10◆ 海賊船
俺は思わず立ち上がる。
少し、いやかなり、様子のおかしな船だ。
まず帆がない。俺の知るどの船よりもでかい。帆柱とも思えない黒々とした太い柱が聳えて煙を吐いている。煙突か? 船になんで煙突?
でもそんなことはどうでもいい。
「――こっち! こっち! 助けてくれ!!」
思わず絶叫。
ついでに両手を大きく振る。
いやマジで、この船を逃せば脱出の機会はないも同然。
もう一回筏を作って脱出する手もあるにはあるが、まず、海に出るのが正解とは限らないのだ。
ここが大陸だった場合、内陸に向かって進んで行かなければみんなとは永久に会えない。
今の俺は、最初の一歩をどっちに向かって踏み出せばいいかも分かっていないのだ。
上空から現在地を見下ろせば一発で分かるんだろうけれど、そんな上空まで飛ぶには俺の満タンの魔力が必要だ。
そんなの、ここで空きっ腹を抱えてちゃあいつまで経っても回復しない。
一方でこの船。
船というからには絶対に人が乗っている。
現在地を訊けるのみならず、船というからには絶対に港に入るはずだ。
「助けてくれ!」
恥も外聞もない絶叫。むしろ悲鳴。
ついでに幾つか火花を弾けさせて必死に目を引く。
頼む気付いてくれ……!
船影は滑るように近付いてくる。
その様子が今やはっきりと見えていた。
真っ黒に塗られた船体、聳える煙突。
煙突から吐き出される灰色の煙。
船体の側方に取り付けられた巨大な外輪。外輪の半ばは海に浸かり、唸りを上げて回転して水を蹴立て、船を進めている。
――外輪船?
俺は思わず目を見開いた。
外輪船なら知っている。
船の側方やら後方やらに取り付けた外輪の回転で進む船だ。
外輪の上半分は海上に出しておく必要があるから、喫水を一定に保つ必要がある面倒さと、あと海上で襲われたときに外輪を狙って破壊されたら一撃で足を失うというデメリットがある。
その上、踏み車なんかを使って動かすから、ぶっちゃけ帆と人力で漕ぐ櫂を合わせた方が効率がいい。
それに俺の知る限りでは、外輪のみで航海に耐え得る推進力を得ることは難しかったはずだ。
――技術の進歩かな?
それとも聳えている煙突が何某かの装置なんだろうか?
この間まで――じゃなくて、百数十年前までは、船と言えば帆船。帆を張り、補助として櫂で漕ぐのが主流だったのに。
「――ってそんなことはどうでも良くて!」
思わず自分に突っ込んだ。
何を呑気に考えている、俺。
あの船が行っちまったら終わりなんだぞ。
再び、助けてくれ! と声を張り上げようとしたときだった。
俺は気付いた。
船尾近くに高く掲げられている旗があることに。
その旗が黒地に髑髏を染め抜いたものであることに。
「…………」
時代と共にその辺の風習が変わっていないとすると、俺が助けを求めようとしているのは海賊船である。
「ははは……」
思わず笑いが出てきた。
俺、ツイてないにも程がある。
なんで普通の商船とかが通り掛かってくれないんだよ。
俺が外輪の如くに頭を回転させている間にも、船は進んで行く。
俺に気付かなかったのか、それとも海賊らしく見知らぬ人間を助けようなどとも思わないのか、こちらに接近してくる様子はない。
ただ素通りしようとしている。
――まず、あの船は海賊船だと仮定しよう。
さすがに時代が変わったとはいえ、善良な一般人が髑髏の旗を掲げようなどとは思うまい。
で、問題となるのがあの船が俺を助けてくれるのかどうか。
――十中八九は無理だろう。
なんせ海賊。海賊に碌な奴がいるはずない。
万が一、あの船に乗っているのが良心的な海賊だったとしても、それを確かめる術はない。
あの船に乗せてもらったが最後、身ぐるみ剥がされることになるのは目に見えている。まあ、剥がされるものが無くて困ってんだけど。
でも何発かは殴られるだろうし、下手したら刺されるだろう。
もっとやばけりゃ奴隷商人とかに売られそう。
そんなのごめんだ。
だが、だがしかし、あの船を無視することなど論外。
もう二度と船なんて通らないかも知れないのだ。
だから俺は、大股で数歩、海岸から下がった。
言わずもがな助走のためである。
「――よし、密航させてもらおう」
覚悟を決めてそう呟いて息を吸い込み、俺は勢いよく駆け出して地面を蹴って、飛沫を上げて水中に飛び込んだ。
凍るような冷たさの海水が全身を包んだ。
余りの冷たさに身体が固まりそうになるのを、海面に顔だけ出して、必死になって手足を動かす。
――さて、生粋の箱入り育ちの俺が、水泳の経験なんてあるだろうか?
答えは否。考えるまでもなく否。
この身体で泳いだことなんて、つい昨日(あるいは一昨日。もはや時間の流れが分からない)、嵐の海に投げ出されてもがいたときだけだ。
だが、俺は知っている。
泳ぐときの感覚、水を蹴るときの力加減、息継ぎの仕方、潜水の仕方。
――全部、別の身体でやってきたことだ。
何百年生きてると思ってる、水泳なんざ余裕余裕。
しかもここは海。原理は分からないが、海水の方が真水よりも泳ぐのが楽な気がする――寒いけど。
ぶっちゃけ肺より先に皮膚が限界だけど。もはや痛いレベルだけど。
俺はがちがちと歯を鳴らしながらも、懸命にちゃぷちゃぷと水を掻き、海賊船に接近するとあって、警戒ぎみに斜め後方から近付いた。
まだ少し距離があるところで大きく息を吸って水に潜り、水中から船に最接近する。
海水は透明で、視界の確保に困らない。
ゆっくりと少しずつ息を吐きながら水を掻き、水を蹴り、藻やら苔やらよく分からない貝やらがくっ付いた、黒色が剥げ掛けた船底に手が届く距離に詰めた。
そこで肺が張り裂けそうになり、俺は慌てて水面に浮上して、船にぴったりとくっ付いて大きく数回深呼吸。
顔を出した場所は船の側方、船尾近く。
ここより前に寄り過ぎると外輪に巻き込まれるかも知れないからね。
立ち泳ぎしつつ見上げると、甲板までかなりの距離だ。
そうこうしているうちにも船は進んでいくので、俺も慌てて水を掻く。
歯の根がいよいよ合わない。
風が吹くとマジで凍りそう。
海水は冷たいを通り越してむしろ痛い。
船の高さのせいで、甲板までには相当の距離がある。
だが問題ない。
さすがに飢餓状態が続いたせいで、寝ても寝ても体力魔力の全回復とはいかないが、こんな程度の魔力なら回復している。
――多分、俺の魔力は万全の体調のときと比べて三分の一くらいしかないだろう。
どんだけ無理してんだか。
とはいえ俺は、一瞬だけぎゅっと目を瞑って意識を集中した。
この頃は空腹すぎて、ちょっとしたことで気が遠くなるから、意識を集中させることさえ億劫になりつつある。
――そして、世界の法を書き換える。
曰く、俺の足は物質の硬軟に関わらず、実体のあるなしに関わらず、踏み出した場所を足場とすることが出来る、と。
魔力を対価に世界の法が書き換わる。
それを確認してから、俺は勢いよく海から上がった。
そこでさすがに、髪やら衣服やら靴から、一気に水分を振り払う。
ジュッと音を立てて水分が蒸発した。
自分に高温の熱風を浴びせたわけだけど、俺はこの魔法の行使に過度の気を遣わなくて済むただ一人の人間だ。なにせ俺、火傷だけはしないから。
それに、濡れたままでこんな海上にいたら本当に死んでしまう。
からっと乾いた俺は、そのまま空中を駆け上って甲板に手を掛けた――というよりしがみ付いてぶら下がった。
いきなり甲板に上がり込んだりはしない、何せこれは海賊船(推定)だから。
なので俺は慎重に、甲板から顔だけ出して、柵越しに船上の様子を窺う。
甲板――というか船上で、数人が慌ただしく動き回っていた。
とはいえ人間が動き回れるスペースはそれほど広くなくて、甲板の大部分を、何かよく分からない、黒々とした装置の鉄の筐体が埋めている。
装置に高さはそれ程なくて――多分、目測だけど五、六フィート――、何人かはその装置の上に登って何かしていた。
船尾楼甲板の手前までを占めるその装置から煙突が伸びているのだが、なんだあれは。
俺が死んでる間に何があった。
船に掴まったまま茫然とする俺。
そんな俺の耳が、船上――船尾楼甲板上の怒鳴り声を拾った。
「おいアランてめぇ! リリタリスの船が出るのは今月ってのはどうなったんだよ! 今日くれぇにここを通るはずだろうが!」
それに答える若い声。
おろおろしているが、どことなくのほほんとした声音だった。
「お――俺もよく分かんないっす。けどなんか、こないだの港でダチが言ってたんですけど、なんか遅れることになるって――冗談かと思ってたんすけど、ここまで張ってて船が来ないってことはマジだったんすね」
「なんだよアテになんねぇなあ! ってかそういう情報があったんなら早く言え!」
「申し訳ねぇっす。令嬢の花婿候補を絞るのに時間が掛かってるとか何とか……」
「はあ!? 男と一緒にガルシアに入るってか!
――くっそ、いいタイミングだと思ったのによぉ! 後になるならうまい具合に襲えねぇぞ!」
「も、申し訳ねぇっす……」
俺は静かに頭を引っ込めた。
希望的観測も一緒に引っ込んだ。
ここは海賊船(確定)。
リリタリスというのが国名なのか都市名なのか家名なのかは分からんが、命拾いしたみたいだな。
――さて、次にどうするか。
さすがに俺も、ずっとここにぶら下がってるのはしんどい。
上手く海賊の目を盗んで甲板に上がって、あわよくば船倉とかに潜んで港に着くのを待ちたいんだが。
目くらまし――は、今の俺にはきつい。
使えないことはないだろうけど、万が一のときのために魔力は温存しておきたい。
何せここは海賊船。
ふと、脳裏に飴色の瞳の幻影が去来した。――こんなとき、あいつなら上手く誤魔化せるんだけど。
あるいはディセントラなら。
ふう、と息を吐いて、俺は軽く頭を振った。
いない奴は頼れない。一人でいるのはなかなかきつい。
でも自分で何とかするしかない。
息を吸い込んで、俺は内心で、「ごめん海賊さん」と呟いた。
こっちを見てほしくないのなら、どこか別のところを見ていてもらう他ないだろう。
そういうわけで――
「――おい! 燃えてるぞ! 小火だ!」
甲高い男の声が船の前方で聞こえ、甲板にいた全員がざっと靴音を立ててそちらに向かって駆け出した。
船尾楼甲板に立っていた船員たちも、どたばたと階段を駆け下りて走る。
その中の一人が俺のすぐ傍を通り、俺は少しだけひやっとした。
「なんだと!?」
「何が燃えてる!? 火種なんかないだろ!」
すみません俺が勝手に火を点けただけです。
こっそりと再び顔を出した俺は、あらかたの人間が船の前方に駆け去ったのを見て、そっと空中を踏んで柵を乗り越え、甲板に降り立った。
そのまま、揺れる足許によろめきながらも足音を忍ばせ、船尾楼船室へ続く扉に向かう。
船の後方を高く持ち上げて船室を造る構造が、帆船と変わってなくて良かった。
が、俺の経験上、船尾楼船室は大抵船長室か、あるいは貴賓室だ。
扉を開けた瞬間に、海賊船の船長さんとこんにちはしてしまっては笑えない。
だが当座、隠れる場所として思い付いたのはここだけだった。船倉への入り口が見当たらないのである。
だが、勝算はある。
先程、リリタリスの船がどうとかで船員を怒鳴っていた人物。
あれだけ偉そうな口を利いていたのだから、彼こそが船長という可能性が無きにしも非ず。
無人であれ無人であれ――と祈りながら、俺はえいやと扉を開けた。
軋む音を立てて開いた船室への扉、その向こうは果せるかな無人だった。
「良かった……」
思わず呟いて、俺は船室に滑り込んで後ろ手に扉を閉めた。
同時に、俺が点けた火の勢いを弱めた。
すぐに消火されるだろうが、海賊たちが消火に失敗したとしても、こうしておけばそのうち勝手に消えるだろう。
俺の経験則は当たっていた。
船尾楼船室は間違いなく船長室だ。
だって見るからに豪華だもん。
まず明るい。船尾側に大きな窓があるのだ。曇りがちな硝子を通して、船の軌跡を描く飛沫と波の道筋と、さっきまで俺がいた陸地が見える。
まだそれほど離れていないので、やっぱり島なのか大陸なのかの判断がつかなかった。
窓と垂直を成す壁の壁際に取り付けられている抽斗は、最上段が開けっ放しになっている。
中には衣服ではなくて、何やら犯罪の臭いのする貴金属類がどっさり詰め込まれていた。
船室の中央にはどっかりとでかい机と、豪華な椅子が一揃え備え付けられており、机の上には酒瓶と食べ差しの食事が乗ったままの食器が散乱していた。
豪華な机の手前には円卓が固定されていて、その上には海図が広げられ、水晶造りの文鎮で押さえられている。
海図の上にはコンパス。
俺は思わず、身を隠すことも忘れて海図に飛び付いた。
海図が描かれている紙の上質さにまずびっくり。
ホントに、俺が死んでる間に何が起こったんだ? これまでこんなに文明が進むことってなかったのに。
――で、海図海図。
海図は、俺が見慣れているものとほぼ同じだった。
二つの大陸と、その南側に広がる諸島。
海岸線が俺の知っているものよりも鮮明に細かく描いてある。
所々に記されているバツ印は、恐らくそこに〈洞〉があるという印だ。
現在地に印でも付いていないかと、目を皿のようにして眺めたが、そう必死にならなくとも良かった。
この海賊船の船長は真面目らしい。
幾つかの陸地に赤いピンを立てていて――多分目的地の意味――諸島の一つの傍に、青いピンを立てていたのだ。
多分、これを現在地付近と思っていいはず。
「ド田舎諸島か……」
思わず俺は真顔で呟いた。
ド田舎諸島。
人口はごくごく少数で、諸島の中には無人島もある。
国家の体を成しているかも危ぶまれる、独自の統治形態が俺の記憶にある限りではずっと続いている。
俺がさっきまでいたところは、さては無人島だろう。
そんなところに俺は流れ着いていたのか。
「で、次の目的地は……」
俺は眉を寄せ、コンパスを一瞥して、現在この船が北東に向かって進んでいるだろうと判断。
海図を指で辿り、東側の一番近い赤いピンに行き着いた。
東の大陸の海岸。恐らくは港町。
「……ルーラ……?」
凝った字体で書かれたその港町の名前を、呟くように読み上げる。
ルーラ、聞いたことのない地名だ。
俺が行ったことがないだけか、それとも地名が変わったのか、あるいは海賊の間でのみ通じる呼称なのか。
百年や二百年でほいほい地名が変わるとも思えないから、俺が行ったことないだけかな。
大きな波が来たのか、ぐぅらりと船体が揺れた。
油断していたところに揺れを喰らって、俺は大きくよろめく。
その拍子に、今は身を隠さねばならないときだと思い出した。
慌てて身を隠す場所を探しながら、俺はでかい机に近寄って、その上に広げられた食べ差しの食事から、まだ口が付いていないと思われるパンを一切れ摘まんで口に入れた。
感激するほど美味かった。
思わず机の上の食べ差しをガン見。
なんなんだ海賊。儲かるのか、なんでこんないいもの食ってんだ。
だが、一瞬にして気付いた。
海賊がいいもの食ってるわけがない。
奴らは海上で、栄養不足でぶっ倒れると相場が決まっている。
――しばらくまともに食事をしてこなかった、俺の舌がいかれてやがるんだ。
自分の身の不遇を改めて嘆いていたそのとき、船室の入り口の扉のノブががちゃりと鳴った。
硬直する俺。
やばい、部屋の持ち主が帰って来た。
慌てて左右を見渡すも、身を隠せる場所は一つしかない。
――俺はでかい机の陰にしゃがみ込んだ。
子供のお遊び並みの隠れ場所。
けどここしかなかったんだから仕方ない。
息を潜める俺は、扉を開けた船長らしき人物が何やらぶつぶつ言いながら入室してくるのを、気配でというよりは耳で感じ取った。
「あの馬鹿どもが。なんであんなとこで小火起こしやがる、無能め……」
多分誰かが小火騒ぎの冤罪で一発殴られるか何かしたんだろう。
そう思うと、相手が海賊とはいえ少々申し訳ない気がしないでもない。
重い靴音を鳴らした船長だったが、すぐにぴたりと靴音が止まる。
恐らく海図を見ているんだろう。
「くそ……さっきといい小火といい、朝から妙なことばっかりだぜ……」
机の上を硬いものが滑る音。文鎮をずらしたのかな?
続いて、とんとん、と、船長が海図を指で叩くような音が聞こえた。
「なんでこの辺の無人島に人がいやがった……? 何かで島流しにでも遭ったのか……?」
あっ、俺の必死の呼び掛けにこの船長さんは気付いてたんですね。
思わず舌を出す俺。
海賊船だって最初から気付いてたらあそこまでアピールしなかったさ。
「まあいい……」
呟いた船長。再び足音。緊張する俺。
船長がどっちから近付いてくるかを必死で聞き取り、四つん這いになって、机を挟んで彼と反対側になるようにしながらじりじり動く。
床が軋んでどきっとしたが、船上で良かった。
波の音と船体が軋む音に紛れて、船長は気付かなかったらしい。
船長がどっかりと椅子に腰掛けた。
俺は机の反対側で蹲る。
扉側から丸見えになる位置なので、正直に言うと気が気でない。
せめてこの海賊一派が、入室の際にはノックをする礼節のある連中だということを祈ろう。
惨めな思いで膝を抱える俺。
一方で船長は食事を再開したらしく、むしゃむしゃと咀嚼音が聞こえてきた。
俺は腹が鳴りそうになるのを必死に堪えた。
腹が空きすぎていっそ吐きそう。
――すっげぇ惨めだ。
船長が船室を出るときには、またしても机を盾にすることで隠れ果せた俺は、船長がいない隙にこっそりと船室を抜け出した。
そのまま、鼠のようにこそこそと甲板の装置に隠れながら船倉への入り口を捜索。
甲板の隅の方に格子の上げ戸があって、そこが船倉に降りる階段に続いていた。
人通りの絶えないその階段をこっそり降りることは不可能なので、俺は日が暮れるのをあちこちに隠れながら待って、とっぷりと暗くなった後にそこをこそこそと降りた。
胃に穴が開きそうな半日だった。
湿った木の階段は俺が下りると大いに軋み、俺の肝を縮み上がらせた。
だが幸いにも、降りた先の船室では晩餐という名のどんちゃん騒ぎの最中で、誰も気付かなかったらしい。
階段を降りた先はすぐに船室になっており、長テーブルを囲む長椅子に船員が集合して、テーブルの上に置かれたカンテラの明かりを頼りにどんちゃん騒ぎに興じている。
その様子が見えたときは軽く絶望したが、ごくごく狭い範囲しか照らさない灯りで助かった。さすがに煌々と照らし出されている場所に進み出て行ってバレない自信はない。
いい匂いとはお世辞にも言えないが、空きっ腹の俺には魅力的な匂いが漂っていた。
こっそりと窺うに、食事よりも酒がメインの食卓っぽいけど。
船室の隅には、恐らくは酒樽だろう樽が五、六個、無造作に重ねて並べられている。
船室の低い天井からは幾つかハンモックが下がっていて、多分どんちゃん騒ぎが終わったら何人かはここで寝るんだろうと察せられた。
で、俺が驚いたのは、甲板の大部分を占めていた装置が、甲板を突き破ってこの船室まで圧迫するように設置されていたことだ。
船のど真ん中を、丸ごとこの装置が占めているようだ。
階段を降りてすぐ、階段裏へ逃げ込んだ俺は、船室の壁のように張り出すその鉄の筐体を思わずまじまじと見てしまう。ホントに何だ、これは。
甲板から降りてすぐに船室があるわけだが、勿論この規模の船で船内のスペースがそれだけということは有り得ない。
海賊船ならお馴染みの牢屋なんかもあるはずで、多分もう一層くらいは下にスペースがあると見ていいはずだ。だがあんまり下に行き過ぎると、いざ港に着いたときに脱出の機を逸する可能性もある。
そんなことを思いながら、真っ暗な船内を歩く。
さすがに何も見えないので、蝋燭の灯くらいの明るさの小さな炎を目の前に浮かべた。
今歩いているのは、大砲なんかを設置していある場所のすぐ傍。
火薬の類を放置しておくとは考えづらいので、見張りの一人もいるだろうと身構えていたが、幸いにも無人だった。
砲筒のために外に向かって開けられた穴から、波の音が聞こえてくる。
空腹も相俟って、ちょっとした揺れでもふらふらしている俺は相当情けない。
――というか、船倉はどこだ。
身を潜められる場所を探しているというのに一向に見付からない。船内を鋼鉄の装置が埋め尽くしているせいだ。
船尾側とか船頭側に船倉が設けられているのか?
危機感を覚えながらうろちょろしていると、更に下へ降りるための梯子を発見した。
下に降り過ぎるのは得策ではないとはいえ、下に船倉があるかも知れないので降りてみる。
すぐに聞こえてきたのは、耳慣れない音だった。
ごおおお、と、何かが絶えず高速で回転しているかのような音が、下から響いて伝わってくる。
「……なんだ?」
密航中であるということも忘れて思わず呟く。
よく考えるとこの下に、外輪を回し続けるために踏み車を回している船員がいるはずで、やべっと口を押さえた俺だったが、その心配は無用だった。
下は無人だった。
そしてどうやら、甲板からずっと続いている装置は、この階層のための物だったらしい。
階上から続く鋼鉄の装置は、ここに至って二股に分かれ、外輪に接続されているのだ。
装置の内部で響く高速回転の音、そして装置に接続されて、船外で水面を掻く外輪。
なんだこれは。
絶句した俺は思わず装置に近づき、黒々とした筐体にぺたぺたと触る。
――熱い。
内側から熱されているようだ。
まあ熱さは俺にとって害ではないからいいけれど、他の人がこれを触ったら火傷ものだろう。
そして、何よりも妙なことに、この装置の内側から確かに魔力の気配がする。
さっきまでは感じなかった。
だが今ははっきりと感じる。
この装置の仕組みがどういうものかは分からないが、動力を生み出すためのものに相違はないだろう。
そこに魔法を使っているということだろうが、
「――有り得ないよな……」
腕を組んで俺は呟く。
魔法は、人が使うもの。あるいは魔族が使うもの。それ以外では有り得ない。
もちろん、自分から離れた位置で魔法を使う――即ち、自分の目の届かない場所で働く世界の法を書き換えることも可能だが、自分から魔法の目標座標が離れれば離れるほど、消費する魔力は多くなる。
つまり、この装置から魔力の気配がするのはおかしいのだ。
中に人が入っていれば別だけど。
それに、こんなにも長時間に亘って魔法で動力を提供し続けるなんて無理だ。
俺ですらここまで来るのにこれだけ疲弊しているんだから。
魔力を他人に譲渡する方法なんて無いし、魔法は溜めておくことが出来る性質でもない。
「外輪が回り続ける」と世界の法を書き換えたのならば、外輪が回っている間中ずっと、魔力は消費され続けるのだ。
「どういうことだ……?」
首を捻った俺だったが、睡眠も栄養も不足している今、考えても正解に行き着けるわけがない。
――ちゃんと帰って、あいつらに再会したら教えてもらおう。
俺は外界と遮断されている魔界にいたから今の大陸の事情を何も知らないけど、あいつらは知っているはずだから。
そんなわけで俺は肩を竦めて、ここに船倉はないと断定し、もう一度梯子を昇るために踵を返した。
船倉は船室と同じ階層の船尾側に、装置に圧迫されるようにして手狭なものがあった。
密輸と強奪の臭いがぷんぷんする木箱が大量に積まれており、俺はその木箱の間に身を縮めるようにして過ごすこととした。
もちろん、時機を見計らってこっそり船室に忍び込んで食事の残り物をばれないように頂戴することも忘れない。そうでもしないと餓死するからね。
しかし、これはこれできつい。
環境が変化する度にきついって思ってる気がするけど、きついものはきつい。
まず、身を縮めていないといけないから姿勢が厳しい。
ずっと蹲ってて血の巡りが悪くなる。
あとは気温。
クソ寒い。熱を呼んで自分を温められるからいいけど、それと引き換えに魔力は垂れ流し状態である。
それから、完全に昼夜の時間感覚を失った。
船倉に窓はないからね。船倉の外に人の気配があるかどうかだけで時間を判断してるけど、果たして合っているのかどうか。
揺れもひどくて気分が悪くなる。
でもまあ、漂流してた頃よりはマシか……。
自分の身の上には嘆息しか出てこないが、ちょっとずつでもみんなとの再会が近付いているということだけが救いである。
早く帰りてぇ。
――密航の旅がどれだけ続いたのかは定かではないが、とにかくどんな状況にも終わりというのは訪れるもので。
うたた寝から覚めた俺は眉を寄せた。
というのもやけに船倉の外が騒がしかったからだ。
何と言っているのかまでは聞き取れないが、怒号のような声も聞こえる。
なんだなんだと思って、俺は半ば腰を浮かせた。
その瞬間、かつて聞いたことのある音と同じ音が聞こえてきて、ついでに船体が大きく揺れて俺は木箱に盛大にぶつかった。
派手な音がしたが、そして結構痛かったけど、俺はそっちに反応できない。
事態の急変を悟って思わず真顔になっていた。
聞こえたのは、耳を劈く低い轟音。
腹の底に響く、どん! という爆音が、立て続けに耳朶を打つ。
――おお、マジか。俺は本気でツイてない。
俺の不運にこの船を巻き込んだのなら申し訳ない限りだ。
この音は大砲の音だ。
そして、海賊船が大砲をぶっ放す理由なんて一つしかない。
――この船は何者かと交戦中なのだ。