04.魔物
戦闘描写って難しい。
いつもより長めです。
陽光が木々の隙間を抜け、地面を照らしている。森の中は驚くほど静かで、風で木や葉の揺れる音、地面を踏む足音、時々聞こえる鳥の鳴き声くらいしか聞こえない。そして、心臓の鼓動がうるさく耳につく。
どんな些細なことも見逃すまいと、一歩一歩慎重に歩いて行き……知らずのうちに鞘を強く握りしめていた。
しばらく森の中を散策したが、一向に獣を発見できなかったし、その痕跡も見つけられなかった。……考えてみれば、森に入ったからといってそんなにすぐに見つかる訳がない。向こうだって生きている。他の獣や人の気配を感じれば隠れるはずだ……。
そう思ったら、少し自分が可笑しくなり、肩の力が抜けた。一旦落ち着こうと深呼吸をして、大きくゆっくりと息を吐き出した。そして右手の剣を確かめると、不思議と落ち着いていた。
俺は先程のような常に糸を張ったかのような警戒は止めて、何か異常があれば分かるように耳を澄ませる程度にした。
まずは、獣がいた痕跡か何かを見つけなければと思い、足跡を探すことにした……。
そうしてしばらく森の中を歩いていると、不意に耳に何かが聞こえた。
俺は立ち止まり、いつでも剣を抜けるようにしながら辺りを警戒し、何が聞こえたのか確かめるように耳を澄ます。
そうすると、かなり小さいがサラサラと何かが流れるような音が聞こえてきた。
「……これは、もしかして川か?」
音の聞こえてくる方を探し、そちらに向かってみる事にした。
もし川なら、水を飲むことができるし、上手くすれば俺と同じ様に水を飲もうとする獣がいるかもしれないと思った。
数分程歩いて行くと、森の木々が開けてその向こうに思った通りに川が流れていた。
――透明で澄んだ川だった。腰まで浸かるくらいの深さだったが、底が見え、一見しただけでは魚は泳いでいない。
しかし、これだったら飲めると思うと、俺は少し早足で川に向かっていた。
川岸で膝を突き、剣を置くと手で川の水を掬い口に運んだ。
「――美味い」
考えてみれば、朝から何も口にしていない。
冷たい川の水が口を潤し、身体に沁み渡っていくようだった……。
空腹を誤魔化すように水を飲んでいると、近くで木の擦れる音が聞こえた。
とっさにそちらを振り向くと、茂みが微かに揺れているのを見た。
俺は剣を握ると、茂みに向かって走っていった。
素早く辺りを見ると、茂みが揺れながら、その位置を移動していた。
俺は揺れを追いかけるように走り……そいつを見つけた。
狐だ。狐は素早い動きで森の中を器用に走り回り、一向に距離が縮まらない。それどころかどんどん引き離されていく……。
このままでは逃げられると思い、咄嗟に、狐に向かって剣を思いっきり投げつけた――
そんなものが当たるはずもなく……狐の近くに落ちるだけだったが、思いの外大きく響いた剣の音に狐が驚いたのか足が止まった。
その隙に下に落ちていた石を拾うと、今度は狙いを定めて投げつけた。
石は狙い通りに狐に命中し、狐がよろめいた。
俺はその間に狐に近づくと。近くに落ちた剣を拾い、鞘から一気に引き抜くと……そのまま狐に向かって振り下ろした。
剣は狐の腹に向かって吸い込まれるように振り下ろされ、深く斬り裂いた――
……俺は仕留めた狐を持って、川まで戻って来ていた。剣に付いた血を洗うためだ。
初めて生き物を殺したが、別段何も感じることはなかった……。
血を洗い終わると、剣を一振りし水を吹き飛ばす。
……そういえば、剣も使ったのは初めてだったが、どう使えば良いのかがなんとなく分かった。
今も振るのに苦労していない……。
クルーガーの選んだ剣が使いやすいのか、初めて剣を持つとは思えないほど手に馴染み、まるで今まで使ってきたかのように扱う事が出来た。
そんな事を考えていると……背後に視線を感じた。
まるで甲冑の男に会った時のような、死の気配とでもいうものを感じ取り、――咄嗟に横に跳んだ。
さっきまで居た場所を、何かが勢い良く通り過ぎていく――
石を巻き上げ、川の水を吹き飛ばし、そいつがようやく止まると、その正体が分かった。
それは……猪だった。
普通の猪と比べても大きいと分かる程の巨体だ……。焦げ茶色の毛の中に、所々真っ赤な色の毛が混じっている。猪がこちらを振り向くと、俺の身体と同じくらいの大きさと太さの2本の牙が見えた。その眼は爛々と輝き、俺を獲物として見ていることが分かった。
その時、猪の身体から、クルーガーの持っていた杖から感じたものとはまた違うが、それと似たような気配を感じた……。
普通の猪よりも圧倒的に大きいその体格、異常な大きさの牙、不自然に染まった真っ赤な毛……それらから、判断をする。
――この猪は魔物だ、と。
猪の魔物は俺のことを見て、足で地面を踏み鳴らしている。しばらくそうした後、地面を強く踏み、全身の毛が逆立ち、膨れ上がったかのように見えると……ゆらりとその身体が揺れた。
その巨体からは想像もできない速度で突進をしてきたのだ。
俺はその瞬間、勢いよく跳び退いた。ギリギリの所をその身体が通り過ぎ、触れてもいないのに風圧と衝撃で俺は転がった。
……転がりながら体勢を整えて起き上がる。通り過ぎた後を追って見ると、……猪が足を蹴って反転をし、こちらに向かって来ていた。
避けられないと判断した俺は、咄嗟に剣を身体の前に盾にするように構えた。
「――ッッガァ!」
その瞬間、全身の骨が軋むような衝撃が襲い、踏ん張ることも出来ずに宙を舞っていた――
どのくらい吹き飛ばされたのかもわからず、一瞬のようにも感じた浮遊感は唐突に終わりを迎えた……。
――背中に衝撃が走り、肺から息が漏れる。それでも勢いは止まらず、二回三回と転がってようやく止まった。
衝撃で点滅する視界をなんとか動かし、猪の方を見る。
猪は俺を吹き飛ばしたであろう位置から動いておらず、今の一撃で俺がどうなったのか観察しているようだった。
その眼はこちらをじっと見たまま固定されていて、殺気とでもいうべき気配を感じる。
酷く身体が痛むが、牙は当たらなかったのか動くことが出来た。出血や骨折もしていないようだ。
おそらく身体が軽かったため簡単に吹き飛ばされたおかげで、衝撃が逃げて、そこまでの重傷にはならなかったようだ。
俺は立ち上がると離さずに持ったままだった剣を抜き、鞘を放り投げる。幸い剣は折れてはいないようで、罅も入ってはいなかった。
しかし、猪の巨大さを前にするとその剣はひどく小さく頼りないものに見えた――
猪は俺がまだ動けるのを確認すると、また足を踏み鳴らし始めた……。
このままではまた突進が来る。この川辺ではあれを避けるのは無理だ。そう思った俺は踵を返し、森の方に向かって走っていた――
そのまま逃げられるならそれでいいし、もし追って来たとしても森の中なら木が邪魔で、あの巨体ではなかなか速度は出ないだろうと思ったからだ。
背後から感じる殺気が膨れ上がったかのように感じた。
走りながら後ろを見ると、今にも突進が来そうだった――
咄嗟に木を背後にして走る。その直後、轟音が響き、振り返ると……猪が木に激突していた。
木は半ばから圧し折れ、ゆっくりと倒れていく。
……猪は木に激突したにも関わらず、特に痛みはないのか、軽く頭を振っているだけだ。
しかし、まだその眼は俺の事を見ている。……どうやら逃がすつもりはないようだった。
森の中を走る――
背後からは今だ変わらずに殺気を感じ続けている。
なるべく直線で走らず、木を盾にするようにしながら走っていると、後ろからまた轟音が聞こえた……。
だんだん息が上がり、疲れが出始めた。最初の一撃で折れてはいなくとも身体は痛み、今すぐにでも休みたい気分だった。
しかし背後から追いかけてくる猪の魔物をどうにかしなければ、いずれ追いつかれて殺されてしまう。
剣はあるが猪に近づくことさえできない、下手に近づいてしまえばあの巨大な牙に刺し貫かれるか、あの巨体で圧殺されるかと考えてしまう。
しかし、このまま逃げていてもいずれはそうなる……。
そう考えると、まだ体力の残っている間に反撃に移らなければいけない。
「――ックソ! 殺るしかないのか!」
そう悪態をつくと、もう一度木を背後にして距離を取ってから振り返り……剣を持つ手に力を込めて、握りしめた。
今までの事から考えると、あの猪は突進の威力は高いが、川辺のような高速の突進をするためには溜めがいる。
今追いかけている速度も十分脅威ではあるが、あの突進に比べればいくらかは遅く、ある程度の距離があれば避けられる。
また、さっきから何回か木を盾にしているが、そのたびに激突しているから直線でしか走れない、もしくは曲がりながら走るのは苦手だと感じた。
近づいた時に、もしあの巨体を振り回されてそれが当たれば次は動けなくなるかもしれないが、突進以外なら気を付けていればなんとかなるかもしれないと思った。
……まずは、奴が木に激突して動きが止まった隙に。横から近づいて、斬る。
そう考えると、猪がもう木に激突する直前だった。
こうして見ると、やはり曲がったりする様子はない。ひたすら真っ直ぐに突っ込んでくるだけだ……。
轟音がして、猪が木に激突する。その衝撃で足は止まり、予想していた通りの隙が出来た。
俺は猪の右側に向かって走り出し、奴が何か反応を見せる前に剣を振りかぶって、力の限り斬りつけた――
――しかし、予想していた肉を斬る感触はなく。
俺が感じたのは……硬い何かに阻まれた感覚と、衝撃で腕が痺れる感覚だった。
斬りつけた所を見ると、それはあの真っ赤な毛の部分だった。
俺は魔物について、クルーガーの言っていた事を思い出した。――……いいか、魔物はその魔力によって身体が変質をする。牙や爪は強固になり、毛や鱗は鉄のような硬さになる。それは全身に鎧を着ているようなものだ。剣や槍等の武器なら、眼や腹といった毛や鱗に覆われていない部分を狙え。……もっとも、魔術なら身体事燃やし尽くす、といった手段も取れる。……例外もある、まだ成り立ての魔物の場合は、身体が魔力に馴染みきっておらず、元の肉体と同じ部分が存在する。そこを狙えばいいだろう。――
俺は後ろに離れて、改めて猪の身体を見る。
――その巨体と牙は明らかに変質をした部分だろう。しかし、毛についてはまだなのではないだろうか……。
あの真っ赤になっている部分が変質した場所で、今のは運悪くそこに剣が当たったため、斬れなかったのではないかと考えた。
ならば、変質していない部分――焦げ茶色の毛の部分――か、眼を狙えば斬ることができる……。
猪は今の衝撃を感じたのか、俺の方を向いた。
少し頭が下がっている。突進してくるのか、それともその牙で刺そうとしてくるのか分からず、剣を奴に向けたまま正面に立たない様に周囲を回り始める。
猪は動き回る俺に痺れを切らしたのか、頭を下げたまま踏み込んでくる。そして、その頭を突き上げ、牙で襲い掛かってきた。
俺は落ち着いて、動きを見てやや左下から迫ってくる牙を躱し、奴の首付近――変質していない部分――に向かって剣で斬りつけた。
やはりまだ変質していなかったようで、今度は剣が毛を斬り裂き、肉に喰い込む感触が伝わってきた。
その時、殺気が俺の頭の部分を貫くのを感じて、素早く後退して距離を取った――
その直後、さっきまでいた所を牙が通過した。
奴は躱された牙をそのまま頭を横に向けて、身体を捻ることで懐にいた俺に向かって攻撃をしてきたのだ。
警戒をしていたので、回避することが出来たが、牙が風を切る音が鳴り、背筋が冷えた。
油断は出来ないが、剣で斬れることが分かったので、この猪の魔物を殺すことが出来ると分かり少しの力が湧いてきた。
猪はこちらを見ると、足を踏み鳴らし、毛を逆立たせた。
――あの突進が来ると思い、いつでも跳べるようにしながら、奴の視線から外れるように横に回ろうとした……。
こちらの予想よりも早く、猪が突っ込んできた。
なんとか回避をするが、無理な体勢になったため、足を躓かせてしまう。
転ばない様に急いで体勢を戻す……。
奴は本気の突進ではなかったようであまり離れていないところで、止まっていた。
今の反応を見て、笑ったのだろうか……。
こちらを向き、その顎を開くと、鼻から荒い息を出していた。
――それを見て俺はある事を思いついた。
実行するには奴の突進を躱さなければいけないが、もし成功すれば、あの猪を殺すことが出来る。
そのためには――
俺は剣を横目で確認する。あれだけ乱暴に扱っていても折れていない事から考えれば強度は十分ある。
この戦いの最中に折れたりすることは無いと思っているが、万が一があるし、俺の体力ももう限界寸前だ……。
気づけば息は荒く、全身が汗で濡れていた。森を走り回り、何度も突進を回避したせいで、足腰も限界だ。
なるべく早めに終わらせないといけない……。
俺は徐に構えていた剣を下げ、奴に一歩ずつ近づいていく。
なるべくゆっくりと、しかしいつでも素早く動き出せるようにしながら近づいていった。
奴はそんな俺を見て、もう弱っていると確信したのか……先程までよりも遅い動きで、突進をしてきた。
予想していた俺は、その突進を躱すと、剣を下から振り上げるようにして奴の右の前足を斬りつけた。
予想もしていなかった反撃に驚いたのか、猪は少し体勢を崩すが素早く振り返り……
明らかに怒っているとわかるほど、毛を逆立たせ、鼻息を荒くしたまま突っ込んで来た。
しかし、その突進は足が傷ついたせいか今までで一番遅く、これなら踏ん張れば吹き飛ばされないと思った。
雄叫びを上げながら突進してくる猪を前にして――
俺は足をしっかりと踏ん張り……また痛み出した左腕を無視して、両手で精一杯柄を掴むと――
丁度奴の鼻の位置に当たるように、剣を真っ直ぐ構えたまま衝撃に備えた。
「――来いっ! これで殺してやるっ!」
俺は自分に言い聞かせるために、そう叫んだ。
そして猪の顔が眼前に迫り――
衝撃が腕を伝い、足を伝い、いくらかは背中から抜けた……。
俺は踏ん張っていたがそれでもなお奴の巨体を受け止めることは出来ずに、身体が宙に浮いた。
しかし、吹き飛ばされるようなことはなく、構えた剣は中程まで奴の頭に突き刺さっていた――
そのまま奴の勢いは衰え、数歩ほど歩くと……。
その足が折れ曲がり、膝を突いた。
そしてその巨体がゆっくりと傾き……。
地面に静かに音を響かせながら倒れ込んだ。
俺は奴の頭に足を掛けて、頭蓋骨を貫いたであろう剣を引き抜いた。
奴から視線を離さないようにしながら近くの木まで歩いて行き、そこに体重を預けるようにしながらズルズルと座り込んだ……。
――乱れる呼吸を整え、早鐘のように鳴る心臓を落ち着かせようとしながら、倒れ伏した猪の魔物を見る。
まだ微かに息があるのか、頭から血を流しながらも呼吸をしている。
だが、段々と呼吸が小さくなり、遂にはその音も消えた……。
「……殺した。殺したぞ。――俺は殺したんだっっっ!!」
俺は叫んだ――
森にいることも忘れて、ただ強大な敵に初めて勝利した喜びに打ち震えていた……。