57◆ 礼節と心遣いと
さて、ガルシアまでは徒歩だとそこそこ時間が掛かる。
この廃村は川沿いのガルシア側にあるために、海が近いゆえに川幅の広い流れを渡る必要がないのが救いだが。
とはいえ、真剣に恥ずかしいと思っているらしいトゥイーディアを負ぶってご満悦の様子のカルディオスは、その距離をものとも思っていないらしい。
俺ももうそろそろ眩暈が限界だったので、無心で馬に揺られるのみ。
後ろを歩く七人の心境は地獄だっただろうが。
生来が多弁な性質のカルディオスは、洞穴内での俺たちの様子を聞きたがった。
無心に片脚を突っ込みつつも俺が経緯を説明してやると、気持ちいいくらいの反応を返してくれる。
人型のレヴナントを躱したところで十体以上のレヴナントに遭遇した話をしたときには、無遠慮に笑われていらっとしたけどな。
「えっ、マジ? そんなことある?」
と、背中のトゥイーディアに気を遣いつつも肩を震わせるカルディオスを、俺は思わず馬上から睨んだ。
「おまえ、俺があそこで死んでたら今ごろ泣いてただろ」
「泣くくらいじゃ済ませねーよ」
あはは、と笑いながら、カルディオスはあっさりと。
「俺もみんなもぶち切れて、多分今頃ガルシアが壊滅してたんじゃねーの。少なくともこの連中の命はねーよな」
この連中、と顎で示された背後の七人は、いよいよ顔面蒼白。
俺は溜息。
「事ある毎に怖がらせんなよ……。第一、救世主がガルシアを壊滅させてどうすんだ」
そーだけどさー、と、カルディオスは案外に真面目な顔だった。
「でも、だってさ。おまえがいないとつまんねーじゃん?」
思わず、俺はぐっときた。
カル、こいつ……いいやつ……。
――辺りが完全に夜陰に沈んでしばらく。
ようやくガルシアが目の前に見えたところで、カルディオスがトゥイーディアを下ろした。
道中、彼女が一切喋らなかったので、てっきり寝ていたのかと思っていたが、そんなことはなかった。
顔を見て分かったが、どうやら消え入りたいと思いながらじっと耐えていたらしい。
トゥイーディアの表情を見たカルディオスが珍しく動揺しつつ、「ごめんね?」とその頭を撫でるところを目の当たりにして、ララがまたしても顔を覆っていた。
これからどういう懲戒を受けるか分かんないのに、図太いのか何なのか、元気だな。
――と、呑気にそんなことを思いつつ、俺も何となく馬から降りて歩き出した。
ずっとゆっくりと歩かされて来た馬は、性格なのか何なのか、ちょっと苛立っているようにも見えた。
そうやってガルシアの南側の城門前まで到着した俺は、そこで思わず目を疑った。
そこに、俺が貸した馬と一緒に佇むルインを発見したがためである。
ガルシアの町並みに灯る明かりのお陰で、かなり手前から人影は見えていたが、それがルインだなんて思いもしていなかった。
「――ルイン?」
愕然と呼ぶと同時、まだちょっと距離があったにも関わらず、こっちに向かって走って来るルイン。
「弟くん、忠実だなー」
カルディオスが半笑いでそう言ったが、俺はびっくりし過ぎてそれどころではない。
息せき切って目の前まで来たルインを、思わず上から下まで眺めて、
「おまえ何してんの……? ずっとあそこにいたの……?」
驚き余って囁き声で尋ねると、ルインもちょっと震え声で応じた。
「はい。兄さんに何かあったのかと思って……」
「え、なんで……?」
顔を見合わせる俺たち。
昼間に俺宛てに食糧を届けに来たルインの顔を覚えていたのか、ティリーたちも、「あれは誰だろう」といった顔ながらも、あからさまに不審そうな様子はない。
ルインは、声だけでなく全身をちょっと震わせていた。
「あの後、コリウスさまが只ならぬご様子で戻っていらっしゃるのを見たので……」
「えっ」
「えっ」
「えっ」
俺とカルディオス、トゥイーディアの声が重なった。
特にカルディオスは目をきらんっと輝かせて、ルインに一歩詰め寄った。
「コリウスが? えっ、ただならぬ様子? マジ? ちょっと弟くん、そこ詳しく」
「ちょっとカル……」
窘めつつも、トゥイーディアも口許を隠して笑っている。
いつもあんなにクールにスカした態度を取っていながら、いざ俺とトゥイーディアが地下に閉じ込められたとなれば血相変えたらしいコリウスに、物珍しさも相俟って笑ってしまったらしい。
俺はといえば、思わず口に拳を当てて、罪悪感と申し訳なさに苦い顔。
コリウスの奴、もしかして、俺がトラウマを抉られただろうことを相当に心配してくれているのでは。
ルインはルインで今にも泣きそう。
傷は治したとはいえ、俺の軍服は未だに血塗れで、かつ穴が開いてたり焦げてたりするからね。
おろおろしたその様子に、俺は思わずルインの肩をぽんぽんと叩いた。
眩暈と寒気はひどいが、こいつの前では取り繕わねば。
「ルイン、落ち着け、大丈夫だ。俺は元気。
――あと、万が一俺が死んでも、おまえの身元は多分カル辺りが引き受けてくれるから」
後半は冗談で言った台詞だったが、ルインはいっそう泣きそうな顔をした。
「冗談でも仰らないでください!」
滅多にない強い口調に、俺は思わず身を竦めて、
「はい、すみません……」
と。
カルディオスはカルディオスで、「俺を巻き込むなよー」などとふざけた様子で言っている。
動揺しまくっているルインを回収してガルシア市街に入った俺たちは、なおも俺を心配し続けるルインを宥めすかして寮へと帰らせた。
俺が当初借り受けていた馬の手綱をカルディオスが握って、そのまま砦へ向かう。
その段になるとさすがに、(ララを含めた)懲戒処分待ちの七人の足取りが鉛の如くに重くなった。
特にティリーとウェルスの足取りは重い。二人とも、今の頭の中は、「自分の今後」「家名に付けた傷」みたいなので埋まっているんだろう。
マジで、もう、しっかり反省しろ。
砦の入り口で、救世主が三人纏めて帰って来たというので、そこにいた隊員たちがちょっとした騒ぎになった。
馬を厩の方へ戻し、愛想よくその騒ぎを捌くカルディオスとトゥイーディアを先頭に立て、宿舎の方へ足を進める。
そこで、騒ぎを聞きつけて文字通りこちらへ飛んで来たらしいコリウスと鉢合わせた。
只ならぬ様子というのは本当だった。
滅多になく憂いの色の強い顔をしたコリウスに、カルディオスが思わずといった様子でにやにやする。
一方の俺は無言でコリウスを拝んだ。
心配かけてごめん、の意味である。
「コリーおまえ、素早いじゃん。役所の方からこっちまで飛んで来たの?」
カルディオスが揶揄うようにそう言ったが、コリウスは返答せずにつかつかとこっちに歩み寄って来て、全く無言で俺を抱き締めた。
カルディオスが唖然としたのが分かった。
再会のときとやむを得ないときを除いて、コリウスがこれほど親密な態度を取るのは珍しい。
トゥイーディアも驚いた様子だったが、どっちかというとコリウスよりも俺を見ていた。
「――ルドベキア、大丈夫か」
低い声でコリウスが言った。
俺は頷いた。
頷いた拍子に、〈呪い荒原〉の傍でのことが脳裏に甦って歯を食いしばる。
息を吐いて、声を出す。
声は辛うじて震えなかった。
「大丈夫、大丈夫だ。今度は大丈夫――」
コリウスが俺を離して、一歩下がって俺の格好をまじまじと見た。
夜とはいえ、灯された明かりのために視界に不自由はない。
そして、わざとらしく濃紫の目を細めた。
「――また重傷か」
「前に比べたら、全然」
そう応じて、俺は右手をコリウスに差し出した。
「ありがと、コリウス」
コリウスが俺の手を握り返して、こいつらしい素っ気なさで頷いた。
そして後続へ目を転じる。
こいつはこいつで、今回の事の流れは業腹なのか、ティリーたちには一瞥もくれなかった。
カルディオスは神妙な顔をしていた。
今の俺とコリウスの遣り取りで、東の国境で俺が遭遇した事態が、自分の想像以上に俺を痛め付けていたと悟ったらしい。
ちょっと決まり悪そうでさえある。
そんなカルディオスには視線のみを留めて、コリウスは見事な無表情でトゥイーディアを見た。
「トゥイーディア、負傷は」
「大丈夫よ」
明瞭にそう応じて、トゥイーディアはにこっと微笑んだ。
「でも、お腹は空いたかな」
「そうか、では中へ」
と、まるでその場を取り仕切るのは自分であるかのようにそう言って、コリウスが半身を翻した。
その動作で、俺たちの周囲に集まりつつあった人垣が割れた。
「僕が指揮官の方々に今回のことを知らせよう。どちらにせよ本人たちへの喚問があるとは思うが、今すぐにというわけではないだろう。――とにかく今は何も気にせず食事をして休むように」
はい、と折り目正しく応じたトゥイーディアとカルディオスの声がぴたりと揃った。
本人たち――つまりはティリーたちは、今度こそ終わったというように項垂れ、各々自分の爪先を見ている。
歩き出しつつ俺はコリウスの袖を引いて、周囲には聞こえないように小声で、彼の耳許で囁いた。
「――喚問。俺も行きたい」
コリウスはちょっと眉を上げた。
一瞬俺を振り返って、しかしすぐに平坦な声で答える。
「そのように伝えよう」
俺にだけ聞こえるような声でそう言ってから、「そういえば」とコリウスは声をやや大きくした。
「――大広間には既にディセントラがいるから、そのつもりで」
げ、と呻いた俺とトゥイーディアの声が重なった。
あのディセントラのことだから、大泣きどころでは済まなそうな……。
現実逃避ぎみに後ろを振り返った俺は、その場に立ち尽くすティリーたちを見た。
ちょっと躊躇ったものの、声を掛ける。
「――別に、餓死しろって命令が出るまでは、食事くらいはしていいんじゃないのか」
カルディオスが思いっ切り溜息を吐いた。
一方のトゥイーディアは俺の言ったことには全く注意を払っておらず、そのときまさに宿舎から走り出て来た少女に向かって叫んでいた。
「――メリア!」
思わず俺も正面に向き直った。
なお、罰を待つ七人は――そろそろとした歩調ではあったものの――宿舎に向かって足を進めることにした模様。
宿舎から走り出て来たのは、麦藁色の髪に若草色の目をした、使用人の格好の少女だった。
俺も知っている、トゥイーディアの侍女のメリアさんだ。
メリアさんはトゥイーディアを見るなり、エプロンドレスの裾を摘まんで走り寄って来た。
「お嬢さま! いっかなお戻りにならないので、わたくし――」
「メリア、お手紙は?」
メリアさんに駆け寄ったトゥイーディアが、彼女の両手を握って言下に尋ねた。
トゥイーディアの顔を見て、メリアさんは言おうとしていた台詞全てを呑み込んだ様子。
少し唇を噛んだ後、物柔らかに微笑んだ。
「――届いてございますよ」
「どこに? 見せて。読むわ」
珍しいくらいに前のめりになるトゥイーディアに、メリアさんはゆるゆると首を振る。
「ええ。ですが、お読みになるのはご就寝前になさいませ」
「じゃあ、今から寝に行くわ」
子供じみて宣言したトゥイーディアに、メリアさんは眉尻を下げた。
「まずはお食事になさいませ。出来れば湯浴みもいたしましょうね」
トゥイーディアがむすっとしたのが分かったが、数秒ののち、彼女はぼそりと呟いた。
「……分かった」
そこまでの遣り取りを終えて、メリアさんが少し慌てた様子で俺たちに礼を取る。
それに対して、コリウスが構わないというように尊大に手を振った。
そうしながらも疑問は持った様子で、コリウスは眉根を寄せて一言。
「……手紙――?」
「多分、お父さんからの手紙だろ」
カルディオスが呟いた。
翡翠色の目は少し細められて、そこに浮かぶ感情は複雑だった。
親子の情を理解できない後ろめたさのようにも見えるし、それを理解するトゥイーディアへの羨望のようにも見える。
あるいは逆に、トゥイーディアが親子の情を重んじていることを責めているようにも見えた。
「婚約発表のために戻って来たときも、手紙がまだ届かないって騒いでたし……」
「そうなのか」
コリウスは無関心に呟いて、今度こそ宿舎の中に向かって歩を進めた。
◆◆◆
宿舎の大広間にて、やっぱりディセントラは泣いた。
どれだけ心配したかを切々と語りながらぽろぽろと涙を零すので、俺とトゥイーディアはただひたすらに平身低頭し、その感情の嵐が収まるのを待つよりなかった。
昔から俺たちは、ディセントラが泣くのに弱い。
一旦役所の方へ行き、指揮官の方々に今日の顛末を話して来たらしいコリウスは、戻って来ても徹底的に無関心で、長椅子に腰掛けて優雅に新聞を読んでいる。
とはいえ俺たちからそんなに離れて行かないのは、まだ仲間意識があるからだろう。
カルディオスはけらけら笑いながらディセントラの頭を撫でたり涙を拭ってやったりしており、美男美女の取り合わせとあって大変絵になる光景を周囲に提供していた。
「おいおい、そんなに泣くなよ、ディセントラ。泣いた程度で台無しになるよーな顔でもねーけどさ、そんなに泣いてると目が溶けちゃうよ?」
などと嘯くカルディオス。
気障にしか聞こえないはずの台詞が、なぜだかめちゃくちゃ謙虚にさえ聞こえる謎。
「イーディが戻って来ないから、……もうどうなったのかと……っ!」
しゃくり上げるディセントラ。
こいつはあれだな、泣いてても稀代の美貌のお陰で威厳を損なわないな。
ていうかマジで、淡紅色の瞳が溶けていきそうな勢いで涙を流している。
ディセントラに対して、テーブルを挟んで正面の位置に座る(というか、そこに座らされた)俺とトゥイーディアは、そろそろ限界を迎えつつある空腹に苦悶の表情。
加えて俺は眩暈と寒気もひどい。
なお、隣とはいえ二人の距離は約二ヤード。
――別に、ディセントラのために食事を待たされているのではない。
食事を準備する時間を利用して、ディセントラが泣いているだけだ。
「あの……ディセントラ。トリー、ごめんね?」
トゥイーディアが、「精一杯繕いました」と言わんばかりの愛想を顔に貼り付けて首を傾げる。
ディセントラはふるふると首を振り(その際に、どういう手品か知らないが、極めて美しく涙を弾けさせ)、
「なんで謝るの。無事で良かった……っ!」
そう、これである。
ディセントラは俺たちを責めていない。
いや、責められる謂われもないから、責められたらそこで喧嘩に持っていけるんだけど。
ただひたすらに、俺たちの無事を喜び、かつ俺たちのことを思って泣いてくれているのである。
その事実がまた申し訳ないというか何というか……。
メリアさんはトゥイーディアから離れて、恐らく今は彼女の部屋の用意をしているのか何なのか。
メリアさんが離れて行った瞬間の、「盾を失った」と言わんばかりのトゥイーディアの表情はなかなかに見ものだった。
――結局、ディセントラの号泣が収まったのは、俺たちの前に食事が運ばれてきたタイミングだった。
涙を拭うディセントラの前に膳を運んだ女性が、見当違いに俺たちを睨んできた。
が、それに腹が立つほどディセントラとの付き合いは浅くない。
こいつは何というか、泣いてると周囲の庇護欲を掻き立てるんだよ……。
普段の女王様気質はどこにいったんだよ……。
「トリー、だいじょーぶ?」
カルディオスがそんなことを言いつつ、ディセントラの赤金色の髪を撫でる。
救世主五人に対して周囲の隊員は少し距離を取って座っていたが、ばっちり注目は浴びている。
そのために、カルディオスとディセントラのその様子に、抑えた黄色い悲鳴があちこちで上がった。
おい、元気だな、皆さん。
連日の任務で疲れ果ててるんじゃないのかよ。
そんなことをげんなりして思う。
トゥイーディアもどうやら感想を同じくしたのか、眇めた飴色の目を冷めた雰囲気で周囲に向けていた。
が、唇は微妙に笑顔を作っていて、反射のように象られるその救世主としての仮面が、この長年で彼女に如何に深く染み付いているのかを感じさせる。
だが少なくとも、今は目前に食事があった。
俺の眩暈は酷かったが、原因の半ばは失血だろうし、失血にはよく食べることが重要だ。
俺の前にも膳が運ばれた。
運んで来てくれた女性に、「ありがとうございます」と述べた自分の声をどこか遠くに感じる。
ふわ、と鼻腔を食事の匂いが満たして、俺は思わずお腹を押さえた。
思った以上に腹が減っていた。
コリウスは俺たちとの距離を詰めて、俺の、トゥイーディアに対して反対隣に座り直していた。
傍に新聞を置いている。
何か言いたげに俺を見て、しかしすぐに食事の方へ視線を戻した。
「コリウス?」
語尾を上げて呼び掛けると、曖昧に肩を竦める。
なんだ、こいつらしくない。
「いや……」
五人全員に膳が運ばれると、俺たちは両手を組んで食前の挨拶を述べ、常より数段勢いよくカトラリーを手に取った。
料理のメインはどう見ても、鳥の丸焼きを切り分けたものだった。
一人一人に相当大きく切り分けてくれていて、庶民の食卓であればこの肉ひとつが二人分の食事に相当するだろうと思われた。
たっぷりとソースが掛けられていて柔らかい。
これを最初にがっつくと腹痛に襲われそうだったので、俺は魚介のスープから手を付けた。美味い。
無言で食事に没頭する俺。
トゥイーディアも相当空腹だったのか、結構な勢いでがっついている。
他の三人は食べながらも俺たちを見守ってくれている感じ。
グラスには林檎の果実水が注がれていて、俺は一気にそれを半分ほど飲んだ。
甘い。美味しい。生き返る。
因みにカルディオスは、俺がグラスに手を掛けると同時に自分のグラスの中身を口に含んで、それが酒ではないことを確認していた。
鳥の丸焼きを切り分けて口に運ぶ。
口の中で溶けるほど柔らかい肉だった。
俺が余りにも無言でがっつくので、正面に座ったカルディオスが真顔で、「喉に詰めないように」と忠告したくらいだった。
――頭がちょっとずつはっきりしてきた。
人心地が着いて、眩暈と悪寒が少し収まった。
食事を始めて数分は、俺と並ぶ勢いでがっついていたトゥイーディアだったが、さすがに俺よりも早く食事の速度を落とした。
まあそこは、それぞれの胃袋の大きさが違うからね。
肉汁が跳ねた指先を舐めて、ふう、と息を落とすトゥイーディア。果実水をごくごくと飲んで一息。
そんな彼女を後目に食べ続けた俺は、傍に人が立ったとき、てっきり果実水を注ぎ足しに来てくれた人かと思った。
事実、振り返って「ありがとうございます」と言い掛けた。
が、振り返る寸前に見えたカルディオスの顔があからさまに不機嫌だったので、寸でのところで言葉は舌の上に留まった。
そして実際に振り返ってみれば、そこにいたのはティリーだった。
あっぶねぇ。公爵令嬢を使用人さんと勘違いするところだった。
内心でそんなことを思いつつ、俺は、口の中のものをごくんと呑み込んで首を傾げた。
なお、トゥイーディアは黙々と食事を続けている。
カルディオスとコリウスはそれなりに剣呑な顔で食事の手を止めた。
ディセントラは元より、号泣の後のためか食事はいつもに比べてもゆっくりしていた。
ティリーは洞穴脱出直後と変わらず、半ばを高く結い上げた赤い髪は解れたまま、軍服は汚れたままだった。
何やら思い詰めた顔で俺を見てくるので、俺は、「もしかしてもう処分が言い渡されたの?」と訊きそうになったくらいだ。
が、喚問もまだだし、そんなわけはない。
俺は瞬きして、肉汁が跳ねた親指を舐め、それから尋ねた。
「――なんかあった?」
ティリーは表情を取り繕おうとしていたものの、割とびびっていた。
俺にびびっているのではなくて、カルディオスとコリウスにびびっている。
まあ、二人とも氷点下の眼差しでティリーを見ているし、目の前でウェルスをぶん殴ったカルディオスの暴挙を見ている彼女からすれば、今にもカルディオスがテーブルを踏み越えて自分を殴りに来るかも知れないとも思えるんだろう。
で、なんでこいつはここに立ってんだ?
思いっ切り訝しげに、まじまじとティリーを観察する。
別に怪我をしている様子もないし、俺の治療を頼ってきたわけではなさそう。
……いや、待てよ。
――もしかして、喚問で自分を庇ってくれと言いに来た?
その可能性に思い当たり、俺は思わず鼻に皺を寄せる。
ティリーは割と頑張った方だし、一応喚問では罰が軽くなるように庇ってやるつもりではなるけれども、こいつ自身がそれを俺に迫ってくるようなら話は別だ。
俺の胡乱な目を見てから、ティリーが息を吸い込んだ。緊張に震える息だった。
「あの――」
「うん」
と、俺。
トゥイーディアがちらっと俺を見た。
それが、「もうちょっと優しい声を出したら?」という意味なのか、「この人のせいで酷い目に遭ったんだから、もうちょっと冷たくしたら?」という意味なのかは分からない。
いや、トゥイーディアの性格からして、後者は有り得ないけど。
――もしくは、トゥイーディアもティリーの直訴を警戒したのかも知れない。
彼女は潔癖で、それゆえに法秩序が、自分と同じように潔癖に、公平に機能することを好む。
司法取引なんかは鳥肌が立つほど嫌いだと言っていたこともある。
かつて密輸団の本拠地において、短い間とはいえ行動を共にしたこともあるフィルに対して、「事情は判事に伝えろ」と言い放ったこともあるトゥイーディアだが、その言動の根幹には、取りも直さず法律とその執行者に対する信頼があるのだ。
トゥイーディアが規律を重視するのは、規律というものが元来、先人が手探りで作った「正しさ」の結晶たるべきものだからだろう。
彼女の性格からすれば、「正しさ」が言語化されているのは歓迎すべきことなのだ。
俺の背筋に、ぴりっと電流が走った気がした。
待てよ、これ……もしもこの場でティリーが、喚問の場での俺の口利きを依頼してきた場合、それに対する返答如何で、もしかしたらトゥイーディアの中の俺の評価を底上げすることが出来るのでは。
――よし。
間違えられない。一言たりとも迂闊には口に出来ない。
自分の中の正義感の全てを注いで返答しなければ。
見ててくれトゥイーディア。
――と、内心では勢い込む俺の感情は、例によって顔には出ない。
俺はただ不思議そうにティリーを見据える。
ティリーはそんな俺の視線の先で、もう一度大きく息を吸って、
「――あの、今日は――」
「うん」
と、また俺。
さっさと用件を言え。
内心で身構える。
頭の回転は鈍い俺だけど、今はそんなことを言っていられない。
何を言われようと上手く切り返して、トゥイーディアを感心させたい。
ティリーは一瞬視線を落とし、それから俺と目を合わせた。
鳶色の目に、どことなくきょとんとした感じの俺が映っていた。
「――今日は、ありがとう……っ!」
口を開いたティリーのその言葉に、俺は真顔で首を捻った。
身構え過ぎていたせいで、予想と違う一言に咄嗟に対応できない。
「……んっ?」
思わず眉を寄せると、慌てた様子でティリーが言い添えた。
「その、助けてくれて!」
俺は瞬きした。
そして、予想と懸け離れた台詞に若干茫然としつつも、取り敢えず頷く。
「えーっと、うん」
ぺらぺらに薄い俺の反応に、てっきりちょっとは怒るかと思いきや、ティリーはその場で頭を下げた。
公爵令嬢らしい、礼節に適った深いお辞儀だった。
「――そして、申し訳ありませんでした」
頭を下げたままそう言って、ティリーは顔を上げた。
俺はちょっとぽかんとしていた。
それが、婉曲さの欠片もなく口から飛び出した。
「……えっ、それを言いに来たの?」
不躾な俺の言葉にも、ティリーは眉を顰めもしなかった。
今日のことが結構なお灸になっているらしい。
「ええ、そうです」
頷いてそう言って、ティリーは少しばかりの戸惑い顔。
「――けれど、お食事の邪魔をしてしまったようね」
俺は自分の手許を一瞥してから、軽く頷いた。
「ああ、そうだね。けど、別にいいよ」
トゥイーディアが、またちらりと俺を見た。
カルディオスがそんなトゥイーディアを見ていた。
構わないとは言ったが、そこから会話を発展させるような仲でもないため、ティリーはもう一度お辞儀をして、足早に立ち去っていた。
そのときになって、大広間がちょっとざわざわした。
高飛車で有名なティリーが頭を下げるなんて――みたいな内容の囁き声が聞こえてきた。
やっぱりあいつ、そういう人物として有名だったのね。
俺は食事に向き直りつつ、なおも首を捻っていた。
「――なに言ってんだあいつ。
救世主なんだから助けるに決まってんだろ……」
呟くと、隣でコリウスが大きく息を吐くのが聞こえてきた。
ん? と思ってそっちを見た俺だったが、直後にカルディオスが口を開いたため、今度はそっちに顔を向けた。
「……他の奴は礼も謝罪もないのに、意外だなー、あいつ」
ティリーが去った方向を見て、行儀悪く頬杖を突くカルディオス。
「お行儀悪いよ」とトゥイーディアが静かに言ったが、どこからどう見ても絵になるのが憎い。
緩く跳ねた暗褐色の髪の下、絶世の美貌を飾る翡翠色の目が、面白そうに細められていた。
「――押せば堕ちそうだし、あいつ結構役に立つかも」
ぼそ、と呟いたカルディオスに、俺は思わず咽そうになった。
マジか、こいつ。
さっきまであんなに怒ってたのに。
今度ティリーに会ったら、毒牙に気を付けるように言っといた方がいいかも知れない。
俺とコリウスとディセントラは、思いっ切りドン引いた目でカルディオスを見たが、トゥイーディアだけはなぜかカルディオスの声が聞こえていないかのように食事を続けていた。
潔癖な彼女のことだから、窘めてもおかしくないのに。
さすがのトゥイーディアも、遂にカルディオスの女癖の悪さには愛想を尽かしたのかも知れない。
俺たちの、害虫を見るが如き目に気付いて、カルディオスがぴしっと姿勢を正してわたわたと手を振った。
「違うっ、ごめんっ、それはさすがに勘違いっ!」
「いや何が?」
と、ディセントラが、ついさっきまで号泣していたとは思えないほど冷たい声を出した。
ここにアナベルがいなくて良かったな。
もしあいつがいたら、聞くに堪えない暴言を吐いていたことだろう。
つくづくカルディオスに呆れつつ、俺が食事を再開したタイミングで、す、と隣のコリウスが新聞を差し出してきた。
俺はきょとんと目を瞠る。
俺はそんなに世相に関心があるわけではないので――どう考えても、平均年齢二十前後で終わってきた、今までの人生の弊害である――、わざわざ食事中に新聞を読む趣味はない。
が、せっかく出されたものなので、半ば反射的に受け取っておく。
「ほんとに、カルディオス、あんたって人は」
「いや別に、一時の楽しみを追求すんのは悪くねーじゃん! 趣味じゃん!」
「趣味が恋愛で特技が女泣かせってどうなのよ」
「あっちが勝手に俺に熱上げちゃうだけだよ? 俺、声掛ける以上のことは女の子の同意なしにしたりしないよ?」
「――急所蹴るわよ」
「やめて!!」
馬鹿な遣り取りをしているカルディオスとディセントラを後目に、俺は渡された新聞に目を落とした。
そこで違和感。
この新聞、元から付いていた折り目とは違う畳まれ方をしている。
まるで、特定の記事を前に出そうとしたみたいだ。
――特定の記事。
コリウスが俺に読ませたい記事でもあったのかと、俺は果実水を飲みつつ、活字を流し読みして記事を追っていく。
レヴナントの被害について、レヴナントの被害について、世双珠のお値段の相場について、アトーレのどこかで起こった汽車の脱線について、――それから。
俺は思わずグラスを勢いよくテーブルに置き直し、両手で新聞を掴んで目を近付けた。
そこそこ大きなスペースを取って囲われた記事の見出しが見えたのだ。
『世双珠流通最大手ダフレン社、新タナ事業ニテ浮民救済ス』
急に真剣に新聞を読み出した俺に、隣のトゥイーディアから訝しそうな視線が投げられたが、「どうしたの?」と訊いてくれるような関係は築いてこられなかった。
なのでトゥイーディアは、そのまま淡々と食事を続行。
カルディオスとディセントラはなおも、じゃれ合いじみた口喧嘩を続けている。
『アルフレッド・ダフレン社長語ル、新事業ニテ東ノ浮民ニ教育施ス方針ト相成リ。
訓練所ニテ商才ヲ試験ス。或イハ商人ニ弟子入リ奨励ス。
費用如何ニ賄ウトノ疑問尤モ、社長語ルニ費用ハ同社ノ貸付也。浮民世ニ出テ生計立テルニ、幾許カノ利息付シテ費用回収スル算段ト。
浮民職ニ就クニ当タリ、社長是ヲ後見ス。
浮民、教育ノ為移動要ス、汽車ハ同社ノ世双珠仕入ニ同一トスル方針也ト。
此ノ事業ニ他ノ会社参画奨励ス。此ノ事業救世主ノ計ライ也。
同社ノ納税滞納記憶ニ新シク、世双珠流通最大手ダフレン貿易、此ノ事業ニテ一層強固ナ立場欲スト見ラレ――』
俺は顔を上げた。コリウスは素知らぬ顔で食事を続けている。
――俺が自分のことを、躊躇いなく救世主だと言い切ったのを聞いて、それで安心したからこそ、この新聞を見せてくれたんだろう。
コリウスは多分、ずっと俺のことを案じてくれていた。
俺が元気になってから、こいつと顔を合わせることは殆どなかった。
だからさっきも、珍しいくらいに直情的に、俺を心配してくれたのだ。
俺が立ち直っているのかどうか、こいつは測りかねていたんだろう。
ダフレン社長は約束を守った。
それが分かるように、こうして広告を打ってくれた。
あの人たちは――救済の手が届かないところもあるだろうけれども――、それでも一部は救われるだろう。
破滅を待つ、あの緩慢な恐怖から逃げ出す術を得ることが出来るだろう。
色々と込み上げてくるものがあったが、俺は取り敢えず、一番手近にいる人間にそれを伝えることにした。
「――コリウス」
呼び掛けると、コリウスがちらりと横目で俺を見た。
無表情ではあったものの、濃紫の目の奥に安堵と気遣いがあった。
「なんだ」
短く答えたコリウスに、俺はにっこりと笑い掛けた。
「ありがとう」
コリウスは俺から目を逸らした。
それが照れたゆえのことだと分かる程度には、俺はこいつとの付き合いが長い。
「――なんのことだ?」
しらばっくれるコリウスに、俺がいっそうにやにやしながら絡みに行こうとしたときだった。
大広間が水を打ったように静まり返った。
それまで聞こえていたざわめきが、唐突に全て消え去った。
同時に、トゥイーディアが立ち上がった。
彼女が抑え込み損ねた魔力の波が、俺の肌に鋭利な刺激をもたらした。
ディセントラとカルディオスが同時に、大広間の入り口を見て蒼白になった。
一瞬遅れて、俺とコリウスも同じ方向を見た。
――そしてそこに、深青色のガウンを着て佇む、魔王ヘリアンサスを認めた。




