55◆ 選択肢が二つある
俺たちが最初にいた隧道を背にして立った場合、この洞穴は縦長に広がっていると捉えられる。
左右の方向は――広々としてはいるものの、岩壁に辿り着くことが出来る幅であり、それに対して正面の暗がりには果てがないように見える。
レヴナントが雨後の筍のように湧き出して来ていたと思われる、まさにその方向である。
なお、水は左側から流れて来ている。
暗くて何とも言えないが、多分岩壁のどこかから水が湧き出していて、またよく見えないが、右手のどこかに水が抜けていく穴とか罅割れがあるのだ。
トゥイーディアが迷いなく足を踏み出したのは、正面の暗がりの方向だった。
どうやら、半壊した隧道に向かって、崩れた岩壁を苦労して攀じ登る必要はなかったらしい。
レヴナントが湧き出していたまさにその場所に向かうわけだから、トゥイーディアの足取りは慎重だった。
ティリーたちに至っては及び腰。
別にティリーとかニールとかララはいいんだけど、俺の心情としてはウェルス辺りの尻を蹴っ飛ばしてやりたかった。
ざぱざぱと水を掻き分け、洞穴の奥に向かって行くトゥイーディア。
その後ろにニールとララが、手を繋いで続く。
その後ろにザックとリック。その更に後ろにウェルスとセドリック。
で、俺の前にティリーで、殿は俺。
行列の頭上に灯火を浮かべつつ、俺は隧道の方を振り返った。
穴を塞ぐ障壁は維持しているが、そこに人型のレヴナントが立っていたらと思うと怖かったのだ。
――半ば崩れた隧道の入り口には何もいない。水流の音だけが聞こえている。
覚えず息を吐いて、俺は正面に向き直ってティリーの背中を追った。
しばらく進んだところで、トゥイーディアが声を出すのが聞こえた。
「――あ、段差があるから気を付けてくださいね」
はい、と応じる声が複数上がって、実際に俺もすぐ段差に行き当たった。
天然の段差が幾つか積み重なっていて、それを上がってようやく、足許が水から引き揚げられる。
乾いた岩場がそこから続いていたが、そこには既に灯火を弾く小さな水溜まりが幾つも出来ていた。
言うまでもなく、びしょ濡れになったトゥイーディアたちの靴や軍服から落ちた滴である。
濡れた軍服が肌に張り付く気持ち悪さが、水流が途切れていっそう明瞭になった。
俺は顔を顰めたが、数歩進んだ場所でトゥイーディアが一旦足を止め、後続の衣服を次々に乾かしてやっていた。
ニールやララだけでなく、ウェルス隊の四人の世話まで焼いてやっている。
灯火に浮かぶ表情を見るに、進んで世話を焼きたいわけではなくて、「救世主なんだからこうするべき」という判断に基づいた行動のようだったが、それにしても優しい。
俺は自分に容赦ない熱風を浴びせて、一瞬で水分を蒸発させた。
俺以外の人間に向かってやると火傷させてしまうが、俺に限って言えばその危険はないからね。
続いて、目の前で身体を震わせるティリーの肩を叩き、アナベルやトゥイーディアほど器用ではないものの、概ねの水分をそこから払ってやる。
びくっと俺を振り返り、ティリーが目を泳がせた。
「あ、ありがとう……」
「うん」
そうして遣り取りしている最中に、トゥイーディアが自分自身の全身の水分を払うのが見えた。
呆れたことに、トゥイーディアは自分の順番を最後に回していたらしい。
こいつらしいと言えばそうだけど、風邪でも引いたらどうするんだ。
「――皆さん、大丈夫ですか? 大丈夫? 良かった、行きましょう」
トゥイーディアが俺たち八人を見渡して声を掛け、くるりと踵を返して再び足を進め始めた。
ぞろぞろと続く俺たちの後に、白々と光を弾く暗い水溜まりだけが残される。
天井が少し低くなり、左右の岩壁がこちらに向かって押し狭まってきた。
その辺りで、俺はずっと維持していた障壁を手放さざるを得なかった。
距離が開けば魔力の摩耗も大きくなる。その摩耗が、洒落にならないものとなったからだ。
念のためにトゥイーディアに一声掛けてから障壁を解除した俺は、ずっと自分を圧迫していた重石が取れたようにさえ感じて息を吐いた。
が、不安はむくむくと大きくなって、そこから数分に一度は振り返って後ろを確認してしまうようになった。
そこから洞穴は徐々に狭くなって、大広間を思わせるような形状から、隧道に近い形状になっていった。
天井がぐっと低くなり、足許は岩を連ねたような感じで、両手両足を使って進まざるを得なくなった。
浮かべた灯火が頭上の岩にぶつかるので、俺は列の先頭と半ばと自分の後ろに、三つの小さな灯火を浮かべ直した。高さは自分たちの顔の高さに合わせる。
ざらりとした尖った岩で、俺は幾度か掌を擦り剥いた。
血が出る程ではないし、声を出す程の痛みでもない。
だが何となく掌を舐めると、皮膚が削がれたところがひりと痛んだ。
今では左右の岩壁も、こちらを圧迫するが如くに狭い。
緩やかに下に向かっていく道なのが、また辛かった。こういう悪路は登りの方が楽だ。
――しかも、寒い。
さっきまでいた場所が、戦闘のせいで真夏の暑さだったということもあるが、いつの間にやら周囲は真冬の地下に相応しい寒さ。
真夏の暑さに掻いた汗が速やかに冷やされて、俺は情けなくもちょっと震えていた。
手が冷たい。背筋を悪寒が走る。
気温のせいか、あるいはトゥイーディアが来てくれた安堵と嬉しさですっかり忘れていた、失血のための体調不良のせいか。
吐く息は白く、空気は水分を内包する量の許容量をとっくに迎えているとばかりに、吐いた息を掌に当てれば、そこにすぐに水滴が張り付いた。
思わぬ強行軍に、はぁはぁと喘ぐ呼吸の多重奏が隧道に響く。
手を突いた岩が湿っていることもあって、俺は暗澹たる気分になった。地下水が近いのだ。
また水の中を進むことになるかも知れない。
この寒さで水に突っ込むのは苦行以外のなにものでもないだろう。
濡れた岩で足や手を滑らせる者が続出したが、その度にトゥイーディアがそいつを助けるために手か魔法を差し出していた。
擦り剥いた傷ですらいちいち気遣ってやっていて、俺は何かもう泣きそうになった。
「――こっちで合ってるんですか……?」
とうとう、喘ぎ声の隙間を縫って、食いしばった歯の間から声を零すようにしてニールが疑問を呈した。
「――そうね」
トゥイーディアの返答まで一拍の間があった。
自信がないのを誤魔化そうとする口調ではなかった。
何か考え事をしていて、そのせいでニールの言葉が自分に向けられたものであることに気付くのに時間が掛かったというような、そんな口調だった。
そして、全く無意識に零されたであろう返答を、自分自身で追い掛けるようにして、トゥイーディアは咳払いして言い直した。
この悪路のせいで、さすがに少し息の弾んだ声だった。
「合ってますよ。ただ、まだちゃんと拓かれた地下道に着いてませんから。未開の洞穴って感じですねぇ。
――これ、ほんと、単純に冒険として来てたら楽しかったと思いません?」
半ばはニールたちを気遣って、全体の気分を持ち上げようとしての言葉だっただろうが、俺は呆れて息を吸い込んだし、応じたニールの声も苦笑に強張っていた。
「……ああ、ええ、どうでしょうね……」
そうでもありませんか、と笑いながら言って、トゥイーディアが後続を振り返った。
灯火の明かりに、飴色の目が宝石のように煌めいて見えた。
そして、後続の顔が疲弊し切っているのを見て、提案を籠めて首を傾げた。
「――あの、ちょっと一休みします?」
賛成、と、全員が声に出さずとも心を一つにしたのが分かった。
トゥイーディアが足を止め、適当な岩の上にちょこんと腰を落ち着けた。
そのすぐ傍にニールとララが座り込む。
俺も岩の上に腰掛けたが、岩の余りの冷たさに歯の根が合わない心地だった。
寒い。寒すぎる。
とはいえ、足首は重労働からの解放を素直に喜んでいた。
そうやって各々が手近な場所で一息を吐いたところで、誰かの腹の虫が鳴いた。
きゅるるー、と呑気にも切実に響いたその音に、全員がさっと目を見交わした。
しかしまあ、ここで、「今のだれ?」と詮索するのも無駄なことなので、すぐに目が逸らされる。ちなみに俺の耳が確かなら、今の音はリックだ。
とはいえ、空腹は全員が覚えていることである。
食糧を携帯していれば良かったんだろうが、生憎と全員が手ぶらである。食糧は分隊毎の管理だし、救世主は補給を分隊に頼っていたわけだし。
あんまり賢くはなかったけれども、拠点となる砦があるものだから油断した。後悔先に立たず。
「――今、何時だろ……」
ララがぼそっと呟いて、俺たちが曖昧に肩を竦める中、トゥイーディアが遠慮がちに応じた。
「私がここに来たときが――昼下がりくらいでしたから。もうすぐ夕方……くらいだと」
――ディセントラが発狂してそうだな。
思わずそんなことを考えた俺だったが、直後に、深刻な声でトゥイーディアが続けていた。
「置いて来たディセントラが、そろそろ発狂してるかも知れません……」
想定することは二人とも同じだった。
内心で照れる俺の感情の機微を察する人間はおらず。
救世主の一人の醜態に言及しかねないその話題を避けようとするように、ニールがトゥイーディアに視線を向けて、やや早口になって言った。
「――ご令嬢は全然お疲れのように見えませんね」
内心で、俺はちょっといらっとした。
――トゥイーディアが疲れを見せないのは強がっているからだし、強がるのは他の連中を不安にさせないためだ。
それをさも、理の当然のように指摘されると苛々する。
が、そんな心の狭い俺と違って、トゥイーディアはむしろ嬉しそうににっこりした。
「ええ、まあ、騎士ですからね。体力には自信があります」
ここぞとばかりに、拳を握って胸を張って見せるトゥイーディア。
そうしてから、周囲をぐるりと見渡して、乏しい明かりの中で地形を把握している。
そんな彼女に、ララが少し及び腰ながらも興味津々といった様子で話し掛けた。
「レイヴァスでは女性の騎士さんも多いんです? アーヴァンフェルンでは滅多にいませんけれど……」
ララに視線を向けて、トゥイーディアは微笑んだ。
少しだけ、何かを誤魔化すような色の見える笑顔だった。
「ええ、レイヴァスでも珍しいと思いますよ。私の母も剣はさっぱりだったようですし――馬にはよく乗っていたらしいんですけれど。でも私は、国一番の剣士が師匠でしたから。例外です」
彼女の口調から、この話をここで打ち切ろうとする雰囲気を感じ取ったのは俺だけだったらしい。
ララは重ねて訊いていた。
「国一番の……といいますと?」
ララが質問を止めなかったことに、トゥイーディアは一瞬眉を寄せたものの、質問を聞くやにっこりした。そして誇らしげに答えた。
「オルトムント・リリタリスです。私の父」
にこにこしながらそう言って、トゥイーディアは冗談めかして肩を竦めた。
「いつもは安穏とした人なんですけど、修練は厳しい人なんですよ。随分無茶をさせられて、これは死んだと思ったことも何度もありましたから」
お陰で、と言葉を継いで、トゥイーディアは極めて珍しいことに、自慢を籠めて胸を張った。
「私は十五で正式に騎士として叙勲されましたから、とてもいい師でした」
通常、叙任式を迎えるのは十七になってからが多い。
平和な時代においては、十七になった軍人を集めて、画一的に叙任式を執り行う国もあったくらいだ。
今のレイヴァスは――というか、今の世の中は――そこまで平和ではないから、叙任式は文字通り、騎士として王国の剣となって戦うに足る能力を認められた者のために執り行われるだろう。
女性で、しかも十五で叙勲されるのは並大抵のことではない。
国によっても時代によっても異なるが、俺の知識が正しければ、レイヴァスは非常に格式を重んじる国だ。
そして珍しいまでに、騎士と兵士の区分を明瞭にする。
軍人は皆騎士として叙任式を経験するという国も珍しくない一方で、レイヴァスにおいては騎士は名誉ある称号のうち一つなのだ。
剣を取って騎乗して戦うことのみが騎士の証ではないと考えられており、剣の腕はもちろん、国に対する忠誠心や国王からの信頼といったものが重視され、軍人の中でも重きを置かれる地位の一つであるはずだ。
それも考え合わせれば、今生のトゥイーディアの異様な優秀さが分かる。
へえ、とララが半ば口を開けて頷く一方、俺の隣で休んでいたティリーが、「外交をせねば」と思い立ったように急に口を開いた。
「――ご令嬢がガルシアにいらした日に、確かテルセ閣下とお話しされていらっしゃいましたわね。フレイリー戦役でご活躍なさったのが叙勲の決め手となったとか」
「……その話が出たとき、生きた心地もしませんでした」
半笑いでそう言って、トゥイーディアは内緒話をするときのように声を低めた。
なぜか一瞬、彼女の視線が俺を掠めた。
「父の前では、決してその話をしないようにしているんですよ。――実は私、あの戦役のときは待機を命じられておりまして。その命令に納得がいかなくて、こっそり荷車に忍び込んで先陣部隊に付いて行ったんです。――父が人前で私を叱ったのはあのときが初めてでした」
――今生のトゥイーディアの向こう見ずさは思った以上だった。
命令違反って何事だ。死にたかったのか。
俺は内心でそう思いつつも、まるでトゥイーディアの話なんて聞いていませんとばかりに顔を背けていた。
ウェルス隊の四人も俺と同じ態度だった。
他人のことは言えないんだけど、それでも――このやろう。
ぶる、と身震いして、トゥイーディアは真顔で言った。
「――父の前に立っているよりも、万の軍勢の前に一人で立つ方が容易いなと、あのときは思いました」
――その言い様に違和感を覚えて、俺は思わず眉を寄せてトゥイーディアを見遣った。
俺はここ最近の歴史に疎いから分からないが、フレイリー戦役って何だ?
今のトゥイーディアの言い方では、まるで人間同士の戦争のように聞こえる。
レヴナントが跋扈するこの時代に、人間同士で争う余裕があるのかということがまず疑問だが、その戦役に参加し、しかも功績を挙げたというならば、トゥイーディアは――
目が合いそうになった瞬間、トゥイーディアがすっと顔を背けた。俺は思わず唖然として口を開けた。
――トゥイーディア、人を殺したことがあるのか。
今までの人生、俺たちは積極的な人殺しはしたことがなかった。
俺も、剣奴であったときですら、対戦相手の命まで奪うことはなかった。
人の命を奪うのは、本当にやむを得ないときのみ。
唯一の例外が、コリウスを殺したあいつの恋人を、カルディオスが殺したときだ。
俺たちは救世主だから、殺すよりも生かすことに主眼を置いて生きてきた。
それなのに、マジか。
俺たちの中で一番殺しを厭うトゥイーディアが、人間同士の戦争に参加したのか。
――戦争は、人間の行いの中で群を抜いて一番愚かな行為だから、トゥイーディアがそれに参加したことがあるというのが俺にはかなりのショックだった。
当時のトゥイーディアに、救世主として転生してきた記憶はなかったとはいえ、それでもトゥイーディアはトゥイーディアで、いつだって彼女の判断基準は概ね揺るがなかったのに。
内心の動揺凄まじい俺に追い打ちを掛けようとするように、ティリーがなおも言葉を重ねた。
「晩餐の席では、御父上もお褒めになっていらしたじゃありませんか」
「あれは――」
トゥイーディアが言い差して、それからちょっと迷うように視線を動かして、ゆっくりと言葉を並べた。
「――奇を衒った度胸を褒められただけですよ。あと多分、自分の若かりし頃を思い出したんだと思いますよ」
話が見えないのは俺だけではなかったようで、ララがそうっと呟いた。
「あの、無知で申し訳ないんですけど、フレイリー戦役というのは……」
ああ、と呟いて、トゥイーディアはどことなくつまらなさそうな表情で口を開いた。
ララに対する表情ではなくて、口にする内容をつまらなく思っている様子だった。
「私が十四のときに起こった紛争です。私たちの――リリタリスの荘園の近くに、フレイリーという穀倉地帯があるのですけれど、そこの領主が亡くなった折、土地の相続でご子息とご令嬢のお婿さんが揉めに揉めて――」
ララの訝しげな表情を見て、トゥイーディアは言い添えた。
「もちろん、レイヴァスも基本は男子が相続権を持ちます。ですがそこのご子息は、どうやら嫡出のお生まれではなかったらしく」
非嫡出子の男子対嫡出子の女子という構図だったわけか。
よくあるよくある、と俺は内心で頷く。
よくあるとはいえ、そこにトゥイーディアが関わったなんて信じられないけど。
内心を映さない溜息を零すと、その息は白く凍みて流れていった。
トゥイーディアもまた、白い息を吐きつつ話を続ける。
「最後には、そこの一族とうまい具合に縁を結びたい他のところの領主さままで手を出して紛争になってしまって――ご近所の誼で、リリタリスも手をお貸しして」
「どちら側へ?」
驚嘆の眼差しで話を聞いているニールが、その眼差しそっくりの声音で尋ねた。
トゥイーディアは作り笑顔で応じた。
「ご子息側へ。ご子息には教養と聡明さがありましたが、ご令嬢とそのお婿さんには、土地を切り売りする計画しかありませんでしたから。小作の皆様を守ることが出来るのはご子息でした。
陛下は決着まで傍観なさるおつもりのようでしたが、ご令嬢の施策を歓迎なさるはずがございませんでした」
語尾は静かで、トゥイーディアはそのまま、流れるように言葉を続けた。
「さあ、もう行きましょうか。このままここに居ては凍えてしまう」
促されて、全員がそろそろと立ち上がった。
何しろ足許も巨岩の連なりでしかないので、足を下ろす位置を間違えるとそのまま足首がぽっきり逝きかねないのだ。
全員が無事に立ち上がったことを確認してから、トゥイーディアがまた先頭に立って、ひょいひょいと岩の上を渡り始めた。
俺も歩き始めたが、結構足許がよろよろした。
トゥイーディアが戦争に参加したというのが衝撃すぎて、内心でそれを捌き切れない。
――トゥイーディアがガルシアに着いた初日の晩餐でそれが話題に昇っていたということは、コリウスとカルディオスは知ってたのか……。
いや、カルディオスは退屈すぎて意識を飛ばして何も聞いていなかっただろうから、知ってたのはコリウスだけか……。
マジか、あいつ表情にも話題の端にも昇らせなかったじゃん……。
トゥイーディアに付いて行きながら、ララが彼女の背中を追い掛けるように声を出すのが、最後尾の俺にも聞こえた。
「戦役はどうやって終わったんです?」
トゥイーディアは、一拍置いてから答えた。
「ご子息が家督と土地を継がれました」
「ご令嬢は――」
尋ねるララに、トゥイーディアは腹を括ったかのように言下に答えた。
「ご令嬢側に着いた目ぼしい家の方々に片っ端から決闘を申し込んだんですよ。レイヴァスは決闘を非常に重視しますから、戦闘開始も決闘を待つはずだと思って。それでこちらの援軍が到着するまで粘ったんです。援軍が来れば数の差が開いて、向こうが投降するだろうと思ったのですけれど――」
俺の足許がいきなりしゃんとした。
――さすがトゥイーディア。
やっぱり戦争に参加したとか言いながら、ちゃんと人命第一に考えてる。
俺の惚れた女の信念が揺らぐはずもなかった。
あー、びびったー。
内心で胸を撫で下ろし、俺は意味もなく何度も頷く。
最後尾を静かに歩く俺のそんな挙動は、当然ながら誰の目にも触れない。
トゥイーディアは誰にも口を挟ませず、てきぱきと言葉を並べた。
「五人に決闘を申し込んで、四連勝したはいいんですが最後の一戦で負けてしまって。時間稼ぎにはなりましたし、援軍が到着したのを見たご令嬢側が勝ち目なしと判断して和議に応じてくださったので、結果的に戦役で死者は出なかったんですが、私の決闘での負けがあれこれと議論されてしまって。
お父さま――父には本当に、殺されるんじゃないかと思うくらいに叱られました。第一、穀倉地帯を駄目にしかねないような大規模な戦闘にはなったはずがないので、あれは完全に私の勇み足でしたね」
ものすごく恥ずかしそうな早口でそう言って、トゥイーディアは声を大きくした。
「――はい、私の恥ずかしいお話はここまでと致しましょう。
その他の――例えば私たちの荘園のお話などでしたら、幾らでも致しますよ。ただずっと歩いているだけだと、気が滅入ってきてしまいますからね。
あなた方もぜひ、以前までのガルシアの様子を教えてください」
◆◆◆
それからしばらく進むと、足許は歩くに相応しく安定した。
が、全然良くなかった。
水の流れる音がする。
灯火の明かりに、すぐ傍をちろちろと流れる細い水流が見えていた。
恐らくここは、雨が降って地下で増水が起これば、その水の通り道となる場所だ。
長年掛けて、水がここを通路じみた形に刳り貫いたのだろう。
今は雨の少ない季節だから、水流も物寂しいというわけだ。
――寒いけど。冷え切った水が傍にあるがために余計に、めちゃくちゃ寒いけど。
足許は――先程までよりは――安定しているとはいえ、岩場であることもあれば、水気を含んだ砂利になったりもした。
粒の大きな砂利は、踏む度に水気を感じさせる擦れた音を軍靴の下で立てた。
トゥイーディアは時折岩壁に寄って魔法を使い、目指す地下道に向けての道順を確認していた。
俺ががたがた震えているのに比べて、極めて平然としていた。
因みに、この気温を耐え難く思っているらしいのは、俺とニール、そしてセドリックとリックだった。
他の人はまだ耐えている。
魔法を使って気温を上昇させることも考えたが、魔力は取っておきたい。
万が一にも人型のレヴナントが後ろから追い掛けて来ていたら、残る魔力を全部そちらの迎撃に充てなければ追い着かないのだから。
今現在浮かべている灯火のための魔力は大したことがないからいいけれど、気温を上昇させる程の熱を生み出すのは考えものである。
トゥイーディアも同じ考えなのか、歯の根が合わないほど震えている俺を見ても、「ちょっと温まったら?」などと言い出すことはなかった。
トゥイーディアが、白い息を吐きながらも平然として元気そうなので、さすがに寒そうに背中を丸めながら、ララが「レイヴァスはもっと寒いんですか?」と尋ねる。
「そうですねぇ」
トゥイーディアがひらひらと手を動かして、その動きが灯火の明かりに、岩壁に揺らめく影となって映った。
冷えて湿った空気の中でなお、トゥイーディアの声には和らいだ温かさがある。
「冬はここよりは寒くなりますね。私が育った場所は海側に山がありますから、雪もすごくて。人の身長ほども雪が積もります」
徐々に道は上へと傾斜を描き始めていた。
しゃりしゃりと砂利を踏む足音を立てつつ、トゥイーディアは後続が滑ったりしていないことを確認するように、少し振り向く。
そうしながら言葉を続けた。
「冬場は馬車が走れないものですから、橇を使うこともあるんですよ。他の地方出身の方は橇を見るとはしゃぐものですが。私の生家にも橇犬が何頭かいて――」
俺は凍えた両手を握ったり開いたりした。
恥も外聞もなく、拳に息を吐いて暖を取ったりしていると、とうとうそれがティリーに気付かれて、ティリーは意外そうな顔で俺を見てきた。
なんだよ悪いか、の意味を籠めて、俺も彼女を見返した。
「――小さい頃、可愛がっていた橇犬一頭に橇を牽いてもらって、こっそり荘園の探検に出たことがあって。私がいないというので、母が卒倒するほど心配したらしいですねぇ」
俺たちの気分をちょっとでも上向かせようとしているのか、ふと思い付いたようにそんなことを言うトゥイーディア。
俺は思わず、幼少期のトゥイーディアを想像した(実際に、トゥイーディアが五歳くらいのときに再会したこともあるので、想像は容易い)。
雪国なら多分、防寒用の帽子とかも被って、羽毛の上着とかを着て、ミトンとか嵌めて橇に乗って行ったんだろうな……。
そのときの親御さんの気持ちは想像するに余りあるが、やべぇ、想像だけで可愛いわ。
ていうかそのときのトゥイーディアが、どっかに誘拐されて行ったりしなくて良かった……事故に遭わなくて助かった……。
寒風に頬を染める小さいトゥイーディアを想像して、若干浮かれる俺。
どう客観的に判断しても気持ち悪い。
自分でそう分かるけど、思うだけだから許してほしい。
「――御父上がさぞかしお怒りになったのでは?」
ニールが、少しばかり遠慮がちに言った。
トゥイーディアはふふ、と笑って、振り返りはせずに答えた。
「それが、そのときは免れたんですよ。事の前後を余り覚えてはいないのですが、私は雪の上で従兄に捉まって、橇犬と一緒に連れて帰られたのですけれど。
――その後は母が温めたミルクに蜂蜜を入れてくれて、それを飲んでいる私の頭を撫でてくれたんですよね。怒られた記憶はさっぱりありません」
トゥイーディアのその声音に、俺には生涯理解できないだろう親子の情が溢れている。
しばし思い出に耽るような間を取ったトゥイーディアが数秒後、慌てたように言い添えた。
「あっ、あの、今の話はここだけのものにしておいてくださいね。犬橇で危うく遭難し掛けたことがあるだなんて、よく考えると恥ずかしい過去ですし」
これには、抑えた笑い声が上がった。
心底意外に思ったことに、ウェルス隊の四人までもがちょっと笑っていた。
なお、俺はにこりとも出来なかった。
トゥイーディアも声を出して笑った。
そんな彼女に、ララが当初よりは気安くなった声で話し掛ける。
「――あたしも、アトーレよりは北の出身ですけど、そんなに雪が積もるのは見たことないです。雪ってやっぱり、積もると柔らかいんですか?」
「硬いですねぇ。積もった直後はまだ柔らかいんですけれど、積もってしまうと――何といいますか――ぎゅーっと硬いです」
俺は顔を伏せた。
疲れて気が抜けたのかも知れないが、言葉選びが可愛すぎるぞ、トゥイーディア。
「晴れてるとすごく綺麗ですよ。リリタリスの荘園は、レイヴァスのオールドレイにあるのですけれど、オールドレイでは寒さの山場を越えると晴れる日が多いんですよ。雪解けの時期は惨憺たる有様になりますが、積もった雪が日差しに照らされるのは眩しくて明るくて、私は好きです。夜も――月が出ていると、夜の底が白くなるんです」
徐々に隧道の天井が低くなってきた。
俺以外の連中は全く気にしていないようだったが、俺はちょっと猫背になった。
頭ぶつけそう。
「晴れた日に厚く積もった雪を掘ると、中が空みたいに青く見えるんですよ。これも不思議で好きでした。ただ豪雪の年は大変でしたね……特に秋に実りが少なければ、食べるのにも困りますから。幸いにも私が生まれてからは、飢饉の経験はありませんが……。
――春になって雪が溶けると、隊商と楽団がやって来てお祭りが催されるのですけれど、毎年それは楽しみでしたね。本当に華やかで――」
ここまで話して、トゥイーディアは言葉を切った。
そしてしばしの沈黙の後、恥ずかしそうに呟いた。
「――いけませんね、私ばかり話してしまいました」
またしても、堪え損ねた笑い声が上がった。
無言を貫いたのは俺とティリーだけである。
――今日の出来事でちょっとは丸くなったのかと思ったが、そう簡単に性格は変わらないか。
ティリーはなおも気難しいままである。
水音はいつの間にやら絶えた。
どうやら、どこかからか湧き出している水の、その更に上にまで到達したらしかった。
空気が若干乾いたのは有難かったが、それにしても寒い。
いよいよ天井が低くなり、俺たちは膝を突いて進むことを余儀なくされた。
やむを得ず、灯火はいったん消した。
どのみちこの狭さでは、視界が利いていようが利いていまいが、頭をぶつけるときにはぶつけるだろう。
時折トゥイーディアの手元で白く光の鱗片が散って、それで彼女が、後続のために尖った岩を消し飛ばしているのだと分かった。
とはいえ、冷え切った岩に手を突くのはそれだけで痛みと紛うほどに神経を刺激する。
膝もすっかり冷えて、皮膚は硬く強張り、今ならちょっとした衝撃で血が出そうだった。
こっちで合ってるんですか、とニールがまた訊いたが、悲鳴じみた声だった。
俺は歯の根が合わないほど震えていて、声を出すどころではなかった。
声を出しても、震えがひどくて恐らく言葉にはなるまい。
「大丈夫、合ってますよ」
トゥイーディアが請け合った。
息は少し上がっていたが、まだ余裕がありそうだった。
「もう少し、もう少しです――ほら」
そう言って、トゥイーディアが狭い穴を抜けて立ち上がった。
続々と七人がそれに続いて、最後に殿の俺が狭い隧道から這い出して立ち上がった。
同時に手を叩き、頭上に灯火を浮かべる。
そして思わず、おぉ、と小さく声を上げた。
そこは間違いなく、人の手が入って整備された隧道だった。
天井の高さは十ヤードほどもあり、道幅は五ヤードほど。
岩壁には所々、金属製の掛け燭が埋め込まれて設置されていて、有事に灯火を点すことが出来るようになっていると分かる。
足許は平らに均されていて、大きな段差には階段が刻まれていたり、あるいは木製の梯子が掛けられていたりした。
俺と同様、おぉ、と声を上げた者は複数あった。
そしてふと、ティリーが瞬きしてその隧道の行く先を窺った。
「――どちらがガルシアでしょう……」
呟いたティリーに対して、「気にしなくて大丈夫でしょう」と、トゥイーディアが爽やかに応じた。
「片方はガルシアに出るでしょう。もう片方は川沿いのどこかにあると噂の出口に続いているでしょう。――どちらにせよ、地上です」
――確かに。
俺は思わずそう思ったが、ティリーはやや不機嫌に眉を寄せた。
とはいえすぐに、「そうですね」と物柔らかに呟く。
灯火の明かりに蜂蜜色の髪を輝かせながら、トゥイーディアがくるりと振り返って俺を見た。
そして、右手と左手の人差し指でそれぞれ反対の進行方向を示しながら、首を傾げて尋ねてきた。
「さて、今度の選択肢は二つね。――ルドベキア、どっちに進みたい?」
俺は寒さに震えながら外套のポケットに手を突っ込んでいた。
指先に鏡が触れたので、これを返さないと、などと思っているうちに質問が飛んできた格好だ。
なんで俺に訊いてきたんだろう、と思いつつ、俺は深く考えずに顎で左手を示した。
地下だし、方向感覚なんてもう消滅したも同然だから、完全に適当だ。
「なるほど」
頷いて呟き、トゥイーディアは元気よく、俺から見て右手の方向を示した。
「じゃあこっちに進みましょ。――ルドベキアの最近の運の悪さは異常だもの。言う通りに進むと何が起こるか分からないわ」
――ぐうの音も出ねぇ。
そう思いながらも、俺は額に青筋を立ててトゥイーディアに向かって凄んでいた。
が、寒さの余りに声がちょっと震えた。
「おいてめぇ、一発殴るぞ」
「はいはいごめんなさい」
謝る気の全くない、形ばかりの謝罪をしたものの、トゥイーディアは譲らなかった。
こいつはこいつなりに、俺の今生の不運について思うところがあったのかも知れない。
俺も自分の不運っぷりには自信があるので、進行方向について頑固に主張するつもりはなかった。
ティリーが、「いいの?」と言わんばかりに俺を見てきたが、別に構わん。
ぞろぞろと地下通路を進む。
やっぱり整備された道は歩き易さが違う。
全員、どことなく足取りが元気になっていた。
ニールたちの口数が増えたのに反比例してトゥイーディアの口数は減り、彼女は愛想よく話を聞き、相槌を打ってその地下道を進んでいた。
そうして歩くこと一時間程度。
「あ」と上げられたティリーの声に顔を上げ、彼女が少しばかり興奮気味に指差す方へ視線を向ける。
そこに梯子を発見して、俺は立ち止まった。
梯子というか、馬蹄形の太い金物を幾つか縦に並べて、岩盤に打ち込んだようなものだ。
機能としては梯子だろうが、見た目は単なる把手の連続。梯子もどきだ。
それを視線で上へ辿れば、頭上の岩壁を抉って竪穴が掘られている。
この上が出口じゃなかったら詐欺だろう。
まだこの隧道は続いているが、目を凝らして先を見れば、ここから先の隧道には整備のためにそう手を入れられた形跡もない。
俺たちが足を止めたことに気付いて、トゥイーディアたちも足を止めた。
そして俺と同じものを見て、トゥイーディアがほうっと一息。
「――良かった、出口だね」
呟いて、トゥイーディアがその場から一歩下がり、にこっと微笑んだ。
「何があるか分からないから、ルドベキアが先に行ってくれる?
この出口がガルシアの砦の方ならいいんだけど、万が一――ほら、今まさにこの出口の真上でレヴナント討伐が行われてたりしたら笑えないでしょ?」
「笑えないと思うなら口に出すなよ……!」
と俺。
そんな不幸な予想――アナベルじゃあるまいし。
ごめんごめん、とまたも口先だけの謝罪をして、トゥイーディアは肩を竦めた。
「別に私が先に行ってもいいんだけど、先に地下に入ってたきみに、先に外の空気を吸う権利を献上するわ。ほら、どうぞどうぞ」
俺を急かすように手を振るトゥイーディアを一睨みしてから、俺はその梯子もどきに歩み寄り、金属製の把手に手を掛けた。
冷たい。
さすが、冷やされてるだけあるわ。手が張り付きそう。
歯を食いしばりつつ、俺はその梯子もどきを昇り始めた。
かん、かん、と高い足音が鳴る。
すぐに俺の視界は暗くなった。竪穴に入ったのだ。
竪穴の中を更に昇り続けて無心になり掛けたところで、俺は天井に頭をぶつけそうになった。
あっぶね。
「ルドベキアー、だいじょうぶー?」
そのタイミングで、下からトゥイーディアの声が聞こえてくる。
俺は(全く心外なことに)、吐き捨てる口調でそれに応じた。
「おまえが黙ってくれたらな」
自分の声が耳許で反響する。
トゥイーディアからの返答はなかった。
梯子もどきを一段降りて、俺は頭上に指先を滑らせた。
天井ではない、上げ蓋だ。
石造りの重い蓋。これを押し上げるのは膂力では無理だ。
だが、魔法を使える人間のみがこの避難路を使うと想定されているのではないだろう。
もう一段降りて、俺は上げ蓋のちょっと下辺りを手で探る。
そこは人生経験。
すぐに、土中に設置された把手を俺の手が探り当てた。
――錆び付いてませんように……!
祈りながら把手を押す。
がこん、と奥の方で重い音がして、梃子の原理を利用しているのだろう簡単な装置が作動した。
上げ蓋の片側が装置で持ち上げられて、傾斜を作られた上げ蓋が、文字通り滑るように落ちていく。
凄まじい勢いで竪穴の中に光が満ちた。
長く地下にいたせいで、俺の目がちかちかした。
痛い。むしろ光が痛い。
堪らず片手で目を覆い、後続に一声掛けてから、俺は残る数段を上がって地上に膝で這い出した。
見えないが、どうやら足許は下草の生えた柔らかい地面らしい。
明るさが過ぎて目が見えない。
ここはどこだ。ガルシアか、それとも川の畔か。
無言で悶絶する俺はそのとき、もはや懐かしさすら感じる声を聞いた。
「――ルド!」
俺は顔を上げた。
目を細めながら顔を覆っていた手を外し、眩しさに涙が出そうになったが根性で堪える。
そして、滲むような光が満ちた視界の中に馴染みの顔を見付けて、思わずぽかんとした声を落とした。
「カル……?」
救世主の一人カルディオスが、陽光も斯くやという眩しい笑顔を浮かべてそこにいた。




