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M先生と私

「ぐや〜、ぐや〜、なんじぃをぉーいかんせぇん!」


 独特な節をつけて彼女は教壇の上で漢文を朗読していた。


 意味は『 虞や虞やおまえをどうしようか、いやどうしようもできない。』という意味。これだけみると意味不明だが、これは史記の一場面で項羽がうたった列記とした詩だ。四面楚歌と言えばわかりやすいだろうか。


 史記のクライマックスといえるこのシーンは項羽が敵に囲まれ自分の愛する虞美人を自分が死んだ後どうすればいいのかと嘆いた詩の一節。割と哀しい詩であるはずのこの詩も、彼女にかかれば明るい新喜劇のワンシーンのように聞こえてしまう。


 彼女は私が通っていた片田舎の女子高校でわずか半年だけ教鞭をとっていた。


 ここでは仮にM先生としておこう。


 女子校の女子を世の男性は百合だとかおとなしいとかちょっと怖いだとか色々夢を持っているようだが、ほぼほぼハズレだ。


 ちょっと怖いは認めよう。確かに怖い。けどほぼ気のいい子達だ。ただ驚くほどみんな我が強いだけで。


 女子校の話をすると永遠に語れるのでまたの機会にするが、この我の強い若い女達に対抗できる先生しかここでは生き残ることはできないのだ。


 M先生は半年でやめたが私たちより我が強く、そして最も愛され愛してくれた先生だ。


 私の人生においての1番の恩師だ。M先生がいなければ今頃大学にも行かずフリーターをして路頭に迷っていたことだろう。


 彼女が初めて私たちの目の前に現れた時、正直言うとみんな、私もその1人だが彼女を軽んじていた。


 講堂の壇上で挨拶するM先生はお世辞にも痩せているとは言えないスタイルで、しかもおカッパだった。


 なにより私たちを驚かせたのはその声。モスキートーンの申し子のごときその甲高い声、そして独特の言い回しを聞いた時みんなが彼女の罠にかかってしまった。ミスリードという罠に。


「そっち今からあの先生の授業なの?めちゃくちゃ声うっさいしさ、頭痛くなりそう。」


 漢文の授業、M先生の初めての授業が始まる前。廊下で去年同じクラスだった友達に言われた言葉だ。


 私はこの時かなり憂鬱だった。


 当時頭も体も強くなかった私は重役出勤、遅刻の常連だった。その上部活ばかりに集中し、授業にでないで部活にだけ顔を出すダメっぷり。


 もちろん成績は下の下。特に理系科目が大嫌いでとある理科の先生とは折り合いが悪かった。


 それを心配した両親、特に母から勉強する環境にいるべきだと自主希望という名の強制で新学期から特進科コースに入れられてしまった。


 しかも、担任が折り合いの悪い理科の先生。もちろん、勉強もついていけず一学期始まって早々毎日半泣きで学校に通っていた。


 そんな中、唯一の心の癒しが日本史と古文・漢文だった。古典作品が大好きだった私はその2つの科目に救いを求めようとしていたのだ。


 しかし、漢文はあのうるさいM先生。


 最悪だった。


 癒しの時間が頭痛の時間に変わってしまう。


 友人と別れて席に着くとチャイムとともにM先生がやってきた。起立礼着席が終わったあと先生は自己紹介を始めた。


 それがめちゃくちゃおもしろかった。


 M先生は九州出身で自分が他校で教えていたことなどを面白可笑しく話してくれた。いや、あれはミュージカルかもしれない。ただ、金切り声をあげるインコの声のミュージカルだが。


 授業もハチャメチャにおもしろかった。教科書の内容を無視しして、先生が用意したプリントを使い漢文や詩を先生の面白い解釈や現代に合わせた解釈で説明してくれた。時には話が脱線しすぎてプリントに関係ない恋の話をすることもあった。


 そんな中、先生は私を気にいってくれていた、と思う。


 理由は私に古典作品の素養があり先生の解釈が誰よりもわかったからだ。

  M先生は気まぐれに文章の意味や感想を一人一人に聞いていった中で、落ちこぼれの私が誰よりも理解していたことに驚いていたようだった。


「藤さん。あなた自分のこと馬鹿だっていうけど決してそんなことないわ。このクラスで、いや今まで出会った生徒で誰よりも漢文の世界がわかっているのはあなただもの。」


 私が自分を馬鹿で落ちこぼれだと自虐ネタで笑いをとっていた時に、M先生だけは笑わず私の瞳を見てこう言った。


 しかし、漢文の授業でテストの点数が取れたことはない。いつも赤点ギリギリだった。


「あなたは誰よりも理解してるのに勿体ないわよ!ちゃんと勉強しなさい!」


 M先生は私のバツで真っ赤になった答案を返しながら言った。


 テスト用紙には確か『意味理解はできてるから後は文法を勉強するように。』と書いてあり、その後ろには『せっかく理解してるのに点数に反映できないのは勿体ないよぉ!文法わかんないのに理解できるの逆にすごい!!!』とM先生らしい大きく達筆の字で書いてあった。


 それから、物語の主人公ならここで頑張って学年一位になるところだが残念ながら現実は厳しかった。


 自分が思ったより馬鹿ではないが、好きなことだけしか勉強出来ないというのにこの時気づいた。


 この気づきは後々自分を律する時に役に立っており、これがあってクラスで最下位の成績でも『あの子は違う面で突出してる所あるから』といじめに遭わずにすんだんだと思う。


 そういうわけで成績は下の下ままだったが、漢文のおかげでなんとか楽しい生活を続いていた。


 しかし、終わりは呆気なかった。二学期が始まりちょうど今ぐらいの時期だった。昼休みにある噂が流れた。



 M先生が辞めた。



 急に辞めたらしく、今日の5限の漢文の授業はとりあえず古文の先生がかわりにやるらしい。


 クラスのみんなはその噂を誰も信じなかった。いや、信じたくなかった。冗談好きの先生の悪い冗談だとみんながみんな口にした。それにM先生は私を含めてこの学校でこのクラスが一番大好きといつもいつも言っていた。そんな先生が私達に何も言わずに学校を去るはずがないと。


 昼休みが終わり5限が始まった。いつも通りM先生が甲高い声で挨拶をするとみんな信じていた。


 しかし、現実は残酷だった。


 入ってきたのは古文の先生だった。何故か機嫌が悪く眉間にシワが寄っていた。


 私達は先生を問いつめた。


「M先生は!?」

「本当に辞めたの!?」

「私たちがいやになっちゃたの!?」


 古文の先生は眉間にシワを思い切り寄せため息混じりに教えてくれた。


「あなた達のせいではありません。M先生の個人的な事情です。」


 それではみんな納得がいかなかった。あの私達を誰よりも愛してくれたM先生だ。一言も言わずに去るなんてありえない。私はその時あることを思い出した。


「先生、M先生は九州にいらっしゃる親御さんが体調がよくないって仰ってらっしゃいました。もしかしてそれですか。」


 堪らなくなって私は大きな声で先生に聞いた。一人娘の先生はいつも九州にいる親御さんのことを口にしていた。最近体調がよくないと確かに話していたのだ。


 古文の先生は一瞬口ごもったが真っ直ぐ私を向いて応えた。


「たぶん、そうだと思います。実は私達も急に彼女が辞めると言い出して困っていたんです。」


 それを聞いた途端、1人の生徒を皮切りにみんな泣き出した。口々に先生が大好きだったのに、せめて別れの挨拶をしたかったと泣いた。


「こんなに生徒に慕われている果報者なのに、M先生は酷なことをしましたね。内心私も怒っているんです何も言わずにいなくなってしまったから。」


 先生は少し眉間のシワを緩めると『授業を始めます。』とだけ言ってM先生の教えていた続きを解説し始めた。


 そして5年の月日が流れた。


 あれから、私は猛勉強をし第2希望ではあったけど大学に進学した。猛勉強に耐えれたひとつはM先生の『あなたは馬鹿じゃない』という言葉だ。古典文学や漢詩とは真逆の分野の学部には進んだものの、未だにそれらの文学は大好きだ。


 今はどこにいるかもわからないM先生に敬意をこめて、このタイトルをつけた。


 今でも脳内でリフレインする独特な声と一緒に私はこれを書きながら呟く。



 ―――愚や、愚や、若をいかんせん―――

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