52◆ 俺の救世主
トゥイーディアのことを、救世主の中で一番暴力的で強いと評したのは誰であろう俺である。
東の国境に赴く当日だったかに、ニールに向かってそう言ったのを覚えている。
トゥイーディアもそれを覚えていて、どうやらそれを根に持っていたらしい。
申し訳ないけど、そんなところも可愛いね。
ていうか、俺の発言を覚えていてくれたということが愛おし過ぎる。
――と、そんなことをこの状況で考える俺は頭がおかしい。
俺が生死に関わりなくトゥイーディアに惚れ込んでいるというのもあるだろうけど、失血のせいもあると思う。
ほんとに頭が回らない。
まだなお眩暈は酷かったが、耳鳴りは速やかに収まった。
現れるだけで俺の不調を一部癒すとは、さすがトゥイーディア。
宣言から一秒。
トゥイーディアは笑みを引っ込めて、間違いなく憂慮を籠めて俺を見ていた。
レヴナントがトゥイーディアに気を取られている隙を拾って、俺はトゥイーディアの方へ――つまりは、この洞穴内唯一の安全地帯に向かって足を進めているが、その歩みの速度は怪我の状況からお察しだ。
――ここに現れてから、彼女が何を考えたかは分かる。
まずは非力な七人を安心させようとしたんだろうし、その判断は正しいと思う。
でも、よくよく見ると俺が思ったよりもやばい状況だった――ってとこかな。
ここは暗いし、まあ俺の怪我の仔細をすぐに見て取るのは無理だよね。
ていうか、ちょっと恥ずかしい。
さっきまでは誰でもいいから助けに来てくれと思っていたけど、これはちょっと恥ずかしい。
俺はトゥイーディアの前では格好よくありたいのに、なぜだか知らないがそう在れた例がない。
瞬きの間に、トゥイーディアは俺から視線を逸らして、低く唸るレヴナントたちを見渡していた。
そして、ざっ、と水を掻き分けるようにティリーたちから離れ、こちらに向かって歩き始めた。
傍目には、俺とトゥイーディアは真っ直ぐにお互いを目指して歩いているように見えただろう。
洞穴内の空気はなお熱されている。
しかし今や、ティリーたち七人を囲むように、完璧な冷気の籠が編まれていた。
ティリーのその場凌ぎの魔法とは違う。
魔法の練度はアナベルにこそ劣るものの、氷雪の冷たさを存分に持つ冷気が、薄らと白くティリーたちを覆っているのが見える。
白い冷気はそのまま水流を伝って、下流に向かって冷たさを運んでいる。
それが、彼女よりも下流にいる俺には分かった。
温かさと冷たさが層を成してうねりながら、ふわふわと流れている。
レヴナントが咆哮した。
一体が、狙い澄ましてトゥイーディアへ飛び掛かった。
トゥイーディアは足を止めることすらせず、す、と視線を動かしてそちらを見て、飴色の目を眇めた。
そして、まるで窘めるように、そちらに向かって指を立てた。
躾の一環のように。
駄目でしょう、と指摘するかのように、優しげでさえある仕草で。
ばきんッ、と、耳に痛い音が上がった。
直後にレヴナントが、絶叫すら残さず消失する。
僅かに漂う薄墨色の煙のみを名残として、見事に素早くこの世から消し去られた。
――それを成したのは、何もなかったはずの空中から突き立った、透き通った一振りの、径が五ヤードはあろうかという巨大な刃。
考えるまでもなく、トゥイーディアはいとも容易く空気そのものを凶器として用いたのだ。
ぱしゃん、と水流を踏んでその刃の傍を通り過ぎながら、トゥイーディアはまるで、用意されていた剣を受け取るかのような仕草で、左手でその刃を空中から引き抜いた。
巨大な径を誇った透き通った刃は、トゥイーディアの左手に収まるなり、長剣程度の長さへと削ぎ落された。
空気が擦れて、きん、と高く鳴る。
そうして俺の目の前に立ったトゥイーディアが、目を丸くして俺を見た。
表情だけを見れば大変可憐ではあったが、両手に刃物を携えてのその表情には、さすがに違和感が先に立つ。
そして、何か言おうとした彼女が、――しかし直後、咆哮と共に振り下ろされてきたレヴナントの拳を、左手に握った空気の刃で迎撃した。
俺からすれば、自分の頭上を越えて振るわれた拳を、予定調和の如くに一点突破で撃破した彼女の反射神経に、脱帽以外の反応が思い付かない神業だった。
しかも、トゥイーディアは右利きのはずだ。
左手でそこまで器用に迎撃をこなすとか何者なの。
前世までは、トゥイーディアはここまで器用ではなかった。
ものの見事に、透き通った刃がレヴナントの拳を貫通する。
絶叫と共に自らの拳をその刃から引き抜き、よろめき後退るレヴナント。
そいつをはじめ、洞穴内の大量のレヴナントを見据えて、トゥイーディアが不機嫌極まる声音で呟いた。
「この人にしつこくしないで」
ぱしゃん、と水流を蹴って、トゥイーディアが俺の一歩後ろにまで歩を進める。
俺は半ば振り返ってそれを目で追った。
振り返った拍子に全身が張り裂けんばかりに痛む。そこは根性で声を堪えたものの、表情は歪んだ。
しゅん、と小さな音と共に、トゥイーディアが右手に握る細剣が素早く腕輪に変じた。
しゃらん、と清かな音を立てて彼女の右手首に収まった黝い腕輪。
そうして空けた右手を、トゥイーディアが当然の如き顔で俺を庇うように伸ばした。
「――ルドベキア、あの人たちのところまで下がって」
俺、超かっこ悪い……と内心でへこんでいた俺だったが、声音にその傷心は少しも滲まなかった。
口調にはむしろ不平すら滲んだ。
「言われなくてもそうするけど。――ってか、来るの遅ぇんだよ。ディセントラはどうした」
感謝の欠片も声音に載せられない俺の口調に、トゥイーディアが苦笑するのが見えた。
「説明するわ。だからちょっと、安全な所まで下がっててくれない? 私もこの数のレヴナントを一度に見るのは初めてだし、ここを三分で片付けてお話ししますとは言えないのよ」
少しハスキーな彼女の声を聞いているうちに、なんか生きてる実感が湧いてきた。
頷くこともせずに顔を逸らして、俺は水流に逆らって足を進め始めた。
背後を気にしなくていいとなれば、多少は速く足を進められるというものだ。
レヴナントの咆哮と絶叫が幾度か聞こえ、背後の動きに起因する水面の波立ちはあったものの、俺はそちらを一切気にすることなく――というか、内心ではめちゃめちゃ気にしつつも、それを一切表に出せず――、ティリーの目の前まで生還した。
そこまで辿り着くとさすがに気が抜けて、俺は彼女の真正面で膝を突いた。
――水が冷たい。
腰まで浸かった俺の身体が冷えていく。
座った拍子に劈く右腕と全身の痛みに、俺は思わず呻いた。
――とはいえ、生きてる。すげぇ。
あの数のレヴナントを相手に生還って、落ち着いて考えたらすごくないか。
思わず、深々と溜息が漏れる。
ティリーをはじめニールたちは、想像以上の惨事になっている俺の様子に愕然としている様子だったが、取り敢えずそれは脇に置いておき、俺は第一にティリーを労った。
「――お疲れ、ティリー。よく頑張ったな」
トゥイーディアが編んだ冷気の籠の中で、ゆるゆるとティリーが首を振った。
その頬やら手の甲やらが、血の巡りを原因とするものではない赤みを帯びている。
軽くはあるが、火傷だ。
それに目を留めて、俺は思わず項垂れた。
「ああ――、悪かったな」
「……はい?」
ティリーが、唖然とした鳶色の目を俺に向けた。
俺は歯を食いしばって痛みを堪えつつ、左手を持ち上げて、ティリーの手の甲を示した。
「それ。やけど。気を付けたつもりだったんだけど」
ティリーは自分の手の甲に視線を落とした。
しばらくそうして固まっていて、ややあって顔を上げたとき、彼女の瞳が潤んでいたので俺は声を掛けたことを後悔した。
「え、おい――」
狼狽の声から色々と察してくれたのか、ぐっと目許に力を入れて涙を堰き止めつつ、ティリーは震える声をゆっくりと押し出した。
「……いいえ。いいえ……」
もうそれ以上の言葉が出ないのか、無言で唇を震わせるティリー。
やべぇ、と思いつつ、俺は視線をニールとララに移した。ウェルス隊の四人は知らん。
「怪我は?」
「ない、です……」
ララが応じた。なぜか敬語。
そっか、と息を漏らしたところで、背後からばしゃばしゃと足音。
そして直後、俺の真横にトゥイーディアが膝を突いた。
握っていたはずの空気の刃は放り出して来たのか消失させたのか、今は両手を空にしている。
ぱしゃん、と跳ねた水が俺に掛かり、俺は軽く彼女を睨む。
「――おい。濡れた」
トゥイーディアは横目で俺を見て、はん、と鼻で笑ってみせた。
「元よりずぶ濡れでしょう。――でも、ねぇ、それはそうと」
突然、ぐっとトゥイーディアが俺に身を寄せて顔を覗き込んできて、俺は危うく心臓を吐き出す羽目になるところだった。
間近で俺を見る飴色の目にくらっときたが、実際には俺はちょっと身体を引いて、痛みに顔を顰めつつ胡乱げにトゥイーディアを見たのみだった。
「きみ、よく生きてるわねぇ。まさかこんなにレヴナントがいっぱいいるとは思わなかったわ。急いで来て良かった。
で、お願いなんだけど、きみはさっさと自分の治療をしてくれない? あれは二人じゃないときついでしょう」
矢継ぎ早に捲し立てられて、俺は顔を顰めつつ、片膝を立てて後ろを振り返った。
そしてそこに、文字通り積み上げられた三体のレヴナントを見て絶句した。
トゥイーディアは、俺のようには障壁を張れない。
だからだろうが、空気の刃を以て串刺しにしたレヴナントを、それこそ土嚢のように三体積み上げて、一時的にレヴナントの群れと俺たちを分断している。
とどめを刺し切らずにレヴナントとしての形を残すために加減したのだろうが、それにしても壮絶な所業である。
合理的だし、咄嗟にそれを成し遂げてしまう辺りはさすがだが、
「無茶苦茶だな……」
思わず呟いた俺に、トゥイーディアは肩を竦めてみせた。
その左肩と右頬に、さっきまではなかった傷があった。
右頬は軽く切れて薄らと血が滲み、左肩は軍服が裂けて傷口が露出している。
決して大怪我ではなかったが、俺は腹の底がざわめくような不安を覚えた。
トゥイーディアといえども、レヴナントを土嚢とするに当たっては無傷では済まなかったということの証左だが、それはそれとして、トゥイーディアが痛い思いをするのは嫌だ。
「とにかく、治療は早くしてね。見てるだけでこっちも痛くなりそうな怪我だわ。
それに、きみ――」
トゥイーディアの目が、上方を仰いで細められた。
その視線の先には、俺たちがここに飛び降りる前にいた隧道の入り口がある。
「――あっちの方で何か魔法を使ってるの?」
俺は頷いた。
どんな馬鹿でも、今は情報共有を最優先にするだろう。
だから、代償の影響は今は小さい。トゥイーディアと会話が出来る。めっちゃ嬉しい。
「この真上に人型のレヴナントがいるんだよ。そいつがこっちに降りて来ないように穴を塞いでる。――おまえ、どこから来た? 遭遇しなかったのか?」
トゥイーディアが飴色の目を瞠った。
ティリーたち七人を一通り見回し、「遭遇はしなかったけど……」と呟きながら俺をまじまじと見る。
そうして、俺が内心で大いに狼狽しているところへ、ぽつりと呟いた。
「人型のレヴナントって、魔法も使うあれでしょう? きみ、そんなのからこの人たちを守って、それからここで戦ってたの?」
「…………」
無言で頷いた俺に、トゥイーディアはしみじみと。
「……ほんと、運がないねぇ……」
俺は自分の額に青筋が立つのを自覚した。
「馬鹿にしてんのかてめぇ」
凄んだ俺に向かって、「ごめんごめん」と手を合わせて、トゥイーディアはにこりと微笑んだ。
「おつかれさま。しんどかったでしょう。見たところ怪我人はきみだけみたいだし――」
至近距離でトゥイーディアの笑顔を見て、俺は目が潰れるところだった。
「――ほんとに凄いね。この人たちにとっては多分、きみが一緒にいたことが生涯最高の好運だったんだろうけど。
でも、ちょっとは自分も大事にしないと駄目よ。――ばかもの」
「――――」
――褒められた。褒められた!
トゥイーディアが俺を褒めた! しかも俺を気遣った!
自分が犬なら、多分ちぎれんばかりに尻尾を振っていただろうと自覚しつつも、俺は無表情。
代償がなければ真っ赤になって頭を抱えていただろうが、実際には徹底的な無表情。
俺とトゥイーディアの、温度差のあり過ぎる会話に、目の前でティリーたちが目を見開いている。
そちらに視線を向けて、トゥイーディアはにこっとした。
その笑みの温度が、なんだろう……。俺に向けられたものとは明らかに違う。
俺に向けられた笑顔はまさしく、朝のいちばん眩しいところの粋を集めた優しい笑みだったが、七人に向けられた笑顔は氷雪吹き荒ぶ寒風の如き笑みだった。
「――今は時間もないし、本来なら後に回すべきお話なんですけれど」
その笑顔のまま、物柔らかにトゥイーディアは言った。
「ルドベキアが、こんなに危険で、しかも彼にとっては戦い難いに違いない場所に、むざむざ自分から飛び込むはずはないんですけど。
この人がここにいる理由に、お心当たりのある方はいらっしゃいません?」
怒ってる。
トゥイーディアが笑顔の下でめちゃめちゃ怒ってる。
――この彼女の感情の動きが、単純にこの七人の無謀を窘めるものなのだとしたら、それはとても彼女らしくて好きだと思った。
もしもそこに、長い付き合いの救世主の一人の怪我を案じる気持ちが入っていれば、この上なく嬉しかった。
そして万が一、そこに他でもない俺が怪我をしたことを許し難く思う気持ちがあるならば、この場で心臓が吹き飛ぶくらいには幸せだった。
トゥイーディアの静かな怒りは過たず目の前の七人にも伝わったのか、さすがに殆ど全員が俯いて身の置き場がない様子。
“殆ど”というのは、この期に及んでなお、ウェルスがふてぶてしく顔を上げていたからである。
俺、なんでこいつまで守ったんだろう。
連中の、その態度から大体のところを察したのか、トゥイーディアはぐっと拳を握った。
表情が一瞬、この上なく険しくなった。
だがその表情も、瞬時に諸々の情動を堪えるように短く息を吸い込んだ彼女によって、奥の方へ綺麗に仕舞い込まれてしまった。
多分、言いたいことは山程あったんだろうが、そんなことをするべきではないと判断して堪えたのだ。
感情的な自分をこうやって律する彼女を、俺は何百年も見てきた。
吸い込んだ息を吐き出して、トゥイーディアは俺に視線を戻す。
そして、感情を抑え込んだ反動だろうか、いつもより淡々とした声音で言った。
「――ディセントラは外よ。崖崩れがあったでしょう。あの子にあれを撤去するのは無理だから、取り敢えずまだ外にいるわ」
そこまで言って、トゥイーディアが首を傾げる。
半ばが結い上げられた蜂蜜色の髪が肩を滑って胸の方へ垂れた。
可愛い――違う、今はそうじゃない。
「もしかして、あの崖崩れって人型のレヴナントがやったの?」
俺は素っ気なく頷いた。
崖崩れを起こすとなれば、それはコリウス並みの魔法を使うということの証左である。
だが意外にも、トゥイーディアは驚きを顔に出さなかった。ただ不機嫌な顔をして、「ふうん……」と呟いたのみ。
飴色の目が斜め下を見て、ちょっと不貞腐れたように細められていた。
その頬に切傷さえなければ、俺はただただ眼福だと思ってその顔を眺めていただろう。
数秒そうしてから、トゥイーディアは滑らかに視線を上げる。
その視線を待って、俺は自分でも分かるほどに冷たい声で問い掛けていた。
「コリウスは?」
「ガルシアの反対側にいると思うわ――少なくとも昨日はそうだった」
即答で応じて、トゥイーディアは不機嫌に飴色の目を煌めかせた。
「駆け付けて来たのが私で悪かったわね」
違う、違います、違うんです。
――内心で叫ぶも、現実の俺は無表情で視線を逸らした。
はあ、と溜息を吐いて、トゥイーディアはちらりと後ろを振り返る。
どうやら、レヴナントがこっちに押し寄せて来るまでの猶予を測ったようだった。
レヴナントの咆哮はなおも響いていたが、俺はもはやそれを気にしていなかった。
――トゥイーディアが来てくれたという喜びを噛み締めるだけで、ただでさえ集中力の切れ掛かっていた俺の頭は沸騰しそうな程に一杯になっていたので。
「――多分、私は上の洞穴とは別のところを掘ってここまで来たのね。途中で、きみたちがいたっていうここの上の洞穴を通った覚えはないわ。だから、この上にまだ人型のレヴナントがいる可能性は十分にある」
どうやらトゥイーディアは、崖崩れを撤去してから俺たちを捜すというまどろっこしい手段は採らなかったらしい。
状況を見て、崖崩れの付近から俺が離れているということを、(多分地表まで漏れていただろう)俺の魔力の気配から悟ったんだろう。
それで、俺がいるだろう場所の真上をぶち抜いて降りて来てくれたみたいだ。
やばい、嬉し過ぎて呼吸が難しい。
こっそり呼吸困難に陥っている俺に向かって、トゥイーディアが指を一本立てた。
「ね、きみ、悪いんだけど」
トゥイーディアに言われたことなら何だって引き受けたい俺は、しかし醒め切った目で彼女の方を見た。
そんな俺にちょっと不満そうに頬を膨らませつつも、トゥイーディアは概ね冷静に言葉を続けた。
「今ここに人型のが降りて来たら、さすがにちょっと拙いから、穴を塞いでるならそれはそのままにしてね。私は代わってあげられないから。
――で、他のことはもう考えなくていいから、しばらく自分の治療をしていて」
治療ね。
ぶっちゃけ、自分の右肩がどうなってるのか、怖くてまだ見られてないんですけど。
――と、そんな馬鹿げたことを考えた俺の、一瞬の表情の変化をどう捉えたのか、トゥイーディアが唐突に、嬉しそうに両手を胸の前で合わせた。
「そうだ! 忘れるところだった。ルドベキア、確か、皮膚の治療は見えないと不安だって言ってたよね?」
「――は?」
俺はぽかん。
それはそうだけど、でもなんでその話が今ここで出て来るのか。
この緊急事態なんだから、見えない箇所の治療なんか後回しにするに決まっている。
俺の訝しげな視線を受けつつ、トゥイーディアは慌ただしく外套を探り始めた。
ポケットを探ってから内ポケットをまさぐり、目当ての物を探り当てたのか、ぱあっと顔を明るくする。
その仕草といい表情といい、可愛らし過ぎて血を吐きそう。
顰め面で唇を噛む俺に向かって、トゥイーディアが片手に握った何かを差し出してきた。
胡乱な瞳でそれを見下ろせば、どうやら掌ほどの大きさの円い手鏡らしい。
「は――?」
割と真面目に怪訝の声を上げた俺は、説明を求めてトゥイーディアの顔を見た。
トゥイーディアはむしろ得意げだった。
「見えないとこ――顔とか。その辺の治療に必要でしょ? 二つあったら合わせ鏡も出来たんだけどねぇ。私が持ってるの、その一つだけなの」
割れてなくて良かった、などと和やかに口走る彼女に、俺は思わず左手で顔を押さえ、呻くように尋ねていた。
「いや待て。おまえなんで、このタイミングで鏡を出せるんだ。なんでそんなもん持ち歩いてんだ。馬鹿なの?」
「失礼ね」
上機嫌な顔から一転、む、と頬を膨らませたトゥイーディアが、鏡を持ったまま(俺が受け取らないもんで)腕を組んだ。
「この間の話を覚えてたから、きみに会ったら渡そうと思って持ち歩いてたのよ。手紙と一緒に渡せば良かったんだけど、うっかりしてて。でもまあ、あの手紙が行方不明になったことを思えば、あのときうっかりしてたのが結果的には良かったわね」
言いながら、トゥイーディアは得意そうな表情に立ち戻っていた。
――俺は息を止めていた。
手紙は行方不明になっていないし、俺はしっかりあれを読んで立ち直ったんだけど、そっか、トゥイーディアには「知らない」と言ってたんだっけ。
というか、そうとしか言えなかったんだった。
呼吸を再開できない。やばい。
あの手紙を書いたことをトゥイーディアが覚えていたのが嬉しいし、トゥイーディアの口調も表情も可愛いし、何より俺のために鏡を持ち歩いていたっていうのがもう、心臓が止まるほどに嬉しかった。
俺が鏡を受け取らないのに業を煮やして、トゥイーディアがそれを俺の外套のポケットに突っ込んできた。
乱暴そうな手付きに見えてその実、細心の注意を払ってくれたと分かる動作だった。
俺の傷を刺激しないよう心を砕いた、丁寧な指先。
「要らないなら使わなくてもいいけど、念のため、ね?」
そんなことを嘯いて、するりと鏡を俺のポケットに放り込むトゥイーディア。
俺はようやく呼吸を再開できたものの、表情はむしろ迷惑そうなものだっただろう。
そんな俺に苦笑したトゥイーディアが、ちゃり、と小さな音を立てながら、右手首の黝い腕輪を外した。
そしてそれを、当然のような顔で俺に手渡す。
鏡を受け取るためには動いてくれなかった俺の手は、武器を受け取るためならば動いた。
咄嗟に左手で受け取った俺の掌の上で、腕輪は見る間にその色を黒く沈める。
「今から私は取り敢えず、あっちの連中の相手をしてくるけれど、」
気負いなくそう言って、トゥイーディアは右手の指をぱちんと鳴らす。
途端、ティリーたちを包んでいた冷気の籠が弾け飛んだ。
いつの間にか洞穴内の熱気は冷やされて、気温こそまだ高いものの、火傷の危険があるような空気ではなくなっていたのだ。
「――せっかく駆け付けて来たんだから、後は全部私に任せなさいって言えたら格好よかったんだけどねぇ」
眦を下げてそう言って、もう充分に格好いいトゥイーディアが、両膝を揃えて俺の方を向く。
「きみの治療が終わるまでに私があっちを全部片付けられたら、きみは後で私を褒めてちょうだい。
――で、きみの治療が終わるまでに私がけりを着けられていなかったら、」
俺の顔を覗き込むトゥイーディアの飴色の目が、探るような、念を押すような色を浮かべた。
それでもちょっと唇の両端を持ち上げて微笑みを作りながら、トゥイーディアが俺に向かって、躊躇いがちな信頼の滲む声で、それでも口調には一切の迷いなく、言った。
「――それを使って、きみが手伝いに来てね」
愛情の余りに息をするのも難しかったので、俺は頷いた。
表情は固定されたように不機嫌で、「おまえが死んだら俺が引き続きこの七人の世話をしないといけないだろ」とでも言いそうな感じだったんだろう。
トゥイーディアが肩を竦めて苦笑した。
そして、漣を立ててトゥイーディアが立ち上がった。
外套に吸われた水が滴って、水流を叩く小さな音が連続する。
乏しい明かりの中でなお、その凛とした立ち姿は眩しく目に映った。
しかしなぜかトゥイーディアは、すぐにレヴナントに向かっていかなかった。
少し、何かを考えるような表情でそこに立っていた。
――そして。
俺を見た表情から一転、トゥイーディアの口許に子供っぽい微笑が浮かぶ。
飴色の目がきらりと光って、俺は思わず笑いそうになった。
――マジか、トゥイーディア。この状況で、マジか。
俺がそう考えると同時に、どうやら力が抜けたらしい七人を見渡して、トゥイーディアがにっこりした。
優しい慈愛に満ちた表情だったが、含むところも十分にある笑顔だった。
「さて、ルドベキアがここで休んでいる間、私が皆さんを守りながらあれと戦うわけですけれど」
ティリーとニールとララが、気の毒になるくらい恥じ入った様子で頭を下げた。
が、違う。
別にトゥイーディアは、この三人に向かって含みを持たせたわけではない。
俺は堪え損ねてにやっとした。
――トゥイーディアは、基本的に優しいし、我慢強いし、感情的な自分を抑えることを知っている。
俯瞰的に自分の行動を見て、正しいことをしようとする人だ。
でも同時に、めちゃくちゃ子供っぽい奴でもある。
――だから、よく考えるまでもなく、こんな千載一遇の機会を逃すわけもなかった。
満面の笑みで、トゥイーディアはアーサー・ウェルスを見下ろしていた。
「――何か言うことがあると思いません? ねえ、ウェルスさん」
控えめに言っても、トゥイーディアはめちゃくちゃ嬉しそうだった。
今まで我慢に我慢を重ねていたと分かる、清々しいまでの笑顔だった。
名指しされたウェルスが、ぐっと言葉に詰まった。
その麾下の三人は顔面蒼白。今までウェルスがトゥイーディア相手に鬱憤を晴らすのを、黙って見ていた自分たちも同罪だという程度のことは、どうやら分かっているらしい。
トゥイーディアはなおも笑顔。
俺ならば相手の命を盾に取って、土下座でこれまでの無礼を謝罪させた上でその頭を踏み付けるだろうが、さすがトゥイーディア。こんなときでも優しい。
「これから、救世主が救世主たる所以をご覧に入れます。
いえ、もう十分、ルドベキアを見てお分かりになったとは思いますけれどね」
笑顔で迫るトゥイーディア。すっげぇ嬉しそう。
「役立たずの救世主であっても、もちろん、今この場で私はあなたを助けます。
だって私は、優しい救世主ですから」
トゥイーディアがこれまで押し込めに押し込めてきたあらゆる感情の片鱗を感じ取ったのか、ウェルスどころか俺以外の七人が全員真っ青。
トゥイーディアは胸を張り、右手の人差し指をウェルスに向かって振ってみせた。
とても様になっている仕草だった。
「だから、ねぇ、ウェルスさん。私に何か、言うことがあるでしょう?」
勿論だ。土下座で謝罪しろ。
――内心でここぞとばかりに圧を掛ける俺のことなど知る由もなく、また一瞥もくれず、トゥイーディアは微笑んだ。
「――ありがとう、でしょ?
ほら、言ってください」
「…………」
俺は無表情だったが、その実内心では、唖然と口を開けていた。
――トゥイーディアらしいと言えばそうだろう。
多分彼女は、これまで自分が受けてきた罵倒の全てを、真面目に受け取っているのだ。
だからこそ、謝罪も撤回も求めなかった。
ただ、これから自分が行う行為への礼儀を求めたのだ。
ウェルスはしばし、堪えるような顔をしていた。
――はっきり言ってしまえば、ここでこいつが「そんなことは死んでも言わん!」と無礼を貫こうが、トゥイーディアはこいつを助けるだろう。彼女は救世主だから。
しかしそれは、長い付き合いの俺だから分かることであって。
レヴナントが咆哮した。
洞穴が揺れる。
トゥイーディアが積み重ねて土嚢とした三体のレヴナントが、徐々に空中に溶け出そうとしていた。
それが、他のレヴナントが障害物を排除しようとした結果のことだったのか、それともトゥイーディアが与えた傷が、徐々に連中を削っていっていたからだったのかは分からない。
だがともかくも、その様相を見てウェルスは屈した。
水流の中に手を突いて、視線を下に向けながらも、喉に絡んだような小声で、ウェルスは呟いた。
「――……ありがとう、――存じます……」
トゥイーディアがにっこりと微笑んだ。
間違いなく救世主としての笑顔だった。
「どういたしまして。そこで安心していらして」
そう言って踵を返すトゥイーディア。蜂蜜色の髪が翻る。
水流の中を迷いなく歩き、まさにこちらに押し寄せて来ようとしているレヴナントを迎え撃つべく、背筋を伸ばして身構える、その姿。
――俺が何百年もの間、憧れてきた背中。
その後ろ姿を目で追いながら、俺は小さく息を吐いた。
冷え始めた空気には熱いその吐息が、暗がりの中を滑り落ちていく。
――トゥイーディ、イーディ、ディア。
おまえはやっぱり格好いいし、子供っぽいし、やられっぱなしじゃいられない。
そしていつでも、いついつまでも、おまえは俺の尊敬する救世主だ。