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雷鳴のようにチャイムが轟いて、ぼうっとしていた私は慌ててインターフォンに向かった。
そして思わず「あっ」と声をあげてしまう。画面には桜井が映っていたのだ。
桜井にメールを送信したのは三分ほど前。
まさか、メールを見てすぐに駆けつけたというわけではないだろうが。
雨に降られたのか、画面に映っている桜井の髪が濡れて顔に貼りついている。
いつも陽気な桜井だが、今日はどことなく憔悴したような表情に見える。
桜井君。
私はインターフォンに向かって声を掛けた。
「どうしたの?」
「お忙しいところすみません。ちょっと……お話がありまして」
画面の向こうでペコペコ頭を下げる桜井はいつになく低姿勢だ。
私は小首を傾げながら玄関に向かいサンダルをつっかけてドアを開けた。
雨が世界を叩く音が部屋の中に入り込んできた。
チェーンの長さ分だけ開いたドアの隙間から湿った風が強く吹き込んでくる。
「どうしたの?」
隙間から覘かせる桜井の顔はやはり暗い。
そしてスーツも鞄もびしょ濡れだ。「ずぶ濡れじゃない!」
「あの……」
いつもは戸を立てたいぐらいによくしゃべる桜井の口が今はもごもご動くだけで、何を言っているのか聞き取れない。
風に乗って雨の飛沫が私の顔にも降りかかる。
「とにかく、入って」
私はチェーンを外して桜井の袖を引き玄関の中に入れた。
桜井の背後で強風に押されたドアが激しい音を立てて閉まる。
桜井は髪から顎から指先から水を滴らせている。
全身を絞れば水がバケツ一杯分ぐらい溜まりそうだ。
私は、「ちょっと待ってて」と言い置いて浴室に入り、バスタオルを二枚掴んで玄関に戻った。
桜井は相変わらずのしょぼくれた顔で玄関に立ち尽くしている。
「使いなさい」とバスタオルを放り投げると、桜井は私に言われるがままに緩慢な動きで顔と頭を拭う。
私はそれを廊下の壁にもたれながら眺める。
何だか安いドラマに出てきそうなシーンだな、と思いつつ。
テレビならここから恋が始まるのかもしれないが、実際、二枚目俳優でも何でもない、どこにでもいそうな風貌の桜井が景気の悪い顔で突っ立っていても全く絵にならない。
「で?何?」
訊ねると、桜井は顔を包んだバスタオルの隙間から覗く目を恐る恐るという感じで私に向けた。
「メールが……」
やっぱりそうか。
私をおばさん扱いしたメールを誤送信してしまったことに気付いて、謝罪のためにこの雨の中を走ってきたのか。
「いいのよ。別に、気にしてないから」
私も甘いな、とは思うが、びしょ濡れで今にも泣きだしそうな桜井を前に追い打ちをかけるようなことは言えなかった。
しかし、私の意に反して桜井は「ああー」と断末魔のような声を上げて、鞄を放り投げ、その場に崩れ落ちた。
私はその声に驚いて飛びずさる。
「え?何、何なの?」
「見たんですね?」
桜井は玄関に四つん這いになって半泣きの声で訊ねてきた。
「さっきのメールでしょ?見たわよ。そりゃ、見るでしょ。届いてるんだもん」
「ああー」
桜井はさらに大きな声を上げて頭を抱えた。
「ちょっと、何?大きな声出さないでよ」
「……終わった。終わりました」
何が終わったというのか。
先ほどから桜井は支離滅裂だ。
私はブクブクと気泡のように心の底辺から怒りが湧き起ってくるのを感じた。
「ちょっと、そんなところでうずくまらないでよ。タオルが汚れるでしょ」
「見なかったことにはできませんか?」
桜井は起こした顔がびしょびしょのぐしゃぐしゃだ。
雨なのか涙なのか、よく分からない。
「でも、見ちゃったもん」
おばさん扱いされたことは忘れられない。
時間は二度と遡れない。
しかし、また桜井が大げさに「ああー」と喚くので、私は面倒くさくなってきた。
私は桜井の傍にしゃがみ、その雨でぐっしょりしている肩を軽く叩く。
「だから、気にしてないって言ってるじゃん」
「松浦さんが気にしなくても、こっちが気にするんですよ」
「何で気にするのよ。私がいいって言ってるんだから、それでいいじゃないの」
「良くありませんよ。全然良くないです」
桜井が少し険のある声を出す。
それが私には気に食わない。
それって逆ギレってやつじゃないか。
そもそもこうなったのは誰のせいだ。
「大体、あんなこと書いたのは桜井君でしょ。私のせいじゃないわ」
「書いたのは僕じゃないですよ。大崎さんです」
「え?そうなの?」
大崎は桜井の上司だ。
翻訳者として会社に登録してもらうときに私を面接したのも大崎で、従って彼とは五年の付き合いになる。
大崎は私より一回り年上で、ダジャレと下ネタが大好きな、ガサツなおじさんだ。
あの人におばさんと呼ばれたのか。
そう思うと胸のあたりでもやもやしていたものがスッと晴れた感じがする。
あの人になら何を言われても微動だにしない。
おばさんだろうが年増だろうが好きに言ってくれ。
そう思ったところで、別の疑問が浮かんだ。
「でも、桜井君のアドレスから送信されてきたし、文面の最後に桜井って書いてあったけど?大崎さんが桜井君になりすまして、あんなメール送ってきたってこと?」
わざわざそんなことをするのか。
しかも、それを誤送信するなんて。
大崎はガサツだが仕事はできる男だ。
「ですから、大崎さんが書いたのは査定の方ですって」
「査定?何それ」
「エクセルの添付ファイルですよ……あれ?見てないんですか?」
桜井が絶望のどん底から微かに光明を見出したような瞳をこちらに向ける。
エクセルのファイル?
見ていない。
何故なら、添付ファイルに意識が向く前に「おばさん」の四文字に打ちひしがれていたから。
「見てない」
「え?マジ?」
桜井の言葉遣いが急に変わる。
いつもの調子が微かに見える。
「うん。マジ」
私がコクリと頷くと、桜井は「よっしゃー」と叫び、喜色満面で立ち上がり冷たく湿った手で私の手を取った。
「ありがとうございます。助かりました!」
「いや、まだ、助けてない」
私は突き放すような目で桜井を冷ややかに見つめた。「何のファイルか、もう一回言ってごらん」
「えっ?」
桜井は私の言葉にフリーズした。
そして、ゆっくりと私の手から手を離した。