009 庇を落ちた雨が天に戻ることはない
グルバがサウスギルベナという、辺鄙な街に流れ着いたのは、つい一週間ほど前のことだ。
グルバは盗賊である。
そして、生まれた時から盗賊だった。
喧嘩の腕には自信があったこともあり、冒険者として生きていた時期もあったが、人生の殆どをチンケな盗賊として生きてきた。
そして、行く当てもなく、屋根に降った雨水が樋を伝わり、地べたに這い蹲るように、自然と、ごく自然とグルバは流刑地ギルベナにやって来た。
ギルベナで帝国民が住む事ができる場所は少ない。港町サウスギルベナを除けば、西に魔獣の住処である大山脈、中央から北と南には蛮族や魔物が跋扈する荒野と砂漠が広がっており、流れ者は帝都から最も遠いサウスギルベナに自然とやってくるか、道中でその人生を終える。
グルバは帝国西方の貧民街で生まれた平民以下の存在。
物心ついた時には既に、盗賊ギルドのメンバーだった。
貧乏悪党のお決まりの人生。脅迫、盗み、殺人、強姦からの二択。つまりヘマをして殺されるか、追放されるかという、グルバ自身には選択権のない分岐点。その中ではグルバは運がよかったというべきか。コップの中の縄張り争いに破れ、生まれ故郷の貧民街を追われ、グルバは帝都へと赴いた。
グルバとて、光りの当たる場所で暮らしたいと思わなかったわけではない。生まれ故郷で盗賊として生きていたのも、それしか選択肢がなかったからだと思っていたからだ。
だから、帝都へと逃げてきたときに、冒険者として生きていくことを決めた。帝国において、金もコネもない平民が成り上がるには、グルバは冒険者しかないと思っていた。幸い腕っ節には自身があった。
だが、結局、再び、盗賊として生きていくことになった。
しがらみがなくとも、グルバは結局盗賊になっていた。
そして、つまらぬ諍いから再び盗賊ギルドを追われた。
今度は追放では済まず、粛清の手を逃れるために、サウスギルベナの地まで逃げることとなった。
帝国最果ての地、サウスギルベナ。
その日。
グルバは仲間達と共に、サウスギルベナの貧民街の酒場でクダを巻いていた。
六人ほどの仲間達のほとんどは、帝都からサウスギルベナの道中で出会ったチンピラたちだ。
境遇は誰もがグルバと似たり寄ったりの状態。
とはいえ、同じ肥溜めでも、帝都の盗賊ギルドから、暗殺者を差し向けられている自分よりはましかもしれない。
そう思う、グルバだったが、サウスギルベナへの過酷な道中を過ごすうちに、腕力と歳のせいか、自然とグルバは彼らのリーダー的存在になっていた。
厳しい道中と、宿に泊まる金も無かったために、野宿を繰り返した。そのために酒場にたどり着いたグルバ達からは、すえた臭いが発し、その姿は汚れていたが、ここに来る客は多かれ少なかれ全員がそうだった。そのためだろう、店主も何も言わず、興味も示さなかった。
粗末な土製のジョッキに琥珀色の酒。
それを見つめながら、グルバは自分の顎を触った。40をとうに越え、無精ひげで覆われた顔はどこからどうみても堅気の人間には見えない。
どうして、こうなっちまったんだ。
さんざん繰り返した疑問が頭を過ぎる。だが、その原因なんて自問自答する必要もない。
もう少し、上手くやれたら、人生は変わっていたんだろうと思う。そうは思っても、今日もこうやって酒を飲んでいる。いや、酔えるだけで、それは酒かどうかもわからないような異物の入った代物だ。だが、確かに酔えはしたし、酔えれば今という瞬間を忘れることができた。
「親分、そろそろ帰りましょうよ」
仲間の一人が声をかけてきた。グルバは怒鳴るように返事をすると、席を立った。
声をかけて来た男が舌打ちをしたのが聞こえたが、グルバは聞こえなかったことにして、先に店を出た。
ねぐらにしている橋の下へと向かう。これ以上飲もうにも酒代もない。
もう、終わりだな……。
グルバは自身の逃亡の旅が終わったことに気が付いていた。仲間がいるといっても、あくまでサウスギルベナへの旅を乗り切るために力を合わせていたに過ぎず、そこに忠誠心など皆無だ。このまま、一緒にいても後ろから刺されるのが関の山だろう。
かといって、この町で盗みをして稼ぐことはできそうにない。
グルバにも誤算だったが、この街ではソルヴの影響下にある盗賊ギルドに入らずに活動していくことはできなかった。
グルバもソルヴ・アーガソンの名前は知っている。といっても、ソルヴが帝都で政商として活動していた十年以上前のことであったし、当然面識はおろか、名前を耳にする程度のことだったが。
しかし、この街の盗賊ギルドは、少し探りを入れてみただけで、しっかりと組織化されいることがわかった。余所者がこの街で事をはたらけば、すぐさま盗賊ギルドに伝わり、排除、つまり殺されるだろう。とはいえ、盗賊ギルドに入ったとしても、帝都から来た暗殺者に身柄を売られるのが落ちだ。
街を出て、野盗をするにしても元手も、拠点も、土地勘もない。
グルバの予想では、自分はこのまま酔いが醒めることなく、仲間か、他の誰かに刺されて死ぬか、酔いが醒めてから、盗みを働いて、この街の盗賊ギルドに粛清されるか。
どちらにしろ帝都の盗賊ギルドから追手が追いつくまでには生きてはいまい。遥々やって来た追手達はとんだ無駄足だったことになる。
「ざまあみろ」
誰に言うまでもなく、罵る言葉が口を出た。これが彼の人生で精一杯の虚勢だった。
ねぐらに近づくと、通りは暗闇に沈んでいる。貧民街では夜になったとしても灯りが灯っている場所は少ないが、そこに暮らす者達が眠っているわけではない。彼らは夜の住民なのだ。闇の中からグルバのことを警戒して見ているか、カモが歩いてきたとほくそ笑んでいるか。グルバがすぐ側のねぐらにたどり着くまでに、誰かが襲い掛かってくる確率はそれほど、低くはない。いや、無事にたどり着ける確率の方が低いだろう。一人歩く酔いどれ男を見逃してくれるほど、この街の貧民街は寛容ではないのだ。
「おい」
前方の闇から声がかけられた。
なんだ、随分ヌルイじゃねぇかよ。
獲物の前方から、しかも声をかけるなんて、強盗の風上にもおけねぇ。
いや、前は囮で、後ろからグサリってやつか?
しかし、後ろを振り返ってみたが誰の姿もない。再び前に目を向けると、黒いローブを被った人物がいた。ローブが全身を覆っているために肌は見えないが、体格から見れば男か。
まあ、声が男なんだが。
落ちぶれ、酔っ払っているといってもグルバもそれなりに修羅場を潜り抜けてきた。ローブの膨らみから男が甲冑か何かを着込んで、帯剣しているのが分かる。佇まいからそこそこに腕は立ちそうだ。少なくとも、今のグルバでは歯が立つまい。
「盗賊団の頭、グルバだな?」
黒ローブ男が言った。
「盗賊団ねぇ。ま、そんなもんかな」
そんな大層なものでもないが、否定はしなかった。何か思惑があったわけでなく、ただ単に酔いの回った頭では、否定するのが億劫だっただけだ。
「で、おめぇはどこのどちらさまだ?」
グルバはこの怪しげな男を前にいても、逃げようとはしなかった。逃げられないと思ったわけではなく、もう逃げるのにも疲れ、投げやりになっていたからだ。
男は、グルバの問いには答えなかった。
「金が欲しくはないか?」
また、男が喋った。
「金か? いいねぇ、恵んでくれるのかい」
ヘラヘラと笑うグルバに、男が答える。
「仕事をしてくれればな。それも、お前のような屑の人生なら100回はやり直せる金だ」
屑と言われても腹が立たなかった。そして、金額の多寡も心には響かなかった。それよりも「人生をやり直せる」、その言葉だけが不思議と心に残る。
お陰で少しだけ酔いが醒めた。
「で、何をすればいいんだ?」
「命を懸けて貰う」
男が即答する。
「ハハ、別にかまわねぇよ」
しかし、グルバにも躊躇はなかった。今にも消える安い命だ。そんなものリスクにもなりはしない。
「では、仲間にも話を通しておけ。また、明日、同じ時間にここまでこい。一人でな。それまでには酔いを醒ましておけよ」
男はグルバの答えを了と捉えたのか。グルバが言葉を返す前に男は闇の中に消えていった。
グルバは一人残された夜道で男の言葉を反芻する。
「人生をやり直すだけの金、か」