第三章 画策
第三章 画策
1
黒岩は立川工場の役員室にこもり、壁を見詰めた。インドネシア直接取引は自分が仕組んだ罠だ。李慶祥が賄賂を渡すとすれば湯本で、正岡ではない。
しかし正岡はシンガポールの白文徳と親密すぎる。二人の間に金の関係があるのは確実だ、と考えた。が、湯本を使い正岡に催眠薬Hを飲ませた結果は、期待を裏切るものだった。
正岡と白の間に金の関係はなく、不正経理処理の欠片も見つからない。女性問題もない。処罰する理由が見つからないのだ。
だが既に賽は投げられ、東京クレストは違法行為の川を渡ってしまった。もう後戻りは出来ない。本社の人事部長の佐橋を訪れ、相談を持ちかけた。
佐橋は黒岩を応接室に案内した。
「催眠薬Hの薬効は名古屋(森山電機)の人事部から入手して、その応用方法も研究済みです。目がとろんとしてきたら、数人で芝居をさせてください。上手くなくても大丈夫です。正岡君は誰に飲まされたのか、どんな薬か分かりません。誰か別の人間が飲ませたと思い込ませるのです。
芝居は販売促進物を私的に利用したとか、貰ってはいけないものを貰ったとか、小さな事件がいいですね。幾つも重なれば、自分自身を追い込む。殺人や強盗等大きな事件では疑問を持ちますが、小さな事件はひょっとするとやったかもしれない、と思うはずです。芝居があたかも本当の出来事のように記憶されます。そこで、その非を責め立てれば、ノイローゼになる可能性が高い。責任感の強い人間ほど、そしてエリートほどノイローゼになりやすいものです。後は恩に着せて、関係会社へ送り出すなり、辞職に追い込むなり、黒岩重役のお望みのままにしてください」
黒岩はぞっとした。直接取引事件が取締役昇進以前に発覚しておれば、自分が催眠薬Hを飲まされる立場に置かれたかもしれないのだ。
「そんなことができるのか?」
「まあ、催眠薬Hを飲ませるには、飲み物に入れる必要があります。女子社員を使うケースも出てくるでしょう。不測の事態が発生し、彼らが労働組合に駆け込むと厄介です。組合幹部には根回しをしておきます」
「それはありがたい」
「もし記憶の回復が不十分な状態で、誰々に薬を飲まされたと騒ぎ立てれば、身に覚えのない人間は怒り、周囲に正岡は頭がおかしいと触れ回ります。その後で、前言を翻しても、一度失った信用は回復しません。正岡君は騒がないまでも、神経過敏になる。親兄弟、家族、学友、大学の先輩や後輩、親しい同僚等身辺の人間が薬を飲ませたと思い込めば、心理的に孤立感を深めることになります。周囲に疑惑の目を向け始める。相手も当然のように不快感を示す。電話をしなくなる。電話が来ても居留守を使う。或いは年賀状を受け取っても返信しなくなる。そうなると人間関係は修復不能になる。正岡君は孤立と不信のスパイラルに陥ります。
それでもうまくいかなければ、性格を変える方法も考えられます。自信は過去の実績、経験に基づいている。それを塗り替えれば、自信がなく、落ち着きのない、人目を気にする人間に変えることが可能です。そして正岡は今や昔の正岡ではない、という噂を流せば、社内の人間は納得するはずです。エリートの凋落を歓迎しないライバルはいません。他人の不幸は蜜の味とか申します」
「うーん。怖い薬だな」
佐橋が黒岩の顔を見て、にやりと笑った。
「まだ秘中の秘が」
黒岩はまだ何かあるのか、と背筋に悪寒が走った。
「何だ?」
「辞めさせたい社員が会社の金に手を付けるように仕向ける」
「どうやって?」
「出世街道を歩く社員が会社の金に手を付けたり、賄賂を受け取ったりするケースは少ない。しかし人間は脆いものです。一度レールから外れると人生が虚しくなるのか、金と女の誘惑に弱くなります」
「うん、なるほど」
佐橋は口の左端を吊り上げ気味に笑った。
「正岡君を出世コースから外して干し上げましょう」
黒岩は立ちあがり、ドアのノブに手をかけた。佐橋が後方からしばらくお待ちください、と呼び止めた。黒岩が振り返ると、佐橋は腰を浮かしていた。
「それはそれとして、催眠薬Hはトップシークレットです。この秘密を共有する人間は優遇します。秘密漏洩を防ぐにはそれしかありません。社長三代の選任、その他の役員の選解任を、クレストに任せると名古屋が確約したと伺っております。優遇策は社員達にとってその配当となります。愛社精神が高まろうというものじゃあないですか」
黒岩は「そうだな」と答えて深い息を吐き出した。
2
王徳学が正岡に催眠薬Hを飲ませて聞きたいと電話で矢の催促をしてきた。
黒岩は気が重い。が、無下に断るわけにもいかない。ゼネラル・オーディオ事業部海外営業部長の磯部を使って、「次の来日時に、お会いしたい」と回答した。
早速、王は黒岩宛のTELEXで、「三週間後、森山電機で商談がある。その足で東京クレストの本社に出向く」と知らせてきた。
三週間後、黒岩は貿易本部の役員室で王と密談を交わした。
黒岩は丁重に説明した。先日、催眠薬Hを使って問い質したが、正岡は李や白から金を受け取っていない事が判明している。
社内の人間が何度も催眠薬Hを飲ませれば、彼は身辺の変化を察知し、転職を考える可能性が高くなる。三十五歳と若く、販売実績も申し分ない。誰が見てもビジネスエリートで、引く手数多と考えるべきだ。面接試験には簡単に辿り着く。応募先は転職の理由は何かと必ず聞く。薬の話をされるのはいかにもまずい。森山電機や東京クレストのブランドイメージに傷がつく。そんなことは王さんも望まないだろう、と。
王は苦い顔をした。が、反論はしてこない。黒岩は今が攻め時と身を乗り出した。
「ご存知のように、うちの常務だった長田さんは、李さんが買収した中堅のラジカセメーカーの社長をしています。正岡君が会社を辞めれば、長田さんの耳に届くのは時間の問題です。長田さんは何が起きたのか直ぐに見抜きます。自分の会社に呼び寄せるでしょう。二人が結びつくのは危険です。
しかしあの方はご高齢です。李さんの話では、後継者は決まっていて、一、二年の内に、退任される予定だそうです。しばらく時間の猶予をいただきたい。その時期が来れば、こちらからご連絡します。その間、様子を見ながら必要な手は打ちます」
王は浮かぬ顔を見せたが、うなずいた。
「お任せします」
3
黒岩は自席に戻り、思考を巡らした。
いずれ正岡を香港に送ることになる。王は催眠薬Hを飲ませ、質問を浴びせるだろう。
正岡が何を喋ったか、王の反応がどうだったか、知っておかないと対応を誤る。
その場に東京クレストの人間を立ち合わせるという条件を、王は拒否できないはずだ。が、今の駐在員は平社員だ。こんな仕事を任せる訳にはいかない。貿易関係の管理職の中から、新しい駐在事務所長を選ぶ必要がある。
誰にするか。石山はどうだ。
あいつは融通が利かない。が、真面目を絵にかいたような男だ。良い例が通訳させたときだ。俺の日本語の話の長さとあいつの英語の長さはほぼ同じだ。
磯部に通訳させると英語は長すぎたり短すぎたりばらばらだ。どこか手抜きをしているみたいだ。
今度の仕事には、あの真面目さが頼りになる。過不足がない報告をするに違いない。
あいつは元常務の長田に嫌われて以来、貿易本部人事部付の窓際族だ。部長に昇格してやれば、俺の言うことを忠実に守るだろう。
歴代の香港駐在員は平社員だ。面子にうるさい王は、部長を駐在事務所長に送ると言えば、四の五のいうとは考え難い。
だがいきなり部長職の人間を香港に送り込めば、社内の人間、特に正岡の疑惑を招く可能性が高い。それを避けるために、先ずはシンガポールの所長にする。その後、様子を見て香港へ異動をさせよう。
まてよ、まだ手を打つことがある。貿易本部、現地法人、駐在事務所の人事は貿易本部の所管だ。が、現在の取締役貿易本部長は王騒動の圏外にいる。
翌日、黒岩は社長の山形に面談を申し込んだ。
「香港の駐在事務所長に送り込みたい人間がいます。
貿易本部長に、東南アジア関連の人事は東南アジア向け輸出の過半を占めるオ
ーディオの意見を無視できない。
黒岩とよく相談してくれ、と指示していただけませんか?」
4
一年前まで、東京クレストは山友商事と欧州を担当する商社の二つの貿易商社と取引があったが、同業他社との熾烈な競争に打ち勝つ為、欧州を担当する商社との取引を解消した。西ドイツ以外の大市場には現地法人を設立し、中小市場は代理店との直接貿易に切り替えた。
山友商事の安田社長が次は自分の会社か、と怯え、「何とか取引の継続を」と黒岩に嘆願してきた。
黒岩は暫らく態度を保留していたが、安田に正岡を自信喪失状態にする仕事を手伝わせ、その後で山友商事へ転籍させる計画を思いついた。
安田は正岡と同じ大学のOBで、東京クレストの社員の中では正岡と一番親しい。安易に取引を停止すれば、山友商事の役員、社員合わせて百人の味方が、正岡に付くことになる。それだけは避けねばならない。最善の策は山友商事を共犯者にし、味方にすることだ。正岡は三日に上げず山友商事に通っており、催眠薬Hを飲ませる機会は幾らでもある。
黒岩は一歳年下の安田を役員室に呼んだ。
ゼネラル・オーディオ製造部計画課長の頃からの長い付き合いである。初対面以来ずっと兄貴風を吹かせてきた。
安田は八十キログラムをはるかに超す肥満体を揺すりながら、ソファーに腰を下ろすと、笑顔を黒岩に向けた。
黒岩は難しい顔を装った。
「我が社を取り巻く環境は年々厳しさを増してきている」
安田が不安そうな表情を浮かべた。
「はあ」
「社内では商社を経由する間貿(間接貿易)の時代は終わった。早急に山友商事と取引を停止して、代理店との直貿(直接貿易)に切り替えるべきだという意見が大勢を占めている」
安田の顔が引き攣った。
黒岩は「ただ……」と言って語尾を濁した。長年の経験で、この微妙な間が相手の気持ちを手繰り寄せることを知っている。
安田が術中にはまった。
「ただ、何ですか? 私どもで出来ることなら、させていただきます」と口早に言った。
「何でも?」
安田が不安そうに聞き返した。
「何でも、とおっしゃいますと?」
「多少違法なことになるが」
「クレストさんが言われる事であれば、何でもします」
黒岩は思ったより話は早かったなと内心にんまりとしたが、用心深く念を入れた。
「話を聞いた後で嫌だ、などと言われると困る」
「人を殺せ、という話ではないでしょう?」
「まさか。それはない」
「では、お伺いします」
黒岩は経緯を説明した。
安田が顔色を変えた。
「それでは多少違法どころではないでしょう?」
「怖いか?」
「いや。クレストさんや森山電機さんが、おやりになる事を非上場の山友商事が出来ないことはないと思います」
「うん。それで?」
「こんな事を言っては失礼かもしれませんが、私どもには黒岩さんがいつ退任されるのか分かりません。違法行為だけ手伝わされて、後任の方に切られては敵わない、と」
「分かった。ここだけの話だが、僕はいずれ貿易担当役員になる予定だ。僕の後釜は貿易本部次長の雨宮君と決まっている。彼の在任中は取引を続ける事を確約する」
安田が笑みを浮かべた。
「そういうことでしたら」
黒岩はソファーの肘掛に両手を置いて腰を上げようとした。
安田が右手を上げ、ちょっと待って欲しいという仕草をした。顔には狡猾そうな表情が浮かんでいた。
「雨宮さんは今お幾つですか?」
「たしか、四十八歳と聞いたが。それが?」
「そうすると、あと十二年は商売できるという事ですね?」
「うん。定年は六十歳だからね」
安田が不安げな目付きで黒岩に尋ねた。
「黒岩さんと雨宮さんはどんな関係ですか?」
「知っているかもしれないが、進藤常務は僕を事業部長に推してくれた恩人だ。常務と雨宮君は同郷でね」
安田の顔に笑みが広がった。
「そうですか、そんな関係でしたか。進藤さんと黒岩さんの関係は知っていましたが、あのお二人が同郷とは考え付きませんでした。
それはそうと進藤さんが社長になられるそうですね。そうなると黒岩さんと雨宮さんのお二人が常務や専務になるかもしれませんね?」
黒岩は思わず頬が緩んだ。が、本音は隠さなければならない。
「うーん、それはどうかなー」
「常務、専務の退任時期についての内規はありますか?」
「内規では常務で六十二歳まで、専務は六十五歳までだが」
安田が満面の笑みを浮かべた。
黒岩は慌てて逃げ道を作った。
「それは最長の場合だ。実績、状況によっては短くなる」
帰社後、安田は兼務する営業本部長の席に腰をおろしたが、会議中に見せた黒岩の表情が気になって仕方がない。目は落ち着きがなく、くるくると動いていた。何を考えているか分からない男だ、これは保険を掛ける必要がある。
そうだ、進藤に相談してみよう。
進藤とは十年ほど前の中近東出張の折に誠心誠意世話をして以来、親交がある。
早速、電話で進藤のアポを取って東京クレストの本社に出向いた。
窓口の貿易本部に断りもなく役員と直接面談に及ぶと中近東、アフリカ担当の部課長の反発を招く恐れがある。二階にある貿易本部に顔を出して、手短に挨拶を済ますと十階の常務室に向かった。
進藤は愛想よく迎えてくれた。
安田は「今日は私どもの社運をかけた御相談で参りました」と切り出した。
進藤は余裕のある笑顔で、「それはまた、何事ですか」と言った。
安田は黒岩との会議の内容を伝えた。
進藤は「その話は承知しております。私からもよろしくお願いします」と言い切った。
安田はふっと息を吐きだした。人懐っこい正岡の笑顔が脳裏に浮かんだ。が、胸の内で呟いた。
――俺は経営者だ。雇用を考えなければならない。この話を断れば会社を畳まねばならなくなる。若い社員は就職先を見つけることは可能だろう。が、高齢の社員は働く場所がなくなる。あと十二年間、東京クレストの商売が出来れば、古参の社員の大半は我が社で定年を迎える事が出来る。その間に俺は約三億五千万円の報酬を受け取る事が出来る。俺の人生もかかっている。やるしかない。
5
黒岩は湯本が心配になり始めた。インドネシア直接取引事件の全貌を把握しても、王徳学は俺の責任を追及できない。代わりに湯本を首にしろと言い出すだろう。
しかし退職後では、好条件の再就職先は探し難くなる。やむなく、湯本に引導を渡すことにした。
「僕は役員だから、会社を挙げて守ってくれる。しかし君はクレストにいても将来はない。正岡君を見れば分かることだ。王さんが騒ぎ出す前に辞めたほうがいい。
だが今すぐではない。出来るだけ時間稼ぎはするつもりだ」
「身の振り先は見つけて頂けるのでしょうか?」
黒岩は湯本に汚い仕事を手伝わせている。なんとしても口を封じる必要があると思った。
「君が身を立てられるよう人事部と相談する」
即日、黒岩は人事部長の佐橋に湯本の受け皿探しを依頼した。
二ヵ月後、佐橋が黒岩に笑顔で報告した。
「森山電機の人事担当副社長に、湯本君の転職先探しを要請しました。数社に打診したそうですが、結局、飛田製薬の子会社の石垣製薬が引き取ることになりました。石垣製薬は使い捨て注射器部門を新設する計画を立てていました。それで、新部門を子会社にして、社長にしてくれるそうです。黒岩重役は退職後の湯本君に影響力を残す事ができます。
ただし、工場立地の選定、建設期間を含め、相当の準備期間がかかるようです。石垣製薬は、その間にクレストの然るべき子会社の社長を経験させ、送り出して欲しいと言っております」
黒岩は湯本を呼んで石垣製薬の意向を説明した。
「貿易本部の欧州部が西ドイツに新しい現地法人を作る計画を立てている。君をそこに送り出すつもりだ。初めは副社長になると思う。時期を見て社長に昇格させる。その後のことは、先方とよく相談して決める。悪いようにはしない」
湯本が目を潤ませて頭を下げた。
黒岩は背筋を伸ばした。
「正岡君を潰そうとすれば、社内には守ろうとする人間がいるだろう。ゼネラル・オーディオの部員は問題ない。僕や武田君が抑える。貿易関係者には本社の人事が責任を持って、事件の情報を小分けにしてリークする。
山友商事の安田社長が正岡君に薬を飲ます仕事を引き受けてくれた。事がうまく運べば、正岡君を山友商事に送り込める。君には安田さんとのパイプ役を引き受けてもらいたい」
「承知しました」
黒岩は思い起こした。
湯本は南原、正岡、山友商事の安田の三人と同じ大学出身だったな、と。
「君の大学は先輩後輩の繋がりが強いらしいな。それだけに正岡君がゼネラル・オーディオや貿易以外の部門にいる同窓の社員に相談を持ち掛けると面倒な事になる。そこで折り入って頼みがある。君に彼らへの裏面工作をしてくれんか?」
「それは難題ですね」
「皆自分が可愛い。正岡君は本社の人事に睨まれていると言えば、避けるようになる」
「まあ。それは、そうでしょうが……」
黒岩は湯本を睨み付けた。
「不安か?」
「私より正岡と親しい人間もいます」
黒岩は声を荒げた。
「正岡君を攻撃できることなら何でもいい。情報を収集しろ。なければ、催眠薬Hを飲ませて、事件があったと思い込ませろ。その後で事件の噂を振り撒くんだ」
湯本は唖然としたのか、口を開けている。
不快感を覚えた黒岩は、声を張り上げて威嚇した。
「噂で正岡を殺せと言っとるんだ」
湯本は左目の下を小刻みに痙攣させた。
「分かりました」
黒岩は笑顔を作った。
「ただし……、正岡君には悟られんようにな」