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第四章 暗転

 第四章 暗転


    1

 

 昭和五十五年、世界では、エジプトとイスラエルの国交樹立、日本、アメリカを含む六十七カ国のモスクワオリンピック不参加、イラン・イラク戦争の勃発などの事件が起きた。

 日本では、大平首相死去、長嶋茂雄の巨人軍監督辞任、王貞治の現役引退、山口百恵の引退などがあった。そんな中、日本経済は好調な輸出や民間企業の設備投資の増加などを反映し上昇局面にあった。

 

 正岡が最初に身辺の異変を感じたのは、この年の新商品企画会議である。事業部長の武田は、なぜか出席していない。 

 今まで新商品企画をリードし、発展途上国で市場を作ってきた。ところが自分の意見が急に通らない。一大事である。売上の七十%を占めるアジア・アフリカ地域を無視した新商品企画はありえないと思い、海外営業部長に昇格したばかりの南原に詰め寄った。

「部長、この商品企画では来年のアジア・アフリカ地域向けの売上は激減します。再考していただけませんか?」

「いや。これで行く」

「欧米に舵を切って、利益は大丈夫ですか?」

 南原はしかめ面でうなずいた。

 正岡は駄目を押した。

「では来年度の私の販売計画は減らしていただくことになりますが、よろしいですか?」

「君がそう言うならそれでいいよ」

 欧米一辺倒の企画案が通り、会議は終わった。

 アジア・アフリカ市場の売上が減るような商品企画を武田が承認するはずがないと考えた。自席に戻り、立ったまま企画室長の動きを目で追った。

 企画室長は会議室を出ると海外営業部長席、国内営業部長席、経理部長席、人事部長席の順にその後を通り過ぎ、武田の前のパイプ椅子に座った。

 約五分が経過した。武田が無言でうなずいた。

 企画室長は低頭し、立ち上がった。うっすらと笑みを浮かべ、事業部長席の左側にある廊下を右に曲がり、その奥の階段をゆっくりと上り始めた。企画室がある二階へ帰って行ったのだ。

 武田が僅か五分の報告で、事業部の命運を決める商品企画案を承認するはずがない。欧米市場重視への進路変更を事前に決めていたに違いない。が、事態の変化の原因も理由も思い当たらない。茫然と椅子に腰を落とした。

 その後、正岡は南原の様子に細心の注意を払い始めた。普段の会話では、にこにこと笑顔を絶やさないが、以前に見せた親しみが消えているような気がする。不安と不信感が胸の奥深くに沈澱していく。

 その一方で、この事業部で華々しい実績を上げてきたのだ。次の海外営業部長は自分以外には考えられない。現在の担当地域に偏った言動は得策ではない、という思いが交錯していた。

 そんな中、国内営業部が売上を伸ばし始めた。

 ステレオラジカセの個装ケースに同封したアンケートを集計すると意外な事実が判明した。消費者の購買理由の多くは二本のFM受信用ロッド・アンテナだというのだ。機能的にはFM受信用ロッド・アンテナは一本で十分だが、ステレオ即ち二本のイメージが受けたのだ。

 FM受信用ロッド・アンテナ二本の企画を強引に推し進めたのは正岡であった。  

 だがステレオラジカセなどの高価格オーディオ商品の市場規模が大きい国内市場の反応は、アジア・アフリカ市場のそれを遥かに上回った。

 その結果、国内営業部は売上増を背景に発言力を強め、独自の商品企画を推進した。ポータブルコンポの登場である。国内営業部にとっては、空前のヒットモデルとなった。

 海外営業部もその恩恵に与った。特に欧米市場が飛躍的に売上を伸ばした。アジア、アフリカなど発展途上国市場は、先進国市場を大幅に下回る結果に終わった。高価格の割に出力が低いことが原因である。

 最大の問題は主力のモノラルラジカセや普通のステレオラジカセの新機種開発が先送りされたことだ。

 

 翌年、アジア、アフリカ市場の事業部内の売上構成比は、約五十パーセントにまで低下した。FM受信用ロッド・アンテナ二本の企画が、日本、欧米など先進国の販売増を呼び、皮肉にも担当市場の地盤沈下を招いたのだ。

 正岡は内心穏やかではない。依然としてゼネラル・オーディオ事業部の利益の全額をはじき出してはいたが、このままでは売上構成比は低下の一途を辿る。ショールームに籠り、新商品企画の種を探した。

 輸出では扱っていないカラオケユニット付きのポータブルコンポが目にとまった。バランス上、他の機種よりスピーカーが大型になっている。

 正岡は技術課長をショールームに呼んだ。

「カラオケユニットをイコライザーユニットに変更し、出力を五割増にしてほしい。国内の五倍は売ってみせる」

「この機種は国内でもあまり売れていない。企画倒れだった。高い金型代が回収できていない。輸出で売って貰えるならありがたい」

 価格を従来のポータブルコンポの三割増で設定したが、市場の反応は期待を大きく上回った。台数ベースで国内の五倍どころか、二十倍以上売ることができた。


    2


 昭和五十六年七月中旬、ゼネラル・オーディオ事業部の人事部長が正岡の席の横に立った。 

「事業部長がお呼びだよ」

 正岡は事業部長席に目を向けた。武田が座ったまま、大きく手招きしている。急いで事業部長席に向かった。武田は自席前にあるパイプ椅子を指差して、着席を促した。

「来週、経理部長とシンガポールに出張する。付き合えや」

 正岡は「はい」と笑顔で返事をしたものの、内心驚いていた。課長昇格後、単独出張を繰り返してきたこの俺が、中堅課長になった今頃になぜお伴を仰せつかるのか、と。

 

 一週間後の朝、正岡は武田、経理部長と一緒に、シンガポール行きの飛行機に乗り込んだ。

 現地時間の午後六時過ぎに、機体は七月一日に開港したばかりのチャンギ・シンガポール空港に到着した。到着ゲートには、輸出入業者の白文徳、駐在事務所長の石山、シンガポール生産現地法人(工場)の常務と幹部社員達が出迎えに来ていた。

 生産現地法人の会長に黒岩が、社長に武田が名前を連ねているが、二人は非常勤で、常務が事実上の責任者である。

 その夜、正岡は滞在ホテルの日本料理店で白文徳、武田、経理部長、石山の四人と夕食をとった。 

 翌朝、武田と経理部長は常務の車でシンガポール工場に向かった。が、正岡は別行動をとり、白文徳の店で商談を始めた。 

 当時のシンガポールの人口は二百五十万人前後で、地場市場は小さく、輸入品の殆どはインドネシア、マレーシア、タイ、ビルマ、インド、中近東などへ再輸出されたが、東南アジアで最も競争の激しい市場の一つで、代理店、輸出入業者は同業他社との競争に加えて並行輸入品(正規の代理店以外の業者が輸入する商品)との価格競争に巻き込まれた。

 白は香港からの並行輸入品が安値で出回っている、在庫を掃くためには値下げが不可欠だと主張した。同意すれば、白が在庫補償を要求するのは確実だ。

 正岡はその裏を取るために、知人が経営する大手電気店に出向いた。

 知人は潮州で出身地の違いもあり、福建の白とは犬猿の仲として有名で、二人が口裏を合わせる可能性はない。

 中国系シンガポール人の中で、福建は四十パーセントを占める最大勢力だ。潮州、広東がそれに続く。

 電気店主の多くも福建である。正岡はシンガポールで客家や海南の電気店主に出会ったことがない。白に訊ねると客家は一パーセントの少数勢力だが、政財界で主要な役割を果たし、富の十パーセントを占めるという。

 十二時前に、市場調査を終えて白の店に戻った。白の情報はおおむね正しかった。

 一時間後、正岡は白と一緒に海鮮しゃぶしゃぶの店へ行った。中国系シンガポール商人のランチは午後一時頃からである。

 食事中に白が、「今晩、東京クレストの関係者全員を招待したい」と申し出た。

「武田さんはシンガポール工場の幹部と夕食を一緒にする予定になっている。それと、今日は湯本さんが合流してくる。工場の幹部を含めるとかなりの数になると思うが、大丈夫ですか?」

「問題ない。どんな料理がいいかな。人数が多いから中華料理にするか?」

「いいですね。武田さんに連絡しておきます。夜七時集合で、どうですか?」

 白は店員に借りたボールペンで紙にレストランの名前と所在地を書いた。

「この中華料理店に予約を入れておく。その時間に会おう」と言い、二十シンガポールドルを支払った。

 その夜、高級中華料理店の丸い大きなテーブル三つが、東京クレストの関係者で埋まった。一番奥のテーブルに正岡、白、武田、経理部長、湯本、石山の六人が座った。工場の幹部達は残る二つのテーブルに分かれた。

 最初はビールで乾杯し、紹興酒、ウィスキー、ブランデーを各自の好みで飲んだ。日本人の好みはまちまちだが、白と工場の中国系シンガポール人はブランデー党だ。白の言によれば、東南アジアの中国人は、ブランデーが長寿に繋がると信じているそうだ。

 中華料理の格は一般的にはスープで判断できる。

 最高級がアナツバメの巣のスープである。アナツバメの親鳥は絶海の孤島の洞窟や人里離れた洞窟の高く切り立った壁面などに唾液だけで巣を作る。このゼリー状の巣が美容に良く、美味だとかで東南アジアの中国人女性に人気だそうだ。が、正岡の好みではない。

 この日はそのアナツバメの巣のスープが出た。白はスープが高級で他の料理が中級以下では、招待客だけでなく料理店に対しても面子が潰れると考えたようだ。高級料理が次々とテーブルに運ばれてきた。

 夕食後、英語の語彙の乏しい武田が、白の顔を見て「ガール、プリーズ」と言いながら両手を前後に動かした。女を抱くゼスチャーだ。

 白が正岡の耳元で「プライベートハウスへ行こう」と囁いた。プライベートハウスを直訳すれば民家だが、実際は売春宿を意味する隠語だ。

 シンガポールでも当然だが、売春は違法である。しかし需要があれば、供給があるのがこの世の中だ。

 プライベートハウスは大小何軒もある。小さいプライベートハウスは場所が狭く、性行為をする場所がない。

 白は「えーと、お前達のホテルは……。うん、あそこか。問題ない。小さいプライベートハウスが良い」と言った。女を連れ込んでも問題が起きないホテルだと判断したようだ。

 正岡は通訳として、付き添うことになった。が、他の同席者は帰路についた。白は日本の公団住宅に相当するアパート群の一角にブルーのベンツを止め、日本式で言えば二階の一室に正岡と武田を案内した。シンガポールでは英国式に、一階はグラウンドフロアー、二階はファーストフロアーと呼ばれている。

 白が呼び鈴を押した。ドアに取り付けた大きな覗き窓のカーテンが開き、管理人が窓越しに顔を見せた。管理人は白の顔を確認すると愛想笑いを浮かべた。正岡達を部屋の中に招き入れて「女は何人要るのか?」と尋ねた。

 白が「一人」と返事をした。

 管理人は男三人の顔を見回し、怪訝そうな顔をした。

 白は管理人が何を考えているか直ぐに分かったようだ。正岡を横目で見て、笑みを浮かべた。「あの男に女は要らない」

 管理人が正岡に向かってニヤッと笑った。「お前はベジタリアン(菜食主義者)か?」

 正岡は思わず吹き出した。

 管理人は数箇所に電話を入れた。

 約三十分後、女が現われた。二十五歳前後で、中国系の十人並の女だ。シンガポール人は中国系が七割以上と圧倒的に多い。マレー系、インド系が続く。

 正岡は英語で女に尋ねた。

「シンガポール人か?」

 女は微笑んだ。

「中国人よ」

 管理人が付け加えた。

「彼女はマレーシアからの旅行者だ」

 正岡はマレー半島南端で、海峡にかかる橋を挟んでシンガポールの対岸にある主要都市ジョホール・バールの名前を口にした。単なる山勘やまかんである。この都市の住民の多くはバスでシンガポールと行き来している。

 その瞬間、女の顔が蒼白になった。それと同時に管理人は慌てふためいた。

 正岡は二人の変化に反応して、「俺は日本人だ。心配は無用だ」となだめた。

 それでも管理人は急き込んで、白に福建語で訊ねた。

 白は苦笑いを浮かべて口を開いた。間違いなく日本からの旅行者だ、俺が保証する、とでも言ったのか、管理人は胸をなで下ろす仕草をして笑みを浮かべた。

 女は正岡に笑顔を送ってきた。

 白に聞くと管理人は正岡を日本企業のシンガポール駐在員だと思い込み、日本人の間でこのプライベートハウスが噂になって警察の捜査が入るのを恐れたという。

 片や、女は正岡を中国系シンガポール人ではないか、彼らの間でジョホール・バールの女がシンガポールで売春をしていると噂が広まり、近所に伝わるかもしれない。そんなことになれば、夕方にしばしばシンガポール行きのバスに乗る自分に隣人達の疑いの目が向けられるのでは、と心配したそうだ。

 武田は正岡達の会話に関心を示さない。女を気に入り、白の車でホテルに連れ込んだ。

 

 二日目も白が別の高級中華料理店で夕食の接待をした。料理はアナツバメの次に高級な鱶鰭ふかひれのスープ付きのフルコースだ。

 食事中、武田が白ににじり寄った。

「ツナイト、ベターガール、プリーズ」

「デザートの後で手配します」

「俺のデザートは女だ」

「女は肉だ。デザートにならない」

 冗談の応酬で周囲は笑いに包まれた。

 白が武田に「女をホテルに連れて行けなくてもいいですか?」と尋ねた。

 武田は身振り手振りを交えて「場所より女だ」と答えた。

 デザートにはライチが出た。果肉が白色半透明で、なかなかの美味である。白によるとライチとアナツバメの巣は、楊貴妃の好物としても有名だそうだ。

 夕食後、白は正岡、武田、湯本、石山の四人を、繁華街近くのビルの中にある大型のプライベートハウスに案内した。

 カウンターに四十絡みのマネージャーがいた。彼は白の姿を認めると脚部が木製で、座が黒色のビニールシートで出来た丸椅子から立ち上がり、営業笑いを浮かべた。

 カウンターの隣に三人の客が座れる長いソファーが用意されていた。武田、湯本、石山の三人がソファーに腰を掛けた。

 正岡は白と立ち話をしながら、好奇の目でプライベートハウスの内部を見渡した。スペースは二百平方メートルほどある。その大部分を十数個の間仕切りが占めていた。その脇に置かれていた丸椅子に、けばけばしい化粧をした中国系の三人の女が座っていた。彼女達の丸椅子の座は朱色の革製である。

 正岡は「女の子達がマネージャーより高級な椅子に座っているじゃあないか」と驚きの声を上げて、マネージャーの苦笑を誘った。

 彼女達は全員がシンガポール人で、そのせいか人目を気にしてホテルに行かないという。

 武田が当然のように先に女を選んだ。一番若く綺麗な女だ。湯本は迷った挙句、綺麗だが、年増の女を選んだ。若いが多少不細工な女が残った。石山はその女と一緒に、無言で間仕切りの中に消えた。

 十分後、別の女が現れた。正岡は興味深そうな目を白に向けた。

 白は、はにかんだような笑みを浮かべた。

「マッサージだけだよ」

 正岡はカウンター近くの長いソファーで、うたた寝をして時間を潰すことにした。

 約三十分後、武田が間仕切りから出て来て、正岡に声をかけた。

「どんな夢を見ていたのかな?」 

 正岡は苦笑した。

「夢を見たのは事業部長でしょう?」

 武田は「いや、いや」と笑顔だ。直ぐに石山が姿を見せた。

 日本語の会話に気がついたのか、白が慌てた様子で現れ、半袖シャツのポケットから輪ゴムで結わえた札束を取り出した。

 それを見た石山が武田を促して、プライベートハウスの外へ出た。金を払う瞬間を見たくないのかもしれない。

 正岡は自分一人が取り残されたくない。二人の後を追うことにした。

 二、三分後、白が笑顔で出てきた。

 正岡が「嬉しそうだね。どうしたの?」と尋ねた。

 白は笑いを噛み殺したような顔で、「女の子達は身体を売るが、気位は高く、客に媚びることはない。しかし自分は客に愛想笑いをし、彼女達に自分より高級な椅子に座らせている。ここで一番格下は自分だ」とマネージャーが言っていたと伝えた。

 そのあとで白は真顔に戻り、「だが彼女達はそんな心配りに敏感で、他のプライベートハウスに移るケースは稀だそうだ」と付け加えた。

 車でホテルまで僅か五分の道程である。白はホテルの玄関にベンツを横付けにして、石山と一緒にホテルに入ってきた。エレベーターの前で笑顔を浮かべて、正岡と武田を見送った。

 正岡と武田の部屋は同じ階にある。武田がエレベーターを降りて、自室に向かう途中でうそぶいた。

「俺のチンチンが大きすぎて痛いよ」

 正岡は元々軽口を叩くタイプだ。黒岩や武田にいびられると、藁人形に五寸釘を打つなどとやり返して、苦笑させてきた。この時もいつものように応じた。

「分からないと思って、いい加減なことを言って」

 

 三日目、李慶祥がインドネシアのジャカルタから出てきた。武田と正岡が泊まっているホテルの高級中華料理店に、東京クレストの関係者全員を招待した。

 李と同じテーブルに正岡、武田、経理部長、湯本、石山の五人が着席したが、直ぐに石山は「私はシンガポールの駐在員ですので」と断って、別のテーブルに移動した。それを見た経理部長も「英語の会話に馴染めないので私も」と言い訳をして、工場の日本人幹部のテーブルに移った。

 李は全く気にしない様子で、「一週間前に特製スープを発注した」と自慢した。東南アジア通を自認する正岡が今まで味わった事もない程の美味である。正岡は湯本に、「さすが李さんですね」と耳打ちした。

 湯本は「俺が李に君達のスケジュールを教えたんだ」と言って、にやりと笑った。

 正岡はなるほど、と納得した。シンガポール滞在が二日も続けば、白の接待でアナツバメの巣や鱶鰭のスープが出る事は誰でも予想できる。李の白に対する対抗意識が見え見えである。客家の李は福建の白をライバル視しているのだ。

 武田は食後のデザートが出てくる頃になると、酩酊状態になっていた。何を思ったか、李に向かって、「二、三カ月後、ジャカルタへ行く予定です。その時の晩飯は和食が良いですね」と口走ると正岡に通訳しろと指示した。

 正岡は慌てて「訊かれてもいないのに……。そんなことは要求しないほうがいいですよ」と言った。

 女を抱いた金を白に払わせ、李には次の出張の宴会まで指図する無神経さに驚き、苦言を呈したのだ。

 武田は顔を真っ赤にして怒鳴った。 

「なんだ。その言い方は。俺が頼んでいるんだ。口出しするな」  

 一瞬、中華料理店は水を打ったように静まり返った。

 李が驚いた顔で口を開いた。

「こんな場面は見たことがない」

 経理部長が武田を諌めた。

「客の前で担当課長を怒鳴りつけるなんてどうかしとる。正ちゃんがかわいそうだ。止めろ」

 正岡は経理部長が武田と同期入社の気安さで取り持ってくれた、とありがたく思った。

 湯本が経理部長に同調した。

「武田さん。やりすぎだ」

 経理部長が立ち上がり「部屋に帰れよ」と言って武田の背中を押した。湯本も立ち上がると「もう帰ったほうがいいですよ」と武田の背中に手を添えた。

 武田は所在無げに部屋に向かった。 

 正岡は今まで、上役に客の前でいびられた事はない。背筋に寒いものを感じた。これは尋常ではない。

 だが次の瞬間、自分の販売実績に対する自負が頭をもたげた。

 この俺を潰すつもりか。それはないだろう。武田事業部長は酒を飲みすぎたのだ。勝手にそう思い直した。

 

    3


 白文徳の店はイギリス統治時代の名残を残す中華街にある。間口は狭いが、うなぎの寝床のように奥行が深い。屋根の上の立て看板に漢字と英語で店名を大書している。安い家賃だけが取り柄で、年商数十億円を誇る商人の店には見えない。

 輸出入の商談は白の仕事だ。それ以外の小口の卸売りと小売は夫人が責任者である。

 車は接客用にブルーのベンツと夫人用にトヨタの赤いセリカを所有している。シャツはフランスの高級ブランドであるランバンがお気に入りだそうだ。

 正岡は白に「俺は年に六、七回シンガポールに来る。他の日本人のように、高い日本料理店やナイトクラブに招待する必要はないよ。中国人の友達と同じように扱ってもらいたい」と言った。

 彼は喜んで申し出を受け入れ、正岡を自宅に招待した。

 白夫妻、長男と正岡の四人で丸いテーブルを囲み、夫人が中華料理店で買い求めたお惣菜をテーブルに並べた。ご飯とスープは家政婦が用意していた。

 食事が終わると白は、縦縞の入ったランバンのカジュアルシャツを脱いだ。その下は五、六箇所穴の開いたランニングシャツである。

 正岡は思わず、「下着に穴が開いている」と口に出した。

 白は「知っているさ。外からは見えないだろう。気にしないよ」と動じない。

 彼はタイの理容店で顔パックをしたり、シンガポールのネイルサロンに通ったりするほど外見を気にする男だ。正岡は予想外の返事に苦笑いを浮かべた。

「僕が見ているけど」

「お前はいいさ。友達だから」

 正岡より八歳年上の白は語りだした。

「俺はシンガポール生まれの、シンガポール育ちだ。イギリスの植民地時代に、学校の先生になった。月給はシンガポールドルで十五ドルだった。

 自営業を志した俺は貯蓄目標を収入の七割に設定した。毎月十ドル五十セント貯めなければならない。これがなかなか難しい。十ドルしか貯められなかった月は家族で反省会を開いた。十一ドル貯めた月は皆で手を叩いて喜んだものだ」

 正岡は真顔で訊ねた。

「今は大金持ちだ。どの位貯めたの?」

「それはお前にも秘密だ」

 夕食が終わると白が言った。

「麻雀をしようか」

「中国式のルールは知らないよ」

「直ぐ慣れるさ」

 白は友人達に電話を入れた。約二、三十分後、「メンバーは全員、福建だ」と嬉しそうに伝えた。

 約一時間後、顔見知りの電気店主が、アイロンで丁寧に仕上げた白い衿付の半袖シャツと濃紺のズボンという出立ちで現れた。

「今日は店を早仕舞いして駆けつけた」と言って、三十歳前後の若々しい顔をほころばせた。

 続いて眼鏡をかけた五十歳過ぎの男が現れた。

 よれよれの濃紺のズボンとグレーで衿付だが、皺になった半袖シャツを着ている。麻雀メンバーの意欲を削ぐような身なりである。

 更に、男の足元を見て絶句した。濃紺の靴下の左側に二箇所、右側に三箇所の穴が開いている。思わず、振り返って白を見た。

 白はにやりと笑った。

「この人は倉庫会社の社長で金持ちだ。靴下の穴など気にしないよ」

 麻雀を始めて、困惑した。日本式と中国式のルールの違いは想像していた以上に大きい。

 日本式では捨て牌を自分の前の河に並べるが、中国式ではメンバー全員が雀卓の中央に放り出す。全員の捨て牌を覚えておかないと勝てない。

 花牌の代りに動物牌がある。が、ドラ牌はない。立直リーチなし、喰い平和ピンフあり、フリテンロンあり等である。慣れるまでに相当の時間が掛かるものと覚悟した。

 麻雀が終わり、夫人がコーヒーを出してくれた。

 白が倉庫会社の社長の顔を見て、「この人は倉庫でラジカセの完成品をばらしてSKDにする仕事をしている」と言った。

 正岡は驚きの目を倉庫会社の社長に向けた。完バラ業者を目の当たりにするのは初めてだ。

 倉庫会社の社長は正岡の顔を親しげな目つきで見た。 

「仕事は白さんから出ているが、商品はクレストブランドだ。今日はクレストのマネージャー(課長)と麻雀をすると聞いて、他の仕事をキャンセルしてやってきたんだ」

 今日はインドネシアへラジカセを輸出している若い電気商も来ている。折角の機会だ、この際インドネシアの通関事情を白に確認しておこうと正岡は考えた。

「SKDの輸入関税は申告価格に掛けられるのですか?」

「税関の人間は輸入商の申告価格など信用しない。シンガポールの市場価格や日本の大手メーカーへ問い合わせた輸出価格等を基準に決めたチェック・プライスを持っている」

「同じブランドで、同じモデルの場合、どの輸入商も同じ関税を払うの?」

 白は若い電気商を見て苦笑いを浮かべた。

「それなら、良い商人と普通の商人の差はつかない。それからが交渉だ。輸入商は輸入価格をアンダーバリュー(過小価格設定)して税関と交渉を始める」

「どのくらいアンダーバリューするの?」

「だいたいは半額だ。通関価格がいくらになるかは、税関との交渉次第だ」

「どういう交渉をするのかな?」 

 白は若い電気商に顎で促した。

 電気商は目の前のコーヒーカップを手に取った。

「輸入商はコーヒーマネーを税関の人間に払うんだ」

 正岡は初めて耳にする隠語に反応した。

「コーヒーマネー?」

「賄賂の事だ。コーヒー代のように安いってことだよ。

 一台当たりの賄賂は安いが、大量に輸入するとなると、大きな金額になる。

だから税関の上の方の人間が交代すると厄介だ。交渉のため、半年ぐらい輸入できないこともある。一旦決まったコーヒーマネーは、その役人の在任中は変えることが難しいからだ」

「完成品は全く輸入出来ないの?」

「ラジカセの完成品は原則輸入禁止だが、インドネシア軍の一部の将軍は完成品で輸入する枠を持っている」 

「ところで支払条件は?」

「マーチャント・エル・シーだ。

 銀行のエル・シー(信用状)じゃあないよ、分かる? まあ、商人間の信用取引だね。

 ユーザンス(手形期限)はシンガポールの輸出商とインドネシアの輸入商の間の決めごとだが、九十日、百二十日、百八十日など色々ある」

 商売には物流と商流がある。野生動物の作った獣道のように商人の作った道なき道が商流だ、と正岡は感得した。

 雀友達は家路についた。

 白は正岡をホテルまで送る、と言った。

 車中で正岡は白に訊ねた。

「今月船積分のエル・シーはいつ開けるのかな?」

「もう少し待ってほしい。今シンガポールの取引銀行と交渉中だ。信用限度を使い切ってしまったんだ」

「それでは他の銀行と交渉するということ?」

「他の銀行は直ぐには無理だ。現在の取引銀行と交渉する」

 正岡は理解できない。

「どういうこと?」 

 白は苦笑いを浮かべた。

「賄賂を一パーセント払うことを条件に、取引銀行の我が社の担当者が上役と相談している」

「一パーセントって高くない?」

「高くはない。イギリスのコンファーミング・ハウス(輸出代金支払いの代理業者)を使う場合、二パーセントの手数料がかかるが、銀行の金利は一パーセントだ」

「同じになるということ?」

「銀行の方が安い。銀行は信用限度の範囲内なら一パーセントだ。信用限度を超した分だけ賄賂を要求される」

「信用限度を超した分は銀行もコンファーミング・ハウスも二パーセントで同じでしょ。

 コンファーミング・ハウスと直ぐ交渉を始めた方がいいんじゃあない?」

「銀行の担当者に儲けさせてやるためにも、出来るだけシンガポールの銀行を使いたいんだ」

 正岡は「どうして?」と聞いた後、ふと浮かんだ疑念をそのままぶつけた。 

「ひょっとして、あなたにはパートナー(共同経営者)がいるんじゃあない?」

「どうしてそう思うんだ?」

「その一パーセントを銀行の担当者、上役とあなたの三者で分けると理屈が通る」

 突然、車が左右に揺れた。

 驚いた正岡は白の顔を見た。彼は正面を見据えて、顔を強張らせていた。

「悪い想像をするな。そんなことはない」

 正岡はそれ以上追及することを手控えた。が、指摘は正鵠を射ていると確信した。

 

 その一ヵ月半後の出張でも白の家で麻雀をした。

 倉庫会社の社長がまた現れた。靴下に目が行く。やはり穴が開いている。しかも靴下の色、穴の位置は前回見たときと同じだ。

 倉庫会社の社長は正岡の顔を見て微笑を浮かべた。

「前と同じ靴下だよ。普段はゴム草履を履いているから、靴下を履かないんだ」

 正岡は穴の開いた靴下がよそ行きか、金が貯まるはずだと呆気にとられた。

 白は正岡の胸中を見通したかのように言い出した。

「中国人は蓄財に熱心だが教育には金をかけるんだぜ」

「ふーん」 

「成功した中国人の多くは子供をイギリス、アメリカ、オーストラリアへ留学させているよ」

「元は取れるの?」

「サラリーマンになったら、留学は割に合わないさ。だけど、長い人生では何が起きるか分からない。政治体制が変わり、財産が没収されることは、あり得る。しかし学んだ知識が奪われる事はない。金は知識がなくても貯められる。が、知識があれば、事業が成功する確率も高くなる。また的確な判断力は子供とその家族の命を守るんだ」


    4


 昭和五十七年六月、黒岩は貿易担当常務取締役に昇格すると、西ドイツから帰国した湯本を部下のいない開発部長にした。転職するまでの腰掛の役職である。

 

 黒岩は自席から開発部で手持無沙汰な様子の湯本を見て、暇そうだな、と微苦笑を浮かべた。

 黒岩の席は貿易本部全体が見渡せる窓際にある。左側にある接客用の応接セットで日常の打ち合わせは済ましている。右側に役員室がある。

 湯本が黒岩に目を向けてうなずいた。

 黒岩はドアを開け、役員室に入った。大学時代駅伝選手だった湯本は動きが早い。あっという間にドアのノブに手をかけていた。

 黒岩は接客用の一人掛けソファーに腰を下しながら、来客用の横長のソファーを無言で指差した。たばこに火をつけて、一呼吸置いた。

「どうだ、その後。変った事はないか?」

「山友商事は正岡に催眠薬Hを飲ませ始めました」

「うん。それで?」

「成育歴、女性関係、金銭問題を聞き出したそうです」

「何か他人に知られて困るような秘密が見つかったか?」

「残念ですが。彼は真面目というか。常務もご存知でしょう。シンガポールの白が女を勧めても手を出さないほどの堅物です」

「堅物? それは相手が売春婦だからだろう。世の中には、人妻ばかり相手にしている奴がいると聞いたことがある。

 正岡君は去年の忘年会で新婚のピアノの先生と親しげに話していたぞ。彼女とはマレーシアのクアラルンプールで知り合ったんだろう?」

「話していただけだと思いますが」

 黒岩は納得していない。 

「それはどうかな」

「それから、山友商事は幼少期まで遡り、記憶が曖昧な時期を探し始めたそうです」

「それで、どうした?」

「新しい記憶を埋め込む作業に取り掛かりました。他人に馬鹿にされた記憶、失敗の記憶、友達に袋叩きにされた記憶、仲間はずれにされた記憶などです」

「性格改造を始めたのか?」

「だと思います」

「オーディオ部長を兼務している常務が、正岡を徹底的に痛めつけて自信喪失に追い込め、まずると奴は取締役か部長で出向してくるぞ、と言ったものですから、次長達がいきり立って口々に正岡を脅し始めたそうです」

「何て?」

「お前は悪い奴だ、化けの皮を剥がしてやる。家を作ったら、賄賂を受け取ったと触れ回ってやる。お前は貰い物が多い、お前みたいな奴が昇格したら許さない、などと」

「だが正岡君は家を持っているぞ」

「記憶させる時期を家の購入前にしたと言っていました」

「ふむ。正岡君の反応は?」

「顔を引き攣らせていたようです」

「それはいいな」

「その後、脅し方はエスカレートしまして」

「どんな脅し方をしたんだ?」

「世界最強の組織がお前を見張っている、と」

「正岡君はどうした?」

「冗談じゃあない、俺は警察に捕まるようなことをしていないと言っていたとか。

 彼らはまだ足りないと思ったようで、お前がクレストを辞めても、どこの会社にも就職できないようにしてやると脅したんだそうです」

「それで?」

「難しそうな顔で考え込んでいたと聞いています」

「日頃、山友商事の連中は君や正岡君に頭を下げているが、もの凄い敵意だな」

 黒岩は湯本の報告に満足した。

 山友商事の連中は期待通りに動いているようだ。しばらくは様子見だな。


    5


 十二月初旬。黒岩は開発部で電話をしている湯本に目と顎で合図した。

湯本は電話を直ぐに切って、すっと滑る様に近づいてきた。

黒岩は湯本に笑顔を向けた。

「役員室は来客で埋まっている。商談室で話をしようか?」

 黒岩は自分でドアを開けて入室した。

「どうだ。その後の山友商事は?」

「催眠薬Hに慣れたというか、面白半分で記憶操作しているようです。

 ご存知かと思いますが、正岡はシンガポールの白文徳とちょくちょく、マレーシアのペナン島へ出張しています」

「うん。知っている」

「そこで、白が払ったホテル代を正岡が会社に請求したシーンを演出しました」

「ほう。上手くいったのか?」

「それが……。手抜きして、会話を全部日本語でやったそうです。記憶が蘇ると、正岡はおかしいと思うかもしれませんが。

 例の常務が、お前はコソ泥並みの小悪党だ、所詮大物にはなれない、と罵ったとか」

「オーディオ部長を兼務している奴だな。それで?」

「正岡はきょとんとしていた、みたいです」

「日本人は英語を日本語に翻訳して記憶するんだそうだ。記憶が蘇り始めたばかりでは、会話が英語だったか、日本語だったか、はっきりしないんじゃあないか。気にしなくていいと思うよ。それだけか?」

「その後、その常務が苛めには性的な攻撃が有効だと主張して、会議中にオナニーをやらせたと言っていました」

「まさか、うちの社員が一緒じゃあなかろうな?」

「ご心配なく。山友商事のオーディオ部員だけです」

「女の子もいたんだろう。その前でアレを出したのか?」

「正岡は出そうとしたみたいですが、催眠薬Hが入った茶を出した女の子が、そのまま会議に出ていたので、出さなくていい、感触は覚えているだろ、始めなさい、と指示したんだそうです」 

「ふむ」 

「五、六分ほど机と椅子をガタガタと揺すったあと、呻き声を漏らして果てたようです」

「目覚めた後、正岡君はどうした?」

「けろっとして、皆どうしたの? 変な顔をして、と言ったとか」

「女の子はどうだ?」

「しばらく顔を真っ赤にして俯いていたが、トイレに駆け込んだらしいです」

「ふーん。黙って任せりゃあ、そこまでやるということか」 


    6


 正岡は一週間に二回ほど、ゼネラル・オーディオ事業部の同僚と麻雀を楽しんだ。工場が君津に移転して通勤時間が短くなった為、遊ぶ時間が増えたのだ。

 雀友は事業部長の武田、経理部長、経理課長、人事課長、技術課長、製造管理部長、製造管理部計画課長、製造部長、製造課長、海外生産部課長である。

 出張の多い正岡は事業部にいる限り、断ることはない。彼らとの付き合いを通じ、事業部内部での仕事を円滑に行っている。

 君津駅近くの雀荘で麻雀牌をかきまぜていると、突然、不可解な記憶が蘇った。声の主は男だ、としか分からない。

〈お前は悪い奴だ、化けの皮を剥がしてやる〉

〈家を作ったら、賄賂を受け取ったと触れ回ってやる〉

〈お前は貰い物が多い、お前みたいな奴が昇格したら許さない〉

 好意の欠片もない攻撃だ。入社以来ずっと日の当たる場所にいて、シンガポールで武田に客の前でいびられた以外に、人から露骨な攻撃を受けたことがない。

 驚きと不安で顔が引き攣った。あれは誰だ。

 この日のメンバーは、人事課長、経理課長、技術課長である。三人の様子をうかがう。皆和やかに楽しんでいる。この三人ではなさそうだ。

 

 その翌日、君津工場に出社した。海外営業部長の南原、他部門の部課長を見渡すが、顔を合わせると笑顔を送ってくる。何時もと変化はない。

 武田はシンガポールでの一件を忘れたかのように、気に掛けている。正岡が廊下を通って事業部長席の横を通りかかると、笑顔を浮かべて手招きした。

「正岡さん。素通りしないで寄っていきなさい」

 やはり武田は潰す気はないようだ。武田は状況、気分により「正岡さん」か「正岡」と呼んでいる。が、なぜか正岡君とは言わない。

 本社の貿易本部に出向くが変化はない。貿易本部の部員でもゼネラル・オーディオ事業部の部員でもないようだ。

 帰宅後、机に向かった。いつしか、指を組んだ両手に額を乗せていた。

 あの蘇った記憶は何だ。どうして相手が分からないのだ。俺を脅したのは一体誰だ。姿を見せない敵の不気味さが全身を覆う。

 晩酌にウィスキーの水割りを二杯ほど飲む。直ぐに眠気を催し床に付く。朝二時か三時ごろ目が覚めると、脅された記憶が脳裏を掠める。それだけではない何かがある。漠然とした恐怖が襲い、包み込む。それが何か分からない不安と、もどかしさに苛立ちを覚える。

 妻の寝顔を見ると軽い寝息を立てている。起き上がって子供部屋を覗く。息子二人が捲くれた掛け布団から手を出している。掛け布団をそっと直す。ふと見ると、起きている時とは別の可愛い顔と姿だ。

 誰かが俺を狙っている。妻子を路頭に迷わすかもしれない。

 その後も、不可解な記憶が何度も蘇った。ほとんどは正体不明の男達の脅しだ。徐々に脅し方がエスカレートしてきた。

〈世界最強の組織がお前を見張っている〉 

 顔が強張った。日本の警察は高い検挙率を誇り、世界最強と言われていた。日本の警察のことか。馬鹿な、俺は警察に捕まるようなことはしていない。

〈お前がクレストを辞めても、どこの会社にも就職できないようにしてやる〉

 人事部が転職の邪魔をするということか。そういえば、本社の人事部が転職先に妨害電話を入れたという噂が流れた。あれは本当のことか。

 正岡は不安に怯えた。得体の知れない敵が自分を陥れようとしている。相手は首にするだけでなく、社会的生命も奪おうとしている。幾つもの蘇った記憶に、なす術もなく呆然とするばかりだった。

 この得体の知れない、蘇った記憶は一体何なのだ。いずれも断片的な記憶ばかりだ。少しずつ不定期的に思い出す。が、全体像は、はっきりしない。そればかりか時系列も不明瞭だ。自分の記憶を誰かに弄ばれているのではないか、という恐怖に寒気がした。

 本当にこんなことがあったのか。思い悩んだ末、妻の康子に変な記憶が入り込んでいる話をした。

 彼女はじっと聞いていたが口を開いた。

「変ねえ、それ……。あやしいわねえ。誰かが心理操作をしているんじゃあないかしら。このごろのパパは何かおかしい気がしていたわ」

 康子は大学で臨床心理学を専攻していた。

 ふいに、佐橋の顔が浮かんだ。彼は犯罪心理学を研究したと言われている。心理学全般にも詳しいはずだ。あのひとが絡んでいるのか。  

 佐橋の経歴を調べた。大学卒業後、警察庁科学警察研究所に技官として奉職していたが、警察庁から東京クレストの人事担当専務取締役に転出する先輩と一緒に、本社の人事部人事課長として入社した。左遷を味わった後、本社の人事部長、取締役人事部長と累進した。武田より五歳年上だ。

 

 その三週間後、生産部との打ち合わせが終わり、廊下を通って血圧測定の為に医務室に向かった。この頃人間ドックで高血圧を指摘されていたのだ。

 ふと背後を振り返った。中庭を挟んだガラス越しに、こちらを見つめる佐橋の姿があった。課長昇格試験以来の出会いである。

 通常、役員が工場に来る時は前触れがある。が、この日に限っては、何も聞いていない。佐橋は策士中の策士だ。これは何かある。体中に緊張が走ったが、出来るだけ平静を装い、無言でガラス越しに会釈した。

 彼は驚いたような顔で答礼した。

 しばし、二人は見つめ合った。彼は正岡が睨んだと思ったかもしれない。次の瞬間、背を向けて歩き去った。突如、正岡の胸に不安感と不快感がない交ぜになったような気持ちが込み上げてきた。彼は敵意こそ見せなかったが、好意的とは程遠い、何か特別な人間を見ている顔つきである。

 

 本社のエレベーターの前で、専務に昇進した野村に出くわした。野村は正岡を直視せず、やや俯き加減で、実に気の毒そうな素振りを見せた。面談したこともないし、理由も思い当たらない。狐につままれたような思いがした。

 

     7


 正岡は過去十年以上に亘り、東南アジア、中近東へ出張したときは必ず、シンガポールに立ち寄ってきた。この国と人に深い親しみを持ち、第二の故郷だと思っている。

 定宿にしているホテルや商店の顔見知りの従業員達は、正岡を中国人だと信じ込んでいるようだ。丸顔とサハリスーツがその理由だと思うが、日本人離れした図々しさも、関係があるのかもしれないと自己分析している。

 中国語は片言程度で、ほとんどの会話は英語で済ましている。

 標準中国語であるマンダリンを喋れない中国人は意外といる。特に香港に多い。英国の植民地政策の負の一面だ。所得は英語ができるかどうかで影響を受けるが、標準中国語の能力と所得は一般的には相関関係が薄いからだ。標準中国語を喋れなくても、中国人と見間違われる所以ゆえんである。

 中国人に親しみ易い顔と長年の付き合いで、シンガポールの電気店主の多くは知人、友人だ。

 電気店主の一人から、白文徳がライバル会社のテレビ、ビデオ、ラジカセを扱い始めたという情報を入手した。直ちに、クレームを付けた。 

「なぜ二股をかけるんだ?」 

 白は耳から入った英語で喋っている。マレー語の影響なのか、デインジャラス(危険な)という単語も、デインジャラーになる。初めは驚くが、繰り返し聞いているうちに慣れ始める。

 ガバメント(政府)という単語も、ガバナーとなる。英語でガバナーは、総督や知事を意味する。白はシンガポールがイギリスの植民地だった時代に、少年期、青年期を過ごしている。国民を支配するという意味では総督も政府も同じで、混同に気がつかずその後の人生を送ってきたのかもしれない。

 白と初めて会議を持った日本人は単語の意味を追いかけ易い。そのため発音に幻惑され、話がよく理解できない。正岡は癖を知っているので、話の前後で言いたい事を理解する。 

 そんな白が交渉ともなると二枚腰だ。愛想笑いを浮かべながら、

「クレストと代理店契約書も結んでいないのだ。俺の立場は弱い。理解して欲しい」と言った。

 代理店契約書がなくても良いから、商売をしようと持ちかけたのは白である。今やそんな経緯をすっかり忘れたかのようだ。

 白は長年の友人である。外交辞令を込めているのか、中国人の友人達に正岡をベストフレンドと紹介してきた。が、武田とも親密である。白を責め立てて、後ろを見たら、梯子が外れていたのでは勝負にならない。

「これは重大問題だ。日本に帰り次第、武田さんや貿易本部に報告する」と警告するにとどめた。


 正岡は帰国すると直ちに武田に報告した。

 武田は珍しく明確な指示をした。

「自分のブランドは自分で守れ」

 正岡はそれを聞けば十分だ、と白に圧力をかけた。

 白は逃げを打ちながらも、要求は忘れない。ここで東京クレスト側の譲歩を引き出し、シンガポールの独占販売権を手に入れるチャンスと考えているようだ。

「俺は代理店契約書が欲しいんだ。何時でもクレストのライバル会社とは取引を止める。友達だろう? 理解してくれ」

 正岡は冷たく言い放った。

「フレンド・イズ・フレンド、ビジネス・イズ・ビジネス(友は友、仕事は仕事、情は禁物だ)」

 代理店契約書は貿易本部の仕事だ。正岡の手に余る。アジア部長に報告するが、時間だけが無為に過ぎて結論が出ない。白はそれをいいことに、二つのブランドを扱い利益を貪った挙句、「クレストのライバル会社のラジカセは扱うのを止めた。お前との友情に配慮したんだ」と言って、好意に満ちた顔つきをした。

 だが正岡は本心を見抜いていた。二ヵ月に一度の頻度で、シンガポールへ出張してくる俺を誤魔化せないと観念して、ライバル会社のラジカセの販売を断念しただけだ。転んでもただでは起きない男だ。恩着せがましいせりふを吐いている。利益と友誼を巧みに操る強かさに目を見張った。

 これが中国人だ。


    8

 

 昭和五十九年十二月下旬、王徳学は香港のビクトリアピークの別宅で、街の灯がつき始めた薄暮のビクトリアハーバーを見下ろしながら正岡の到着を待っていた。

 三年前、念願かなって、この別宅をイギリス人の銀行家から購入した。約六千平方メートルの土地にコロニアル様式の家が建っている。

 かつてビクトリアピークの邸宅には、ヨーロッパ人保護法により中国人の居住が許されなかった。それだけに、この別宅が自慢で、機会を見つけては日本からの出張者を招待してきた。

 ただ、難点は治安が悪いことである。高級住宅が多いため泥棒、強盗等のターゲットにされ易いのだ。高価な家具、貴金属等はここには持ち込まず、市街に在る本宅に置いている。

 森山電機貿易が送り出してきた香港駐在事務所の課長夫妻、駐在員夫人、森山電機貿易本社の独身女子社員二人の計五人は、ダイニングルームで妻と歓談をしている。独身の女子社員二人は催眠薬Hを飲まされた正岡が、どんな反応をするか、女好きの男か、魅力的な男か、女性の目で判断して報告する役目を担っているそうだ。

 東京クレストで海外出張した女子社員はいないと聞いた。そこで正岡が警戒しないように、独身の女子社員二人を、駐在員夫人として紹介することになっている。

 指定した六時半前に、正岡が東京クレスト駐在事務所長の石山の車で到着した。

 正岡に出す食前酒はビールだけだ。その中に入れた催眠薬Hが効き始めると、妻が呼びに来る手筈である。それまではリビングルームで待機だ。

 妻は在日中国人(日籍華人)の娘で、大学まで日本の教育を受けている。日本の商社に数年間勤務した後、結婚した。

 約十五、六分後、妻がドアの外から合図を送ってきた。どこまで聞き出せるか、薬効がなくなるまでの時間との勝負だ。勢いよくダイニングルームのドアを開けた。正岡は目がとろんとしていたが、姿勢良く立っている。 王は質問を始めた。

「どうしてインドネシアの李と直接取引を始めたんだ?」

「湯本課長がやろうと言った」

「それでお前が決めたのか?」

「王さんが怒るから嫌だと言ったが、どうしてもやろう。黒岩さんの許可を取れとしつこく迫るので、仕方なく黒岩さんに電話したら、直接取引を許可すると言われてしまった」

 森山電機貿易駐在事務所の課長が横から口を出した。

「貿易本部の課長と事業部の課長は同格だろう。それじゃあ、お前も同罪じゃあないか」

「冗談じゃあない。俺はそのとき平社員だ」

 課長は驚いたように石山に「本当?」と尋ねた。石山は無言でうなずいた。

 課長が、からかうような調子で正岡に問いかけた。

「それでお前はどうした?」

「湯本さんが王さん向けの価格表を李さんに渡していたので、王さんの約二割の粗利を李さんと折半することにした」

 俺の金を山分けにしやがったな、と王は不快感が込み上げてきた。だが次の言葉には唖然とした。

「その後で、香港で完成品をばらすのに七パーセント掛っていると李が言っていたのを思い出して、その七パーセントを頂くことにした」

 ――この男は中国人を手玉に取っているではないか。

 課長は「へっ」と驚きの声を上げた後で、正岡を問い質した。

「本当は、お前もインドネシアと直接取引をしたかったんだろ?」

「そんな必要はない。シンガポールからもインドネシアに売っている。直接取引で問題を起こすより、シンガポールとの商売を増やすほうが賢明だ」

「それでは王さんが怒るだろう?」と王はからかい半分で聞いた。

「文句を言われる筋合いはない。王さんは香港の代理店で、インドネシアの代理店ではない」

 妻が「まあー」と驚いた声を発した。

 王は続けた。

「シンガポールからでも売れるなら、どうして香港にインドネシアの商売をさせたんだ?」

「白文徳の前のシンガポールの取引先が粗利を取りすぎていた。王さんの粗利の方が少なかったので、やらせただけだ。白を取引先にした後で、香港との取引を減らすつもりだった」

「なぜ香港を減らすのだ?」 

「王さんより白の粗利が少ない。その分クレストの利益が増える」

 妻が王にため息混じりに、「貴方がいなくなったらどうするの? 息子がこんな男と商売をするのよ。何されるか分からないわ」と訴えた。

 王は核心にふれた。

「シンガポールの白文徳とはいい関係だと聞いているが?」

「白が東京に貿易会社を作りたいと言い出した。その際は参加して欲しいと誘われている。給料を今の倍出すと聞いたが、未だ返事はしていない」

「どうしてだ?」

「人生金だけではない」 

「それでは金の関係はないな」

 正岡は白から金を貰っていないようだ。懲戒解雇にしてクレストから放り出すことは不可能だ。手練手管を使って辞職に追い込んでも依願退職になる。同業他社のどこかに転職先を見付けるのは容易だろう。そうなれば仕事は東南アジア担当か、香港やシンガポールの駐在員になる確率が高い。森山電機とクレストにとって、とんでもない強力なライバルを作ることになる。こんな男をに放つ手はない。だがどこまで出世させるかは今後の課題だ。湯本は今どんな仕事をしているか知らないが、すでにクレストを辞めているのだ、クレストには直接取引の責任を取らせたことになる、と思い直した。

「君はそんなに一生懸命仕事をして、出世しなかったらどうする?」

「出世だけが人生ではない」 

 王は正岡が薬のせいか、人生という言葉を繰り返し使っている、と苦笑した。が、これがこの男の本心だろうと思った。

「ふむ。君はなかなか頭がいいようだが、もし君が王さんだったら何か特別に手を打つことがあるかね?」

「王さんは森山太郎といい関係を作っているようだが、問題は息子の代だな。森山の社員といい人間関係を作る必要がある。そのためには森山に入社させる」

 森山電機貿易の社員達がひそひそ話を始めた。聞きたい話はこれだと、王は口早に訊ねた。

「クレストでは代理店の息子を入社させているのか?」

「いや、させていない。業界は違うが、日本では問屋がメーカーに子弟を入社させる事例は多い」

「代理店の息子はいないのか?」

「いない。だが大手電気店の息子はいる」

 王は森山電機と交渉の材料ができた、とほくそ笑んだ。が、正岡の話の信憑性を確認する必要があると考えた。

「その着ているシャツは何処製?」

「日本製」

 王は両手を広げた。話は終わったというサインだ。待ちかねたように課長夫人が口を出した。

「誰かこの中で綺麗な人がいるかしら?」

「いない」

 課長夫人が「あら?」と軽い落胆の声を発した。

 正岡が目を動かしながら答えた。

「一番綺麗なのは王さんの奥さんだ」

 課長夫人が呟くように言った。

「奥さんでは文句が言えないわね」

 聞こえていた筈の妻が「なんて言ったの?」と聞き直した。王は思わず苦笑いした。

 森山電機貿易の女子社員の一人が妻に言った。

「奥さんが一番綺麗だそうです」

 妻が「ふっ、ふっ、ふっ」と含み笑いを漏らして、「こんな若い人達の中で私が……」と言った。

 王も自分について正岡の本音を聞いてみたいと思った。

「王さんをどう思っている?」

「中国人にしては近代的な経営者だと思う」

 森山電機貿易香港駐在事務所の課長が冷笑を浮かべて問い詰めた。

「なぜそう思うんだ?」

「中国人はトイレットペーパーを買わせても、コミッションを取るといわれている。だから財布を他人には預けない人種だ。例えば、インドネシアの華僑の商圏は家族が集金できる範囲になっている。だが王さんはマネージャーを使って、香港では数少ない大企業を経営している」

 王は溜飲がさがる思いだ。正岡は直接取引の責任者ではない。この男を追及するのはもうやめよう。分不相応な希望でなければ、叶えてやっても良いと思った。 

「将来どんなポジションを希望しているのだ?」

「アメリカの社長になりたい」

 王は正岡の話が女達を通して森山電機に伝わる事を望んだ。俺は近代的な経営者だ、と。

「今日のことを会社にちゃんと報告するようご主人に伝えて欲しい」

 駐在員夫人は一応の抵抗を試みた。 

「主人には伝えますが、会社に伝えるかどうか決めるのは主人です」

王は掛け合う相手ではないと思った。

「それでいい」

 駐在員夫人は不安そうな口調だ。

「今日の結果で何か起きますか?」

 王はあっさりと否定した。

「いや。別に何も」

 駐在員夫人は「よかった」と嬉しそうな声を上げた。正岡が首になるようなトラブルに、巻き込まれたくなかったようだ。

 王は出席者達が何か正岡に聞きたいことがあるのかと思い、出席者を見渡した。

 森山電機貿易香港駐在事務所の課長が慌てて王の了解を求めた。

「一つどうしても聞いておきたい事があるんですが?」

 王は黙って頷いた。

 課長は正岡の顔を見詰めた。

「東京クレストがインドネシアのマーケット・シェアーを七割占めているという話は、本当か?」

「少なくとも七割はある」

「確かか?」

「インドネシアにラジカセのマーケット・シェアーの統計はない。推定だ」

「森山電機のマーケット・シェアーはどのくらいあると思っている?」

「ゼロに等しい」

 森山電機駐在事務所長の課長が眉を吊り上げて、「馬鹿を言え」と叫んだ。

「本当だ。インドネシアだけではない。東南アジアのラジカセ市場はクレストの独壇場だ。森山電機など影も形もない」

 課長は無言で正岡を睨みつけている。

 正岡は焦点の合わない目で課長を見ているが、全く動ずる気配はない。

「森山電機のラジカセが売れているのは中近東ぐらいだ」

 課長は薄笑いを浮かべた。正岡を見下すような口調に切り替えた。

「まあいいさ。今は映像の時代だ。ラジカセの売上規模など小さい、小さい」

 正岡は薬効で配慮など出来ない。思っていることをそのまま口にしている。

「森山電機は国内では一流だが、海外では一流半だ。東南アジアでは、ラジカセもビデオもクレストの方が売れている」

 課長は震える声で「この野郎」と口走った。

 王は手でまあまあ、と課長を制した。正岡の顔を横目で見ながら、「森山電機は香港では売れているけどな」と言うと時計に目を走らせた。そろそろ薬効が切れる時間だ。リビングルームに戻ることにした。

 数分後、庭に目を向けると、ガラス窓越しに、妻と正岡の姿が見えた。

 四十八歳の妻が笑みを浮かべ、スキップでも踏んでいるかのように、飛び石伝いに正岡を先導していた。庭から見える香港の夜景を案内しているようだ。

 約十分後、妻と正岡がダイニングルームの入口に向かった。

 王は何食わぬ顔をして再び顔を出した。正岡に今までの出来事を悟らせないためである。

 正岡は「お招きいただきありがとうございます」と丁寧に挨拶をした。

 駐在員夫人が「申し訳ありませんが、主人は都合で出張しております」と詫びを入れた。

 独身女子社員二人が「うちの主人も都合で来られません」「うちの主人も」と事前打ち合わせ通りの台詞せりふだ。

 王はさり気なく「聞いています」と答えて、長方形のテーブルのホスト席に着いた。両脇に課長と正岡が座り、その隣に課長夫人と石山が座った。駐在員夫人と森山電機貿易の女子社員二人が課長夫人の下座に席を取った。妻は甲斐甲斐しく接客に勤しんでいる。

 王は立ち上がって、「今日は冬至で、香港では一年で一番重要な日です。日本人は香港ではクリスマスが一番重要な日であると思っているようだが、昔から冬至の方が重要です」と挨拶をした。自分で乾杯の音頭をとり、コップに注いだビールを一気に飲み干した。

 招待客は全員着席のままビールで乾杯した。

 二時間ほどで宴会は終わり、来客はそれぞれ帰り支度を始めた。

 王は玄関口で森山電機貿易の社員達を見送っていたが、石山の車のところまで歩み寄り、笑顔で正岡に尋ねた。

「そのシャツは何処製?」

 正岡は胸を張って答えた。

「日本製です」

 王はわざと疑わしそうな目付きをして、顔を覗き込んだ。が、正岡は黙って見つめ返した。この男は何も覚えていないようだと思った。無言で森山電機貿易の社員達に向かって踵を返した。正岡の話の信憑性を確認したことを彼らに教える為である。

 長男が大学を卒業するころには、森山電機と森山電機貿易は合併しているはずだ。歩きながら、長男が彼らと同じ会社で働く姿を頭に描いていた。

 

    9

 

 昭和六十年一月中旬。いしがき注射器株式会社の社長に就任した湯本が、折り入って話したいことがあると言ってきた。

 黒岩は退職前の湯本に因果を含めておいた。今後も君は僕の指示を受ける立場にある。その代わりと言ってはなんだが、将来も面倒は見させてもらうつもりだ、と。

 早速、何か報告があるのか、と思い、中野のサンプラザ近くの寿司屋で会うことにした。

 座敷に上がると湯本は下座で座布団を外して待っていた。

「どうした。元気か?」

「はあ、まあ。実は山友商事の安田社長に呼ばれまして」

「ふむ」

「山友商事に正岡が好きだと公言している女子社員がいて、ラブシーンをさせてやると言ったら、二つ返事で乗ってきたんだそうです」

「どんな子だ?」

「三十一歳で、離婚歴がある女です。薬が効いているうちは相手が誰だか分からないと教えたせいか、大胆になったようです。

 東南アジアのマッサージガールの振りをして挑発したが、正岡は手を出してこない。

 そこで奥さんの振りをして誘ったらしいです。

 あの最中に、背中に爪を立てたとかで、正岡がお前は誰だ、と叫んだそうです」 

「山友商事でそんなことができる場所があるのか?」

「八階の社長室です。山友商事はビルの七階と八階を借りきっていますが、八階には社長室のほかに会議室、ショールームがあります」

「ふーん、だが声が外に漏れるだろう?」

「階段とエレベーターの前で常務とオーディオ部次長の二人が誰も通さないように見張っていたそうです」

「それで?」

「クレストはお前に何をしてもかまわない、と言っていた。お前は会社に見捨てられたんだ。俺達を訴えたら、お前を首にすると聞いた、と探りを入れたところ、俺の女房が訴えた場合、会社は問題にする権利はない、と言い返したそうです」

「それはまずいな。ところで正岡君は相手が山友商事の女子社員だと分かっているのか?」

「まだ分かってはいないようです」


    10

 

 昭和六十年三月下旬、正岡はゼネラル・オーディオ事業部海外営業部米州担当課長になった。


 七月上旬、上級管理職への登竜門である中堅役職研修会に参加した。

 部次長に昇格するには、この研修を受けることが必須条件になっている。開催場所の研修所は東京都西多摩郡日の出町にある。

 待望の研修に招かれたと思い、意気揚々と研修所に向かった。日程は三泊四日である。一緒のグループには、税務課長、神戸営業所営業課長、他三名が配置された。

 昼間は研修、夜は酒を飲んで談笑と楽しく進んだ。

 最後の夜、座談室で五人の出席者と一緒に酒を酌み交わした。途中から講師と別のグループの磁気テープ製造課長が加わった。

 ウィスキーの水割りを五杯程飲むと酩酊し始めた。

 ふと気がつくと講師、同じグループの三人の出席者と磁気テープ製造課長は姿を消していた。残ったのは税務課長、営業課長と正岡の三人だけである。

 営業課長が言った。

「相当飲んだね。もう寝たほうがいいよ」

 正岡は隣の部屋に戻った。前日と同じく二段ベッドの下の段で寝た。

 翌朝、ほとんど全員が送迎バスで、研修所から武蔵五日市駅に向かった。

 年に一度ぐらい皆で会おう等と言いながら駅で別れた。全員笑顔で友好的な雰囲気を醸し出していた。が、税務課長と磁気テープ製造課長の姿はなかった。

 別のバスで先に着いていた営業課長が、こっそりと人目を憚るような仕草をして、電車に乗った。座席に着くときに、チラッと正岡の方を見たが、その後は知らん顔で背を向けた。

 正岡は違和感を覚えた。何か変だな。昨夜まで、あんなに楽しく一緒に酒を飲んで話をしたのだ。挨拶ぐらいしてもよさそうものだが……。

 発車時間が迫ったが車内は満席だ。乗車を思い止まった。次の電車は空車に近かった。これ幸いと飛び乗り、長椅子の端に座った。 

 突然、不可解な記憶が蘇った。前夜の出来事のようだ。

 男が寝ている正岡の腕を引っ張った。

〈おい。起きろ〉

〈眠たい。寝かせろ〉

一人の男が見張り役を買って出た。

〈俺はドアの外で見張っている〉

 腕を引っ張った男が訊いた。

〈一寸だけ起きろ。お前、どんな悪いことをしたんだ?〉

 その途端、正岡は数日前に、酒を飲んでふざけている武田事業部長を思いだし、真似してみようと考えた。

〈会社の金を使い込んだ〉

 別の男が訊いた。

〈いくら?〉

 正岡はどうせ戯言なら、大きいほうが良いと思った。

〈百億円〉

〈ふざけんな。そんな大金使い込めるか。こんないい加減なことを言う奴だとは思わなかった〉

 正岡は笑った。

 腕を引っ張った男が尋ねた。

〈お前。会社の女とやっただろう?〉

 正岡はおどけた。

〈はい。やりました〉

〈誰と?〉

正岡は思考能力が麻痺して働かない。いたずら好き、冗談好きが出た。

〈人事の女の子全員とやった。人事情報を握ろうと思ったんだ〉

〈何だと。文書にしろ〉

〈眠いから明日〉

〈今すぐだ〉

 正岡はうるさいから書こうとするが、眼鏡が曇ったときのように良く見えない。

〈目が見えないから書けない〉

〈書いてやるからサインしろ。サインぐらい出来るはずだ〉

海外でサインは、捺印と同義語だ。正岡はこの言葉を聞いて、警戒心を呼び起こした。思わず〈サインなぞ出来るか〉と叫んだ。

〈お前、汚いじゃあないか。やったと言っただろ?〉

 正岡はしつこく迫る相手に怒りを制御できない。〈うるさい。持って来い〉と大声を上げた。

 正岡は突きつけられた紙を見たが、ぼんやりして何が書かれているか分からない。下に小さく名前を書くと、上に書かれた内容を証明したことになる。身の危険を感じ、紙一面に名前を書いた。

 今まで、誰かにサインを強要されたことはない。思わず手渡す時に怒鳴った。

〈こんな書類を出してみろ。ただでは済まんぞ〉

 腕を引っ張った男が、紙を見てぼそっと呟いた。

〈これじゃあ、弱いなあ〉

 別の男が正岡の様子を測ったような言い方をした。

〈そろそろ良さそうだな。最近何か変わった事はないか?〉

〈この頃、何か周りが変でノイローゼになりそうだ〉

〈そうか。やっぱり〉

 正岡は必死で男達の顔を見ようとするが、深い霧のような何かに妨げられて、よく見えない。

 いつの間にか、眠りに落ちた。 

 あんな事があったのにどうして覚えていなかったのか。なぜ突然記憶が蘇ったのか。納得できる答えを見つけられない。

 三人の男は誰か。

 一人の男が関西弁で、腕を引っ張った男に小声で話し掛けていた。その声は営業課長の特徴のある話し方と同じであった。腕を引っ張った男は税務課長だ。ドアの外で見張っていた男は磁気テープ製造課長ではないか。

 場所はベッドの部屋だと思った。が、時間の経過と共に思い込みは消えていった。どうやら、酒を飲んだ部屋のようだ。

 正岡は帰宅すると妻の康子に研修所での出来事を話した。

「本当?」

「間違いない」

「変なことばかり起こるわね。何か裏にあることは確かね」

「武田さんに報告するか?」

「パパの味方なの?」

「出世の亡者だからな。自分の都合の悪い事はしないよ。

 研修所は本社の人事部の管轄だ。報告すれば、武田さんは立場上、本社の人事部に問い合わせをしなければならなくなる。黙っておれば、報告をしなかった理由を問われる可能性がある」

 

 翌日、正岡は事業部長の武田に研修所での事件を報告した。

 武田は怒ったような顔を見せ、声を張り上げた。

「よし。人事に話してやる」

 武田の反応に不自然さを感じた。

 何故よし、なのか。そうか。あれは演技だ、こちらの出方を見ているんだ。不安だが、返事が来るまで催促はせず、知らぬ顔をしていることにした。

 

 二日後、武田に呼ばれて事業部長席の前のパイプ椅子に座った。

 武田は正岡から目を逸らせた。

「人事が神戸営業所の営業課長に問い合わせたが、酒を飲んで別れただけだと言っている」

 研修所での一件は、今まで正岡が生きてきた世界の常識を超えていた。

 なぜ目が見えなかったのか。どうして自制心が利かなかったのか。幾ら考えても、全く分からなかった。

 

 七月初旬、海外営業部員が正岡のデスクの前で会釈した。

「事業部長が役員会議室でお待ちです」

 正岡が役員会議室に出向くと武田は、「おお、来たか」という言葉とともに笑顔で迎えた。

「アメリカ駐在員の奥さんが乳癌になった。それで急遽帰国させなければならなくなった。誰か代わりを出したいが、君は志願しないか?」

 周りには数人の人間がいた。癌を秘密にする時代である。瞬時に武田の話は嘘だと判断して、首を横に振った。首を横に振った理由はもう一つあった。アメリカ駐在員は平社員だ。この俺が平社員の代わりの駐在などに志願するものか、と思ったのだ。

 

 三日後、武田は正岡を事業部長席の前に呼び、再びアメリカ駐在を口にした。

「今、アメリカは重要な時期だ。君に是非行って貰いたい。他に適任者がいない」

 正岡はしぶしぶアメリカ駐在を受諾した。

 

 その十日後、武田が内示を通達した。

「正式辞令は二ヵ月後の九月下旬だ。その後でビザの手続きをして貰うので、出国は十月下旬になると思う。家族とよく相談して準備を進めて欲しい」

 

 更に一週間が経ち、二週間が経過した。が、武田が現地法人での職位に触れないので、正岡は尋ねた。

「時に事業部長、現地での私の扱いはどうなっているのでしょうか?」

 武田は俯いたまま顔を上げない。表情は固く一言も話さない。これは怪しい、何かあるな、と察知した。


その一週間後に、再び武田に確認したが、何も言わない。顔つきは一週間前

と同じだ。

 正岡は返事いかんでは、アメリカ駐在を断る積もりで問い質した。

「おかしいですね。どう扱うか決めないで、アメリカに駐在しろとおっしゃるのですか?」

 武田はまだ何も言わない。

 

 数日後、ゼネラル・オーディオ事業部の人事部長が正岡の席の前に立った。

「ちょっといいですか?」

 人事部長はショールームのドアを開け、テーブルを挟んで壁側の椅子に腰を下ろした。

 正岡はドア側の真向かいの椅子に座った。

 人事部長は指を組んだ手をテーブルの上に乗せて、やや俯き加減で口を開いた。

「事業部長と駐在先の職位で、揉めているようですが……」

 正岡は人事部長の目に焦点を合わせた。

「揉めているわけではありません。教えて頂きたいとお願いしましたが、まだご返事を頂いておりません」

 人事部長は正岡の顔を見据えた。

「今、会社の上層部が正岡さんのお人なりを審査しています」

「上層部は審査中にアメリカへ駐在命令を出すのですか?」

 人事部長は一瞬、顔をしかめた。

「うーん。現在赴任中の駐在員と同じ職位だったら、どうしますか?」

 正岡は間髪をいれず答えた。お人なり云々と言われて、憤然としていたのだ。

「お断りします」

「どうしてですか?」

「普通の場合、駐在は子会社出向になりますので職位が上がりますね?」

「必ずしもそうとは限りません」

「私は昇格して欲しいと言っているのではありません」

「それは分かります」

「今回、駐在員の奥さんが癌になったので、急遽駐在して欲しいという話で止むを得ず承諾しました。

 口幅ったい事を言うようですが、私は平均以下の扱いを受けるような実績を上げてきたとは思っておりません」

「それはその通りです」

「私が平均以下の職位で駐在すれば、まるで私が悪い事をしたみたいに思われます。私は駐在を希望しておりません。他の人を選んでいただけませんか?」

 

 十日後、武田が正岡に伝えた。

「アメリカでの職位は営業本部ゼネラル・オーディオ担当次長だ」


    11

 

 アメリカ駐在が正式に決まり、正岡は貿易本部の人事課付き課長となった。

 本社の人事部が進藤社長、野村専務との面談を用意した。

 午前中、正岡は野村に挨拶に出向いた。以前、本社のエレベーターの前で、野村が気の毒そうな素振りを見せているだけに、何か特別な話を切り出すかもしれないと期待を持ったが、世間話だけだった。態度も言葉も実にそっけない。その落差に戸惑った。 

 その日の午後、人事部員と一緒に社長室に出向いた。が、社長室にいたのは、会長の山形である。正岡が驚いた表情をすると、人事部員が言った。

「社長は不在ですが、近々、アメリカへ出張の予定があります。社長はその時に会いたいと言っております」

 山形は満面に笑顔を浮かべていた。親しげに手を差し伸べて、握手を求めた。

「君は正岡君と言うのか。僕には正岡姓の親戚がいる。君は親戚みたいなものだ。そうだ、君の奥さんにプレゼントをあげよう」                       

 山形は秘書を呼ぶと、時計のペンダントを持ってくるように指示した。

 その時、気さくな会長だ、と映った。

 だが帰宅後、これはおかしい、と思い始めた。社長が不在で、代わりに会長が社員の面談に出てくるのは常識的にない。まるで大物の客を迎えたみたいだ。別の日にすれば、済むことだ。不都合であれば、会う必要すらない。話の調子がよすぎるのも不自然だ。

 更に、会長が赴任前の駐在員にプレゼントをした話は寡聞にして知らない。なにか裏がありそうだ。

 

    12


 黒岩には、王徳学に知られたくない隠し事があった。 

 インドネシアの李慶祥と直接取引を始めたあと、ゼネラル・オーディオ事業部は、高収益に嬉しい悲鳴を上げだした。右肩上がりの売上増、利益増が当然視された時代では、利益は少なすぎても、多すぎても問題である。当該年度の利益が多すぎると、翌年度の利益計画を更に上積みしなければならないからだ。

 昭和五十年代初頭、裏金作りを思い立った。

 稼ぎ過ぎた利益の一部を海外にある架空名義の口座に振り込む。その使い道は誰の指図も受けない。俺の意のままだ。どこにするか。名義は架空でも、その所在地は売上の多い国、地域にしないと不自然だ。そうだ、香港だ、香港が良い。

 先ず、ゼネラル・オーディオ事業部の事業部次長兼技術部長の武田、経理部長と海外営業部長の磯部に裏金作りと架空口座開設を相談した。彼らに異存はなかった。

 次に、香港駐在員の関口に指示して、香港の地場銀行に架空名義の口座を開設させた。

 その次に、俺と武田、磯部、経理部長の四人で協議して当期利益を決めた。余った金を販売促進費として経理処理し、架空口座へ送金した。

 その時は何のやましさもなかった。むしろ我ながら頭が良いな、と思ったぐらいだ。

 ところが関口がとんでもない行動に出た。裏金作りと架空口座開設を事業部長にあるまじき行為だ、と告発した親展を、当時の貿易担当常務の長田に送ったのだ。

 幸いアジア部次長の湯本が押さえて俺に差し出したから良かったが。

 湯本が「チンピラの分際で、俺の頭越しに親展を送るような出過ぎた真似をしやがって。身の程をわきまえろ。今度また同じようなことをしたら、ただでは済まさんぞ。これは俺が預かる。いいな」と一喝したところ、関口は顔面を蒼白にして「はい」と答えたと聞いた。

 その後、関口が頼った長田は退任した。

 俺は取締役、常務と着実に階段を上がった。その間に社の内外の俺を見る目は、やり手事業部長から経営トップの一人へと大きく変化したのだ。

 権力に敏感な関口はそんな経緯を忘れたかのように、すり寄ってきた。湯本は退職後も我が掌中にある。

 残る本件の関係者は現在のゼネラル・オーディオ事業部長の武田、経理部長、オーディオ事業部の海外営業部長に転出した磯部である。

 この三人は共犯者だ。口を割る可能性はない。

 最大の問題は正岡が架空口座への送金とその使用実態を把握していることだ。

 王の別宅では、幸いにして正岡が本件を口にすることはなかった。が、王はまだ催眠薬Hを使って聞きたいことが残っている、と執念深い。

 正岡を自信喪失状態にして、山友商事に引き取らす作戦が成功しておれば、直接取引事件のスケープゴートにするだけでなく、本件を闇から闇に葬ることができたはずだ。王が正岡に会ってもう一度本音を聞きたいと要求してきても、もう我が社の社員ではない、と断れるからだ。しかし山友商事の女子社員による強姦事件でその計画は頓挫した。

 

 昭和六十年の年初、黒岩は知り合いの弁護士を訪ね、一部始終を説明した。

 弁護士は事務的に答えた。

「貴方の行為は業務上横領か特別背任になりますね」

 黒岩は狼狽した。

「横領などしておりません。領収書の貰えない支払いに使っております」

「業務上横領にならなくても特別背任にはなります。それと業務上横領と特別背任の法定刑は同じです」

 黒岩は冷や汗が浮かんだ額をハンカチで拭った。

「前科が付きますか?」

「付きます。特別背任罪の罰金は昭和五十六年、三百万円以下に増額されています。懲役刑は十年のままです。ところで何時のことですか?」

 黒岩は緊張で口が渇きだした。

「九年近く前です」

「昭和五十年代初頭では、懲役刑は十年ですが、罰金は五十万円以下です。うん……? ちょっとお待ちください。時効は七年です。既に成立しております」

 黒岩はほっとした。だが、直ぐに別の心配が脳裏を掠めた。

 インドネシア直接取引事件が表面化した後、森山電機グループでは代理店は取締役の任免に口を出せないという方針が確認されている。

 だが、王は俺がインドネシア直接取引の責任者だということを正岡から聞き出している。今になって、俺を森山名誉会長に売り込んだことを後悔しているに違いない。裏金作りの背景と架空口座の存在を知れば、森山名誉会長に直訴するだろう。

 そうなると、時効成立で申し開きが立つはずがない。間違いなく俺は解任される。それだけでは済まない。東京クレストに勤める長男の将来の芽を摘んでしまうことになる。もし業務上横領呼ばわりされたら、万事休す、だ。特別背任と業務上横領は法定刑が同じでも、イメージでは大きな隔たりがある。頭髪が逆立つような焦燥感に襲われた。正岡の口を何とか封じる。それで十分か。

自己防衛本能を全開させ、もう一人の危険人物を察知した。架空口座の管理を任せた関口だ。親展の一件の後、あいつを潰す機会を狙っていたが、事態は変わった。正岡と結託すると厄介だ。恩を売るために、重要なポストにつけ、子飼い同様に扱い、インドネシアの販売実績はあいつの功績だと喧伝してやろう。


    13

    

 黒岩は米国東京クレスト営業本部長の芹沢に直通電話を入れた。

「打ち合わせたいことがある。大至急、日本に来てくれ」

 芹沢は一年前に赴任した国内営業出身の社長、アメリカ人の副社長に次ぐ、ナンバー・スリーである。

 三日後、芹沢は指定した時間の五分ほど前に、愛想笑いを浮かべてデスクの前に現れた。

 黒岩は一瞥を与えて、立ち上がった。

「ここではなんだな。役員室で話をしようか」

 役員室には黒い革張りの応接セットと、木製のテーブルが置かれている。テーブルの上には、その面積の半分ほどの大きさで白いレースのテーブルクロスが敷いてあり、その上に木枠に囲まれた鉄製の灰皿が乗っている。

 黒岩は一人掛けソファーに深々と座るとわざと横柄に顎で着席を促した。お前の面倒を見ているのは、この俺だ、と言外の含みを込めたのだ。

 芹沢は横長のソファーで畏まった。が、目はきょろきょろと、落ち着きがない。

 彼は身長百七十センチ台前半で痩せ型だ。アメリカの大学を卒業し、通算滞米年数は二十年に及ぶ東京クレスト切っての米国通で、正岡より二歳年上である。

 

 三年前、米国東京クレストの経理部長が累積赤字を消すために、禁止されている株の売買を提案した。度重なる販売計画未達で累積赤字の元凶である芹沢は、渡りに船とその話に乗ったのだ。

 最初の内は含み益が出た。その二年後、内部監査で巨額の含み損が発覚し、この経理部長は辞職した。当時の米国東京クレスト社長は監督不行き届きの責めを負い、閑職に追いやられた。処罰は当然芹沢に及ぶはずだった。が、随時俺が出す特命を引き受ける事を条件に現職のまま駐在を続けさせている。このことは進藤社長、野村専務、本社の人事部、現在の米国東京クレスト社長も同意している。

 黒岩は芹沢の顔をじろりと見た。

「正岡君がアメリカに駐在する事になった。以前話したように君に預ける」

「山友商事は正岡潰しに失敗したのですか?」

「今一歩という所まで、追い詰めたんだがな」

「どうしたのですか?」

 黒岩はいつものショートホープと金張りのダンヒル社製ライターを取りだした。高級ライター特有の軽やかな点火音に満足するとゆっくりと煙を吐き出した。

「それは言えない。会社にもいろいろ都合があるということだ」

 芹沢はおずおずと尋ねた。

「出来れば、私はこのような仕事に絡みたくないのですが……」

 黒岩は手にしていたライターを、テーブルの上に放り出した。想像したより

大きな音を立てた。一瞬、芹沢がビクッとした。

「何を言うんだ。君が首になりそうな時に、救ったのは僕だ。今度は君が僕を助ける番だ」 

 芹沢は震える声で尋ねた。

「は、はい。具体的には、どのような方法ですか?」

「正岡君を課長で出そうとしたが、反発されて次長で出さなければならなくなった。本社の人事部と相談したが、アメリカの肩書きをマネージャーにする」

「次長はデプティー・ゼネラルマネージャーですけど」

 黒岩は声を荒げた。 

「そんなことは分かっとる。次長は駐在させるための方便だ。辞令に英語の肩書は書いてない。

 あれだけの実績がある男だ。あのままゼネラル・オーディオに置いとくと、昇格させなきゃならなくなる。

 事件や事故を起こしたとか、仕事で失敗したとか、昇進をさせない然るべき理由が必要だ。そのためにはアメリカの現地法人は万年赤字で、口実を作る格好の場所だ。今まで駐在した日本人は数百人に上る。失敗事例にも事欠かない」 

 黒岩はにやりと笑った。君もその一人だ、と言おうかと思ったが、大人気ないと胸に収めた。そして続けた。

「赴任後に、マネージャーの名刺を渡しなさい。正岡君が文句を言えば、日本に送り返すんだ」

「ということは、前任者と同じ肩書きですか?」

「そういうことだ」

 芹沢は押し黙った。

 黒岩は芹沢の無言に苛立ちを覚えた。声量を上げて「何だ?」と凄みを利かせた。

 芹沢が怯えた表情で、上目使いに黒岩を見た。

「あれほどの実績を上げた男を平社員並みに扱うのですか?」

 黒岩は言葉に力を入れた。 

「だからこそ、我慢が出来ないだろうということだ」

「帰国した場合、どうなるのでしょうか?」

「社内には席がないと言って、関連会社のどこかに転籍させることになっている。引き続き、我々の管理下に置かれることになる。

 若くして関連会社に飛ばされた社員を見る世間の目は冷たいものだ。転職も容易ではなくなる。

 サラリーマンとしては死に体だ、ということだ」

「マネージャーで我慢した場合はどうしますか?」

 黒岩は口を歪めた。

「正岡君は涙もろいと聞いている。本当は気が弱いのかもしれない。ノイローゼ気味という情報もある。脅して本物のノイローゼに追い込むんだ。

 その為には催眠薬Hを使えばいい。以前、君は赴任早々の駐在員が交通事故を起し易いと言っていたじゃあないか」

 米国東京クレストの本社は、多くの日本人駐在員が住んでいるニュージャージー州フォートリーから、車で北へ約二十分の所にある。フォートリーはジョージ・ワシントン・ブリッジを挟み、ニューヨーク・マンハッタンの対岸に位置する。

「まあ、右側通行に慣れていませんからね。

 アメ車は大きいですし、赴任早々では、ニューヨーク州、ニュージャージー州の地名、地図がまだ頭に入っていません。色々な要因が絡んで事故を起し易いようです」

 黒岩は言い放った。

「それにノイローゼが加われば、事故を起す可能性は数倍に跳ね上がる」

「常務、どうしてそこまで追い詰めたいのですか。香港の王さんは殺せとまでは言っていないのでは?」

 黒岩は芹沢を見据えた。

「殺せとまでは言わないが、事故で死んでくれれば手間は省ける。死なないまでも、大怪我をしたり、相手を大怪我させたりすれば、正岡君の将来はその時点で終止符が打たれる。その後昇進をしなくても、社の内外を問わず、疑問を持つ人間はいなくなる。

 ここだけの話だが、正岡君は余分な事を知っている。催眠薬Hを飲ませた時にその話が出ないとも限らない。もし僕の名前を出した時には直ぐに、別の話題に切り替えるんだ。あの薬が効いている間は、君は正岡君を思うままに操れる」

 芹沢が不思議そうな面持ちで尋ねた。

「どんな事を知っているのですか?」

 黒岩は芹沢を睨み、語気を強めた。

「君にもその内容は言えない」



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