沼底の唄
山の中に沼があった。
ある時、一人の女が生まれたばかりの赤子を沼に捨てた。
飢饉の年の、口減らしだった。
赤子はそのまま沼に沈み、いつまでもいつまでも泣き続けた。
次の年も飢饉の年だった。
また別の女が、赤子を捨てた。
赤子はやっぱり沼の底で泣き続けた。
それから飢饉がある度に、育てられぬ赤子は沼へ捨てられた。
いつからか望まれない赤子も捨てられるようになった。
その沼は赤子の沈む沼として知られるようになった。
やがて時が経つと赤子は捨てられぬようになった。沼底で泣き叫んでいた赤子たちは泣くことすら止め、ただただ地上を見つめ続けた。
憎かった。
憎くて堪らなかった。
自分を捨てた女が、男が、人間が。
この幼い手を伸ばして、沼の底まで引き擦り込んでしまいたかった。
だがその手では無理だった。半人前にも至らぬその手には力が無かった。
ならば。
ならば一人前になってしまおう。
この何十も沈んだ無念の思いは当の昔に形を失くし、互いの境すら忘れていた。
それを混ぜ合わせ形作る。自分を、自分たちを捨てた人間そっくりの形に。
手を伸ばすと空気に触れた。もうずっと忘れていた感覚だった。
大人は欲が強かった。
どうすれば大人が沼に近付いて来るか、よく分かった。その答えは自分で持っていた。
自分が成り得たその姿、そのうち一つを見せて誘き寄せて、そうして引き擦り込んだ。
何十も引き擦り込んだ人間は沼の底で泣いた。その姿を喰らって自分のものにした。
そうしてまた何百年も過ぎた。沼には人間が近寄らなくなった。
何年か振りの足音を聞いた。落ち葉を踏み枝を折るその音は静かな沼の底に沈み、長い眠りを覚まさせた。上を見ると微かに光が見えた。それを目指し浮上する。空気に触れると姿を変えた。気付かれないようにそっと近づいた。
そこにいたのは男だった。見た目は若い。しかしそれに似合わぬ純白の髪を持っていた。コートを着込んだ、細く長い身体で山の中を進んで来たのだろうか。ここはひ弱な人間には来られない場所であるはずだ。
髪の長い女の姿をして、木の陰から顔を出した。涙を流しながら助けを乞う。
男はすぐに近づいて来た。挫いたのだと足を差し出すと、それに触れようとする。
そこに抱き付いた。こうすれば後は決まっていた。長い年月は哀れな魂を妖に変えていた。蛇が牙を突き立てると毒を出すと同じ様に、抱き付けば沼に引き擦り込む。その一連の動作を行おうとしたその瞬間…その手が払い除けられた。
「――成程、これがお前の力か。まぁそれなりに面白くはあった」
目の前にあった表情の無い顔…その顔は異国の物だった。今まで見た事の無い瞳の灰色、白い肌。薄暗い山の中で外套と襟巻を着込んだその男は、その背中に逆さの十字架を――いや厳密には違う、十字に組み合わせた長剣と短剣を負っていた。それはおよそ場違いな物だった。日本の山奥の、沼の底に住まう妖怪と対峙する存在では無い筈だった。
「人間を惑わし沼へ引き擦り込む…文献にも記されていない妖怪が居ると聞いてやって来たが、中々面白い力だな。応用すればより多くの人間を殺すことができそうだ」
その男が何者なのかは分からなかった。…ただ、人間であろうと何であろうと、憎い事に変わりは無かった。
何も知らなかった。知る前に沼へ沈んだ。だが体は動いた。その場に落ちていた固い物を掴んで殴りかかった。
それでもやはり知らなかった。男より女の方が力無き存在であると知らなかった。振り上げた腕は簡単に受け止められ、腹に鈍い痛みが走った。何も入っていない胃から、初めて液体を吐き出した。その場に倒れ込むと頭を踏みつけられ土を喰らった。
「…やはり無知であるのが痛いな。男になれば力はあるかもしれんが、知能はどう化けても変わりようがない。それを補えばどうとでも――」
言葉を聞いた事はあった。だがそれは全て、自分を捨てた者と沼に引き擦り込んだ者の言葉だった。自分勝手な懺悔の言葉と欲望を押し殺した同乗の言葉、悲鳴――どれを用いても、その時の感情は表しようが無かった。ただただ言葉にならない怒りの声を上げ、地面に手を突き立てた。
男にそれほどの力は無かった。足を払い除けると少し体勢を崩したので、そこに再び襲いかかる…が、今度は顔に拳を叩き込まれてしまった。
それからは何度やっても同じだった。何度も土を喰らい、何度も襲いかかり――最後には再び沼に投げ入れられた。
沼底に沈みながら、それまで何十年も育んだ感情が口から流れ出ていた。沼全体が沸騰してしまうのではないかと思う程に体が熱い。
だが、再び浮かんでいく程の力は、もう残っていなかった。
「地元の人間はお前を『惑子娘』と呼んでいるようだな。意味を調べると男にも女にも化け、人間を惑わせる…まぁ安易な名付けられ方だ」
その男は次の日も、その次の日も沼へやって来た。今度は沼に住まう妖怪――惑子娘を痛めつけはせず、ただそこにあった岩に腰掛けて、憎悪の溢れる視線を存分に浴びていた。
男は二日目に、自らの名前を伝えた。GIN-TAGETES-HATE――日本語にすら慣れていない惑子娘には発音ができなかった。本人は「ギン」にも「ジン」にも聞こえる言い方をしていたが、どうもそのどちらでもない物が正解らしい。結局はどちらかというと正解に近い方…「ジン」で落ち着いた。
「…まぁそう怒るな。私の名前も『TAGETES』はマリーゴールド、花言葉は『嫉妬』を表す物であるし、HATEは英語で『嫌悪する』――本質から名前を付けられたようなものだ」
「…あんたが歪んだ性格だってのは分かった」
何日も話しかけられているうちに言葉も増え、惑子娘は返事をするようになっていた。ただ憎しみは消えず、GINを沼へ引き擦り込む機会を窺っていた。
「さて…返事もできるようになったところで私について説明するとするか。まぁ何十人と沼に引き擦り込んだお前なら気付いているだろう、私は人間ではない。正確に言えば人の子ではあったが…もう何百年も前の話だ。お前の様に妖怪へ姿を変える事さえ無かったが、近い存在ではあるだろう。妖術などの力を使う事もできるし、お前を叩きのめした様に戦う事もできる。だがそれを持て余している訳でもない。有効的に活用している訳だ。…ところで、お前を供養するだの言って滅しようとした術師が来なかったか?」
「…何百年か前に来た事があった。もう沼の底で形も無くしてる」
「ならば話が早い。人間の中には特異な力を持ち、私たちのような存在を『悪霊』と称し滅する者が居る。むやみやたらに滅して満足するような輩が…私たちの様に人間に恨みを持ちながらにして死んでいった魂を、死した後にも苛み続けるのだ。これを許すことができるか? 生前も死後も侮辱を受け続ける――それを阻止するために、私を含めた亡者や妖怪たちが立ち向かう事に決めたのだ」
「悪霊が悪霊を守る…? 俺とお前のような存在が他にも居るのか」
「有志だけで部隊が八つも成り立つほどにな。まぁ組織の仕組みは後々教えるとして…単刀直入に言おう、お前仲間になれ。私の下にはお前のような人を惑わす者が多く集まるが、お前の様に姿を自由自在に変えられる者は居ない。お前の力を活かして――」
そう、GINが言った時だった。無遠慮な足音が沼へと近づいて来るのが分かった。二人揃ってそちらを見やると…そこには如何にもな格好をした男が立っていた。
「…一応言っておくが、あれは私とは何の関係も無い。あってたまるか」
GINは冷めた目で男を見ていた。後ろには人間が何人かついて来ていて、そのうちの一人、女がGINの方を見て微かに動揺を見せた。
「…あの女は」
「おそらく霊感があるとかだろう。まぁ騒いだところでロクな事が無いのは学習している筈だ。問題は他の連中だな。そういえばこの山は切り崩されてゴルフ場にされると聞いたが、もしかすると沼を埋めるので供養だとか言ってやって来たのかもしれんな、いやはやそこまで考えが及ばなかったな」
おそらく最初から知っていたのだろう、GINは表情の一つも変えずに言ったが…そんな事はどうでも良かった。ただ、その女の顔だけが意識を奪っていた。
「…憎い」
見覚えのある顔だった。何年か前、GINが来る前、最後に聞いた足音の主。今自分の中に居る魂のうち一人が憎む人間だった。
――ごめんね、悪いお母さんを許して――
そう言って沼に赤子を沈める、弱者の皮を被った鬼の顔。最期に見た物がそれである、その事実を思い返しただけで、体の奥底から何かが湧き上がって行くのが感じられた。
事情を察したのか、GINは黙ってそれを見ていた。男が意味の分からぬ呪文を唱えると身体が重くなる…が、そんな事は構わなかった。沼から這い出ると女の足を掴む。その姿は周りの人間からも見えたらしい、悲鳴を上げて逃げ出したりへたり込んだりした。
女は泣いていた。恐れているのだろう。だがその手を振り払おうともしなかった。長い髪の間から覗く憎悪に溢れる顔を見つめて、ただ胸の前で手を握っていた。
「憎い…憎い憎い憎い憎いッ!! 殺してやる、この沼に引き擦り込んでやる…! お前のような人間――」
「――あなた…私の子供なの…?」
女はまだ弱者の皮を被っていた。自分も苦しんだのだと免罪符を掲げて、全て無かった事にして、都合の良いように終わらせようとする人間。その手が開かれた。安産祈願の御守。年季の入ったそれはおそらく、「あの事」が起こる前に手にした物だ。
「ずっと…ずっと捨てられなかったの…あなたの事、キチンと育てたかった。でもあの時は――」
何か言っていた。すぐそばに居た若い男が驚いたような顔をしていた。分かったような顔をしている男も、全てが憎かった。
…だが、何かが変だった。何か、小さな何かが、体の奥底から、周りにある憎悪を押し退けようとしているような気がした。それが何なのかは分からなかった。
「許すのか、母親を」
いつの間にかGINが傍に立っていた。そんな事にも気付かなかった。
「…許す?」
「違うのか? お前の中にいる、この母親の子供が女を許そうとしている…そんな風に見えるが」
そう言われてやっと、「小さな何か」の正体が分かった。自分の中で、この女の子供が母を求めているのだ。一度捨てられた事に目を瞑り、偽善を受け入れてまでして母に愛されたいと願う子供がいるのだ。
「そうだ…君は愛されたかったんじゃないか? 人を殺すんじゃなくて、愛してほしかった…そうじゃないのか!?」
女の肩を抱き、若い男が言う…その仕草から関係が分かった。二人して結ばれようとした時に、過去の罪も清算してしまおうと考えた。そんな、勝手極まりない理由でここにやって来たというのか。丁度沼を埋めるからと便乗して。
「許す…?」
「謝罪を受け入れてそれまでの事を無かった事にする、という事だが…まぁどうするかはお前次第だ」
重い身体を持ち上げるようにして、立ち上がる。女の足からは手を離していた。
「…智くん、お母さんのした事は決して許される事じゃない。でも…でも」
「さとし?」
珍しく名前を付けられてから沼に沈んだ。
今の今まですっかり忘れていた名前だった。自分の中の一人、智が胸を通り口から言葉を紡ぎ出す。
「…お母さん?」
肩の力が抜けた気がした。身体もすぐに軽くなる。
「…お母さん」
もう一度呼ぶと、女に抱きしめられた。
「お母さん」
その体に手を回す。すると若い男が、その上から二人纏めて抱きしめる。安心しきった顔で涙を流し、笑う二人。感動して顔を伏せる人間たち。
「智くん、智くん――」
「 ゆ る さ な い 」
腹の底から込み上げてきた笑いを、何の躊躇も無く外へ出した。山中に響き渡りそうな程の声を張り上げ、しっかりと抱き付いた二人を沼へ引き擦り込む。沼からも無数の手が伸びてきて、二人だけを掴もうと蠢いていく。
女が自分を抱きしめた時に答えは出た。自分は妖怪なのだ。智であったのは何年も前の話だった。標的と認めた相手が自分に手を触れたその瞬間、沼へ引き擦り込むのだ。
体は軽いままだった。いつの間にか男が木の上に、引っ掛かるようにぶら下がっていた。そこの首に絡みつく糸のような物はGINの掌から出ていた。
他の人間が悲鳴を上げて逃げ出す。それを無数の腕が捕まえて沼へ引き擦り込んだ。
「死ね…死ね死ね死ね死ね死ねッ! 沼の底で泣き叫んで消えていけ! 暗くて冷たい中で永遠に閉じ込められてしまえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
その場に居た人間全てを飲み込んだ沼は、何事も無かったかのようにどす黒い色に染まっていった。
それから何時間笑っていただろう。何物にも変えられない達成感を全身で味わっていると、理性が吹き飛んでしまっていた。時間の経過すら忘れ、夜になると捜索がやって来た。それも全て引き擦り込むとこれまでに無い快感に包まれ、更なる獲物を求め沼から這い出た。
しかしそこには何も居なかった。ただ、一人の妖怪と亡者が居るだけで憎い人間の姿はどこにも見えない。
「――どうした、お前の獲物はみんな居なくなったぞ」
木に吊るされていた男すら沼に引き擦り込んでしまった。それなのにまだ足りなかった。
「これだけの事があった後だ、この沼は調査の後に埋め立てられるだろう…ゴルフ場になるかどうかは知らんがな。そうするとお前はどうしようもなくなってしまう訳だが――」
「嫌だ!」
GINの肩に掴みかかった。息が吹きかかるほどの距離にまで近付いて身体を揺する。
「嫌だ嫌だ嫌だ…もっと殺したい、引き擦り込みたい! 憎い人間を殺したい…復讐したい!」
悦びも達成感も消え失せていた。ただただ、沼に沈められた時と同じ絶望があった。希望を持つ事すらできない、暗い沼の底へ沈んでいく感覚は全てを冷たくしていった。許されたのは憎悪という感情だけだった。
「そうでもしないと…俺は私は僕は! 一体何のために――」
「ならば私と来い。自分と境遇を同じくする者を救うためにその力を使え。憎き人間をお前の沼に引き擦り込め」
暗い沼を照らすのは月明かりだけだった。
その光に照らされる二つの顔は笑っていた。
「…分かった、行く。人間を惑わせて、沼に引き擦り込む」
「まぁ精々頑張ると良い。…何しろ私の事は少しも惑わせていないからな、まずはその狭い視野を広げる所から始めろ」
山の更に奥へと進み始めたGINの後を、一人の妖怪が追って行った――