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 じりじりと少しずつ間合いを詰めるような音のない時間が過ぎていく。

 私と桜井は玄関で向かい合ったままだ。

 相手がどう出るか。

 次の一手が今後を大きく左右する。


 先に動いたのは桜井だった。


「いやだなぁ。何でもないお遊びのガラクタファイルですよ」


 照れ隠しのように頭を掻いて笑う。


 私は目を細めて「さっき、査定って言ったよね?」と桜井を睨み付けた。


「え?そんなこと言いましたっけ?」


 桜井は私から視線を外し、「いやー、濡れた濡れた」とタオルで顔や首筋を拭う。


「見てこよっと」


 私は桜井を置き去りにして部屋の奥へ向かった。


 慌てたように桜井が「ちょ、ちょっと」と言いながら、私の了解も得ずに部屋に上がりドタバタ追いかけてくる。


「ちょっと!そんな濡れた靴下で部屋に上がってこないでよ!」


 私は桜井の足跡で濡れて光る廊下を指差す。


「あっ。すいません」


 桜井は慌てたように靴下を脱ぎ取る。


「ちょっとぉ。裸足で廊下を歩かないでくれる」

「えー。でも、もう上がっちゃったし」


 桜井は困惑顔でタオルで足の裏を拭く。

 私は額に手を当て脱力しながら言葉なくそれを眺めた。

 あのタオルはもう雑巾にしよう。

 桜井が足の裏を拭いたバスタオルで風呂上がりの身体を包む気がしない。


 私は仕事部屋の机に戻りパソコンの画面に桜井からのメールを表示させた。

 何度見ても「おばさん」の文字が私の胸にキリキリと突き刺さる。

 先ほどは添付ファイルにまで気が回らなかったが、確かにメールには「登録翻訳者データ」というタイトルのエクセルのファイルが付いている。


 桜井が私の隣にやって来て、「あちゃー」と声を上げる。


「これです。まさか、松浦さんに送っちゃうとはなぁ」

「でも、これって本来的にはこの梶田さんって人に送るつもりだったんでしょ?それはそれでまずかったんじゃないの?」


 メールの内容は見積書と契約書の案を送付するというものだ。

 「登録翻訳者データ」はどう考えても見積書ではない。


「そうなりますね。まずいっす」


 桜井は他人事のように軽い調子で言う。


「桜井君、分かってる?君は二つのミスをしているわけよ。添付すべきではない社内管理用のファイルを添付してしまい、梶田さんって人に送るはずのメールを間違って私に送った。これってもう桜井君個人の問題じゃなくなっちゃてるの。君の会社の信用に関わるのよ。会社にばれたらどうなると思う?」

「さぁ、どうなるんでしょ」

「私が大崎さんだったら、桜井君はクビにするわ」


 クビは少し大げさか。


 しかし、桜井は真に受けたのか、少し顔色を変えた。


「実は、……もうばれてるんです」

「え?そうなの?大崎さんに?」


 桜井は力なく頷いた。


「もし、松浦さんがメールを開き、添付ファイルを見てたら、お前はクビだって言われました」


 大げさでも何でもなかった。

 大崎の言葉がどこまで本気か分からないが、私が「おばさん」の四文字をものともせず、添付ファイルをダブルクリックしていれば桜井は会社を辞めさせられていた可能性もあるらしい。


 私は嘆息して腕を組み、桜井と正対した。


「何のデータなの?」

「だから、何でもないですって。ただのガラクタの……」

「見ちゃうわよ」


 私は桜井の言葉を遮って、カーソルを添付ファイルの上に置いた。


「ああ。言います、言います」

「じゃあ、早く言いなさいよ」

「言ったら、このままメールを消去してくれますか?」

「さあね」

「そんな殺生な」

「言わないなら、いいのよ。見ちゃうだけだから」


 私は桜井を威嚇するようにマウスをぐりぐり動かした。


「そんな……」


 桜井は項垂れてもごもごと言った。「うちの登録翻訳者さん全員の評価と単価です。翻訳文字数あたりの報酬が分かります」


 つまり、これを見れば私の翻訳を会社がどのように評価しているかが分かるわけだ。

 その情報が私に使い道のあるものかは分からないが、少なくとも個人情報ではあり、それが漏えいしては会社にとって痛手ではあるだろう。


「あんた。そんな大事な情報をメールに添付して送信しちゃうなんて、どういう神経してんのよ」

「返す言葉もございません」

「反省してんの?」

「はい。反省してます。申し訳ありませんでした」


 桜井は一歩下がり、私に向かって深々と頭を下げた。


 私はそれを見て不承不承桜井からのメールを削除してやった。

 若いとは言え大人が真面目に頭を下げたのだ。

 それを目の当たりにして許してやらないようでは私の社会人としての価値が下がる。


 桜井は「ありがとうございます。ありがとうございます」と大きな声で何度も私に礼を言った。


 それが鬱陶しくて私は桜井をシッシと仕事部屋から追い払った。

 びたびたに濡れた桜井のスーツの背中が桜井の体温で生温かくて気持ち悪いが、それを押しながら玄関へ押し出す。


「でも、あれって話を盛ったつもりはありませんから」


 私に押されながら、桜井は首を捻ってこちらを見る。


「え?」

「あの、メールの文面のことですよ」


 桜井は私がファイルを開かずにメールを削除したことで浮かれているのか、ニタニタした顔で言った。


 桜井の言葉が再度私の怒りに火を点ける。

 せっかく忘れかけていたというのに。

 しかも、自分から言うか。

 こいつ、本当にどういう神経しているんだ。


「あんたね、本当のこというと、私、怒ってるんだからね」

「そんな恥ずかしがらなくてもいいじゃないですかぁ」

「はぁ?何で私が恥ずかしがらなくちゃいけないのよ」

「僕はこう見えて根が正直なんで、嘘やおべっかは言わないんですよ」

「あんたねぇ……」


 私は奥歯を噛みしめた。

 こいつ今「本心であなたのことをおばさんだと思っています」って言いやがった。


「松浦さんって、本当に米倉涼子に似てますって。それにメイクとか服とか、いつもセンスいいなって思ってたんすよ。綺麗な人だなって」


 そう言えば、そんなことも書いてあったような気がする。

 「おばさん」の四文字ばかりが目に、心に痛かったのだが。

 男性に、綺麗な人、だなんて言われたのは、いつ以来だろう。


「ちょ、ちょっと。人のことおばさん扱いしたくせに、急に変なこと言わないでよ」

「いや。松浦さんってちょっととっつきにくいところあるけど、そういうところも含めて俺、結構、タイプな……」


 桜井は突然玄関で立ち止まり、「あー!」と大きな声を上げた。


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