異世界の砂漠で大をする。
『異世界のトイレで大をする。』
第三話
――クァラーラ砂漠。
一年を通して日中の平均気温が四十度を超える砂漠地帯。湿度こそ低いが、冒険者にとって酷く照り付ける直射日光と七十度強の地表面温度はまさに脅威。この砂漠を歩くということは、焼かれた鉄板の上を歩いているようなものである。そのため、この砂漠を渡る冒険者は日光を遮る装備と、充分な水の確保をしなければ命はない。
「のどが……カラカラだ……」
ヨータローがいつもより猫背気味で気怠そうに歩きながら言う。すでにクァラーラ砂漠を歩いて、一時間以上が経っていた。
「み……水……もうないのか?」
ヨータローと同じく、喉が渇ききり水を欲しているギギーが辺りを恨めしそうに見渡しながら言う。
「いくらクァラーラ砂漠の地理が分かる魔法の地図を手に入れたとはいえ、水を少なくしたのは失敗だったな……」
魔法の地図はクァラーラ砂漠に入る前に行商人から購入した。値段は張ったが、正確な砂漠の地理を知ることができればクァラーラ砂漠を迷うことなく抜けられるので、装備を最小限にしても砂漠を抜けることができる。その利点の方が勝ると思ったからだった。
「気候はもちろん、足が砂にとられるから体力の消耗が激しい」
ヌラエルが魔法の地図に目を落としたまま呟くように言う。もう既にギギーとヌラエルの水袋には水が入っていなかった。
「ちゃぽ……ちゃぽ……」
と、その時、ギギーが水の音を聞いた。水の音のする方を見やると、どうもヨータローが腰からぶら下げている水袋の中から聞こえているようだった。そこで、すぐにギギーはヨータローの水袋に手を伸ばしてその水袋を振ってみた。水の「ちゃぽちゃぽ」という音と共に確かな水の重さを感じる。間違いない、ヨータローは水袋の中にまだ水を残しているのだ。
「ヨータローの水袋に水がまだ入ってるじゃん! ちょうだいよ!!」
「違うんだこの水は! これは大をしたあとお尻を洗う用の水なんだって!!」
激しく照り付ける太陽と深刻な水不足がこいつの頭をおかしくしたのか、とギギーは一瞬考えた。しかし、そうではない。ヨータローはいつもトイレや排泄のことを考えている。これが、ヨータローにとっての平常運転だった。
「状況わかってるのか!? 死ぬかもしれないんだぞ!?」
ギギーが鬼のような形相で言うと、ヨータローの肩に掴みかかり水袋を引っぺがしにかかった。しかし、それでもヨータローの態度は変わらなかった。
「尻の危機こそ、命の危機!!」
「は!?」
「代わりにその魔法の地図で拭いてもいいなら別だけど!」
そう言ってヨータローは水袋を奪われまいと抵抗しつつ、ヌラエルの持っている魔法の地図を指さした。
「いいわけないだろ! いくらしたと思ってるんだ!!」
ヌラエルはこの二人の痴話喧嘩を聞いていて内心、これだけ喋れるならもうちょっと歩いても大丈夫だな、と思っていた。魔法の地図によるとこの先にオアシスがあるが、黙っておこう……と。
ヌラエルが魔法の地図から視線を外して二人の方を改めて見ると、ギギーはとうとう腰の短剣に手を伸ばし、いつでもヨータローに斬りかかれる体勢をとっていた。それは最早、荷物を奪いにかかる野盗であった。
◇
「オアシスが……ない……」
いつも冷静なヌラエルが珍しく焦りの表情を見せた。それは、完全に誤算だった。あれからしばらく歩き、オアシスがある場所に到着した。しかし、実際にそこにオアシスはなかった。恐らく、最近までは本当にオアシスだったのだろう。円形に窪んだ水地の跡と水辺周辺にしか生えない植物が力なく枯れ果てていた。
「ヌラエル……もしかして、オアシスって……」
「そう」
ギギーの事実を受けて入れられないと言わんばかりの消え入りそうな声に、ヌラエルが答える。
「ここに本来、オアシスがあるハズだった」
ギギーがヌラエルの持つ魔法の地図をのぞき込んできたので、ヌラエルはオアシスの場所を示す所を指さした。
「場所はたしかに合ってる。じゃあ……最近、このオアシスは枯れちゃったってこと?」
ヌラエルは「おそらく……」と言ってギギーを見つめた。すでにギギーが先程、ヨータローの水袋を奪って水を三人で分け合っていた。そのため、三人が持つ水は完全になくなっていた。それでも喉の渇きは癒されていないのにも関わらず、このクァラーラ砂漠を抜けるためには炎天下の中まだ大分歩かなくてはならない。ギギーはそれを思った時に、全身の血の気がひいた。水がなく喉もカラカラのこの状況で、このまま歩き続けて果たして体力が持つのだろうか……。そして、頭の中に一つの言葉が渦巻いていた。それは死――。
「ねぇ、この砂漠に住む人たちってさ、お尻を何で拭いてるのかな?」
「は??」
こんな時にでも、ヨータローは呑気な声を出す。
「いや、紙で拭いてるのかなと思って。でも、紙はこの世界でも貴重だから……それは、ないか……じゃあ一体なにで……」
「おい、ヌラエル。あいつとうとうおかしくなっちゃったか……?」
「多分、これが普通」
――日本では尻を紙で拭く。それが当然だ。しかし、紙で拭くのは世界人口の三分の一に過ぎず他の様々なトイレ始末作法が用いられている。仮に世界中の人々が紙を使いだしたから資源が枯渇するだろう。
「ヨータロー! そんなくだらないことを考えていないでこれからの事を考えろ! このオアシスだって、枯れ果ててこんな砂ばかりの所になっていて――」
――砂?
その時、ヨータローの脳に電流が走った。
「そうか、砂だ!!」
「はい?」
「砂ってさ!!」
ヨータローは幼い子どものようにはしゃぎ、両の手で一気に砂漠の砂をすくった。そして、こんもりと山になった砂をギギーに見せた。
「こうしてみるとスライムに似てない!?」
「ええ……?」
「確かに砂の魔属性と水の魔属性は似ていると言われている」
ヨータローの謎の主張を裏付けるかのようにヌラエルが静かに口をはさんだ。
「でしょ! つまり砂漠では……砂でお尻を拭くのが流儀なんだ!!!」
「そればっかり!!」
ギギーはそう言うとその場でずっこけた。本当にこの人は頭がトイレでできている。トイレ以外のことを考えることを神様が許していないのか、というほどに。
「じゃ、謎も解けてスッキリしたところでもうひとつの意味でスッキリしてきます!」
そう言ってヨータローは二人に背を向けると、その場を後にした。
「はぁ、ヨータローもこんな状況でよくもよおせるな……。けど、実際どうする? このまま日が沈むまで待って、涼しくなった砂漠を歩いた方がいいか……?」
「ううん。このクァラーラ砂漠には蟻地獄というモンスターがいる……だから、できればこのまま歩いた方がいい」
「そうか……蟻地獄ね……」
ギギーはヨータローを待つために、以前は水辺があった窪みに足を投げ出して座った。すると、そこに傷痕がついていたことがわかった。なにか巨大で鋭利な刃物で深く傷つけた、側面を削り取ったような傷だった。
◇
見渡す限りの砂、砂、砂。そんなクァーラ砂漠のど真ん中でヨータローはしゃがんで用を足し終わっていた。風が吹けば水分を全く含まない砂塵が悪戯に舞い、太陽は高くこの世界の全てを暴くかの如く燦燦と照らしていた。ヨータローはここまで解放感のあるトイレは元の世界にもなかったな、と考えていた。この屋根も壁もなにもない大自然のトイレで自分というちっぽけな存在が大をしているのだ。まさに、身も心も解き放たれていくようだった。
「さて……じゃあ、早速やってみようかな……」
覚悟を決めると、ヨータローは右手で砂を掴み取りそれを自分の尻にあてがった。それは、とても奇妙な感覚だった。
――初めてやってみたが、これはなかなか……いい……!
砂漠の砂は非常に細かくて、尻にあてがっても痛くなかった。そして、砂漠の空気も非常に乾燥しているため尻にくっつくことなくパラパラと落ちていく。
「拭くというより、お尻に砂をかけてはらう感じか。この感触はちょっとクセになりそうだ……!」
こうして、大自然の排泄行為を堪能しヨータローは立ち上がった。そして、自分が用を足した場所を見ると、すでに出したものが流砂によって流れていた。それはまるで、自然の水洗トイレのようであった。
――中近東の砂漠地帯でもすぐに乾燥してフンコロガシがいつの間にかどこかに持って行ってくれるって聞いたことがある。それを知らないアメリカ人にトイレを作らされた結果、そこからハエが大量発生することになったとか……。
「高温と乾燥とフンコロガシが、勝手に処理してくれるっていうのに……。人間っていうのは、そんな簡単なことにも気が付かなかったりするんだな。本当に、哀れな生物だよ」
そんなことを考えて、少しだけセンチメンタルな気分になった。さて、そろそろ二人の元へ戻ろうか、と思った時だった。突然、地鳴りがしたと思ったら、足元が揺れた。さすがのヨータローもこれはただごとではない、と思ってすぐにその場から離れた。
「うわあああああああああああ!!!」
まさに、間一髪だった。ヨータローが少しでもそこから離れるのが遅れていたら、命はなかっただろう。足元から現れたのは、巨大な湾曲した大顎を持つクァーラ砂漠のモンスター・蟻地獄だった。ヨータローは地中から出現した蟻地獄を見上げた。そこで、今までヨータローを照らしていた太陽がなくなっていたことに気が付いた。それは、太陽が隠れてその場が影になってしまうほど蟻地獄が巨大である証明であった。蟻地獄の先端についている大顎の内側には、無数の鋭い内歯があり、それは獲物であるヨータローの元に向けられていた。
(あれ、これ……ぼく、死ぬんじゃ……?)
もう、あまりの恐怖で声は出ていなかった。ここで死ぬと最後の排泄が砂漠となってしまうのか、と考えた。それはいいことなのか、悪いことなのかヨータローにはわからなかった。やはり、最後の排泄というのは自分の理想とする形で――
「ヨータロー!」
覚悟を決めた刹那、ヨータローの背後から声が聞こえた。そして、その声と共にヨータローの頭上を投げられた短剣が通り過ぎていった。その短剣は蟻地獄の腹に見事命中し、蟻地獄は身をよじるように苦しんだ。ヨータローがその飛んできた短剣がギギーのものであることに気が付いた時にはすでに次の攻撃が始まっていた。
――水の精霊よ、契りに従い敵の頭を垂れさせよ――
「水圧力」
蟻地獄の頭上から激しい水柱が流れ出た。その水柱に蟻地獄はなすすべもなく、一撃で押しつぶされその場に倒れた。
「危なかったね」
ギギーが倒れた蟻地獄の腹に刺さった短剣を抜いて言う。
「さっきのオアシスだった場所に蟻地獄の痕跡があったから、もしかしたらと思ってこっちに来たら案の定いたってワケ」
「ふぅ……助かった……」
ほっと一息つくヨータロー。ただし、今回の旅はこれで終わりではない。そう、この長いクァーラ砂漠をまだまだ歩かなければならないのだ。
「全然、助かってないぞ。本当にキツいのはこれからだ。水はもうないんだ。それでこの炎天下の中、歩かなきゃならないんだから……」
ギギーの言葉に確かにそうだな、と思いヨータローは立ち上がった。しかし、蟻地獄に襲われたショックと緊張感で既に喉はカラカラを通り越していた。水分を失った喉は今にも張り付きそうで、頭もくらくらする。そして、それはギギーとヌラエルも同様だった。果たしてこの状況で、この砂漠を無事に超えることができるのだろうか。蟻地獄を撃退したのにも関わらず、三人を取り巻く空気は重苦しかった。それ程に、三人は疲弊しきっていたのだ。
――水?
その時、ヨータローの脳に電流が走った。
「あのさ、水ってさ……ヌラエルの魔法で出してもらえばいいんじゃないかな……」
「「あ」」
ギギーとヌラエルが同じタイミングで目を丸くして、顔を見合わせた。人間は時々「そんなことにも気が付かないのか」ということがままある。この後、水分補給をして平常運転に戻ったヨータローが『ヌラエルの水魔法を弱く尻にあてれば夢のウォシュレットがこの異世界でも実現するんじゃないか?』と思いつき試したいと懇願することになるが……それはまた、別のお話。