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電話を切ると、間もなくパソコンがメールの着信音を鳴らした。
メールソフトを開き件名と差出人を確認する。
案の定、桜井だった。
彼は私が契約している翻訳会社の若い男性スタッフだ。
内容は先ほどの電話で私が担当することになった翻訳案件のデータに違いない。
フランスのアパレルブランドのバッグや財布などの商品を取り扱う日本のセレクトショップが、再来月に発売となる新作アイテムの商品保証書を邦訳してほしいと言っているらしい。
メールにはフランス語で書かれた商品保証書の写真データでも添付されているのだろう。
私は一旦メールソフトを閉じ、取りかかっている仕事に再び意識を向けた。
フランスの農家が日本のフレンチレストランに向けて送ってきた手紙を和訳するというものだ。
天候不順が続きラディッシュやエシャロットなどの野菜やフランス特有のキノコ類が思うように生育していないから、期限までには要求された量を出荷できそうにない。
ついては、期限か、量の調整をさせてほしい。
だけど、精魂込めて作っている自信作だから、もらうお金は1ユーロも安くはできない。
簡単に言えばそういう内容なのだが、手紙はグダグダと回りくどい表現を用いた長文で構成されていた。
フランス人らしい冗長で頑固でプライドの高さを感じさせる文面に少々うんざりしながらも、私は原文に忠実に一つの言い回しも省略せず訳した。
少々読みにくいだろうが、クライアントに差出人の冗長さや頑固さまで肌で感じてもらうにはその方が良いという私なりの判断だ。
それに、文章が長ければ長いほど、報酬も高くなるのだから文句はない。
最後の文まで訳し終わり、マウスを操作して印刷ボタンを押す。
プリンターがカタカタ起動する音を聞きながら、私は背もたれに身を委ね髪を掻き上げた。
瞼を閉じると、じんわり熱いような痛みが眼球全体に広がって反射的に眉間を揉む。
ノートパソコンの隣のマグカップに手を伸ばす。
冷めてまずいコーヒーに顔をしかめ、はぁーあ、と盛大にため息をつく。
首を左右に傾げるとゴキゴキゴキと我ながらえげつない音が耳に響いた。
少々オーバーワークなのは分かっている。
しかし、誰にも不平は言えない。
そうなるように自分で仕事を増やしたのだから。
先ほどの電話で受けた依頼もいつもなら断っている。
メールソフトの中には納期まで時間のない仕事が山積みだ。
だけど、今は仕事に没頭したい。
自分の自由になる時間を少しでも削りたかった。
理由はいたってシンプルだ。
女が自ら仕事に埋もれる。
そんなの失恋以外にありえない。
失恋?
その二字熟語の可憐に潤んだ響きに私は鼻を鳴らして笑ってしまう。
振った、振られた、恋愛がどうのこうのなんて二十代までの若い男女が繰り広げるおままごとではないか。
三十を迎えてから何年も経つ女には適当な言葉ではない。
この歳になれば男との付き合いは人生を左右する。
失恋なんていうもぎたての果実のような弾力とみずみずしさに溢れた表現では収まりきらないドロドロとした打算と妥協と駆け引きがそこには存在するのだ。
結婚するから。他の女と。
しまった。
気を抜いていたら十日前に私の打算と妥協と駆け引きを一撃で粉砕した男の言葉を頭の中でリフレインさせてしまっていた。
結婚するから。他の女と。
そんな馬鹿な。
その数日前まで私の耳元で愛をささやき将来をほのめかしていたのと同じ口がそんなことを告げるとは思いもよらなかった。