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「今度はどうしたのよ?」
桜井の顔を覗き込むと、色づかなかった瓜のように土気色になっている。
コロコロとよく表情を変える男だ。
彼の目線の先にはビジネスバッグがある。
桜井はしゃがみこみ、鞄を持ち上げた。
ぽたぽたと玄関に水が滴り落ちる。
鞄を開いて中から取り出した封筒も下の方の一部を除きぐっしょり濡れて変色している。
封筒を開き、中から書類を取り出した桜井の手が震えた。
そこには大きく「契約書」と書かれていた。
朱肉で印が押されているところからして、既に効力を発しているものなのだろう。
契約書の大部分は雨を吸ってふにゃふにゃになっており、文字も滲んでいる。
「契約書が……」
私はすぐに浴室に入り、新しいタオルを持ってきた。
「こっちにおいで!」
呆然と立ち尽くしている桜井を叱りつけるようにダイニングに呼ぶと、テーブルの上にタオルを敷いた。
桜井から契約書を奪うように取り、タオルで挟み込む。
さらに分厚いフランス語の辞書を仕事机から持ってきて、タオルの上に置いた。
「体重のせて少しでも水分取りなさい」
言い残して私は寝室に向かった。
部屋の隅にあるゴミ袋は努めて見ない。
クローゼットの奥からアイロンを取り出し、アイロン台を小脇に抱えてダイニングに戻る。
桜井が裸足のまま椅子に立ち、全体重をタオルの上に置いた辞書に集中させるようにテーブルに押し付けていた。
体重をのせろとは言ったが、椅子の上に立たなくても……。
後であの椅子もしっかり拭いて消毒しないと。
私は全身に気だるさを感じながら、アイロンのプラグをコンセントに差し込んだ。
何年も使っていなかったが、赤いランプがついて底の鉄が熱を持ち始める。
「契約書、こっちに持ってきて」
桜井から契約書を受け取ると、アイロン台の上に置き、ハンカチを載せ、その上からアイロンを掛けた。
水が焦げる熱く湿ったにおいが広がる。
桜井が心配そうにのぞき込んでくる。
その桜井のネクタイからぽたっと水滴がアイロン台の上に落ちてきて、私は思わず桜井を睨み付ける。
「す、すいません」
桜井が顔をひきつらせてスーツの上着を脱ぎ、ネクタイを外すのと同時に、インターフォンが鳴った。
誰だ、こんな時に。
私は舌打ちをしてアイロンを立て、立ち上がってインターフォンを見た。
そして、硬直した。
そこにいたのは十日前にここを出て行った男だった。
どの面下げて、と思った。
しかし、画面に映る隼人はいたって平然とした緊張感のない表情だ。
よそに女を作って出て行ったことに対する罪悪感は全く見られない。
もう一度、インターフォンが鳴る。
私の背後に桜井が立ち、怪訝そうにこちらを見つめているのが分かるが、私はやはり動けないでいた。
間もなく、ノブが捻られ、ドアが開く音が玄関から聞こえてくる。
「俺、どうしましょう?」
うろたえたような上ずった声で桜井に訊ねられても、私にも答えが分からない。
「奈央。いるのか?」
久しぶりに聞く隼人の声。
その声を私は思わず胸の中で反芻していた。
声に媚はなかったか。
下手に出ていたか。
それとも上からの物言いだったか。
私にいてほしいと願っていたか。
それともいないことを期待していたのか。
もしかしたら、よりを戻したいと言いに来たのかもしれない。
だとすれば私はどう答えようか。
玄関に男物の靴があって、廊下にバスタオルが転がっていて、ずぶぬれの若い男が部屋にいて、私がアイロンを掛けている。
隼人はそれをどのように見るのだろうか。
どう見られたって構わない。
何が、人間の本質を鋭く描写する小説を書きたい、だ。
隼人は別れるまでペンを握っているところすら一度も見せることがなかった。
いつまで経ってもうだつの上がらないヒモ男。
さっさと別れることができて、運が良かったのだ。
あんな男といつまでも一緒にいたら、余計な不幸を背負いこむだけだ。
だけど……。
この胸のドキドキの正体は何なのか。
だらしない隼人に対しては愛想が尽きはじめていた。
「俺を信じろ。いつかベストセラーを書いて美味いもの食わせてやる」が口癖だったが、隼人が書いた文章は一行たりとも読んだことがない。
いつかは別れるべきだと思っていた。
きっとそれが今なのだ。
隼人が切り出した別れに同調し、ここでしっかり縁を切ってしまうべきだ。
一時の寂しさに負けてすがりつくような真似をすれば、本当に別れたいときに無駄な金と労力を使うことになるだろう。
だけど……。
人は変わることができるし、世の中にはチャンスはいくらでも転がっていると言う。
隼人だって根っからのぐうたらではないのかもしれない。
言霊というものもある。
運さえ掴めば才能が開花しないとも限らない。
それに、あの笑顔をもう二度も見ることができないと思うと正直つらい。