幻影
窓越しに映る外が黒を裂く早朝、それを不意に感じて僕は目覚める。まだ重い身体を起こして時計の方に目を遣ると、設定したよりも30分程早い時刻を指していた。今までも目覚ましより早く起きることはよくあったが、身体の重さからして今日は眠りが浅かったからだと感じる。無理もない。昨日起こった光景、昨日告げられたことは今もなお頭に残り、心に響いている。
すぐそばにあったはずの日常、その裏で生死をかけた戦いが行われていた事実。その戦いはずっと昔から続いている事実。その戦いに自分達の命もかかっている事実。そして、街の人達を守る為に戦っている少女がいる事実。名前は確か、精霊だったっけ‥。昨日それらを告げられたとき、僕は愕然とし、戦慄し、そして絶望した。
帰り道もおぼつかず、食事も喉を通らなかったことが記憶に新しい。あれ以来、僕は終始そのことに悩まされていた。
(いっそのこと全部夢だったら‥)
そんな本能的な気持ちが心をよぎる。本当は理性でも半分逃げてるのかもしれない。それだけ受け入れられないことだったのは確かだったから。でも、それでもそれを咎めている気持ちが半分。記憶の鮮明さや彼女の哀れみ、それらが偽りの無い本物だと感じるものも僕の中に確かにある。
そんな2つの気持ちが未だ入り混じる中、自分に今出来ることが無いことに絶念して、少し早い朝の支度を始める。いつもの作業、いつもの光景、そこに変化は何も無い。違うのは見え方だけ、そう言い聞かせては手を動かした。
そうして支度が全て終わった頃、玄関のチャイムが鳴ったのに気付き鞄を持って戸を開ける。待ってるのはいつもの二人。
「おはよっ!」
抑えきれてない元気ののった綾ちゃんの声が伝わる。僕等もつづけて挨拶をして、学校までの道を三人で進む。口数の多い二人が話題を出しては言い合い、それを僕は一歩後ろで見ながら仲裁するのが登校の概ねの形だった。
今日も例に漏れず綾ちゃんのクラスの話題が交わされる。一人違うクラスの彼女が主導権を握る中、僕はいつもより話に入れずにいた。
その時、僕の目にあるモノが映る。彼女の制服の肩下部分、そこにシワも無いのにある一本の線。よく見るとそこを境に上下の明るさがほんの少し違うのが分かる。状況を整理していくうちに戸惑いの感情が湧き出る。
(これって…下着透けてる…!?)
慌ててそらした顔に、急に血が上っていくのが分かる。
どうしよう…言うべきかな…
僕としては惜しい気持ちもあるけど、そのままにするのは可哀想だから伝えなきゃとは思う。でも僕がそれを伝えるということは、”男子に下着を見られた”ということも一緒に彼女に伝えることになる。それなら学校で他の女子から伝えられたほうが彼女にかかる羞恥は小さくて済むはず。そういった思いが言葉を詰まらせた。
でも、その迷いは彼女の顔を見るや消え失せた。
さっきの線とはまた別の、より濃くて複雑な線が、彼女の顔を流れている。少し経って気付くと。それは彼女の後ろの住宅街そのものだった。
(透けてる…‼?)
言葉を失って、背筋の凍る感覚とともにさっきの制服の線に目線を戻す。僕の嫌な予想の通り、その線はその先の塀の線に沿って流れている。他にも腕や足、至るところから背景が透けて僕の目に映った。
(なんで…)
あり得ないことを前に気持ちが焦る。さっきまであった頬の紅潮はもう無い。どころかとてつもない大きな不安が胸を襲う。思考は当然まわらず、心の内で呼吸が荒くなっていく。
「どうした?」
1人更けていた僕に声をかけたのはタカ君だった。慌てて見ると二人が僕を心配そうに見ている。二人とも綾ちゃんの様子には気付いていないようだった。
「…ううん、考え事してただけ。」
僕はそう応えて二人の目が離れるのを確認する。それはあまり巻き込みたくないと思う僕の、苦し紛れの判断だった。そして深呼吸した後、彼女の状態について考え直す。今度は冷静に、順を追って‥
綾ちゃんの身体が透けてる。
気付いてるのは僕だけ
タカ君や他の人は透けてない
つまり僕1人が綾ちゃんだけ透けて見えている。
普通はあり得ないこと。
でもそんなあり得ないことが起きている。
あり得ないことが起こる要因‥そんな要因が‥ある。
冷静になれた途端に見つかる鍵。昨日起こった衝撃的な出来事。アレと関係のあることなら、あの非現実的な出来事に繋がりがあるとしたら、それならあり得るかもしれない、というよりそれ以外には考えられなかった。
「詳しいことは‥また次の機会に話すね‥」
そう告げたあの少女の声を思い出し、僕はそれに賭けてみることにする。
正体の分からない、一抹の恐怖を抱えたまま‥