第九章 商都ドバイ
第九章 商都ドバイ
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平成七年五月初旬、正岡は低迷を続ける中近東、アフリカ市場の拡販の施策として、中近東、中央アジア、南コーカサス、北アフリカ、東アフリカを担当する現地法人をアラブ首長国連邦(UAE)のドバイに設立する企画を立案した。
東京クレストは円高によるコストアップや輸入規制を回避するために、商品別の工場を世界各地に設立して来た。その一方で、物流革命が進展した。船舶輸送のコンテナ化である。
サウジアラビア以外の国々の市場は、商品ごとにコンテナ単位で買うほど大きくはない。各国の代理店は品目が多い日本生産の商品に絞ることになる。が、日本製はコストが高く、品揃えは限られる。代理店の売上は低下した。
これを打開するために、東京クレストが設立する現地法人が、世界各地に分散している工場から商品をコンテナ単位でドバイの倉庫に集荷する。そして代理店、ディストリビューター(卸売業者)に、集荷した商品を短納期で出荷する。
代理店、ディストリビューターは競争力のある商品を豊かな品揃えにして市場に供給する。これにより大幅な販売増が見込める。
更に中近東に隣接する中央アジア、南コーカサスの市場開拓が期待できるという内容だ。
現地法人案は取締役貿易本部長の磯部から森山電機が送り込んだ新社長に提出された。雨宮は専務を最後に退社し、磯部が貿易の責任者である。
五月末、正岡は磯部から業務命令を受けた。
「山友商事と取引を解消したい。早速、交渉を始めてくれ」
正岡は山友商事社長の安田と二人だけの交渉を始めた。場所は山友商事の社長室である。
安田はすでに腹を決めていたらしく、交渉は当初の予定より順調に進み、取引解消契約は成立した。
取引解消契約に従って、中近東、アフリカの商権は東京クレストに移管された。
この年の十月初旬、正岡は貿易本部中近東部長の辞令を受け取った。五十二歳で、最高齢の新部長であった。あまりに遅い昇進に何の喜びも感じなかった。妻の康子も気持ちを察したようで、その夜の食卓をことさら飾ることはなかった。
その一週間後、正岡を仰天させる情報が入った。
山友商事出身者の一人が新設の部品事業部の課長待遇として入社したというのだ。正岡が採用した山友商事出身者は全員貿易本部や商品事業部の海外営業関連部門に配置されていた。
彼の名前を聞いて唖然とした。あの強姦女が、事件後に社内結婚したアラブ人社員ではないか。彼は既に五十歳に近く、東証一部上場企業に入社するには薹が立ちすぎている。そんな男を本社人事部が、こっそりと入社させているのだ。
彼女と山友商事及び東京クレストの間で、取引があった事を物語っている。
十一月初旬、正岡は新社長から中近東東京クレスト社長の辞令を受け取った。
十一月中旬、随行する部下もなく、たった一人でアラブ首長国連邦のドバイ空港に降り立った。与えられたのは新現地法人である中近東東京クレストの資本金だけだ。まるで社長兼ボーイだな、と思わず苦笑した。
家族を日本に残しての単身赴任である。掃除、洗濯等面倒なことを避けるため、長期滞在型ホテル形式の三十階建てマンションの一室を借りることにした。
マンションの前にはショッピングモールがある。テナントに映画館、銀行、高級欧州ブランドを販売する洋服店、理容店、カーペット店、ミニスーパーなどが入っている。
中央にある小さなスケートリンクの上を、スケート靴を履いた子供達が笑顔を振りまきながら滑っている。砂漠の国にスケートリンクかと我が目を疑った。
ドバイの市街地はドバイクリーク(運河)を挟んで、バール・ドバイ地区とデイラ地区に分かれる。郊外のジュメイラ地区には、リゾートホテルが立ち並んでいる。その西隣がジュベールアリ・フリーゾーン(ジュベールアリ自由貿易区)である。更に、その西にアブダビ首長国がある。
自室の窓からドバイ市内を一望する。
窓の左側に見えるのがデイラ地区で、世界最大の金消費国であるインドを後背市場に持ち、世界一安いといわれるゴールドスーク(金市場)の入り口が見える。店頭に並ぶ金製品が、ショーウィンドーに乱反射し、一面に金色を放っている。その先に電気製品、衣料品などを売るスーク(市場)がある。
ゴールドスークの入り口の前を走るのが、ドバイ市内とジュベールアリ・フリーゾーンを走行約四十分で結ぶ幹線道路である。その道路に沿って新しいビルが立ち並んでいた。近い将来、このあたりの路線価が市内で最も上昇すると言われていた。
窓の右側に目が覚めるような青々とした海が見える。ペルシア湾である。
毎朝起きると、窓から海を眺めた。岸壁に打ち寄せる波は気候により、その様相を変える。風の強い日の波は高く、岸壁から突き出た岩にぶつかり、白いしぶきを高々と上げる。凪ぎの日の波は、岩を撫でるように洗い、遠くにタンカーが姿を見せる。
その先が大市場のイランだ。その背後に、ソビエト連邦崩壊後の新市場として脚光を浴びる中央アジアや南コーカサスの国々が広がる。
アブダビ首長国の西がカタールだ。その前方に中近東最大市場のサウジアラビアと主要市場のクエート、レバノン、エジプト等が続く。
取扱商品は東京クレストが生産する全ての民生用電子機器と磁気テープである。
正岡は身の引き締まるような緊張感を覚えた。その一方で、催眠薬事件の犯人は東京クレストそのものだ、どうせ日本の協力は限られる、会社の思惑など気にしないでよいのだ。自分の信ずるままに会社を経営するまでだと腹を据えた。
懸念材料は、原油価格が一バレル当り十五米ドル前後と低迷していたことである。発展途上国の経済は原油価格と密接にリンクしている。原油価格が下がれば、プラスチック建材や合成繊維の価格が下がる。そうなれば代替財の木材、鉄、綿花、羊毛等原材料の価格が下がり、不況になる仕組みになっているからだ。
アラブ首長国連邦(UAE)はアブダビ、ドバイ、シャルジャ等七つの首長国で構成されている。豊かな石油資源を誇るアブダビの首長が、独立以来アラブ首長国連邦の大統領である。
GDP(国内総生産)の約五十パーセントをアブダビが、約二十五パーセントをドバイが、残りの約二十五パーセントを五首長国が産出していた。
アラブ首長国連邦の首都はアブダビだが、ドバイはアラブ首長国連邦のみならず中近東の商都である。
中近東の商都はレバノン内戦、湾岸戦争等を経て、レバノンのベイルートからクウェートへ、そしてドバイへと変遷したのである。
赴任時のドバイの人口は約五十万人と言われていた。が、その八、九割が外国人で、そのほとんどはインド、パキスタン出身である。同じ回教国ということで、パキスタン人の給与水準はインド人のそれを上回っていた。
ドバイにあるジュベールアリ・フリーゾーンは関税ゼロ、百パーセント外資OK、企業と従業員の所得税ゼロ、資本及び利益の本国送金自由である。それに着目した各国の有力企業が、近隣諸国への再輸出のための現地法人を設立していた。
正岡はジュベールアリ・フリーゾーンに会社を設立すると同時に、ジュべールアリ・フリーゾーン公社と事務所、倉庫の賃貸契約を結んだ。
直ちに、ドバイとインドのボンベイに拠点を持つ人材紹介会社に駆け込み、同業他社の代理店に在籍する外国人社員をヘッドハントしたい、と申し込んだ。
ところが、フリーゾーン以外の民間企業では、オーナーがスポンサー(保証人)として外国人社員のパスポートを預かっている。外国人社員が会社を辞めるためにはオーナーの承諾が必要だという。
やむなくヘッドハントを断念し、ボンベイの新聞広告で社員を募集した。数千に及ぶ応募者を人材紹介会社が書類選考でふるいにかけた。残った百余名を正岡が一週間かけて面接をした。
採用を決めた営業、技術、経理担当等の幹部候補社員のビザ発給をジュべールアリ・フリーゾーン公社に申請した。
その後、総務担当にアラブ人のラシッドを採用して、机、椅子、備品などの購入を進めた。
ラシッドは広い情報網を駆使し、必ず指示した価格より安く仕入れてくる。
仕入と販売の基本は同じである。会社が軌道に乗れば、総務の仕事は少なくなる。営業マンとして初歩から教え込むことにした。
「商売の基本は自分の会社も取引先も儲かるようにすることだ。
だが真面目に仕事をしない取引先を儲けさせる訳にはいかない。代理店の名前にあぐらをかいている取引先との契約を解除して、新代理店を見つける。
中央アジアや南コーカサス諸国のように最近になって解放された市場では、各国で複数のディストリビューターを開拓する。
販売網が出来上がれば、ブランドの名声は上がる。販売は増え、利益が増える。社員の給与を上げられる。雇用も増やせる。それはお前の部下が増えるという事だ」
そして折に触れて指導した。
「取引は一度だけではない。信用第一だ。だから、嘘をつくな。出来ない事は約束するな」
2
営業開始を翌年二月一日と決めた。準備期間は僅々二ヵ月余りである。直ちに市場調査を開始し、仕入れ価格の交渉、発注を急いだ。商品の到着は一月下旬である。
その後、やっと部下の日本人駐在員が決まった。経理部長と営業課長だ。
運転手や倉庫要員はコネ等で応募してきた者の中からドバイで採用した。
そしてエジプト人、アルメニア人の技術者を採用した。インド人の技術者は英語圏でのコミュニケーションに問題はないが、担当地域が英語圏だけでなく、アラビア語圏、ロシア語圏に及ぶことに配慮したのだ。
それ以降は事業の拡大に応じて社員を増やしていった。ただ、日本人駐在員の増加は見送った。経費が掛かるだけでなく、会社のスパイを増やすだけだからだ。
担当市場は中央アジア(ウズベキスタン、カザフスタン、トルクメニスタン、キルギス、タジキスタン)、南コーカサス(アルメニア、グルジア、アゼルバイジャン)、中近東、北及び東アフリカで四十ヵ国を優に上回る。
ソビエト連邦崩壊後間もない頃で、代理店がない国もあれば、代理店があっても売上が少ない国もある。その中で売上を増やすには、販売網の整備、拡充が不可欠だ。
山友商事から引き継いだ代理店の中で、販売実績に問題がある代理店との契約を解消し、新代理店の開拓に着手した。
中近東、中央アジア、南コーカサス市場の特性の一つは、代理店の指定対象となるディストリビューター(卸売業者)がショールーム兼直営小売店を持っている事だ。
新代理店の選定基準は直営小売店の店舗数とその売り場面積といっても過言ではない。
仮に代理店が十店舗を所有しておれば、単純計算でシェアーが十パーセントの百店の小売店と取引している事と同じ事になるからだ。通常、代理店の店舗は小売店より、遥かに広い売り場面積を持っている。百店どころか二百店、三百店に相当する事例もある。
代理店には一カ国の独占販売権が与えられる。が、その代わりに東京クレストの商品の販売に専念しなければならない。
新代理店が同業他社のディストリビューターの場合、売り場から他社商品を駆逐する効果も期待できる。
しかし難問があった。アラブ諸国の多くでは、代理店保護法が制定されているのだ。
数多くの日系企業が代替わりによって販売力の低下した代理店を切ることもままならず、忍の一字を決め込んでいた。
日本人の性癖はトラブルを極端に嫌うことだ。そして裁判を更に嫌悪する。
代理店を変えようとすれば、その権益を奪うことになる。たとえ販売力など代理店側に問題があっても、恨まれたり、罵られたりする可能性は大きい。それだけではない。多くの場合、裁判になる。裁判を避ければ、多額の手切れ金を支払わなければならない。が、資本金以外の財源はない。深いため息をついた。
その瞬間に閃いた。切られる代理店にとって代理店権が財産であれば、新代理店にとっても代理店権は財産のはずだ。新代理店に旧代理店への手切れ金を肩代わりさせれば、金は一切かからない、と。
ほとんどの国で交渉は成立した。が、不成立に終わった二カ国で裁判になった。
ひとたび裁判になると訴状や山友商事時代の往復文書のコピー等膨大な書類が裁判所から送られてくる。それに対し、顧問弁護士との打ち合せ、答弁書や宣誓供述書の作成等に、多くの時間を費やした。
法律問題に加え、新代理店開拓のための海外出張、代理店契約書の作成、従業員教育、商談の推進などの業務を進める中で、日常は多忙を極めた。
中近東東京クレストの休日は金曜日と土曜日と決めた。が、回教徒の休息日である金曜日は本社、各商品事業部(工場)やキプロス、アルメニア等のキリスト教圏では働いている。土曜日はアラブ諸国では労働日である。
休日に、マンションへの来客もしばしばで、電話は引きも切らないほどだった。
しかも携帯電話が普及し始めた頃である。時には自宅の電話で話中に、携帯電話が鳴る始末だった。
単身赴任で時間の多くを仕事に使えたが、催眠薬を飲ますような会社のために、なぜこんなに働くのかという疑問が、脳裏を掠める瞬間もあった。しかしこれがライフワークだ。
ドバイの日常は単調だった。
マンションの一階にあるミニスーパーが食物倉庫である。種類は少ないが、和食の材料も店頭に並んでいる。
たまの休日は日本料理店、インド料理店、中華料理店、アラビア料理店を巡った。
ホテルの中のレストランは日々の胃袋を満たすには高級すぎる。街中のレストランが手頃だ。
ドバイはショッピング天国でもある。金だけでなく欧州一流ブランドの洋服、洋品も安い。毎年三月、四月頃開かれるショッピング・フェステイバルでは格安価格で販売される。
ただ娯楽は少ない。衛星放送と日本から持ち込んだビデオソフトを、テレビで見ながら街中のデューテイー・フリー・ショップ(免税店)で買い求めたビール、ウィスキー、ワインを飲むのが唯一の楽しみだった。
デューテイー・フリーとは輸入関税免除を意味する。酒税は支払わなければならない。
回教徒は宗教上の理由でアルコール類の購入は出来ない。外国人は所得によって、一ヶ月のアルコール消費の上限金額が決まっていた。
3
営業開始から半年後、大問題が持ち上がった。シンガポールからの並行輸入品の横行だ。
シンガポールの輸出業者や電気店が、中近東、中央アジア、南コーカサスへ再輸出を増やし始めたのだ。
同じブランドの同じモデルである。輸入業者は安いほうから仕入れる。
問題はシンガポール東京クレストの仕入れ価格が、中近東東京クレストのそれより五、六パーセント、場合によっては十パーセント安い事に端を発している。
そこで一計を案じた。代理店会議を開催し、東京クレストの各事業部の海外営業部員に代理店、ディストリビューターと直接交渉をさせる事にしたのだ。
作戦は成功だった。
彼らは代理店、ディストリビューターと会い、市場状況の説明を受けると、市場価格に出荷価格を合わせ始めた。
新市場の中央アジア、南コーカサスへ出張を繰り返し、新しいディストリビューターを開拓した。同業他社より一年以上早い進出だった。
発展途上国では先行ブランドは極めて有利だ。中近東東京クレストは中央アジアや南コーカサスで五十パーセントを上回る圧倒的な市場占有率を手に入れることが出来た。
高い市場占有率は高い利益率をもたらす。これにより、中近東東京クレストは事業計画以上の販売と利益を手にすることが可能になった。
発展途上国の販売では有力なディストリビューターの選定が第一義だ。が、宣伝、販売促進策の推進も車の両輪のように重要である。
数は少なくなっても重点市場に業界最大級のサインボード、ビルボードを作る事にした。展示会へ出品する場合は業界で最大のブースを取れる場合に限定した。
消費者は日本企業の大きさを知らない。展示会場のブース、サインボード、ビルボードなどの大きさで企業の大小を判断するからだ。
それ以外に、手を付けたのが支払条件だ。
大部分の取引先が外国だけに、支払いが滞った場合の集金は困難を極める。
アラブ首長国連邦の商習慣による支払条件は先付け小切手だった。が、敢えて前払い、若しくは銀行信用状による支払を要求し、全取引先に承諾して貰った。
但し、長期注文を要求せず、現物取引のみとし、代理店の在庫負担軽減に配慮した。その結果、代理店の在庫体質は著しく改善した。代わりに、中近東東京クレストが大型倉庫を用意し、緊急出荷に備えた。
問題は在庫管理である。
代理店は長期注文をしないで済むと喜んでいただけではない。売れ筋商品が物不足になるのではないかという恐れを抱き、正岡に市場情報をこまめに流し始めた。
正岡はアジア、アフリカ向けの価格情報が集まるシンガポールの市場動向にも目を配った。シンガポールはかつて第二の故郷と言って憚らなかった市場である。友人、知人の多くは既に引退していたが、それでも情報源に事欠かなかった。
豊富な市場情報と長年の経験を基に、綿密な仕入計画を立てた。その結果、物不足、過剰在庫の問題は発生しなかった。
正岡は商談を社員任せにせず、自分で取り仕切った。取扱商品は百機種を遥かに超えていたが、モデル別の仕入れ単価、取引先別の販売価格を自然と記憶した。
ある日、主要代理店のインド人マネージャーが来社した。彼と親しげな会話をしているインド人セールマンを見て疑心を抱いた。
インド人セールスマンを社長室に呼んで、「価格表を持って来なさい」と指示した。
正岡はしばらく価格表を見入っていたが、その代理店にオッファーをしていないモデルの価格を発見した。
問い詰めて行くとセールスマンは他の代理店の価格を流用したと白状した。
正岡はセールスマンを見据えて、「この次にこんな越権行為を見つけたら、解雇する」と申し渡した。
社内で正岡は取引先別、モデル別の販売価格を全部覚えていると噂が立った。
その後、類似の事例を見ることはなかった。
4
各国の取引先が引きも切らず中近東東京クレストを訪れた。
ある日、アラブ人の代理店社長が、商談中に正岡の私生活を話題にした。
「単身赴任だって?」
「うん」
「こちらでアラブ女性と結婚しないか?」
「離婚するつもりはないが」
「ここはアラブだ。女房は四人まで持てる。日本に一人、ドバイに一人持てばよい。私が世話をする」
正岡は冗談かと代理店社長の顔を見た。
代理店社長は真剣そのものの顔をしている。意外と本気のようだ。
アラブ女性の顔を見た経験は多くはないが、数人の魅力的な女性達の姿形が頭に浮かんできた。
アラブ人とはアラビア語を話す人々であるが、人種的にはいくつかに分かれる。その中で、パレスチナ人、レバノン人、シリア人は同一人種である。
取り分け美人が多いのは古代フェニキア人の末裔で、アラブ世界の中で最も混血が進んだレバノン人だと言われている。
湾岸戦争前のクウェートの中華料理店で見た二十歳代半ばのレバノン女性は、大柄だったが、肌は北欧女性のように白く、ハリウッド女優と競っても、決して引けをとらない、はっと息を呑むような美しさだった。混血により、長所だけを受け継いだような女性に思えた。
サウジアラビアの友人の海辺の別荘で、二十歳前後のパレスチナ人の女性と鉢合わせをした。
浅黒い肌、大きな目の野性的な風貌の持ち主で、ターザン映画のジェーンが身につけていたような、右肩を露にした豹柄の水着でその若い肢体を包んでいた。
アラブ女性が家族以外の男性に肌を見せる事は稀だ。正岡は別世界に紛れ込んだような驚きで、思わず「ほお、ジェーンみたいだ」と漏らした。が、彼女はたじろぎもせず艶然と微笑み、「そのデザインよ」と言い残すと水中に消えた。
民族衣装のアバヤで顔と手と足以外の部分を隠した二十二、三歳のアラブ首長国連邦の女性官僚は、砂漠の遊牧民ベドウインの影響か、黒味を帯びた肌に白色人種特有の彫りの深い顔立ちだった。
イギリスで教育を受けたことを雄弁に物語る、流暢なブリティッシュ・イングリッシュを操っていた。立ち居振る舞いは上品そのものだった。
結婚となれば、若い女性だ。彼女達を思い浮かべ、一瞬だけだが、それも悪くないな、と心が動いた。代理店社長は脈があると見てとったのか、興味津津の面持ちで正岡の顔を見詰めた。
だが正岡は直ぐに日本にいる妻の顔が浮かび、思わず苦笑した。
「いや、止めとくよ。私は日本人だ。妻に重婚で訴えられる」
正岡は中近東への出張、弁護士との面談には必ず、ラシッドを連れて行った。一年後には一人で出張をさせられるようになり、スーパーバイザー(主任)にした。
二年後、マネージャーに昇格させた。
正岡は辞令交付時に祝辞を贈った。
「昇進おめでとう。ご家族も喜ばれるだろう」
次の営業日、正岡は普段通り午前八時にオフィスに着いた。始業時間の三十分前だ。
社長室のドアを開けて、エアコンにスイッチを入れると椅子に腰を下ろした。いつもはオフィスの入り口に届けられている英字新聞が机の上に載っていた。
老眼鏡を手にした。間もなく誰かがドアをノックした。
正岡は新聞を読みながら「入りなさい」と言った。
目を上げると、身長は百八十センチメートルを、体重は百キロを超す大きな身体で、髭面のラシッドが立っていた。
彼は消え入りそうな小さい声で、「あなたをお父さんのように思っています」と言った。
彼は伏し目がちに言葉を続けた。
「子供ときに父母が離婚しました。その後、父にはあまり会っていません。私は寂しい思いをして育ちました」
5
平成九年秋から平成十年にかけて、日本の金融機関は海外の資本市場で資金調達難に陥った。
背景に、バブル景気の終焉による地価の大幅下落と不動産会社に大量の資金を貸し出していた金融機関の関係があった。
海外の金融市場から資金調達する場合、日本の金融機関に対してのみ最大で一パーセントのプレミアムが上乗せられ始めた。ジャパンプレミアムである。
中近東東京クレストの経理部長が、ジャパンプレミアムを口にし始めた頃、ロンドンに駐在している日本の都市銀行の欧州・中近東責任者が、顔見知りのバーレン駐在員を伴ってドバイに来ることになった。
会社の視察が目的か、と思った。ところが、バーレン駐在員は電話で「昼食に正岡さんと経理部長さんを招待したい。ホテルのレストランを予約してあります」と言った。
欧州・中近東責任者は五十歳前後で役員になる可能性のある人物だそうだ。
正岡は経理部長を伴い、欧州・中近東責任者、バーレン駐在員の二人とドバイの五つ星ホテルで落ち合った。
正岡と経理部長は笑顔を浮かべて欧州・中近東責任者と名刺を交換した。が、欧州・中近東責任者は名刺を受取ると軽く会釈しただけで、予約席に腰を下ろした。客であるはずの正岡達に飲み物を勧めず勝手に自分の飲み物を注文すると直ぐに立ち上がり、ビュッフェスタイルの料理が置いてあるコーナーに向かった。後ろにいる正岡に気がつかないかのごとく取り皿に好みの料理をよそい始めた。
正岡はこれでは銀行が客だと言わんばかりだな、と驚いた。
バーレン駐在員は上司の無愛想を補おうとしているのか、しきりに笑顔を振りまいている。
欧州・中近東責任者は席に戻ると開口一番、貸し渋りに言及した。
「御社の業績が良いのは分かりますが、出来るだけ融資額を減らしたい」
正岡は強気に応じた。中近東東京クレストはドバイ進出企業の中で、抜群の業績、資産内容である事を知っていたからだ。
「そうですか。我が社のメインバンクはイギリスの銀行です。融資額を増やしていただくよう先方と交渉します」
バーレン駐在員が請求書に手を伸ばした。
正岡は、「支払いはクレストがします」と言おうかと思った。が、先方の招待だ。下手に出過ぎるとなめられる、申し出通りごちそうになることにした。
欧州・中近東責任者は黙ってロンドンに帰った。
三日後、バーレン駐在員から連絡が入った。
「ジャパンプレミアムで金利は高くなりますが、以前と同じ金額の融資枠を継続させていただきます」
6
東京クレストの経営陣にも正岡を攻めきれない苛立ちは募っていたようだ。
正岡が事業計画と前年度の実績の説明に本社の経理部を訪ねた時のことだ。面談中に何を思ったか、経理担当専務に昇格していた加賀が言った。
「殺されないように気をつけろよ。誰に殺されたのか分からないからな」
この台詞に覚えがあった。
催眠薬を飲まされた時に、〈コーカサス地域はマフイアが多い。出張した時は気をつけないとな。誰に殺されたか分からないかもしれない〉と口走ったことを思い出したのだ。
何のつもりでやくざ紛いの脅しをするんだ。俺を逆上させるのが目的なのか。
経理部の管理職の一人から聞いた話が頭に浮かんだ。
加賀は昭和五十五年に、自宅を新築する名目で東京クレスト株を上場来最高値で売り抜けた。取締役ではなかったが、全社の経理内容が把握できる本社の経理部次長の立場にあった。
取締役就任の前後に、役員としての体裁を整えるために東京クレストの株式一万株を安値で拾ったという。明白なインサイダー取引である。
内心、天を仰ぐ想いであった。催眠薬事件が、こんな奴を専務にまで押し上げたのか、と。
7
平成十一年八月、正岡は帰国命令を受け取った。役職名は不明だ。
ドバイ在任期間中、担当地域を飛び回り、販売網再構築に注力した。取引先は三倍に増やした。売上は倍増である。
支払条件は前払い、若しくは銀行信用状だ。当然、不良債権は発生しない。回収率は毎月二百パーセントを上回った。その結果、設立以来黒字経営を貫いた。
回収率は当月回収額を売掛金の前月残高で割って求める。前払いと銀行信用状取引の中近東東京クレストは、分母となる売掛金の前月残高が少ない。
他の現地法人は、回収率が軒並み九十パーセントを下回っていた。中近東東京クレストの健全経営は、グループ企業の中で群を抜いていた。
初年度は内部留保を厚くするため無配にしたが、二年目には五パーセントの配当を出した。現地法人の最短記録である。
グループ企業の中で最高の実績を上げた現地法人社長に役職名不明の帰国命令を出す会社など前代未聞である。
帰国二週間前に自分の人事異動を社内発表した。
間もなく主要三ヶ国の代理店が、遠路はるばるドバイまで別れの挨拶にやって来た。
正岡はこの三カ国と地元のアラブ首長国連邦の代理店を別々に幾つかのホテルのレストランに招待し、頭に浮かぶまま、持ちネタの限りを尽くし、立て続けに小話を披露して場を盛り上げた。
夕食後、にっこり笑って握手を求めてくる者、頬にキスをしてくる者、「定年退職するのか?」と尋ねてくる者と様々であるが、いずれも別れ難い友人達であった。
他の代理店、ディストリビューターとは電話と手紙で別れを告げた。
出発日、ドバイ空港で全社員の見送りを受けた。だがラシッドはなぜかそわそわと視線を合わせない。
正岡は現地社員一人一人に惜別の念を込めて会釈した。その一方で、東京クレストに抱く自分の屈折した心情を、現地社員達が全く知らないことに複雑な気持ちを抱いた。