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 やはり油断していた。

 私自身が彼のその切れ長の目元の涼しさと、えくぼから漂う子犬のような愛らしさとのギャップに惹かれて金を貢いでいたのに、自分以外の女が彼の見てくれにコロッといってしまうことを考慮に入れていなかったとは。


 お金は防衛手段であり、自由になるための手段。


 彼がよく言っていた言葉だ。

 出典はサガンらしいが。


 思い返せば確かにこの言葉どおりだった。


 私はフランス語の文章を邦訳することを生業とし、それなりに仕事が軌道に乗っていて、少しは蓄えもあった。私はお金を持ち、彼は持っていない。

 私はお金によって彼との関係を自由にできた。

 彼が生活する場を私の部屋に移すことさえできてしまった。


 しかし、彼が私以外からお金を手に入れれば、彼は私から身を守る盾を持ち、自由になることができるのだった。


 お金を持っている女は私だけではなかった。

 いや、私の貯金の残高など人に自慢できるほどではなく、私以上に蓄財しているのに私より若くてきれいな人なんていくらでもいる。

 当たり前の事実に気付かなかった私は世間知らずで愚かだった。


 今さら考えても仕方のないことに、またいつの間にか思考が入り込んでしまっている。

 それだけ今回の出来事が私にとって痛手だったということなのだろうか。


 正直、いつまでも一緒にいるつもりはなかった。

 当然結婚する気など全くなかった。

 だけど、隼人との別れが付き合い出して半年足らず、同棲し始めて三か月余りで訪れるとは思わなかった。


 もう少し、あの思わず撫でたくなるような笑顔を見ていたかった。

 傍に座って年齢の割には肉の付いていない腹周りに腕を回していたかった。


 少しずつ生活のすれ違いや性格の不一致を演出して、予定調和でありきたりな別れにソフトランディングしたかった。

 どちらかがきっかけにはなるのだが互いに結末を知っている、まるでジェンガを積み、そして崩すときのような予感と覚悟を胸に抱いてその日を迎えたかった。


 私はプリンターが印刷を終え、妙に静まり返ってしまった世界の中に音と温もりを求めてキッチンに向かった。


 電気ケトルに水を注ぎセットする。

 間もなくコポコポと音を立ててお湯が沸く。


 さて、どうしようか。


 時刻は午後二時を回ったところ。

 仕事に集中していたので昼ご飯を食べていない。

 このお湯でカップラーメンでも作ろうか。

 しかし、腹が満ちれば眠くなってしまうだろう。

 昨日、一昨日と仕事に追われてあまり寝ていない。

 だが、ここで眠ってしまうと納期までのスケジュールがさらに厳しくなってしまう。


 きゅるきゅるきゅる。


 お腹が鳴って私は思わず周囲を見回す。

 誰もいるはずがないが、恥ずかしくてしゃがみこんだ。


 とにかくこの空腹をやっつけよう。

 私はシンクの下を開き、買いだめしてあるカップラーメンを一つ取り出した。

 普通の大きさの1.5倍の量のやつだ。


 蓋を開き、火薬と粉末スープをセットしてお湯を注ぐ。

 蓋には五分必要と書いてある。


 待ち時間を使ってメールを確認しよう。

 桜井には急ぎの仕事と言われたが、どれぐらいの分量なのか確認しておかなくては。


 パソコンの前に戻りメールソフトを起動して着信していたメールを開封する。


 目に飛び込んできた内容に私は……フリーズした。



 梶田様


 お世話になっております。

 先ほどの御依頼の件、翻訳さんにオッケーいただけました。

 翻訳さんは33歳のおばさんですけど、女優で言えば米倉涼子に似ていて結構きれいで、いつもしっかりメイクされていて見た目にも若いですし、センスの良い方なので、ファンデーションなどの化粧品については、梶田様が仰っていたように商品を実際に使ってもらってからその実感とともにフランス語の宣伝文句をキャッチーに邦訳してもらうことが可能ではないかと思います。

 取りあえず、見積書と契約書の案を送付します。

 ご確認ください。

 正式な契約書は後ほど持参いたします。


 桜井 和人



「何これ」


 それだけの言葉を発するのにたっぷり五分はかかった。

 全身はフリーズしていたが目だけはパチンコの玉のように激しく動き回り何度も文面を行ったり来たりしていた。


 カッと頭に血が上り、思わず天井を仰ぐ。


 どうやら桜井はクライアントの「梶田」という人に送信するメールを誤って「翻訳さん」である私に送り付けてきたようだった。


 この仕事をするようになってもう五年になるが、こんなことが起きたのは初めてだ。

 メールの誤送信は良くある話ではあるが、クライアントに送る大切なメールを軽々に他者に送ってしまうような杜撰な仕事をする人間とは付き合いを考えなくてはならない。


 私は仰ぎ見た天井に一人の男の顔を思い浮かべた。


 桜井和人。


 今年からクライアントからの翻訳依頼を内容に応じて契約翻訳者に仕事を割り振る担当になり、私に業務連絡をしてくるようになった若手スタッフだ。


 あの私の愛するミスチルの桜井和寿と一字違い。

 そういう意味で私は彼に悪い印象は持っていなかった。


 桜井は私とは一世代ずれていて、調子が良いというか物言いの軽薄な今時の若者というように私の目には映っていたが、それでも彼とやり取りをしているとミスチルの名曲がBGMとして私の頭の中で自然と鳴り響き、少なからず私のテンションを高めてくれていた。


 しかし、ここではその軽薄さが悪い方に出たようだ。

 こういうものは性格だから死ぬまで治らないだろう。

 桜井は一生自分の軽はずみな性格で苦労するに違いない。


 私はキッチンに戻り、レバーを上げてシンクに水を叩きつけた。


 動揺はなかなか鎮まらない。


 とにかく気分が悪い。

 カップラーメンからは豚骨のにおいが漂ってくるが、とても食べる気になれなかった。


 おばさん


 これだ。

 このひらがな四文字が私のテンプルにクリティカルヒットした。


 おばさん


 この言葉が耳慣れないわけではない。

 同世代の女友達とは「もう、おばさんだから」みたいなことを自虐的に言い合うことは良くある。

 幼い甥っ子に自ら「おばさんはね」と話しかけることもある。

 しかし、異性から、しかも文字にして眼前に突きつけられたことは今までなかったのかもしれない。


 確かに私は三十三歳。

 客観的な目で見ればもうおばさんかもしれない。

 だけどさ……。


 おばさんかぁ。


 桜井は入社三年目なので二十五歳ぐらいだろう。

 私もその頃は三十三歳の女性を内心でおばさん扱いしていた気がする。

 桜井は間違ったことは言っていない。

 おばさんのことをおばさんと呼んだだけ。

 ただ、それだけだ。

 デリガシーがないとは思うけれど、だからと言って、そこに誇張があったり嘘があったりしたわけではない。

 しかし、それが分かるからこそ、心にこたえるのかもしれない。


 歯に衣着せない桜井が、しかも第三者に送るつもりだったメールに書いたものだからこそ、私は自分に示された現実を痛切に理解せざるを得ない。


 年齢には勝てないということなのか。


 それなりに値の張る美容器具を毎日駆使し、ストレッチやマッサージも欠かさず、化粧品選びにも時間をかけて外見に気を遣ってきたつもりなのに。

 私の努力って何だったのだろう。


 私は水を止め、振り返って冷蔵庫を開けた。

 缶ビールを取り出し蓋を開けて口をつける。

 清冽な黄金の液体が喉の奥で痛いぐらいに強く弾ける。


 半分ほど飲んだところで、大きく息を吐き出す。


 いつだってビールは美味しい。

 ささくれだっていた気分が少し落ち着いた気がする。


 そのとき窓にぽつぽつと何かが当たっている音がして缶ビールを啜りながらリビングのカーテンを開いた。


 果たして外は雨だった。

 春の嵐か、急に大粒の雨が降り出したらしく、スーパーの袋をぶら下げた女性が顔を雨から防ぐように片手をかざしながら小走りで駆けていく。


 雨は仕事をはかどらせる。

 そして私の場合、アルコールも仕事に対する意欲を高めてくれる。

 指が勝手に邦訳を進めていくような感覚になれる。

 だから、疲れてきたときや煮詰まったときなどはビールを飲んで自分にアクセルを掛けることがある。

 ただし、そういう時はあとでしっかり見直さないと誤字脱字のオンパレードである場合が多いのだが。


 私はパソコンの前に戻り、桜井からの先ほどのメールを引用した返信メールを作成した。



 桜井様


 13:49に私に送信いただきました下記のメールは送信先を誤っておられませんでしょうか。

 ご確認いただきますようお願いいたします。


 松浦 奈央 拝

 


 これが大人の対応ってやつかな。


 矯めつすがめつ文章を眺め、私は一つ頷いた。


 私には一ミリも非はなく声高く謝罪を求める権利を有しているように思うが、桜井に、あるいは会社に怒りをぶつけたところで何かが生まれるわけではない。

 現状では桜井が持ってくる案件が私の翻訳仕事の七割を占めている。

 この会社との関係をこじらせ、今後仕事がやりにくくなるようなことになっては、目も当てられない。

 ここは桜井が少し私に罪悪感を覚え、この借りをどこかで返さねば、と思うぐらいにとどめるのが私にとってベストだろう。


 私はエイッと送信ボタンを押し、缶に残ったビールを一気に飲み干した。


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