍛えていたとしても、新たな一生で自堕落な生活を送ればそれは無に帰す。逆もまた然り。


 とはいえ毎回、みんなが得意な戦法というのは決まってくるものだ。



 宙を飛んだレヴナントはしかし、長時間は重力に抗っていられないらしく、放物線を描いて落下の軌道を辿った。


 着地点は、俺とトゥイーディアはおろかアナベルとディセントラの頭上までも越え、通りを下る方向に十ヤードほど離れた場所。


 俺たちは揃って踵を返してそれを目で追い、トゥイーディアに関して言えば、レヴナントの着地を待たずにそちらに向かって一歩踏み出していた。


 トゥイーディアの表情は、俺からは見えなかった。

 だが、細剣の柄を握る右手に、関節が白くなるほどの力が込められているのは見えた。



 用済みとなった炎と障壁を消し飛ばす。息を吸い込み、俺もトゥイーディアに続こうとした――


 トゥイーディアが、一転して矢面に立つ位置関係となったディセントラとアナベルを追い越した。

 細剣を構える彼女が更にレヴナントに接近する――



 その瞬間、大量の血液が敷石を叩いた。


 ばしゃん、と、水飛沫めいた音が聞こえたほどだった。



 何が起こったのかは明らかだ。

 前触れのないあの攻撃――空気を凶器としたあの攻撃だ。



 ――トゥイーディアがよろめいた。


 その足が血で滑ったのが見えた。

 咄嗟に、トゥイーディアは細剣を地面に突き立てて、しがみ付くようにして転倒を免れた。



 ――その足許に、血の池が刻々と広がっていく。



 俺の息が止まった。

 心臓すらも一瞬止まった。


 手足の感覚が一気に失せた。


 視界が縮む。

 トゥイーディアしか見えない。


 危機感の余りに、体感時間が異様に引き延ばされた。



 俺が取ることの出来る行動は、その瞬間にただ一つに絞られた。

 即ち、トゥイーディアに駆け寄って彼女の治療を施すこと。

 なぜならそのとき、俺の認識の全てが彼女に集中したから。認識していないもののために行動は起こせない。


 ――だが同時に、その行動は俺の代償に阻まれる。



 それゆえ、俺は矛盾する命令を与えられた絡繰人形のように、その場にただ立ち尽くした。



 ――音が聞こえない。耳の奥で木霊する、心臓の音以外は聞こえない。


 ――トゥイーディアが死んだら俺も死ぬ。

 彼女のいない世界では、俺は息を吸うことすら儘ならない。



 唐突に血に染まったトゥイーディアのドレスが、背中一面に赤黒い染みを広げていく。


 どこが傷口なのかすら、咄嗟には分からないその出血量。

 背中に落ちる髪までが血に染まる。


 トゥイーディアが血を吐いた。

 粘つく赤黒い液体が敷石を叩いて重く跳ねた。



 その瞬間すら、俺は妙にゆっくりと見ている。



 ――俺は動けなかった。



 全ての本能と理性が同時に、「トゥイーディアを治療しろ」と叫んでいる。


 俺の本能は、自己防衛以上に、トゥイーディアを守るべきだと分かっている。

 俺自身の命に係わるほどに深く、自分が彼女を愛していると分かっている。


 そして俺の理性もまた、トゥイーディアがいなくなれば自分が生きていけないことを弁えている。

 俺が彼女に抱く恋情は致死量をとうに突破している。


 身体中の全ての筋肉が、本能と理性の命令を遂行しようとして軋んだ。

 頭の中に火が点いたのではないかと思うほどに、危機感が他の全ての感情を上塗りした。



 ――それでも、俺は動けなかった。



 トゥイーディアへの治療のために、俺が他の全てをかなぐり捨てて動くこと、それによって俺の思慕が彼女に伝わることを、俺の代償が禁じている。


 ――吐きそうになった。

 いや、嘔吐する気力すらもうなかった。



 なんで。

 なんで、なんで、なんで動けない。

 どうして表情すら動かせない。

 どうして手足の震えすら表に出ない。

 どうして俺は呼吸が出来ている。


 どうして、どうして、どうして――



「――ルドベキア!」


 ディセントラが叫んだ。


 同時に、アナベルが俺の腕を掴んだ。

 薄紫の目が激情に燃えていた。


「何してるの!!」


 腕を掴まれ、押されて、ようやっと俺は走り出した。


 二人の声が、音としては聞こえていても、意味として頭に留まらない。

 ただ、自分が走り出している現状、恐らく二人が俺に治療を促したのだな、とぼんやり思った。


 敷石を踏む足に感覚がない。

 視界は妙にふわふわとしていて現実味がない。


 俺の代償が、冷静極まりない動きを、勝手に俺に取らせていた。

 俺は、信じ難いことに、血で滑る足許に注意まで払ってトゥイーディアに近付き、細剣に縋って敷石に膝を突いた彼女の傍に、沈着な顔で膝を突いた。

 生温かい血液が、衣服を通して膝に触れた。



 ――気が狂いそうだった。



 視界の隅で何かが動いている。

 恐らくは、ディセントラかアナベルが、俺とトゥイーディアの安全を確保しようとしているのだ。


 だがもうそれはどうでもいい。

 むしろここで、俺の治癒が間に合わずにトゥイーディアが息絶えるようならば、目の前のこのレヴナントに俺を殺してもらわなければ困る。


 治癒のための白い光が灯った。

 背中の、ちょうど鳩尾の裏側辺りに、その光が凝って治療が始まった。


 そのときになってようやく、俺の耳がまともな機能を取り戻した。


 ――周囲は人声で溢れていた。

 周囲の建物の中に避難したはずの人々が、救世主の一人が重傷を負うに至って、窓から顔を出して口々に何かを叫んでいるのだ。


 同時に、レヴナントを霰のように襲う氷の驟雨が敷石に当たって砕ける音が、間近で絶え間なく聞こえている。

 ばきばきと凄絶な音に、一転して俺は頭の中を揺すられているようにすら感じた。


 そして、別の声。

 きゃらきゃらと耳障りな声。


 ――レヴナントが嗤っている。

 哄笑している。


 トゥイーディアの、――俺の世界で一番大切な、命に代えてもまだ足りないほどに愛おしい、朝のいちばん眩しいところ――その彼女の傷を見て、レヴナントが嗤っている。



 ――その瞬間、このレヴナントに対して覚えていた、俺の恐怖が吹き飛んだ。

 風の前に晒した灯火よりも儚く、ものの見事に消え去った。


 もはやこのレヴナントに、俺の感情を割く余裕はない。



 トゥイーディア。トゥイーディ、イーディ、ディア。



 代償さえなければ、俺は泣いていたかも知れない。

 あるいは涙も出なかっただろうか。


 ただひたすらに、細剣の柄を握る彼女の手に未だに力が籠もっていることを、何かの瑞兆のように胸中で唱え続けた。



 大丈夫、大丈夫、生きている。

 だから魔法が働いている。

 大丈夫、助かる。

 これと同じ傷を負って、俺はまだ生きてここにいる。

 だからこそ、トゥイーディアも助かるはずだ。


 そうでなければならない――



 治癒が開始してどれほどか、もはや時間すら認識の外に置いた俺の耳が、そのとき小さな声を捉えた。


「……きみ、――」


 トゥイーディアの声だった。


 咳き込んで血を吐き、そして大きく息を吸って、トゥイーディアが顔を上げようとしていた。


 細剣に縋って、血の海の中にドレスを広げて膝を折って、意識を保っていることすら不思議になる程の傷を負った彼女が。


 ――顔を上げたトゥイーディアの、その顔貌は蒼白だった。

 当然だ。出血が酷すぎる。

 唇と顎を伝う真っ赤な血が、まるで趣味の悪い紅を施したようにすら見えた。


 その唇が震えて、言葉を作ろうとする。



 そして、信じられないことに、トゥイーディアは仄かに微笑んだ。



 ――俺は言葉を失った。

 同時に、堰を切ったようにトゥイーディアへの愛情が溢れて、耐え難いほどだった。


 彼女を抱き締めたかった。

 せめて手を握りたかった。


 それなのに何も出来ず、俺はただ淡々と、必死に身体を支えるトゥイーディアには触れず、その背中に手を翳しているだけだった。



「――きみ、同じように、怪我したの?」


 トゥイーディアの声が、低く掠れてそう訊いた。

 俺は短く、素っ気なく頷いた。


「……そう」


 そう言って、トゥイーディアは飴色の目を閉じた。

 その瞼が透けるほどに蒼褪めていて、俺は恐怖の余りに喚き散らしたくなった。


 ――トゥイーディア、息をして。


 数回の呼吸を挟んで、トゥイーディアがまた目を開いた。

 そして、苦笑して、呟いた。


「……よく、生きてたね。――きみが、生きてて、ほんと……良かった」


 トゥイーディアが息を吐く。そしてまた吸い込む。


 細剣に縋る左手を柄から離して、地面に突いた。地面というよりももはや、血の中だった。

 掌が赤黒く汚れ、ずるり、と滑り掛けたが、むしろ敷石を掴むようにして彼女は堪えた。

 腕は刹那、自重に耐えかねたかのように折れそうになったが、しかし持ち堪えた。

 代わって、右腕が剣の上で震えた。

 しかしそれも、すぐにトゥイーディアが力を籠め直して持ち直した。


 そして、トゥイーディアは顔を上げた。

 今度は先程よりも力強く微笑んで、彼女は驚異的な精神力を発揮して、悪戯っぽくさえある口調で囁いた。


「……ものすごく痛くて、きみに抱き着いちゃいそうなんだけど、ルドベキア」


 どうぞ。


 内心でそれを待ち構えすらした俺だったが、代償は冷酷な言葉を吐かせた。


「ふざけんな」


「でしょうね」


 ふ、と唇を曲げて、トゥイーディアは飴色の瞳をレヴナントに向けた。



 ――そのときの俺の気持ちを、どう言えばいいだろう。


 腹立たしくさえあった。

 苛立ちにも似ていた――そう、もはや嫉妬にも似た情動が、唐突に湧き上がってきて頭を一杯にした。


 こんな重傷を負ってなお、トゥイーディアがレヴナントの方を見たことへの嫉妬だった。


 延いては、彼女が今考えているであろう、周囲の人々の安全――そうやって気遣われる、全ての人間への嫉妬だった。



 ()()()()、と言いたかった。


 トゥイーディア、俺を見て。

 こっちを向いて。俺が頑張るから。

 代わりに俺が頑張るから、だからこっちを見て、一言頼んで。



 ――レヴナントはなおも嗤っている。

 全身を氷の雨に穿たれてなお、次々に再生していきながら、声を限りに哄笑している。


 かくんかくんと身体を揺らして、全身を薄墨色の煙に巻かれながらも嗤っている。


「……ああ、もう、腹が立つね」


 トゥイーディアが呟いた。


 声がはっきりしてきた。

 治療は終わりつつあり、それを反映して、しっかりとした手付きで細剣の柄を握り直す彼女が、ドレスの袖で口許を拭って、不機嫌に目を細めた。


「きみには借りが二つも出来ちゃったし、もう」


 治癒の白光が、明滅しながら消えていく。


 治療の完了だ。


 俺が立ち上がったことでそれに気付いたのか、トゥイーディアもまた立ち上がり、苛立たしげに己の血で海と化した足許を蹴った。



 レヴナントの、濁った黄金の眼がトゥイーディアを見た。


 きゃらきゃらと耳障りな笑い声が、いっそう高まって響いた。


「――あのね、」


 まるでレヴナントに向かって言い聞かせるようにそう声を落として、トゥイーディアは細剣の切先でレヴナントを指した。


 顔色は蒼白だったが、瞳は激情に燃えていた。



「そんな風に下品に笑いながら、私に怪我をさせないで。

 これでもお父さまとお母さまに、愛され続けて生きてるんだから」



 なおいっそう、声を張り上げるようにして、レヴナントが哄笑した。


 そのとき、レヴナントを襲っていた氷の驟雨がぴたりと止まった。


 同瞬、トゥイーディアが地面を蹴った。

 肉薄する先はレヴナント。薄墨色の化け物目掛けて疾駆する彼女がくるりと身を捩り、嗤い続けるその体躯を、騎士の身ごなしで蹴り飛ばした。

 鳩尾の辺りに蹴りを受け、人ではあり得ぬほどに容易く宙を飛んで転がるレヴナントを、一足飛びに追い掛けて通りを下る。

 三歩でレヴナントに追い着いて、立ち上がろうとするレヴナント目掛けて剣を振り翳し、



 ――べきべきばきばきと、凄絶な音が響いた。

 その音が一体何の音か、俺は咄嗟には判断できなかったが、直後に気付いた。



 ……嘘だろ。



 トゥイーディアが、レヴナントの不可視の攻撃を、己の皮膚に達するに先んじて砕いたのだ。

〈ものの内側に潜り込む〉という固有の力だからこそ出来ることだろう――自分自身の周囲の空気に対して、その魔法を行使している。

 だからこそ、目で見ることの出来ない攻撃を察知して、かつその凶器を先んじて粉砕してのけたのだ。


 空気そのものを得意分野の魔法で消し飛ばしては、彼女とて呼吸に窮することになる。

 だからこそ、感知を固有の力でこなし、粉砕を通常の魔法で――恐らくは、〈動かす〉魔法の応用で――こなしている。



 ……ほんとに、嘘だろ。



『――あ?』


 レヴナントが、かくん、と首を傾げた。

 人であれば瞬きをしていただろうが、眼球こそ有するものの瞼を有さぬレヴナントに、それは不可能な話だった。


『あ? あ? オマエ、おぉぉぉぉオマエ?』


「種が割れればこんなものよ、二度と通じると思わないで」


 俺があれだけ苦しめられ、かつ抗うことも出来ずに人一人死なせたレヴナントの攻撃を、二度目の当たりにしただけで完封し、トゥイーディアは堂々と言い放った。



 ……トゥイーディアが〈呪い荒原〉の傍に赴いていれば、シャロンさんは死なずに済んだのだ。

 俺には出来ないことをやり遂げる、彼女はそういう人だった。


 ――格好いい、本当に。


 そして、涙が出るほど悔しい。



 ばきばきと、断続的に彼女の周囲で硬質な音が響いている。

 硝子を粉々に擂り潰すような音。

 時折そこに、曇天にすら白く映える空気の破片が仄見える。



 レヴナントが、(まろ)ぶようにトゥイーディアの剣を避けた。

 レヴナントにありがちな、人の動きを模倣しようとして失敗したような、強張った動きだった。


 不自然な、不格好な足取りで剣先を掻い潜り、レヴナントはちょうど、俺とトゥイーディアの中間に立って、両手をトゥイーディアに向かって伸ばした。


 まるで命乞いをするように。


『お、おぉぉぉおかしい、ち違う、オマエ、オマエ、オマエは違う』


 トゥイーディアが剣を振るう。


 レヴナントが仰け反って躱す。


 しゅん、と小さな音がして、レヴナントの左手の、肘から先が斬り落とされた。

 ぼとりと足許に落ちる腕が、するすると空中に解けるように、薄墨色の煙と化す。

 そして、左肘から先が、どこからか何かを寄せ集めるようにして再構築されようとする。


『ち違う、どォォして、どォして()(くに)(びと)が、あれが、あれがあれがあれが』


 ぐるんっ、と、唐突にレヴナントの首が回転した。

 人には有り得ない動きで、肩より下は動かさず、ただ首だけを回して、真後ろの俺を見た。


 俺はまさに、トゥイーディアを巻き込まずに炎を熾すタイミングを見計らおうとして、片手を上げたところだった。


『オマエ、おぉぉぉオマエ、そそ外の、そ外のヤクメ――どォして、どォしてマダこんな』


 喚くようにそう言った、その瞬間にレヴナントの動きが止まった。


 同瞬、全く同じように、トゥイーディアも全身の動きを止めた。

 レヴナントと同じ方向を見て絶句した、その飴色の目に、絶望に近い恐怖が映った。



 レヴナントの、口唇と認められる膨らみが開いた。


 濁った黄金の眼の中で、縦に切れ込んだ瞳孔が縮んで点のようになった。その瞳が震えた。



『――お、おおおおお、おおおおおおお』



 声が変わった。

 耳障りな、無遠慮な声ではない、押し殺した敬虔な声。



 確信に近い予感に震えながら、俺は振り返った。


 アナベルとディセントラは既に、硬直したように固まって、僅かに震えながらそちらを見ていた。




 ――黒い外套に身を包んだヘリアンサスが、とうとうこの場所に到着していた。














 ヘリアンサスは無表情だった。



 あらゆる感情が抜け落ちたかのような、完璧なまでに情動の映らない顔で、眼差しで、この場を見ていた。


 視線の向かう先はどうやらレヴナントのようだったが、確かには分からない。

 眼差しの行方すら茫漠として見えるほどに、彫刻のようでさえある顔をしていた。



『――おお、おおおおお』



 レヴナントが、両手をヘリアンサスに向かって伸ばした。

 神々しいものに手を伸べるかのような、我が子の無事を喜ぶような、そんな仕草で。


 だが、それすらも、ヘリアンサスは無感動に眺めていた――いや、見ているのかさえ分からなかった。

 眩いばかりの黄金の目は、小動(こゆるぎ)もせずにただ顔貌の中にあった。


『おお、おお、そうか、そぉぉぉぉうか』


 歓喜すら感じさせる声で、レヴナントは低くそう言った。

 かくん、かくん、と、何度も何度も頷いた。


 一歩踏み出す。

 ヘリアンサスの方へ。



 輪郭すら曖昧な薄墨色の化け物が、俺たちを何度も殺してきた人の姿の化け物の方へ、感激に打ち震えながら足を踏み出した。



『――そぉうか、ヤクメは、ヤクメを、はは果たしてい、いいるのか』



 は?


 軽い混乱を覚えて、俺は眉を寄せた。


 ――役目。

 レヴナントが俺を見て、まるで押し付けるかのように喚くとき、多く聞いてきた言葉。


 それをどうしてヘリアンサスに向かって言う?


 まさか、俺とヘリアンサスを取り違えていたのか?

 魔王だから?

 本来魔王であるはずのヘリアンサスに向かって言うべき言葉を、期せずして魔王となった俺に向かって言っていた?


 ――そう考えれば、筋は通るが。



 ヘリアンサスは動かない。


 俺たちより数ヤード後方に立ったまま、ぴくりとも動かない。

 応じもせず、拒みもしない。



 かくり、と、強張った動きでまた一歩踏み出して、レヴナントはなおも、低く歓喜に満ちた声を上げる。



『ここここんなと所に。――あぁぁぁ、だだが、そそそぉうか、ももど戻ったのか』



 ヘリアンサスが瞬きした。


 そして、明確に視線をレヴナントに向けた。


 しばらく薄墨色の人影の形をした化け物を眺めてから、ヘリアンサスがすっと右手を上げた。

 外套の袖を揺らして、ヘリアンサスは真っ直ぐに、アナベルを指差した。


 そして、口を開いた。



「――“ミストレス”」



 ぴた、と、レヴナントが動きを止めた。

 そして、ぐるんっ、と首を回してアナベルを見た。



 唐突な事態に、アナベルはむしろ訝しげにしている。



 それを見て、ヘリアンサスは相も変らぬ無表情でトゥイーディアを見た。

 黄金の目に掛かる純白の額髪がさらりと揺れた。



「――ご令嬢。あれ、斃さないといけないんでしょう?」



 いつもよりも幾許か低い声でそう言って、ヘリアンサスは陰惨に微笑んだ。




「早くしないと、あの子、殺されちゃうよ?」



















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