第二章 香港の商人
第二章 香港の商人
1
昭和三年(一九二八年)、王徳学は横浜で生まれた。昭和金融恐慌が吹き荒れた翌年である。父は香港生まれの広東人で、日本の船会社で通訳をしていた。(但し、中国人は広東人を広東と言い、人はつけない)
少年時代、借家の近くに住む日本人の子供たちの容赦のない罵声を浴びて育った。「弱虫の支那人」と言われ、何度も泣いて家に帰っては、母親に駄々をこねた。
「日本人の子に苛められる。こんなところにいたくない」
六歳で横浜の中華学校に入学した。その三年後、盧溝橋事件を発端として日中戦争がはじまり、父母、兄弟とともに香港の土を踏んだ。
日本にも日本人にも良い思い出はなかった。唯一日本語に馴染んだことがメリットである。
王は広東語以外に公用語の英語そして日本語を操るようになっていった。
この頃、嫌いな日本人の話す日本語が、将来自分の生きていく糧にも、武器にもなるとは思っていなかった。
義務教育を終えると社会に出た。色々な仕事についたが、常に独立の夢を捨てなかった。自営業を目指し、収入の七割を貯蓄に回した。まずは資本の蓄積だ。親の援助は当てにしなかった。
十年後、まとまった金が出来て、日用雑貨の小売店を始めた。その後、様々な商売を手がけたが、日本の家電メーカーが開発した電気炊飯器を初めて見た時、ぴんと来た。
香港はもとより東南アジア諸国は米を主食にしている。自由港の香港から見れば、東南アジア諸国は商圏に入る。一家に一台普及したら、膨大な数になる。
当時の香港市場で見かけた電気炊飯器のメーカーは、東西電機と森山電機の二社だった。両社共に東京証券取引所一部上場企業だが、東西電機は名門企業で、一介の香港商人とは不釣り合いだと思った。
その年の夏、王は森山電機の本社を訪ねた。社長の森山太郎は王より三十歳年上で、立志伝中の人物には珍しく気品に満ちた面立ちの紳士だった。
森山は王の名刺に見入った。名刺の表は漢字で、裏が英語になっている。
「お名前はオンさんですか?」
「はい。王を北京語ではワンと読みますが、私は広東の人間ですのでオンと申します」
森山は黙ってうなずいた。
王は東南アジアにおける電気炊飯器の市場性、華僑のネットワーク、自由港である香港の商圏、更に銀行、保険、海運等のビジネスのインフラを力説した。
森山は黙って聞いていたが、王に親しみを持ったようだ。説明を終えると、にっこり笑って「今夜は空いていますか?」と尋ねた。
王は心の中で快哉を叫んだが、「ええ、まあ」と言葉を濁した。
森山は電話機を手に取り、名古屋弁で秘書に指示した。
「三の丸に予約を入れてちょう。王さんをお連れするでよう」
約三十分間、時間つぶしに雑談をした。扇風機が送る風も森山の話も心地よかった。
森山は時計に目をやるとご案内します、と言った。
本社の玄関で黒塗りのべンツが待っていた。運転手が自分の後部座席側のドアを開けて、王に最敬礼をした。一番の席次である。一瞬、躊躇って森山の顔を見た。
森山が笑みを浮かべて、どうぞ、と促した。王は彼の言葉に従うことにした。
十分ほどで古色を帯びた、風格のある料亭に着いた。辺りを見渡すと近くに名古屋城が見える。
四十二、三歳の肉付きの良い女将が、玄関で手をついて出迎えた。
王は料亭での食事は初めてだ。部屋を興味深く見回した。長方形の座卓と肘掛付の座椅子が二つ置かれていた。森山がお座りください、と言いながら腰を下ろした。
王は遠慮がちに「この料亭にはよくいらっしゃるのですか?」と尋ねた。
森山がさりげなく「特別なお客様とだけです」と言った。
王は嬉しさでいっぱいになり、信頼できる日本人に初めて会ったような気がした。
森山は笑顔を浮かべて「好物はなんですか?」と聞いた。
「肉でしたら何でも」
森山はすき焼きを注文した。
間もなく良く冷えたビールと前菜が座卓に上り、女将の酌で乾杯をした。
森山はほろ酔い機嫌になると自分の経歴を話し始めた。
生家はかつて近江の国と呼ばれた滋賀県で、五代続いて呉服商を営んでいたが、父の代で没落した。上の学校へ行きたかったが、尋常小学校を卒業するのが精一杯だった。
父親の知人の伝を頼り、名古屋で同郷人が経営する呉服店に、柳行李ひとつを担いで、丁稚奉公に上がった。十六歳で手代に昇格したが、結婚後、いつまでも人に使われていては将来がないと一念発起し、四畳半一間で大手電機会社の下請けを始めた。
王は興味深く話に聞き入った。
森山は嬉々として近江商人の先達の活躍に話を移した。
近江商人の活躍舞台は、京都、大阪を中心とした畿内に始まり、全国的に展開して数多くの豪商、総合商社、鉄道会社、百貨店、繊維関連企業等を生んだが、名古屋でも、その足跡を残している、と。
王は「すごいですね」と驚きの声を上げた。
森山は相好を崩した。
「戦国時代の近江に織田信長の娘を娶った蒲生氏郷という大名がいました。氏郷の出世と国替で近江商人の活躍の舞台が広がったことと、江戸時代の近江には諸藩の飛び地が多かったことで、地の利を得たと言えるでしょう。
まあ、最大の理由は、近江商人は正直を旨として、信用を大事にしております。更に勤勉で、朝に星をいただいて家を出て、夜、満天に星が輝くまで額に汗して働き、質素倹約に努め、不当な利益を求めず、売り手よし、買い手よし、世間よし、の三方よし、を心得とした商人道にあったと思いますよ。英語で言えば、モラルということになりますか」
王はここが森山と好誼を結ぶための勝負どころだと直感した。
「中国人と一脈通ずるものがあります」
「ほう。ところで、中国の方も出身地で違いがありますか?」
「はい。中国本土は別にして、東アジアや東南アジアに住む中国人は広東省、福建省いずれかの出身と言って差し支えないですね。皆、同じ漢人ですが、話す言葉で、広東、潮州、客家、福建、海南と五つに大別できます。言葉が違えば、風俗習慣も違います。それぞれの間で、現金取引を拒む事はありませんが、巨額な掛売りが行われることは稀です」
「その中で、一番有力なのは?」
「ハッカです。客の家という字を書きますが、読んで字の如しで、よそ者を意味し、昔は中原に住んでいたそうですが、北からの侵入者に追われ、広東省と福建省に跨る山間の僻地などに住み着いた。それだけに勤勉、教育熱心で、弁護士、会計士等の専門職や大商人だけでなく、シンガポール、中国本土、台湾等で、政治リーダーを数多く輩出しています。
中国の国父である孫文が客家だった事と、客家語が北京語に近い事も有利に働いているようです。標準中国語は北京方言に基づいていますから」
「帝位を狙って争う事を、中原に鹿を遂う、と言いますが、あなたの言われた中原と同じですか?」
「同じです。地理的には黄河の中、下流地域の平原を指します」
「ほう」
王は苦笑いを浮かべた。
「私は先ほどもお話しした通り広東ですが」
森山は嬉しそうな顔で王を見た。
その後、二人は共に尊敬しあい、成長を共に歩くことになった。王が日本語を話せたので、通訳を交えず二人だけで会話ができたのが幸いだった。
昭和三十年代の日本経済成長期には、森山電機は大会社に成長し、成長神話が定着すると、経営不振会社の建て直しを持ち込まれた。東京クレストもその頃買収した会社のひとつである。
そうこうするうちに、森山と王が親友のような関係らしいという噂が、森山電機社内で広まった。試しに、王が社長の森山に会う、と漏らすだけで、社員は皆浮き足立った。
値下げを渋れば、社長に話をする、と口にし、販売促進費を出さなければ、社長に会いたい、と言い出すと、社員達は皆しぶしぶ値下げをし、販売促進費も予算があれば、出すということになっていった。
中国人の商売の極意は、利は元にあり、だ。仕入価格が安ければ、販売は誰がやっても競争に勝てる。
森山に聞くと、日本の大企業は仕入も販売も、番頭・手代に相当する取締役・部課長が担当しているらしい。しかし中国人は仕入をオーナーが担当し、販売は信頼できる親族が担当する。王は仕入のすべてを自分でこなしてきた。いつしか、王は商売人とのイメージが森山電機社内で定着したようだ。
森山電機が貿易部門を森山電機貿易株式会社として独立させ、名古屋証券取引所に上場することになった。
森山が「製造会社と代理店は運命共同体だ。君も我が社の株を持つべきだ」と助言した。
王は「森山電機貿易に一パーセントの出資をしたいと思います」と申し出た。その後も、収入の相当部分を、森山電機貿易の株式に投資し続けた。
当時、日本の個人所得課税の最高税率は七十五%と高率で、更に住民税、社会保険料等を差し引くと微々たるパーセントしか残らないと森山から聞いた。
王の所得は税込では森山よりはるかに少なかったが、香港の個人の最高所得税率は十五%である。可処分所得では森山を上回っていた。
十年後、王は森山電機貿易の発行済み株式の五%を所有し、個人筆頭株主になっていた。このときほど香港の低い税率が有難いと思った事はない。
森山は森山電機の会長を経て名誉会長になった。
王は森山電機が最大の未開発市場と言われた中国に現地法人を設立する日が近い事を、察知した。直ちに社員を送り込み、中国市場に橋頭堡を築いた。再輸出ルートの開拓と営業所の開設だ。次にアフターサービス網を構築した。時を移さず、森山電機貿易の社長に要求した。
「中国市場にアフターサービス網を作った。中国市場に入ってきた全ての森山電機製品のアフターサービスの面倒を見る。ついては御社の中国向け売上の一・五%を貰いたい」
「そんな無茶な。王さん、あなたは中国の代理店ではない」
「そんなことは分かっています。御社が中国に販売網、アフターサービス網を作るまででいい」
「それは無理押しというものじゃあないですか」
「森山名誉会長にお会いして判断を仰ぎたい」
「名誉会長には私共からお話させていただきます」
二週間後、王は森山電機貿易の社長の返事を得た。
「名誉会長は面倒見てやれと申しております。但し、王さんが経営する香港電業の中国向け再輸出は含みません。当社では金額を把握できませんので……。当社の中国向け輸出と第三者ルートに限定します」
王は胸の内でやった、と叫んだ。
初年度は森山電機貿易の中国向け輸出はなく、第三者ルートによる輸出は十億円程だった。アフターサービス費もわずか千五百万円である。
その後の七年間で、中国向け輸出は経済の躍進と共に急増した。
2
昭和五十四年五月中旬、香港電業有限公司の経理部長が真っ青な顔をして、社長室に駆け込んで来た。
「社長、大変です」
香港電業は森山電機の香港における代理店である。社長の王徳学は老眼鏡越しに上目使いで、経理部長を睨んだ。
「どうした?」
「知り合いの税関吏によりますと、わが社の輸入実績の三倍もの森山電機製品が、日本の商社経由で通関されています」
王は怒りに震えた。
香港電業の仕入れと同額ぐらいまでは、森山電機貿易から報告があった。ということは、残る二倍分を俺に知らせずに商売している。いや、日本又は東南アジアから直接中国に出荷した分を加えたら、幾らになるのか。
報告漏れの金額を推計してみた。現在、一年間の仕入れ金額は、八百億円を上回っている。その三倍とすると香港経由の第三者ルートだけでも、年間二千四百億円になる。森山電機貿易の中国向け輸出を加えると、三千億円を下回るわけがない。一・五%のアフターサービス費が四十五億円以上になる。
森山電機貿易から受け取った十二億円で、ホクホクしていた自分が小さく思えた。昨年度の未払いだけでも三十三億円になるではないか。
王は宙を睨んだ。
「畜生、ただでは済まさんぞ」
十日後、王徳学は名古屋へ出向き、森山電機貿易本社で社長の大山と会った。大山は米国森山電機社長を経て二年前に現職に就いていた。
王は難しい案件を先に話すことをモットーとしている。この日も最重要案件から切り出した。
「中国市場向け売上の一・五%を、漏れなく払って頂いているかどうか伺いたい」
その瞬間、大山は王の顔を何処まで知っているのか、探るような目付きで見たが、あっさりと認めた。
「実は前年度の決算時に、日本の大手商社経由分のアフターサービス費を、過去三年間お支払いしていない事が判明しまして、どう説明したものかと苦慮しておりました」
「契約に従って全額を入金して貰いたい」
「直ちに決済したいのは山々ですが、ご存知のように決算発表がすでに終わっておりまして、それが出来ないのです」
王は怒気を含んだ声を出した。
「そんな事は理屈にならん」
「小さな金額なら問題はありませんが、中国向けが急増した過去三年間の未払分が約八十億円になります」
「それで?」
「八十億円もの支払い漏れがあったなどということが公になれば、森貿(森山電機貿易)の信用はもとより森山電機グループ全体の信用にもかかわります」
「森山電機グループの問題だろう?」
「それはそうですが」
「他に何がある?」
「王さんは森貿の個人筆頭株主です。森山電機の名誉会長と同じお立場かと」
王は自尊心を擽られ、顔をほころばせた。が、大山は商法を説明し始めた。
「日本の法律では、個人筆頭株主に八十億円もの不明瞭な金を支払った場合、特定株主に対する利益供与とみなされる可能性が高いと思われます。言い換えれば、株主平等の原則に反し、契約は無効となります」
慇懃で組みやすしと思った大山の逆襲に、王はたじろいだ。
「な、何?」
「次の問題は、株価が暴落し株主にもご迷惑が掛かるかと。それに八十億円も支払えば、赤字に転落するかもしれません。現在約千円の株価が額面の五十円を維持できるかどうか分からないぐらいです」
王は息を呑んだ。あっさりと未払いを認めたと思ったら、株価暴落の脅しをしてきた。
現在、森山電機貿易の資本金二百億円の五%の株式を持っている。額面では十億円だが、千円の時価で見れば、二百億円の資産だ。しかし株価が額面並みの十億円になれば、百九十億円の目減りとなる。八十億円貰っても間尺にあわない。
責任者に罰を与えないと、将来再び誰かに自分の権益を侵されると考え、大山の顔を睨みつけた。
「責任者は、誰ですか?」
「申し訳ありませんが、お答えできません」
王は大山の言葉を吟味した。払うべきものは払うが、今直ぐは難しいと言っているだけだ。
「私が黙っていたら何時までも、払わないつもりだったのでは?」
「そんな事は有りませんが、事が事だけに言い辛く、今日に至りました。申し訳ありません。
支払い漏れがあった上に、申し上げ難いのですが、元々アフターサービス費は中国市場の開拓のために口頭で約束されたもので、来年度以降はご容赦願いたいと思います。
当社としましても、七年前から中国市場の販売網、アフターサービス網の構築を着々と進めてまいりましたので、そろそろ王さんにも、手を引いていただきたいのですが……」
王は大山の言葉に震え上がると同時に、不用意な質問で腹の内を読まれたかもしれないと後悔した。
数秒後、冷静さを取り戻した王は、口頭でも契約は契約だ。契約違反をした上に、解約したいなど、とんでもない話だ、と考えた。
「冗談ではない。そんな話は受けられない」
商談では、貸し金であれ、違約金であれ、金を貰う方が不利である。王は大山の返事を待った。
「アフターサービス費の約束はしましたが、中国市場で当社の販売網、アフターサービス網ができるまでと、ご自分で我が社の先代社長におっしゃっていたそうじゃあないですか」
一瞬、王は言葉に詰まった。が、責任の追及の手を緩めるつもりはない。
「しかし違反が発覚した直後に、契約打ち切りを言い出すなんて話など聞いたことがない。八十億円もの支払いを反古にしようとした責任者は処分して欲しい」
「うちと代理店は運命共同体ではないですか。八十億円は向こう五年間で支払わせていただきます。それで納得していただけませんか?」
王は態勢を持ち直すために、一般論を持ち出した。販売網、アフターサービス網作りに対する投資である。が、大山の守りは堅かった。
王はアフターサービス費の継続をしつこく迫るのは得策ではないと判断した。
代理店は一代だけではない。森山太郎や自分が死んだ後で、息子が代理店を切られるかも知れない。
自分の最大の財産は香港の代理店権である。資産は景気の変動で増減するが、代理店権は日々金の卵を産む大事な宝である。
しかも森山電機のような一流会社の代理店権は社会的地位を保証し、他事業への進出を可能にする。電機業界はもとより他業界からも、引きも切らず代理店、事業提携の勧誘が来ているほどだ。
だが権利が与えられていても、それを守らなければ紙くず同然である。この代理店権や諸契約、販売権、既得権を守るためには、万難を排してきた。それが代理店として生き残る為の知恵である。
「責任者は処罰すべきだ。それだけはお願いします」
「それでは、責任者の問題以外は交渉成立ということで……」
王はアフターサービス費を深追いするつもりはない。が、簡単に譲歩すると見下される。最低限の要求はすべきだ、と思った。
「契約通り、今年度一杯はアフターサービス費を支払って頂きます。次にお会いする時に責任者の問題について打ち合わせたいと思います」
大山は黙ってうなずいた。
ふと、王の胸に本件が氷山の一角に過ぎないのでは、という疑心が浮かんだ。
「いや。まだあります。森山電機グループ全体で、契約違反をしている会社が他にないか調査の上報告して欲しい」
大山の顔が曇った。
王は顔色の変化を見逃さなかった。
「はっきり言ってください」
大山は口篭った。
「実は……、クレスト(東京クレスト)の課長がインドネシア向けの商売で、王さんを外して商売したと聞いています」
王は驚くと同時に、課長にしてやられたなんて不名誉な話が許せなかった。
インドネシアと課長、と聞いて、直ぐに正岡の顔を思い浮かべた。積年の日本人への憎しみが、正岡に向かって一気に噴出した。
「あの野郎、首にしてやる」
3
二週間後の火曜日、どんより曇った日である。
朝十時半、王徳学はダークブルーのベンツで香港電業の本社に向かった。十年以上無事故の運転手がハンドルを握っている。後部座席にゆったりと座ると新聞を広げた。株式欄、経済欄、政治欄の順に目を走らせた。約二十分後、本社ビルに到着した。これが通常の出社時間である。
十二時十分前、森山電機貿易の香港駐在事務所長の電話を受けた。
「早速ですが、来週の月曜日、社長の大山が香港へ来たいと申しておりますが、ご都合はいかがですか?」
「大山さんはいつでも大歓迎だ。都合はつけるよ。月曜日の夜、ご招待したいのだが」
「その夜、大山は森山電機グループの駐在員全員と会食をしたいと言っております」
「分かった。それで、出迎えは?」
「私が参ります」
「そうか。こちらからは取締役を出迎えに出すよ」
当日、朝十一時、大山と香港駐在事務所長が香港電業有限公司の本社に現れた。
王は両手を大きく広げ、満面に笑みを浮かべて大山を出迎えた。両手で握手を交わすと、手でどうぞと来客用ソファーに着席を促した。まずは四方山話だ。香港は地下鉄、スターフェリー等、話題に事欠かない。
しばらくして、王は大山に尋ねた。
「今回はどのようなご用件で?」
「早速ですが、森山電機と森貿(森山電機貿易)を合併させたいと思っております。
森貿の個人筆頭株主である王さんのご了承を戴くべく、今回お邪魔させていただきました。よろしくお願いします」
王は憤然とした。
「私は同意できません。森山電機と森貿の資本金はだいたい十対一で、現在の株価は二対一だ。合併すれば、私の持ち株比率は〇・二%に毛がはえた程度になり、その他大勢の株主の一人になってしまう」
「率直に申しあげて、森山電機の現経営陣は名誉会長がお亡くなりになった後の経営体制を考えております。
ご存知かと思いますが、日本の相続税は非常に高い。森貿での創業家の持ち株比率が、王さんより大幅に少なくなるような事態は避けたいと考えております」
王は余りに率直な返事に戸惑った。
「それで合併を思い立ったのか?」
「そうです。王さんも森貿を思い通りに操るなどとは思っておられない、と理解していますが?」
王は慌てて「そ、それはそうです」と吃った。
大山は双眸に笑みをたたえて、「お受けいただくのに、何か条件があればお伺いしたいのですが」と申し出た。
王は応接セットのテーブルにある書類を見るような振りをした。数秒後、顔を上げて、大山の顔を見つめた。
「例のアフターサービス費問題の責任者をはっきりしていただけませんか? それが条件です」
「私が社長ですから、責任者は私ということでご理解願います」
「未払いが発生したのは三年前とおっしゃっていましたね。そのころ、大山さんはアメリカにいたんでしょう?」
「私だと言っている訳ですから、それでいいじゃないですか」
王は大山を見据えて、「本当の責任者はどなたですか?」と迫った。
「役員が数人、関わっています」
「では、役員の誰かに責任を取らせていただけませんか?」
「代理店は森山電機や森貿の役員人事に口を出せないことになっております」
王は追求の矛先をどこに向けるか考えた。
「役員が支払いをするなと言ったわけではないでしょう?」
「それはまあ、そうですが」
「それでは本当の責任者は管理職の中にいるという事になりますね?」
「さて、どうでしょうか」
王は薄笑いを浮かべた。
「いい薬があります」
「薬ですか?」
「先日、森山電機取締役の森山光雄さんに伺ったんです。名誉会長のお孫さんの。
森山家のご親戚が経営する飛田製薬の子会社の石垣製薬が、新薬を開発したんだそうです。アジア地域で代理店を探しておられるとかで、私に石垣製薬の代理店をやらないかと打診されましてね。
興味はあるのですが、畑違いです。薬品業界に明るい友人と合弁会社を作ることにしました。友人が社長になりますが、私も側面から援助するつもりです」
「どんな薬ですか?」
「催眠状態、英語で言うとヒプノウシス(Hypnosis)にする薬です。催眠術に掛かると聞かれたことには何でも答えているでしょう。あの状態にする薬です。厚生省の認可が取れていないので、石垣製薬では、暫定的に英語の頭文字をとって、催眠薬Hと呼んでいるそうです。
ただ、この薬を飲ませた人間はまだ少ないので、本当のことを言う確率がどの程度か不明だとか……」
「それでは、薬を飲ませる意味がないのでは?」
「本当のことを言う確率はかなり高いが、百パーセントではないということです。聞く人が相手のことをよく知っておれば、話の前後で本当かどうか判断出来るんじゃあないですか?」
「それは自白剤ではないのですか?」
「違うと聞いています。自白以外にも薬効はあるようです。詳しくはお宅の森山取締役に聞いてください」
「それで、どうしろと?」
「難しいことではない。中国本部長か、香港部長にその催眠薬Hを飲ませることを、許可して欲しい。そうすれば、誰が責任者か分かる。私は代理店ですから、森山電機が困るようなことはしたくない。
しかし私との契約を破っても、誰も何の罰も受けないということになれば、将来再び私との契約を踏みにじる者が現れる。それは受け入れ難い。誰かが罰を受けた、という実績が欲しいのです」
大山はじろっと王を睨んだ。
「責任者は役員です。その責任を社員に押し付けるような卑劣な真似は出来ません。しかも、犯罪行為じゃあないですか」
王は唇を真一文字に結ぶと、首を横に強く振った。
「では、私も合併には同意できない」
大山は右手で眼鏡の位置を正した。が、言葉は発しない。
王は二十年に及ぶ森山太郎名誉会長との交友と代理店活動を通じ、森山電機の内部事情を熟知している。現在の社長以下の経営者は全員、新入社員時代から森山を社主として崇めてきた面々だ。森山は経営の第一線を退いた今でも、経営陣の精神的支柱で、社内では雲上人である。切り札を出すのは今だと判断した。
「前回の打ち合わせの時、あなたはこのアフターサービス費は、口頭での約束だと言われたが、森山名誉会長の約束は千金の重みがあると思ったから書面を要求しなかったのです。
あなた方はその約束を無視したのですぞ。誰も責任を取らないのですか? それでは名誉会長の言葉は紙より軽い事になる。それでも宜しいのですか?」
大山は崩れるように肩を落とした。
王は目を細め、大山を見つめた。
「クレスト(東京クレスト)の課長に催眠薬Hを飲ませることで、手を打ってもいいですよ。そうすれば役員の責任を社員に転嫁したことにはならないでしょう?」
「辞めさせるだけでは不十分だと?」
「キャリアに傷をつけて放り出せますか?」
「懲戒解雇にしろ、ということですか?」
王はゆっくりうなずいた。
大山は首を横に振った。
「それは無理です。貿易取引は一人では出来ません。クレストは会社としてインドネシアとの直接取引を承認しているはずです」
「依願退職では、罰した事になりません。その課長は未だ若い。三十五、六歳でしょう。他の会社で出世する可能性がある。それでは見せしめにならない。一生を棒に振らせないと。
お話を伺うと、誰か別の人間が絡んでいる可能性もありますね。私は真相を是非知りたい。この催眠薬を飲めば全てを話すことになる。賄賂を含めて……」
「賄賂?」
「その課長が取引先から賄賂を受け取っている疑いがあるということです。もし事実であれば懲戒解雇にできるでしょう?」
「同じグループでも別会社です。私の一存では決められません。帰国後、ご返事させていただきます」
会議後、帰宅した王はリビングルームにある革張りの三人掛けソファーに倒れこんだ。大山との交渉で神経を擦り減らしたのだ。
約十分後、起き上がった。上着とネクタイを脱ぎ捨て、肘掛付の一人掛けソファーに座りなおした。大山との会議の一コマ一コマを回想し、吟味した。
森山電機のアフターサービス費問題は五年以内に金を貰う事で体面は守れる。これで東京クレストの正岡を首にすれば、皆恐れをなして、今後権益を侵すような人間は出てこないだろう。
4
東京クレスト株式会社オーディオ担当取締役の黒岩は、社長の山形に呼び出され本社へ出向いた。
山形は黒岩の姿を認めると役員会議室に人事担当常務取締役の進藤、常務取締役技術本部長の野村、本社人事部長の佐橋を招集した。
黒岩は顔ぶれを見て驚きの声を上げた。
「これは何事ですか?」
佐橋が難しい顔を黒岩に向けた。
「実は、昨日、社長が名古屋(森山電機)の森山光雄取締役に呼ばれて、東京支店に出向いたのですが、難題を持ちかけられまして」
「どんな?」
「お宅の正岡君に催眠薬Hを飲ませろと言うのです」
黒岩は訝った。
「催眠薬Hですか?」
佐橋が催眠薬Hの薬効を説明した。
黒岩は佐橋を睨んだ。
「いくらなんでも部下にそんなことはできません」
そのとたん、佐橋は口の左端を吊り上げて冷笑を浮かべた。黒岩は凍りついた。そんな体裁の良いことを言って、お前が正岡君をどう扱って来たか知らないとでも思っているのか、と佐橋の眼が云っている。
次の瞬間、佐橋は重々しい口調で答えた。
「インドネシアの中国人と直接取引した事件がありますね。それを耳にした王さんが、お宅の正岡君にこの薬を飲ませて、その責任者は誰か、また正岡君が賄賂を含めて何か悪い事をしていないか、聞きたいと言い出したそうです」
黒岩は終に恐れていた事態に立ち至ったと絶望感に襲われた。正岡は催眠薬Hを飲まされれば、インドネシア直接取引の責任者は黒岩だと言うに違いない。
そうと知れば、王は俺を標的にしてくる。これまで血の出るような思いで頑張って手に入れた取締役の地位だ。何としても守りたい。打開策を見つけるには事件の背景を知らねばならない。
「どうして名古屋が絡んできたんですか?」
山形が説明した。
「名古屋では森山名誉会長がお亡くなりになった後の株主の問題が持ち上がった。創業家の持株比率は、名誉会長の三%を含め、ご一族で四%だ。株式の時価発行を計画していることもあり、創業家が相続税をどういう方法で支払うのか心配している。それいかんで創業家の名前が主要大株主のリストから消える可能性がある。
そうなると森貿(森山電機貿易)の問題は深刻だ。名古屋は森貿の五十八パーセントの株主である。名誉会長が亡くなった後の創業家の算術上の影響力が王さんを大幅に下回ることは確実だ。
一方、王さんは現在五%の株を持っており、個人では筆頭株主だ。まだ若く、所得税の低い香港で稼ぎ続ける。森貿株を買い増して、持ち株比率を上げて行くだろう。否応なく発言力は強くなる。
あの性格だ。あたかも創業者のごとく振る舞い、経営に口を出してくる恐れがある。それで、名古屋は森貿を吸収合併することを決意したそうだ」
黒岩は山形に尋ねた。
「あの創業家が相続税を自社株で支払いますか?」
「森山電機株は現在一株ニ千円近辺で動いている。額面の四十倍だ。約二千億円の資本金の三パーセントでも大変な金額になる。自社株以外に相続税の支払いに充当する資産があるとは思えない」
黒岩は暗算をした。直ぐに目を大きく見開いた。森山名誉会長が所有する森山電機の株式は額面では六十億円だが、時価ではニ千四百億円の資産になるではないか。森山家が相続税で持ち株比率を減らし、森山名誉会長より三十歳若い王は、今後も持ち株比率を上げていくのか。これも時の流れか、と感慨に耽った。が、直ぐに、我に返った。
「合併すれば、解決をみた事になりませんか?」
「名古屋のトップが顧問弁護士に相談したところ別の問題が出てきた。
裁判所の許可があれば、三%以上の株式を六ヶ月以上保有している株主は、臨時株主総会の開催を要求できるそうだ」
これはこの時点での商法である。この後、商法は幾度となく改正されている。
「株主はどんな提案ができるのでしょうか?」
「株主提案には合併はもとより役員人事が含まれる」
「はあ、そういうことですか」
「代理店は役員人事に口を出せないと王さんには釘をさしてあるそうだ。
しかし大株主の権利を行使して裁判所に臨時株主総会の開催を申請する可能性がある。
そうなると正面切って代理店を選ぶのか、大株主の権利を行使するのか、二者択一だ、などと脅すわけにもいかなくなる。
そこで大山社長が合併の了承を求めたところ、王さんはその見返りに、自分の権益を侵した人間を処罰しろ、と凄んだという話だ」
「正岡君をスケープゴートに差し出せと?」
「うん。まあな」
「正岡君に催眠薬Hを飲ませろとおっしゃいますが、クレストに何のメリットがあるのですか?」
経営陣の間に重い空気が流れた。
佐橋が沈黙を破った。
「我が社にはメリットのない話です。断りましょう」
山形は無言で席を立った。
5
一週間後、名古屋にある森山電機貿易を商談で訪れていた王徳学は、大山から東京クレストの意向を聞いたが、言下にはねつけた。
「数年前、クレストの長田常務が李慶祥をインドネシアの代理店に決めたと聞きました。その時は、会社の決定であれば致し方ないと思ったんですがね。しかしそれ以前に、課長の正岡が私を外して李と直接取引をしていたと知ったからには、黙っては引き下がれない。
私は中国人だ。中国人の商売の仕方は分かっている。金が動いたと思うのが常識だ。
正岡はシンガポールの白文徳とも昵懇と聞いている。クレストとしても、調査する必要があるのではないですか? 金の関係が見つかれば、厳罰を加えるべきでしょう」
「どうしても催眠薬Hを飲ませて調べたいと? 事は違法行為ですぞ」
「そんなことは分かっています」
「それを要求するからには、それなりの譲歩を覚悟されているということですか?」
王は大山の口から何が飛び出すかと身構えた。
「合併案には同意しますが?」
「それはありがとうございます。しかしまだ懸案事項が残っています。アフターサービス費の契約を今年度限りとしたいのです」
王は一瞬声を荒げたが、その後の言葉を飲み込んだ。
「そんな勝手なことを……」
「片方にだけ都合の良い付き合いが、長続きしないことぐらいご承知でしょう」
王はぐうの音も出ない。内心、やはりそう来たかと思った。換言すれば、大山は代理店権剥奪もありうると言っているのだ。
大山は畳みかけてきた。
「それでは、クレストが催眠薬Hを飲ませることを承知した場合、アフターサービス費契約は今年度限りで破棄させていただきます」
「うん、だがこちらにも条件があります。一九九七年七月以降も現在の香港地域における代理店権を保証して頂きたい」
「ずい分と先のお話ですね?」
「ご存知のようにイギリスによる香港のニューテリトリーズ(新界)と二百を優に上回る付属島の租借は一九九七年六月迄です。
香港島と九龍はイギリスの植民地ですが、九龍とニューテリトリーズの間には、山もなければ、川もない。ニューテリトリーズ等が返還されれば、共産党が支配する中国が目と鼻の先に現われるのです。しかもニューテリトリーズ等の租借地は現在の香港の面積の大部分を占めています。
華僑資本の多くは恐れをなして、逃げ出す可能性が大きい。しかし、私は香港の全てが中国に返還されても、逃げ出さずに商売を続けるつもりです」
「イギリスは香港島や九龍も中国に返還しますか?」
王は確信に満ちた顔つきで滔々(とうとう)とまくしたてた。
「私はそう思う。友人達と意見を交わしたが、大勢は私の意見と同じです。
約二十年前に、インドはポルトガルに占領されたゴアを接収していますが、国際的には何の問題も起きていない。
イギリスはアヘン戦争、アロー戦争で、清朝に香港島、九龍を割譲させたのです。中国はニューテリトリーズ等と一緒に、返還を要求すると思います。拒否すれば、いつの日か中国は接収に動くでしょう。香港は珠江の河口東側に位置しますが、対岸にはかつてのゴアと同じポルトガル領の澳門があります。ポルトガルは澳門が中国に接収されるよりも、返還に合意する道を選ぶ可能性が高い。
イギリスが香港の植民地に固執すれば、戦争以外の選択肢はなくなります。
少数民族の満州人が作った清朝とは違い、今の中国は漢人が作った国です。国力と国力がぶつかれば、人口六千万人にも満たないイギリスが十億人の中国に勝つのは難しい。
戦争に負ければ、香港における全ての商権を失うことになります。かりに戦争に勝っても、経済的な損失は甚大です。イギリス政府が植民地の維持よりイギリス資本の商権の維持を重視すれば、平和的に返還される可能性はあります」
「しかし租借地の返還は二十年近く先の話でしょう?」
「返還は約二十年後ですが、返還方法は十年以上前に決まると見て差し支えないと思います。現在、香港の中国人は外国に逃げ出すか、香港に留まるべきか、大騒ぎを始めている。
資産家の間では、シンガポール、カナダへの移住の話題で持ち切りです。残るつもりの資産家にとって、香港の不動産を増やすか、減らすかは差し迫った問題です。
低所得者の中には共産党の方がいいと思っている向きもあります。
中産階級が一番問題で、移住するほどの資産はないが、共産党は困ると口々に叫んでいます」
「色々お話を伺いましたが、検討させていただきます。しばらく時間を頂けますか?」
「しばらく、とは随分と曖昧な表現ですね」
「一か月以内にはご返事が出来るかと……」
6
黒岩は人事担当常務の進藤に呼ばれ常務室に入った。常務の野村と人事部長の佐橋は既にソファーに座り込んでいた。
進藤が難しそうな顔で黒岩を見た。
「正岡君の件について打ち合わせをしたい。
実は、先ほど山形社長に呼ばれたのだが、名古屋(森山電機)は何としても正岡君に催眠薬Hを飲ませて欲しいと言って来た。合併以外にも中国のアフターサービス費契約を解消する懸案も抱えているそうだ。そのためには或る程度の条件は呑むと打診してきた」
黒岩は一瞬、目を瞑った。進藤は本気で話をまとめるつもりだ。この方は自分を事業部長に推薦してくれた恩人である。面と向かっては逆らえない。
佐橋が興奮気味に言い出した。
「進藤常務、野村常務に社長の目があるかもしれません」
この一言で、進藤、野村の目付きが変わった。
進藤が佐橋に尋ねた。
「どういう条件を付けるのだ?」
佐橋は笑みを浮かべた。
「三代続けてクレスト出身の社長を出す事を条件にしてはいかがですか?」
黒岩は思わず腰を浮かした。
「そんな条件を名古屋が受けますか?」
佐橋は自信満々だ。
「名古屋は森貿(森山電機貿易)との合併と中国のアフターサービス費契約の解約を、王さんに了承してもらう必要があります。しかし王さんは代償に見せしめを要求していて、正岡君は格好の人柱になります。
受ける可能性は大きいと思います」
野村が探るような目を佐橋に向けた。
「なぜ三人なんだ?」
「名古屋は森山家三代目の光雄さんに、社長の座を渡す時期を待ち構えている
はずです。
昔から、三代目が組織の将来を決めると言われています。三代続けて、クレスト出身の役員を社長にするという事を条件にしても、不思議ではありません。
その後は、業績次第という案でいかがですか?」
進藤は沈黙を守ったままだ。
黒岩は話の意外な展開に驚いたが、自分は脛に傷を持つ身だ。だんまりを決め込むことにした。
野村が佐橋に確認した。
「催眠薬Hを飲ませて警察に捕まった場合、どんな罪になるんだ?」
「この薬は厚生省の認可外ですので傷害罪になります」
進藤は驚いて、口を開けている。明らかに困ったという顔つきだ。
黒岩は罪人になるくらいなら会社を辞めた方が良い。が、結論を出すのは議論の展開如何だと考えた。
野村の声が小さくなった。
「傷害罪か、前科者になるな。それで、時効は?」
「七年です」
これはこの時点の刑事訴訟法による。
平成十七年一月一日、改正刑法、改正刑事訴訟法が施行された。それ以降は十年である。
野村が唸るように、「うーん、そんなに長いのか、リスクが大きい」と言った。
佐橋が言下に否定した。「そうでもないと思います」
野村が怯えた表情で訊いた。
「警察の手が入る恐れはないのか? 元警察庁の君が防いでくれるのか?」
佐橋は苦笑した。
「いや。幾らなんでも犯罪を揉み消す事は不可能です。
ですが、薬の場合は証拠が残らないし、大企業の社会的信用は大きい。薬を飲まされたと社員が騒いでも、そんな馬鹿なことはないと言い張れます。
被害届を出しても、警察は証拠のないものは捜査をしません。人ひとり死んでおれば話は別ですが」
野村の声がいつもの状態に戻った。
「君が責任を持つわけだな?」
佐橋はうなずきながら、きっぱりとした口調で言った。
「大丈夫です。警察はそんなに暇ではありません」
野村の目が生気を取り戻した。
「君が大丈夫と言うなら、その線で相談しよう」
佐橋は得意げな表情を浮かべた。
「もう少し条件を付けたほうがいいかもしれません」
野村は額に皺を寄せた。
「どんな条件を付けるのかな?」
「三代の社長が在任中は役員人事を社長に一任するという条件です」
「それは要求しすぎじゃあないか。まとまる話もまとまらなくなるぞ」
佐橋は一気にまくし立てた。
「三代の社長をクレスト出身者にすることを承認しても、経営責任は追及すると言われるでしょう。経営責任を果たす為には、役員の人事権を社長が握る必要があります。それに名古屋は相当困っています。中国のアフターサービス費事件に、役員が数名絡んでいるという話ですが、動きを見ていると、創業家か社長が絡んでいる可能性が高い。もし読み通りであれば、この条件を呑むと思います。久保常務が余分なことを名古屋に報告したことが、今回のトラブルの原因だ、クレスト出身の役員であれば、不必要な報告をしなかったはずだ、とクレームしましょう。できれば名古屋出身の山形社長にもお引取り頂いて、全役員をクレスト出身者で固めたい。そうすれば、お二人が社長を辞められた後、会長になっていただく道が開けます」
野村の目に、驚きの色が広がった。
「君は知恵者だな」
進藤も満足そうに、うなずいた。
野村が悪戯っぽい笑みを浮かべて、佐橋を見た。
「三代目の社長って誰のことかな?」
佐橋はにっこりと笑い返した。
黒岩は佐橋の野望にむかつくような不快感を覚えたが、進藤、野村、佐橋の関係を熟知している。黙って腹に収めた。
打ち合わせ後、黒岩は無言で進藤に低頭し常務室を後にした。玄関を出ると、黒塗りのクラウンが静かに近づいてきた。制服姿の運転手が車を降りようとした。黒岩はそれを手で制した。自分でドアを開けて、座席に身体を沈めた。
名古屋は東京クレストの条件を呑むかもしれない。自分が三人目の社長候補ではないようだが、協力だけは頼まれるに違いない。催眠薬Hに手を染めるのは気が進まないが、捕まらなければ罪人ではないのだ。まずは協力姿勢を示して、取締役の地位の保全を図ることが肝心だ。その後で、常務、専務への昇進を目指す事にしよう。
二週間後、黒岩は社長の山形に呼ばれて東京クレストの本社に出向いた。役員会議室で進藤常務、野村常務が黒岩の到着を待っていた。山形が切り出した。
「黒岩君。名古屋(森山電機)はクレスト出身の社長を三人続けて出す事を認めた。各社長の任期の一応の目安は三期六年だ。更に、その他の取締役の選解任を任せると言明した。だが社長は生え抜きに限る、中途入社は駄目だという事だ。
名古屋はクレスト出身の三人の社長を出すことは承知したが、クレストに経営を任せっ放しにはしない。不振に陥れば経営責任を追及することになる。三人の任期は十数年に及ぶ。その間に会社をぼろぼろにして、引き取れなどと云われても困る。継続して発行株式の過半を保有するが、経営不振に陥っても資金援助や救済合併などの経営支援はしない。場合によっては、他社に売却することもある。このことは三代の社長の申し送り事項として伝え継いで欲しいと言ってきた。
進藤さんと野村さんの同意は取り付けてある。
それと、三代の社長をクレスト側に任せて貰う見返りに、君の所の正岡君に催眠薬Hを飲ませる事になった。それには君の協力が必要になる」
「それを飲ませた時にどんな話が出てくるか分かりません。皆さんは無関係ですからいいでしょうが、関係者は冷や汗ものです。しかしどんな話が出てきても、正岡君以外は不問にするという条件であれば協力させてただきます」と黒岩は提案した。
黙って聞いていた進藤が口を開いた。
「社長。いかがですか?」
「よかろう」
山形は黒岩に笑顔を向けた。
「念のために言っておくが、名古屋は代理店が役員人事に口を出すことを封じたそうだ。クレストも同様の方針だ。役員が代理店とのトラブルを避けるようになっては仕事にならんからな」
黒岩は肩をすぼめて、深々と頭を垂れた。
7
ゼネラル・オーディオ事業部長の武田は、常務取締役の野村に呼ばれ、事の進展の説明を受けた。
「正岡君に催眠薬Hを飲ますことになったので、協力して欲しい。その見返りに、社長三代の選任、その他の役員の選解任を、クレストに任せると名古屋(森山電機)は確約した。ただし、社長は生え抜きに限るという事だ。警察庁から中途入社した佐橋君は社長候補から外れる事になる。次の社長は進藤さんに決まった。山形社長は会長としてお残りいただく事になった。その次は俺で内諾が出ている。
俺が社長になれば、君を取締役にするつもりだ。君が三代目生え抜き社長の
有力候補になるということだ。
君に頼んだ黒岩潰しが、事の発端だ。部下に薬を飲ますような汚い仕事を君だけにさせない。俺も正岡君がどんな男か知りたい。一度は立ち会うことにする。
だが進藤さんは今年六月の株主総会で社長に就任することが決まっている。手を汚さない方がいい。三代の社長全員が絡むと、正岡君にクレスト生え抜き社長の地位と催眠薬Hの取引関係を教えるようなものだ。
あの薬が効いているときは何でも喋ると思って間違いない。正岡君が知るということは他の社員に教えると同じことだからな。
問題は正岡君だ。お前はもはやエリートではないと教えなければならない。それも急にではない、ゆっくりとだ。気がついた時は昇進レースから外れていたというのが理想的だ。まずは正岡地域の売上を減らすことだ」
「正岡地域は私の事業部の生命線です。赤字事業部に転落します」
「今やビデオ事業がクレストの大黒柱だ。君の事業部が赤字になろうと会社の経営はびくともしない」
「周囲の目もありますし……」
「気にするな。進藤さんも俺も万年赤字のテレビ事業部長から取締役になった。
君だけが実績で取締役になれたことにしたいのか?」
「そういう訳では……」
「生え抜き三代の社長を名古屋に受け入れさせた功労者は、佐橋君だ。俺は三代目を佐橋君に指名したかった。だが名古屋がそれを許さなかった。
佐橋君は俺の次の社長の就任と同時にクレストを去ることになるだろう」
そう言い終わると野村は目を閉じ、ぽつりと呟いた。
「無念だ」
数分後野村は目を開いた。
「名古屋は正岡君をスケープゴートにしろと云っている。その見返りが生え抜き三代の社長だ。実績など問題ではない。君の一番の仕事は正岡君のお守役だ。
彼が俺達の力の及ばない会社に転職をした時点で、君の社長の目はなくなる」
武田は家に帰ると、早速、地下室に向かった。スペースの大半を占めるのがワインセラーだ。家族の祝い事にはいつもワインを開けている。
その横にブランデーとウィスキーの棚がある。
この日はバランタインの三十年物をあけた。
――正岡ほど役に立つ部下はいないな。俺が技術部長のときは売りまくってくれた。お陰で事業部長になれた。今度は取締役のお墨付きも貰えた。しかも俺の事業部が赤字に転落しても社長の有力候補だという。正岡は自分の実績に自信を持っている。よほどのことがない限り転職はしない。まるで社長になってくれと云わんばかりだ。正岡さまさまだ。
その翌日のゼネラル・オーディオ事業部の役職会で、武田は自分の幸運を隠すかのように、部下達の前で脂下がりながら惚けて見せた。「俺は何と不幸な星の下に生まれたのか」
部下達の口から失笑が漏れた。武田はそんな反応を楽しみつつ、視線の先に正岡の姿を捉えた。そして、瞑想に耽った。
――俺はなんと運がいいのか。飛行機が落ちても俺だけは生き残るかもしれんな。不幸な星の下に生まれたのは正岡だな。
8
王徳学は、ほぼ二ヵ月に一度のペースで、名古屋への出張を繰り返してきた。森山電機貿易が窓口だが、森山電機トップとの打ち合わせと称した顔繋ぎも重要だ。創業家への盆暮れのつけとどけは欠かさない。香港では時代の先端を行く商品が溢れるように売られている。その中で森山太郎名誉会長と二代目の会長への贈り物を見つけるのだ。今回は何時もより間隔が短く、先月に続いての出張で、森山電機貿易の社長室で大山と会った。
「王さん。クレストは正岡とかいう課長に、催眠薬Hを飲ませることに同意しました。森山電機と森貿の合併の時期は、アフターサービス費の支払いが終了した後になると思います。具体的な時期は後日ご案内します。それと、アフターサービス費契約の有効期限を今年度末まで、ということで、お願いします」
「そうですか。分かりました」
「これで一件落着と言うことになりますか……」
「正岡君に薬を飲ませて何が飛び出すか興味津々です。彼の将来はそれ如何になりますね」
「正岡君はクレストの社員です。判断はクレストがします」
「それは分かりますが、相談に預かりたい。それならばいいでしょう?」
「止むを得んでしょうな」
王は嫌味を言ってみた。
「森山電機はいいですな。子会社に付けを回しただけだ。大会社は強いね。割を食うのは子会社だけだ。私も気をつけなくては。代理店は子会社みたいなもんだし」
大山が慌てて言った。
「そんな事は言わないでください。私共もクレストには譲歩しています」
王はシニカルな笑みをワザと浮かべた。
「だが、何の痛みもない」
大山は黙って顔をそむけた。
王は本題に入った。
「ところで、代理店問題はどうなっていますか?」
大山は中国本部長と香港部長を呼んだ。
「回答は用意してあるんだろ?」
香港部長がメモを読み上げた。
「香港の主権が中国、イギリス、何れの国に属するかに拘らず、自由港である限り、1997年7月以降も、森山電機は香港電業有限公司を代理店に指定する。
香港が自由港のステータス(資格)を剥奪された場合、中国に設立予定の現地法人が、香港電業有限公司を現在の香港地域のディストリビューター(卸売業者)として認定する。
但し、両ケースとも、王徳学氏が経営の第一線に立つことを前提とする」
王は大山に尋ねた。
「香港地域の認定ディストリビューターは、香港電業有限公司だけでしょうな?」
大山は明言した。
「そうお考え頂いて結構です」
「もう一つ、質問があります。イギリスが香港島と九龍を継続して植民地とする場合、ニューテリトリーズの販売権はどうなりますか?」
大山は言い淀んだ。
「うーん。まだ、そこまでは。時間は十分あります。租借地の返還方法が決まった後、別途協議することにしては如何ですか?」
王は黙って首を縦に振った。が、胸中は複雑であった。これで代理店権は守れる。しかし俺が病に倒れたら、どうなる。後継者の育成は急務だ。長男を早く一人前に育てないと、代理店権は中国本土の現地法人に持っていかれる。
三日後、香港に帰った王は、社長室で大山の電話を受けた。
「王さんに日本の勲章がもらえるように運動します」
王はまさか、と思い、茶化した。
「勲章ですって? それは、それは、結構なお話です」
電話から大山の真剣そうな声が流れ出た。
「王さんが受章するまでは、森山電機は他の候補者を推薦する事はありません。全力で頑張ります」
王は椅子から飛び上がった。
「本当ですか?」




